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« 誰の労働時間規制を緩和したいのか? | トップページ | 桓檀古記騒動 »

2025年12月21日 (日)

今年の人気エントリランキング

今年もそろそろ終わりに近づき、ちょっと気が早いですが、毎年恒例の人気エントリランキングを発表します。ただし、一昨年まではPV数でランキングしていましたが、中には入口回数が極めて少ないのになぜかPV数だけ異様に多いのもあったりして、そういうノイズを排除するため、昨年より入口回数でランキングすることにしています。

まず第1位は、9月15日の「発言と解雇」で、3736回でした。これはアメリカの病理的なキャンセル現象から日本で起きたあの事件を想起したものです。読んで「そうだよな」と思った方が多かったということなのでしょう。

発言と解雇

アメリカでこんなことが起こっているようですが、

「チャーリー・カーク氏暗殺」を嘲笑した者たちが相次ぎ解雇…深まる米国の分断

英紙ガーディアンは13日(現地時間)、SNSでチャーリー・カーク氏の銃撃事件を蔑視し嘲笑した人々が相次いで解雇されていると報じた。教師や公務員、消防士だけでなく、大統領の警護を担当する大統領警護隊(シークレットサービス)の職員も、カーク氏の死を嘲笑する投稿をした後に解雇された。「カーク氏の死は神の贈り物」「カーク氏の訃報が私の人生を輝かせた」「自業自得」などの投稿をしたことが理由だった。
民間企業もカーク氏を嘲笑した社員を懲戒したり解雇したりし始めた。アメリカン航空とデルタ航空はこの日X(旧ツイッター)に「いかなる種類の暴力にも反対する」とし、カーク氏の死を嘲笑したパイロットと乗務員に停職処分を下したと明らかにした。北米で最高の人気を誇るスポーツ、米プロフットボールリーグ(NFL)のカロライナ・パンサーズの広報担当は、SNSにカーク氏の写真と共に「なぜ悲しむのか。(銃器所持を擁護した)あなたにはその価値がある」と投稿したが、11日に職を失った。 

気に食わない発言をしたことを理由にその発言者をキャンセルしたがるこういう風潮はもちろん批判されるべきですが、そこには当然知的誠実性が必要でしょう。

かつて呉座勇一さんがSNS上での不適切発言をしたことを理由に雇止め(解雇?)されたときにそれをきちんと批判した人だけが、このアメリカの醜悪な動きに批判の言葉を投げかける資格があるというべきでしょう。少なくとも、オープンレターに付和雷同した人々が、知らんぷりして批判していい案件ではないように思われます。

これは労働法的にも大変興味深い事案なので、是非判決まで行って欲しい

続く第2位は、9月12日の「政治家もメディアも解雇規制を誤解している-問題は法ではなく雇用システム@『中央公論』2024年12月号」で、3668回でした。これは自民党総裁選に小泉進次郎が出るという話で、昨年『中央公論』12月号に寄稿した文章を紹介したものです。一知半解で知った風な口をきく人ばかりがやたらに多い解雇問題について、おそらく過不足なくもっとも的確に解説した文章なのではないかと思います。

政治家もメディアも解雇規制を誤解している-問題は法ではなく雇用システム@『中央公論』2024年12月号

Koizumi 本日、小泉進次郎氏が自民党総裁選への出馬の意向を固めたと報じられています。

小泉進次郎氏、自民総裁選に立候補の意向固める 来週会見で調整

 小泉進次郎農林水産相(44)は12日、自民党総裁選(22日告示、10月4日投開票)に立候補する意向を固め、周囲に伝えた。13日に地元の神奈川県横須賀市で支援者と意見交換し、来週中に記者会見を開く方向で調整している。

61lvdan9yul_sy466__20250912122301 こうなると、昨年の総裁選で失速した原因ともいわれている「解雇規制」問題について、総裁選直後に『中央公論』12月号にわたくしが寄稿した文章をじっくりと読んでいただくことが重要なことではないかと愚考し、一年近く経った文章ではありますが、ご披露申し上げておきたいと思います。

政治家もメディアも解雇規制を誤解している-問題は法ではなく雇用システム@『中央公論』2024年12月号

 去る9月27日に自由民主党の総裁選挙で石破茂氏が総裁に選出され、10月1日の臨時国会で内閣総理大臣に指名されて石破茂内閣が発足した。石破首相は臨時国会会期末の9日に衆議院を解散し、27日投開票の衆議院議員選挙で自民党は連立政権を組む公明党と合わせても過半数を割る大敗を喫したが、比較第一党には留まり、連立の組み替えなどを模索している。
 今回の自民党総裁選ではさまざまな論点が議論の俎上に載せられたが、その中でも政治家やマスメディアの関心を惹いたものの一つに、解雇規制をめぐる問題があった。とりわけ総裁選が始まった当初は最有力候補と目されていた小泉進次郎氏が、結果的に石破、高市早苗両氏の後塵を拝して3位に終わった原因の一つとして、彼が立候補表明時に「労働市場改革の本丸である解雇規制の見直し」を掲げたことが指摘されている。
 小泉氏は「現在の解雇規制は、昭和の高度成長期に確立した裁判所の判例を労働法に明記したもので、大企業については解雇を容易に許さず、企業の中での配置転換を促進してきた」と述べ、「人員整理が認められにくい状況を変えていく」と訴えたことで、多くの批判を浴びた。また、結果的に候補者9人中8位と惨敗した河野太郎氏も、解雇規制の緩和や解雇の金銭解決を主張していた。
 この間、マスメディアではやや通り一遍の解説がいくつか掲載されはしたが、この問題の本質を雇用システム論を踏まえて論じたものは少なかったように思われる。本稿は、この問題を考えるうえで必要最小限の論点を提示し、世上にはびこる「解雇規制をめぐる誤解」を解きほぐそうとするものである。
 
