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書評

2023年8月31日 (木)

トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』@労働新聞書評

31f57aheptl_20230830211501 例によって月1回の労働新聞書評、今回は トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』(みすず書房)です。

【書方箋 この本、効キマス】第32回 『資本とイデオロギー』 トマ・ピケティ著/濱口 桂一郎

 もう5年以上も前になるが、『21世紀の資本』がベストセラーになって売れっ子だったピケティの論文「Brahmin Left vs Merchant Right」(バラモン左翼対商人右翼)という論文を拙ブログで紹介したことがある。この「バラモン左翼」という言葉はかなり流行したが、右翼のリベラル批判の文脈でしか理解しない人も多く、造語主ピケティの真意と乖離している感もあった。
 原著でも1000ページ、邦訳では1100ページを超える本書は、このバラモン左翼がいかなる背景の下に生み出されてきたのかを人類史的視野で描き出した大著だ。第1章と第2章は中世ヨーロッパの三層社会-聖職者、貴族、平民-を論じ、第3章から第5章はそれが近代の所有権社会に転換していった姿を描く。第6章から第9章は欧州以外の奴隷社会、植民地社会を描くが、特に第8章ではインドのカースト社会を論じる。ここまでで400ページ。いつになったら今日の格差社会の話になるのだとじりじりする人もいるかも知れないが、いやいやこれらが全部伏線になっているのだ。
 20世紀初頭に財産主義に基づく格差社会の極致に達した所有権社会は「大転換」(ポランニー)によって社会民主主義社会に転換する。(ドイツや北欧の)社民党、(フランス等の)社会党、(イギリスの)労働党、(アメリカの)民主党が主導したこの転換は、保守政党によっても受け継がれ、社会は著しく平等化し、1980年代までの高度成長を生み出した。しかし、やがて新たな財産主義のイデオロギーが世を覆うようになっていく。本書では、1950-1980年代と1990-2010年代の間にいかに世界中の国々で格差が拡大していったかという統計データがこれでもかこれでもかと載っている。
 このネオリベ制覇の物語は誰もが知っているが、なぜそんなことが起こったのかについて、本書が提示するのが左翼のバラモン化なのだ。半世紀前には、上記左派政党の支持者は明確に低学歴、低所得層であり、保守政党の支持者は高学歴、高所得層であった。低学歴層に支持された左派政権は教育に力を入れ、高学歴化が進んだ。その結果、学歴と政党支持の関係に大逆転が起こった。左派は高学歴者の党となり、右派が低学歴者の党になったのだ。インテリ政党と化した左翼は、もはや「うるせぇ、理屈はいいから俺たちに金寄こせ」というかつての素朴な叫びからはほど遠く、経済学者や社会学者のこむつかしい屁理屈を振り回す頭でっかちの連中でしかない。その姿を、かつての三層社会の聖職者(インドではバラモン)に重ね焼きして「バラモン左翼」と呼ぶピケティの哀しき皮肉をじっくり味わってもらいたい。
 バラモン左翼に愛想を尽かして社会民主主義政党から離れた低所得層に、「君たちの窮状の原因は移民どもだ」と甘い声をかけるのがネイティビスト(原住民優先、移民排斥の思想で、「自国主義」という訳語は違和感がある)だ。特に、「外国人どもが福祉を貪っているから君たちの生活が苦しいんだ」と煽り立てるソーシャル・ネイティビストが世界中で蔓延っている。ピケティは最後の章で21世紀の参加型社会主義を提起するが、そしてそれは評者の理想と極めて近いものではあるのだが、現実との落差はため息が出るほどだ。 

 

 

2023年7月27日 (木)

岩井克人『経済学の宇宙』@労働新聞書評

81p2y7zdzs_ac_uf10001000_ql80_ 例によって月1回の労働新聞書評、今回は岩井克人『経済学の宇宙』です。

https://www.rodo.co.jp/column/153750/

 著者は東京大学経済学部名誉教授であり、日経新聞からこのタイトルで出れば、偉い学者の『私の履歴書』みたいなものと思うのが普通だ。実際、生い立ちからMIT留学までは、貧しいながらも知的な家庭から東大に進学し、米国に留学する立志伝的な話。ところがそこから話がとてつもない方向に逸れていく。新古典派経済学の真っ只中にいながら、市場経済がその根底に不安定さを秘めていることを暴露する不均衡累積過程の理論を構築し、非主流派の道を歩み始める。ちょうどそこへ東大経済学部から声が掛かり、1981年帰国。このとき、評者は法学部生として岩井助教授の「近代経済学」の初講義を聴いたはずだが、中身はまったく記憶にない。

 ここから経済学者の枠を超える岩井の大活躍が始まる。柄谷行人らとの交流のなかから、マルクスの価値形態論の限界を突破し、貨幣商品説と貨幣法制説の双方を超克する貨幣の自己循環論法理論を構築する。その後日本経済論を経て、法人論に取り組むことになる。彼が法人という存在の不思議さに気が付いたのは、プリンストン大学の図書館で戦前の『法律学辞典』の「法人」という項に、末弘厳太郎(「末廣巌太郎」というのは誤り)が「法人とは自然人にあらずして法律上“人”たる取扱いを受くるものを言ふ」と書いているのを見て、驚きのあまり本を落としそうになったときだ。

 私も含めて法学部出身者にとっては、これは民法総則の初めの方で勉強する常識中の常識で、何ら驚くことではない。ところが、学生時代に「法律などという権力の道具にすぎないものを勉強するなんてとんでもない」と思って法律に関する講義は一度も取っていなかった岩井は、ヒトでありながらモノでもある不可思議な存在に驚いた。ヒトは主体としてモノを所有し支配する。モノは客体としてヒトに所有され支配される。奴隷社会や家父長制社会とは異なり、ヒトをモノとして扱ってはいけないのが近代社会のはずだ。だが法人は、モノであるのにヒトとして扱われ、ヒトとして扱われているのにモノでしかない。こんな不思議な存在になぜ今まで気が付かなかったのだろうと。驚いた岩井はそこから法人論や会社法の猛勉強を始め、会社統治の議論に乱入し、流行していた株主主権論を論破する。素直に民法の授業を聞いていた法学部出身者にはできない荒技だ。

 マイケル・ジェンセン(参照記事=【本棚を探索】第5回『マイケル・ジェンセンとアメリカ中産階級の解体』ニコラス・レマン 著/濱口 桂一郎)のエージェンシー理論によって歪められた会社統治のあるべき姿を探し求めて、岩井は「信任関係」という概念に辿り着く。日本では知られていないこの英米法概念こそ、資本主義社会の中核にある会社という存在を根底で成り立たせている経営者の会社に対する忠実義務であり、「倫理=法」なのだ。その根底にあるのは、トマス・シェリングの「人は自分と契約できない」という原理である。経済学は「私的悪こそ公共善だ」と嘯いて倫理を葬ったはずなのに、会社の中核には倫理が法として存在しているというこの逆説。そして、経営者の会社への信任関係を否定して株主利益に奉仕するエージェンシーに貶めたマイケル・ジェンセンのイデオロギーは、株主に奉仕すると称して「自分と契約」することによってお手盛りで巨額の報酬を得る経営者たちとして実現した。

 

末弘厳太郎の字が間違っているとわざわざ指摘しているのは、世の中にはこの間違いがけっこう多いから。末弘であって、末廣じゃありません!

ちなみに末弘厳太郎は拙著『家政婦の歴史』にも登場して、暴れ回っています。

 

 

 

 

2023年6月28日 (水)

ダニエル・サスキンド『WORLD WITHOUT WORK』@『労働新聞』書評

20230302160351722619_85b439f76d138b1e8f7 例によって『労働新聞』7月3日号に、書評(【書方箋 この本、効キマス】)を寄稿しました。今回はダニエル・サスキンドの『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』(みすず書房)です。

https://www.rodo.co.jp/column/152297/

 原題の英文を訳せば「仕事のない世界」となる。「AI(人工知能)で仕事がなくなるからBI(ベーシックインカム)だ」という近頃流行りの議論を展開している一冊だといえばそのとおりなのだが、日本で近年出された類書に比べて、議論のきめが相当に細かく、かつて『日本の論点2010』(文藝春秋)でBIを批判した私にとっても引き込まれるところが多かった。

 前半の3分の2は、AIで仕事が絶対的に減少していくという未来図を描く。労働経済学では、工場労働のような定型的タスクは機械に代替され、専門職や対人サービスのような非定型的タスクは代替されにくいというが、AIの発達により身体能力、認知能力、感情能力も代替されるようになり、専門職的な知的労働こそがタスク侵蝕に曝されるようになった。その結果もたらされるのは大変な不平等社会だ。ではどうする?

 後半の3分の1はサスキンドの処方箋が展開される。まず批判されるのは「人的資本が大事だ、もっと教育訓練を」という現在主流の政策だ。彼はこれを去りゆく「労働の時代」のなごりに過ぎないと批判する。「学び直しても臨むべき仕事の需要そのものが充分にないとしたら、世界トップレベルの教育も無用の長物」だからだ。だから、「正しい対策は、職業や労働市場に頼らない,全く別の方法でゆたかさを分かち合う方法を見つけ」なければならない。

 そこで「大きな政府」によるBIという話になるのだが、彼は無条件のユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)には批判的で、条件付きベーシックインカム(CBI)を主張する。その理由が、かつて私がBIを批判した論点と共通する。それは、誰をBIをもらえるコミュニティ・メンバーとして認めるのかという問題だ。観光ビザで来た外国人にも気前良く給付するというのでない限り、どこかで線引きが必要になる。それは「俺たち仲間のためのBIを奴らよそ者に渡すな」という「血のナショナリズム」を生み出さずにはおかない。労働の時代には仕事で貢献しているというのが移民排斥に対する反論になった。しかし仕事の足りない世界ではそうはいかない。彼がBIに付すべきという条件は労働市場ではなくコミュニティを支えることだ。

 私がかつてBIを批判したもう一つの論拠は「働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりである」ということだった。最終章「生きる意味と生きる目的」で、彼はこの問題を取り上げ、絶妙な処方箋を提示する。CBIの給付条件とは、「有償の仕事をしない人が、経済的な方法ではない形で、自分の時間の少なくとも一部を投じて社会のために貢献すること」である。「労働市場の見えざる手が無価値なものと判定している活動を、目に見えるコミュニティの手ですくい上げ、価値があるもの、大切なものとして掲げ直す」のだ。そうすることで、「CBIの要件を充たして給付金を得ることは、家族のために給料を稼ぐことで感じる充足感とさほど変わらない充足感をもたらす」だろう。これこそが、近年急拡大しているアイデンティティ・ポリティクスへの対抗力になるはずだと彼は言う。これは議論する値打ちのある提言だと思う。

本文中で、私が昔書いた『日本の論点2010』(文藝春秋)のエッセイに言及していますので、そちらも参考までに。

9784165030904_20230628121701 マクロ社会政策について大まかな見取り図を描くならば、20世紀末以来のグローバル化と個人化の流れの中で、これまでの社会保障制度が機能不全に陥り、単なる貧困問題から社会的つながりが剥奪される「社会的排除」という問題がクローズアップされてくるともに、これに対する対策として①労働を通じた社会参加によって社会に包摂していく「ワークフェア」戦略と、②万人に一律の給付を与える「ベーシックインカム」(以下「BI」という)戦略が唱えられているという状況であろう。

