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2025年5月17日 (土)

「就活に喝」という内田樹に喝(何回目かの再掲)

またぞろ、似たような話が盛り上がっているようなので、

「うちの大学終わってんな」講義を欠席してインターンに行った学生が単位を落とす→教授の対応とインターンを設定した企業、どちらが問題?

またぞろもう15年も昔のこれを再掲しなくちゃいけないようですね。

「就活に喝」という内田樹に喝

神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。

http://blog.tatsuru.com/2010/04/14_1233.php(就活に喝)

>ゼミに行くと欠席が9名。
ほとんどの四年生は最終学年はゼミしか授業がないはずであるので、ゼミに来ないということは、フルタイムで就活に走り回っている、ということである。
気の毒である。
だが、浮き足立ってことをなして成功するということはあまりない。

>それに、私に「ろくな結果にならない」というようなことを言わせてはいけない。
私の言葉はたいへん遂行性が強いからである。
私が「そんなことをすると、ろくな結果にならない」とうっかり口走ってしまうと、それはきわめて高い確率で現実化するのである。
だから、君たちがわが身の安全をほんとうに案ずるなら、私を怒らせてはいけない。

>追伸:と書いたら、就活でゼミを休んだ学生から「先生の呪いのせいで、ものもらいができました」と泣訴してきた。「生き霊は先生のゼミのある日に試験なんかやる企業のほうに飛ばしてください」というので、了解する。「ものもらい」ぐらいで済んでよかったね。

現代の「学校の怪談」、あなおそろしや・・・

という話じゃないでしょうが。

こういうものの道理の分かっていない大学のセンセにこそ、日本学術会議の大学と職業の接続分科会の報告を読んでいただきたいのですが、残念ながらまだ調整中で正式発表に至っていないこともあり、その分科会でわたくしが喋った議事録から、内田樹氏にふさわしい部分を再度引用してみたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/hamachan-20db.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会におけるhamachan発言録)

>濱口 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。

>濱口 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。

>濱口 おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。

内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論。

もちろん、そういう筋論で説明できるような大学と職業との接続状態になっていないから、こういう呪い騒ぎが起きるわけですが、そうであるからこそ、問題は表層ではなく根本に立ち返って議論されるべきでありましょう。

哲学者というのは、かくも表層でのみ社会問題を論ずる人々であったのか、というのが、この呪い騒ぎで得られた唯一の知見であるのかも知れません。

(参考)

ちなみに、報告書自体は未発表ですが、その内容は既に公開され、本ブログでも紹介しておりますので、ご参考までに

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

また、最終会合に提出されたほぼ最終版に近いバージョンは:

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-17-1-1.pdf

(追記)

Tsuboshさんの「Random-Access Memory(ver.2.0)」で、内田氏の元エントリとわたくしの本エントリを取り上げて、

http://d.hatena.ne.jp/tsubosh/20100417

>内田さんの関心が、ミクロな人間関係にあり、

ミクロな人間関係の背後にある社会システムにはないことは、

昔からよく知っています。

だからこのエントリを批判する濱口さんとは、

全く議論の土俵が違っていてその食い違いからもいろいろ学べます。

と述べた上で、

>私はこのエントリを読んで感じたのは、まずは、

「ゼミ教授-ゼミ学生の関係は、全面的師弟関係なのか」

という点です。

>次に、「内田先生には、師弟関係であっても、

ゼミ内で、こういう感じで、ミクロな権力を行使してほしくないな」

という点を感じました。

と述べています。

おそらく、内田氏は自分とゼミ生の関係を、哲学者の師匠と哲学者たらんとする弟子との関係と捉えているのでしょう。それにしても、こういうミクロ権力の行使は嫌らしいものですが、まあそこは認めるとしても、そもそも現代産業社会の中で大学という高等教育機関がどういう位置づけをされ、その中で内田氏が給料をもらっているのかという社会システム論的認識が欠如したままのミクロ権力行使は、学生をどうしようもない窮地に追い込むだけなのですね。

もちろん、なぜそうなるかという理由もはっきりしていて、日本の企業が少なくとも文科系学部については「大学で勉強したことなんて全部忘れろ、これから全部仕込んでやる」という人材養成システムであったことが、大学で学ぶことに職業的レリバンスをほとんど不要とし、結果的に内田氏のように、卒業したら企業に就職するしかない学生たちをつかまえて、あたかも哲学者の師匠が哲学者たらんとする弟子たちを鍛える場所であると心得るような事態を放置してきたからであるわけです。

「大学に何にも期待しない企業行動の社会的帰結としての企業に役立たない大学教育」が、自己完結的な価値観に基づいて行動することによる矛盾は、企業でも大学教師でもなく、その狭間で苦悩する学生たちに押しつけられることになるわけですが。

