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雑件

2024年2月 8日 (木)

正義の味方は自己責任@労災保険

これはほんとに雑件です。

『労働経済判例速報』の令和6年1月30日号に「中央労働基準監督署長事件」(東京地判令和5年3月30日)が載っています。労災に関する裁判例ですが、事案が(労働法学的な意味ではなく、世間的な意味で)興味深いのでちょっと紹介。

本件の原告は、ファミレスに勤務する普通のサラリーマンなんですが、深夜帰宅途中、山手線車内で女性客に迷惑行為(要するに痴漢行為ですな)をしていた中年男に注意したところ、逆恨みしたそいつから跳び蹴りを受けて負傷したという事案です。もちろんそれはそれで刑事事件になるわけですが、警察が治療費を払ってくれるわけではない。問題はこの負傷が労災-正確には通勤災害-になるかです。通勤災害も労災と同様手厚い補償を受けられるのですが、その認定基準では、通勤とは関係のない逸脱や中断があると認められません。通勤の帰りに関係ないところに立ち寄ったりすると認定されないわけです。さて本件、通勤経路という意味では何ら逸脱していないわけで、通勤車内で蹴られたわけですが、その原因は彼がなまじ正義感を出して痴漢中年男に注意したりしたからなんですね。監督署はこれは通勤の中断中に起きたものだとして不支給決定したので、審査請求を経て彼は裁判に訴えたというわけです。

裁判所の結論は監督署と変わらず、棄却となりました。労働法学的には当然の結論ということになるのですが、通勤中に車内で痴漢野郎を見つけても、余計なことをしない方がいいということにならないといいですね。

2023年9月 7日 (木)

お気持ち傷つけ罪@中国

中国、国民の「感情を傷つける」服装の禁止を検討-法改正案公表

 中国では、国民の感情を害すると見なされる服装を理由に人々に罰金や懲役刑を科す法改正の可能性を巡り、国民が懸念を示している。
  全国人民代表大会(全人代、国会に相当)常務委員会はこのほど、「中国人の精神に害を及ぼし、中国人の感情を傷つける」服装や発言を含むさまざまな行為を禁じることを検討中とする法改正案を公表した。どのような行為が15日以下の拘留または5000人民元(約10万円)以下の罰金に当たるのか、具体的には明記されていない。この改正案は今年の優先事項の一つに挙げられている。
  法改正案は中国の習近平国家主席が就任以来10年強にわたり、インターネット検閲を強化するなど、市民の自由を締め付けてきたかを浮き彫りにしている。上海近郊の都市、蘇州の警察は昨年、公の場で日本の着物を着ていた女性を拘束した。中国は第2次世界大戦中の行動を巡り日本と長年確執があり、最近は東京電力福島第1原子力発電所の処理水海洋放出決定を受け、さらに悪化している。
  ここ1年に当局は、コンサートで虹柄のシャツを着たり、大学キャンパスで性的少数者(LGBTQ)を支持するシンボルの付いた旗を配ったりした人々を取り締まった。 

まあ、中国の場合は、その専制主義的体制からして、「国民」の感情というのは究極的には中国共産党のトップの感情ということになるので、そういう観点からの批判になるのでしょうが、そこを一旦括弧に入れて、「国民の感情を害すると見なされる服装」の禁止や刑罰といった点に着目すると、これは実は近年の先進諸国でも共通して見られるある現象の一つの極端な現れと捉えることもできそうな気がします。

むしろ、民主主義的な体制下においてこそ、ポピュリズム的に「国民みんなの気持ちを傷つけるようなこんな格好をしやがって」という思想が広がっていく可能性があるのではないかと。近年、日本でも「お気持ち傷つけ罪」が氾濫していますが、どこまで突き進んでいくことになるのか、心配です。

 

2023年7月 2日 (日)

専門知をふりかざし市民を圧倒する人は専門家と呼べない

朝日新聞記者のこのツイートがさんざん批判されていますが、

https://twitter.com/erika_asahi/status/1674254761049337856

素朴な異論や懸念を「わかってない!」と封じ込める光景にTwitter等でよく遭遇します。
そうした「専門知をふりかざし市民を圧倒する人は専門家と呼べない」と三牧聖子さん
@SeikoMimaki
「専門家は市民の痛みや苦しみに人一倍敏感でなければ」の指摘、いいね100万回以上です。

