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雑件

2024年12月13日 (金)

スキマバイト問題と日雇派遣禁止のツケ

最近、スキマバイトとかスポットワークの問題が盛んに取り上げられてきているけど、今から10年以上前に、当時やたらに炎上していた日雇派遣禁止問題に対して、派遣法で日雇派遣だけを禁止したって意味がないと言い続けて結局無視された私から見ると、そのツケが回ってきたとしか思えない。

日雇派遣だけを禁止しても日雇紹介という形で生き続けるだけだし、どっちがいいかというと、派遣法により派遣会社に使用者責任が課せられているだけ日雇派遣の方がましなんだ、といくら言っても、派遣こそが諸悪の根源だと思い込んでいる人々にはまるで通じなかったな。

世の中にスポット的な労働需要があり、それに対応する労働供給がある以上、それをできるだけ弊害の少ない形でうまく回すにはどういうやり方がいいのか、と考えれば、紹介してしまったらはいそれでおしまいよ、後は何が起ころうが知らぬ存ぜぬがデフォルトの日雇紹介よりも、働いている間はずっと使用者としての責任を追及できる建付けの日雇派遣の方がましであるという理路が、当時の人々にはわからなかったんだから、そのツケがこういう形で露呈してくるのも当然のことだと、私は思う。そんなこと言ってみても、誰も反省なんかしないだろうけど。

朝日新聞-関根秀一郎との対談「日雇い派遣 禁止は有効?」(2008年5月29日)

 電話一本で呼び出され、賃金も低くて「ワーキングプア(働く貧困層)の温床」と批判を浴びる日雇い派遣。4野党は先月、労働者派遣法を改正し「原則禁止」を盛り込む方針を固め、日本人材派遣協会も28日、原則禁止の自主ルールを決めた。派遣労働者を支援している関根秀一郎・派遣ユニオン書記長と、労働法のブログを主宰する濱口桂一郎・政策研究大学院大学教授に議論してもらった。(編集委員・竹信三恵子)
 