法規定上の「解雇規制」は強くない
 まずもって、政治家もマスメディアも「解雇規制」という言葉を何の疑いもなく使っているが、そもそも日本の実定法上に解雇を規制する法律は存在しているのだろうか。小泉氏が言うような「大企業については解雇を容易に許さず、企業の中での配置転換を促進」するような法規定があるのだろうか。
 実定法上、特定の解雇を規制する規定は存在している。労働基準法は30日前の解雇予告を義務付けるとともに、産前産後休業中と労災休業中の解雇を禁止しているし、労働組合法は組合員であることを理由とする解雇を禁止、男女雇用機会均等法、育児・介護休業法等々、特定の解雇を規制する法規定は結構ある。しかし、小泉氏が想定しているような法規定は存在しない。
 というと、いやいや、労働契約法第16条が解雇を一般的に規制しているではないかという声が出てくるだろう。しかし同条は「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」と述べているだけである。これこそが解雇を困難にしている元凶であり、速やかに削除すべきだと主張する人もいる。ではこの条文を削除したらどうなるだろうか。何も変わらないのである。本条は2007年に労働契約法が制定されたときに労働基準法第18条の2が平行移動したものだが、同規定は03年の改正で書き込まれたもので、それまでは存在しなかった。では03年改正まで解雇は原則として自由だったのかといえばむしろ逆で、六法全書のどこにも書かれていない解雇権濫用法理によって、現在と同様に裁判所では多くの解雇事案が権利濫用ゆえに無効と判断されていた。
 権利濫用法理とは民法第1条第3項に「権利の濫用は、これを許さない」と書かれている一般原則で、法律上行使できる権利であっても濫用してはならないという当然の理路に過ぎない。問題は何が権利の濫用に当たるかだが、労働契約法第16条は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合」という、それ自体としては何ら特定性のない一般的な文言を示しているだけである。従って、いかなる解雇がこれに該当するかは、1950年代以来蓄積されてきた判例によってしか判断できない。
 小泉氏が想定しているのはおそらく、整理解雇4要件と呼ばれるものの第2要件「解雇回避努力義務」であろうが、これは最高裁判例ですらなく、1979年の東洋酸素事件という東京高等裁判所の下級審裁判例があるに過ぎないのだ。しかしながらそれ以来、圧倒的に多くの裁判例において、裁判所はこの枠組みに従って判断してきた。
 
日本型雇用特有の「職務無限定」性
 ではなぜかくも茫漠とした一般的な解雇権濫用法理が、小泉氏の言う「人員整理が認められにくい状況」を生み出してきたのだろうか。それは、社会の現実に国家が介入するという意味での法規制のゆえではなく、社会の現実が無効とすべき権利濫用の中身を決定づけてきたからである。社会の現実とは何か。それは、企業と労働者の間の雇用契約関係の在り方であり、近年流行の用語法でいえば、欧米アジア諸国で普遍的なジョブ型雇用契約ではなく、日本独特のメンバーシップ型雇用契約である。
 産業革命以来、日本を除く世界の雇用契約のスタンダードは、まず職(ジョブ)があり、そこに人をはめ込むというものである。借家契約が家主と借主が特定の住宅について設定する賃貸借契約であるのと同様、雇用契約も使用者と労働者が特定の職務について設定する労務の賃貸借契約である。募集採用もすべて特定の職務をめぐる欠員補充であるし、社内昇進も公募への応募という形をとる。これを言葉の正しい意味での就「職」と呼ぶならば、日本に就「職」はほとんど存在しない。
 では日本で「しゅうしょく」と呼ばれているものの内実は何かといえば、共同体の一員として会社に入ること(入社)を意味している。使用者と労働者は特定されるが、具体的にいかなる職務を遂行するかという、日本以外であれば最も重要であるはずの要素が、日本の雇用契約では限定されていない。それゆえ原理的には、社員にとっては会社の中に存在する全ての職務が、会社の命令によって従事する義務の対象となりうる。実際、日本の最高裁判例によれば、契約上絶対に他の職務には回さないと言っていない限りは、配置転換を受け入れる義務がある(1989年の日産自動車村山工場事件判決)。
 ごく最近になって、将来就く職務についての明示義務が省令に規定されたり、職種限定の労働者を会社が一方的に配置転換するすることができないという最高裁判例が出たりして、若干の動揺はあるとはいえ、今日でもなお職務無限定性こそが日本の雇用契約の特徴である。これを筆者は欧米アジア諸国の「ジョブ型」に対して、日本独特の「メンバーシップ型」として定式化してきた(『ジョブ型雇用社会とは何か』岩波新書)。
 
強大な人事権に伴う解雇回避の義務
 会社側がそれだけ強大な人事権を持っているので、逆に社内で配置転換が可能な限り、解雇は正当とされにくくなる。これは規制ではない。雇用契約で職務が特定されていれば、その職務が消滅するのであれば、他の職務に配置転換することが許されない以上、配置転換によって解雇を回避する努力義務などいうものはありえない。しかし、社内のいかなる職務にも配置転換する権利を会社が有しているのであれば、いざというときには当然その権利を行使すべきであって、幾らでもできるはずの配置転換をあえてやらずに「君の仕事はなくなった」などと言って整理解雇することが許されないのは当然であろう。
 多くのジョブ型社会には解雇規制立法が存在し、不当な解雇を禁止している。特にヨーロッパ諸国には事細かな解雇の手続規制も存在するが、職務がなくなるがゆえに解雇するという整理解雇は、それが真実である限りあらゆる解雇類型の中で最も正当な解雇理由である。これに対して能力不足解雇や労働者個人の問題を理由とする解雇は厳しく制限されることになる。
 これと対照的に、社内のあらゆる職務に従事しうる日本のメンバーシップ型社員の場合、経営危機で会社自体が収縮し、社内に配置転換可能な職務が存在しないという状況に追い込まれない限り、整理解雇が正当と認められにくくなる。この現状を「人員整理が認められにくい状況」と表現するのは正しいが、それはいかなる意味でも、実定法の規定が会社の意図に反して上から押しつけている規制ではない。会社が行使できる強大な人事権が、いざというときに自らを拘束しているに過ぎない。
 なお、日本では整理解雇だけでなく能力不足解雇も認められにくいとよく言われる。確かにそうだが、その理由も雇用契約の職務無限定性にある。社内のどんな仕事にも就けられるのだから、ある仕事ができなくても探せばやれる仕事があるだろう、というわけだ。欧米アジア諸国のジョブ型社会では、具体的な職務に関して雇用契約を結ぶのであるから、当該職務を遂行する能力が著しく劣る者を解雇することは、それをきちんと証明することを条件として正当と認められる。とはいえ、それは「私はその仕事ができます」と言っていたのに、採用して実際にやらせてみたら全然できないというような場合に限られる。長年その仕事をやらせて、言い換えればその仕事のスキルに文句をつけずに労務を受領し続けておいて、5年も10年も経ってから能力不足だと言いがかりをつけて解雇することが認められるわけではない。
 