(ついでに)もしこれが、内田氏のゼミ生が哲学教師の口を求めての就職活動でゼミをさぼったことに対し、「俺のゼミをさぼるような奴に哲学教師になる資格はない!」というのなら、そういうミクロ権力行使は、少なくとも職業的レリバンスの観点からは是認されましょうが。

(再追記)

これは哲学とかの人文系のことだよな・・・と安心しないでね、経済系の方々。

池尾和人氏が

http://twitter.com/kazikeo/status/12039641738

>しかし、就職の面接だといってゼミを欠席する4年生が少なくない。平日に大学生を呼びつける企業には、大学教育を批判する資格はない。そういう企業は大学での勉強を評価しないというシグナルを送っているわけで、こんな企業ばかりだから、いまの大学の惨状がある。

とつぶやいていますが、企業から「大学への勉強を評価しないというシグナル」を送られているということは、つまり大学の経済学教育に職業的レリバンスがないと判断されているわけで、そこをどうするかという問題意識もなく、ただ企業の責任を叫ぶだけでどうにかなると思うのは、少なくとも社会科学的思考にはふさわしくないと思いますよ。

もちろん、これは個別企業や個別大学、個別教師の問題ではなく、いわんや個別学生の問題などではなく、まさに職業的レリバンスなき教育とそれを前提とした企業社会が見事に噛み合って動いてきた社会システムの問題であるわけです。

(ちなみに)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います

(さらに追記)

世の中には問題をはき違えている人がいかに多いか・・・。

hyoro hyoro  難解でぼくにはよくわからんが、大学というものをどうにも履き違えているように思える。大学に行く目的が「就職に有利であるから」というなら、それこそ「表層でのみ社会システムを論」じているんじゃないの?

「就職に有利」という言い方が既にして、学ぶ内容のレリバンスではなく、表層の見せかけしか考えていないわけで。何のために大学に行くの?ただのカルチャーセンターなら、それにふさわしいやり方がある。

突き詰めると、大学が職業訓練校であるならば、教師には訓練を勝手に休んで就活する生徒を叱る権利がある。就活で訓練を休むような者を、ちゃんと訓練修了というディプロマを付けて送り出すわけにはいかない。大学がカルチャーセンターならば、就活と天秤にかけてより有利な方を選択する「お客様」を叱る権利はない。いや、叱ってもいいけど、それを社会的正義として自慢げに語られても困る。

たぶん、ある種の人にとって、大学はそのいずれでもなく、師匠と弟子が形作る理想のアカデミアであるべきという考え方があるのでしょうが、だったらそういう規模でやってくれという話でしょう。学生の圧倒的大部分が就職していってくれることを前提にして、今の大学システムは回っているのであって、それに受益している人が師匠・弟子モデルを振り回すのは単純に偽善です。それなら最後まで弟子の面倒みろよな。

(も一つさらに追記)

RIP-1202 RIP-1202 合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ。なにをえらそうに。

えらそうなのはどっちだろうか。自分は大学教授として安定した地位を楽しみつつ、就職できなかったら生活に困るかもしれない学生の身の上に思いをはせることもない方じゃないの?

会社と教授の板挟みで悩む自分のゼミ生をぎりぎりいじめ抜くのがそんなに楽しいのだろうか。

それなら初めから「就職希望の人はお断り」というべき。

・・・・・でも、考えてみると、神戸女学院文学部というのは、もともと就職なんていう下賤な進路じゃなく、花嫁修業としてお茶、お花と同列でお文学をやるお嬢様御用達のところだったのかも知れない。たしかに「合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ」って云いそう。

そういうお嬢様じゃない就職希望の女性がなまじ入ってしまったのが間違いだった、というのがオチ?まあ、いまどきそういうオチはないでしょうけど。

(まだまだ追記)

トラバを送られたようですが、失敗されたようなので、ここにリンクしておきます。

http://d.hatena.ne.jp/the_end-of_the-world/20100420(合成の誤謬)

>いや本当に昨今の就職事情はひどいことになっているという実感があって、それも単に「学生がシステムの犠牲になっていてかわいそう」などという話ではなく、この選抜の仕方では「馬鹿であることが合理的な社会」を作りかねないだろうという危惧があるからだ。

 そして、そのような社会こそ保守が懸念すべき未来予想図であるはずなのだが、内田氏の真意はどこにあるのだろうか。・・・

 

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コメント

まあ、大学をエリートが学ぶアカデミックな機関という前提のまま肥大化させて、現実との制度的すり合わせを無視してきたツケが現場に押し付けられているという構図がずっと続いているんですよね。