実は話はも少しねじれている。

というのも、少なくともここ半世紀くらいは、専門知をふりかざして市民の素朴な異論や懸念を封じ込める偉そうな奴らだとさんざん罵倒されてきたのが、朝日新聞や岩波書店のようなそれなりにアカデミックな知識でもって世を啓蒙しようという人々であり、そういう専門家の知った風な議論をせせら笑って「ぼくのかんがえたさいきょうの」議論を振り回してきたのがwillやhanadaな人々であったわけで、いやまあそういうのがお好きなら別に止めはしませんけれど、という感想が湧いてくるのを抑えられない。

いや私の言ってるのはネットに書き込むこともままならないような「市民の痛みや苦しみ」の話なんで、ネット上で聞きかじった一知半解の知識を振り回している天下無敵なド素人の皆さんのことじゃない、と言いたいんだろうけど、それをどこで区別できるかと言えば、区別のしようはないわけです。そういう人々だって、主観的にはまさしく「市民の痛みや苦しみ」に充ち満ちているのであって、それは偽物の「市民の痛みや苦しみ」であり、私が抱えている方が真正なる「市民の痛みや苦しみ」だなんて、超越的な神の目線に立っているのでない限り証明することは不可能でしょう。

もちろん、専門家の議論には専門家の議論である故の見落としや落とし穴があり得、それを素人の異論や懸念が見事にえぐり出すと言うこともあります。というか、いつもいつもそんなことがあるわけではないけれども、ときにはそんなこともないわけではない、という程度にはあり得る。

とはいえ、その素朴な異論や懸念が実は専門家の議論の盲点を鋭く突くものであるということを的確に判断し、その位置づけをきちんと説明できるためには、ホントの素人の手には余るのであって、少なくとも専門家の中で議論できる程度の専門的知識を持っている人でないといけないわけです。

非常にうまくいけば、専門家集団の中で主流の議論に疑問を感じている専門家がそういう素人の素朴な異論や懸念をうまくすくい上げて的確に言語化し理論化するということも、ないわけではないし、それが学問の発展につながるということもないわけではないけれども、でも、いつもいつもそういうわけにはいかないし、ましてや素人の異論や懸念だけでそんなうまい話になるなんてことはあり得ない。

そういうのを全部すっとばかして、素人の素朴な異論や懸念を祭り上げるようなことをいっていると、「ぼくのかんがえたさいきょうの」議論ばかりが世を覆うことになるでしょうけど、それでいいのかな、ということです。

 

2023年6月28日 (水)

トランス女性と女子大学

津田塾大学がトランス女性の入学を認めるというニュースに、何か違和感を感じたので、それを言語化してみました。

https://www.tsuda.ac.jp/news/2023/0623-02.html

津田塾大学では、2025年度入試(2025年4月に入学する学生が受験する入試)より多様な女性のあり方を尊重することを基本方針とし、女子大学で学ぶことを希望するトランスジェンダー学生(性自認による女性)にすべての学部、大学院研究科にて受験資格を認めることといたしました。

この基本方針は、1900年から女性に高等教育の学びの場を提供してきた本学の伝統を継承する、「Tsuda Vision 2030」のモットー「変革を担う、女性であること」を推進することでもあり、同時に、多様な価値観の共生を目指す社会の構築に貢献することでもあります。本学は、多様な女性の学ぶ権利を守り、共に学ぶ環境を整えてまいります。

性に多様性があるということを社会全体でどのように理解を進めていけるのか。多様な女性のあり方を包摂していく過程で、周縁に置かれている様々な女性たちがエンパワーされ、自らの力量を信じて真摯に前進していけるよう支援していく。それが、21世紀の女子大学のミッションであると考えます。

性の多様性を認めるということや、多様な性の在り方を差別しないということと、女子大学という存在を認めているということそのものの間に、論理的に解決すべき問題が存在しているのではないかと感じます。

そもそも、女子の入学を認めない男子大学は許されないのに、男子の入学を認めない女子大学の存在が認められているのは、ポジティブ・アクション、すなわちこれまでより不利益を蒙ってきた性別に対して積極的に優遇する差別は許されるという考え方によるものであるはずです。

実際、戦前は女性は大学に進学することができませんでしたし、今日においてもなお女性の四年制大学進学率は男性よりもかなり低い水準にあります。現状の判断については様々な議論があり得ますが、議論の筋からいえばそういうことです。