法改正では「解雇規制緩和」は困難
 さてこのように見てくると、小泉氏が言う「大企業については解雇を容易に許さず、企業の中での配置転換を促進」したり「人員整理が認められにくい状況」を生み出してきたのは、会社の意思に反して上から押し付けられる法規制ではなく、労働者を会社内のいかなる仕事にも就けることが可能な強大な人事権にあることが分かるだろう。この人事権も、別に実定法のどこかに規定されているわけではなく、現実の日本企業の姿に対応して、過去の判例が積み上げてきた配置転換法理として存在しているに過ぎない。日本の労働法制というのは、肝心かなめの部分というのは法規制ではなく、会社の現実の姿を映し出した判例法理という形で存在しているのである。
 では、それを変えるためにはどうしたらいいのだろうか、法律の規定改正でそれが可能になるのだろうか。筆者がかつて政府の規制改革会議雇用ワーキンググループに呼ばれて意見を述べた時、「労働契約法第16条が問題ではないか」と問われたことがあるが、同条は権利を濫用してはいけないという当たり前のことしか述べていないので、改正することは不可能だ。まさか「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合であっても、その権利を濫用したものとはみなさず、有効とする」などとは改正できまい。面倒くさいとばかりに同条を削除してみても、2003年改正以前に戻るだけである。1990年代末に規制改革会議で八代尚宏氏らが解雇規制の緩和を主張し始めたときには、六法全書上には解雇権濫用法理の規定などまったく存在していなかったのだ。
 筆者がかつて2013年に当時の産業競争力会議雇用・人材分科会に有識者として呼ばれたとき、一つの案として提示したのは、未だに法規制としては存在していない解雇に係るルールを、法律上明確に法規制として書き込んでしまうというものであった。皮肉な言い方だが、欧州並みに解雇規制を設ければ、その例外(解雇できる場合)も明確化するだという理路である。具体的には、次のような条文が考えられる。
第○条 使用者は次の各号の場合を除き労働者を解雇してはならない。
一 労働者が重大な非行を行った場合。
二 労働者が労働契約に定める職務を遂行する能力に欠ける場合。
三 企業経営上の理由により労働契約に定める職務が消滅または縮小する場合。ただし職務が縮小する場合には、解雇対象者は公正に選定しなければならない。
2 前項第三号の場合、過半数労働組合または従業員を代表する者に誠実に協議をしなければならない。
 「労働契約に定める職務」というのが明確に限定されている場合、この条文は意味を持つ。また、今回小泉氏が強く主張していた整理解雇時にリスキリングや再就職支援を義務付けるというのも、第2項に追加して「前項第三号の場合、・・・解雇対象者に対する能力再開発訓練を実施するとともに、他の企業への再就職を支援しなければならない」との規定を設ければ実現できる。
 ただし言うまでもないが、この条文はあくまでも「労働契約に定める職務」が限定的に存在することを前提にしたジョブ型の法規定である。いつでもどこでもなんでもやる無限定正社員と企業の強大な人事権をそのままに維持しておきたいのであれば、これはほとんど解雇禁止規定になってしまうであろう。従って、なお圧倒的に多くの日本企業がメンバーシップ型であり続けようとしている今日、このような提案が実現する見込みはほとんどない。
 
現実が先行する「解雇の金銭解決」
 解雇についてはもう一点、河野太郎氏が言及した金銭解決という問題がある。これは実際に、2003年以来20年以上にわたって労働政策において検討が続けられ、現在は労働政策審議会労働条件分科会で審議対象となっている案件である。筆者自身も、政府の要請に応じて実際に行われている解雇の金銭解決の実情を調査し、報告書にまとめ、その内容は政府の検討会や審議会に報告されており、この問題の当事者でもある。しかしここでは、そもそも解雇の金銭解決制度の創設という問題設定そのものの問題点を指摘しておきたい。
 解雇の金銭解決制度が必要だという前提で政策が動いてきている以上、日本では解雇は金銭解決できないと思っている人がいるかもしれないが、日本の実定法上で解雇を金銭解決してはならないなどという法律はどこにもない。むしろ、現実には解雇の圧倒的大部分は金銭解決されているのである。金銭解決ができない、正確に言うと金銭解決の判決が出せないのは、裁判所で解雇無効の判決が出た場合のみである。判決に至るまでに裁判所で和解すれば、解雇事案の大部分は金銭解決しているし、あるいは同じ裁判所でも労働審判という手続きをとれば、やはり解雇事案のほとんど金銭解決している。行政機関である労働局の個別労働関係紛争のあっせんであれば、金銭解決しているのが3割で、残りはいわば泣き寝入りの方が多い。そこまで行かないものも山のようにあるだろうから、現実に日本で行われている解雇のうち、そもそも金銭解決ができなくて問題となっているというのは、氷山の一角というのも言い過ぎで、本当に上澄みの一部だけである。
 筆者は労働局のあっせん事案を千数百件ほど分析したが、むしろ問題は3割しか金銭解決していないことに加えて、金銭解決している事案についても、例えば解決金の中央値は16万円程度に過ぎないという金額の低さにある。労働審判における金銭解決水準の中央値は概ね150万円であり、裁判上の和解であれば300万円程度であることを考えると、金銭解決の基準が明確になっていないために、非常に低額の解決をもたらしているか、あるいは解決すらしていないことになる。大企業の正社員でお金のある人ほど裁判ができるが、そうではない中小零細企業や、あるいは非正規の人になればなるほど裁判はできない。弁護士を頼むということもできず、低額の解決あるいは未解決になっていることに着目をして、まさに中小零細企業や非正規の労働者の保護という観点から、解雇の金銭解決を法律に定めていくことには意味があるのではないかと考えられる。
 ところが、現在政府の審議会で議論されている解雇の金銭救済制度案というものは、あくまでも裁判において解雇が無効である場合に原職復帰の代わりに金銭救済を労働者が請求できるという極めて限定的な制度設計になっている。そのようになった経緯はいろいろあるのだが、現実社会に存在する事実上の金銭解決とは切り離された議論になってしまっている感が強い。現実社会の解雇は大部分が金銭解決しており、むしろ低額の解決が問題になっているにもかかわらず、なぜこの問題はここまで込み入った話になってしまったのだろうか。詳細な解雇規制立法を有するヨーロッパ諸国でも、ドイツやフランスのように解雇は金銭解決が一般的なのに、なぜ日本ではそれが難しい話になるのだろうか。
 その最大の理由は、例外的な状況に対して最後の手段として持ち出してくるべき権利濫用法理を、よほどのことがない限り常に適用される原則的な法理として確立してしまったことにある。権利濫用法理と言いながら解雇に正当事由がなければ権利濫用になってしまうという、原則と例外が逆転した法理になっているのだ。
 
的外れではなかった河野氏の主張
 皮肉な話であるが、ヨーロッパ諸国のように解雇を正面から規制する立法をしておけば、その例外としての金銭解決を法律上に規定することも簡単であったろう。実際、日本労働弁護団は2002年に、解雇の原則禁止規定に加えて金銭賠償規定も盛り込んだ「解雇等労働契約終了に関する立法提言」を公表していた。
 こうしてみると、河野氏の「会社都合で一方的に解雇されたときに金銭補償のルールがあることが大事だ」という主張はそれほどおかしなものではないし、その論拠として「中小零細企業の従業員は、会社都合で解雇されたのに金銭の補償がなされない場合が少なくありません」というのも、(多くのマスメディアの報道に反して)むしろ現実を見据えたものであったといえよう。小泉氏の議論と同列に批判されたのは、やや気の毒な話ではあった。今後の解雇規制に関する議論は、せめてこの水準から始めてもらいたい。