大学進学率が上昇し、もはや大卒者といえども単なるプロレタリアート予備軍にすぎないが、そういう現実を斜に構えて揶揄する高踏的態度が内田氏の売りで、彼の読者層もそれを望んでいるのであろうから、需要と供給である。まあ1968年革命はそのような現実への異議申し立てであり、異議申し立てだけで何ら現実への対処をせず、むしろ現実に安住して下の世代にツケを回すだけの存在が内田氏とそのフォロワーと言えるので、処置なしである。


結局、大部分の大学は職業教育大学化して、インターンを大学のカリキュラムに組み込んで大学側からコントロールできるようにしたほうが教員にとっても学生にとってもまだましであろう。そうすることで一部の上位大学は研究大学として位置づけられ、伝統的なアカデミックな教育機関としての体裁ぐらいは維持できるようになるであろう。

しかし、このような大学間の機能分化が必要にもかかわらず、一連の大学改革は真逆の方向にいき、アメリカの猿真似ばかりした結果、日本の大学全体がアカデミックな教育機関としての機能を棄損させてしまった。

アメリカの大学、というかアメリカという国は世界中から人材をかき集めているが、もちろん大部分の人間はアメリカで成功できるわけではない。これはアメリカへの移住者に特徴的なことだが、彼らはアメリカで地盤が形成できなければ多くの場合母国に帰るのである。発展途上国や中進国の場合、それでもアメリカ帰りのエリートとして優遇が期待できるので安心してアメリカに留学したり移住したりするが、日本の場合もはやアメリカ帰りぐらいではエリート扱いされず、国内にそれなりの雇用機会があるのでわざわざ留学したり移住するインセンティブが乏しい。よく日本の若者が内向き志向でリスクをとらないから駄目だという言説が見られるが、むしろ日本の若者にとっては留学や海外移住はリスクに対してリターンが見合っていないのであり、発展途上国や中進国の若者の方が相対的にリスクがないのである。このような構図を理解せず若者に説教している大人にこそ喝が必要である。

アメリカは人材の育成コストも負担せず、アメリカで成功しなかった人間の後半生の面倒を見るコストも負担していないのである。まさに世界システム全体にフリーライドしているのであり、これがアメリカの強みである。まあ、世界システム自体を維持するコストをアメリカが負担しているので、フリーライドというのは不当かもしれないが、そのリターンの分配はきわめて不平等であり、当のアメリカ人の大部分は不満を高めてトランプが登場したわけで、このシステムがいつまで続くかも分からない。

いずれにしても日本がアメリカのやっていることを再現するのは無理であろう。日本はアメリカにはなれない。


日本は世界的に見ても平等な教育機会を実現しており、明治以来、大学に学力の高い若者を効率的に集中できるシステムを構築してきた。上位大学に学力上位層を囲い込み、そこから研究者に適性のある人間をピックアップして安定的なキャリアパスを保証することで研究人材を確保し、学問基盤を維持発展させてきた。

一連の大学改革はこの仕組みを破壊するものであり、アメリカの猿真似でしかなかったが、結局無意味にリスクを高めて研究の世界から優秀な人材を逃避させ、学問基盤を破壊してしまった。後は野となれ山となれというアメリカの無責任システム(まあ世界システムに責任を負うことと表裏一体だが)を日本で再現することなど不可能なのである。

文科省はもはや日本の知的基盤を破壊するテロ組織と言っても過言ではない。

しかし、文科省のテロの背後には国民の教育システムに対する不満があったことも無視すべきではないだろう。

戦後の単線型の教育システムで全国民をアカデミックコースに詰め込むということは、膨大な敗者を生み出すということであった。進学率の高まりとともに敗者の数は増大し、当然公教育への不満、不信を高めることになる。それでも経済成長率が高ければ敗者にもそれなりの経済的地位を与えることができたが、成長率の低下とともにそれも難しくなり、高まる不満が一連の愚劣な教育改革を招いたともいえよう。

とはいえ、国民の不満をそのまま無反省に政策に反映させるというのは専門官庁として無責任きわまりないものであって、文科省の罪は重い。

やるべきことは欧州のような複線型の教育システムへの移行であろう。学力上位層をアカデミックコースに乗せつつ、それ以外は職業教育コースの振り分けるのである。ITやAIの発達でホワイトカラーの需要は減少しており、多数の人間をアカデミックコースに乗せる意義は低い。

アメリカは単線型だが、極めて不平等な教育機会によってアカデミックコースに乗れる人間は限られており、自然選択によって振り分けがなされているともいえる。しかし、職業教育の貧弱さは日本同様である。

