フォト
2026年10月
日 月 火 水 木 金 土
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

スキルとデキル

2026年10月 9日 (金)

『労働新聞』で拙著紹介

322511000924_20261009115301 私が月1回書評を寄せている『労働新聞』で、拙著が紹介されました。

https://www.rodo.co.jp/column/226545/

 リスキル阻害要因探る

 著者は、具体的な特定のジョブを遂行する技能=「スキル」の対照的な概念として、日本的なメンバーシップ型雇用システムで長らく重視されてきた「何でも頑張って取り組めばできるようになる潜在的能力」を「デキル」と名付け、その存在を否定する。

 政府が推し進める「リ・スキリング」が一向に浸透しない原因としても、「デキル」信仰の弊害を指摘している。長年抽象的な「デキル」を礼賛し続けてきたために、企業内部ですら、社員のスキルを客観的に測定し表示するシステムがないというのだ。

 本書では江戸時代の徒弟制から職業教育訓練の歴史を振り返り、今一度「能力」とは何かに向き合うことを勧めている。

うーむ、別に「デキル」の存在そのものを否定しているわけではないんですが、「デキル」の方が「スキル」なんかよりもずっと重要なんだというイデオロギーに対しては極めて否定的なスタンスをとっていることは確かです。

Roudoushinbun261012

 

2026年10月 5日 (月)

本書は「終章」に尽きる

322511000924_20261005122801 せるげいさんが、ブクログで拙著『スキルとデキル』をたった一言で寸評しているのですが、

https://booklog.jp/users/serugey/archives/1/4040825705

本書は「終章」に尽きる。
「終章」さえ読めば、日本社会で求められる能力の欺瞞性が良くわかると思った。

いやまあ、確かに、読者へのメッセージは終章と「おわりに」の合わせて16ページほどに尽きるといえばその通りなのですが、それを渾身の思いを込めて言い切るためには、それに先立つ240ページにわたる近現代日本における職業教育訓練をめぐる政策と思想の有為転変の歴史の叙述が必要不可欠なのです。

それなしに、いきなり終章だけ読まされても、恐らく読者の多くは「それってあなたの独自の見解に過ぎませんよね」という感想しか抱かないでしょう。ふうーーん、そういう意見もあるんだね、じゃあね、と。

「日本社会で求められる能力の欺瞞性」を、単なる口先で主張しているだけの代物ではないということを、これでもかこれでもかと歴史的証拠書類を積み重ねているのが膨大な歴史編ですので、できれば、本屋さんの店頭で、終章と「おわりに」だけ立ち読みして、「ふむ、なるほど、そういうことね、よく分った」と分っちゃわないでください。

 

 

2026年10月 4日 (日)

pairuさんの拙著要約と解説

322511000924_20261004165301 pairuさんがnoteで、拙著『スキルとデキル』を大変丁寧に要約解説していただいた上に、その意義を論じていただいております。

https://note.com/ready_honest8301/n/n066e6462218e

 「仕事ができる」と言うとき、日本人は何を見ているのか。
C言語が書けることか。
それとも、C言語を知らなくても「あいつなら何とかする」と思わせる何かか。
150年分の職業訓練の歴史をひっくり返すと、日本社会がずっとこの2つを取り違えてきたことが見えてくる。

と、ここから拙著の各章ごとにその内容を大変詳しく解説していくのですが、その後に、本書の意義を次のように述べていただいていて、書いた本人が思わずそうだったのか、と思ったくらいです。

①本書が一貫して示しているのは、「日本人はなぜリスキリングしないのか」という道徳的な問いを、「なぜ日本の労働市場は、スキルという商品を独立した価値として買う仕組みになっていないのか」という制度の問いへ置き換える視点だ。
著者は、日本の職業能力史を「古い能力主義から新しいスキル主義へ」という一直線の進歩として描かない。
むしろ、スキル重視からデキル重視へ、そして再びスキル重視へという振り子の動きとして描いている。
この振り子構造を発見的に提示したところに、本書の学術的な芯がある。
前著『ジョブ型雇用社会とは何か』や『賃金とは何か』が示してきたジョブ型・メンバーシップ型という枠組みを、職業訓練という具体的な政策史の側面から裏づけ直す位置づけの本だと読める。 

