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2026年9月 6日 (日)

賀来才二郎について

203728 昨日紹介した仁田道夫『労使関係からみる戦後という時代』(日本評論社)の「列伝」中、もう一人取り上げておきたい人物がいます。昨日のエントリでもちらりと書きましたが、1947年労働省創設とともに初代労政局長に就任し、5年間の在職中に1949年と1952年の労働組合法改正を労政局長として担当した賀来才二郎です。

この人が面白いのは、その下で法改正を担当した松崎芳伸労働法規課長が、本書でも書かれておるように二度もクビになるといった波瀾万丈の人生とは言いながら、東京帝大法学部を卒業して内務省に入るというオーソドックスなコースをたどっており、それは中西実や富樫総一といった他の労働行政官たちも同じようなものであるのに、賀来才二郎はこの時代でなければ絶対にこのポストに座ることがなかったような人だからです。

彼は旧制三高から京都帝国大学文学部哲学科に入り、西田幾多郎教授から大学教授になれと言われたけれども、神戸市役所の社会課に書記として就職し、職業紹介所の御用聞きの仕事から始めています。その後秋田県社会事業主事、福岡県で内務省労務官となり、工場の労務統制の仕事をしていたら、終戦直後、新設の中央労働委員会の幹事に引っ張られたという経歴です。

これは、戦前の労働争議調停法時代に調停をしていたのは警視庁や府県警察部の警察官吏であり、特高警察はだめという占領軍の基準から、戦前労使関係に携わっていたのはつけられないからだったようですが、その意味では戦前と戦後は切れているのですね。

創設当時の中労委の梁山泊ぶりは、仁田著の「列伝」のあれこれに活写されていますが、そこで賀来は実質的な事務局トップとして、末弘厳太郎中労委会長とともに争議調整に駆けずり回り、2・1ストの裏側でも活躍しています。

仁田著では賀来の話は中労委時代までですが、その後1947年9月に厚生省から労働省が分離独立する際に、初代労政局長に就任し、上述のように労働組合法の大改正を局長として担当します。そして、これもまたその後の例に反して、労政局長で退官し、事務次官にはなりませんでした。

ちなみに、賀来の著書『ふていのやから』の巻頭に、彼がILO総会で演説しているときの写真が載っています。

Gghh

また、後年『昭和経済史への証言』(下)(1966年、毎日新聞社) でこの頃のことを回想していますが、そこに退官後10年以上経った賀来の近影が載っています。

Gggg


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コメント

「旧制三高から京都帝国大学文学部哲学科に入り」、その後、労働法分野でそのようなお仕事、ということで、私の念頭にぱっと浮かんだのが、亡き父の知人であった憲法学者、小林直樹氏でした、この方も故人ですが。旧制水戸高校から東大文学部哲学科に、そこから法学部に転身し、生涯を平和憲法に捧げた方でした。父は自分より下級生の小林氏を「すぐれた人間」として尊敬しておりました。
小林氏、それから全く有名人ではありませんが私の父、その他、けっこうさまざまな昔の旧制高校出身者を見ていて、この戦前の一時期の「旧制高校」という独特な時期の不思議さに感じ入ったことがあります。日本近代教育史の中の一種のsanctuaryというような時期なんですよね。
旧制高校と言うと、一種、エリートの集まりのような感じで、実際そうではあるのですが、そこから自由で平等な考え方、社会貢献への希求、を持つ人々を輩出しているのです。
ほぼ全員寮生活の旧制高校、思いますのに、優秀な学生たち、それまではそれぞれの出身地で優等生として地域・家の名誉とされつつ、育ってきた人たちが、そうしたしがらみから逃れ、はじめて、自分の好きなことを好きな友人たちと追求する、そういう青春を謳歌したわけです。そこから、自由と平等と友情を何より大切にする人たちが生まれました。旧制高校出身者は、そのあと、東大・京大などに進んでも、大学よりも旧制高校を自分のアイデンティティの証としている場合が多いようです。
「教育」の効果です。エリート校が必ずしも弱者を踏み台にするタイプのエリートを生み出すわけではないのです。使命感のあるすぐれた教師がすぐれた学生を育てれば、まっとうな使命感のある人間が育つのです。フランスのENA、ENSなどのグランゼコルはそういうところがありますよね。すぐに思い浮かぶのはエコルノルマルの出身、ロマン・ロランですが、今の人は知らないかな。
「旧制高校」はそういう集団でしたが、育ち方によって、こういう人々は育ちます。厚生労働省関係では、炭谷茂さんなど、そうではありませんか?
それが今は...、という繰り言に落ちてしまわざるを得ない現状が悲しいですが。
でも、教育さえあれば、というのと、霞が関はそういう人々が生きていける環境づくりが急務ですね。

この記事関連で、旧制高校について、いくつかのものを最近、読んでみましたが、けっこう懐旧談が多く、懐旧だけでなく、旧制高校の本質についての話もあって、とても読みやすくまとまっていたのが、雑誌の記事で一つ、ありました。2016.11.27「サンデー毎日」p.148-151、で、「僕らは一高で『人間』と『教養』を学んだ ー 我が愛しき『旧制一高』」というもの。詩人中村稔氏と元富士銀行副頭取楠川徹氏の対談で、司会が評論家坪内祐三氏です。記事が非常にうまくまとまっているのは、おそらく、この司会、今は故人になってしまわれましたが、博覧強記(やや錯乱狂気の気味あり)だったツボちゃん、坪内祐三氏によるものでしょう。
・全寮制について「24時間教育ということです。寮にいるだけで学問の雰囲気に包まれていました。外国では珍しくありませんが、日本では特殊な制度ですね。」「1部屋に15人ほどが暮らしていたから、同室の連中を24時間見ていると、自然とそれぞれの個性、人間性、能力などがわかってくる。じつに貴重な環境でしたね。」「やがて互いに問いかけあい、それがディスカッションに発展する。知的に影響を与え合う関係が育まれる環境だったんですね。」「(先輩が寮に遊びに来て)寮の外からもたらされる社会の話題は多岐にわたり、豊かな勉強になりました。」
・教員について「通史のディテールを教えるのではなく、歴史とは何か、その本質を教えるのが一高の授業でした。」「すると竹山先生は『私はドイツ語学は教えていません。ドイツ文学と哲学を教えました。』ときっぱりおっしゃられました。語学以上の高度なものを教えていただいたわけです。」
・時代について「一高はスーパーエリートを養成した学校でありながら、戦時中、時代に迎合しませんでしたね。」「我々は戦争が終わったらどうしようかとばかり考えていました。戦争協力はやむを得ない状況でしたから、いやいやながらやっていましたが。」
・戦後「あの当時文科に入った連中は、(中略)官僚になって日本を再建するという抱負があったと思います。実際に約半数が、大蔵省、通産省、厚生省、国土庁などの役人になりました。続いて多いのが銀行と商社です。学者になった人は少なかったですね。」

ものすごい秀才で、厚生省に入った中野徹雄氏という方の話が出てきます。学生なのに、教授からヘーゲルの原典輪読に誘われたとか、ヘルマン・ホイヴェルスがヨーロッパ文化史をドイツ語で教えていたのに受け答えをしていたのは彼くらい、という。体が弱くて、薬務局長で退職されたようですが。

素人考えですが、今の日本でも、せめて公立の中学高校は地域で統合して六年制にできないのか、高校受験で切るよりも、「ものを考える」六年間を作れないのか、とか、思いますがね。
しばらく前、コロナ禍の折に、「欧米に合わせて、新学期を秋に移行」とかどこかの知事たちが大騒ぎしていたことなど、忘れ去られているでしょうが。

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