フォト
2025年5月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

書評

2025年4月24日 (木)

ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史』@『労働新聞』書評

9784309229430_200in01 9784309229447   月イチのはずの『労働新聞』書評ですが、諸事情のため、今月またまた掲載が回ってきました。今回はグローバルヒストリーの大御所ユヴァル・ノア・ハラリの新著です。

【書方箋 この本、効キマス】第109回 『NEXUS 情報の人類史』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著、柴田 裕之 訳/濱口 桂一郎

 世界中がおかしい。とりわけアメリカがおかしい。おかしいトランプ大統領が世界を振り回している。日本もおかしい。とりわけ大統領型で選ばれる知事や市長がおかしい。これは一体何が起こっているのか? 著者は、その近い原因をAI(人工知能)に、遠い原因を人類が生み出した共同主観に求める。だから本書は、アクチュアルな現代社会論であると同時にグローバルヒストリーでもあるのだ。

 情報とは、多くの人が誤解するように真実を映し出すものではなく、人々を共同主観的な虚構によって秩序付けるものだ。後から考えれば何の根拠もない虚構に踊らされて、多くの人の命を奪った事例は人類史に山のように見付けられる。近世初期のヨーロッパで『魔女への鉄槌』というデマ文書によって多くの人々が魔女として焼き殺された事例や、社会主義に敵対するクラーク(富農)という名のもとにスターリン体制下のソビエトで莫大な人々の命が奪われた事例は、共同主観的虚構の恐ろしさを物語る。

 だが、そういう蒙昧な時代は終わった、今や自由民主主義の天下が始まった、と、ソ連崩壊後の知識人は傲慢にも考えた。とんでもない。共同主観的な虚構の暴政は、人間が作る(紙や電波といった)メディアに頼って人間が意思決定する段階から、意思決定そのものを非有機的な存在――AIが担う段階に進みつつあるのだ。ここで注意しなければならないのは、知能は意識ではない点だ。AIは通俗SFで描かれるような意識はもたないが、決まったアルゴリズムに基づいて意思決定をする。真に恐るべきは、「ロボットの反乱」ではなく「魔法使いの弟子」なのだ。

 ミャンマーでロヒンギャの虐殺が行われた最大の原因は、フェイスブック上で、ロヒンギャへの憎悪を掻き立てる事実無根のヘイト動画が繰り返し閲覧され、拡散したことだという。なぜそうなったのか。フェイスブックの経営陣は、多くの閲覧数を獲得するようなコンテンツを優先して表示するアルゴリズムを組んでいた。ミャンマーで一番人気を博したコンテンツはロヒンギャ憎悪もので、AIは素直にヘイト動画ばかりを推奨した。検索するとヘイトコンテンツが並び、見る気のなかった人々も繰り返し見るうちにロヒンギャはとんでもない連中だと思うようになっていく。新興印刷術によって膨大な部数がまき散らされた『魔女への鉄槌』を読んだ近世人のように。事実に即してロヒンギャを擁護する投稿は、ずっと下位に位置付けられ、ほとんど見られなかった。かくして、ミャンマー人の共同主観は、フェイスブックのAIの意思決定によって、ロヒンギャ憎悪へ、虐殺へと動かされていった。これはアメリカ大統領選で、そして日本の昨今の知事選などで見られた現象を予告していたように見える。

 著者は希望を失わない。人類は自己修正メカニズムによって正道を保ってきた。しかし、それは人間が真実を認識し得る限りのことだ。AIにおいては、意思決定の理由が外から見えない。我われが直面しているのは、そういう時代なのだ。

 

 

 

 

2025年4月10日 (木)

J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』@『労働新聞』書評

817owjuk5pl_uf10001000_ql80_ 『労働新聞』の書評ですが、今回はJ.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』です。

https://www.rodo.co.jp/column/196246/

 今年2月、ホワイトハウスに招かれたウクライナのゼレンスキー大統領はアメリカのトランプ大統領と口論を繰り広げて合意が破談になったが、そのきっかけはヴァンス副大統領の「失礼だ」「感謝しないのか」という発言であった。トランプに輪をかけた暴れん坊っぷりを世界に示したヴァンス副大統領とはどういう人物なのか? それを語る彼自身による半生記が本書だ。2017年に第一次トランプ政権が発足したときに単行本として刊行され、その後文庫化された。その内容はすさまじいの一言に尽きる。

