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2025年4月17日 (木)

「マージナル大学」の社会的意義その他(再掲)

Mext なんだかすごくデジャビュな記事が垣間見えたので、

一部私大「義務教育のような授業」 財務省が指摘 文科省幹部は異論

 大学なのに義務教育のような授業だ――。財務省が15日の有識者らによる審議会で、一部の私大の教育内容を厳しく指摘し、私学助成の見直しを提唱した。教育の質の評価が必要という考えを示したが、文部科学省からは「粗い考えだ」との指摘もある。

例によって昔々のエントリをサルベージして再掲しておきますね。

「マージナル大学」の社会的意義

居神さんは本田由紀流の「レリバンス」論に対して、

>現在「マージナル大学」の教育現場を覆っているのは、教育内容のレリバンス性を根本的に無意味化する構造的圧力である。・・・「マージナル大学」におけるそれは想像の範囲をはるかに超えるものがある。

と述べ、続く「ノンエリート大学生の実態の本質」というところでは、それは「学力低下」論とも「ゆとり教育の弊害」とも関わりなく、

>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。

と述べ、その多様性を「認識と関係の発達の「おくれ」」と捉えて、

>もう少し具体的にいうと。認識の遅れは例えば公共的な職業訓練を受けるのに最低限必要な学力水準に到達していないレベルにある。・・・学校を卒業しても改めて何か具体的な技能を身につけようとしても、公共の職業訓練さえも受けられなければ、それは社会生活上の自立にとって大きなハードルになるだろう。

>関係のおくれも深刻である。こちらはもっと卑近な例で、コンビニのアルバイトの面接で落とされてしまうレベルといえばわかりやすいか。要は非正規雇用でも対人接触を伴う業務の遂行は困難なほどの社会性やコミュニケーションの問題が見られるということである

こういう記述を読むと、田中萬年さんの非「教育」論、職業訓練こそ真の学びという論すらも、職業能力開発総合大学校というそれなりに優秀な若者たちを集めたターシャリー教育機関の経験に基づくバイアスがあったのではないかという気がしてきます。

居神さんの「マージナル大学」はそんな生やさしいものではない、と。

では、そういうノンエリート大学生に何を伝えるべきなのか?

>ブラック企業の劣悪な労働環境をこれでもかと例示することによって、ノンエリート大学生がついつい陥ってしまう「楽勝就職」(事前の準備ゼロ、1回の面接で即内定)の末路が何らの仕事能力も身につかず「使い捨て」にされることを何となくでも分かってもらえば、さしあたりは成功である。

そして、ではブラックじゃない「まっとうな企業」に「雇用されうる能力」とは何か?

>まずは「初等教育レベルの教科書」を完璧にマスターしておくことをどうしても伝えておきたい。・・・要するに、「読み・書き・計算能力」こそが職業能力の土台であり、本当に「雇用されうる能力」を高めたければ、まずはそこからスタートしなければならない・・・

これは、まさしくヨーロッパの「エンプロイアビリティ」論が念頭に置いていたレベルです。日本はそうではない、ということを前提に今まで論じられてきたことが、なんだか全部ひっくり返る感じです。日本だって同じや。初等教育レベルのリテラシーとヌメラシーが大事や。まともなスキルはその先や。

世の「コミュニケーション能力」論は、実はやたらに高度な、並みの大人だってできないほどの、そのなんや、「はいぱあめりとくらしい」とやらの話と、こういうまさに小学生並みの、つまり2ちゃん用語でいえば「厨房」以下の話とが、相互に違うことを喋っているという認識すらないままごちゃごちゃになっていたのかもしれません。

それと同時に、彼らの就職先は総じてブラック職場だが、

>そこにとどまることで少しでも職業能力の成長が期待できるならば、とるべき方策は「退出」ではなく、自らの職場を改善・変革するための「異議申し立て」であろう。そのためには、労働者としての権利に関する知識が不可欠である。

と、「ボイス」の必要性と、そのための労働法教育の必要性を強調しています。ノンエリート大学生だからこそ、必要なのです。居神さんはこの点について、近く『もう一つのキャリア教育試論』(法律文化社)を出されるようです。

「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由

>今は昔ほど偏差値があんまり学力の能力分布の代理指標になってくれない。ノビシロはあるけど、そこそこしか勉強してこなかったという優秀な子たちはちゃんと方向付けされると「へぇ勉強ってこんなに面白いんだ」とそれなりに勉強します。ついでに上の学校みたいにプライドが高くないから、鼻もちならないなんてこともないですし、気持ちもいいです。そういう子たちが底辺の子たちと一緒にいるんですね。だからね、正確に表現すなら、中堅以下の、定員を集めるのに困っている大学は、マージナルな層を抱えていると見るべきではないでしょうか。そもそも、そんな数字を大学が出してくれるわけないですし、境界線上は判定が難しいですから、実証なんて望むべくもありませんよ。

