フォト
2026年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

« 政策研究フォーラム講演の案内 | トップページ | 障害者雇用率制度の見直し検討@『労基旬報』2026年5月25日号 »

2026年5月21日 (木)

極右政党を無害化するたった一つの冴えたやり方@Hanadaプラス

ここ数日の話題をさらった東大五月祭の参政党講演会への爆破予告をめぐる話それ自体は、我らが常見陽平同志に委ねてわざわざ論じるつもりはないのですが、日本における参政党問題に相当するであろうドイツのAfD問題についての本を紹介する書評のタイトルが「極右政党を無害化するたった一つの冴えたやり方」という余りにもドンピシャでありました。

つうか、このタイトルの書評が載っているサイトがHanadaプラスというまさに極右系メディアであることを考えると、この梶原麻衣子さんの書評が自己言及的でありながら余りにも冷静沈着であることがじわじわくるのですが。

https://hanada-plus.jp/articles/1879

東大「五月祭」での参政党・神谷宗幣代表の講演が中止となり、その対応を巡って大学内外で議論が巻き起こっている。

特にSNSを中心に展開されている東大関係者(OB含む)たちの議論は、結論は違ってもさすがと思わされる論理展開のものもある一方、「いくら相手が参政党だからってここまで言うか」と思わされるようなものもあり、それゆえに「参政党をいかに扱うべきか」の難しさを感じさせる状況となっている。

参政党を巡って、大きく見ればリベラル層内、特にエリート層内で侃々諤々の議論が展開されているのは興味深くはあるのだが、問題はそれがやり方によっては参政党支持を後押しするものになりかねない点だろう。

実際に、そうした「予期せぬサイクル」が回っているらしいのがドイツである。

ドイツと言えば日本にとっては「戦前の行いを反省し」「ヘイトスピーチは違法」であり「ナチスの反省から右派には厳しい」はずのお国柄だが、この10年あまりは「極右政党」とも評される政党AfD(ドイツのための選択肢)が躍進を続けている。2025年の連邦議会選挙では、20%の得票を得て第二党となった。

もちろん日本とドイツ、あるいは参政党とAfDはあらゆる点において違うため、比較の際には気を付ける必要がある。だが、なぜAfDはここまで躍進することができ、それを続けているのかは、今後の参政党の行方を占ううえでも、またメディアや世論が対処する際にも一つの参考になるだろう。

そこで参考になるのがユストゥス・ベンダー著、田中辰明訳『なぜAfDは支持されるのか――右派ポピュリズム政党躍進の秘密』(同時代社)だ。

本書は2017年に書かれたものだが、2025年のAfDの躍進を機に再び話題になり、新版として最新状況が書き加えられたものだ。ドイツのある論客に言わせれば、「AfDの現状を言い当て、今後の暗い未来を予測している」一冊だという。

著者はFAZというドイツの高級紙の特派員で、本書は最終的には「2026年にAfDの首相が生まれる」可能性を指摘している。だが本書のキモはそのおどろきの予測ではなく、AfDを取材し、その「躍進」の本質を見極めている点にある。 ・・・

 

 

 

« 政策研究フォーラム講演の案内 | トップページ | 障害者雇用率制度の見直し検討@『労基旬報』2026年5月25日号 »

コメント

講演会への妨害行為において「差別から自由な知的探求の空間」を謳う東大憲章の順守を求める署名を迫ったようだが、ここには差別や自由という概念に対する無知・無見識・無反省が見て取れる。(何ら義務のないこのような行為を強要することそのものがおぞましく許されない邪悪にして醜悪な自由への侵害であり、徹底的に糾弾されねばならないが)

そもそも自由とは差別そのものなのである。「何かを選んで何かを選ばない」という行為そのものが差別にほからならない。自由と平等が本質的に対立するのは自由の本性からして当然のことなのである。

それゆえ、自由な社会とは原則として差別が許される、恣意的に差別してよい社会なのである。これが大原則であり、これを踏まえない議論は混乱するばかりである。

この大原則の例外として「法の前の平等」がある。この例外は民主主義国家においては民主的決定によって認められるものである。

さらに「法の前の平等」という例外の例外としていわゆる「合理的差別」の問題が生じる。


原則は差別してよいのだから、法によらず勝手に例外である差別の禁止を強要することは許されない。これが基本である。

前近代社会では宗教や伝統によって自由が制約されていたが、それは差別してよいものとそうでないものが制限されていたということである。たとえばギルドによる営業規制はギルド構成員の間の差異化を禁じてその間で差別が生じることを防いでいだが、そこには競争原理が働かず、発展も乏しかった。自由に差別できるようになって社会の発展がもたらされたのである。


自由な社会とは差別が許される社会であり、それが社会の発展をもたらすのである。勝手な価値判断を押し付けて自由=差別を制限することは許されない。

このような自由と差別の関係を踏まえれば、「差別から自由な知的探求の空間」という概念が容易なものでないの明らかだろう。それはある意味では矛盾した概念なのである。このような矛盾について真剣に反省することこそが知的探求の空間としての大学には求められる。安易に他人の言動を差別とレッテル貼りをしてこれを制約しようとする行為は「差別から自由な知的探求の空間」からもっとも遠いものというべきだろう。


どんな発言に対してでも爆破予告というのは論外ですが、私は参政党に反対する方(いわゆるリベラル?)の発言や行動はあまり効果をあげていない(参政党の支持を減らしていない)ように思います。この様子をみてずっと昔に読んだ ”なぜ数学教師は生徒に人気がないか?” という記事を思い出しました。この記事によると
  数学教師は自分の発言(数学的真実)の正しさを確信しているので、発言を周囲がどう評価するかには関心がない
という事だそうです。参政党を批判する方にも同じような考えの方がいらっしゃるのかもしれません。
このブログにもフェミニストに対する批判をコメントされる方がいらっしゃいますが、そのような方は上から目線で押しつけがましい数学の授業を聞かされてうんざりしている生徒のような気分なのでしょうか?

一方、”日本人ファースト”を掲げる参政党支持者には ”不平士族” という言葉が思い浮かびました。明治維新で、それまで自分達より身分が下だった農民や町人が自分たちと同等になった事に反対する武士を ”不平士族” と言ったそうです。”日本人ファースト”を掲げる参政党支持者はそれまで自分達より地位が下だと思っていた外国人(アジア系外国人)労働者が自分たちと同等か場合によっては自分達より上になる可能性があることに反対する、いわば ”不平日本人”という方が多いように思います。
あるファストフードチェーンが
  期限付の資格で入国した外国人労働者を期限内に永住資格が得られるように育成し、いずれ店長にしたい
と発表したところ
  外国人は日本人とは衛生に関する考え方が異なるから店長にするな!
とか
  外国人を育成する時間と金があるなら日本人を店長にするように育成しろ!
という意見が殺到し、そのファストフードチェーンに対する不買運動が起きたそうです。
  https://coki.jp/article/column/69103/
モスバーガー「ベトナム人店長」誕生目前で大論争!不買の嵐、その真相と日本が直面する現実
自分の将来に希望が持てる人は他人の状況が気になりませんが、自分の将来に希望が持てず自分より下だと思っていた人たちに追いつかれそうになればその人たちを下げる事により少しでも自分の地位を守ろうとする人もいると思います。

私には選挙や政治に関する事以外で日本人と外国人を区別する理由が分かりません。日本人がやってよい事は外国人でもやってもよいと思いますし、外国人がやってはいけない事は日本人だってやってはいけないと思います。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 政策研究フォーラム講演の案内 | トップページ | 障害者雇用率制度の見直し検討@『労基旬報』2026年5月25日号 »