 彼の故郷オハイオ州ミドルタウンはかつて鉄鋼メーカーの本拠地だったが、その衰退とともにいわゆるラストベルトとなり、失業、貧困、離婚、家庭内暴力、ドラッグが蔓延する地域となっていた。彼の両親は物心のついたときから離婚しており、看護師の母親は、新しい恋人を作っては別れ、そのたびに鬱やドラッグ依存症を繰り返す。そして、ドラッグの抜き打ち尿検査で困ると、息子に尿を要求する。登場人物表には、「筆者の父親、および父親候補(母親の彼氏)たち」という項目があり、実父を始め6人の名前が列挙されている。おおむねろくでなしばかりだ。

 母親代わりの祖母ボニーが、彼の唯一のよりどころであり、窮地に陥った彼を助けてくれる全編を通しての天使役だが、彼女自身も十代で妊娠してケンタッキーから駆け落ちしてきた女性であり、貧困、家庭内暴力、アルコール依存症といった環境しか知らない。彼の育った環境を彼はこう描写する。

 「どこの家庭も混沌を極めている。まるでフットボールの観客のように、父親と母親が互いに叫び声を上げ、罵り合う。家族の少なくとも一人はドラッグをやっている。父親の時もあれば母親の時もあり、両方のこともあった。特にストレスが溜まっているときには、殴り合いが始まる。それも、小さな子どもも含めたみんなが見ているところで始まるのだ」。「子どもは勉強しない。親も子どもに勉強を求めない。だから子どもの成績は悪い。親が子どもを叱りつけることもあるが、平和で静かな環境を整えることで成績が上がるよう協力することはまずあり得ない。成績がトップクラスの一番賢い子たちですら、仮に家庭内の戦場で生き残ることができたとしても、進学するのはせいぜいが自宅近くのカレッジだ」。

 そんな環境で育ったヴァンスが、一念発起して海兵隊に入隊し、イラクに派兵され、帰国後オハイオ州立大学に入学し、さらにエリート校中のエリート校であるイェール大学ロースクールに進学するというのだから、絵に描いたようなサクセスストーリーともいえる。だが、彼はイェールで居心地の悪さを禁じ得ない。恋人ウシャに対して突発的にとってしまう暴言や乱暴な振る舞いの中に、彼は母親の姿を見てしまう。逆境的児童体験によるトラウマから脱却しようと試みる。とはいえ、彼は祖母の生き方に息づいているヒルビリー(田舎者)の精神が大好きだ。上流階級の匂いをプンプンさせている民主党が大嫌いなのだ。

 

 

 

 

 

2025年3月27日 (木)

奥山俊宏『秘密解除 ロッキード事件』

71bgexdemzl_ac_uf10001000_ql80_ 『労働新聞』の月イチ書評、今回取り上げたのは奥山俊宏『秘密解除 ロッキード事件』(岩波現代文庫)です。

https://www.rodo.co.jp/column/194923/

 ロッキード事件と言っても、多くの読者にとっては歴史上の事件だろう。筆者は当時高校生であったが、田中角栄元首相が逮捕されるに至る日々のテレビや新聞の報道は今なお記憶に残っている。田中が逮捕された頃、『中央公論』に田原総一朗の「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というルポが載った。父が買ってきたその雑誌を読んで、ロッキード事件がアメリカの仕掛けた罠であり、独自の資源・エネルギー政策を試みた田中をアメリカが憎んだからだという見立てに感心したことを、半世紀後の今でも覚えている。

 ロッキード事件の真実とは何なのか? 今日に至るまで繰り返しロッキード本が刊行されてきていることからしても、それは日本人が常に問い続けてきた問題であった。これに対して、アメリカ政府が秘密指定を解除して公開された文書を徹底的に読み込んで、アメリカ側からの視点でロッキード事件を再構成してみせたのが、原著が刊行された2016年当時、朝日新聞記者であった奥山俊宏による本書である。彼は、ワシントンDCの国立公文書館や全米各地に散らばる各大統領図書館などで、膨大な資料の密林に分け入り、当時のアメリカ政府の中枢で何がどのように行われていたのかをリアルに再現する。

 その結果浮かび上がってきた姿は意外なものであった。アメリカ政府、とりわけニクソン、フォード政権で外交を担っていたキッシンジャーは田中角栄を嫌っていた。その嫌いっぷりは本書冒頭で繰り返し出てくる。ただし、それは田原の言う資源・エネルギー外交ゆえではなく、田中の粗野で粗雑なスタイルへの嫌悪感であった。とくに、日中国交回復に伴う日米安保条約の台湾条項問題で、「台湾条項は事実上消滅したということか」というメディアの問いに、勝手に「字句にこだわる必要もない」と答えたことに激怒したという。