 ――「日雇い派遣禁止」は、なぜ必要なのですか。
 関根 派遣労働は、派遣会社が派遣料から会社の取り分(マージン)を引いて賃金を支払うのでピンハネが横行しやすい。なのに、派遣法が99年に改正されたとき、対象を立場の弱い肉体労働にまで広げた。このため日雇い派遣が急拡大し、三つの問題が起きた。①3~5割ものピンハネによる賃金の大幅下落②生計を主に担う働き手まで派遣労働に落とし込まれる③派遣先が、「ウチの社員じゃない」と派遣社員の安全対策を怠り、労働災害が多発――だ。
 濱口 問題点は同感だが、ニーズがあるのに禁止しても、企業は他の形に逃げるだけ。85年に派遣法ができた当初も、対象を専門的職種に限ったが、一般事務が「ファイリング」の名で派遣OKとなり、女性の非正社員化が進んだ。事業規制ばかりを考え、労働者保護をほったらかしにする日本の派遣法の枠組みこそ問うべきだ。
 ――どんなニーズが?
 濱口 アルバイトや、本業がほかにある人の週末の副業など、こうした働き方が必要な人もいる。企業にとっても、社員が急病の場合や仕事の繁閑が大きい職種など、1日単位の派遣が必要なケースはあるはず。日雇い派遣という業態そのものは、あってもいい。
 関根 日雇い派遣の広がりは「あってもいい」のレベルを超えている。人集めも解雇も簡単なため、20~30代の「ネットカフェ難民」だけでなく、40~50代の「サウナ難民」まで出た。
 濱口 そもそも「日雇い派遣」だから問題なのか。直接雇用の日雇いも過酷さは同じだ。
 関根 20年ほど前、直接雇用の日雇いとして物流業界でバイトしたが、日給は1万円を下らなかった。日雇い派遣の広がりでピンハネが激しくなり、今は6千~7千円。派遣はマージンを取るので、働き手の取り分を減らし、過酷さを増幅する。
 濱口 日雇い派遣なら、毎日別の職場に派遣されても、合わせて週40時間働いていれば「派遣社員として正社員と同等の時間働いている」ことになり、均衡処遇を求める契機になる。
 関根 現実は違う。厚生労働省に、「実質は正社員と同じように毎日働いているのだから、仕事が途絶えたら休業手当を払うよう派遣会社を指導すべきだ」と求めたがダメだった。理由は「日雇いだから」だ。
 ――日雇い派遣を禁止しないとすると、どう解決しますか。
 濱口 関根さんの挙げた三つの問題点でいうと、賃金については、派遣会社のマージン率を公開させ、規制する。安全面では危険有害業務への派遣を制限し、労働時間について定める労使協定(36協定)や労災補償に関し、派遣先にも使用者責任を負わせる。安いからと非正社員を増やす反社会的な企業行動には、労組などによる監視の目をはりめぐらす方が効果的だ。
 関根 今の提案はすべて賛成だ。だが、禁止措置も意味は大きい。確かに、違法派遣をしたグッドウィルが事業停止処分を受けると、仕事がなくなり困る人も出た。一方で、グッドウィルとの取引をやめた会社から「直接雇用に」と誘われ、日給が4割増えた人もいる。とりあえずストップをかけて企業の方向を変える必要がある。
 ――労組による監視で企業行動に歯止めをかけられますか。
 濱口 日雇い派遣の業態は認め、そのかわり派遣労働者と正社員との均等待遇や均衡処遇を徹底し、「手軽だから日雇い派遣」とはさせないことも必要だ。4月に施行された改正パート労働法で均衡処遇が定められたので、派遣に広げればいい。
 関根 日本の「均等待遇」は正社員並みに働くごく一部のパートにしか適用されず、その他のパートへの「均衡処遇」も極めてあいまいだ。
 ――マージン率の公開は可能でしょうか。
 濱口 ピンハネして自家用飛行機を買うような経営者は困るが、マージンは、社会保険料負担や働き手への情報提供などのために必要な経費でもある。その透明化はまともな派遣元にはプラスだ。
 関根 派遣業界との交渉で、「悪質な派遣会社と一線を画すためにもマージンの公開を」と迫ってきたが応じない。
 ――今後は何が必要ですか。
 濱口 日本の派遣法は、正社員の派遣社員への置き換え防止に主眼を置き、派遣事業の規制ばかりに目を向けていた。世界の流れは非正社員も含めた均衡処遇と透明化だ。
 関根 日雇い派遣を合法化したことで、派遣への置き換えが進んだ。欧州のような均等待遇の実現は遠すぎる。緊急避難として日雇い派遣の禁止を急ぐべきだ。

 

2024年11月 1日 (金)

連合はつらいよ

連合は、本来なら嬉しがっていないといけないところのはずなのに、とても悩ましい状況になってしまっているようです。

本来なら、自分たち労働組合が組織的に応援して票を集めてきた立憲民主党と国民民主党という二つの党が、いずれも議席数を大幅に伸ばし、与党を過半数割れに追い込んだのだから、喜び勇んでいなければいけないはず。

第50回衆議院選挙結果についての談話

2.立憲民主党・国民民主党が幅広い有権者の選択肢になったことを評価

この間の国政選挙では、有権者の不満を既存政党が受け止め切れず新興勢力の伸長を許してきたが、今回、働く者・生活者の立場に立つ立憲民主党と国民民主党がその受け皿となったことには大きな意義がある。

ところが、その後の事態はむしろ、連合が支持基盤であるこの両党が下手をすると与党(ないし準与党)と野党に分かれてしまい、連合の股がびりびりと引き裂かれてしまいかねない状況が進行しているようで、

4.立憲・国民には政権を担い得る政治勢力の結集の核となることを強く期待する

今回の結果を起点に、これまで連合が連携・支援してきた立憲民主党と国民民主党には、自公に代わって政権を担い得る、もう一つの政治勢力の結集の核となることを強く期待する。次なる闘いの場は来年の参議院選挙である。両党が核となり、自民党とは違う新しい政治をつくるという志の下、有権者が安心して政権を委ねられる枠組みを早期に示すことが肝要である。・・・

