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書評

2024年10月 3日 (木)

渡辺将人『台湾のデモクラシー』

71zav6bwdl252x400 例によって、月1回の『労働新聞』書評です。

【書方箋 この本、効キマス】第83回 『台湾のデモクラシー』 渡辺 将人 著

 世界の200近い国には、自由で民主的な国もあれば、専制独裁的な国もある。イギリスのエコノミスト誌が毎年発表している民主主義指数では、第1位のノルウェーから始まって各国の格付けを行っているが、当然のことながら上位には欧米系諸国、下位にはアジア、アフリカ諸国が並ぶ。日本の周辺には、第165位の北朝鮮、第148位の中華人民共和国など、独裁国家が目白押しだ。しかしかなり上位に位置する国もある。韓国は第22位、日本は第16位で、イギリス(第18位)などと肩を並べる。そうか、アジアで一番民主的な日本でも第16位か、と勝手に思ってはいけない。実は、アジアで最も民主的な国は第10位の台湾なのである。

 これは、年配者にとっては意外な光景だろう。なぜなら、台湾を支配する中華民国は1987年まで戒厳令の下にあった典型的な専制国家だったのだ。それから40年足らずで世界に冠たるデモクラシーの模範国家となった台湾という国(正確には、世界のほとんどすべての国から国家承認を受けていないので、「国」ということすら憚られる状態なのだが、本稿では「国」で通す)の軌跡/奇跡は、どんな理論書にも増して民主主義を理解するうえで有用であろう。

 本書の著者はアメリカ政治の専門家で、新書本も含め10冊以上も関連書籍を出している。彼が台湾とかかわったのは、若い頃アメリカ民主党の大統領選挙陣営でアジア太平洋系の集票戦略を担当し、在米チャイニーズの複雑な分裂状況に直面したときだったという。そこから台湾政治とアメリカ政治の密接な関係を認識して、頻繁に訪台するようになり、民進党系、国民党系などさまざまな政治運動やマスメディアの研究に没頭していく。

 彼が注目するのは、アメリカ式の大規模な選挙キャンペーンだ。日本の報道でもよく流れたのでご存じの方も多いだろうが、「台湾の選挙に慣れすぎるとアメリカの選挙演説が静かで退屈にすら感じる」くらいなのだ。とりわけ他国に例を見ないのは屋外広告とラッピングバスだ。選挙時には交通機関の半分以上が候補者の顔で埋め尽くされる。実は筆者も2010年に国際会議に参加するため台北を訪れた際、目の前を走るバスがすべて候補者の顔になっているのを見て度肝を抜かれた思い出がある。アメリカ風からさらに定向進化した台湾風というべきか。

 台湾はデモクラシーだけでなく、リベラルでもアジアの最先進国だ。フェミニズムを国家権力が全力で弾圧する中国は言わずもがな、自由社会のはずの日本も保守派の抵抗でなかなか進まないリベラルな社会変革が、ほんの一世代前まで戒厳令下にあった国で進められていく。19年にアジアで初めて同性婚を認めた台湾は、トランスジェンダーのオードリー・タン(唐鳳)が閣僚になった初めての国でもあり、多様性と人権と市民的自由が花開いた東アジアのリベラルの橋頭堡である。本来ならば、日本のネトウヨ諸氏は専制中国でこそ居心地が良く、リベラル諸氏は台湾こそわが同志と思ってしかるべきではないかと思われるが、その代表格と目される鳩山由紀夫氏や福島瑞穂氏は中国の「火の海にする」という軍事的恫喝に諸手を挙げて賛同しているのだから、まことに拗れきった関係だ。

 

2024年8月 1日 (木)

和田泰明『ルポ年金官僚』書評

例によって、月1回の『労働新聞』書評です。

・・・・って、おや?先週載ったのにまた今週も?どうしたの?とお思いでしょうが、いや、執筆予定者にいろいろあったそうで、急遽順番を差し替えとなった次第。その辺柔軟に対応いたします。