 しかし、ロッキード事件そのものに対しては、アメリカ外交の闇を暴こうとする上院外交委員会多国籍企業小委員会(とりわけジェローム・ロビンソン)と、それを抑えようとするキッシンジャーらアメリカ政府とのせめぎ合いが激烈であった。田原の「虎の尾」説が成立する余地はない。もっとも、田中の名前はあるが中曽根の名前がないことを知って、心置きなく文書を日本の検察に渡したという可能性は否定しきれない。

 ところが、ロッキードで名前が出ながら無事だった他の政治家にとっては、「虎の尾」説はずっと心の中にわだかまっていたのではないか、というのが著者の見立てだ。とりわけ中曽根康弘は、三木武夫政権で自民党幹事長として真相解明を掲げながら、陰でアメリカ政府に対し「私は、合衆国政府がこの問題をもみ消すこと(MOMIKESU)を希望する」とのメッセージを送っていた。若き日には民族主義的であった中曽根が、アメリカ世界戦略の下で日本を「不沈空母」と呼ぶに至ったのは、アメリカの「虎の尾」を踏まないようにその行動に追従する道を選んだからではないか、というのだ。

 

 

 

 

2025年2月27日 (木)

ヴィリ・レードンヴィルタ『デジタルの皇帝たち』@『労働新聞』書評

1863183_20250226225001 月1回の『労働新聞』書評。今回はヴィリ・レードンヴィルタ『デジタルの皇帝たち』です。

【書方箋 この本、効キマス】第101回 『デジタルの皇帝たち』 ヴィリ・レートンヴィルタ 著/濱口 桂一郎|書評|労働新聞社

 タイトルの「デジタルの皇帝たち」(原題は「クラウド・エンパイアズ」なので、正確には「クラウドの諸帝国」)とは、GAFAといわれるデジタル巨大企業だ。アマゾン、アップル、グーグル、ウーバーといったグローバルに展開するプラットフォーム企業によって、我われの生活は支配されている。本書はここ数十年のその展開の歴史を興味深いエピソードを交えながら語る。
 これら諸帝国の出発点は、しかしながら現実世界の権力を嫌い、サイバー空間に自由と互恵を求める草の根的な民主的電子マーケットにあった。第2章「互恵主義」のジョン・バーロウが思い描いたバーチャル理想社会は、デジタル巨人企業の急成長とともに、著者が「ソ連2.0」と呼ぶ中央計画自由市場へと変貌を遂げてゆく。かつてソ連型社会主義が失敗したのは、当時のコンピュータのデータ処理能力では到底間に合わなかったからだ。ところが今や、GAFAのアルゴリズムは独占企業による完全市場を創り出してしまった。「完全な市場を実現する夢を見ながら、アイン・ランド作品の愛読者であったシリコンバレーのリバタリアンが、結局はソ連2.0を生み出しているのだとしたら、皮肉以外の何物でもない」と著者は言う。
 だが、彼が「帝国」の語に込めた意味合いは、第Ⅱ部「政治的制度」で明確になる。現在、各国の裁判所で処理される訴訟の件数よりも、デジタルプラットフォーム企業内部で処理される紛争の件数の方が多いのだ。そして、共産主義革命によって創り出された共産主義帝国と同様、デジタル革命によって生み出されたデジタル帝国は、かつて救済すると言っていた人民(プラットフォーム利用者)を搾取収奪の対象としていく。ジェフ・ベゾスの父ミゲルはカストロのキューバから逃げ出し、アメリカという新天地で活躍できたが、今世界中の電子マーケットを支配するアマゾンから逃げ出しても、顧客を奪われて無一文で放り出されるだけだ。
 されば、万国のインターネット労働者よ、団結せよ!「集合行為」と題された第9章と第10章は、帝国に反抗するデジタルプロレタリア階級(アマゾン・メカニカル・タークの就労者)とデジタル中産階級(アップル・ストアの出品者)の姿を描き出す。だが前者は絶望的だ。クリスティ・ミランドの訴えに呼応したターカーはほんの僅かだった。一方後者には希望がありそうだ。アップルはアンドリュー・ガズデッキーらの訴えを受けて、テンプレートやアプリ生成サービスを使って制作したアプリを却下するという方針を変えた
 著者は、「プラットフォーム独裁政治からプラットフォーム民主政治へと至る道」はブルジョワ革命だという。労働者と貴族の間に位置するアプリ開発者、オンライン販売業者、フリーランス専門家等々が、中世の市民と似た非公式の制度を生み出し、もちろんそんな「歴史の法則はない」が、もしかしたら民主化を実現するかもしれない、と。