 筆者に与えられた課題はワークフェアの立場からBI論を批判することであるが、あらかじめある種のBI的政策には反対ではなく、むしろ賛成であることを断っておきたい。それは子どもや老人のように、労働を通じて社会参加することを要求すべきでない人々については、その生活維持を社会成員みんなの連帯によって支えるべきであると考えるからだ。とりわけ子どもについては、親の財力によって教育機会や将来展望に格差が生じることをできるだけ避けるためにも、子ども手当や高校教育費無償化といった政策は望ましいと考える。老人については「アリとキリギリス」論から反発があり得るが、働けない老人に就労を強制するわけにもいかない以上、拠出にかかわらない一律最低保障年金には一定の合理性がある。ここで批判の対象とするBI論は、働く能力が十分ありながらあえて働かない者にも働く者と一律の給付が与えられるべきという考え方に限定される。
 働く能力があり、働く意欲もありながら、働く機会が得られないために働いていない者-失業者-については、その働く意欲を条件として失業給付が与えられる。失業給付制度が不備であるためにそこからこぼれ落ちるものが発生しているという批判は、その制度を改善すべきという議論の根拠にはなり得ても、BI論の論拠にはなり得ない。BI論は職を求めている失業者とあえて働かない非労働力者を無差別に扱う点で、「文句を言わなければ働く場はあるはずだ」と考え、働く意欲がありながら働く機会が得られない非自発的失業の存在を否定し、失業者はすべて自発的に失業しているのだとみなすネオ・リベラリズムと結果的に極めて接近する。
 もっとも、BI論の労働市場認識は一見ネオ・リベラリズムとは対照的である。ヴァン・パリースの『ベーシック・インカムの哲学』は「資産としてのジョブ」という表現をしているが、労働者であること自体が稀少で特権的な地位であり、社会成員の多くははじめからその地位を得られないのだから、あえて働かない非労働力者も働きたい失業者と変わらない、という考え方のようである。社会ははじめから絶対的に椅子の数の少ない椅子取りゲームのようなものなのだから、はじめから椅子に座ろうとしない者も椅子に座ろうとして座れなかった者も同じだという発想であろう。
 景気変動によって一時的にそのような状態になることはありうる。不況期とは椅子の数が絶対的に縮小する時期であり、それゆえ有効求人倍率が0.4に近い現状において失業給付制度を寛大化することによって-言い換えれば働く意欲を条件とするある種の失業者向けBI的性格を持たせることによって-セーフティネットを拡大することには一定の合理性がある。いうまでもなくこれは好況期には引き締められるべきである。
 しかしながら、景況をならして一般的に社会において雇用機会が稀少であるという認識は是認できない。産業構造の変化で製造業の雇用機会が空洞化してきたといわれるが(これ自体議論の余地があるが)、それ以上に対人サービス部門、とりわけ老人介護や子どもの保育サービスの労働需要は拡大してきているのではなかろうか。この部門は慢性的な人手不足であり、その原因が劣悪な賃金・労働条件にあることも指摘されて久しい。いま必要なことは、社会的に有用な活動であるにもかかわらずその報酬が劣悪であるために潜在的な労働需要に労働供給が対応できていない状況を公的な介入によって是正することであると私は考えるが、BI論者はネオリベラリストとともにこれに反対する。高給を得ている者にも、低賃金で働いている者にも、働こうとしない者にも、一律にBIを給付することがその処方箋である。
 ある種のBI論者はエコロジスト的発想から社会の全生産量を減らすべきであり、それゆえ雇用の絶対量は抑制されるべきと考え、それが雇用機会の絶対的稀少性の論拠となっているようである。しかし、これはいかにも顛倒した発想であるし、環境への負荷の少ない生産やサービス活動によって雇用を拡大していくことは十分に可能であるはずである。
 上述でも垣間見えるように、BI論とネオリベラリズムとは極めて親和性が高い。例えば現代日本でBIを唱道する一人に金融専門家の山崎元がいるが、彼はブログで「私がベーシックインカムを支持する大きな理由の一つは、これが『小さな政府』を実現する手段として有効だからだ」、「賃金が安くてもベーシックインカムと合わせると生活が成立するので、安い賃金を受け入れるようになる効果もある」、と述べ、「政府を小さくして、資源配分を私的選択に任せるという意味では、ベーシックインカムはリバタリアンの考え方と相性がいい」と明言している*1。またホリエモンこと堀江貴文はそのブログでよりあからさまに、「働くのが得意ではない人間に働かせるよりは、働くのが好きで新しい発明や事業を考えるのが大好きなワーカホリック人間にどんどん働かせたほうが効率が良い。そいつが納める税収で働かない人間を養えばよい。それがベーシックインカムだ」、「給料払うために社会全体で無駄な仕事を作っているだけなんじゃないか」「ベーシックインカムがあれば、解雇もやりやすいだろう」と述べている*2。なるほど、BIとは働いてもお荷物になるような生産性の低い人間に対する「捨て扶持」である。人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかも知れないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。
 最後に、BI論が労働中心主義を排除することによって、無意識的に「“血”のナショナリズム」を増幅させる危険性を指摘しておきたい。給付の根拠を働くことや働こうとすることから切り離してしまったとき、残るのは日本人であるという「“血“の論理」しかないのではなかろうか。まさか、全世界のあらゆる人々に対し、日本に来ればいくらでも寛大にBIを給付しようというのではないであろう(そういう主張は論理的にはありうるが、政治的に実現可能性がないので論ずる必要はない)。もちろん、福祉給付はそもそもネーション共同体のメンバーシップを最終的な根拠としている以上、「“血“の論理」を完全に払拭することは不可能だ。しかし、日本人であるがゆえに働く気のない者にもBIを給付する一方で、日本で働いて税金を納めてきたのにBIの給付を、-BI論者の描く未来図においては他の社会保障制度はすべて廃止されているので、唯一の公的給付ということになるが-否定されるのであれば、それはあまりにも人間社会の公正さに反するのではなかろうか。

 

 

 

 

 

2023年6月 3日 (土)

『労働新聞』書評2023年前半編

『労働新聞』に月イチで連載している書評欄、今年1月から6月までの半年間に取り上げた6冊を改めてまとめて紹介しておきます。

726d577b64d21123af489672df0965cf 『労働新聞』に月イチで連載している書評コラムですが、今年からまたタイトルが変わり、「書方箋 この本、効キマス」となりました。

その第1回目に私が取り上げたのは、グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』(明石書店 )です。

https://www.rodo.co.jp/column/143561/

 半世紀前の1975年に、日米欧三極委員会は『民主主義の統治能力』(サイマル出版会)という報告書を刊行した。ガバナビリティとは統治のしやすさ、裏返せばしにくさ(アンガバナビリティ)が問題だった。何しろ、企業の中では労働者たちがまるでいうことを聞かないし、企業の外からは環境や人権問題の市民運動家たちがこれでもかと責め立ててくる。本書はその前後の70年代に、欧米とりわけアメリカのネオリベラルなイデオローグと企業経営者たちが、どういう手練手管を駆使してこれら攻撃に反撃していったかを、膨大な資料―それもノーベル賞受賞者の著作からビジネス書やノウハウ本まで―を幅広く渉猟し、その詳細を明らかにしてくれる。

 評者の興味を惹いた一部だけ紹介すると、それまでの経営学ではバーリ=ミーンズやバーナムらの経営者支配論が優勢で、だからこそその権力者たる経営者の責任を問い詰める運動が盛んだったのだが、この時期にマイケル・ジェンセン(3340号7面参照)がその認識をひっくり返すエージェンシー理論を提唱し、経営者は株主の下僕に過ぎないことになった。そもそも企業とはさまざまな契約の束に過ぎない。従って、理論的に企業の社会的責任などナンセンスである。一方でこの時期、ビジネス書などで繰り返し説かれたのは、(厳密にはそれと矛盾するはずだが)問題が大きくなる前に先制的に問題解決に当たれという実践論だった。

 本書は今では我われがごく当たり前に使っている概念が、この時期に企業防衛のために造り出されたことを示す。たとえばコスト・ベネフィット分析がそうだ。労災防止や公害防止の規制は、それによって得られる利益と比較考量して、利益の方が大きくなければすべきではないという議論が流行った。本書が引用するアスベスト禁止の是非をめぐるマレー・ワイデンバウム(レーガン政権で経済諮問委員長になった経済学者)とアル・ゴアのやり取りは、それなら人命に値段をつけろと迫られて逃げ回る姿がたいへん面白い。

 思想史的には、70年代以後のネオリベラル主義が戦前ナチスに傾倒したドイツの政治思想家カール・シュミットとその影響を受けたネオリベラル経済学者ハイエクの合体であることを抉り出した点が新鮮だ。73年にチリのアジェンデ政権を打倒して成立したピノチェト軍事政権に対し、当時主流派のポール・サミュエルソンが「ファシスト資本主義」と批判したのに対し、ハイエクは「個人的には、リベラルな独裁制の方が、リベラル主義なき民主政府より好ましいですね」と答えている。いうまでもなくこの「リベラル」とは経済的な制約のなさを示す言葉であり、その反対語「全体主義」とは国家が市民社会に介入すること、具体的には福祉国家や環境規制がその典型だ。そういう悪を潰すためには、独裁者大いに結構というわけだ。

 とはいえ、先進国で用いられた手法はもっとソフトな「ミクロ政治学」だった。正面から思想闘争を挑む代わりに、漸進的に少しずつ「民営化」を進め、気が付けば世の中のあれこれがネオリベラル化している。その戯画像が、野球部の女子マネージャーにドラッカーの『マネジメント』を読ませて喜ぶ現代日本人かもしれない。

81qdi3i0gul 817cpagxh3l 例によって、『労働新聞』連載の「書方箋 この本、効キマス」に、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)を取り上げました。

https://www.rodo.co.jp/column/144730/

 専制主義は古臭く、民主主義は新しい、とみんな思い込んでいるけれども、それは間違いだ。大家族制は古臭く、核家族は新しいとの思い込み、それも間違いだ。実は一番原始的なのが民主主義であり、核家族なのだ。というのが、この上下併せて700ページ近い大著の主張だ。いうまでもなく、新しいから正しいとか、古臭いから間違っているとかの思い込みは捨ててもらわなければならない。これはまずは人類史の壮大な書き換えの試みなのだ。
 トッドといえば、英米の絶対核家族、フランスの平等主義核家族、ドイツや日本の直系家族、ロシアや中国の共同体家族という4類型で近代世界の政治経済をすべて説明して見せた『新ヨーロッパ大全』や『世界の多様性』で有名だが、その空間論を時間論に拡大したのが本書だ。その核心は柳田国男の方言周圏論と同じく、中心地域のものは新しく周辺地域のものは古いという単純なロジックだ。皇帝専制や共産党独裁を生み出したユーラシア中心地域の共同体家族とは、決して古いものではない。その周辺にポツポツ残っているイエや組織の維持を至上命題とする直系家族の方が古いが、それも人類の歴史では後から出てきたものだ。ユーラシアの西の果てのブリテン島に残存した絶対核家族と、それが生み出す素朴な民主主義こそが、人類誕生とともに古い家族と社会の在り方の原型なのである。おそらく圧倒的大部分の人々の常識と真正面からぶつかるこの歴史像を証明するために、トッドは人類史の時空間を片っ端から渉猟する。その腕前はぜひ本書をめくって堪能してほしい。
 その古臭い核家族に由来する素朴で野蛮なアングロサクソン型民主主義がなぜ世界を席巻し、古代オリエント以来の膨大な文明の積み重ねの上に構築された洗練の極みの君主・哲人独裁制を窮地に追い詰めたのか、という謎解きもスリリングだ。英米が先導してきたグローバリゼーションとは、ホモ・サピエンス誕生時の野蛮さをそのまま残してきたがゆえの普遍性であり、魅力なのだという説明は、逆説的だがとても納得感がある。我々がアメリカという国に感じる「とても先進的なはずなのに、たまらなく原始的な匂い」を本書ほど見事に説明してくれた本はない。
 本書はまた、最近の世界情勢のあれやこれやをすべて彼の家族構造論で説明しようというたいへん欲張りな本でもある。父系制直系家族(イエ社会)のドイツや日本、韓国が女性の社会進出の代償として出生率の低下に悩む理由、黒人というよそ者を排除することで成り立っていたアメリカの脆弱な平等主義が差別撤廃という正義で危機に瀕する理由、共産主義という建前が薄れることで女性を排除した父系制大家族原理がますます露骨に出てきた中国といった、その一つだけで新書の一冊ぐらい書けそうなネタがふんだんに盛り込まれている。なかでも興味深いのは、原著が出た2017年にはあまり関心を惹かなかったであろうウクライナの話だ。トッドによれば、ロシアは専制主義を生み出す共同体家族の中核だが、ウクライナはポーランドとともに東欧の核家族社会なのだ。ウクライナ戦争をめぐっては勃発以来の1年間に膨大な解説がなされたが、この説明が一番腑に落ちた。

61pollbop9l 『労働新聞』に毎月寄せている書評、今回はジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話』(ハヤカワノンフィクション文庫)です。

https://www.rodo.co.jp/column/145984/

 原題は「The Rebel Sell」。これを邦訳副題は「反体制はカネになる」と訳した。ターゲットはカウンターカルチャー。一言でいえば文化左翼で、反官僚、反学校、反科学、極端な環境主義などによって特徴付けられる。もともと左翼は社会派だった。悲惨な労働者の状況を改善するため、法律、政治、経済の各方面で改革をめざした。その主流は穏健な社会民主主義であり、20世紀中葉にかなりの実現を見た。

 ところが資本主義体制の転覆をめざした急進左翼にとって、これは労働者たちの裏切りであった。こいつら消費に溺れる大衆は間違っている! 我われは資本主義のオルタナティブを示さなければならない。そこで提起されるのが文化だ。マルクスに代わってフロイトが変革の偶像となり、心理こそが主戦場となる。その典型として本書が槍玉に挙げるのが、ナオミ・クラインの『ブランドなんかいらない』だ。大衆のブランド志向を痛烈に批判する彼女の鼻持ちならないエリート意識を一つひとつ摘出していく著者らの手際は見事だ。