9784492224168_1_4277x400 というわけで、本来9月に載るはずだった書評は、和田泰明『ルポ年金官僚』(東洋経済新報社)です。

https://www.rodo.co.jp/column/180800/

 著者は週刊ポストや週刊文春の記者として年金記事を書きまくり、20年前の国民年金保険料未納を巡る騒動のときには、小泉首相の未納情報を関係者から入手して記事にした当人でもある。そういう人がこのタイトルで書いた本とくれば、例によって扇情的な年金ポルノ本の類いだろうと思う人も多いだろう。ところがさにあらず、週刊誌的な筆致で書かれた本書は、誠に真っ当な戦後日本年金史でもあるのだ。

 年金本は大きく3つに分けられる。年金保険とは何かをよくわきまえた社会保障学者や政策関係者が書いた真っ当だが読んでもあんまり面白くない本。年金のなんたるかをわきまえない俗流経済学者や政治評論家が制度を知らないままに経済理論だけで書いた制度攻撃の本。そして週刊誌やテレビがまき散らす年金にかかわるあれこれのスキャンダル=年金ポルノだ。戦後日本年金史、とりわけ過去30年の波瀾万丈の歴史は、この3つの流れが政治的思惑のなかで拗れながら絡まり合って生み出されてきた。その年金ポルノの制作現場にいた著者が、くそ面白くもない年金制度をしっかりと勉強して、無知な学者や政治家による年金攻撃の愚かしさを浮彫りにしているのが本書なのだ。

 本書は小山進次郎局長による国民年金法制定、山口新一郎局長による1985年年金大改正(基礎年金導入)を劇的に一叙事詩の如く描く。通史では淡々と書かれるその政策過程が、数々の回想を重ね焼きしながら情緒的に描き出される。とりわけ司令官の「戦死」のシーンは圧巻だ。だが、その間に挟まれた横田陽吉局長による73年改正が、田中角栄と野党のイケイケドンドンに乗って年金の大盤振る舞いとグリーンピアを生み出し、後代への負債となったことにも注意を喚起する。

 1990年代後半から2010年代前半までの20年間は、制度に一知半解の経済学者がおいしいネタを見つけたとばかりに、一斉に年金の世代間不公平を言い立て、積立制度への移行を主張した時代であると同時に、グリーンピア、タレントや政治家の年金保険料未納問題、そして年金記録の持ち主不明(基礎年金番号へ統合されていない記録)5000万件問題が次から次に湧いてきて、国民の年金不信が高まり、野党の政府攻撃の絶好の材料になった時代であった。

 年金ポルノで名をはせた野党政治家たちが「抜本改革」の名でぶち上げた年金改革案は、彼らが政権の座に就くことによって化けの皮が剥がれる。「幼稚園児のお絵かき、論評に値しない一枚紙の絵、政策でも制度でもない政治的プロパガンダ」は、現実に直面した民主党政権自らによって紙くずのように葬り去られ、自民党への政権交代直前に真っ当な社会保障制度改革への道が再びつけられた。

 民主党政権の「戦果」は、扶養から外れても届出しなかったために保険料未納の主婦たちについて、長妻厚労相の指示により運用で3号被保険者と認めるいわゆる「運用3号」通達を出した年金局の課長を更迭して見せたことと、不祥事続きの社会保険庁を解体して日本年金機構に改組する際、民主党の選挙運動に長年汗をかいてきた社会保険庁の労働組合員たちを懲戒処分経験者として「分限免職」で報いたことくらいだった。

 

 

 

 

2024年7月25日 (木)

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』@『労働新聞』書評

611b1jbvvjl245x400 毎月1回の『労働新聞』書評。今回は一昨年この書評欄を担当されていた三宅香帆さんの本です。

https://www.rodo.co.jp/column/180316/

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルに、「読書史と労働史でその理由がわかる」というオビの文句を加えれば、これはもうドンピシャリ、『労働新聞』の書評コラムに取り上げないという選択肢はあり得まい。いや実は、著者の三宅香帆さんは一昨年、この書評コラムで毎月面白い本を紹介していた当人でもある(選書のまとめ…上半期分下半期分)。

 その彼女が、リクルートに就職し、週5日間毎日9時半~20時過ぎまで会社にいる生活になって、「ちくしょう、労働のせいで本が読めない!」とショックを受けた。時間がないわけではないが、「本を開いても、目が自然と閉じてしまう。なんとなく手がスマホのSNSアプリを開いてしまう。夜はいつまでもYouTubeを眺めてしまう。あんなに本を読むことが好きだったのに」。結局、本をじっくり読むために、彼女は3年半後に会社を辞めたという。本書のタイトルは、その経験をそのまま言語化したものだ。