②この本のいちばんの見どころは、「能力」という、あまりに手垢のついた日常語を、150年という射程で丹念に解体してみせる作業の粘り強さにある。
普通、能力主義批判というジャンルは、道徳的な糾弾か、抽象的な理論のどちらかに寄りがちだ。本書はそのどちらでもない。
1958年の職業訓練法、1969年の『能力主義管理』、1985年の職業能力開発促進法という、地味だが確かな制度の年号を丹念に積み重ねることで、「デキル」という言葉の重さを実証的に組み立てている。
高度成長の初期にはスキル重視の時代があった、という指摘も見どころのひとつだ。
多くの読者は「日本はもともと年功と根性の国だった」と思い込んでいるはずで、そこにいったんスキル重視が存在していたという事実を差し出す構成は、著者ならではの粘り強い史料の掘り方を感じさせる。

ここまでは確かに私自身の意図するところではありましたが、その後にここまで深読みされていて、著書自身がそうも読めるのかと思ったところです。

 ③これは本書の外側からの読み替えで、著者の意図からはかなり離れる。
本書が描く「スキル」対「デキル」の対立を、労働の話としてではなく、人が他者をどう理解しようとするかという、より広い認知の問題として読み替えることもできる。
「この人は何ができるか」という問いは、対象を分解して検証できる。
だが「この人はデキるか」という問いは、対象を分解できない全体的な印象に依存する。これは、人間が他者の能力を評価するときに使う、2つの異なる認知の様式の違いだと見ることもできる。
だとすれば、日本のメンバーシップ型雇用が「デキル」を好んだのは、単に制度の選択の結果というより、分解できない全体評価のほうが、直感的に処理しやすいという、人間の認知的な傾きと相性がよかったからだとも読める。

 

 

2026年9月25日 (金)

オベリスクさんの拙著書評

322511000924_20260925112801 拙著が出るたびにブログ「オベリスクの備忘録」で書評していただいているオベリスクさんが、早速『スキルとデキル』にも丁寧な書評をしていただきました。

https://obelisk2.hatenablog.com/entry/2026/09/24/085246

・・・買ったばかりの濱口先生の本を読み始める、ざっと第四章まで読んだ、というか、わたしの雑な頭ではきちんと読めず、これも目を通した、くらいのレヴェルであろう。正直、濱口先生と自分とでは世界観や人間観が随分ちがうし、「スキル」も「デキル」もあんま興味ねーよなーって思っていたのだが、やっぱり地に足のついた、優秀な学者の本を読んで、おもしろくないわけないか、ってなったわ。
 でも、題名はともかく、近現代日本の「職業教育」の歴史を記述した本じゃないの、って思ったね。はっきりいって、わたしの何も知らない世界で、ま、それもおもしろい。・・・

はい、その通りです、タイトルはややキャッチーですが、本文の大部分は「近現代日本における職業教育訓練の歴史」とでも題するのがふさわしいような内容になっております。

・・・「職業教育」ってのは(いや、学校教育全般がそうだが)、いうまでもなく「国策」だよね。最初は国も、労働者に「スキル(技術)」を求めていた。それが変わり始めるのは七十年代半ばだという。その最大の駆動力は「賃金制度における職能給の一般化」(p.131)。このあたりは、濱口先生の他の本で勉強した筈だが、わたしの雑な頭のせいで、もう忘れてしまった。また、ホワイトカラーとブルーカラーの関係性も、かかわっているという。
 とにかくその時点で、「会社」が新入社員にもとめるものは仕事にすぐに役立つ「技術(スキル)」ではなく、なんだかわからない「能力」というものになってきて、濱口先生はそれを本書で「デキル」(なんでもできる「能力」)と呼んでおられる。スキルそのものは、(学校じゃなくて)OJT によって「会社」が現場で教える、と。
 わたしのようなバブル世代は、まさに「デキル」の時代の子だったな。わたしは大学で物理学を学んでいたのだが、当時、商社や銀行から、いっぱいおさそいがあったくらいで(物理学が役立つとは到底思えない)、あれはなんだったんだろう、てなもんである。・・・

「大学で勉強してきたことは全部忘れろ、会社が現場で一から教えてやる」が常識化した時代でした。

で、だからこそ、本書197ページで、ロースクールのはなしの関連で言及した明治大学法学部の民法不合格留年事件が社会問題になったりしたわけです。

 