よくアメリカの飛び級制度が才能ある若者を活かす制度として肯定的に取り上げられるが、誤解であろう。そもそもアメリカの教育システムのレベルは低いのである。ここのところを勘違いしているから、さまざまな悲劇が起きるのである。アメリカの高校はせいぜい日本の高校一年レベルまでしかやらず(つまりアメリカの高卒は実質的に日本の中卒高校中退程度であり、アメリカの高卒と大卒の賃金格差の一定部分はこれで説明できる)、つまり飛び級はレベルに低いアメリカの学校に適応できない早熟な子供のための制度と見るべきなのである。

アメリカの大学の学部が日本の高校2,3年と大学の教養課程に相当し、専門教育は修士からで、アメリカの博士課程は日本の修士課程に相当すると考えた方がよい。日本の博士号取得者が少なすぎるという言説が見られるが、比較すべきはアメリカの博士号と日本の修士号である。そもそもアメリカは植民地だったので専門教育を行える教師が乏しく、欧州に留学して専門教育を受けるのが通例であり、状況が変わったのは第1次世界大戦後に欧州の学者がアメリカに大挙して移住してからである。日本は明治以来アメリカよりも早く自国で専門教育を受けられる体制を整備したのであり、わざわざアメリカの劣った教育制度を真似する必要はないのである。

ちなみに一連の大学入試改革の伏線として帰国子女問題があったと思われる。国際化が進んで海外に駐在する日本人が増えたが、その子弟が日本に帰国してから大学受験競争に対応できず、落ちこぼれるという問題である。海外経験豊富な日本のエリートの子弟が正当に評価されず、些末な知識を問う入試問題で大学に落ちてその能力を発揮できないのは不当だというエリート層の不満が大学入試改革に与えた影響は無視できないだろう。単線型の教育システムが受験競争を過熱化させたという側面もあるが、まあエリート層のエゴに振り回されたわけで、上記のようにアメリカの高校の教育レベルは低いので、アメリカの高校を卒業した人間が日本の大学入試についていけないのは当然なのである。しかしこの問題は経団連あたりがアメリカに日本の高校と同じレベルの全寮制高校をつくれば良かっただけの話であり、大学入試をいじってAO入試などを導入したのは愚の骨頂であったというしかない。まあ、現在では通信制の高校が普及しており、この問題はかなり解決したといえるかもしれない。

ただ、欧州のように10歳前後で振り分ける(実態としては親の階級で振り分けられる)というのは日本では到底受け入れられないだろう。現実的には高校の職業教育コースを拡充し、多くの人間は職業教育コースが原則で、アカデミックコースが例外ということにすれば、職業教育コースに乗った人間に疎外感を抱かせずに済む。大部分の大学を職業教育大学化して高等教育の機会を保障すれば、不平等感も薄れるだろう。まあ、平等で安定した社会を維持するための必要コストとして認めるべきである。

このような改革によって内田氏のような妄言を垂れる大学教員もいなくなるだろう。

しかし、大学院拡大の背景には、一部の理系の研究が大型化するなかで、多数の研究人材が実験に必要なので、その手駒を確保しようという有力研究者の意向もあったのではないかと推察される。はっきり言うが、そのような大型研究は日本では諦めるべきではないか。大量の人材と資金を投入しなければならない大型研究はアメリカと中国ぐらいでしかできないのではないか。ドイツはEUの枠組みでリソースを確保できるかもしれないが、日本は無理であろう。結局一部の有力研究者のためにリソースを確保しようとして日本の研究システムは破綻してしまったのではないか。

アメリカで流行している分野に選択と集中でリソースを投入したとして、リソースの劣る側が後追いをしてもリソースの無駄遣いに終わる可能性が高い。結果として他の分野が衰退し、衰退した分野が後で重要になったときには手遅れということになりかねない。日本はむしろさまざまな分野をできるだけ維持して将来のために研究能力を確保するという方向で動くべきではないか。それこそが長期的な意味での国力である。もちろん流行している分野に別建てでリソースを確保できれば理想であり、そのような分野に留学生を増やそうというのは合理的であるが、どこまで資金を確保できるかであろう。多様な分野の研究基盤を維持することと、アメリカの流行分野の後追いなら、前者を優先すべきであろう。まあ、産学連携などで資金を確保する道も重要だが、日本に比較優位のない分野はそれも限界がある。

本当に必要な選択と集中は、一部の有力研究者にはどうぞアメリカにいってくださいと言い放つことだったのかもしれない。それが国際分業が進展するグローバリゼーションへの正しい対応であろう。日本は一連の改革でアメリカになろうとしたが、それははなから無理な相談であった。

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