 ここから彼女はその原因を探索する長い歴史の旅に出る。労働を煽る自己啓発書(スマイルズの『西国立志編』)が読まれた明治時代、労働が辛いサラリーマン(『痴人の愛』の河合讓治)が生まれた大正時代、サラリーマンが円本(改造社『現代日本文学全集』)を積読インテリアとして書斎に並べた昭和初期、サラリーマン小説(源氏鶏太)とハウツー本(カッパブックス)を買い求めた高度成長期、司馬遼太郎の文庫本をノスタルジーとして愛読した1970年代、「教養」より「コミュ力」が求められた(『BIG tomorrow』)1980年代、ノイズを除去する自己啓発書(『脳内革命』)が求められた1990年代、労働で自己実現を果たすことが称揚される(『13歳のハローワーク』)一方で、ノイズの除去された「情報」が求められた(『電車男』)2000年代、そしてさまざまな労働小説が勃興した2010年代。

 長い歴史遍歴の果てに彼女が直面したのは、「ノイズ込みの知を得る」ための「読書」の対極にある、「ノイズを除去した情報」としての「ファスト教養」に溢れる社会であった。それゆえに、仕事にどっぷり浸かることが求められれば求められるほど、仕事のノイズになるような知識をあえて受け入れる「読書」という行為が難しくなったのだ。これを逆転させて、「働いていても本が読める社会」にしようではないか、というのが本書のメッセージだ。どうしたらそうできるだろうか。

 彼女が訴えるのは、全身全霊のコミットメントをやめよう、頑張りすぎるのをやめよう、燃え尽き症候群はかっこよくなんかない、一言で言えば「半身(はんみ)で行こう」ということだ。仕事も家事も趣味も読書も、全身全霊じゃなくって、半身で良いのだ。全身で働けないから半身でも良いよ、というのではなく、みんなが半身で働ける社会をめざそう、それこそが「働きながら本が読める社会」「半身(はんみ)社会」なのだ、と。

 さて、本紙の読者の皆さんは「読書」しているだろうか?「今週の労務書」で紹介される仕事関係の情報本だけじゃなくて、本欄に登場するノイズだらけの本を読んでいるだろうか。もしそうじゃないなら、まずは本書を手に取ってほしい。

 

2024年6月27日 (木)