 

 

2025年1月30日 (木)

楊海英『墓標なき草原』@『労働新聞』書評

81sk8qgzhkl_ac_uf10001000_ql80_ 5938613  『労働新聞』の月イチ書評コラム、今回は楊海英『墓標なき草原』(上・下)(岩波現代文庫)です。

【書方箋 この本、効キマス】第97回 『墓標なき草原(上・下)』 楊 海英 著/濱口 桂一郎

 日本の相撲界にはモンゴル人がたくさんいるが、そのなかには中国国籍の内モンゴル人もいる。蒼国来(現・荒汐親方)や大青山がそうだ。彼ら内モンゴル人が、中国の文化大革命時に死者5万とも10万とも言われる大虐殺(ジェノサイド)を被ったことをご存じだろうか。口を開けば人権を叫ぶ戦後進歩主義者たちがだんまりを決め込んできた、戦後世界で最大規模の大虐殺の詳細な姿が本書で描き出される。

 著者楊海英の両親をはじめとする親族の体験談から始まり、そのさまざまな縁者の経験が彼らへのインタビューを中心に展開されていく。これでもかこれでもかと繰り返される虐待、虐殺の描写はあまりにも凄惨なので、時々それ以上読み進められなくなる。たとえば下巻の第7章に登場する奇琳花は、モンゴル貴族の家系に生まれ、延安民族学院で学んだ筋金入りの中国共産党員であった雲北峰と結婚し、内モンゴル自治区政府直属機関の幹部となっていたのだが、自治区主席のウラーンフーの一味として激しい暴力にさらされた。

 「駅で降りた瞬間、無数の漢人農民たちが洪水のように襲ってきました。私は下半身が完全に破壊されて、血だらけになって歩けなくなりました。漢人農民たちは磨いたことのない黄色の歯を見せて笑っていました」。「拷問が毎日のように続いたため、一九六六年になると奇琳花の子宮が脱落してしまった」。「モンゴル人というだけで、女性たちは言葉ではいいつくせない虐待を日常的に漢人たちから受けていました。世界でほかにこんな残忍非道な例がありますか」。

 だが奇琳花はかろうじて生き残った。ほとんど全滅に近い虐殺が行われたのは下巻第10章以下で描かれるトゥク人民公社だ。何しろ生き残ったのは当時7歳の幼児だけなのだ。本書の章題にも「モンゴル人がいくら死んでも、埋める場所はある」とか「中国ではモンゴル人の命ほど軽いものはない」とか「モンゴル人が死ねば食糧の節約になる」といった漢人たちの捨て台詞が用いられている。

 なぜこんな虐殺が行われたのか。当時の中国はソ連と激しく対立し、その侵攻を恐れていた。同族の国モンゴルはソ連の先兵として攻めてくるかもしれない。そのとき、独立を希求しながら中国に無理やり併合された内モンゴル人たちは中国を裏切って敵と結託するかもしれない。だから、先手を打って内モンゴル人、とりわけその指導者となり得るエリート層を叩き潰しておかねばならない。物理的に。かくして、偉大な領袖毛沢東の命令によって、20世紀後半最大の虐殺劇が繰り広げられたというわけだ。今日新疆ウイグルやチベットで行われていることの源流は、半世紀前に内モンゴルで予行演習済みだったわけである。

 いまや、内モンゴル自治区人口2500万人のうち、モンゴル族は500万人と圧倒的少数派だ。本書から離れるが、最近の習近平政権下では、モンゴル語の授業を削減し、漢語教育を義務化する教育改革が行われ、抗議活動は徹底的に弾圧されたという。

 

2025年1月 9日 (木)