 

 

2026年9月24日 (木)

『スキルとデキル』にAmazonレビュー

322511000924_20260924092101 『スキルとデキル』にAmazonレビューがつきました。shiroさんの「歴史的経緯を踏まえた深い理解を得ることができる良書」との評価です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4040825705

この著者の、雇用制度などに関するこれまでの著作は、単に現状を記述するだけではなく、そこに至った歴史的経緯からしっかりと紹介するものである。本書も、単なる時流に乗った直近の流れだけではなく、明治以降のわが国の職業訓練の歴史から説き起こしたものであり、現在ついての深い理解を助ける良書である(ただ、前著も含めてやや詳細に過ぎる感もないわけではなく、意識して読まないと逆に大きな流れを掴み損なう恐れもあろう)。そういう点を承知の上で読むと、(この著者の他書と同様に)単なるHOW TO式の底が浅い本と違って、流れの本質を理解できると考える。

執筆の趣旨を深く理解いただいた書評で有り難いです。「前著も含めてやや詳細に過ぎる感もないわけではなく、意識して読まないと逆に大きな流れを掴み損なう恐れもあろう」とのご批判は、正直どこまで書き込むか悩んだところも多いのですが、自分ではかなり分量を少なくして、かつごく僅かですが昔の事例の証言も入れたりして、読みにくさを少なくしようと努めたつもりではあります。

 

 

 

2026年9月22日 (火)

fudan_to_chigaaaauさんのブログ「Yokereba YOI !!」で拙著書評

322511000924_20260922115401 fudan_to_chigaaaauさんのブログ「Yokereba YOI !!」で拙著『スキルとデキル』が丁寧に書評されています。大変ありがたいです。

https://4kereba41.hatenablog.com/entry/2026/09/15/001650

本書自体の書評に入る前に、そもそもわたくしの本を読まれるようになったきっかけが詳しく書かれています。

 私が濱口桂一郎の本を読んだのは去年が初めてで、『新しい労働社会』が最初だった。日本経済の来し方行く末に関心がある割には、当の自分自身がそこにどっぷりつかっている日本の雇用労働システム・慣行についてあんまり知らないことに気づいたのがきっかけで手にとった。
 しかし、そもそも「新しい労働社会」というタイトルがぼんやりしていてよくわからなかったし、2009年の刊行だからもう少し新しい本を読みたいな、と思った(刊行当時のおれは中1だったので、リアルタイムでは本の存在自体知らなかった)。それに、去年の私は「終身雇用・年功賃金の日本はメンバーシップ型で、成果主義の欧米はジョブ型」みたいな二項対立というのは、代理店や役人が自分のやりたいことを押し通すために作り上げたフィクションだと(さしたる知識もなしに)決めつけていたので(結果としてこの認識はおおかた誤っていた、「成果主義」は間違いとはいえ少なくとも完全なフィクションではなかった)、その「提唱者」(??)たる濱口氏の本から入門して果たしてよいのだろうか、とも感じて敬遠し、はじめは小熊英二の『日本社会のしくみ』を買うつもりで栄の丸善に向かったのである。
 だが実際に本屋で小熊本を見たらあまりに分厚くてびっくりしてしまった。私は新書に関してはとても保守的な価値観の持ち主で(300頁を大きく超えてはならない、索引・参考文献は原則不要、学者向けの予防線だらけの文体はNG、シリーズ・論集はもってのほか)、とくに頁数についてはかなり厳しめに判断するようにしている。なのでその場で買うのをやめて、近くの棚にあった濱口本を買って、隣の酒津屋でさっそく読んでハマり、その後もことあるごとに濱口本を読むようになった。ときおり見かけるhamachanブログの著者であることも去年ようやく知った。内容が面白いのはもちろんのこと、対象の複雑さや難解さを変に薄めないまま、ですます調でここまで読みやすく軽快な文章を書ける人はきわめて貴重な存在だと思う。いまのところ一番面白かったのは『家政婦の歴史』かな。『若者と労働』にも感銘を受けた。
 濱口本の魅力はじゃっかん人に説明しづらいところがあって、というのは、取り上げられているひとつひとつの事象はとても凡庸というか、「大学で受けた教育は仕事ではほとんど役に立たない」とか、「年功賃金で将来ペイされるから若いころはサビ残上等が前提」とか、日本社会で暮らしていれば当然経験したり見知っている事実だからなんだけど、濱口本が面白いのは、そうした現状がいかなる論理と必然性で組み上げられ噛み合わさっているか、そしてそれがどれほど動かしがたいものか(生半可な覚悟の視野狭窄な改革論がいかに無意味か)を事細かに論じあげて暴露していくからなんだね。そういう関心で『スキルとデキル』も大変楽しみにしており、たいへん面白く読んだ。 