ヤン・ルカセン『仕事と人間』@『労働新聞』書評

毎月1回の『労働新聞』書評ですが、今回はヤン・ルカセン『仕事と人間』(上・下)(NHK出版)です。

https://www.rodo.co.jp/column/178979/

51ay6jvvrl  労働史といえば、産業革命以来のせいぜい二〇〇年余りを対象とするものがほとんどだが、本書は副題の通り「七〇万年のグローバル労働史」を上下巻九〇〇頁にわたって描き出す大著だ。ハラリやダイヤモンド、ピンカーらのグローバルヒストリーの労働版といったところだが、改めて人類の歴史は多種多様な労働の歴史だったと痛感する。
 狩猟採集時代の互酬、初期農耕時代の再分配が中心だった時代を経て、上巻後半の紀元前五〇〇年あたりからユーラシア大陸の各地に市場労働中心の時代がやってくる。市場労働を可能にしたのは貨幣、とりわけ少額貨幣の存在だ。これにより、労働の対価を貨幣で受け取り、それで食料品を購入するという自由労働のあり方が可能になった。なるほど、貨幣がなければ賃金労働も存在し得ない。もっとも当時は雇用(賃金)と請負(工賃)は未分化だった。また、これら自由労働と並んで奴隷という非自由労働も重要な位置を占めていた。
 中国や中近東では、賃金労働と自営業という自由な市場労働が維持されたが、ヨーロッパとインドでは紀元四〇〇年から一〇〇〇年まで市場が消滅してしまった。硬貨の流通も止まり、自給自足の農奴制に収縮した後、紀元一〇〇〇年ころからようやく労働市場が復活してくる。とりわけヨーロッパでは、ペスト禍による人口減少によって工賃が高騰し、手工業ギルドが発達してくる。小さなエピソードだが、一三七八年にフィレンツェの梳毛職人(チオンピ)が起こした反乱は、今日の労働運動に連なる争議第一号の感がある。また本書では奴隷労働がかなりのウェイトをもって語られているが、その視野も全世界的に広がっている。近代初期にアフリカからアメリカ大陸に送られた黒人奴隷だけではないのだ。
81enrd5kosl_sy425_   上下巻を跨ぐ一五〇〇年から一八〇〇年あたりで、東アジアの労働集約型発展経路(勤勉革命)から西欧の資本集約的発展経路(産業革命)への転換が描かれ、ようやくこのあたりから普通の労働史の対象領域に入ってくる。とはいえその視野はあくまでも広い。一八〇〇年以降の二〇〇年間の労働史についても、産業化に伴う自由賃金労働の増加と同時に、非自由労働(奴隷)の衰退、自営労働や家庭内労働の減少がすべて同時に論じられていく。労働時間の短縮、労働組合運動、福祉国家といった近代労働史のおなじみのテーマが出てくるのは、下巻の終わり近く、第七部の第二五章から第二七章になってからだ。
 かくも壮大なグローバル労働史において、日本が登場するのはようやく江戸時代で、「勤勉革命」と名づけられた労働集約的発展経路の担い手としてである。本連載二〇二一年八月九日号で取り上げたヤン・ド・フリース『勤勉革命』は、妻や子供などが外で働いて稼ぐようになり(複数稼得世帯化)、その稼いだ金で衣服や音楽を購入し、自宅で食事を作るよりも外食が増えるといった事態を指していたが、本書の勤勉革命はむしろ日本におけるこの概念の提唱者である速水融の考え方に近い。そして近代初期の西欧におけるプロト工業化も、近代以前の余暇選好(十分稼いだら働くのをやめ、必要になったらまた働き始める)が逆転したまさに「勤勉革命」であったのであり、それが産業革命によって資本集約的発展経路に転換していくのだ、という歴史観は、実に納得的である。
 

 

 

 

2024年5月30日 (木)

ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』@『労働新聞』書評

91dczn8qspl_sl1500_277x400 例によって月1回の『労働新聞』書評ですが、今回はジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』(東洋経済)です。

https://www.rodo.co.jp/column/177681/

 今年の正月、NHKの『欲望の資本主義2024「ニッポンのカイシャと生産性の謎」』に出演した。ジョエル・コトキンというアメリカの学者が「新しい封建制がやってくる」と論じていたのが印象に残った。今年2月5日号で取り上げたマイケル・リンドの『新しい階級闘争』をさらに増幅した感じだったからだ。

 読んでみてその印象はますます強化された。もはや資本主義創生期の階級闘争などという生易しいものではない。中世の貴族階級に相当するハイテク企業の大金持ち寡頭支配層(テック・オリガルヒ)と、中世の聖職者階級に相当する「有識者」層が、第1・第2身分として支配する社会で、中世のヨーマンに相当する中産階級と、中世の農奴に相当する労働者階級とが屈従を強いられているというのだから。

 その中でもとくにやり玉に挙げられているのは、ピケティが「バラモン左翼」と呼んだ「有識者」層だ。「有識者層と寡頭支配層の多くは、貧困の拡大、社会的格差の固定化、階級間の対立といった経済停滞の影響に対処しようとせず、幅広い人々の経済成長よりも持続可能性の理想を追求している。中世の聖職者が物質主義に異を唱えたように」。「今日、苦境に立たされている中産・労働者階級の多くは、富裕層は炭素クレジットやその他の『美徳シグナリング』と呼ばれる手段を通じて、いうなればグリーンの贖宥状(免罪符)を買う行為によって、自分たちがどれだけ環境保護に熱心かを誇示する姿を見せつけられている。だが、そうした“啓蒙的”政策は、経済的余裕のない人々に異常に高い燃料コストと住宅コストを押しつけるものとなっている」。グローバルとグリーンという「聖なる教え」こそが今日の第3身分の苦難の原因なのだ。

 歴史学的に言えば、中世封建制の特徴はその分権制にあり、「新しい封建制」との比喩は必ずしも成功していない。しかし、「バラモン左翼」と同様、今日の知的エリート層の有り様を中世の聖職者になぞらえるのは実にピタッとくる。ちなみに、「有識者」と訳されている原語は「clerisy」であって、聖職者(clergy)の現代版という意味だ。そして、「かつて自由な思想と探究の擁護者だと思われていた大学は、異端の考えが攻撃される場としての中世モデルに戻りつつある」という現状認識は、昨年5月15日号で取り上げた『「社会正義」はいつも正しい』の指摘とも響き合う。

