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2025年5月19日 (月)

「新時代の日本的経営」から30年 雇用システムはどう変わったのか?@『情報労連REPORT』5月号

2505_cover 今朝届いた『情報労連REPORT』5月号は「「新時代の日本的経営」から30年 雇用システムはどう変わったのか?」を特集しています。

http://ictj-report.joho.or.jp/2505/

2505_sp01_face その冒頭で、小熊英二さんが「日本型雇用システムは変わったのか? 」についてこう語っています。

http://ictj-report.joho.or.jp/2505/sp01.html

──日本型雇用システムの今後はどうなるでしょうか。

日本型雇用システムのコア部分を、新卒と同時に就職し、企業内で教育訓練を受け、年功的な賃金を保障しながら長期勤続すると定義して考えてみましょう。

経営にとってこのシステムの長所は、会社の方針に従って柔軟な配置転換ができることです。マイナス面は、年齢が上がるほど人件費も上がっていくことや、専門職が育たないことです。

ただ、そうした人材育成が時代の経過とともに難しくなっている。背景の一つは技術の発展です。技術の進化に伴って仕事の内容が標準化されると、企業独自の技術の必要性が下がる。一方、一社で技術革新と技術教育を行うのは難しくなる。そうなると長期育成のコストが、メリットを上回ることになる。

日本型雇用システムが今後も続くかはわかりません。ただ、それを本気で変えるのは相当な労力が必要になります。多くの経営者や人事担当者は、どう変えるべきか見当がついていないし、変えるためのビジョンもないように思います。

マスコミやそこで活躍するコンサルタントたちは、表層的なあれこれの現象を捕まえて毎年のように激変激変と言い続けていますが、戦後日本の雇用社会の流れを見続けてきた目からすると、こういう冷静な言い方にならざるを得ないのでしょう。

それだけではいくら何でも希望がなさ過ぎと思ったのか、そのすぐ後のところで、こんな小さな理想像みたいなことを口走りかけますが、

──労働組合にできることは?

一つ挙げるなら、専門職の人材評価の基準を、企業を横断した産業単位で作ることではないでしょうか。

例えば労働組合が「専門職でこれくらいの資格や学位や経験がある人には、これくらいの賃金を支払うべき」という基準を提示する。それが業界標準になれば、企業間の賃金格差は縮小します。人材の移動やキャリア形成も広がるし、非正規雇用の待遇改善にもつながる。実際にこれは、欧州の産業別労働組合が産業別使用者団体と一緒にやってきたことです。

とはいえ、そんなことこそが日本の労働組合にとっては一番難しいことであるという現実も、小熊さんの目にはちゃんと映っているのです。

しかし日本の労働組合にとっては、これを実行するのに大きな問題がある。職種ごとに賃金を決めようとすると、企業別労働組合の内部で利害の対立が起きてしまうことです。つまり職種別に賃金の基準を労働組合が提示すると、一つの労働組合の中にさまざまな職種の組合員がいる企業別労働組合の場合、職種間で不公平感が生まれてしまいかねない。そのため戦後日本の企業別労働組合は、組合としての一体性を保つために、職種別の基準ではなく、勤続年数を基準に賃上げを要求する方法を取ってきました。

さらに、職種を単位に賃金額を同じにしようとすると、大企業の方が有利になり、中小企業では交渉が難しくなります。そのため日本の労働組合は、賃上げ額よりも、賃上げ率をできるだけそろえるという戦略を取ってきました。加えて交渉の対象を総額人件費として、その中でどういう職種にどう配分するかは経営に任せるという方法が取られてきた。

こうした労働組合の選択も影響して、今の日本型雇用システムができています。このシステムは良い面もありましたが、女性と非正規の犠牲の上に成り立っていましたし、時代とともにマイナス面が目立つようになってきた。労働組合は次代の変化に主体的に取り組む必要があると思います。その方法として、専門職の処遇基準の提示はあり得るでしょう。