 だが本書の真骨頂は、そういう反消費主義が生み出した「自分こそは愚かな大衆と違って資本が押しつけてくる画一的な主流文化から自由な左翼なんだ」という自己認識を体現するカウンターカルチャーのあれやこれやが、まさに裏返しのブランド志向として市場で売れる商品を作り出していく姿を描き出しているところだろう。そのねじれの象徴が、ロック歌手カート・コバーンの自殺だ。「パンクロックこそ自由」という己の信念と、チャート1位になる商業的成功との折り合いをつけられなかったゆえの自殺。売れたらオルタナティブでなくなるものを売るという矛盾。

 しかし、カウンターカルチャーの末裔は自殺するほど柔じゃない。むしろ大衆消費財より高価なオルタナ商品を、「意識の高い」オルタナ消費者向けに売りつけることで一層繁栄している。有機食品だの、物々交換だの、自分で服を作るだの、やたらにお金の掛かる「シンプルな生活」は、今や最も成功した消費主義のモデルだろう。日本にも、エコロジーな世田谷自然左翼というブルジョワ趣味の市場が成立しているようだ。

 彼ら文化左翼のバイブルの一つがイヴァン・イリイチの『脱学校の社会』だ。画一的な学校教育、画一的な制服を批判し、自由な教育を唱道したその教えに心酔する教徒は日本にも多い。それがもたらしたのは、経済的格差がストレートに子供たちの教育水準に反映されるネオリベ的自由であったわけだが、文化左翼はそこには無関心だ。

 本書を読んでいくと、過去数十年間に日本で流行った文化的キッチュのあれやこれやが全部アメリカのカウンターカルチャーの模造品だったと分かって哀しくなる。西洋的合理主義を脱却してアジアの神秘に身を浸して自己発見の旅に出るインド趣味のどれもこれも、伝統でも何でもなくアメリカのヒッピーたちの使い古しなのだ。その挙げ句がホメオパシーなど代替医療の蔓延による医療崩壊というのは洒落にならない。

 しかし日本はある面でアメリカの一歩先を行っているのかも知れない。反逆っぽい雰囲気の歌をアイドルに唱わせてミリオンセラーにする、究極の芸能資本主義を生み出したのだから。

Silentmajority

71ec9d7ekxl 例によって、『労働新聞』に月一で連載している書評ですが、今回は渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書)です。

https://www.rodo.co.jp/column/147391/

 戦国時代といえば、幕末と並んでNHK大河ドラマの金城湯池だ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑をはじめ、武田信玄、上杉謙信など英雄豪傑がこれでもかと活躍し、血湧き肉躍る華麗なる時代というのが一般認識だろう。だが、彼らの活躍の陰では、冷酷無惨な奴隷狩り、奴隷売買が横行していた。時代小説やドラマで形作られた戦国の華々しいイメージを修正するのに、この新書本はとても有効な解毒剤になる。

 戦国時代の戦争は、敵兵の首を取り恩賞をもらうだけが目的ではない。戦場での金目の物の略奪も重要な目的で、その中にはヒトを捕まえて売り飛ばすことも含まれていて、当時「乱取り」といった。『甲陽軍鑑』によれば、川中島の戦いで武田軍は越後国に侵入し、春日山城の近辺に火を放ち、女や子供を略奪して奴隷として甲斐に連れ帰ったという。信濃でも、上野でも、武田軍は行く先々で乱取りを行っている。乱取りは恩賞だけでは不足な将兵にとって貴重な収入源であった。

 上杉軍も負けてはいない。上杉謙信が常陸の小田城を攻撃した時、落城直後の城下はたちまち人身売買の市場になったという。これは、謙信の指示によるものだと当時の資料にはっきり書かれている。城内には、周辺に住んでいた農民たちが安全を確保するために逃げ込んでいたのだが、彼らが一人20銭、30銭で売り飛ばされた。伊達政宗の軍も、島津義久の軍も、みんな乱取りをしていた。

 現在放映されている『どうする家康』では絶対に出てこないだろうが、大坂夏の陣で勝利した徳川軍は女子供を次々に捕まえて凱旋している。「大坂夏の陣図屏風」には、逃げ惑う敗残兵や避難民を徳川軍が略奪・誘拐・首取りする姿が描かれている。将兵は戦いに集中するよりも、ヒトや物の略奪に熱中していた。

 国内で奴隷狩り、奴隷売買が盛んな当時の日本は、彼らを外国に売り飛ばす国でもあった。豊臣秀吉は九州征伐の途上で、ポルトガル商人たちが日本人男女数百人を買い取り、手に鉄の鎖をつけて船底に追い入れている様を見て激怒し、イエズス会のコエリョと口論になったという。コエリョ曰く「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」。これがやがて秀吉による伴天連追放令の原因になるのだが、理屈からいえばコエリョが正しい。キリスト教徒を奴隷にすることを禁ずる西洋人にとって、非キリスト教徒が非キリスト教徒を奴隷として売ってくるのを買うのは何ら良心が傷まないことだったのだろう。

 伊東マンショら天正遣欧使節の4人の少年たちは、マカオなど行く先々で売られた日本人奴隷を見て心を痛めていた。千々石ミゲルはこう述べたという。「日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。我が民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった」と。

 英雄を称賛する大河ドラマには絶対に出ない戦国日本の恥部が、薄い新書本のここかしこに溢れている。テレビの後にご一読を。

31grvfxfusl_sx343_bo1204203200_ 例によって『労働新聞』に月一回連載している書評コラム、今回はヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)です。

https://www.rodo.co.jp/column/149699/

 近年何かと騒がしいポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の源流から今日の蔓延に至る展開をこの一冊で理解できる。そして、訳者が皮肉って付けたこの邦題が、版元の早川書房の陳謝によって自己実現してしまうという見事なオチまでついた。
 ポリコレの源流は、意外にも正義なんて嘲笑っていたポストモダン(ポモ)な連中だった。日本でも40年くらい前に流行ってましたな。脱構築だの、全ては言説のあわいだとか言って、客観的な真実の追求を嘲弄していた。でもそれは20世紀末には流行らなくなり、それに代わって登場したのが、著者が応用ポストモダニズムと呼ぶ社会正義の諸理論だ。
 たとえばポストコロニアル理論では、植民地支配された側が絶対的正義であり、客観的と称する西洋科学理論は人種差別を正当化するための道具に過ぎない。ポモの文化相対主義が定向進化して生まれたこの非西洋絶対正義理論は、中東アフリカの少女割礼(クリトリス切除)を野蛮な風習と批判する人道主義を帝国主義的言説として糾弾する。
 たとえばクィア理論では、ジェンダーだけではなくセックスも社会的構築物だ。その結果、日本でも最近起こったように、男性器を付けたトランス女性が女湯に入ってくることに素直な恐怖心を表明した橋本愛が、LGBT差別だと猛烈な攻撃を受けて心からの謝罪を表明するに至る。もちろん、ジェンダーは社会的構築物だし、ジェンダー規範の強制が女性たちを抑圧している姿はイランやアフガニスタンに見られるとおりだが、ポモ流相対主義が定向進化すると、それを生物学的なセックスと区別することを拒否するのだ。
 そのジェンダースタディーズも、交叉性フェミニズムという名の被害者ぶり競争に突っ走る。批判的人種理論と絡み合いながら、白人男性は白人男性ゆえに最低であり、客観的なその言説を抑圧すべきであり、黒人女性は黒人女性ゆえに正義であり、どんな主観的な思い込みでも傾聴すべきという(ねじけた)偉さのランキングを構築する。いや黒人女性でも、それに疑問を呈するような不逞の輩は糾弾の対象となるのだ。
 その行き着く先は例えば障害学だ。もちろん、障害者差別はなくさなければならない。しかし、それは障害があるからといって他の能力や個性を否定してはならないということであり、だからこそ合理的配慮が求められるのだ。ところがこのポモ流障害学では、障害がない方がいいという「健常主義」を批判し、障害こそアイデンティティとして慶賀すべきと論ずる。その挙げ句、肥満は健康に悪いから?せた方がいいと助言する医者を肥満に対するヘイトだと糾弾するファットスタディーズなるものまで登場するのだ。もちろん、これは冗談ではない。
 いやほんとに冗談ではないのだ。ポリコレのコードに引っ掛かったら首が飛ぶ。本書にはその実例がてんこ盛りだ。そしてその列の最後尾には、本訳書を出版した早川書房の担当者が、訳者山形浩生の嫌味な解説を同社のサイトに載っけた途端に批判が集中し、あえなく謝罪して削除したという一幕が追加されたわけだ。まことに「社会正義」はいつも正しい。めでたしめでたし(何が)。     

(参考までに)

上記書評の最初と最後で触れた訳者山形浩生の嫌味な解説(削除されたもの)と、全面的に謝罪しながらこれを削除した早川書房の編集者氏のツイートを、参考までに挙げておきます。

https://archive.is/2022.11.15-133517/https://www.hayakawabooks.com/n/n3856ec404c2f

訳者解説

1 はじめに

本書はHelen Pluckrose and James Lindsay 『Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity—and Why This Harms Everybody』(2020年)の全訳だ。翻訳にあたっては出版社からのPDFとハードカバー版を参照している。

2 本書の背景

本書は、ここ10年ほどで欧米、特にアメリカで猛威をふるうようになったポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)、あるいは「社会正義」運動の理論と、その思想的源流についてまとめた本だ。
現在のアメリカでは、一部の「意識の高い」人々による変な主張がやたらにまかりとおるようになっている。少なくとも、それを目にする機会はずいぶん増えた。性別は自分で選べるといって、女子スポーツに生物学的な男性が出たりする。大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される。大学で非白人学生による単位や成績の水増し要求を断ると、白人による抑圧の歴史を考慮しない差別だと糾弾される。
批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それがまったくの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。
それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか奨励されるという異常な事態すら起きつつある。身近なところでは白人が日本の着物を着れば(あるいは黒人が日本アニメのコスプレをしたら)それが(ほとんどの日本人は気にしないか、むしろおもしろがっていても)関係ない第三者により文化盗用だと糾弾され、他文化の要素を採り入れたデザイナーや企業が謝罪に追い込まれる事態も頻発している。
さらにこうした事態に対して科学的知見に基づく反論をすると、各種科学や数学はすべて植民地帝国主義時代の白人男性が開発したものだから、それを持ち出すこと自体が差別への加担だ、と変な逆ギレをされ、この理屈がいまやカリフォルニア州の算数公式カリキュラムの基盤となりつつある。
そして2022年夏には科学分野で有数の権威を持つ『ネイチャー』誌までこうした運動に入り込まれ、今後はマイノリティのお気持ちに配慮しない、つまり「社会正義」に都合の悪い論文は却下するという公式方針(! !)を打ち出し、中世暗黒時代の再来かと嘆かれている始末だ。いったい何が起きているのか? 何がどうよじれると、こんな変な考えがはびこり、表舞台にまで浸透するようになるのか?
本書はこうした「社会正義」の様々な潮流を総覧して整理してみせる。そしてその源流が、かつてのポストモダン思想(日本では「ニューアカデミズム」とも呼ばれたフランス現代思想)の歪んだ発展にあるのだと指摘する。それが、過去数世紀にわたる飛躍的な人類進歩をもたらした、普遍性と客観性を重視するリベラルで啓蒙主義的な考え方を完全に否定する明確に危険なもので、これを放置するのは分断と敵対、自閉と退行につながりかねないと警鐘を鳴らす。

3 著者たちについて

ジェームズ・リンゼイは1979年生まれ、アメリカの数学者であり、また文化批評家でもある。ヘレン・プラックローズはイギリスの作家・評論家だ。いずれも、リベラリズムと言論の自由を強く支持し、本書に挙げられたような社会正義運動と、それに伴う言論弾圧やキャンセルカルチャーについては強く批判する立場を採る。
どちらも、いろいろ著作や活動はある。だが二人が有名になったのは何よりも、2017~2018年に起こった通称「不満スタディーズ事件」のおかげだ。
哲学研究者ピーター・ボゴシアンとともに、この二人はカルチュラル・スタディーズ、クィア研究、ジェンダー研究、人種研究等の「学術」雑誌(もちろん本書で批判されている各種分野のもの)にデタラメな論文を次々に投稿し、こうした学術誌の査読基準や学問的な鑑識眼、ひいてはその分野自体の学術レベルの低さを暴こうとした。「ペニスは実在せず社会構築物である」といった、明らかにバカげた論文が全部で20本作成・投稿され、途中で企みがバレたものの、その時点ですでに七本が各誌に受理・掲載されてしまった。もちろんこれは1995年にポストモダン系学術誌に物理学者アラン・ソーカルらがでたらめ論文を投稿したソーカル事件(後ほど少し説明する)を明確に意識していたものだったし、この事件も「ソーカル二乗」スキャンダルなどと呼ばれたりする。
この事件で各種現代思想/社会正義研究(少なくともその刊行物)のデタラメさ加減が見事に暴かれた、と考える人は多い。その一方で、ソーカル事件のときとまったく同じく、「手口が汚い」「学者の良心を信じる善意につけこんだ下品な手口」「はめられた雑誌は業界で最弱の面汚しにすぎず、何の証明にもならない」「主流派の焦りを示す悪意に満ちた詐術であり、これ自体がマイノリティ攻撃の差別言説だ」といった擁護論もたくさん登場した。首謀者の一人ボゴシアンは、この一件が不正研究に該当すると糾弾され(だまされた雑誌が「人間の被験者」であり、人間を研究対象とするときの倫理ガイドラインに違反した、とのこと)、勤務先のポートランド州立大学からの辞職に追い込まれている。
その残りの二人が、おそらくはこの事件を直接的に受けてまとめたのが本書となる。