 苦境に立つ現代のヨーマンたちを尻目に、左翼のジェントリ化が進む。「今日のインテリ左翼は、地球環境や国境を超えた移民については関心を持つが、同胞の労働者階級についてはあまり関心を払わない」からだ。そこに蓄積されつつあるのは中世的農民反乱のエネルギーだ。現代版農民反乱のほとんど全てがグローバリゼーションや移民の大量受入れに対する反発なのも当然だろう。

 本書の最後の章は「第3身分に告ぐ」と題され、その末尾には「社会的上昇を制限し、人々の依存心をより強めるような新しい封建制がやってくるのを何とか遅らせ、できれば押し戻さなければならない。それには、新しい封建制に抵抗しようとする第3身分の政治的意思を目覚めさせることが必要である」という檄文が書かれている。

(ジョエル・コトキン 著、寺下 滝郎 訳、東洋経済新報社 刊、税込2200円)

 

 

 

 

2024年4月25日 (木)

デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』@『労働新聞』書評

4334100597 月1回の『労働新聞』書評ですが、今回はデヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』です。

https://www.rodo.co.jp/column/176210/

「万物の黎明」(The Dawn of Everything)とは超絶的に大風呂敷なタイトルだが、元の副題(A New History of Humanity(人間性の新たな歴史))や邦訳の副題(人類史を根本からくつがえす)というのが、まあ妥当なところだろう。著者の一人は本連載の初年度に『ブルシット・ジョブ』を取り上げたデヴィッド・グレーバーだが、本書も刊行以来賞賛の嵐らしい。ここ数年来、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』、ジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』など、いわゆるビッグ・ヒストリーが大流行だが、これらポップ人類史を全面的に批判し、否定し去ろうとする本なので、「人類史を根本からくつがえす」という副題は当を得ている。
 邦訳で700ページ近い本書を要約するのは至難の業だが、読まれることなく死蔵されていた大航海時代や啓蒙時代の海外に関する諸記録や膨大な近年の考古学的発見を根拠に彼らが主張したいことは、「自由だの平等だの民主主義だのってのは、君らは近代ヨーロッパ(だけ)が産み出した価値ある思想だと思い込んでるかも知れないが、狩猟採集時代から農耕時代に世界各地で試みられ実践されてきたものなんだぜ」というメッセージだろう。とりわけ彼らが力を込めるのは、ヨーロッパ人の暴力的な侵略によって社会そのものがほぼ完全に破壊されたアメリカ先住民(いわゆるインディアン)たちがいかに高度な民主主義社会を構築していたかであり、そのアメリカン・インパクトによって、専制と隷従を当然と考えていたヨーロッパの知識人が自由や平等や民主主義に目覚めたのだ、というまさに逆転のストーリーだ。
 そのために彼らが駆使するのは、スペインの侵略者とともにやってきて現地の人々のことを事細かに書き残していたイエズス会の記録や、とりわけカナダで活躍したフランスの軍人が現地の知識人政治家カンディアロンクとの会話を詳細に再現した『旅する良識ある未開人との珍奇なる対話』という書物だ。これにヒントを受けてジャン・ジャック・ルソーが書き上げたのが、その後の世界に大きな影響を与えた『人間不平等起源論』だというのだから、たしかに常識をひっくり返す話だ。でも、これはまだ全12章の第2章に過ぎない。
 第3章以後は共著者ウェングロウの専門分野である考古学の知見が膨大に繰り広げられ、普通の人は読み進めるのがなかなかしんどいかも知れない。ポップ人類史には出てこない人類史のあちらこちらに、それなりの規模をもった集権性やヒエラルキーのない「都市」が存在しているのに、それが系統的に無視されていると彼らは怒る。とりわけ、ウクライナのメガサイトは、メソポタミア最古の都市より古い大規模遺跡なのに、中央集権的な政府や支配階級の存在を示す証拠が出土していないために、「過剰成長した村落」などと見下げられているというのだ。そういう発想で人類史を見れば、威厳に満ちた中華帝国やロシア帝国こそが文明の最先端ということになるのだろう。
 正直、読みながら山のように疑問が湧いてくる。でも、何の違和感もなくするりするりと読めてしまう本を百冊読むよりも、こういうあちこちで引っかかる本こそが、真の読書の醍醐味ではなかろうか。 