男性が自分が女子大に入学できないのは差別だと訴えても相手にされないのは、一般的には男性の方が女性より有利な立場にあるがゆえに、女性への優遇措置を甘受すべきであると考えられているからでしょう。

ところが、トランス女性はそういう意味において男性に比べて差別されているわけではありません。トランス女性が男性よりも優遇されるべきであると主張する根拠はないはずです。

トランス女性/男性は、シス女性/男性に比べて差別されているから差別を許すべきではない、という議論は、あくまでも比較対象はトランス対シスなのであって、トランス女性を男性一般よりも優遇すべきという理論的根拠にはなり得ないはずです。

津田塾大学は、これまで差別され不利益を蒙ってきた女性をより指導的地位に就けるように積極的差別を行うのは正当であるという理由に基づいて、男性の入学を拒否するという男性に対する差別を行うことが許されている存在であるはずですが、その正当化根拠とは異なる差別の線引きをするということになると、そもそも女子大学であるという存立根拠を危うくする可能性があるのではないかと思います。

ダイバーシティという言葉は便利ですが、便利であるがゆえに、多様性の中身を区別せずにごっちゃにして議論するということになると問題があります。

例えば、人種差別に対するポジティブアクションとして、大学の入学枠において黒人などの有色人種を優遇するということがあります。それ自体の是非はここでは論じませんが、仮にそれが正当だという立場に立ったとしても、それによって正当化されうるのは、男女共学の大学において黒人男女を優遇することと、女子大学において黒人女性を優遇することまでであって、白人女性の多い女子大学に黒人男性を入学させろという話にはならないはずです。

白人男性の入学が許されない女子大学に、黒人女性のみならず黒人男性までダイバーシティの証しとして入学させろなどと言い出したら、それは論理的に間違ったことであるはずです。

津田塾大学には萱野稔人さんという立派な哲学者がいるんですから、もう少しきちんと物事を理論的に考えて行動すべきではないかと思います。

(追記)

コメント欄の議論に対しての総括

*トランス女性が女性それ自体では「ない」ことは明らかであって、もし女性それ自体であってシス女性と何の違いも無いのならば、トランス女性をトランス差別の被害者であるとする根拠自体がなくなります。

差別根拠として男性であるか女性であるかというジェンダー差別の問題と、トランスであるかシスであるかという性的指向・性自認差別の問題は少なくとも別の軸の問題であって、それを意識的にか無意識的にかごっちゃにするような議論はおかしいといっているに過ぎません。

私は差別禁止論として性自認ゆえにトランスをシスとの関係で差別することを問題とする議論は理解できますが、もしそうであるなら、トランス女性はシス女性それ自体とは異なることが前提なのであり、それを全面的に否定する議論とはそもそも論理的に矛盾すると考えています。

*おそらく、ここで話が噛み合わない最大の理由は、そもそも女性差別である男子大学は許されないのに、男性差別である女子大学が許容されるのは,ポジティブ・アクションという積極的差別であるからである、というイロハのイの根本のことが理解されていないからなのでしょうね。

トランス女性が、身体的性別と精神的性自認が異なるトランスジェンダーであるという差別根拠に基づいて「ではなく」、もっぱら女性であるというセルフ・アイデンティティに基づいて、歴史的に身体的性別に基づいて差別されてきた女性にのみ認められた積極的差別たるポジティブ・アクションの権利を自分にも要求するということの根拠が見当たらない、という話なのです。ポジティブアクションとは、いわばこれまで女性だからという理由で差別されてきた身体的女性にのみ認められた特権なのであって、トランスだからといって差別されてきたかも知れないが女性だからといって差別されてきたわけではないトランス女性がそのお相伴にあずかるべき筋合いはないという話なのですが、そこがすっぽり頭の中から抜け落ちてしまっていると、こういうわけの分からない議論になるのでしょう。

*そうか、だんだん分かってきた。この人たちは、そもそも入口で男性のみ入れますとか女性のみ入れますということが、そもそも性別による差別であって許されないという差別禁止原則の一番根幹のことが頭の中にまったくなくって、男性のみ入れますでも女性のみ入れますでも、何でも許されるという大前提に立っているらしいのだな。

だとすると、何の問題もない男子のみ入れますという大学にトランス男性が入りたいということも当たり前のことであって、それと全く同様に、何の問題もない女子のみ入れますという大学にトランス女性が入りたいといってきているンだから入れればいいじゃないか、という思考回路になっているのでしょう。