エマニュエル・トッド『西洋の敗北』@『労働新聞』書評

71tzv7pjh6l276x400 4年目に突入した『労働新聞』の書評欄、今年も月1回で進めて参りますので、よろしくお願いします。

さて、今年最初の「書方箋 この本、効キマス」は、エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(文藝春秋)です。

https://www.rodo.co.jp/column/189325/

 本欄でエマニュエル・トッドを取り上げるのは約2年ぶりだが、前回(参考記事=【書方箋 この本、効キマス】第4回 『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』エマニュエル・トッド 著/濱口 桂一郎)の本がトッド人類史の総括編であったのに対し、今回の本はロシア・ウクライナ戦争について世の常識と正反対の議論をぶちかまし、返す刀で米英をはじめとする西側諸国をめった斬りにするすさまじい内容である。なにしろ、ロシアは勝っているというのだ。ウクライナに対してだけではない。ウクライナを支援しているアメリカや西洋諸国に対して現に勝ちつつある。むしろ崩壊の寸前にあるのは米英の方であり、それに巻き込まれているヨーロッパ諸国だというのだ。

 トッドは別にプーチンが正義だなどといっているのではない。トッド流の家族構造による世界各国の絵解きからすると、ロシアは中国と同じ共同体家族だが、ウクライナは東欧では数少ない核家族型社会であって、ウクライナがロシア支配を嫌がるのは当然だ。しかし、地政学的にウクライナをロシアから引き剥がそうとする企てはウクライナに悲劇をもたらす。

 そこから話は西洋諸国への批判に向かう。西側の政治家や知識人はロシアの専制主義に対して西洋の自由民主主義が闘っていると思い込んでいるが、実は西洋のリベラル寡頭制とロシアの権威主義的民主主義との闘いなのだ。そして今崩壊の危機に瀕するのは西側諸国の方だ、というのが彼の主張である。彼が描き出すアメリカの姿は、不正義の勝利、知性の崩壊、そして能力主義の終わりによる寡頭制とニヒリズムの世界である。

 それゆえに、とトッドはいう。西洋(west)ではないその他(rest)の世界はみんなこの戦争でロシアの側に立っている。正義の西側ではなく大悪党のはずのロシアを支持しているのは、正義面している西洋が今までさんざんぱらその他の諸国を搾取してきたからだ。そして世界的には少数派に過ぎない家族構造の米英仏が、LGBTQなどの思想を強制することに苛立っているからだ。西側から見ればスキャンダラスに見えるプーチンの反LGBTQ政策は、世界の大部分の諸国にとってはあまりにもまっとうな考えであり、これこそがロシアの「ソフトパワー」だという。共産主義のソビエトが敵に回していたユーラシアの大部分の諸国にとって、プーチンの保守主義ロシアは何の心配もなく仲良くやれる「いい国」というわけだ。いや直系家族の日本でも、ラーム・エマニュエル駐日米国大使によるLGBTQの押しつけが保守主義の反発を生み出しているではないか、と。

 本書の原著は2023年7~9月に執筆されたが、邦訳はそれから1年以上経って刊行された。「日本語版へのあとがき」の中で彼は、本書は「未来予測の書」として書かれたが、今やウクライナの敗北は明確になり、本書はより古典的な意味で「歴史を説明する書」となったと語っている。これに反発する人も多いであろうが、喧伝された反転攻勢はうまくいかず、遂にアメリカでプーチンに親近感を隠さないトランプ大統領が再選した今、彼の本はいかに不愉快であろうが読まれなければならないはずである。

 

 

2024年11月 7日 (木)

足立啓二『専制国家史論』

4480098436 毎月1回のはずの『労働新聞』の書評ですが、時たま他の執筆者の都合等で前後することもあり、本来12月用だったものが先週に続いて今週掲載されました。足立啓二『専制国家史論』 (ちくま学芸文庫)です。

https://www.rodo.co.jp/column/186382/

 習近平政権の専制的傾向がますます強まり、中国の民主化の希望が遠のくにつれ、この専制的性質が中国という国家にとって本質的なものなのではないかという問題意識が世界的に高まってきている。中国史の専門家がこの課題に挑戦し、壮大な世界史像を練り上げたのが本書だ。ただし原著は鄧小平の死後間もない1998年刊行であり、その頃はまだ改革開放政策の真っ最中であった。文庫本化されたのが2018年であり、習近平が国家主席の任期制限を撤廃して終身独裁への道を開いた年である。それから7年経ち、今や明清朝の皇帝独裁にも比すべきワンマン体制は完成しつつあるように見える。そういう時期であるからこそ、本書は改めて読み返されるべきであろう。