第3位は、昨年1月13日の「地方公務員は労働基準法第39条第7項が適用除外となっている理由」で、1996回でした。こちらは正直言って労働法の超絶トリビアな話題であって、一般向けするようなトピックであるとは全然思えないのですが、なぜか多くの人が読みに来たようです。

地方公務員は労働基準法第39条第7項が適用除外となっている理由

F9fmcqd_400x400 焦げすーもさんが、トリビアのように見えてなかなかディープな問題提起をしています。

おっちゃん「地方公務員の1/4くらいが年休5日/年取れてないという調査知っとるかい?」 ワイ「知らんけど、実感とズレるなあ。」 おっちゃん「地方公務員の大部分が労基署の調査対象外やけど、そもそも、年休取得が義務化されてない。」 ワイ「嘘やん、地方公務員法第58条第3項・・・ほんまや。」

地方公務員法第58条第3項(他の法律の適用除外等) “労働基準法第二条、(中略)第三十九条第六項から第八項まで、(中略) の規定並びにこれらの規定に基づく命令の規定は、職員に関して適用しない。” 改正労基法の年次有休休暇の取得義務の箇所がすっぽりと適用除外に。 どうしてこうなった。。

おっちゃんのこの問いは、なぜ地方公務員の労働基準が守られないかという根源的なものであった。 回答としては、 1.民間と比較して、監督機関が機能していない 2.罰則を背景としていない(※)ため、管理者が法令遵守する動機づけが弱い(※現業等を除く) 3.人事管理部署が素人集団 といったところか。

あとは、 同規模の民間企業と比較して、管理職のマネジメント意識・能力が低いこと。(エビデンスはない

そもそも地方公務員に労働基準法が原則的には適用されているにもかかわらず、国家公務員と同じように適用除外だと勝手に思い込んでいる人が結構多かったりするんですが、それはまあおいといて。

ていうか、そもそも労働基準法が1947年に制定された時に、ちゃんとこういう規定が設けられており、これは今日に至るまで存在し続けているんですが、公法私法二元論という実定法上に根拠のない思い込みの法理論によって、脳内で勝手に適用除外してしまっている人のなんと多いことか。

(国及び公共団体についての適用)
第百十二条 この法律及びこの法律に基いて発する命令は、国、都道府県、市町村その他これに準ずべきものについても適用あるものとする。

いずれにしても、地方公務員法で労働基準法の一部の規定については適用除外になっているのですが、それは公法私法二元論などとは全く関係がなく、単純に公務員法上は過半数組合又は過半数代表者がないために、それに引っかけた規定が適用除外されているということなんですね。そもそも、労働基準法第2条が先頭に立って適用除外されているのは、民間企業では労使対等かも知らんが、公務員に労使対等なんてないぞ、使用者は国民様や住民様であるぞ、というイデオロギーから来ているのですね。

で、労働基準法が制定された時には、第39条の年次有給休暇の規定はフルに適用されていたのですが、1987年改正で労使協定による計画付与(現在の第6項)が設けられた時に、労使協定というのは地方公務員にはあり得ないからという理由で、この項が適用除外にされたのです。労使協定による変形労働時間制やフレックスタイムや裁量労働制なんかと同じ扱いです。

さて、そういう目で働き方改革で導入された第7項を見ると、どこにも過半数組合又は過半数代表者とか労使協定とかという文字は出てきません。

 使用者は、第一項から第三項までの規定による有給休暇(これらの規定により使用者が与えなければならない有給休暇の日数が十労働日以上である労働者に係るものに限る。以下この項及び次項において同じ。)の日数のうち五日については、基準日(継続勤務した期間を六箇月経過日から一年ごとに区分した各期間(最後に一年未満の期間を生じたときは、当該期間)の初日をいう。以下この項において同じ。)から一年以内の期間に、労働者ごとにその時季を定めることにより与えなければならない。ただし、第一項から第三項までの規定による有給休暇を当該有給休暇に係る基準日より前の日から与えることとしたときは、厚生労働省令で定めるところにより、労働者ごとにその時季を定めることにより与えなければならない。

どこをどうみても、使用者に年休を取得させる義務を課しているだけで、これを適用除外する理由はなさそうに見えます。

ところが、この2018年改正時の地方公務員法第58条第3項の改正規定を見ると、それまで労働基準法第39条第6項だけが適用除外であったのが、同条第6項から第8項までが適用除外となっているのですね。いったいこの第8項とは何かというと、

 前項の規定にかかわらず、第五項又は第六項の規定により第一項から第三項までの規定による有給休暇を与えた場合においては、当該与えた有給休暇の日数(当該日数が五日を超える場合には、五日とする。)分については、時季を定めることにより与えることを要しない。

第5項は時季変更権ですが、第6項がまさに1987年改正で導入された労使協定による計画付与で、その場合にはこの第7項が排除されるというわけです。つまり、第7条の適用されるか否かは、第6条によって影響を受けるのであり、それは過半数組合や過半数代表者が関わってくるので、その論理的帰結として、第7条の規定も丸ごと地方公務員には適用除外とした、というまあそういう説明になるわけです。

とはいえ、そういう手続規定の輻輳を理由として、れっきとした実体法的規定を適用除外してしまっていいのか、というのは、それ自体大きな問題であり得るように思います。

本来なら立法の府であるはずの国会で、選良であるはずの国会議員の方々が口々に疑問を呈してもよかったはずだと思いますが、残念ながら国会審議の圧倒的大部分は、裁量労働制のデータが間違っていたことの非難と、高度プロフェッショナル制度というのが如何に危険きわまりないものであるかの糾弾に終始し、誰もこういう問題を提起することはありませんでした。まあ、それも繰り返される光景ではありますが。

第4位は10月14日の「石破首相、連合大会でストライキを論ずる」で、1833回でした。

石破首相、連合大会でストライキを論ずる

000182308 去る(昭和100年)10月10日に、公明党が連立離脱するという激震が走り、同日には石破首相の戦後80周年所感が公表されるという騒ぎの中で、もはやほとんど忘れられつつありますが、10月7日の連合定期大会に石破首相が招かれて挨拶をしていて、その中で最低賃金だけではなくストライキの話をしていたんですね。

https://www.kantei.go.jp/jp/103/actions/202510/07rengou.html?s=09

・・・私は三島由紀夫という小説家がすごい好きで、学生の頃からよく読んでいたのですが、『絹と明察』という小説を御存じの方もあるかもしれません。昭和30年代の小説です。1954年、昭和29年に、近江絹糸の労働争議というのがありました。ここは初めての人権争議というものでございました。この争議において、女子従業員の方々が外出、結婚、教育の自由がないというような労務管理が行われとったわけでありますが、この是正、そういう方々の待遇改善、そういうものを組合が求めて全面的に勝利したというのを描いておるのが、三島の『絹と明察』という小説でございます。新潮文庫で出ていますから、どうぞお暇があればお読みください。
 昔の話だよと、今は関係ないんだよと、いうことかもしれません。ですけれども、私は昭和54年に学校を出て、とある銀行に入りましたが、高校に入ったのは昭和47年のことでございました。ストライキのピークは1974年、昭和49年です。私、高校3年生でした。そのときにストライキというのは5,200件あったんだそうです。参加した人は362万人いたんだそうです。1週間学校休みになりました。じゃ、直近去年2020年はどうであったかというと、ストライキは何件があったか、27件です。全国で、ピークの0.5パーセント。ストライキに参加した人は何人だったか、935人。ピークの0.03パーセントということであります。
 それはそれでいいことだと、いろいろな労使の協議というのがあって、ストライキとかそういう手段に訴えなくても、いろいろなことが改善していく、社会生活もきちんと安定する、それはそれですばらしいことでありますが、日本国憲法に団結権、団体交渉権、団体行動権、労働三権というのが明記をされておるわけでございまして、これが労働者の大切な権利であるということは何ら変わりはございません。