まあ、最大限希望的観測を振り絞ってこんなところでしょうね。

2505_sp06_face その他、守島基博、三山雅子、仲修平、藤村博之、中村天江、緒方桂子といった方々の論考やインタビューが載っていますが、ここでは先月JILPTから中央大学文学部に移られた鈴木恭子さんの「労働組合は誰の賃金を守ってきたのか 「二重労働市場論」と日本の課題 」を紹介しておきます。

http://ictj-report.joho.or.jp/2505/sp06.html

鈴木さんはまず二重構造論を説明した上で、

「二重労働市場論」は、労働市場に異なる仕組みや制度が存在することを強調します。これは主流の経済学とは異なる考え方です。労働経済学の考え方を非常にシンプルに説明すれば、すべての人に同じルールが適用されると考えます。賃金は限界生産性に応じて決まるのであり、労働市場は生産性が高い人と低い人に分かれたとしても、生産性で賃金が決まるという原則は同じです。

しかし、現実はしばしばそのようにはなっていません。例えばスキルや生産性が同じであっても(こうした要因を測定するのは容易ではないのですが)、所属する企業や雇用形態の違いで大きな賃金格差が生じています。これは賃金が決して生産性だけで決まるのではなく、さまざまな仕組みや制度によって決まることを意味します。このように、企業や雇用形態など、労働市場のどこにいるかによって適用される制度が異なる点を重視するのが、「二重労働市場論」の主張です。

いまの日本では、正規と非正規でまったく異なる制度が適用され、その処遇は隔絶しています。そうした処遇差はこれまで、「正規と非正規では担っている仕事や、求められるスキル・責任が違うため当然」と受け止められてきました。しかし実際には、仕事内容やスキル、責任といった内容を客観的に測ることはとても難しく、十分な分析が行われないままに、処遇差が正当化されてきました。

それと雇用ポートフォリオ論との関係を次のように説明します。

日経連の「雇用ポートフォリオ」にひもづけていえば、「長期能力蓄積型」と「雇用柔軟型」とが、水平的な意味で異質なカテゴリーとしてではなく、正規雇用と非正規雇用という形で、垂直的に序列があるカテゴリーとして位置づけられ、それが性別と強く結び付いてしまったところに問題があったといえます。

さらにいえば、「高度専門能力活用型」が育たなかったことも課題です。とりわけ問題なのは、専門的なスキルが日本の労働市場の中で正当に評価されていないことです。本来であれば「高度専門人材」として位置づけられるべき人々も、現状では「雇用柔軟型」として処遇されてしまっています。特に近年は公務職場においてその問題が顕在化しています。

同じような仕事をしているにもかかわらず、正規と非正規の間に大きな処遇格差が存在する現状は、社会の公正さが大きく損なわれ、社会を停滞させています。非正規雇用が広がった国では、公的セクターでサービスの質が低下する問題が深刻化し、処遇格差を是正しようとする動きが広がっています。日本でも同様の取り組みが求められると思います。

正確に言えば、「新時代の日本的経営」以前から、パートやアルバイトのような雇用柔軟型はそれなりの分量存在しており、そこのところに大きな変化があったわけではありません。

むしろ、そこで大きく打ち出された高度専門能力活用型がほぼ不発に終わり、本来そこに所属すべきであったはずの人々がひっくるめて雇用柔軟型に放り込まれたしまったことが、この30年の歴史の最大の問題点であったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

 先ほど小熊英二先生の「日本社会のしくみ」を読み終えました。
 「日本雇用システムの形成史」としてはこれを凌ぐものは出ないのではないでしょうか。
 読んで果たして日本雇用システムは変わるのであろうか…と悲観的な気持ちになりました。

 現状を省みればナショナルセンターの連合も全労連もまだまだ「企業のメンバーシップ」にしがみつきたいのかな、と言う気がしていますし、連合の支持する立憲民主党・国民民主党も「企業のメンバーシップ」を変えようという気はさらさらなく、「手取り増」「消費税減税による物価対策」と言う対症療法にもならない政策しか打ち出せないようでは…。

 そりゃ「企業のメンバーシップ」型雇用を変革するには大量の人材、そしてお金が必要だからしり込みするのは分かりますがね・・・。

私も、正直この本を凌ぐものはないと思います。
先日紹介したこれの英語版も、外国人向けの説明としてこれ以上のものはないと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2025/03/post-632245.html

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