しかし、だとすると、これはもはや差別の問題では無くなってしまうのだな。そもそも差別禁止原則が存在しない世界、男性のみでも女性のみでも何でも許される世界において、なぜか、ただ自らの性別アイデンティティのみが唯一絶対に尊重されるべきだという議論であって、正直付き合いきれない。

2021年12月23日 (木)

数学勢だけかとおもいきや、小学校算数勢だけだった話

まったくEUとも労働法とも関係ないけれども、世の中によくありがちな現象をいささか象徴的に示しているようで大変面白かったので

https://togetter.com/li/1819441("数学勢だけの習性のようです"(掛け算の順))

たぶん初めの人は、世の中はいささかおかしい「数学勢」とそれ以外すべてのまともな人からなると思い込んでいたようですが、実のところはむしろ、いささかおかしい「小学校算数勢」とそれ以外すべてのまともな人からなるというのが、より正確な病像であったということのようでありますね。

この話はもちろんこれだけの話なんですが、似たような状況は世の中のあちらこちらに結構転がっているような気がしないでもなく、威勢よく「ぼくのかんがえたさいきょうの」真理やら正義やらを振り回す前に、むこうが「数学勢」なんじゃなくって、こっちが「小学校算数勢」なんじゃないかと、ふと自省してみることも、それなりに意味のあることなのかもしれませんよ。

2021年9月15日 (水)

両方の旗を取られて・・・

もともと旧民主党には、小泉よりももっと構造改革!という(ネオ)リベラルな方向性と、格差是正だネオリベ反対だというソーシャルな方向性が、統一することなくねじれて併存していて、それこそ「敵の出方論」で都合良く出したり引っ込めたりしていたけれども、こういう事態になって、自民党の中の総裁候補が新自由主義からの転換を掲げたり、規制改革を掲げたりすると、どっちにしても埋没するんですね。

本音で言えば、もうひとりのナショナリズム全開でアベノミクス堅持の方に総裁になっていただいた方が選挙対策的にはありがたいんでしょうが、さすがにそれは・・・

2021年6月 4日 (金)

公衆衛生と健康の間

昨年来のコロナ禍で、医療分野の素人としてつらつら思ったこととして、世の中の風潮やそれに合わせた政策の流れが、かつて社会問題として深刻であり、国家の重要課題として取り組んでいた感染症対策などの公衆衛生という政策観点が薄れてきて、生活習慣病などの個人の健康管理に重点を置くようになってきたことが、今回のコロナ禍にこれほどの混乱を生じさせている一つの要因ではないのだろうかということです。

一部の市民団体がワクチン接種を目の仇にしてそれをマスコミが煽ったとか、一部の政治家が保健所をやたらに統廃合しただとか、エピソード的なことがいろいろと語られますが、それら表面に現われた諸現象を奥底で駆動していたのは、公衆衛生なんていう古くさい政策思想はさっさと脱ぎ捨てて、健康増進こそが21世紀の目指すべき姿だ、というような大きなうねりだったのではないのでしょうか。

それを象徴するように、かつて厚生省には医務局と並んで公衆衛生局というのがありましたが、今の厚生労働省で医政局と並ぶのは健康局という名前です。

こういうことを考える一つのきっかけとして、このシフトのミニチュア版としての、労働の場における衛生=健康対策のシフトがあります。こちらはなお組織名称は労働衛生課という昔ながらの名前ですが、やはりかつては職業病対策中心だったものが、21世紀になるころから職場の健康管理なんてことが重視されるようになってきました。これは、労災補償で過労死や過労自殺といった厚生サイドでは生活習慣病やメンタルヘルスといわれるような事柄が焦点になってくるという社会風潮のシフトを反映していたのですが、さらにマクロ社会的な公衆衛生から健康管理へというシフトをも反映していたように思います。こっちもときたま、アスベストのような古典的タイプの職業病(これはまさに塵肺の一種)が飛び出してきて、釘を刺すわけですが。

人口の高齢化や生活水準の高度化などで、古典的な公衆衛生の課題が切実さを感じられなくなり、人員や予算もあまり付かなくなり、代わって個人の健康増進が政策の目玉として打ち出されるようになるというのは、それ自体としてはやむを得ないというか、なかなかどうしようもないうねりなのだと思いますが、ときどき感染症が蔓延して釘を刺してくれないと、なかなか向きが変わらないのかも知れません。