なんと、小熊英二さんの超大著が分厚過ぎたために私の本に手が伸びたとは。

というわけで、今回『スキルとデキル』を読んでいただいたわけですが、

 ただ正直ちょっと帯が煽り気味というか、この帯につられ、「はじめに」を立ち読みし、面白そう!と思って購入した一般の読者はけっこう早い段階で挫折するんじゃないだろうか。とくに第3章あたりからはかなり細かい論点に入っていくし(制度自体が入り組んでいる、なんか学校や制度の名前もやたら似てるし)、あまりひねりのない通史的叙述が続くパートもあるので、やや退屈した部分も正直あった。しかしそこは濱口節というべきか、引用や要約、論点提示を駆使して乗りやすい文章にうまくまとめあげている。普通の労働法学者や歴史学者だったらこうはいかないだろう。職業訓練・教育の領域はそれぞれの制度の歴史的位置づけがよく分かっていないままだったんだが、だいぶすっきりしてとても勉強になった。細かいとこだと、私の頭が悪いからだと思うんだけど、『若者と労働』とか、他の労働政策史・社会史系の本で、高校進学率の上昇がいかに企業内訓練のあり方を変えたかが論じられるたび、その実際の理路があまり明確に想像できないまま(中卒者が減ったからOJTに重心が移るってどういう意味?と思っていた)だったのだが、ようやく行間が埋まった。あと冨山和彦のG型L型の素人っぷりは普通に知らなかったので笑った。最後に国際比較がちらっと入っているのもいい。 

帯の台詞は編集者によるものですが、たしかに、「はじめに」で昨今のリスキリングの話を振っておいて、第1章から近代日本職業教育訓練史を淡々と論じていくので、退屈しちゃう人もいるかもしれませんね。

 本筋にはあんまり関係ないんだが、全体を読んで、教育系の領域で「非認知能力」とか「コンピテンシー」がもてはやされている(いた?)のも、「スキル」より「デキル」重視の風土とかかわっているよなあと。むかしなんかの本で「非認知能力とは何ですか」と問われた教育学者が「それは一言で言うと、「頑張る力」です」とか宣っていてずっこけたことがあり、まあこれも「日経新聞のジョブ型」みたいに「ベネッセの非認知能力」なのかもしれないけど、ドメイン知識軽視・地頭重視みたいな感覚って本当に教育では根強くて(厳密には「非認知能力」と地頭って違うかもしれんが)、アンチ暗記マインドのもとでアクティブラーニングがむりやり導入されたり、「リベラルアーツ」や「教養」が進学校で重視されたり、「他社で通用する力が身につく」かどうかを会社選びの基準にする若者が増えたりするのは、それぞれ微妙に異なる現象だが、「能力」重視の風土とやはり根っこではかかわっているだろう。そういう教育を支持してきたのは親世代であり、その親世代のおかれた労働社会が「能力」重視なのだよね。「非認知能力」を称揚することが、親世代にとっての癒しになる側面があるというか(そうそう、テストの点数じゃなくて人間力なんだよ、みたいな)、要するにどれも特殊日本的な問題系なんだろうなと。それを解くカギがこの本にある…かどうかはわからんが、繰り返し読んで勉強したい良書である。まあでも難しいねー。 

今回は、経営側の言説は基本的に日経連・経団連による公式的なものに限って取り上げて、また教育に関する言説はほぼ政府の教育行政プラス日教組に限っているので、そういう日認知能力やコンピテンシーをめぐる言説は出てこないのですが、人によってはむしろ、「デキル」イデオロギーの例証として、そういうものこそを取り上げるべきだったという考え方もあるかもしれません。

 

 

 

 

 

2026年9月16日 (水)