4 本書の概要

本書の最大の功績の一つは、多岐にわたる「社会正義」の各種「理論」を、まがりなりにも整理し、多少は理解可能なものとしてまとめてくれたことにある。
こうした「社会正義」の理論と称するものの多くは、とんでもなく晦渋だ。文字を追うだけでも一苦労で、なんとか読み通しても変な造語や我流の定義が説明なしに乱舞し、その理論展開は我田引水と牽強付会の屁理屈まがいに思える代物で、ほぼ常人の理解を超えている。それをわざわざ読んで整理してくれただけでも、実にありがたい話だ。
さらに一般的には、一応はまともな肩書きを持つ学者たちによる「理論」が、そんなおかしなものだとはだれも思っていない。読んでわからないのは自分の力不足で、理論そのものは難解だけれど、まともなのだろう、世の中で見られる異常な活動の多くは、末端の勇み足なのだろう、というわけだ。
が、実はだれにも理解できないのをいいことに、そうした「理論」自体が、まさに常軌を逸した異常なものと化している場合があまりに多い。それを本書は如実に明らかにしてくれる。
では、本書の指摘する各種理論の変な部分はどこにあるのだろうか? そのあらすじを以下でざっとまとめておこう。
フェミニズム、批判的人種理論、クィア理論等々の個別理論については、ここで細かくまとめる余裕はないので本文を参照してほしい。だが、本書によればそうした理論のほとんどは同じ構造を持ち、その歴史的な源流も同じなのだ。こうした様々な「思想」の基本的な源流はかつてのポストモダン思想にあるという。
で、そのポモ思想って何?

ポモ思想は、本書の認識では左派知識人の挫折から生まれたやけっぱちの虚勢だ。1960年代の社会主義(学生運動)の破綻で、左翼系知識人の多くは深い絶望と挫折を感じ、資本主義社会にかわる現実的な方向性を打ち出せなくなった。その幻滅といじけた無力感のため、彼らは無意味な相対化と極論と言葉遊びに退行した。それがポストモダン思想の本質だった、という。
そのポモ思想によれば世界は幻想だ。客観的事実などは存在せず、すべてはその人や社会の採用する思考の枠組みや見方次第だ。だから資本主義社会の優位性も、ただの幻想なんだよ、と彼らは述べる。
そして、その思考の枠組み(パラダイムとか、エピステーメーとか「知」とかいうとカッコいい)は社会の権力関係により押しつけられる。それは社会の言説(ディスクール、というとカッコいい)としてあらわれるのだ。その中にいるパンピーは、知らぬ間にそうした枠組みに組み込まれてしまい、それがありのままの客観的な世界だと思い込んでいる。そして人々がその支配的な言説に基づき行動/発言すること自体が、まさにその枠組みを強化し、延命させるのだ。
つまりオメーらみんな、口を開いた瞬間に権力に加担している。えらいアタマのいい、言語に対するシャープな批判力を養い、社会を超越した視線を持つ自分たちだけが、その欺瞞に気づけるし、資本主義の幻想の中で右往左往するだけのオメーらのバカさ加減を認識できるんだよ、というのがポストモダニズムだ、と本書は述べる。
ふーん、それで? 資本主義社会が幻想ならどうしろと? それに代わるものをこの理屈は提出できない。その意味でポモ思想は、左翼がかった高踏的なインテリどもの知的お遊びにすぎなかった。やがてその遊びのネタが次第に尽き、自己参照的な言葉遊びに堕すと、こうした知的お遊戯自体が無内容で非建設的なものとして逆に嘲笑の対象と化した。現代思想業界の雑誌が、本物の科学者たちの捏造した無内容なインチキ論文を嬉々として採用してバカにされた1995年のソーカル事件は、そうした社会的な認識の現れでもある。
が、それと前後してポモ思想に飛びついた人々がいた。それが活動家たちだ。活動家たちも、20世紀後半には壁にぶちあたっていた。女性の抑圧や植民地主義、人種差別といった社会の問題は、当初は資本主義社会の抱える本質的な問題と思われていた。社会主義は、資本主義がそういう搾取の上に成立しているのだ、自分たちはそれを解決する、と主張し続けてきた。それを信じて、多くの社会活動家は社会主義、マルクス主義的な立場からの活動を続けてきた。
が……社会主義の惨状と崩壊で、その立場も崩れてきた。一方で啓蒙思想とリベラリズムが広がるとともに、こうした問題も次第に資本主義の枠内で改善してきた。もちろん完璧ではない。地域差もある。だが20世紀半ばまでに、こうした問題のフォーマルな面はかなり解消された。それにつれて多くの社会活動家たちの活動範囲もどんどんせばまった。しかも残された差別の多くは、社会的な慣習、惰性、初期条件の差から来る創発的なもので、政治的な発言力などではなかなかどうにかできるものではないし……
そこにあらわれたのがポモ思想だ。そこでは、各種の抑圧や差別は、社会全体における権力関係として、人々の「知」の構造の中にはびこるものとなる。それを表現するのが言説であり、そしてその言説が繰り返されると「知」は強化され、そこに内在する差別や抑圧はますます強まる。それを何とかしない限り、形式的な法律だの規制だのをいくらいじったところで、各種社会問題は何も解決しないのである! 社会の正義を実現するためには、社会全体の言説と「知」のあり方を変えねばならない!
だがこれは、一瞬で言葉狩りと思想統制と人民裁判へと転じかねない発想だ。差別的な発言を探して糾弾し、それを述べた人物を吊し上げて、言説を発する立場(つまりは職場など)から追い落とすことで言説の権力構造を変える──まさに現在はびこりつつあるキャンセルカルチャーそのものだ。
そして……抑圧者、権力者たちは自分たちに都合のいい、差別を構造化した知/言説を構築し、そこに安住しすぎているが故に、そうした権力構造をそもそも認識できない。それを認識できるのは、排除され、抑圧されてきたが故にその欺瞞を実感している、被抑圧者、被差別者、弱者、他者、マイノリティたち……そしてもちろん、こうした思想や活動を学んで「社会正義」に目覚めた(Wokeな)意識の高い人たち(つまり自分たち)だけなのだ!
つまり自分たちだけが言葉狩りと思想統制の審問官になれる、というわけだ。だからこの人たちの癇にさわった(「トリガーした」)言説は、それだけで有罪確定だ。そこでは事実も論理も関係ない(それ自体が権力的な言説なのだから)。表面的な意味を越えて、そうした言説や表現の持つ構造的な含意にこそ差別があるのであり、それを検出できるのは被差別者や他者のお気持ちだけだ。それに反論するのはまさに、その反論者が差別構造に気づけない、つまりその人物が無自覚な(いやヘタをすると悪意に満ち)罪深い差別者である証拠だ。いやそれどころか、その反論自体が被抑圧者へのセカンドレイプでヘイトスピーチなのだ。
本書で挙げられた各種の「社会正義」理論の流派は、すべてこのパターンにあてはまる。そこでの「弱者」は何でもいい。女性、LGBT、黒人、マイノリティ、肥満者、身体障害者、病人、そしてそうした各種要因の無数の組み合わせ。歴史的経緯や主要論者の嗜好により多少の差はあれ、本書での説明ではどれもおおむね似たようなパターンをたどる。
そしてそのいずれでも、弱者アピールが何よりも正統性の根拠となる。差別されているというアイデンティティによってこそ、その人の「正義」と批判力は担保される。「社会正義」運動の多くが「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる所以だ。そしてこれは、往々にしてきわめて倒錯的な主張につながる。この発想からすれば差別をなくして対等な立場と平等性を実現しようとするのは、そうした弱者の特権性をつぶして既存権力構造に隷属させようとする差別的な口封じの陰謀になりかねない。病気を治療したり、マイノリティの教育水準を引き上げて社会的な不利をなくそうとしたりするのは、その人々の弱者としてのアイデンティティ否定だ!
差別をなくす、というのは本来、社会的な不利をなくす、ということだったはずだ。それが弱者アイデンティティの否定だというなら、これは差別をなくすために差別を温存すべきだ、というに等しい変な議論になりかねない。が、いまの「社会正義」理論の一部はまさにそういうものになり果てている。これは誰のための、何のための「正義」なのか、と本書は批判する。
マーティン・ルーサー・キングは、肌の色ではなくその中身で人が判断される時代を待望した。これは啓蒙主義とリベラリズムの思想で、あらゆる人を平等に扱おうとする。だが「弱者」に特権的な視点と判断力があり、その人たちのお気持ちだけを重視すべきで、そこに含まれない人々は目覚めていないんだからその主張は無視してよい、というこの「社会正義」の理論は、分断と対立を煽り、別の形で差別を温存させるだけだ。
そうした危険な動きの拡大には警戒すべきだ、と本書は述べる。アイデンティティを超える普遍的な価値観と万人の共通性を強調した、啓蒙主義とリベラリズムの立場を復活させるべきなのだ。だって、それが実際に社会の平等と公正を拡大してきたのはまちがいのない事実なのだから。そしてそのためには、本書で異様な「社会正義」理論を理解したうえで、それに対して筋の通った反論をしよう。
これまでは、「差別はいけません」といった漠然としたお題目のために、みんなこうした理論に正面きって反対するのを恐れてきた面がある。それがこうした「理論」をはびこらせてしまった。だが「社会正義」理論を否定するというのは、別に差別を容認するということではない。どこは認め、どこは受け入れないのかをはっきりさせて、決然とした対応を!

5 本書の受容とその後

当然ながら、本書はスティーブン・ピンカーをはじめ、啓蒙主義とリベラリズムを擁護し、その21世紀的な復権を主張する論者からはきわめて好意的に迎えられた。もちろん、著者二人の先人ともいうべき、ソーカル事件のアラン・ソーカルも絶賛している。「社会正義」サイドは、無理もないが本書を口をきわめてののしっていて、著者たちも執拗な攻撃を受けている。著者の一人リンゼイは、LGBT活動などをからかったツイートをやり玉にあげられて、2022年の8月5日にツイッターの垢バンをくらってしまった。
またこうした思想的な潮流よりは、社会経済的な背景が重要との指摘もある。学術界全般の悪しきこむずかしさ崇拝傾向に加え、アメリカの大学のほとんどが私学で、学費と寄付金のために生徒やその親の過激な主張に断固とした態度がとれないこと、つぶしのきかない人文系大卒者の激増と就職難に伴う「意識の高い」NGO急増のほうが主因だという説も出た。現代思想は彼らの方便でしかないというわけだ。これは一理あるが、その方便に気圧されないためにも、それが出てきた背景と中身を知っておくのは無駄ではない。
いずれにしても読者の評判はかなりよく、いくつかメジャー紙のベストセラーにランクインするほどの売上を見せている。『フィナンシャル・タイムズ』紙などの年間ベストブックにも選ばれた。こうした理論の冷静でわかりやすい概説書が欲しいというニーズは(おそらく支持者側とアンチ側の双方に)それなりにあったらしい。
そうした解説ニーズに応えるためか、2022年には本書をさらに噛み砕いた「読みやすいリミックス版」(Social (In)justice: Why Many Popular Answers to Important Questions of Race, Gender, and Identity Are Wrong—and How to Know What’s Right)も出版され、こちらもかなり好評だ。
そしておそらく、その後のアメリカの政治状況も、本書の好評とある程度は関係している。「社会正義」理論の弊害への懸念が2010年代末から高まっていたのはすでに述べた通り。それが本書登場の背景でもある。特に2020年に全米で吹き荒れた、黒人差別に抗議するBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動とそれに伴う騒乱は、社会に大きな傷痕を残し、それを「社会正義」的な思想の広まりがその暴走を煽ったという指摘もあった。つまりは、左派による「社会正義」理論の濫用が問題だということだ。
だがそこで奇妙な倒錯が生じた。2020年のヴァージニア州知事選で、共和党候補が批判的人種理論ことCRTの教育制限を公約に挙げた。「社会正義」の理論と、その教育現場への安易な導入こそが、人種分断を煽る大きな要因なのだという。だが実際に当選してから彼らがはじめたのは、きわめて穏健な人種差別教育や多様性教育の抑圧だった。そしてそれが、続々と他の州にも拡大し、同時にジェンダー教育などもCRTのレッテルの下に含めて潰そうとしつつある。つまり今度は右派による「社会正義」理論の(レッテルとしての)濫用が課題になってきたというわけだ。
こうしていまや「社会正義」理論は、一部の人しか知らない特異な社会運動理論から、政争ツール最前線にまで踊り出てしまった。好き嫌い(および肯定否定)を問わず、こうした議論の妥当性を判断する一助としても、思想や理論について、概略でも理解する必要性は高まっている。その意味で、本書のような見通しのよい解説書への需要は、今後当分続くのではないだろうか。