 

2019年11月23日 (土)

「工業高校」と「工科高校」の違い

正直意味がよくわからないニュースです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186251000.html (「工業高校」を一斉に「工科高校」に変更へ 全国初 愛知県教委)

愛知県の教育委員会が、県立の「工業高校」13校の名称を、再来年4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたことが分かりました。科学の知識も学び、産業界の技術革新に対応できる人材を育成するのがねらいで、工業高校の名称を一斉に変更するのは全国で初めてだということです。 ・・・

いやまあ、高校の名称をどうするかは自由ですが、その理由がよくわからない。

・・・関係者によりますと、すべての県立工業高校の名称について「工学だけでなく、科学も含めた幅広い知識を学ぶ高校にしたい」というねらいから、再来年の4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたということです。・・・

ほほう、「工業高校」だと科学は学べないとな。「工科高校」だと科学が学べるとな。

「工業高校」の「業」は「実業」の「業」ですが、「工科高校」の「科」は「科学」の「科」だったとは初めて聞きましたぞなもし。

東京工業大学は実業しか学べないけど、東京工科大学は科学が学べるんだね。ふむふむ。

というだけではしょうもないネタなので、トリビアネタを付け加えておくと、東京工業大学は前身は東京高等工業学校でしたが、それとならぶ東京高等商業学校は、一橋大学になる前は東京商科大学でした。一方が「業」で他方が「科」となった理由は何なんでしょうか。

ちなみに、東京高商と並ぶ神戸高等商業学校は、大学になるときには神戸商業大学と名乗っていますな。今の神戸大学の前身ですが、同じ商業系でもこちらは「科」じゃなくて「業」です。

さらにちなみに、神戸商科大学というのもあって、これは戦前の兵庫県立神戸高等商業学校が戦後大学になるときにそう名乗ったんですね。今の兵庫県立大学の前身です。

なんだか頭が混乱してきましたが、東京商科大学は戦時中東京産業大学と名乗っていたので、別に「業」を忌避していたわけでもなさそうです。

 

 

 

2019年1月17日 (木)

暴力団員であることを隠して就労して得た賃金は「詐取」なのか?

こういう記事が話題になっていますが、

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190116-00020480-tokaiv-soci

暴力団組員であることを隠して郵便局からアルバイト代を騙し取ったとして、60歳の男が逮捕されました。
 逮捕されたのは六代目山口組傘下組織の組員の男(60)です。男は、2017年11月29日、実際には暴力団組員であるのにもかかわらず、愛知県春日井市の郵便局で反社会勢力ではないと誓約書に署名したうえでアルバイトし、給料として現金7850円を騙し取った疑いが持たれています。
 警察によりますと、男はこの日だけ「ゆうパック」の集配アルバイトとして働きましたが、その後暴力団関係者であることを明かし、わずか4日後に自主退職したということです。
 警察が別の事件で男の組事務所を捜索したところ、男の口座に郵便局から給料が支払われていたことがわかり、犯行が発覚しました。
 調べに対し男は容疑を認めていて、警察は、男がアルバイトを始めた経緯などを調べています。

記事はこれだけで、これ以外に何か書かれていない事情があるのかどうかはわかりません。しかし、この記事の情報だけからすれば、当該暴力団員は虚偽の誓約書を書いて、さもなければ雇用されなかったであろうアルバイト雇用で就労したことは確かですが、雇用契約に定める労務を提供し、それに相当する賃金を稼得しただけであって、その賃金が「騙し取った」という表現がされるべきものであるかには、かなりの疑問を感じます。

採用時に正直に申告すべき事情を申告せず、虚偽の情報を提供することによって採用されるという事態は世の中には結構存在します。それが問題になるのは、そのことがばれて解雇されるという事態になって、その解雇が正当な理由のあるものかそうでないかという民事上の紛争として現れることが多いのですが、虚偽の申告に基づいて誤って採用してしまったからと言って、現に契約上の労務を提供したことに対して既に支払った賃金を詐取されたから返せ、というような訴訟は見たことがありません。

というか、いかに採用判断の根拠に錯誤があったからと言って、提供された労務とそれに支払われた賃金は少なくとも民事上は決済済みの話で、根っこに戻ってすべて無効になるわけではなかろうともいますし、もし万一元に戻って無効になるというのなら、無効な雇用契約に基づいて4日分の労務を受領しているのだから、その分の不当利得を返還しなければならないようにも思えます。