 

 

 

2024年3月28日 (木)

戸森麻衣子『仕事と江戸時代』@労働新聞書評

61bof5yoxl245x400 毎度おなじみ『労働新聞』の書評ですが、今回は戸森麻衣子『仕事と江戸時代』(ちくま新書)です。

https://www.rodo.co.jp/column/174960/

 この書評も2021年から始めたのでもう4年目になるが、その初めの頃に十川陽一『人事の古代史』(ちくま新書)を取り上げたことがある(関連記事=【GoTo書店!!わたしの一冊】第17回『人事の古代史―律令官人制からみた古代日本』十川 陽一 著/濱口 桂一郎)。古代から戦乱に明け暮れた中世を経て、平和な時代となった近世には、再び「働き方」が社会の重要な問題となった。本書は、戦士のはずだったのに官僚の道を歩まざるを得なくなった武士をはじめ、武家奉公人、商家の奉公人、職人、百姓に至るまでの、江戸時代の「働き方」万華鏡を垣間見せてくれる。

 まず武士だが、そもそも主君のために戦うことの対価であった知行が俸禄化するが、それは「家」に与えられるいわば武家ベーシックインカムであって、実際の役職とは関係がない。俸禄は役職に就いていない武士にも支給される。こういう社内失業者を「小普請組」といい、江戸の旗本の約4割は、そういう近世版「働かないおじさん」であったらしい。

 一方で、社会の複雑化に対応して武士のやるべき仕事も高度化・専門化していく。剣術や四書五経ばかり学んできた「長期蓄積能力活用型」の武士は実務能力に乏しい。そこで、「高度専門能力活用型」の非正規武士の登用と「役職手当」で調整する。下級武士に一代限りの俸禄上乗せ(「足高」)をして財務経営などの仕事をやらせるに留まらず、実務的な知識を身に着けた町人・百姓を召し抱えて専門的な仕事をやらせる。伊能忠敬とか二宮尊徳はこの類いだ。

 幕末には、近代軍事技術に対応するために、各藩の藩士を幕府に「在籍出向」(「出役」)させることもみられた。長州藩の村田蔵六もその一人だが、出向元の長州藩から帰藩を命じられれば戻らざるを得ない。彼はその後大村益次郎と名乗って、出向先だった幕府を倒す立役者となった。中津藩から出向して幕臣に移籍した福沢諭吉は、こういう身分制度を「親の仇」と呼んだのである。

 一方、武士の家でさまざまな労務に従事するのは、武士ではなく町人・百姓身分の武家奉公人だ。彼らは江戸のハローワークたる口入屋からの紹介で、通常1年契約で住み込みで働く「雇用柔軟型」非正規労働者である。また、殿様の駕籠を担ぐ「陸尺」、馬の世話をする「別当」など、細かな職務ごとに雇われる近世版ジョブ型雇用であった。驚いたことに、江戸城の大手門の門番役もこうした短期雇用の町人・百姓であったという。

 商家の奉公人も営業経理を担当する大企業正社員タイプと雑用に従事する非正規労働者タイプに分かれる。三井越後屋をはじめ、江戸の大店はほぼ上方に本店があり、子供(丁稚)は本店で(新卒ではないが)一括採用して、江戸の出店に配転される。彼らは手代、番頭、支配人と出世していく近世版メンバーシップ型雇用だが、落ちこぼれるものも多い。一方、下男下女は現地採用であり、口入屋経由の年季奉公であった。さらにその日その日で働いて賃銭を受け取る日雇労働者(「日傭取」)というのもいた。

 このように、見れば見るほど現代と通じるものが感じられる江戸時代の働き方だが、女性の働き方は大きく変わった。武家屋敷の奥女中奉公というのは、今日ではドラマのなかでしか想像できない。一方、吉原などの遊女屋奉公は、かなり形を変えながら生き残っているようでもある。

 

2024年3月 2日 (土)

梅崎・南雲・島西『日本的雇用システムをつくる』書評@『社会経済史学』

714l2ve3cjl_sl1500_  社会経済史学会の『社会経済史学』という雑誌の第89巻第4号に、梅崎修・南雲智映・島西智輝『日本的雇用システムをつくる1945-1995 オーラルヒストリーによる接近』(東京大学出版会)の書評を寄稿しました。