6 日本にとっての意義

日本では幸いなことに、本書の発端になったような異常な事件が頻発したりはしていないようだ。各種の思想や哲学系の雑誌で、「社会正義」的な思想の特集が組まれても、その思想自体が各種の運動を煽ったという事例は、寡聞にして知らない。「社会正義」的主張を掲げる抗議運動や、それを口実にした吊し上げやキャンセル活動は確かにある。
だが系統だったものは少なく、また多くの場合には本音の私的な遺恨や派閥抗争がだらしなく透けて見える。一方で受容側の企業や、かなり遅れてはいるが公的機関や大学なども、SNS炎上などの対処方法がだんだんわかってきた様子はうかがえる(基本、無視がいいようだ)。
だからおそらく読者の多くは、「社会正義」が生み出した変な運動の矢面に立たされることもないだろう(と祈っていますよ)。政治トピックに上がるとも思えないから、本書に述べられた個別理論の細部を理解する必要に迫られることもないだろう。本書への関心も、恐い物見たさの野次馬めいたものが大きいのではないか。
だが怪しげな理論の先鋭化と暴走が現実的な問題を引き起こす可能性は常にある。本書を通じてその現れ方を理解しておくのは、決して無駄にはならない。そしてそれ以上に、本当の社会正義や社会集団共存の実現は当然ながら必要なことだ。多くの人がそれを認識しているからこそ、異様な「社会正義」理論(またはその反動)がつけいる隙も生まれてしまう。
それを防ぐためには、その社会正義を自分自身がどう考えるのか、何を目指すのかについて、個人や組織が自分なりの基盤と筋を確立しておく必要がある(本書で懸念されている、「社会正義」の巣窟となりかねない企業や組織の多様性担当者といった役職は、本来はそうした基準の構築が仕事だろう。もちろんCRT禁止の旗印で常識的なジェンダーや多様性の教育まで潰されそうになったときにも、ある程度の知識があれば「これはCRTとちがう」と変な介入をはねかえして筋の通った対応をしやすくなる)。
そして本書や類書の最大の貢献はそこにあるはずだ。本書により「社会正義」理論のおかしな展開を見る中で、読者は自ずと自分にとって何が正しいかを考えるよう迫られるからだ。
それを一人でも多くの読者がやってくれれば、訳者(そしてまちがいなく著者たちも)冥利につきようというものだ。

7 謝辞など

翻訳は、前半を森本、後半を山形が行い、最終的に山形がすべてを見直している。

訳者たちはいずれも、こうした分野の専門家ではない。各種専門用語などは、なるべく慣用や定訳に従ったつもりだが、思わぬまちがいや各種理論・理屈の誤解などはあるかもしれない。また引用部分については、邦訳があるものはなるべく邦訳を参照したが(邦訳の該当ページは注を参照)、文脈その他に応じて修正した部分もそこそこある。誤訳、用語のまちがいなど、お気づきの点があれば、訳者までご一報いただければ、反映させていただく。そうした正誤表や関連リソースについては、以下のサポートページで随時更新する。https://cruel.org/books/books.html#translations
本書の編集は早川書房の一ノ瀬翔太氏が担当された。当方の様々な見落としをご指摘いただいたばかりか、太字や大文字表記などで特殊な概念を示した原著を、日本語での違和感のない表記法を編み出してわかりやすくしていただき、心より感謝する。そしてもちろん、本書を手に取ってくださる読者のみなさんにも。
 2022年9月 デン・ハーグにて

https://twitter.com/shotichin/status/1599788337015189504

『「社会正義」はいつも正しい』解説記事の公開を停止しました。私はテキストが持ちうる具体的な個人への加害性にあまりに無自覚でした。記事により傷つけてしまった方々に対して、深くお詫び申し上げます。記事の公開後、多くのご批判を社内外で直接・間接に頂き、問題を自覚するまでに一週間を要しました。結果、対応がここまで遅れてしまったことにつきましても、誠に申し訳ございません。取り返しのつくことではございませんが、今後の仕事に真摯に向き合い、熟慮を重ねてまいります。

61zlf6wghol277x400 毎月一回寄稿している『労働新聞』の書評ですが、今回はマルクスです。とはいえ、一筋縄ではいきませんよ。

https://www.rodo.co.jp/column/150864/

Marx_20230602202801  一昨年から毎月、書籍を紹介してきたが、今回の著者は多分一番有名な人だろう。そう、正真正銘あの髭もじゃのマルクスである。

Stalin  ただし、全50巻を超える浩瀚なマルクス・エンゲルス全集にも収録されていない稀覯論文である。なぜ収録されていないのか? それは、レーニンやとりわけスターリンの逆鱗に触れる中身だからだ。そう、マルクスを崇拝していると称するロシアや中国といった諸国の正体が、まごうことなき東洋的専制主義であることを、その奉じているはずのマルクス本人が、完膚なきまでに暴露した本であるが故に、官許マルクス主義の下では読むことが許されない御禁制の書として秘められていたわけである。

 本書の元論文がイギリスの新聞に連載されたのはクリミア戦争さなかの1856年。そんな19世紀の本が、いま新たに翻訳されて出版されるのは何故かといえば、いうまでもなく、歴史は繰り返しているからだ。今目の前で進行中のウクライナ戦争を理解するうえで最も役に立つのが、19世紀のマルクスの本だというのは何という皮肉であろうか。

Pyotr  マルクス曰く「タタールのくびきは、1237年から1462年まで2世紀以上続いた。くびきは単にその餌食となった人民の魂そのものを踏み潰しただけではなく、これを辱め、萎れさせるものであった」。「モスクワ国家が育まれ、成長したのは、モンゴル奴隷制の恐るべき卑しき学校においてであった。それは、農奴制の技巧の達人になることによってのみ力を集積した。解放された時でさえ、モスクワ国家は、伝統的な奴隷の役割を主人として実行し続けていた。長い時間の末、ようやくピョートル大帝は、モンゴルの奴隷の政治的技巧に、チンギス・ハンの遺言によって遺贈された世界征服というモンゴルの主人の誇り高き野望を結びつけた」。

Putin  ヨーロッパ国家として歩み始めたキエフ国家が滅び、タタールのくびきの下でアジア的な専制主義を注入されたモスクワ国家が膨張し、ロシア帝国を形成していく過程を描き出すマルクスの筆致は、ほとんどロシア憎悪にすら見える。もちろん彼が憎んでいるのはツァーリ専制の体制である。そしてそれがそのまま共産党支配下のスターリン専制に、今日のプーチン専制に直結している。

Xi_20230602203501  しかもその射程はロシアに留まらない。序文を書いているカール・ウィットフォーゲルの主著は『東洋的専制主義』で、彼がマルクスのロシア像の向こう側に透視しているのは皇帝専制の中華帝国であった。本書をいま刊行しようとした石井知章、福本勝清という二人の編訳者はいずれも現代中国研究者であり、天安門事件以来の中国共産党支配と習近平の専制政治を見つめてきた人たちである。

 訳者の一人福本は言う。「今日の世界情勢が告げていることは、専制主義は既に過去のものと考えることはできない、という事実である。…専制国家が世界史の動向を左右する、あるいは専制国家の振る舞いが周辺国家を脅かす、という可能性は今後も消えることはない。…今後、いかに強大な専制国家と対峙していくか、その非専制化への歩みをどのように促すのか、保守革新、左右両翼など従来の枠組みに関わりなく、問われている」。

余計な台詞ですが、マルクスのロシア帝国主義批判の本の書評が載っているメディアの名前が何処かの独裁国家の新聞名とそっくりなのも何かの皮肉でしょうか。

 

 

 

 

2023年6月 1日 (木)

カール・マルクス『一八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源』@『労働新聞』書評

61zlf6wghol277x400 毎月一回寄稿している『労働新聞』の書評ですが、今回はマルクスです。とはいえ、一筋縄ではいきませんよ。

https://www.rodo.co.jp/column/150864/

Marx_20230602202801  一昨年から毎月、書籍を紹介してきたが、今回の著者は多分一番有名な人だろう。そう、正真正銘あの髭もじゃのマルクスである。

Stalin  ただし、全50巻を超える浩瀚なマルクス・エンゲルス全集にも収録されていない稀覯論文である。なぜ収録されていないのか? それは、レーニンやとりわけスターリンの逆鱗に触れる中身だからだ。そう、マルクスを崇拝していると称するロシアや中国といった諸国の正体が、まごうことなき東洋的専制主義であることを、その奉じているはずのマルクス本人が、完膚なきまでに暴露した本であるが故に、官許マルクス主義の下では読むことが許されない御禁制の書として秘められていたわけである。

 本書の元論文がイギリスの新聞に連載されたのはクリミア戦争さなかの1856年。そんな19世紀の本が、いま新たに翻訳されて出版されるのは何故かといえば、いうまでもなく、歴史は繰り返しているからだ。今目の前で進行中のウクライナ戦争を理解するうえで最も役に立つのが、19世紀のマルクスの本だというのは何という皮肉であろうか。

Pyotr  マルクス曰く「タタールのくびきは、1237年から1462年まで2世紀以上続いた。くびきは単にその餌食となった人民の魂そのものを踏み潰しただけではなく、これを辱め、萎れさせるものであった」。「モスクワ国家が育まれ、成長したのは、モンゴル奴隷制の恐るべき卑しき学校においてであった。それは、農奴制の技巧の達人になることによってのみ力を集積した。解放された時でさえ、モスクワ国家は、伝統的な奴隷の役割を主人として実行し続けていた。長い時間の末、ようやくピョートル大帝は、モンゴルの奴隷の政治的技巧に、チンギス・ハンの遺言によって遺贈された世界征服というモンゴルの主人の誇り高き野望を結びつけた」。

Putin  ヨーロッパ国家として歩み始めたキエフ国家が滅び、タタールのくびきの下でアジア的な専制主義を注入されたモスクワ国家が膨張し、ロシア帝国を形成していく過程を描き出すマルクスの筆致は、ほとんどロシア憎悪にすら見える。もちろん彼が憎んでいるのはツァーリ専制の体制である。そしてそれがそのまま共産党支配下のスターリン専制に、今日のプーチン専制に直結している。

Xi_20230602203501  しかもその射程はロシアに留まらない。序文を書いているカール・ウィットフォーゲルの主著は『東洋的専制主義』で、彼がマルクスのロシア像の向こう側に透視しているのは皇帝専制の中華帝国であった。本書をいま刊行しようとした石井知章、福本勝清という二人の編訳者はいずれも現代中国研究者であり、天安門事件以来の中国共産党支配と習近平の専制政治を見つめてきた人たちである。

 訳者の一人福本は言う。「今日の世界情勢が告げていることは、専制主義は既に過去のものと考えることはできない、という事実である。…専制国家が世界史の動向を左右する、あるいは専制国家の振る舞いが周辺国家を脅かす、という可能性は今後も消えることはない。…今後、いかに強大な専制国家と対峙していくか、その非専制化への歩みをどのように促すのか、保守革新、左右両翼など従来の枠組みに関わりなく、問われている」。

余計な台詞ですが、マルクスのロシア帝国主義批判の本の書評が載っているメディアの名前が何処かの独裁国家の新聞名とそっくりなのも何かの皮肉でしょうか。

 

 

 

2023年5月16日 (火)

ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』

0000000150832_exbxt8c 労働新聞の3月6日号でジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターの『反逆の神話』を取り上げたので、同じヒースのこの本を読んでみました。