 人類の歴史は狩猟採集のバンド社会から始まり、農耕化とともにやがて首長制に発展するが、しかしその後大きく分岐する。マルクス主義を始めとする単系発展理論では古代→中世封建社会→近代資本主義社会を人類普遍の法則視するが、それに真正面から反する実例が、建前上政府がマルクス主義を奉じていることになっている中国の歴史なのだ。なぜなら、日本やヨーロッパで近代社会の諸要素を育み生み出した中世の分権的封建社会という段階が存在しないからだ。殷周春秋期の首長制から古代専制国家を作り出した中国は、一度も封建制を経験することなく今日に至っている。そして、封建制を経験した日欧のような分権的資本主義ではなく、専制体制下の高度資本主義を実現しつつあるのだ。

 著者の中国認識のベースになっているのは、戦前に中国社会の実態を詳しく観察した諸研究である。それによると、イエやムラといった共同体が実体的な社会的存在である日本と異なり、中国社会には共同体が存在しないという。まずその境界がはっきりしない。共同事務もほとんどなく、紛争処理も自律的でない。公共的な事業は、有力者の慈善行為として行われる。自律的なムラを支配する自律的な封建領主ではなく、バラバラの個人を中央から派遣された科挙官僚が支配する体制だ。そういう社会だからこそ、西欧流の代表制的な政治体制は全く根付かず、国民党も共産党も党=国家体制を構築するしかなかったのだ、と著者は説く。

 こうした議論は、中国が経済成長を始める前であれば、オリエンタリズム的なアジア的停滞論だの宿命論だのと批判されたであろう。実際、ウィットフォーゲルの有名な『東洋専制主義』もそういう文脈で読まれたと思われる。しかしながら、今や日本の4.5倍のGDPを誇り、アメリカに迫りつつある中国の経済力を前にしては、むしろ逆の文脈すら有力である。与那覇潤の『中国化する日本』に見られるように、専制中国こそ世界の進化の主流であり、歴史の必然であって、「江戸」化した日本はむしろ進化の袋小路だという考え方が強まっている。

 しかし著者はそれに抗おうとする。彼は「社会を越えて自己運動を始めた資本を、再度社会の管理の中に埋め込むことが必要である。もしもそれが可能であるとするならば、現在までのところ、それをなしうるもっとも強い力は発達した共同体的規範能力を除いてはない」と述べて、本書を閉じるのである。

 

 

 

 

 

2024年10月31日 (木)

尾脇秀和『女の氏名誕生』@『労働新聞』書評

61buevqbyl_sl1200_245x400 毎月1回の『労働新聞』書評、今回は尾脇秀和『女の氏名誕生』(ちくま新書)です。ちょうど今朝の新聞に、「国連女性差別撤廃委、日本に夫婦別姓の導入を勧告」という記事が出ていたこともあり、ものごとを考える素材としても最適かと。

https://www.rodo.co.jp/column/185998/

 過去数十年にわたって夫婦別姓を巡ってさまざまな議論や訴訟が繰り返されている。今年6月には経団連が、選択的夫婦別姓の導入を要望して注目された。政治問題になってしまったこの問題について、しかしながら熱っぽく論じている人々の多くは、そもそも日本において女性の名前というものがいかなるものであったのかについて、きちんとした知識を有しているのだろうか。

 本書は、今日とまったく異なる江戸時代の女性の名前(苗字のない「お○○」型)が、明治維新直後の激動期を経て、近代的な「夫の苗字+○○子」型に移行していく過程を、膨大な名前に関する資料を駆使して浮彫りにしている。名前というのは誰もが最も身近に経験する現象だが、自分の身の回り以外についてはほとんど土地勘がない世界でもある。江戸時代の全国各地の宗門人別帳から明治維新期の戸籍や行政関係資料まで、膨大な女性名が溢れる本書は、ページをめくるごとに「そうだったのか!」という驚きに満ちている。

 そもそも「長谷川・平蔵・藤原・朝臣・宣以」といった「苗字+通称+氏+姓+名乗」型の男性名とまったく異なっていた「お・りん」といった苗字のない女性名が、明治維新期に「苗字+名乗」型に転換された男性名と同じ形式にはめ込まれる際に、その女性名の上に「夫の苗字」を載せるべきか「実家の氏」を載せるべきかが大問題となったのだ。その際、伊藤博文などは近世的な「イエ」の名称である「夫の苗字」の下に夫婦家族がまとまる形を主張したが、保守派はこれに断固反対し、女性はたとえ結婚しても古代的な「ウジ」の名称である「実家の氏」を称するべきだと主張した。結果は保守派の勝利で、明治7年に「婦女、人ニ嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユヘキ事。但、夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事」と、原則的夫婦別姓が内務省指令として発せられた。