「今さらながらのリ・スキリング」を政府が煽り立てても企業も労働者も関心を示さない納得の理由@現代ビジネス

322511000924_20260916091301
現代ビジネスというサイトで、拙著の一部を抜粋・編集した「「今さらながらのリ・スキリング」を政府が煽り立てても企業も労働者も関心を示さない納得の理由」がアップされました。

https://gendai.media/articles/-/170838

近年よく見聞きする「リ・スキリング」という言葉。「新しいスキルや知識を習得して、別の職務や業務に対応できるようにする」ために政府が提唱しているものだが、盛り上がりには欠けている。その背景には、企業や労働者がもっている、紆余曲折の労働思想がある。

本記事は濱口桂一郎『スキルとデキル 「能力」から見る近現代労働史』(角川新書)から抜粋・編集したものです。

この最後のページには、拙著の「おわりに」の最後の2パラグラフが載っています。ここはかなり辛口のメッセージということになるでしょうか。

・・・近代日本の職業教育訓練の歴史を振り返ってみれば、産業革命期から戦時・改革期、近代主義の時代と、約半世紀前までは技能(スキル)の向上が政府や企業の目標でした。その手段が職業教育であれ、公共職業訓練であれ、企業内技能者養成であれ、スキルよりもデキルの方が大事だなどという世迷言は、少なくとも公的な教育訓練言説に顔を出すことはありませんでした。そうした営々たるスキル向上の努力の結晶として、近代主義の時代末期の1968年に日本はGNP世界第二位の経済大国となりました。ところがほぼその頃から、日本は超先進国になったと浮かれ、スキルよりもデキルの方が大事だなどという「能力」主義イデオロギーを、企業や政府自身までもが弄ぶようになりました。

私自身を含む今の中高年世代は、まさに若き日の精神形成期に、そういうイデオロギーをたっぷり全身に受けて育った世代です。その世代が社会の中枢を担い始めた1990年代末期から日本経済は長期停滞期に入り、今やGDP世界第5位に転落しつつあります。しかし、政府のリ・スキリングの掛け声にもかかわらず、スキルよりデキルの心性は私たちの骨髄に沁み込んだまま、消え去る気配はありません。

 

 

 

2026年9月15日 (火)

マシナリさんの拙著書評

322511000924_20260915205501 労務屋さんに続いて、刊行からまだ間もないのにマシナリさんがさっそく『スキルとデキル』を丁寧に書評していただいています。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-859.html

hamachan先生の新著をさっそく拝読しました。hamachan先生ご自身が「『スキルとデキル』という変な本」とおっしゃっていたので何かギミックがあるかとwktkしながら拝読しましたが、いつも通りの重厚な歴史書でありつつ、ところどころにクリティカルな指摘がちりばめられていて安心(?)しました。 ・・・

マシナリさんが本書の重要ポイントとして指摘していただいているのは、このエントリのタイトルにもあるように、「一番肝心の回路が塞がれた人事労務管理」という点です。

その中で、職能資格制度という仕組みによって労使の「対立」が結果的に解消されてしまったのではないかという指摘は、世の中の人事労務担当者のみならず、経営側も労働者側も正面から向き合うべき課題であろうと思います。・・・

 前著に引き続き本書でもその立役者(?)として小池和男先生が名指しで批判されていまして、経済学的に「正しい」とされる理論が生々しい現実を覆い隠してしまっていた(る)状況に薄ら寒いものを感じてしまいますね。・・・

ここは、実は小池批判というよりも、労働経済学全般に対する批判という意図がありました。企業特殊的熟練によって日本の人事労務管理を説明するというのは、知的熟練論に限らず、当時の労働経済学者に広く見られた傾向であったと思います。

その点では、日本型雇用の典型である大企業のみならず、広く中小零細企業に至るまで「職務を遂行しうるスキルを認識し、評価し、操作するという一番肝心の回路が塞がれたままになってしまっているという事態」が広く浸透しているものと思われます。hamachan先生は自虐的に

 私自身を含む今の中高年世代は、まさに若き日の精神形成期に、そういうイデオロギーをたっぷり前進に受けて育った世代です。その世代が社会の中枢を担い始めた1990年代末期から日本経済は長期停滞期に入り、今やGDP世界第5位に転落しつつあります。しかし、政府のリ・スキリングの掛け声にもかかわらず、スキルよりデキルの心性は私たちの骨髄に沁み込んだまま、消え去る気配はありません。本書がそれに対する一服の清涼剤になれば幸いです。
濱口『同』p.274