あまり短期間に同じ著者の本を取り上げるのもどうかと思ったので、労働新聞の書評には使いませんが、読んでそのままにしておくのももったいない本なので、心覚え的に。

本書の内容については、早川書房のサイトに公開されている訳者のあとがきに委ねて、

https://www.hayakawabooks.com/n/ne204b2e91a2f

本書を読みながら思ったのは、前半部分でこれでもかこれでもかとばかりにクラシックな啓蒙思想1.0のだめっぷりを書き連ねた挙げ句に、しかしそれに代わって出てきた右翼左翼両側のどうしようもないブタのような非合理主義の席捲に対して、賽の河原に石の塔を積み上げるかのように正気を取り戻すべくあれこれと考えていくその姿は、実は低劣なポピュリズムに叩かれてはそこまで墜ちて行きたがる日本の進歩派と言われる人々に爪の垢を煎じて飲ませたくなるような内容です。

ま、理性よりも情緒に訴える方が票につながる政治の世界では、啓蒙思想などと口走った瞬間に、「なにっ、啓蒙だとっ?私たちを無知蒙昧だとでも云うのか!可哀想な我々の蒙昧を啓いて下さるとでも云うつもりか!偉そうなことを云いやがってふざけるな!差別だ、許せない!」という次第になるだけでしょうけど。

 

 

2023年5月11日 (木)

ヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』@『労働新聞』書評

31grvfxfusl_sx343_bo1204203200_ 例によって『労働新聞』に月一回連載している書評コラム、今回はヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)です。

https://www.rodo.co.jp/column/149699/

 近年何かと騒がしいポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の源流から今日の蔓延に至る展開をこの一冊で理解できる。そして、訳者が皮肉って付けたこの邦題が、版元の早川書房の陳謝によって自己実現してしまうという見事なオチまでついた。
 ポリコレの源流は、意外にも正義なんて嘲笑っていたポストモダン(ポモ)な連中だった。日本でも40年くらい前に流行ってましたな。脱構築だの、全ては言説のあわいだとか言って、客観的な真実の追求を嘲弄していた。でもそれは20世紀末には流行らなくなり、それに代わって登場したのが、著者が応用ポストモダニズムと呼ぶ社会正義の諸理論だ。
 たとえばポストコロニアル理論では、植民地支配された側が絶対的正義であり、客観的と称する西洋科学理論は人種差別を正当化するための道具に過ぎない。ポモの文化相対主義が定向進化して生まれたこの非西洋絶対正義理論は、中東アフリカの少女割礼(クリトリス切除)を野蛮な風習と批判する人道主義を帝国主義的言説として糾弾する。
 たとえばクィア理論では、ジェンダーだけではなくセックスも社会的構築物だ。その結果、日本でも最近起こったように、男性器を付けたトランス女性が女湯に入ってくることに素直な恐怖心を表明した橋本愛が、LGBT差別だと猛烈な攻撃を受けて心からの謝罪を表明するに至る。もちろん、ジェンダーは社会的構築物だし、ジェンダー規範の強制が女性たちを抑圧している姿はイランやアフガニスタンに見られるとおりだが、ポモ流相対主義が定向進化すると、それを生物学的なセックスと区別することを拒否するのだ。
 そのジェンダースタディーズも、交叉性フェミニズムという名の被害者ぶり競争に突っ走る。批判的人種理論と絡み合いながら、白人男性は白人男性ゆえに最低であり、客観的なその言説を抑圧すべきであり、黒人女性は黒人女性ゆえに正義であり、どんな主観的な思い込みでも傾聴すべきという(ねじけた)偉さのランキングを構築する。いや黒人女性でも、それに疑問を呈するような不逞の輩は糾弾の対象となるのだ。
 その行き着く先は例えば障害学だ。もちろん、障害者差別はなくさなければならない。しかし、それは障害があるからといって他の能力や個性を否定してはならないということであり、だからこそ合理的配慮が求められるのだ。ところがこのポモ流障害学では、障害がない方がいいという「健常主義」を批判し、障害こそアイデンティティとして慶賀すべきと論ずる。その挙げ句、肥満は健康に悪いから?せた方がいいと助言する医者を肥満に対するヘイトだと糾弾するファットスタディーズなるものまで登場するのだ。もちろん、これは冗談ではない。
 いやほんとに冗談ではないのだ。ポリコレのコードに引っ掛かったら首が飛ぶ。本書にはその実例がてんこ盛りだ。そしてその列の最後尾には、本訳書を出版した早川書房の担当者が、訳者山形浩生の嫌味な解説を同社のサイトに載っけた途端に批判が集中し、あえなく謝罪して削除したという一幕が追加されたわけだ。まことに「社会正義」はいつも正しい。めでたしめでたし(何が)。     

(参考までに)

上記書評の最初と最後で触れた訳者山形浩生の嫌味な解説(削除されたもの)と、全面的に謝罪しながらこれを削除した早川書房の編集者氏のツイートを、参考までに挙げておきます。

https://archive.is/2022.11.15-133517/https://www.hayakawabooks.com/n/n3856ec404c2f

訳者解説

1 はじめに

本書はHelen Pluckrose and James Lindsay 『Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity—and Why This Harms Everybody』(2020年)の全訳だ。翻訳にあたっては出版社からのPDFとハードカバー版を参照している。

2 本書の背景

本書は、ここ10年ほどで欧米、特にアメリカで猛威をふるうようになったポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)、あるいは「社会正義」運動の理論と、その思想的源流についてまとめた本だ。
現在のアメリカでは、一部の「意識の高い」人々による変な主張がやたらにまかりとおるようになっている。少なくとも、それを目にする機会はずいぶん増えた。性別は自分で選べるといって、女子スポーツに生物学的な男性が出たりする。大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される。大学で非白人学生による単位や成績の水増し要求を断ると、白人による抑圧の歴史を考慮しない差別だと糾弾される。
批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それがまったくの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。
それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか奨励されるという異常な事態すら起きつつある。身近なところでは白人が日本の着物を着れば(あるいは黒人が日本アニメのコスプレをしたら)それが(ほとんどの日本人は気にしないか、むしろおもしろがっていても)関係ない第三者により文化盗用だと糾弾され、他文化の要素を採り入れたデザイナーや企業が謝罪に追い込まれる事態も頻発している。
さらにこうした事態に対して科学的知見に基づく反論をすると、各種科学や数学はすべて植民地帝国主義時代の白人男性が開発したものだから、それを持ち出すこと自体が差別への加担だ、と変な逆ギレをされ、この理屈がいまやカリフォルニア州の算数公式カリキュラムの基盤となりつつある。
そして2022年夏には科学分野で有数の権威を持つ『ネイチャー』誌までこうした運動に入り込まれ、今後はマイノリティのお気持ちに配慮しない、つまり「社会正義」に都合の悪い論文は却下するという公式方針(! !)を打ち出し、中世暗黒時代の再来かと嘆かれている始末だ。いったい何が起きているのか? 何がどうよじれると、こんな変な考えがはびこり、表舞台にまで浸透するようになるのか?
本書はこうした「社会正義」の様々な潮流を総覧して整理してみせる。そしてその源流が、かつてのポストモダン思想(日本では「ニューアカデミズム」とも呼ばれたフランス現代思想)の歪んだ発展にあるのだと指摘する。それが、過去数世紀にわたる飛躍的な人類進歩をもたらした、普遍性と客観性を重視するリベラルで啓蒙主義的な考え方を完全に否定する明確に危険なもので、これを放置するのは分断と敵対、自閉と退行につながりかねないと警鐘を鳴らす。

3 著者たちについて

ジェームズ・リンゼイは1979年生まれ、アメリカの数学者であり、また文化批評家でもある。ヘレン・プラックローズはイギリスの作家・評論家だ。いずれも、リベラリズムと言論の自由を強く支持し、本書に挙げられたような社会正義運動と、それに伴う言論弾圧やキャンセルカルチャーについては強く批判する立場を採る。
どちらも、いろいろ著作や活動はある。だが二人が有名になったのは何よりも、2017~2018年に起こった通称「不満スタディーズ事件」のおかげだ。
哲学研究者ピーター・ボゴシアンとともに、この二人はカルチュラル・スタディーズ、クィア研究、ジェンダー研究、人種研究等の「学術」雑誌(もちろん本書で批判されている各種分野のもの)にデタラメな論文を次々に投稿し、こうした学術誌の査読基準や学問的な鑑識眼、ひいてはその分野自体の学術レベルの低さを暴こうとした。「ペニスは実在せず社会構築物である」といった、明らかにバカげた論文が全部で20本作成・投稿され、途中で企みがバレたものの、その時点ですでに七本が各誌に受理・掲載されてしまった。もちろんこれは1995年にポストモダン系学術誌に物理学者アラン・ソーカルらがでたらめ論文を投稿したソーカル事件(後ほど少し説明する)を明確に意識していたものだったし、この事件も「ソーカル二乗」スキャンダルなどと呼ばれたりする。
この事件で各種現代思想/社会正義研究(少なくともその刊行物)のデタラメさ加減が見事に暴かれた、と考える人は多い。その一方で、ソーカル事件のときとまったく同じく、「手口が汚い」「学者の良心を信じる善意につけこんだ下品な手口」「はめられた雑誌は業界で最弱の面汚しにすぎず、何の証明にもならない」「主流派の焦りを示す悪意に満ちた詐術であり、これ自体がマイノリティ攻撃の差別言説だ」といった擁護論もたくさん登場した。首謀者の一人ボゴシアンは、この一件が不正研究に該当すると糾弾され(だまされた雑誌が「人間の被験者」であり、人間を研究対象とするときの倫理ガイドラインに違反した、とのこと)、勤務先のポートランド州立大学からの辞職に追い込まれている。
その残りの二人が、おそらくはこの事件を直接的に受けてまとめたのが本書となる。

4 本書の概要

本書の最大の功績の一つは、多岐にわたる「社会正義」の各種「理論」を、まがりなりにも整理し、多少は理解可能なものとしてまとめてくれたことにある。
こうした「社会正義」の理論と称するものの多くは、とんでもなく晦渋だ。文字を追うだけでも一苦労で、なんとか読み通しても変な造語や我流の定義が説明なしに乱舞し、その理論展開は我田引水と牽強付会の屁理屈まがいに思える代物で、ほぼ常人の理解を超えている。それをわざわざ読んで整理してくれただけでも、実にありがたい話だ。
さらに一般的には、一応はまともな肩書きを持つ学者たちによる「理論」が、そんなおかしなものだとはだれも思っていない。読んでわからないのは自分の力不足で、理論そのものは難解だけれど、まともなのだろう、世の中で見られる異常な活動の多くは、末端の勇み足なのだろう、というわけだ。
が、実はだれにも理解できないのをいいことに、そうした「理論」自体が、まさに常軌を逸した異常なものと化している場合があまりに多い。それを本書は如実に明らかにしてくれる。
では、本書の指摘する各種理論の変な部分はどこにあるのだろうか? そのあらすじを以下でざっとまとめておこう。
フェミニズム、批判的人種理論、クィア理論等々の個別理論については、ここで細かくまとめる余裕はないので本文を参照してほしい。だが、本書によればそうした理論のほとんどは同じ構造を持ち、その歴史的な源流も同じなのだ。こうした様々な「思想」の基本的な源流はかつてのポストモダン思想にあるという。
で、そのポモ思想って何?