 ところがこれは現場では多くの混乱をもたらし、地方からは女性も夫の苗字を称することができるようにしてほしいとの要望が殺到した。近代社会は近世「イエ」社会の延長線上であって、古代「ウジ」社会とは断絶している。観念的な保守派の「所生ノ氏」イデオロギーは、現実社会との間に無数の矛盾をもたらした。しかしこの内務省指令は、明治31年に「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」、「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と規定する明治民法の施行まで生きていたのである。

 当時地方からは繰り返し、妻は夫の苗字を称するのが通例で、生家の苗字を称するのはごくわずかなのに、内務省指令によって公文書だけ嫌々生家の氏を書かざるを得なくて皆困っているという訴えがされていた。それから100年以上の時が流れ、女性の社会進出が進み、結婚前の氏名を利用し続けることができず、改名を余儀なくされることの不利益が大きくなってきた。そのなかで、かつては空疎なウジイデオロギーに対する現実社会の要請であった夫婦同姓主義が、経団連の要望にも示される現実社会の要請に対してイデオロギー的に妨害する観念となったように見えることは、何とも皮肉なことである。

 女の氏名の歴史は膨大な驚きに満ちている。思い込みで語っている人々にこそ一読を勧めたい。

 

 

 

2024年10月 3日 (木)

渡辺将人『台湾のデモクラシー』

71zav6bwdl252x400 例によって、月1回の『労働新聞』書評です。

【書方箋 この本、効キマス】第83回 『台湾のデモクラシー』 渡辺 将人 著

 世界の200近い国には、自由で民主的な国もあれば、専制独裁的な国もある。イギリスのエコノミスト誌が毎年発表している民主主義指数では、第1位のノルウェーから始まって各国の格付けを行っているが、当然のことながら上位には欧米系諸国、下位にはアジア、アフリカ諸国が並ぶ。日本の周辺には、第165位の北朝鮮、第148位の中華人民共和国など、独裁国家が目白押しだ。しかしかなり上位に位置する国もある。韓国は第22位、日本は第16位で、イギリス(第18位)などと肩を並べる。そうか、アジアで一番民主的な日本でも第16位か、と勝手に思ってはいけない。実は、アジアで最も民主的な国は第10位の台湾なのである。

 これは、年配者にとっては意外な光景だろう。なぜなら、台湾を支配する中華民国は1987年まで戒厳令の下にあった典型的な専制国家だったのだ。それから40年足らずで世界に冠たるデモクラシーの模範国家となった台湾という国(正確には、世界のほとんどすべての国から国家承認を受けていないので、「国」ということすら憚られる状態なのだが、本稿では「国」で通す)の軌跡/奇跡は、どんな理論書にも増して民主主義を理解するうえで有用であろう。

 本書の著者はアメリカ政治の専門家で、新書本も含め10冊以上も関連書籍を出している。彼が台湾とかかわったのは、若い頃アメリカ民主党の大統領選挙陣営でアジア太平洋系の集票戦略を担当し、在米チャイニーズの複雑な分裂状況に直面したときだったという。そこから台湾政治とアメリカ政治の密接な関係を認識して、頻繁に訪台するようになり、民進党系、国民党系などさまざまな政治運動やマスメディアの研究に没頭していく。

 彼が注目するのは、アメリカ式の大規模な選挙キャンペーンだ。日本の報道でもよく流れたのでご存じの方も多いだろうが、「台湾の選挙に慣れすぎるとアメリカの選挙演説が静かで退屈にすら感じる」くらいなのだ。とりわけ他国に例を見ないのは屋外広告とラッピングバスだ。選挙時には交通機関の半分以上が候補者の顔で埋め尽くされる。実は筆者も2010年に国際会議に参加するため台北を訪れた際、目の前を走るバスがすべて候補者の顔になっているのを見て度肝を抜かれた思い出がある。アメリカ風からさらに定向進化した台湾風というべきか。