とおっしゃいますが、その下の世代も十分に日本型雇用にどっぷり浸かっている、というよりそれ以外の働き方を想定できないのではないかと思います。もしかすると「静かな退職」コースが定着していく中で変わるかもしれませんが、本書を読むとそれも一筋縄ではいかないかなと悲観的になってしまいます。ということで、本書で指摘された歴史的経緯をじっくり読んで、かつ日本型雇用の現状を認識できれば、本書は清涼剤どころかセイレーンもビックリのキャロなんとか並みの激辛だと思うのですが。。

これは「おわりに」の最後のパラグラフですが、その一つ前のパラグラフと併せて、この最後の2パラグラフが、たぶん本書のメッセージという感じになります。激辛とまでは思いませんが、まあ清涼剤にしては辛口すぎるかもしれません。

全体としては、近現代日本の職業教育訓練のコンパクトな歴史書というふぜいでありながら、最後のところでちょびっと炎上気味の一節を投げ込んでみたというところでしょうか。

 

 

2026年9月12日 (土)

『スキルとデキル』に労務屋さんが書評

322511000924_20260912193001 刊行されたばかりの拙著『スキルとデキル』(角川新書)に、労務屋さんがさっそく書評していただいています。

https://roumuya.hatenablog.com/entry/2026/09/12/152514

 アイキャッチ―な書名にもかかわらず、内容は本格的な職業教育/能力開発政策史(一部文部省案件も含みますが)なので、ある程度の予備知識がないと読み進めるのに苦労するかもしれません。私自身はといえば、濱口先生の過去作と同様、本書でも日本版デュアルシステムやジョブ・カード(中点の有無が紛らわしい(笑))、日本版NVQなどそれなりに関わった内容もあって懐かしさもある一方、労政や労働基準ほどには深入りしなかった分野なので、新たに知ることも多く勉強になりました。・・・・・・

その通りでありまして、キャッチ―なタイトルにもかかわらず、第1章から第5章プラス補章までは、職業教育訓練の歴史のコンパクトなまとめとしても使える内容になっていると思います。逆に、タイトルやオビで煽り立てている話はどこに行ったのかといらいらされるかもしれません。

そこが全開になっているのが、終章ととりわけ「おわりに」であります。

・・・ということで参考書として大変に有益な本ですが、著者のメッセージは終章と「おわりに」で展開されており、簡単に紹介すると(そんなに簡単に説明されては困りますとの苦情がありそうですが)日本企業では能力(特定業務を遂行できるスキル)に加えて(あるいはそれ以上に)今風にいえば協調性やコミュニケーション能力などの「能力」(本書で「デキル」と称されている、一種のメタスキルのようなものか)が重視されており、それによる賃金決定が生計費確保につながってきたのであり、したがって前者のスキルをリスキリングしましょうと行政が旗を振っても誰も乗り気にはならないでしょう、ということでしょうか。・・・

ですので、タイトルの煽りで買われた方は、まずは終章と「おわりに」から読まれた方がいいかも知れません。そこで書いてあることの歴史的検証として、前に戻って歴史叙述のところをぼちぼち読まれるというのも一法かと思います。

読者によっては、「おわりに」を読まれて怒り心頭に発する方もおられるかもしれませんが。

 

 

 

 

2026年9月 9日 (水)

『スキルとデキル』いよいよ刊行

322511000924_20260909215301 奥付上の発行日は明日ですが、都内の書店ではすでに今日から『スキルとデキル』(角川新書)が並びつつあるようです。