連合の組織内議員のいる政党ではなく、その政権をひっくり返そうと運動しているはずの自民党政権の(自民党のではなくても)トップから、「君たち、自分たちにはストライキ権という大事なものがあるってことを忘れるんじゃないよ」と教え諭されているかのようで、これもまたなかなかじわじわくるものがあります。

(追記)

ちなみに、この近江絹糸人権争議については、本ブログで、本田一成さんの本を紹介したことがあります。

本田一成『写真記録・三島由紀夫が書かなかった近江絹糸人権争議』

9784794811189 本田一成さんより、『写真記録・三島由紀夫が書かなかった近江絹糸人権争議 絹とクミアイ』(新評論)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.shinhyoron.co.jp/978-4-7948-1118-9.html

昭和二九(一九五四)年、一〇六日間に及ぶ日本最大級の労働争議「近江絹糸人権争議」が発生し、国民の目を釘付けにした。その一〇年後、三島由紀夫がこの争議を題材とする長編小説『絹と明察』を世に出している。ところが、関係者に取材をしたはずの三島、なぜか争議の詳細を作品に書き込まなかった。集団就職で工場に勤めた中卒労働者たちと本社の一流大卒エリートたちが見事に一致団結して経営者に立ち向かったこの比類なき争議を詳しく調べていくと、実に興味深い人間と社会の実相が浮かび上がってくる。労働組合を一貫して敵視し続けた経営者。やがて自殺者まで出るに至る凄絶な緊張感。会社側に肩入れする不可解な警察の介入。解放されたはずの若者たちを襲った「もう一つの争議」等々、そこにはいくつもの特異性と謎がある。この争議について記した文献のほとんどは彦根工場における活動を中心に描いているが、実は大阪、大垣、富士宮、東京など各地同時多発の全国規模の争議であった。また、一口に争議といっても、ストライキ、ロックアウト、ピケッティング、乱闘、セスナ機からのビラまき、製品ボイコット、不当労働行為、オルグ合戦、募金活動、銀行や省庁への陳情、政治家の動員、真相発表会、裁判闘争などなど、労使双方が多様な戦術を繰り広げ、マスコミ、警察、暴力団、国会すらも巻き込む総力戦であった。そして各地の現場には、仲間を守って闘い抜いたヒーローたちがいた。争議を経験した若者たちもいまや八〇歳を超えている。筆者は存命のヒーローたちにお会いして、当時の写真を前に心ゆくまで語ってもらった。するとお話を聞くうちに、写真の中から被写体が飛び出してきて、この事件の謎を解きはじめた!――まるでタイムスリップである。争議勃発から六五年が経過し、平成が終わりつつある現在、働く人びとや経営者が本書を読んで(見て)何を感じるか、ぜひ知りたい。そして、叶うことなら二〇〇点を超える未公開写真を掲載した本書を、三島に見せびらかしてやりたい。

近江絹糸の人権争議と言えば、戦後労働運動史に燦然と輝く労働組合側が全面勝利した争議の一つです。それゆえ、それに関する本も多いのですが、今回の本は主としてチェーンストアの労使関係やパートタイマーを研究してきた本田さんが、カタカナのゼンセンになる前の「全繊」、つまり繊維産業の産別組合だったころの話に手を伸ばしています。

まえがきに、本書出版に至る経緯が書かれているのですが、本田さんが前著『オルグ!オルグ!オルグ!』を書く際に、チェーンストアを組織したゼンセン同盟がむかしは全繊同盟で、近江絹糸人権争議なんてのもあったと触れるために1枚の写真を使わせてもらうために、争議の指導者のひとりであり、争議に関する本を書いている朝倉克己さんに手紙を書いたところ、100枚以上の写真を段ボールに溢れるような資料が届き、会いに行ってしゃべっているうちに「写真記録をベースにした本にしますが、よろしいですか」と打診しタラ、朝倉さんの顔が輝いたんだそうです。

というわけで、本書は200ページ余りのうち半分近くが当時の写真で埋めつくされています。当時の日本のにおいがプンプン漂ってくるような写真です。そのうち見開きを2枚ほどアップしておきますが、憎き夏川社長の墓碑銘(法名 釋畜生餓鬼童死至 俗名 那津川蚊喰児)を書いてみたり、なかなかワイルドです。

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第5位は、6月17日の「許可制は健全で届出制は不健全?(再掲)」で、1357回でした。これはもともと2021年6月16日に書いたエントリだったのですが、最高裁の最終判決が出たのを契機に再掲したものです。

許可制は健全で届出制は不健全?(再掲)


昨日、最高裁判所が風営法の特殊営業事業者に持続化給付金を支給しないのはOKだよという判決を下したということで、改めてこれを掘り返してみましょう。

許可制は健全で届出制は不健全?

朝日の夕刊に「性風俗業は「不健全」か コロナ給付金巡り、国「道徳観念に反し対象外」」という記事が載っていて、この問題自体は本ブログでも厚生労働省の雇用助成金と経済産業省の持続化給付金の取り扱いの違いについて論じてみたことがありますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-b631f8.html(新型コロナと風俗営業という象徴)

・・・雇用助成金の時には、風俗営業だからと言って排除するのは職業差別だとあれほど騒いだ人々が、岡村発言の直後にはだれも文句を言わなくなってしまっているというあたりに、その時々の空気にいかに左右される我々の社会であるのかがくっきりと浮かび上がっているかのようです。

本日はその件ではありません。

https://www.asahi.com/articles/DA3S14941351.html(性風俗業は「不健全」か コロナ給付金巡り、国「道徳観念に反し対象外」)

何の話かというと、政府が性風俗業を持続化給付金の対象から外した論拠として、スナックや料亭といった(性風俗ではない)風俗営業は公安委員会の「許可」制にしているのに対し、性風俗業は公安委員会への届出制にしていることを挙げているという点に、ものすごい違和感を感じたからです。曰く、