本来なら、今すぐここで両党が結束して連合の旗の下に連立政権を作れというところなんでしょうが、それが非現実的ということで、来年の参議院選挙云々という、なんだか鬼が笑う話にしなければいけない辺りに、連合の苦衷が垣間見える気がします。

 

 

 

 

 

 

2024年2月 8日 (木)

正義の味方は自己責任@労災保険

これはほんとに雑件です。

『労働経済判例速報』の令和6年1月30日号に「中央労働基準監督署長事件」(東京地判令和5年3月30日)が載っています。労災に関する裁判例ですが、事案が(労働法学的な意味ではなく、世間的な意味で)興味深いのでちょっと紹介。

本件の原告は、ファミレスに勤務する普通のサラリーマンなんですが、深夜帰宅途中、山手線車内で女性客に迷惑行為(要するに痴漢行為ですな)をしていた中年男に注意したところ、逆恨みしたそいつから跳び蹴りを受けて負傷したという事案です。もちろんそれはそれで刑事事件になるわけですが、警察が治療費を払ってくれるわけではない。問題はこの負傷が労災-正確には通勤災害-になるかです。通勤災害も労災と同様手厚い補償を受けられるのですが、その認定基準では、通勤とは関係のない逸脱や中断があると認められません。通勤の帰りに関係ないところに立ち寄ったりすると認定されないわけです。さて本件、通勤経路という意味では何ら逸脱していないわけで、通勤車内で蹴られたわけですが、その原因は彼がなまじ正義感を出して痴漢中年男に注意したりしたからなんですね。監督署はこれは通勤の中断中に起きたものだとして不支給決定したので、審査請求を経て彼は裁判に訴えたというわけです。

裁判所の結論は監督署と変わらず、棄却となりました。労働法学的には当然の結論ということになるのですが、通勤中に車内で痴漢野郎を見つけても、余計なことをしない方がいいということにならないといいですね。

2023年9月 7日 (木)

お気持ち傷つけ罪@中国

中国、国民の「感情を傷つける」服装の禁止を検討-法改正案公表

 中国では、国民の感情を害すると見なされる服装を理由に人々に罰金や懲役刑を科す法改正の可能性を巡り、国民が懸念を示している。
  全国人民代表大会(全人代、国会に相当)常務委員会はこのほど、「中国人の精神に害を及ぼし、中国人の感情を傷つける」服装や発言を含むさまざまな行為を禁じることを検討中とする法改正案を公表した。どのような行為が15日以下の拘留または5000人民元(約10万円)以下の罰金に当たるのか、具体的には明記されていない。この改正案は今年の優先事項の一つに挙げられている。
  法改正案は中国の習近平国家主席が就任以来10年強にわたり、インターネット検閲を強化するなど、市民の自由を締め付けてきたかを浮き彫りにしている。上海近郊の都市、蘇州の警察は昨年、公の場で日本の着物を着ていた女性を拘束した。中国は第2次世界大戦中の行動を巡り日本と長年確執があり、最近は東京電力福島第1原子力発電所の処理水海洋放出決定を受け、さらに悪化している。
  ここ1年に当局は、コンサートで虹柄のシャツを着たり、大学キャンパスで性的少数者(LGBTQ)を支持するシンボルの付いた旗を配ったりした人々を取り締まった。 

まあ、中国の場合は、その専制主義的体制からして、「国民」の感情というのは究極的には中国共産党のトップの感情ということになるので、そういう観点からの批判になるのでしょうが、そこを一旦括弧に入れて、「国民の感情を害すると見なされる服装」の禁止や刑罰といった点に着目すると、これは実は近年の先進諸国でも共通して見られるある現象の一つの極端な現れと捉えることもできそうな気がします。