なお、書評自体は同誌の規約により公開しませんので、読みたい方は同誌を入手下さい。

71iavdmzl_sl1500_ さて、本書の書評がいまこの時点で掲載されるのは、図ったわけではないですが大変時宜に適していると思います。というのも、既にご案内の方もおられるかと思いますが、本書は労働問題リサーチセンターの今年度の沖永賞を受賞した本だからです。

図書・論文等の表彰(冲永賞)

表彰式は3月8日(金)ホテルオークラ東京において開催予定です

さて、本書は昨年4月に刊行され、そのときに本ブログで取り上げております。

梅崎修・南雲智映・島西智輝『日本的雇用システムをつくる 1945-1995』

その後わりと直ぐに社会経済史学の方から書評の依頼があり、書いて送ったのですが、それからかなり時間が経ち、なんだか時期に遅れた証文みたいな気がしていたのですが、逆にちょうど沖永賞の受賞の時期に合わせたみたいになって、結果的にグッドタイミングになったように思います。

 

 

 

 

 

 

2024年2月29日 (木)

ビル・ヘイトン『「中国」という捏造』@『労働新聞』書評

817yaysygzl273x400 例によって月1回の『労働新聞』書評ですが、今回はビル・ヘイトン『「中国」という捏造』(草思社)です。

【書方箋 この本、効キマス】第55回 『「中国」という捏造』 ビル・ヘイトン 著/濱口 桂一郎

 「捏造」というタイトルは過度に挑発的だと感じられるかもしれない。しかし、原題の「invention」には「発明」とともに「捏造」という意味もある。ほんの百数十年前までは存在しなかった「中国」という概念を、清朝末期から中華民国時代の思想家や政治家たちが創り出してしまったということだ。と、いう話なら、日本でも岡本隆司『「中国」の形成』(岩波新書)など類書はある。本書の読みどころは、康有為、梁啓超、黄遵憲、厳復といった思想家や、李鴻章、孫文、蒋介石といった政治家たちが、苦闘しながらひねり出していった「中国」という創作物が、21世紀の今日、習近平の「中国の夢」というスローガンの下、「中華民族」という究極の虚構が14億の多様な人々の違いをすり潰すイデオロギーとして猛威を振るうに至った歴史を、生々しく描き出しているところだろう。
 近代的な主権国家という概念も民族国家という概念もなかった大陸東アジアにおいて、欧文から翻訳された、あるいは日本語から重訳された「主権」や「民族」といった概念が過度なまでの定向進化を遂げ、あらゆる国際規範に縛られることを拒否する主権原理主義や、モンゴル人、ウイグル人、チベット人までことごとく「中華民族」とみなして漢民族文化を押しつける「民族のるつぼ」を生み出してしまった、というのは近現代史最大の皮肉であり、悲劇であろう。いや、「漢民族」という概念自体、漢字がなければコミュニケーション不可能な(欧州であればポルトガル語とルーマニア語くらいの違いのある)人々を「黄帝の子孫」という虚構で観念的に作り上げたものなのだが。
 本書を読んではっとさせられたのは、共産主義イデオロギーがこの「中華民族」思想を中和する役割を果たしていたという指摘だ。毛沢東は確かに大躍進や文化大革命で数千万人の中国人を死に追いやった。しかしながら、その共産主義思想の故に、ソビエトの民族自治政策を部分的に導入し、少数民族には自治区、自治州といった制度が与えられ、少数民族の共産党員がそのトップに据えられた。共産党に逆らうことは許されないが、その範囲内で民族性を発揮することは許されていたのだ。ところが、1989年の天安門事件で共産主義に全く正統性が失われてしまった後、中国共産党はその正統性の根拠として専らナショナリズム(中華民族主義)にしがみつくことになる。
 かつては共産党の公式表明では「人民」という言葉がよく使われた。人民とは労働者、農民、共産党の側であり、資本家や国民党がその敵だ。中華「人民」共和国とは元々そういう意味であった。ところが、天安門後の共産党は「三つの代表論」によって、それまでの労働者階級の代表から企業家も含めた中華民族の代表に「進化」した。中華民族の代表の敵はもはや資本家ではない(その大部分は共産党員だ)。中華民族の敵は、些細な違いを煽り立てる分離主義者どもだ。
 かくして、毛沢東時代には国民党との階級闘争が主調であった歴史のナラティブは、西欧列強や日本軍国主義との戦いに彩られることになる。それが日本陸軍と英雄的に戦う八路軍の虚構ドラマにとどまっているうちはまだよい。その対外被害者意識の戯画的な表出が、「本来」の中国領土を限りなく拡げて描いた「国恥地図」や、東南アジア諸国の沿岸すれすれまで自国領海だと言い張る南シナ海九段線となるのだ。