・・・性風俗業を「性を売り物にする本質的に不健全な営業」「許可という形で公認するのは不適当」としている。

国はこれらをもとに、性風俗業は「不健全で許可制が相当でない業務とされてきた」・・・

性風俗業がいかなるものであるかについてはここでは論じませんし、持続化給付金の対象にすべきかどうかもとりあえずここでの論点ではありません。

しかし、「本質的に不健全」であるがゆえに許可制ではなく届出制とするのだ、というこの政府が裁判所で論じたてているらしい論理というのは、どう考えてもひっくり返っているように思われます。

そもそも、行政法の教科書を引っ張り出すまでもなく、許可制というのは、一般的禁止を特定の相手方に対して解除するという行政行為です。なぜ一般的に禁止しているかといえば、それはほっとくと問題が発生する恐れがあるからであり、何か問題が起きたら許可の取り消しという形で対処するためなのではないでしょうか。

それに対して、届出制というのは一般的には禁止していないこと、つまりほっといても(許可制の事業に比べて)それほど問題は発生しないであろう事業について、でもやっぱり気になるから、念のために届出させて、何かあったら(届出受理の取り消しなとということは本来的にありえないけれども)これなりにちゃんと対応するようにしておこうという仕組みのはずです。

そして、労働法政策においても、たとえば有料職業紹介事業は許可制ですが、学校や公益法人等の無料職業紹介事業は届出制ですし、派遣も今は許可制に統一されましたが、かつては登録型派遣は許可制で、常用型派遣は届出制でした。これらはどう考えても、前者の方が問題を起こしやすく、いざというときに許可の取り消しができるように、後者はあんまり問題がないだろうから、届出でええやろ、という制度設計であったはずです。

それが常識だと思い込んでいたもんですから、このデリバリーヘルス運営会社の起こした持続化給付金訴訟において、政府が上述のような全くひっくり返った議論を展開しているらしいということを知って、正直仰天しています。

※ ま、どっちがノーマルでどっちがアブノーマルかは人類史の解釈次第でしょうけど、それよりも私が驚愕したのは、持続化給付金を所管する経済産業省なのか、風俗営業法を所管する警察庁なのかはともかく、大学の法学部で一通り行政法を勉強し、公務員試験でも行政法で受験した法律職の公務員がいっぱいいるはず(警察庁であれば大多数)の霞が関の役人たちが、そういうイロハのイをすっからかんに忘れた風情で、前近代の「お目こぼし」思想全開の議論を、裁判所で並べ立てているらしいことでした。

大学の法学部で一通り行政法を勉強したはずの霞が関の役人だけではなく、日本国の法律のエキスパート中のエキスパートであるはずの最高裁判所の裁判官たちが揃いも揃って、

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/179/094179_hanrei.pdf

そして、本件特殊営業については、風営法において種々の規制がされているところ(第4章第1節第2款)、これは、本件特殊営業が上記の特徴を有することに鑑み、このような規制をしなければ、善良の風俗や清浄な風俗環境を保持し、少年の健全な育成に障害を及ぼす行為を防止することができないと考えられたからにほかならない(同法1条参照)。また、風営法が本件特殊営業を届出制の対象としているのは(31条の2)、本件特殊営業については、その健全化を観念することができず、風俗営業(同法2条1項)に対するものと同様の許可制をとること、すなわち、一定の水準を要求して健全化を図ることを前提とした規律の下に置くことは適当でないと考えられたことによるものと解される。

などという訳の分からない屁理屈を並べて満足しているように見えるさまは、些か唖然とせざるをえません。

類似の事業を営む者に対して、一方には許可制をとり、他方には届出制をとるという立法政策を説明するにあたって、行政法には統一的な基準というものはかけらも存在せず、そのときそのときに勝手にやっているのだ、それでいいのだ、と嘯くならともかく、日本国の行政について一般的に通用する許可制と届出制についての共通判断基準というのがあるのであれば、それはここで最高裁が堂々と謳い上げたこの基準ということになるはずですが、それでいいのですかね。

そうすると、最高裁の法理からすると、有料職業紹介事業は「一定の水準を要求して健全化を図ることを前提とした規律の下に置く」ために許可制にしているけれども、学校や公益法人等の無料職業紹介事業は「その健全化を観念することができ」ないから届出制にしているんですかね。思わず、「なるほど!」と言ってしまいそうですが。

第6位は5月9日の「労働基準法上に「民主集中制」という概念は存在しない」で、1251回でした。これは漫画評論家の紙屋高雪さんこと元共産党職員の神谷貴行さんが共産党を解雇された事件をめぐる一連のエントリの一つです。

労働基準法上に「民主集中制」という概念は存在しない

Jigazou_400x400_20250509105101 漫画評論家の紙屋高雪さんこと元共産党職員の神谷貴行さんが共産党を解雇された事件については何回か取り上げてきましたが、

結社/経営体としての日本共産党

雇用労働者か職業革命家か?

党専従職員は労働者に非ず…ってのは

まあ、「我が社の社員はみんな同志みたいなもんじゃ、労働基準法なんか関係ないワイ」とうそぶいていたワンマン社長が、言うことを聞かないからとクビにした社員に訴えられて、しぶしぶ労働者性を認めざるを得なくなり、監督署にせっつかれて就業規則や36協定を届け出なくてはならなくなるなんてことは、世の中にはそれこそゴマンとある訳ですが、労働者の味方を標榜している天下の日本共産党もそのワンマン中小零細企業の仲間入りをしたようです。

その神谷さんのブログに、昨日こういうエントリがアップされました。

これが歴史的な共産党の36協定…だけどよく見るとヘンでは?

神谷さんは就業規則と36協定の情報開示を求めたのですが、就業規則本体は不開示だったようです。

でも、面白いのは、労働基準法第90条に基づき、「労働者の過半数で組織する労働組合がある場合にはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者の意見」を労働基準監督署に届け出る際に添付しなければならない、というその「意見書」は開示されたようで、その写真が載っているのですが、これが実に不可思議な代物になっています。

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労働法をちょいとでも勉強した人ならすぐに気がつくと思いますが、意見書というのは過半数代表が使用者に対して出すものであって、その出された意見書を使用者が就業規則に添付して監督署に届け出るものです。

ところが、この意見書の宛名は「福岡中央労働基準監督署長殿」になっていますね。うーん、天下の日本共産党は労働基準法の基礎の基礎が分かっていないようです。

「労働者の過半数を代表する者の選出方法」が「投票による選挙」になっていますが、さてはて、どこでどういう選挙をして、どういう方を選出されたのか、まさか労働基準法施行規則第6条の2で定められている「監督又は管理の地位にある者でないこと」や「使用者の意向に基づき選出されたものでないこと」に反していませんよね、と、労働法クラスタなら心配になるところです。

