労働時間弾力化の雇用システム的根拠
昨日、高市早苗内閣が発足したのと同時に、こういうニュースが流れて、労働界隈に波紋を投げかけたようです。
高市早苗首相は21日、現行の労働時間規制の緩和検討を上野賢一郎厚生労働相らに指示した。新閣僚への指示書に「心身の健康維持と従業者の選択を前提」としつつ「働き方改革を推進するとともに、多様な働き方を踏まえたルール整備を図ることで、安心して働くことができる環境を整備する」と明示した。
2019年に施行した働き方改革関連法は、残業時間の上限を巡り原則として月45時間、最大でも100時間未満、年間では720時間と定める。違反した場合は罰則がある。施行から5年を過ぎた時点で見直すことを定めており、厚労省の審議会で労使の代表による議論が本格化している。今後の見直し論議に影響を与える可能性がある。
7月の参院選で、自民党は公約に「個人の意欲と能力を最大限生かせる社会を実現するため『働きたい改革』を推進する」とうたっていた。
現在労政審労働条件分科会でまさに労働時間規制の在り方が議論されているさなかに外角ギリギリのボールがいきなり投げ込まれてきたようなもので、関係者の皆さんは大変だと思いますが、ここではそういう次元から少し距離を置き、そもそもなぜこういう議論が繰り返しでてくるのかという根っこの問題を、雇用システム論に遡って少し論じておきたいと思います。
といっても改めて論じるというわけではなく、1年半ほど前に『季刊労働法』2024年春号(284号)に寄稿した「企画業務型裁量労働制とホワイトカラーエグゼンプションの根拠と問題点」の冒頭部分が、まさにこの「働きたい改革」を訴えてくる社会的基盤を論じているので、それをそのまま引用するだけなのですが。
1 労働時間弾力化の雇用システム的根拠労働時間弾力化政策については、私はこれまで主として賃金制度との関係で論じてきました。労働基準法の労働時間規制は、管理監督者という労働者の機能に着目して適用除外規定を設けていますが、労働基準法第4章には物理的な労働時間規制とともに第37条の時間外・休日労働の割増賃金という賃金規制も含まれており、この残業代規制の適用除外も物理的労働時間規制の適用除外と同一の範囲とされているために、管理監督機能は有さないが処遇においては管理職と同水準の者に対する賃金規制としては不合理と感じられる結果をもたらしているという問題です。1977年2月28日のいわゆるスタッフ管理職通達(基発第104号)は管理監督者の拡大解釈を行い、これは今日の解釈通達にも受け継がれています。企画業務型裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプションについても、私は基本的にこの延長線上で理解し、「現在アメリカのホワイトカラー適用除外制を導入すべきか否かという形で提起されている問題は、実は戦後労働基準法施行規則第19条によって封印された戦前型の純粋月給制を復活すべきか否かという問題に他ならないことがわかります。従って、その是非の決め手も、労働時間規制のあり方如何などというところにあるはずもなく、賃金法政策として、ワークとペイの全面的切り離しをどこまで認めるのかという点にあるはずです」*1と論じてきました。この点については、今日なお相当程度正鵠を得ていると考えています。しかしながら、それではこれら制度を導入すべきと論じられる際に決まって持ち出されてくる「裁量的な働き方」とか「自律的な働き方」とか「自由度の高い働き方」といった言葉は、残業代を払いたくないという本音を覆い隠すための空疎な飾り文句に過ぎないのかといえば、必ずしもそうとばかりは言えません。日本の非管理職労働者の働き方それ自体の中に、これらの形容詞が該当するようなある性質が含まれていることも確かだからです。この点については、石田光男の諸業績が明確に描き出しているので、彼の近著『仕事と賃金のルール』*2に基づいて簡単に説明しておきましょう。同書は、第Ⅰ部「賃金のルール」で、日本の人基準の賃金と英米の仕事基準の賃金(ジョブ型賃金)を対比させた上で、第Ⅱ部「仕事のルール」では、両者の仕事の進め方の違いを浮き彫りにしていきます。