むしろ、民主主義的な体制下においてこそ、ポピュリズム的に「国民みんなの気持ちを傷つけるようなこんな格好をしやがって」という思想が広がっていく可能性があるのではないかと。近年、日本でも「お気持ち傷つけ罪」が氾濫していますが、どこまで突き進んでいくことになるのか、心配です。

 

2023年7月 2日 (日)

専門知をふりかざし市民を圧倒する人は専門家と呼べない

朝日新聞記者のこのツイートがさんざん批判されていますが、

https://twitter.com/erika_asahi/status/1674254761049337856

素朴な異論や懸念を「わかってない!」と封じ込める光景にTwitter等でよく遭遇します。
そうした「専門知をふりかざし市民を圧倒する人は専門家と呼べない」と三牧聖子さん
@SeikoMimaki
「専門家は市民の痛みや苦しみに人一倍敏感でなければ」の指摘、いいね100万回以上です。

実は話はも少しねじれている。

というのも、少なくともここ半世紀くらいは、専門知をふりかざして市民の素朴な異論や懸念を封じ込める偉そうな奴らだとさんざん罵倒されてきたのが、朝日新聞や岩波書店のようなそれなりにアカデミックな知識でもって世を啓蒙しようという人々であり、そういう専門家の知った風な議論をせせら笑って「ぼくのかんがえたさいきょうの」議論を振り回してきたのがwillやhanadaな人々であったわけで、いやまあそういうのがお好きなら別に止めはしませんけれど、という感想が湧いてくるのを抑えられない。

いや私の言ってるのはネットに書き込むこともままならないような「市民の痛みや苦しみ」の話なんで、ネット上で聞きかじった一知半解の知識を振り回している天下無敵なド素人の皆さんのことじゃない、と言いたいんだろうけど、それをどこで区別できるかと言えば、区別のしようはないわけです。そういう人々だって、主観的にはまさしく「市民の痛みや苦しみ」に充ち満ちているのであって、それは偽物の「市民の痛みや苦しみ」であり、私が抱えている方が真正なる「市民の痛みや苦しみ」だなんて、超越的な神の目線に立っているのでない限り証明することは不可能でしょう。

もちろん、専門家の議論には専門家の議論である故の見落としや落とし穴があり得、それを素人の異論や懸念が見事にえぐり出すと言うこともあります。というか、いつもいつもそんなことがあるわけではないけれども、ときにはそんなこともないわけではない、という程度にはあり得る。

とはいえ、その素朴な異論や懸念が実は専門家の議論の盲点を鋭く突くものであるということを的確に判断し、その位置づけをきちんと説明できるためには、ホントの素人の手には余るのであって、少なくとも専門家の中で議論できる程度の専門的知識を持っている人でないといけないわけです。

非常にうまくいけば、専門家集団の中で主流の議論に疑問を感じている専門家がそういう素人の素朴な異論や懸念をうまくすくい上げて的確に言語化し理論化するということも、ないわけではないし、それが学問の発展につながるということもないわけではないけれども、でも、いつもいつもそういうわけにはいかないし、ましてや素人の異論や懸念だけでそんなうまい話になるなんてことはあり得ない。

そういうのを全部すっとばかして、素人の素朴な異論や懸念を祭り上げるようなことをいっていると、「ぼくのかんがえたさいきょうの」議論ばかりが世を覆うことになるでしょうけど、それでいいのかな、ということです。

 

2023年6月28日 (水)

トランス女性と女子大学

津田塾大学がトランス女性の入学を認めるというニュースに、何か違和感を感じたので、それを言語化してみました。

https://www.tsuda.ac.jp/news/2023/0623-02.html

津田塾大学では、2025年度入試(2025年4月に入学する学生が受験する入試)より多様な女性のあり方を尊重することを基本方針とし、女子大学で学ぶことを希望するトランスジェンダー学生(性自認による女性)にすべての学部、大学院研究科にて受験資格を認めることといたしました。

この基本方針は、1900年から女性に高等教育の学びの場を提供してきた本学の伝統を継承する、「Tsuda Vision 2030」のモットー「変革を担う、女性であること」を推進することでもあり、同時に、多様な価値観の共生を目指す社会の構築に貢献することでもあります。本学は、多様な女性の学ぶ権利を守り、共に学ぶ環境を整えてまいります。