使用者とは異なる立場の人が法に則って適切に「選挙」されているのであれば、自分が意見書を提出する相手(自分と対峙する使用者)と、その相手方が当該意見書を添付して就業規則を提出する相手(監督署)をごちゃ混ぜにするなんてことはあり得ないはずですが、どうも、この日本共産党に雇用される労働者の過半数代表という方は、自分が書いた意見書の提出相手は監督署だと心底から思い込んでしまっているようで、労働者の代表なのか使用者の代表なのかよく分からないところがあります。その意味でも、この墨塗になっているところが気になりますね。なんにせよ、まことに残念ながら、労働基準法上に「民主集中制」という概念は存在しないのですよ。

でも、それよりもっと面白いのは、神谷さん曰く「日本共産党の103年の歴史でもおそらく初めてであろう36協定」です。

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これ、労働法の授業で間違い探しをやらせたくなるような、なんとも不思議な内容になっています。

詳しくは、リンク先の神谷さんのブログで説明されていますが、史上初の36協定の出来がかくもスバラ式代物になってしまっているというのは、なんともはやではあります。

第7位は9月27日の「発言と解雇--真正の人文知識人の言葉」で、1178回でした。これは上の第1位の「発言と解雇」の続きで、将基面貴巳さんの言葉を紹介したエントリです。

発言と解雇--真正の人文知識人の言葉

先日のこのエントリの問題に関わって、

発言と解雇

P25wrrni_400x400 言葉の正確な意味での、真正の人文知識人というべき人による、こういうつぶやきが聞こえてきました。将基面貴巳さんの言葉です。

自分の信念や良心に基づいて発言した結果、大学や学校の教員が次々と解雇されていると、アメリカの研究仲間から悲鳴が聞こえてくる。暴政が猛威を振るい出すと、「発言」は危険極まりなく、「離脱」という選択が現実的に不可能であれば、「国内亡命」という20世紀ドイツ知識人を悩ませた選択肢しか残されないことになる。これは日本の有権者にとって対岸の火事だろうか。

現代アメリカの危機はマッカーシズムの場合と同日の談ではない。マッカーシズムは上からの運動にすぎず、大学でも(脆弱な)学問の自由を守り抜くことができた。トランプの時代では、上からの圧力だけでなく草の根の共鳴盤が大きく広がっている。「国内亡命」することで嵐が去るのを待つという消極的態度をよしとしないのであれば、どんな選択肢が残るのか。

アメリカに限った話ではないが、大学の側にも問題がある。特定のイデオロギーを正統視する(ことで異端を排除する)風潮を許したことで「学問の自由」を自ら掘り崩した上に、社会における反知性主義的反感をいっそう増幅した側面もあるのではないか。さらに、暴政への最終抵抗手段としての暴力の問題とリベラル知識人はどう向き合うのか。「国家の理想」(矢内原忠雄)のために自己犠牲を払う覚悟があるのか。実に重い問題がアメリカを舞台として目の前に立ち現れつつあるように思われる。

でも、この言葉を一番じわじわと味わうべき人の心には、なかなか届かないのでしょうね。

第8位は7月29日の「排外主義と階級」で、976回でした。

排外主義と階級

思いつきのメモ

欧米で数十年前からはびこってきている極右政党の社会的基盤として、外国人労働者に職を奪われ(ると思い込んでい)る労働者階級や、貧しい外国人に福祉を奪われ(ると思いこんでい)る貧困層が、自分たちを裏切った(と思い込んでいる)社会民主主義政党から離れたからだとよく言われる。もちろんそれで説明できないところはいっぱいあるけれども、全体的にはそういう説明が了解されているように思われる。

そういう労働ショービニズムや福祉ショービニズムの傾向は、もちろん日本にもちらちらとは存在しているけれども、今回の参議院選挙で一気に噴出した排外主義は、それに加えて、というよりもむしろそれ以上に、中流サラリーマン層の被剥奪感が大きいのではなかろうか。印象論だが、日本人ファーストというときに想定されているのは、決して技能実習生が就いている製造業、建設業、農業の3K労働なんかではなく、自分がお金を貯めて、ローンで買えるはずだったマンションが富裕な外国人に買い占められて価格が暴騰して手が出なくなったことのように思われる。

過去数十年間着実に増加してきた技能系の在留資格ではなく、これまで外国人論議ではほとんど取り上げられることのなかった経営管理在留資格がここにきて急激に話題になっていることからしても、どうもこれは欧米型の労働ショービニズムや福祉ショービニズムではなく、日本的中間層たるサラリーマンショービニズムの気配が感じられる。

第9位は1月25日の「党専従職員は労働者に非ず…ってのは」で、889回でした。これも、第6位の「労働基準法上に「民主集中制」という概念は存在しない」と同様、神谷貴行さんに対する日本共産党のブラック企業もかくやという奇妙奇天烈なロジックをからかったものです。

党専従職員は労働者に非ず…ってのは

日本共産党の田村委員長が、例の紙屋高雪さんこと神谷貴行さんの件について、こう語ったそうですが、

共産・田村智子委員長「専従職員の地位はいわゆる労使関係と異なる」 労働法令違反で見解

共産党福岡県委員会の労働法令違反を巡り、田村智子委員長は24日、党機関で働く専従職員の地位は一般の労働者とは異なると主張した。田村氏は国会内で記者団から専従職員の地位について問われ、「いわゆる労使関係というものとは異なると考える」と語った。

党側の労働法令違反を巡っては、党福岡県委員会が労働基準法で義務付けられている労働基準監督署への就業規則の届け出を怠っていたなどとして、当局から是正指導を受けていた。

田村氏は専従職員の地位について「結社の自由の下で、自主的、自発的な意思のもとで活動していることが一番の根本にある。結社の自由の下で、私たちは国民の切実な要求と社会進歩の促進のために活動するということだ」と説明した。

入門書レベルでいいから労働法の教科書をちゃんと読んでね、というようなことは誰でもいうので、ここでは別にそんなことはいいません。

それって、「わが社はみんな家族みたいなもんじゃ、アカの他人がごたごたいうんじゃねえ、おめえはアカか?」とうそぶく中小企業のオヤジとどこが違うのか、というようなことも誰でもいうので、わざわざそんな当たり前のことも言いません。

こういう理屈が下手をしたら通ってしまいかねない世界というのも実はありまして、ボランティアっていうんですね。革命を目指す政党と同じように、その目的はさまざまですが、「結社の自由の下で、自主的、自発的な意思のもとで活動していることが一番の根本」であるような組織です。

実はこれで思い出したのが、これだったんですね。

ボランティアといえば労働じゃなくなる?