欧米の労働アーキテクチャーは「計画と実行」が分離し、キャリアが階層的に断絶し、経営層における専門職とワーカー層におけるジョブという社会的に合意された職域区分が企業内の階層としてはめ込まれているのに対し、日本ではそうした職域区分がなく、仕事のガバナンスは事業計画の達成に必要なPDCA(Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)の4つのプロセスを繰り返し、業務効率を改善するフレームワーク)が全階層に浸透します。これを図示したのが同書p162の図です。一言で言えば、欧米モデルでは、経営層や専門職だけがPDCAサイクルを回し、一般労働者層は決められたジョブを遂行するだけで自らPDCAサイクルを回したりしないのに対して、日本モデルでは、経営層から一般労働者層に至るまで、それぞれのレベルでPDCAサイクルを回すという点に特徴があります。ここで石田が経営管理論的観点から描き出した事態を、私はかつて労働者のキャリアの観点から次のように描写したことがあります*3。筆致は大変異なるとはいえ、描かれている戦後日本雇用社会の姿は同一のものです。
ビジネススクールやグランゼコールを卒業したエリートの若者は、その資格によって就職した瞬間からエグゼンプトやカードルといわれる高給の管理職であり、労働時間規制が適用除外されます。一方、普通の大学や高校等を卒業した若者はインターンシップ等で苦労してようやく就職しても、ずっとヒラ社員のままであり、管理職の募集に応募して採用されない限り管理職に自動的に昇進するということはありません。つまり、管理職の存在形態がまるで違うのです。日本における管理職をめぐる様々な労働問題の根源は、つまるところここに由来します。なぜそうなったのかといえば、戦後日本社会が戦前日本社会と異なり、また戦後欧米社会とも異なり、エリートとノンエリートを入口で区別せず、頑張った者を引き上げるという意味での平等社会を作り上げてき(てしまっ)たからです。男性大卒は将来の幹部候補として採用され、十数年は給料の差もわずかしかつきませんし、管理職になるまで、全ての人に残業代が支払われます。誰もが部長や役員まで出世できるわけでもないのに、多くの人が将来への希望を抱いて、八面六臂に働き、働かされています。欧米ではごく少数のエリートと大多数の普通の人がいるのに対して、日本は普通のエリートもどきしかいません。
この論点をさらに深めて、戦後日本における管理職の存在形態の推移と絡めつつ論じたのが、来月刊行予定の拙著『管理職の戦後史』(朝日新書)ですので、この問題をまじめに根っこから考えてみたい方は是非お買い求めいただければ幸いです。
(追記)
ちなみに、ジョブ型に関わる話は概ねその傾向がありますが、ザイン(である)の話を全てゾルレン(すべし)の話として受け止められてしまう方には、私の議論がこのように聞こえてしまうようですが、
いや、私はそんなえらそうに「かくかくするべし」と説教しているわけではなく、事実として、たかがヒラ社員如きがマネージャー意識に満ち溢れて猛烈に働くというのは、戦後日本型平等社会の特徴であって、欧米社会では一般的ではありませんよ、と指摘しているだけです。それをどう価値判断するかはもちろん人により様々でしょうが、自分の脳内の価値判断セットを万古普遍のものと思い込まない方がよいという程度のサジェスチョンにはなっているかと思いますが。
それにしても、こうやっていつのまにか、私は「ジョブ型」の「教祖様」に仕立て上げられ、その「信者」とやらがぞろぞろいることにされてしまうわけですな。呵々。
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ここで石田が経営管理論的観点から描き出した事態を、私はかつて労働者のキャリアの観点から次のように描写したことがあります*3。筆致は大変異なるとはいえ、描かれている戦後日本雇用社会の姿は同一のものです。
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