ポモ思想は、本書の認識では左派知識人の挫折から生まれたやけっぱちの虚勢だ。1960年代の社会主義(学生運動)の破綻で、左翼系知識人の多くは深い絶望と挫折を感じ、資本主義社会にかわる現実的な方向性を打ち出せなくなった。その幻滅といじけた無力感のため、彼らは無意味な相対化と極論と言葉遊びに退行した。それがポストモダン思想の本質だった、という。
そのポモ思想によれば世界は幻想だ。客観的事実などは存在せず、すべてはその人や社会の採用する思考の枠組みや見方次第だ。だから資本主義社会の優位性も、ただの幻想なんだよ、と彼らは述べる。
そして、その思考の枠組み(パラダイムとか、エピステーメーとか「知」とかいうとカッコいい)は社会の権力関係により押しつけられる。それは社会の言説(ディスクール、というとカッコいい)としてあらわれるのだ。その中にいるパンピーは、知らぬ間にそうした枠組みに組み込まれてしまい、それがありのままの客観的な世界だと思い込んでいる。そして人々がその支配的な言説に基づき行動/発言すること自体が、まさにその枠組みを強化し、延命させるのだ。
つまりオメーらみんな、口を開いた瞬間に権力に加担している。えらいアタマのいい、言語に対するシャープな批判力を養い、社会を超越した視線を持つ自分たちだけが、その欺瞞に気づけるし、資本主義の幻想の中で右往左往するだけのオメーらのバカさ加減を認識できるんだよ、というのがポストモダニズムだ、と本書は述べる。
ふーん、それで? 資本主義社会が幻想ならどうしろと? それに代わるものをこの理屈は提出できない。その意味でポモ思想は、左翼がかった高踏的なインテリどもの知的お遊びにすぎなかった。やがてその遊びのネタが次第に尽き、自己参照的な言葉遊びに堕すと、こうした知的お遊戯自体が無内容で非建設的なものとして逆に嘲笑の対象と化した。現代思想業界の雑誌が、本物の科学者たちの捏造した無内容なインチキ論文を嬉々として採用してバカにされた1995年のソーカル事件は、そうした社会的な認識の現れでもある。
が、それと前後してポモ思想に飛びついた人々がいた。それが活動家たちだ。活動家たちも、20世紀後半には壁にぶちあたっていた。女性の抑圧や植民地主義、人種差別といった社会の問題は、当初は資本主義社会の抱える本質的な問題と思われていた。社会主義は、資本主義がそういう搾取の上に成立しているのだ、自分たちはそれを解決する、と主張し続けてきた。それを信じて、多くの社会活動家は社会主義、マルクス主義的な立場からの活動を続けてきた。
が……社会主義の惨状と崩壊で、その立場も崩れてきた。一方で啓蒙思想とリベラリズムが広がるとともに、こうした問題も次第に資本主義の枠内で改善してきた。もちろん完璧ではない。地域差もある。だが20世紀半ばまでに、こうした問題のフォーマルな面はかなり解消された。それにつれて多くの社会活動家たちの活動範囲もどんどんせばまった。しかも残された差別の多くは、社会的な慣習、惰性、初期条件の差から来る創発的なもので、政治的な発言力などではなかなかどうにかできるものではないし……
そこにあらわれたのがポモ思想だ。そこでは、各種の抑圧や差別は、社会全体における権力関係として、人々の「知」の構造の中にはびこるものとなる。それを表現するのが言説であり、そしてその言説が繰り返されると「知」は強化され、そこに内在する差別や抑圧はますます強まる。それを何とかしない限り、形式的な法律だの規制だのをいくらいじったところで、各種社会問題は何も解決しないのである! 社会の正義を実現するためには、社会全体の言説と「知」のあり方を変えねばならない!
だがこれは、一瞬で言葉狩りと思想統制と人民裁判へと転じかねない発想だ。差別的な発言を探して糾弾し、それを述べた人物を吊し上げて、言説を発する立場(つまりは職場など)から追い落とすことで言説の権力構造を変える──まさに現在はびこりつつあるキャンセルカルチャーそのものだ。
そして……抑圧者、権力者たちは自分たちに都合のいい、差別を構造化した知/言説を構築し、そこに安住しすぎているが故に、そうした権力構造をそもそも認識できない。それを認識できるのは、排除され、抑圧されてきたが故にその欺瞞を実感している、被抑圧者、被差別者、弱者、他者、マイノリティたち……そしてもちろん、こうした思想や活動を学んで「社会正義」に目覚めた(Wokeな)意識の高い人たち(つまり自分たち)だけなのだ!
つまり自分たちだけが言葉狩りと思想統制の審問官になれる、というわけだ。だからこの人たちの癇にさわった(「トリガーした」)言説は、それだけで有罪確定だ。そこでは事実も論理も関係ない(それ自体が権力的な言説なのだから)。表面的な意味を越えて、そうした言説や表現の持つ構造的な含意にこそ差別があるのであり、それを検出できるのは被差別者や他者のお気持ちだけだ。それに反論するのはまさに、その反論者が差別構造に気づけない、つまりその人物が無自覚な(いやヘタをすると悪意に満ち)罪深い差別者である証拠だ。いやそれどころか、その反論自体が被抑圧者へのセカンドレイプでヘイトスピーチなのだ。
本書で挙げられた各種の「社会正義」理論の流派は、すべてこのパターンにあてはまる。そこでの「弱者」は何でもいい。女性、LGBT、黒人、マイノリティ、肥満者、身体障害者、病人、そしてそうした各種要因の無数の組み合わせ。歴史的経緯や主要論者の嗜好により多少の差はあれ、本書での説明ではどれもおおむね似たようなパターンをたどる。
そしてそのいずれでも、弱者アピールが何よりも正統性の根拠となる。差別されているというアイデンティティによってこそ、その人の「正義」と批判力は担保される。「社会正義」運動の多くが「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる所以だ。そしてこれは、往々にしてきわめて倒錯的な主張につながる。この発想からすれば差別をなくして対等な立場と平等性を実現しようとするのは、そうした弱者の特権性をつぶして既存権力構造に隷属させようとする差別的な口封じの陰謀になりかねない。病気を治療したり、マイノリティの教育水準を引き上げて社会的な不利をなくそうとしたりするのは、その人々の弱者としてのアイデンティティ否定だ!
差別をなくす、というのは本来、社会的な不利をなくす、ということだったはずだ。それが弱者アイデンティティの否定だというなら、これは差別をなくすために差別を温存すべきだ、というに等しい変な議論になりかねない。が、いまの「社会正義」理論の一部はまさにそういうものになり果てている。これは誰のための、何のための「正義」なのか、と本書は批判する。
マーティン・ルーサー・キングは、肌の色ではなくその中身で人が判断される時代を待望した。これは啓蒙主義とリベラリズムの思想で、あらゆる人を平等に扱おうとする。だが「弱者」に特権的な視点と判断力があり、その人たちのお気持ちだけを重視すべきで、そこに含まれない人々は目覚めていないんだからその主張は無視してよい、というこの「社会正義」の理論は、分断と対立を煽り、別の形で差別を温存させるだけだ。
そうした危険な動きの拡大には警戒すべきだ、と本書は述べる。アイデンティティを超える普遍的な価値観と万人の共通性を強調した、啓蒙主義とリベラリズムの立場を復活させるべきなのだ。だって、それが実際に社会の平等と公正を拡大してきたのはまちがいのない事実なのだから。そしてそのためには、本書で異様な「社会正義」理論を理解したうえで、それに対して筋の通った反論をしよう。
これまでは、「差別はいけません」といった漠然としたお題目のために、みんなこうした理論に正面きって反対するのを恐れてきた面がある。それがこうした「理論」をはびこらせてしまった。だが「社会正義」理論を否定するというのは、別に差別を容認するということではない。どこは認め、どこは受け入れないのかをはっきりさせて、決然とした対応を!

5 本書の受容とその後

当然ながら、本書はスティーブン・ピンカーをはじめ、啓蒙主義とリベラリズムを擁護し、その21世紀的な復権を主張する論者からはきわめて好意的に迎えられた。もちろん、著者二人の先人ともいうべき、ソーカル事件のアラン・ソーカルも絶賛している。「社会正義」サイドは、無理もないが本書を口をきわめてののしっていて、著者たちも執拗な攻撃を受けている。著者の一人リンゼイは、LGBT活動などをからかったツイートをやり玉にあげられて、2022年の8月5日にツイッターの垢バンをくらってしまった。
またこうした思想的な潮流よりは、社会経済的な背景が重要との指摘もある。学術界全般の悪しきこむずかしさ崇拝傾向に加え、アメリカの大学のほとんどが私学で、学費と寄付金のために生徒やその親の過激な主張に断固とした態度がとれないこと、つぶしのきかない人文系大卒者の激増と就職難に伴う「意識の高い」NGO急増のほうが主因だという説も出た。現代思想は彼らの方便でしかないというわけだ。これは一理あるが、その方便に気圧されないためにも、それが出てきた背景と中身を知っておくのは無駄ではない。
いずれにしても読者の評判はかなりよく、いくつかメジャー紙のベストセラーにランクインするほどの売上を見せている。『フィナンシャル・タイムズ』紙などの年間ベストブックにも選ばれた。こうした理論の冷静でわかりやすい概説書が欲しいというニーズは(おそらく支持者側とアンチ側の双方に)それなりにあったらしい。
そうした解説ニーズに応えるためか、2022年には本書をさらに噛み砕いた「読みやすいリミックス版」(Social (In)justice: Why Many Popular Answers to Important Questions of Race, Gender, and Identity Are Wrong—and How to Know What’s Right)も出版され、こちらもかなり好評だ。
そしておそらく、その後のアメリカの政治状況も、本書の好評とある程度は関係している。「社会正義」理論の弊害への懸念が2010年代末から高まっていたのはすでに述べた通り。それが本書登場の背景でもある。特に2020年に全米で吹き荒れた、黒人差別に抗議するBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動とそれに伴う騒乱は、社会に大きな傷痕を残し、それを「社会正義」的な思想の広まりがその暴走を煽ったという指摘もあった。つまりは、左派による「社会正義」理論の濫用が問題だということだ。
だがそこで奇妙な倒錯が生じた。2020年のヴァージニア州知事選で、共和党候補が批判的人種理論ことCRTの教育制限を公約に挙げた。「社会正義」の理論と、その教育現場への安易な導入こそが、人種分断を煽る大きな要因なのだという。だが実際に当選してから彼らがはじめたのは、きわめて穏健な人種差別教育や多様性教育の抑圧だった。そしてそれが、続々と他の州にも拡大し、同時にジェンダー教育などもCRTのレッテルの下に含めて潰そうとしつつある。つまり今度は右派による「社会正義」理論の(レッテルとしての)濫用が課題になってきたというわけだ。
こうしていまや「社会正義」理論は、一部の人しか知らない特異な社会運動理論から、政争ツール最前線にまで踊り出てしまった。好き嫌い(および肯定否定)を問わず、こうした議論の妥当性を判断する一助としても、思想や理論について、概略でも理解する必要性は高まっている。その意味で、本書のような見通しのよい解説書への需要は、今後当分続くのではないだろうか。

6 日本にとっての意義

日本では幸いなことに、本書の発端になったような異常な事件が頻発したりはしていないようだ。各種の思想や哲学系の雑誌で、「社会正義」的な思想の特集が組まれても、その思想自体が各種の運動を煽ったという事例は、寡聞にして知らない。「社会正義」的主張を掲げる抗議運動や、それを口実にした吊し上げやキャンセル活動は確かにある。
だが系統だったものは少なく、また多くの場合には本音の私的な遺恨や派閥抗争がだらしなく透けて見える。一方で受容側の企業や、かなり遅れてはいるが公的機関や大学なども、SNS炎上などの対処方法がだんだんわかってきた様子はうかがえる(基本、無視がいいようだ)。
だからおそらく読者の多くは、「社会正義」が生み出した変な運動の矢面に立たされることもないだろう(と祈っていますよ)。政治トピックに上がるとも思えないから、本書に述べられた個別理論の細部を理解する必要に迫られることもないだろう。本書への関心も、恐い物見たさの野次馬めいたものが大きいのではないか。
だが怪しげな理論の先鋭化と暴走が現実的な問題を引き起こす可能性は常にある。本書を通じてその現れ方を理解しておくのは、決して無駄にはならない。そしてそれ以上に、本当の社会正義や社会集団共存の実現は当然ながら必要なことだ。多くの人がそれを認識しているからこそ、異様な「社会正義」理論(またはその反動)がつけいる隙も生まれてしまう。
それを防ぐためには、その社会正義を自分自身がどう考えるのか、何を目指すのかについて、個人や組織が自分なりの基盤と筋を確立しておく必要がある(本書で懸念されている、「社会正義」の巣窟となりかねない企業や組織の多様性担当者といった役職は、本来はそうした基準の構築が仕事だろう。もちろんCRT禁止の旗印で常識的なジェンダーや多様性の教育まで潰されそうになったときにも、ある程度の知識があれば「これはCRTとちがう」と変な介入をはねかえして筋の通った対応をしやすくなる)。
そして本書や類書の最大の貢献はそこにあるはずだ。本書により「社会正義」理論のおかしな展開を見る中で、読者は自ずと自分にとって何が正しいかを考えるよう迫られるからだ。
それを一人でも多くの読者がやってくれれば、訳者(そしてまちがいなく著者たちも)冥利につきようというものだ。

7 謝辞など

翻訳は、前半を森本、後半を山形が行い、最終的に山形がすべてを見直している。

訳者たちはいずれも、こうした分野の専門家ではない。各種専門用語などは、なるべく慣用や定訳に従ったつもりだが、思わぬまちがいや各種理論・理屈の誤解などはあるかもしれない。また引用部分については、邦訳があるものはなるべく邦訳を参照したが(邦訳の該当ページは注を参照)、文脈その他に応じて修正した部分もそこそこある。誤訳、用語のまちがいなど、お気づきの点があれば、訳者までご一報いただければ、反映させていただく。そうした正誤表や関連リソースについては、以下のサポートページで随時更新する。https://cruel.org/books/books.html#translations
本書の編集は早川書房の一ノ瀬翔太氏が担当された。当方の様々な見落としをご指摘いただいたばかりか、太字や大文字表記などで特殊な概念を示した原著を、日本語での違和感のない表記法を編み出してわかりやすくしていただき、心より感謝する。そしてもちろん、本書を手に取ってくださる読者のみなさんにも。
 2022年9月 デン・ハーグにて

https://twitter.com/shotichin/status/1599788337015189504

『「社会正義」はいつも正しい』解説記事の公開を停止しました。私はテキストが持ちうる具体的な個人への加害性にあまりに無自覚でした。記事により傷つけてしまった方々に対して、深くお詫び申し上げます。記事の公開後、多くのご批判を社内外で直接・間接に頂き、 問題を自覚するまでに一週間を要しました。結果、対応がここまで遅れてしまったことにつきましても、誠に申し訳ございません。取り返しのつくことではございませんが、今後の仕事に真摯に向き合い、熟慮を重ねてまいります。