https://www.kadokawa.co.jp/product/322511000924/

本書の「はじめに」を公開しておきましょう。

 近年、日本政府は「リ・スキリング」を大々的に唱道しています。
 このリ・スキリングという言葉は岸田文雄政権下の2023年5月に『三位一体の労働市場改革の指針』で使われて以来、政府の政策文書におけるバズワードになっていますが、とりわけ2024年6月に閣議決定された『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2024年改訂版』は、「三位一体の労働市場改革の早期実行」の項目として、①個々の企業の実態に応じたジョブ型人事の導入、②労働移動の円滑化と並んで、③リ・スキリングによる能力向上支援を挙げており、これは石破茂政権下の2025年6月に閣議決定された『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2025年改訂版』や高市早苗政権下の2026年7月に閣議決定された『日本成長戦略』にも引き継がれています。
 それ以前も「スキルアップを通じた労働移動の円滑化」(2022年版)、「社会人の創造性育成(リカレント教育)」(2020年成長戦略実行計画)、「個々の働き手の能力・スキルを向上させる人材育成・人材投資の抜本拡充」(未来投資戦略2017)、「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関」(日本再興戦略 2016)、「若者等の学び直しの支援のための雇用保険制度の見直し」(2013年日本再興戦略)等々、労働者の職業スキルの向上(教育訓練)は政策の中心課題の一つであり続けてきました。
 近年の政府の教育訓練政策の特徴は、それが職務給などのジョブ型人事や労働移動の促進と相まって、外部労働市場志向型の政策として打ち出されてきていることです。この傾向は、既に1990年代後半から現れてきており、私はそれを「市場主義の時代」と呼んできましたが、第二次安倍晋三内閣以来より鮮明になってきています。
 ここ数年の『新しい資本主義のグランドデザイン』はその到達点と言えましょう。ジョブ(職務)に対応する「スキル」(技能)こそが職業能力を示すキーワードとなっているのです。とはいえ、政府が鉦や太鼓でリ・スキリングを煽り立てても、肝心の企業や労働者の側は、笛吹けども踊らずという状態が続いているようです。
 それに対して、それに先立つ1970年代後半から1990年代前半までの約20年間は、企業内の雇用維持を最優先とする雇用政策がとられた「企業主義の時代」でしたが、教育訓練についても企業内訓練、とりわけ上司や先輩の指導の下で実際に作業をしながら仕事を覚えていくオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)を最重要視する政策思想が社会を支配していました。その頃はスキル、あるいはそれに対応する日本語の「技能」ではなく、「能力」という一般的な言葉が職業能力を示すキーワードでした。
 この「能力」というのは、具体的な特定のジョブを遂行するスキルとは異なり、何でもできる一般的能力、あるいはむしろ、何でも頑張って取り組めばできるようになる潜在的能力を示す言葉です。私が累次の拙著で繰り返し説明してきた日本的なメンバーシップ型雇用システムに極めて適合的な概念ですが、逆に言えば、特定のジョブを遂行するスキルというものに対する社会的評価が著しく低くなった時代でした。
 このスキルとは対照的な「能力」概念を、「何でもできる」というところに着目して「デキル」と呼ぶならば、日本の職業能力をめぐる考え方は、デキル重視の時代からスキル重視の時代に大きく変わってきたということができます。
 ところが話はそれで終わりません。
 それより以前の1950年代後半から1970年代前半までの高度経済成長時代は、それとは全く逆に、つまり1990年代後半以降と同様に、特定のジョブに対応するスキルを身につけることが政策目的とされ、そのために企業外におけるフォーマルな教育訓練とそれを社会的に証明する技能検定制度が重視されていた時代でした。スキル重視とデキル重視とは交互にスポットライトを浴びていたのです。その職業教育訓練をめぐる歴史の転変を遡っていくと、幕末から明治維新の時期に欧米諸国の先進技術を導入するために、それまでの伝統的な徒弟制から技能者養成制度を確立しようとした苦闘の時代に至ります。
 今日の日本において、政府が鉦や太鼓で奨励しても近代的なスキル重視の発想がなかなか根付かず、デキル重視の思想が依然として根強いのはなぜなのか、本書はその理由を、歴史の草むらに分け入って解明していきたいと思います。
第1章 産業革命期の職業教育訓練――徒弟制から技能者養成へ