同じ問題がボランティアにもあって、これは『季刊労働法』222号の鎌田先生、島田先生、池添さん、水口さんの座談会で紹介されていたものですけど、例の堀田力さんのさわやか福祉財団が、4年前に、こういう法案みたいなのを作っていたんですね。

http://www.sawayakazaidan.or.jp/news/2004/20041013.html

>第一条  労働関係を規制する法令における労働その他の用語、職業を規制する法令における事業その他の用語、及び税について規定する法令における収益事業その他の用語であって、有償性もしくは無償性、報酬性(対価性、対償性その他、提供される財の市場価値を、これとの交換において支払う性質を表すすべての用語を含む)、または、収益性の有無を要素とするものの解釈は、この法律による。

>第二条  ボランティアとは、雇用契約によらず、他者のために、自発的に、無償でサービスを提供する者をいい、ボランティア活動とは、ボランティアによるサービスの提供をいう。
2  ボランティア活動は、労働と区別される。
3  サービスの受益者またはボランティア活動を組織しもしくは支援する者が、サービスに対して金品を提供した場合において、サービスに対する報酬としてではなく、その実費の負担またはこれに対する謝礼として提供したときは、そのサービスは無償で提供されたものとみなす。
4  サービスに対して提供された金品の価格が当該サービスの市場価格の五分の四以下であるときは、当該金品は謝礼として提供されたものと推定する。その価格が最低賃金額以下であるときは、謝礼として提供されたものとみなす。ただし、サービスを提供する者が、ボランティア活動としてではなく、労働としてこれを提供したときは、この限りではない。

もちろん、ボランティア活動はたいへん崇高なものではありますが、とはいえ親分が「おめえらはボランテアなんだぞ、わかってんだろうな」とじろりと一睨みして、子分がすくみ上がって「も、もちろんあっしは労働者なんぞじゃありやせん」と言えば、最低賃金も何も適用がなくなるという法制度はいかがなものか、と。

そして第10位は、つい先日の12月12日のエントリですが、「ガンバリズムの平等主義とユトリズムのエリート主義」で、746回でした。これは直接的には飯間浩明さんによる高市首相の昔の本の紹介に触発されて、今から10年近く昔に書いたエッセイを紹介したものです。

ガンバリズムの平等主義とユトリズムのエリート主義

高市首相の人気がなぜ高どまりしているのか、ウヨだのサヨだのといったイデオロギー話を別にして、「働いて働いて働いて働いて働いて」という過労死遺族会が怒るそのガンバリズムが含意するある種の平等主義が、実は人気を支える一つの要因なのではないか、という見方もあるのではないかという話です。

言葉の専門家である飯間浩明さんが、高市首相の昔の本『アズ・ア・タックスペイヤー』(ノン・ブック、1989年)を紹介しているのですが、その中にこんな一節があったそうです。

https://x.com/IIMA_Hiroaki/status/1999253977024835724

高市首相には、日本の首相としては珍しく、若い頃の著作があります。『アズ・ア・タックスペイヤー』(1989年)もそのひとつ。作家の初期作品が重要であるように、首相の「アーリーワーク」も資料的価値があります。私はことばの面を中心に読みましたが、他の面からも興味深いでしょう。(続く)・・・

・・・なお、ことばの面では、2025年の「新語・流行語大賞」に選ばれて賛否両論のあった「働いて働いて……」という高市首相の発言のルーツも、本書から読み取れる気がして、興味深く思いました。このように、読者の関心に応じ、さまざまな面から読むことのできる本です。

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これで思い出したのが、今からほぼ10年前に書いたこれなんですが、

「ガンバリズムの平等主義」@『労基旬報』2016年2月25日号

・・・欧米ではノンエリートとして猛烈な働き方なんかする気にならない(なれない)多くの労働者が、日本では疑似エリートとして猛烈に働いている、というこの構造は、なかなか切り口の難しい代物です。ある種の左翼論者は、それは資本家に騙されて虚構の出世を餌に搾取されているだけだと言いたがりますが、もちろんそういうブラック企業も少なくないでしょうが、日本型雇用を代表する多くの大企業では必ずしもそうではなく、確かに猛烈に働く係員島耕作たちの中から課長島耕作や部長島耕作が、そしてきわめて稀にですが社長島耕作が生み出されてきたことも確かです。とはいえ、ではこの構造は人間の平等と企業経営の効率を両立させた素晴らしい仕組みだと褒め称えて済ませられるかというと、そうではないからこそ長時間労働が問題になっているわけです。

 このシステムにおける「平等」とは、いわばガンバリズムの前の平等です。凄く頭のよいスマート社員がてきぱきと仕事を片付けて、夕方には完璧な成果を出してさっさと帰宅している一方で、そんなに頭の回転は速くないけれども真面目にものごとに取り組むノンスマート社員が、夕方にはまだできていないけれども、「明日の朝まで待って下さい。ちゃんと立派な成果を出して見せます」と課長に頼んで、徹夜して頑張ってなんとかそれなりの成果を出してきた、というケースを考えましょう。長時間労働は良くないから禁止!ということは、ノンスマート社員に徹夜して頑張ってみせる機会を奪うことを意味します。さっさと仕事を片付けられるスマート社員だけがすいすいと出世する会社になるということを意味します。そんなのは「平等」じゃない!と、日本の多くの労働者は考えてきたのです。

 とはいえその「平等」は、そうやって頑張ることのできる者だけの「平等」にすぎません。かつての係員島耕作たちの隣にいたのは、結婚退職が前提で補助的業務に従事する一般職女性だったかも知れませんが、その後輩たちの隣にいるのは、会社の基幹的な業務に責任を持って取り組んでいる総合職女性たちなのです。彼女らはもちろん結婚しても出産しても働き続けます。しかし、子どもを抱えた既婚女性には、かつての係員島耕作とは違い、明日の朝まで徹夜して頑張ってみせることも不可能です。島耕作たちの「平等」は、彼女らにとってはなんら「平等」ではないのです。むしろ、銃後を専業主婦やせいぜいパート主婦に任せて自分は前線での闘いに専念できるという「特権」でしかありません。その「特権」を行使できない総合職女性たちがいわゆる「マミートラック」に追いやられていくという姿は、「平等」という概念の複雑怪奇さを物語っています。

 ノンエリート男性たちのガンバリズムの平等主義が戦後日本の経済発展の原動力の一つとなったことは間違いありません。しかし、その成功の原因が、今や女性たち、さらには男性でもさまざまな制約のために長時間労働できない人々の活躍を困難にし、結果的に日本経済の発展の阻害要因になりつつあるとすれば、私たちはそのガンバる平等という戦後日本の理念そのものに疑いの目を向けて行かざるを得ないでしょう。

 長時間労働問題はなかなか一筋縄でいく代物ではない、からこそ、その根源に遡った議論が必要なのです

「能力がない分、夜だって朝だってお構いなしに仕事をしてしまう」ので、「デートの約束より仕事を優先させてしまう」というのは、まさにエリートではない下から叩き上げで上り詰めてきた人の生き様であり、そういう「ガンバリズムの平等主義」に対する共感こそが、それを上から目線で批判するユトリズムのエリート主義に対する反発と相まって、「働きたい改革」への声なき声となっているとすると、なかなかこれは根が深い話なのです。

 

 

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