法律上の根拠をざっと見ても、少なくとも国家法である暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律には、暴力的要求行為の禁止として多くの行為が列挙されていますが、当然ながらその中に雇用契約を締結して労務を提供し報酬を得ることなどというのはありませんし、おそらく逮捕の根拠となっているであろう愛知県暴力団排除条例には、他の都道府県の条例と同様、事業者に「当該契約の相手方に対して、当該契約の履行が暴力団の活動を助長し、又は暴力団の運営に資することとなるものでない旨を書面その他の方法により誓約させること」の努力義務を課しているにとどまり、その誓約書に違反して締結された雇用契約を無効にしたり、いわんやその(それ自体は契約に従った)労務に対する報酬の支払いを無効にしたりする効果はないように思われます。

2018年11月28日 (水)

勝谷誠彦氏死去で島田紳助暴行事件を思い出すなど

Katuyaほとんど限りなく雑件です。

勝谷誠彦氏が死去したというニュースを見て、

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181128-00000060-spnannex-ent(勝谷誠彦氏 28日未明に死去 57歳 公式サイトが発表)

吉本興業で勝谷氏担当のマネージャーだった女性が島田紳助に暴行された事件の評釈をしたことがあったのを思い出しました。

これは、東大の労働判例研究会で報告はしたんですが、まあネタがネタでもあり、『ジュリスト』には載せなかったものです。

せっかくなので、追悼の気持ちを込めてお蔵出ししておきます。

http://hamachan.on.coocan.jp/yoshimoto.html

労働判例研究会                             2014/01/17                                    濱口桂一郎
 
中央労働基準監督署長(Y興業)事件(東京地判平成25年8月29日)
(労働経済判例速報2190号3頁)
 
Ⅰ 事実
1 当事者
X(原告):Y興業の従業員(文化人D(勝谷誠彦)担当のマネージャー)、女性
被告:国
Y:興業会社(吉本興業)
E:Y専属タレント(島田紳助)
 
2 事案の経過
・平成16年10月25日、Xは担当文化人Dに同行して赴いた放送局内で、面識のないEに話しかけたが、その際の態度を不快に感じたEがXに説教し、さらに立腹してEの控室に連れ込み、暴行を加えた(「Xの左側頭部付近を殴り、Xの髪の毛を右手でつかみ、3,4回壁に押さえつけたり、リュックサックで左耳付近を殴り、唾を吐きかけたりするなど」)。同日、警察に通報
・Xは同日から11月2日まで各病院で、「頚部、背中、左前腕捻挫」「頭部外傷I型、頸椎捻挫」「左上肢、背部打撲」「頸椎捻挫」「外傷性頭頸部障害、背部打撲」の診断を受けた。また11月9日には「急性ストレス障害」の診断を受け、平成17年1月「外傷性ストレス障害」(PTSD)に変更された(L意見書)。
・(本判決には出てこないがマスコミ報道によれば)平成16年12月9日、Eは傷害罪で略式起訴され、同日大阪簡裁が略式命令、罰金30万円を納付。Xは事件後休職、平成18年6月に休職期間満了で退職。平成18年8月5日、XはEとY興業を相手取って損害賠償請求訴訟を起こし、同年9月21日、東京地裁はEとY興業に1,045万円の支払を命じる判決を下した(判例集未搭載)。雇用関係確認も訴えたが認めず。双方控訴。平成19年9月22日、東京高裁で1,450万円を支払う旨の和解が成立。
・平成19年7月4日、Xは業務が原因で発症したPTSDとして監督署長に休業補償給付を請求。監督署長は平成20年7月2日、不支給処分(①)。平成19年7月4日、Xは業務が原因の外傷性頭頸部障害、背部打撲として休業補償給付を請求。平成20年7月2日、不支給処分(②)。平成19年8月16日、Xは業務が原因の外傷性頭頸部障害、背部打撲として療養補償給付を請求。平成20年7月2日、不支給処分(③)。
・平成20年8月28日、Xは上記3件の不支給処分を不服として審査請求。①については、平成21年7月21日、東京労働者災害補償保険審査官が棄却、8月19日に再審査請求、平成22年2月17日、労働保険審査会が棄却。②、③については、平成21年10月6日、東京労働者災害補償保険審査官が棄却、11月30日に再審査請求、平成22年8月4日、労働保険審査会が棄却。
・Xは、①について平成22年7月27日、②、③について同年11月15日、取消訴訟を提起。両事件は併合。
 