(念のため)

ちなみに、こういうことを言う人もいるので、

https://twitter.com/killjoy2thewld/status/1656795432612405248

また知識人(濱口桂一郎氏)がポリコレ腐しつつクィア理論やトランスに関する悪意ある言説を広めるってのを観測した
まあこの本取り上げてる時点で…って感じだけどさ…。

濱口氏実はお会いしてお話しさせていただいたことあるんだけど、コンタクトを取ったことがある人に後から信頼を削ぎ取られるようなことがあるたびに無力感を感じる

本書がそういう差別を煽動する悪辣な極右の際物本であるかどうかを、本書の最後の結論部分を引用して確認できるようにしておきます。

・人種差別はいまも社会問題だし、対応が必要だというのは認める

・批判的人種<理論>や交差性が、その対応の最も役に立つツールだとは認めない。人種問題は、可能な限り厳密な分析を通じて解決するのが最もよいと信じるから。

・人種差別は、人種に基づく個人や集団に対する偏見や差別的行為として定義されるし、そのようなものとして対応するのがよいと考える

・人種差別が言説を通じて社会に焼き込まれているとか、それが避けがたく、あらゆるやりとりの中に存在するからそれを見つけて糾弾すべきだとか、それがいつどこにでも存在し、あらゆるところに充満した偏在する制度的な問題の一部だ、とかいう話は認めない

・人種差別に対処する最もよい方法は、人種分類に社会的に対する重要性を復活させて、その重要性を極端に高めることだ、などとは考えない

・各人は、人種差別的な見方をしないという選択ができるし、またそうなるよう期待される。それにより人種差別は次第に低減し、珍しいものになり、お互いをまずは人間として見て、ある人種の一員かどうかは二の次になるだろうと考える。人種問題は、人種化された体験について正直に述べることで対処するのがよく、その一方で共通の目標と共有されたビジョンに向けて活動するべきだと考える。そして人種によって差別しないという原理は普遍的に尊重されるべきだと考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年3月30日 (木)

渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』@労働新聞書評

71ec9d7ekxl 例によって、『労働新聞』に月一で連載している書評ですが、今回は渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書)です。

https://www.rodo.co.jp/column/147391/

 戦国時代といえば、幕末と並んでNHK大河ドラマの金城湯池だ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑をはじめ、武田信玄、上杉謙信など英雄豪傑がこれでもかと活躍し、血湧き肉躍る華麗なる時代というのが一般認識だろう。だが、彼らの活躍の陰では、冷酷無惨な奴隷狩り、奴隷売買が横行していた。時代小説やドラマで形作られた戦国の華々しいイメージを修正するのに、この新書本はとても有効な解毒剤になる。

 戦国時代の戦争は、敵兵の首を取り恩賞をもらうだけが目的ではない。戦場での金目の物の略奪も重要な目的で、その中にはヒトを捕まえて売り飛ばすことも含まれていて、当時「乱取り」といった。『甲陽軍鑑』によれば、川中島の戦いで武田軍は越後国に侵入し、春日山城の近辺に火を放ち、女や子供を略奪して奴隷として甲斐に連れ帰ったという。信濃でも、上野でも、武田軍は行く先々で乱取りを行っている。乱取りは恩賞だけでは不足な将兵にとって貴重な収入源であった。

 上杉軍も負けてはいない。上杉謙信が常陸の小田城を攻撃した時、落城直後の城下はたちまち人身売買の市場になったという。これは、謙信の指示によるものだと当時の資料にはっきり書かれている。城内には、周辺に住んでいた農民たちが安全を確保するために逃げ込んでいたのだが、彼らが一人20銭、30銭で売り飛ばされた。伊達政宗の軍も、島津義久の軍も、みんな乱取りをしていた。

 現在放映されている『どうする家康』では絶対に出てこないだろうが、大坂夏の陣で勝利した徳川軍は女子供を次々に捕まえて凱旋している。「大坂夏の陣図屏風」には、逃げ惑う敗残兵や避難民を徳川軍が略奪・誘拐・首取りする姿が描かれている。将兵は戦いに集中するよりも、ヒトや物の略奪に熱中していた。

 国内で奴隷狩り、奴隷売買が盛んな当時の日本は、彼らを外国に売り飛ばす国でもあった。豊臣秀吉は九州征伐の途上で、ポルトガル商人たちが日本人男女数百人を買い取り、手に鉄の鎖をつけて船底に追い入れている様を見て激怒し、イエズス会のコエリョと口論になったという。コエリョ曰く「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」。これがやがて秀吉による伴天連追放令の原因になるのだが、理屈からいえばコエリョが正しい。キリスト教徒を奴隷にすることを禁ずる西洋人にとって、非キリスト教徒が非キリスト教徒を奴隷として売ってくるのを買うのは何ら良心が傷まないことだったのだろう。

 伊東マンショら天正遣欧使節の4人の少年たちは、マカオなど行く先々で売られた日本人奴隷を見て心を痛めていた。千々石ミゲルはこう述べたという。「日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。我が民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった」と。

 英雄を称賛する大河ドラマには絶対に出ない戦国日本の恥部が、薄い新書本のここかしこに溢れている。テレビの後にご一読を。

 

 

 

 

2023年3月 2日 (木)

ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話』

61pollbop9l 『労働新聞』に毎月寄せている書評、今回はジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話』(ハヤカワノンフィクション文庫)です。

https://www.rodo.co.jp/column/145984/

 原題は「The Rebel Sell」。これを邦訳副題は「反体制はカネになる」と訳した。ターゲットはカウンターカルチャー。一言でいえば文化左翼で、反官僚、反学校、反科学、極端な環境主義などによって特徴付けられる。もともと左翼は社会派だった。悲惨な労働者の状況を改善するため、法律、政治、経済の各方面で改革をめざした。その主流は穏健な社会民主主義であり、20世紀中葉にかなりの実現を見た。

 ところが資本主義体制の転覆をめざした急進左翼にとって、これは労働者たちの裏切りであった。こいつら消費に溺れる大衆は間違っている! 我われは資本主義のオルタナティブを示さなければならない。そこで提起されるのが文化だ。マルクスに代わってフロイトが変革の偶像となり、心理こそが主戦場となる。その典型として本書が槍玉に挙げるのが、ナオミ・クラインの『ブランドなんかいらない』だ。大衆のブランド志向を痛烈に批判する彼女の鼻持ちならないエリート意識を一つひとつ摘出していく著者らの手際は見事だ。

 だが本書の真骨頂は、そういう反消費主義が生み出した「自分こそは愚かな大衆と違って資本が押しつけてくる画一的な主流文化から自由な左翼なんだ」という自己認識を体現するカウンターカルチャーのあれやこれやが、まさに裏返しのブランド志向として市場で売れる商品を作り出していく姿を描き出しているところだろう。そのねじれの象徴が、ロック歌手カート・コバーンの自殺だ。「パンクロックこそ自由」という己の信念と、チャート1位になる商業的成功との折り合いをつけられなかったゆえの自殺。売れたらオルタナティブでなくなるものを売るという矛盾。

 しかし、カウンターカルチャーの末裔は自殺するほど柔じゃない。むしろ大衆消費財より高価なオルタナ商品を、「意識の高い」オルタナ消費者向けに売りつけることで一層繁栄している。有機食品だの、物々交換だの、自分で服を作るだの、やたらにお金の掛かる「シンプルな生活」は、今や最も成功した消費主義のモデルだろう。日本にも、エコロジーな世田谷自然左翼というブルジョワ趣味の市場が成立しているようだ。

 彼ら文化左翼のバイブルの一つがイヴァン・イリイチの『脱学校の社会』だ。画一的な学校教育、画一的な制服を批判し、自由な教育を唱道したその教えに心酔する教徒は日本にも多い。それがもたらしたのは、経済的格差がストレートに子供たちの教育水準に反映されるネオリベ的自由であったわけだが、文化左翼はそこには無関心だ。

 本書を読んでいくと、過去数十年間に日本で流行った文化的キッチュのあれやこれやが全部アメリカのカウンターカルチャーの模造品だったと分かって哀しくなる。西洋的合理主義を脱却してアジアの神秘に身を浸して自己発見の旅に出るインド趣味のどれもこれも、伝統でも何でもなくアメリカのヒッピーたちの使い古しなのだ。その挙げ句がホメオパシーなど代替医療の蔓延による医療崩壊というのは洒落にならない。

 しかし日本はある面でアメリカの一歩先を行っているのかも知れない。反逆っぽい雰囲気の歌をアイドルに唱わせてミリオンセラーにする、究極の芸能資本主義を生み出したのだから。

Silentmajority

 

 

2023年2月 2日 (木)

エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』@労働新聞書評

81qdi3i0gul 817cpagxh3l 例によって、『労働新聞』連載の「書方箋 この本、効キマス」に、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)を取り上げました。

https://www.rodo.co.jp/column/144730/

 専制主義は古臭く、民主主義は新しい、とみんな思い込んでいるけれども、それは間違いだ。大家族制は古臭く、核家族は新しいとの思い込み、それも間違いだ。実は一番原始的なのが民主主義であり、核家族なのだ。というのが、この上下併せて700ページ近い大著の主張だ。いうまでもなく、新しいから正しいとか、古臭いから間違っているとかの思い込みは捨ててもらわなければならない。これはまずは人類史の壮大な書き換えの試みなのだ。
 トッドといえば、英米の絶対核家族、フランスの平等主義核家族、ドイツや日本の直系家族、ロシアや中国の共同体家族という4類型で近代世界の政治経済をすべて説明して見せた『新ヨーロッパ大全』や『世界の多様性』で有名だが、その空間論を時間論に拡大したのが本書だ。その核心は柳田国男の方言周圏論と同じく、中心地域のものは新しく周辺地域のものは古いという単純なロジックだ。皇帝専制や共産党独裁を生み出したユーラシア中心地域の共同体家族とは、決して古いものではない。その周辺にポツポツ残っているイエや組織の維持を至上命題とする直系家族の方が古いが、それも人類の歴史では後から出てきたものだ。ユーラシアの西の果てのブリテン島に残存した絶対核家族と、それが生み出す素朴な民主主義こそが、人類誕生とともに古い家族と社会の在り方の原型なのである。おそらく圧倒的大部分の人々の常識と真正面からぶつかるこの歴史像を証明するために、トッドは人類史の時空間を片っ端から渉猟する。その腕前はぜひ本書をめくって堪能してほしい。
 その古臭い核家族に由来する素朴で野蛮なアングロサクソン型民主主義がなぜ世界を席巻し、古代オリエント以来の膨大な文明の積み重ねの上に構築された洗練の極みの君主・哲人独裁制を窮地に追い詰めたのか、という謎解きもスリリングだ。英米が先導してきたグローバリゼーションとは、ホモ・サピエンス誕生時の野蛮さをそのまま残してきたがゆえの普遍性であり、魅力なのだという説明は、逆説的だがとても納得感がある。我々がアメリカという国に感じる「とても先進的なはずなのに、たまらなく原始的な匂い」を本書ほど見事に説明してくれた本はない。
 本書はまた、最近の世界情勢のあれやこれやをすべて彼の家族構造論で説明しようというたいへん欲張りな本でもある。父系制直系家族(イエ社会)のドイツや日本、韓国が女性の社会進出の代償として出生率の低下に悩む理由、黒人というよそ者を排除することで成り立っていたアメリカの脆弱な平等主義が差別撤廃という正義で危機に瀕する理由、共産主義という建前が薄れることで女性を排除した父系制大家族原理がますます露骨に出てきた中国といった、その一つだけで新書の一冊ぐらい書けそうなネタがふんだんに盛り込まれている。なかでも興味深いのは、原著が出た2017年にはあまり関心を惹かなかったであろうウクライナの話だ。トッドによれば、ロシアは専制主義を生み出す共同体家族の中核だが、ウクライナはポーランドとともに東欧の核家族社会なのだ。ウクライナ戦争をめぐっては勃発以来の1年間に膨大な解説がなされたが、この説明が一番腑に落ちた。

 

 

 

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