 台湾はデモクラシーだけでなく、リベラルでもアジアの最先進国だ。フェミニズムを国家権力が全力で弾圧する中国は言わずもがな、自由社会のはずの日本も保守派の抵抗でなかなか進まないリベラルな社会変革が、ほんの一世代前まで戒厳令下にあった国で進められていく。19年にアジアで初めて同性婚を認めた台湾は、トランスジェンダーのオードリー・タン(唐鳳)が閣僚になった初めての国でもあり、多様性と人権と市民的自由が花開いた東アジアのリベラルの橋頭堡である。本来ならば、日本のネトウヨ諸氏は専制中国でこそ居心地が良く、リベラル諸氏は台湾こそわが同志と思ってしかるべきではないかと思われるが、その代表格と目される鳩山由紀夫氏や福島瑞穂氏は中国の「火の海にする」という軍事的恫喝に諸手を挙げて賛同しているのだから、まことに拗れきった関係だ。

 

2024年8月 1日 (木)

和田泰明『ルポ年金官僚』書評

例によって、月1回の『労働新聞』書評です。

・・・・って、おや?先週載ったのにまた今週も?どうしたの?とお思いでしょうが、いや、執筆予定者にいろいろあったそうで、急遽順番を差し替えとなった次第。その辺柔軟に対応いたします。

9784492224168_1_4277x400 というわけで、本来9月に載るはずだった書評は、和田泰明『ルポ年金官僚』(東洋経済新報社)です。

https://www.rodo.co.jp/column/180800/

 著者は週刊ポストや週刊文春の記者として年金記事を書きまくり、20年前の国民年金保険料未納を巡る騒動のときには、小泉首相の未納情報を関係者から入手して記事にした当人でもある。そういう人がこのタイトルで書いた本とくれば、例によって扇情的な年金ポルノ本の類いだろうと思う人も多いだろう。ところがさにあらず、週刊誌的な筆致で書かれた本書は、誠に真っ当な戦後日本年金史でもあるのだ。

 年金本は大きく3つに分けられる。年金保険とは何かをよくわきまえた社会保障学者や政策関係者が書いた真っ当だが読んでもあんまり面白くない本。年金のなんたるかをわきまえない俗流経済学者や政治評論家が制度を知らないままに経済理論だけで書いた制度攻撃の本。そして週刊誌やテレビがまき散らす年金にかかわるあれこれのスキャンダル=年金ポルノだ。戦後日本年金史、とりわけ過去30年の波瀾万丈の歴史は、この3つの流れが政治的思惑のなかで拗れながら絡まり合って生み出されてきた。その年金ポルノの制作現場にいた著者が、くそ面白くもない年金制度をしっかりと勉強して、無知な学者や政治家による年金攻撃の愚かしさを浮彫りにしているのが本書なのだ。

 本書は小山進次郎局長による国民年金法制定、山口新一郎局長による1985年年金大改正(基礎年金導入)を劇的に一叙事詩の如く描く。通史では淡々と書かれるその政策過程が、数々の回想を重ね焼きしながら情緒的に描き出される。とりわけ司令官の「戦死」のシーンは圧巻だ。だが、その間に挟まれた横田陽吉局長による73年改正が、田中角栄と野党のイケイケドンドンに乗って年金の大盤振る舞いとグリーンピアを生み出し、後代への負債となったことにも注意を喚起する。

 1990年代後半から2010年代前半までの20年間は、制度に一知半解の経済学者がおいしいネタを見つけたとばかりに、一斉に年金の世代間不公平を言い立て、積立制度への移行を主張した時代であると同時に、グリーンピア、タレントや政治家の年金保険料未納問題、そして年金記録の持ち主不明(基礎年金番号へ統合されていない記録)5000万件問題が次から次に湧いてきて、国民の年金不信が高まり、野党の政府攻撃の絶好の材料になった時代であった。

 年金ポルノで名をはせた野党政治家たちが「抜本改革」の名でぶち上げた年金改革案は、彼らが政権の座に就くことによって化けの皮が剥がれる。「幼稚園児のお絵かき、論評に値しない一枚紙の絵、政策でも制度でもない政治的プロパガンダ」は、現実に直面した民主党政権自らによって紙くずのように葬り去られ、自民党への政権交代直前に真っ当な社会保障制度改革への道が再びつけられた。

 民主党政権の「戦果」は、扶養から外れても届出しなかったために保険料未納の主婦たちについて、長妻厚労相の指示により運用で3号被保険者と認めるいわゆる「運用3号」通達を出した年金局の課長を更迭して見せたことと、不祥事続きの社会保険庁を解体して日本年金機構に改組する際、民主党の選挙運動に長年汗をかいてきた社会保険庁の労働組合員たちを懲戒処分経験者として「分限免職」で報いたことくらいだった。

 

 

 

 

より以前の記事一覧