性に多様性があるということを社会全体でどのように理解を進めていけるのか。多様な女性のあり方を包摂していく過程で、周縁に置かれている様々な女性たちがエンパワーされ、自らの力量を信じて真摯に前進していけるよう支援していく。それが、21世紀の女子大学のミッションであると考えます。

性の多様性を認めるということや、多様な性の在り方を差別しないということと、女子大学という存在を認めているということそのものの間に、論理的に解決すべき問題が存在しているのではないかと感じます。

そもそも、女子の入学を認めない男子大学は許されないのに、男子の入学を認めない女子大学の存在が認められているのは、ポジティブ・アクション、すなわちこれまでより不利益を蒙ってきた性別に対して積極的に優遇する差別は許されるという考え方によるものであるはずです。

実際、戦前は女性は大学に進学することができませんでしたし、今日においてもなお女性の四年制大学進学率は男性よりもかなり低い水準にあります。現状の判断については様々な議論があり得ますが、議論の筋からいえばそういうことです。

男性が自分が女子大に入学できないのは差別だと訴えても相手にされないのは、一般的には男性の方が女性より有利な立場にあるがゆえに、女性への優遇措置を甘受すべきであると考えられているからでしょう。

ところが、トランス女性はそういう意味において男性に比べて差別されているわけではありません。トランス女性が男性よりも優遇されるべきであると主張する根拠はないはずです。

トランス女性/男性は、シス女性/男性に比べて差別されているから差別を許すべきではない、という議論は、あくまでも比較対象はトランス対シスなのであって、トランス女性を男性一般よりも優遇すべきという理論的根拠にはなり得ないはずです。

津田塾大学は、これまで差別され不利益を蒙ってきた女性をより指導的地位に就けるように積極的差別を行うのは正当であるという理由に基づいて、男性の入学を拒否するという男性に対する差別を行うことが許されている存在であるはずですが、その正当化根拠とは異なる差別の線引きをするということになると、そもそも女子大学であるという存立根拠を危うくする可能性があるのではないかと思います。

ダイバーシティという言葉は便利ですが、便利であるがゆえに、多様性の中身を区別せずにごっちゃにして議論するということになると問題があります。

例えば、人種差別に対するポジティブアクションとして、大学の入学枠において黒人などの有色人種を優遇するということがあります。それ自体の是非はここでは論じませんが、仮にそれが正当だという立場に立ったとしても、それによって正当化されうるのは、男女共学の大学において黒人男女を優遇することと、女子大学において黒人女性を優遇することまでであって、白人女性の多い女子大学に黒人男性を入学させろという話にはならないはずです。

白人男性の入学が許されない女子大学に、黒人女性のみならず黒人男性までダイバーシティの証しとして入学させろなどと言い出したら、それは論理的に間違ったことであるはずです。

津田塾大学には萱野稔人さんという立派な哲学者がいるんですから、もう少しきちんと物事を理論的に考えて行動すべきではないかと思います。

(追記)

コメント欄の議論に対しての総括

*トランス女性が女性それ自体では「ない」ことは明らかであって、もし女性それ自体であってシス女性と何の違いも無いのならば、トランス女性をトランス差別の被害者であるとする根拠自体がなくなります。

差別根拠として男性であるか女性であるかというジェンダー差別の問題と、トランスであるかシスであるかという性的指向・性自認差別の問題は少なくとも別の軸の問題であって、それを意識的にか無意識的にかごっちゃにするような議論はおかしいといっているに過ぎません。

私は差別禁止論として性自認ゆえにトランスをシスとの関係で差別することを問題とする議論は理解できますが、もしそうであるなら、トランス女性はシス女性それ自体とは異なることが前提なのであり、それを全面的に否定する議論とはそもそも論理的に矛盾すると考えています。