2024年2月 1日 (木)

マイケル・リンド『新しい階級闘争』@『労働新聞』書評

9784492444719_600 今年第2回目の『労働新聞』書評は、マイケル・リンド『新しい階級闘争』(東洋経済新報社)です。

https://www.rodo.co.jp/column/172266/

近頃世界的に無責任な言説をまき散らすポピュリストが蔓延して困ったものだ、・・・と感じている人は多いだろう。しかし、これは階級闘争なのだ。知的エリート階級に経済的のみならず知的にも抑圧されているノンエリート労働者階級の「反乱」なのだ。
 「階級闘争」という言葉は時代錯誤に見えるかも知れない。かつて産業革命時代に資本家階級と労働者階級の間で闘われた熾烈な階級闘争は、20世紀中葉に労働組合による団体交渉と福祉国家を基軸とする階級平和に移行し、マルクスの教えを古くさいものとした。だが20世紀の末期、再び階級闘争の幕が切って落とされた。先制攻撃を加えたのは経営管理者と専門職からなる知的上流階級だ。経済停滞の元凶として労働組合と福祉国家が叩かれたことはよく知られている。しかし、ネオ・リベラリズムによる経済攻勢と手に手を取って粗野な労働者階級文化を攻撃したのは、左派や進歩主義者たちによる反ナショナリズムと国境を越えたグローバリズムに彩られ、人種やジェンダーによる差別を糾弾するアイデンティティ・ポリティクスだった。
 といえば、思い出す概念がある。昨年9月に本欄で紹介したトマ・ピケティの『資本とイデオロギー』の「バラモン左翼」だ。そう、かつては経済的格差を最も憂慮し、労働者階級の味方であった左派が、リベラルな高学歴エリートに占められるようになり、その代わりに「外国人どもが福祉を貪っているから君たちの生活が苦しいんだ」と煽り立てるソーシャル・ネイティビストがはびこっているというあれだ。これこそが叩いても叩いてもはびこるポピュリズムの社会学的下部構造であり、理屈を積み重ねて論破できると思うこと自体が間違っている。
 知的エリートの中には、普遍的ベーシックインカムが解決策だと唱える者もいる。しかし、人種やジェンダーによる差別のみがなくすべき社会悪であり、低学歴低技能ゆえに(当然の報いとして)低賃金や失業に苦しむ者には慈悲を与えようというご立派な思想は、誇り高い労働者階級によって拒否される。ふざけるな、俺たちが欲しいのはそんなまがい物じゃない。まっとうに働いてまっとうに給料をもらいまっとうに生活できる社会だ。それを破壊したのは・・・あの移民どもだ。あいつらを追い出せ、壁を作れ。と、ポピュリストの甘い声がささやくのだ。
 ポピュリズムに陥らずに再びかつての階級平和を取り戻すにはどうすべきか。リンドが提示するのは拮抗力を伴う民主的多元主義だが。この言葉ではわかりにくいだろう。かれが再建すべきと唱えるのは、労働組合や教会、大衆参加型政党だ。とりわけ労働組合が団体交渉や三者構成協議などによって経済エリートたちに対する拮抗力を回復することが急務だという。それと同時に、知的エリートに対する文化的拮抗力も必要だ。かつては工場の門を出たらボスのいない世界でくつろぐことができた。今では仕事が終わった後もボス階級が目を光らせ、不健康な飲食にふけるのを注意したり、プロレタリアート向けの俗悪で煽情的な情報を「検閲」したがるのだ。傲慢でお節介な「大領主様」に反発するのも当然だろう。現代の参加型運動は、最良の意味でvulgar(粗野な/庶民的な)でなければならない。

 

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