 1 徒弟制の展開
  (1) 江戸時代の徒弟制
  (2) 伝習生の時代
  (3) 職人徒弟制の時代
  (4) 工場徒弟制の時代
 2 徒弟制の法規制
  (1) 民法における徒弟制
  (2) 工場法における徒弟制
  (3) 徒弟制改善への動き
 3 実業教育の展開
  (1) 職工学校
  (2) 徒弟学校
  (3) 実業補習学校
  (4) 実業学校
  (5) 実業専門学校
  (6) 商業教育
  (7) 法学・医学教育
 4 技能者養成の展開
  (1) 養成工制度の生成
  (2) 養成工制度の展開
  (3) 養成工制度の変容
 5 職業補導の始まり
第2章 戦時・改革期の職業教育訓練――企業で技能者を養成せよ!
 1 技能者養成の法規制
  (1) 工場事業場技能者養成令
  (2) 労働基準法と技能者養成規程
  (3) 養成工制度の再興
 2 職業補導の展開
  (1) 戦時体制下の職業補導
  (2) 職業安定法と公共職業補導所
 3 実業教育から職業教育へ
  (1) 戦時体制下の実業教育
  (2) 職業高等学校
  (3) 新制大学
 4 技能評価制度
  (1) 戦時体制下の技能検定
  (2) 戦後期の技能検定
第3章 近代主義の時代の職業教育訓練――技能は今や国政課題に
 1 職業訓練法による統一
  (1) 1958年職業訓練法
  (2) 事業内職業訓練
  (3) 公共職業訓練
  (4) 技能検定
 2 企業内技能教育訓練体制の確立
  (1) 大企業における技能教育訓練
  (2) 中小企業における技能教育訓練
 3 職業教育の展開
  (1) 職業教育制度改正の試み
  (2) 技能連携制度
  (3) 技能高校の提唱
  (4) 職業高校の多様化
  (5) 高等専門学校
  (6) 高等教育の多様化
 4 国政課題としての職業教育訓練
  (1) 経済政策における人的能力政策
  (2) 雇用政策における技能者養成
  (3) 1969年職業訓練法
  (4) 職業訓練校の衰退
第4章 企業主義の時代の職業教育訓練――技能よりも「能力」が大事!
 1 政策の大転換
  (1) 近代主義から企業主義へ
  (2) 「能力」主義の興隆
  (3) 職能資格制度と非技能的「能力」観の一般化
  (4) 高卒者のブルーカラー化とOJT
  (5) 労働経済学におけるOJT礼賛論
  (6) 企業現場のOJTの実像
 2 企業中心の職業能力開発政策
  (1) 雇用保険法による能力開発事業
  (2) 1978年改正職業訓練法
  (3) 多様な企業内教育訓練への助成金
  (4) 認定職業訓練の拡大
  (5) 1985年職業能力開発促進法
 3 公共職業訓練と技能検定
  (1) 1970年代の法改正
  (2) 1980、90年代の法改正
  (3) 企業主義時代の技能検定
 4 職業教育の低迷
  (1) 職業教育に対する日教組の否定的思想
  (2) 職業高校の動向
  (3) 専修学校
第5章 市場主義の時代の職業教育訓練――自己啓発からリ・スキリングへ
 1 政策の再転換
  (1) 企業主義から市場主義へ
  (2) 経営側のスタンス
 2 「自己啓発」の時代
  (1) 「自己啓発」へのシフト
  (2) 教育訓練給付の創設
  (3) 教育訓練給付の見直し
  (4) 専門実践教育訓練給付と特定一般教育訓練給付
 3 職業教育の復活
  (1) 職業高校から専門高校へ
  (2) 高等職業教育の再認識
  (3) 法科大学院
  (4) 専門職大学院
  (5) 専修学校の職業実践専門課程
  (6) 専門職大学
  (7) 大学等の職業実践力育成プログラム
 4 公共職業訓練の諸相
  (1) 自己啓発の時代の公共職業訓練
  (2) 雇用・能力開発機構の廃止
  (3) リーマンショックと基金訓練
  (4) 求職者支援法と認定職業訓練
  (5) 公共職業訓練の現在
 5 キャリア形成支援と教育訓練助成金
  (1) キャリア形成支援への政策転換
  (2) 日本版デュアルシステム
  (3) ジョブ・カード制度
  (4) 企業内教育訓練への助成金
 6 職業能力評価制度の紆余曲折
  (1) 職業能力評価基準
  (2) ジョブ・カード制度と日本版NVQ制度
  (3) 職業能力の「見える化」
 7 今さらながらのリ・スキリング
  (1) リカレントガイドライン
  (2) リ・スキリング支援
補章 諸外国の職業教育訓練
 1 イギリス――ギルド徒弟制から現代徒弟制へ
 2 フランス――企業研修の光と影
 3 ドイツ――世界に冠たるデュアルシステム
 4 アメリカ――コミュニティカレッジとプロフェッショナルスクール
終章――日本社会を支配する「能力」概念 
 
おわりに