Ⅱ 判旨
1 本件事件(Eによる暴行)による災害の業務起因性
「本件事件は、・・・業務遂行中に発生したものといえる。」
「しかしながら、本件事件の発端についてみるに、XはY興業の社員(マネージャー)であり、EはY興業の専属タレントであるが、XはEの担当マネージャーではないことはもちろん、タレントとは異なる文化人マネジメント担当であり、Xの主たる業務上の接触先は,担当文化人やテレビ・ラジオのプロデューサーやディレクターであって(書証略)、XとEは、同じ会社に所属する社員と専属のタレントということのみで、具体的な業務上のつながりは認められない。」
「本件事件当日の具体的状況としても、・・・Xが、Dのマネージャーとしての担当範囲を超えて業務上のつながりがないEに対して何らかの業務上の行為を行うべき必要性は認められない。」
「これらの点からすれば、XはEに対して、東京広報部文化人マネジメント担当としての業務のために話しかけたものではなく、Eの上司であるMやNとの個人的つながりを持ち出して、私的に自己紹介しようとしたものであるとみるのが相当である。
 したがって、本件事件の発端となるXのEに対する話しかけ行為は、業務とはいえないというべきである。」
「また、XがEから暴行を受けるに至った経緯についてみても、・・・確かに、Eが立腹するに至った事情として、Y興業の社員であるXがM及びNを呼び捨てにしたことがあり、同人らは本件事件前後の時期においてY興業の幹部であったことは認められる。しかし、Xは両名を高校生の頃に面識のあった人物として名前を出したものであって、Xの発言内容自体は、本来のXの業務との関連性は乏しいし、Eが立腹した理由の一つがXがY興業の社員であることであったとしても、XのEに対する話しかけやこれに続くXとEとの口論はXの業務とは関連性がない。」
「以上の通り、本件事件の発端は、XがEに対して私的にX自身を自己紹介しようとしたところ、Eがその態度に不快感を覚えたというものであって、そのXの行為について業務性は認められないこと、暴行に至る経過において、XがM及びNを呼び捨てにしたことがあるが、その発言自体は、Xの業務との関連性に乏しいことなどからすれば、本件事件による災害の原因が業務にあると評価することは相当ではなく、Xの業務と本件事件による災害及びそれに伴う傷病との間に相当因果関係を認めることができないから、業務起因性を認めることはできない。」
2 精神障害による休業(①)の業務起因性
「客観的にみれば、本件事件におけるその心理的負荷が「死の恐怖」を味わうほどに強度のものであったとまで言えるかは疑問である。」
「L医師による、Xの供述に全面的にあるいはXの本件における供述以上の暴行態様を前提としたPTSDの判断については、疑問を呈さざるを得ない。」
「以上によれば、Xが本件事件後、PTSDに罹患していたとは認めがたい。そして、Xの時間外労働の内容及び本件事件後に生じた事情等を考慮しても前期判断は左右されるものではない。したがって、XがPTSDに罹患したことを前提として、本件処分①の違法をいうXの主張は採用することができない。」
3 外傷・打撲による休業・療養(②、③)の業務起因性
「以上からすると、Xの外傷に対する治療は、平成16年11月2日までに終了していると判断されるべきであり、同日以後の療養については、本件事件との因果関係は認められず、同日以降の療養について療養補償給付を求める本件請求③は支給要件に該当しないというべきである。」
「そもそも、休業補償給付が支給されるのは、療養のために労働をすることができず、労働不能であるがゆえに賃金も受けられない場合であることからすれば、療養が必要でなければ休業も当然必要ではないこととなるので、本件においては、休業補償給付の支給の要件を満たさないというべきである。したがって、平成16年11月2日以降の休業は、本件事件との因果関係が認められず、同日以降の休業について休業補償給付を求める本件請求②は支給要件に該当しないというべきである。」
 