*おそらく、ここで話が噛み合わない最大の理由は、そもそも女性差別である男子大学は許されないのに、男性差別である女子大学が許容されるのは,ポジティブ・アクションという積極的差別であるからである、というイロハのイの根本のことが理解されていないからなのでしょうね。

トランス女性が、身体的性別と精神的性自認が異なるトランスジェンダーであるという差別根拠に基づいて「ではなく」、もっぱら女性であるというセルフ・アイデンティティに基づいて、歴史的に身体的性別に基づいて差別されてきた女性にのみ認められた積極的差別たるポジティブ・アクションの権利を自分にも要求するということの根拠が見当たらない、という話なのです。ポジティブアクションとは、いわばこれまで女性だからという理由で差別されてきた身体的女性にのみ認められた特権なのであって、トランスだからといって差別されてきたかも知れないが女性だからといって差別されてきたわけではないトランス女性がそのお相伴にあずかるべき筋合いはないという話なのですが、そこがすっぽり頭の中から抜け落ちてしまっていると、こういうわけの分からない議論になるのでしょう。

*そうか、だんだん分かってきた。この人たちは、そもそも入口で男性のみ入れますとか女性のみ入れますということが、そもそも性別による差別であって許されないという差別禁止原則の一番根幹のことが頭の中にまったくなくって、男性のみ入れますでも女性のみ入れますでも、何でも許されるという大前提に立っているらしいのだな。

だとすると、何の問題もない男子のみ入れますという大学にトランス男性が入りたいということも当たり前のことであって、それと全く同様に、何の問題もない女子のみ入れますという大学にトランス女性が入りたいといってきているンだから入れればいいじゃないか、という思考回路になっているのでしょう。

しかし、だとすると、これはもはや差別の問題では無くなってしまうのだな。そもそも差別禁止原則が存在しない世界、男性のみでも女性のみでも何でも許される世界において、なぜか、ただ自らの性別アイデンティティのみが唯一絶対に尊重されるべきだという議論であって、正直付き合いきれない。

2021年12月23日 (木)

数学勢だけかとおもいきや、小学校算数勢だけだった話

まったくEUとも労働法とも関係ないけれども、世の中によくありがちな現象をいささか象徴的に示しているようで大変面白かったので

https://togetter.com/li/1819441("数学勢だけの習性のようです"(掛け算の順))

たぶん初めの人は、世の中はいささかおかしい「数学勢」とそれ以外すべてのまともな人からなると思い込んでいたようですが、実のところはむしろ、いささかおかしい「小学校算数勢」とそれ以外すべてのまともな人からなるというのが、より正確な病像であったということのようでありますね。

この話はもちろんこれだけの話なんですが、似たような状況は世の中のあちらこちらに結構転がっているような気がしないでもなく、威勢よく「ぼくのかんがえたさいきょうの」真理やら正義やらを振り回す前に、むこうが「数学勢」なんじゃなくって、こっちが「小学校算数勢」なんじゃないかと、ふと自省してみることも、それなりに意味のあることなのかもしれませんよ。

2021年9月15日 (水)

両方の旗を取られて・・・

もともと旧民主党には、小泉よりももっと構造改革!という(ネオ)リベラルな方向性と、格差是正だネオリベ反対だというソーシャルな方向性が、統一することなくねじれて併存していて、それこそ「敵の出方論」で都合良く出したり引っ込めたりしていたけれども、こういう事態になって、自民党の中の総裁候補が新自由主義からの転換を掲げたり、規制改革を掲げたりすると、どっちにしても埋没するんですね。

本音で言えば、もうひとりのナショナリズム全開でアベノミクス堅持の方に総裁になっていただいた方が選挙対策的にはありがたいんでしょうが、さすがにそれは・・・

2021年6月 4日 (金)

公衆衛生と健康の間

昨年来のコロナ禍で、医療分野の素人としてつらつら思ったこととして、世の中の風潮やそれに合わせた政策の流れが、かつて社会問題として深刻であり、国家の重要課題として取り組んでいた感染症対策などの公衆衛生という政策観点が薄れてきて、生活習慣病などの個人の健康管理に重点を置くようになってきたことが、今回のコロナ禍にこれほどの混乱を生じさせている一つの要因ではないのだろうかということです。