 
Ⅲ 評釈 1に疑問あり。2,3は賛成。
 
1 本件事件(Eによる暴行)による災害の業務起因性
 本判決は、Xの遂行すべき業務範囲が「文化人D担当のマネージャー」であることから、その範囲外である専属タレントEへの話しかけを私的行為と判断している。しかし、被告主張にもあるように、「XがY興業所属の社員(マネージャー)であり、EがY興業の専属タレントであることから、このような両者の会話については業務性が肯定されるという見解もあり得る」のであり、もう少し細かな考察が必要である。
 事実認定において、判決はX側の「Xが業務遂行場所における業務遂行途上において、Y興業専属の大物タレントが一人で放置されていたことから声かけするのは職場における社員として常識的な行動である」との主張に対し、「本件事件当時、Eが特に担当マネージャー以外のY興業の社員からの声かけを必要とするような状況にあったことはうかがわれない」とか「XがEに話しかけた動機としては、職務上の立場とは無関係に、個人的な懐かしさの感情から話しかけたとみるのが相当である」と退けている。しかし、この論点の立て方では、Xがたまたまその時点で担当していたDのマネージャー業務以外は、Yの業務であっても特段の理由がない限り私的行為となってしまい、現実の日本における仕事のあり方とやや齟齬があるように思われる。X側が以下の論点をまったく提起していないので、いささか仮想的な議論になるが、本来はこういう議論があるべきではないか。
 判決文には示されていないが、XはDのマネージャー業務に限定してY興業に採用されたわけではないように思われる。本件事件当時Dのマネージャーを担当していたとしても、今後他の様々なタレントを担当する可能性はあったであろうし、その時のために、担当ではない時期から他のタレントに挨拶し、いわゆる顔つなぎをしておくことは、職業人生全体の観点からすれば将来の業務の円滑な遂行のための予備的行為としての側面があり、まったく個人的な行為とみることはかえって不自然ではなかろうか。現実の社会では、業務の輪郭はより不分明であって、Eに挨拶すること自体を厳密にXの業務範囲外と断定することには違和感がある。ちなみに、判決文ではEは「大物タレント」、Dは「文化人」と書かれており、それぞれのマネージャー業務は一見異なる種類の業務のように見えるが、実は両者ともY興業に属してテレビのバラエティ番組で半ば政治評論的、半ば芸能人的なコメントを行うタレントであって、一般社会的にはほとんど同種の業務と見なしうるように思われる。
 そしてこれを前提とすれば、将来担当する可能性を否定できないEが、過去幾多もの暴力事件を起こし、社内やテレビ局内でも暴力事件を起こしていたことから、本件事件による災害がEを専属タレントとして抱えて業務を遂行する過程に内在化されたリスクとのX側の主張も、「相当でない」と安易に退けることは疑問がある。
 もちろんこれに対しては、その時点での担当業務ではないにもかかわらず、将来担当したり関わったりする可能性のあるタレントと顔つなぎをしておきたいという意図で声かけをすることには、業務性は認められず、業務に関連した私的行為に過ぎないという反論もあり得る。ただ少なくとも、この論点を欠いたままの「個人的な懐かしさの感情」との判断には、いささか短絡的との感を免れない。
 
2 精神障害による休業の業務起因性
 現在、精神障害の認定基準は、「心理的負荷による精神障害の認定基準について」(平成23年基発1226第1号)及び「心理的負荷による精神障害の認定基準の運用等について」(平成23年基労補発1226第1号)によって行われているが、本件について給付請求、審査請求が行われていた時点においては、「心理的負荷による精神障害等に係る業務場外の判断指針について」(平成11年基発第544号)、平成21年4月6日以降は同通達の改正通達(平成21年基発第0406001号)、及びその関連通達によって行われていた。
 本件に対するこの通達の基準の当てはめについては、争点②についての被告側主張に詳細に述べられており、心理的負荷の強度はⅡ、総合評価は「中」であって、業務に起因するとは認められないとしている。この判断は基本的に是認しうる。
 また被告側主張では、訴訟提起後に発出された上記認定基準へのあてはめも行っており、そこでも総合評価を「強」とする「特別な出来事」はなく、「具体的出来事」としては「中」であって、業務起因性を否定している。この判断も是認しうる。
 また、X側のPTSDとの主張に対しても、詳細な反論を行っており、納得できるものがある。ちなみにL医師によるPTSDとの診断に対する疑念は、本人供述に基づく診断を基本とせざるを得ない精神医学について本質的な問題を提起しているようにも思われるが、ここでは深入りし得ない。
 なお、本件労災給付申請は事件発生の3年近く後に、民事訴訟の和解が近づいた時点で行われており、その動機にやや不自然なものも感じられる。
 
3 外傷・打撲による休業・療養の業務起因性
 これについても、被告側主張に詳細に述べられており、是認できるものである。
 

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