一部の市民団体がワクチン接種を目の仇にしてそれをマスコミが煽ったとか、一部の政治家が保健所をやたらに統廃合しただとか、エピソード的なことがいろいろと語られますが、それら表面に現われた諸現象を奥底で駆動していたのは、公衆衛生なんていう古くさい政策思想はさっさと脱ぎ捨てて、健康増進こそが21世紀の目指すべき姿だ、というような大きなうねりだったのではないのでしょうか。

それを象徴するように、かつて厚生省には医務局と並んで公衆衛生局というのがありましたが、今の厚生労働省で医政局と並ぶのは健康局という名前です。

こういうことを考える一つのきっかけとして、このシフトのミニチュア版としての、労働の場における衛生=健康対策のシフトがあります。こちらはなお組織名称は労働衛生課という昔ながらの名前ですが、やはりかつては職業病対策中心だったものが、21世紀になるころから職場の健康管理なんてことが重視されるようになってきました。これは、労災補償で過労死や過労自殺といった厚生サイドでは生活習慣病やメンタルヘルスといわれるような事柄が焦点になってくるという社会風潮のシフトを反映していたのですが、さらにマクロ社会的な公衆衛生から健康管理へというシフトをも反映していたように思います。こっちもときたま、アスベストのような古典的タイプの職業病(これはまさに塵肺の一種)が飛び出してきて、釘を刺すわけですが。

人口の高齢化や生活水準の高度化などで、古典的な公衆衛生の課題が切実さを感じられなくなり、人員や予算もあまり付かなくなり、代わって個人の健康増進が政策の目玉として打ち出されるようになるというのは、それ自体としてはやむを得ないというか、なかなかどうしようもないうねりなのだと思いますが、ときどき感染症が蔓延して釘を刺してくれないと、なかなか向きが変わらないのかも知れません。

 

2019年11月23日 (土)

「工業高校」と「工科高校」の違い

正直意味がよくわからないニュースです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186251000.html (「工業高校」を一斉に「工科高校」に変更へ 全国初 愛知県教委)

愛知県の教育委員会が、県立の「工業高校」13校の名称を、再来年4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたことが分かりました。科学の知識も学び、産業界の技術革新に対応できる人材を育成するのがねらいで、工業高校の名称を一斉に変更するのは全国で初めてだということです。 ・・・

いやまあ、高校の名称をどうするかは自由ですが、その理由がよくわからない。

・・・関係者によりますと、すべての県立工業高校の名称について「工学だけでなく、科学も含めた幅広い知識を学ぶ高校にしたい」というねらいから、再来年の4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたということです。・・・

ほほう、「工業高校」だと科学は学べないとな。「工科高校」だと科学が学べるとな。

「工業高校」の「業」は「実業」の「業」ですが、「工科高校」の「科」は「科学」の「科」だったとは初めて聞きましたぞなもし。

東京工業大学は実業しか学べないけど、東京工科大学は科学が学べるんだね。ふむふむ。

というだけではしょうもないネタなので、トリビアネタを付け加えておくと、東京工業大学は前身は東京高等工業学校でしたが、それとならぶ東京高等商業学校は、一橋大学になる前は東京商科大学でした。一方が「業」で他方が「科」となった理由は何なんでしょうか。

ちなみに、東京高商と並ぶ神戸高等商業学校は、大学になるときには神戸商業大学と名乗っていますな。今の神戸大学の前身ですが、同じ商業系でもこちらは「科」じゃなくて「業」です。

さらにちなみに、神戸商科大学というのもあって、これは戦前の兵庫県立神戸高等商業学校が戦後大学になるときにそう名乗ったんですね。今の兵庫県立大学の前身です。

なんだか頭が混乱してきましたが、東京商科大学は戦時中東京産業大学と名乗っていたので、別に「業」を忌避していたわけでもなさそうです。

 

 

 

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