それはまったくその通りだろうと思います。すくなくとも、現に高等教育機関で学生たちに対している方々にとっては、極めて重要な認識であることは確か。

ただ、その正しい「大学がマージナルを抱えている」というミクロ的認識が、マクロ的には「マージナル大学」という認識枠組みで認識されてしまう不可避性というのもまた、統計的差別などという手垢のついた議論を持ち出すまでもなく、社会学的必然性であるわけです。

おっしゃるとおりなのだが、だからそういう(「マージナル大学」というような入れ物で判断するのではなく)本人をきちんと見てくれ、というときの、その見るべき「本人」の能力の判断基準が、「人間力」ということになると、具体的な職務能力といったものに比べて大変深みを要求する手間のかかるものとなり、それゆえに丁寧に選抜するためには、それに値しない者が多く含まれると考えられる集団をあらかじめ足切りすることが統計的に合理的であり得てしまうようなものとなってしまうために、本人は決してここでいわれるような意味での「マージナル」ではない学生たちが、人間力をじっくり判定してもらうところにまで行き着けないという意味において、彼らにとって非常に過酷なものになってしまうというのが、(金子さんが口を極めて批判する)本田由紀説の、わたくしが理解するところの一つのコアであるように思われます。

「マージナル大学」(に限りませんが)という思考経済的レッテルが、あまり有効性を持たないようなやり方はないのか、というのが、(必ずしも表には現れていないにしても)現在の就職問題を論ずる上での一つの軸でありましょう。

金子良事さんの理解と誤解

始めに申し上げておくと、今までも何回か金子さんから指摘されたような気がしますが、

>私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

というのは、ある意味でその通りです。わたしが本田先生のレリバンス論を繰り返し「活用」するのも、社会全体の方向付けと言うよりも、ある部分に関心を引きつけたいからであり、そここそ、まさに言葉の正確な意味での「マージナル」と呼ばれるような部分であるからです。

実をいうと、日本の大学は普通に考えられているよりもかなり多様であり、特に最近は文部科学省の自由放任主義的政策のお蔭で、専門学校の大学成りが急速に進み、言葉の正確な意味において専門学校に毛が生えたような(毛も生えていない?)大学がいっぱい出てきています。こういう大学は、偏差値的にはまさに「マージナル」ですが、実態はまさしく専門学校ですので、勉強はできないにしてもとっかかりはあるのです。そういうところは、うまくいくにせよ、いかないにせよ、いくいかないの操作可能性の支点が明確です。つまりそれが、わたしが本田先生の議論で役に立つと思っている「レリバンス」なるものです。

問題のある「マージナル」大学とは、むしろ高校レベルにおける「普通科底辺校」に相当するところです。勉強したことになっている範囲は開成や日比谷と正確に同じであるような普通科底辺校の卒業生が、その同じであるはずの学習内容をAO入試で「ウリ」にできるのか、というはなしです。勉強したことになっている範囲は東大や慶応の経済学部と正確に同じであるような偏差値底辺級のマージナル大学の学生が、その同じであるはずの学習内容を「ウリ」にできるのでしょうか、と翻訳すればわかりやすいでしょう。そう、大変むくつけなはなしであり、大学人は露骨に言いたくないでしょうね。しかし、その労働市場の入口における「ウリ」という観点から、せめてなにがしかとっかかりになるレリバンスを、という点において、わたしは本田先生の議論を評価しているのであってみれば、彼女の議論が今までの社会政策や人事労務管理論をきちんと踏まえていないというのは(それが正しいとしても)戦略的には顧慮すべき必要は感じません。

本ブログでずっと昔に指摘したように、本田先生には(自分自身が所属する東京大学教育学部のような高度な研究者養成を主たる目的とする組織も含め)一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向があります。そこは、それが弊害をもたらしかねなくなった時点で指摘すればよいと、(プラグマティックに)わたしは考えています。

なお、景気が最も重要なファクターであることはおそらく誰も反論しない基本事項ですが、(それも分からずに脳天気なことを言っている「ヘタレ人文系」(?)な人々に対してであれば格別)それを前提にして議論がされているところに、あえて他の議論の重要性を削減するために景気問題を持ち出すことは、議論それ自体の正当性とは別次元において言説としての不適切性があると考えています。これは金子さんではなく、もっと別の土俵で述べられるべきことですが。

(追記)

ちなみに、金子さんや森さんは同時代的には読まれてないと思いますが、今から4年以上前に本ブログ上で時ならぬレリバンス論議が交わされたことがあり、その時のエントリを読んでいただくと、わたくしの変わらぬ問題意識はご理解いただけるものと思われます。

たとえば、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。

コメント欄:

>マクロ社会的には、必ずしも優秀でない素材までが、かつて優秀であるシグナルとして機能した(と思いこんでいる)基礎的な専門教育の欠如というシグナリングを求めて普通科になだれ込んできたために、シグナリング機能が消滅したことがあります。
そうすると、こういう連中は、優秀でない上にへたに雇ったら初期教育訓練コストもかさむ存在になりますから、労働市場で一番周辺に追いやられてしまいます。
これは格差の原因ではないにしても、それをある程度増幅する機能は果たしているように思われます。

いずれにしても、専門高校であっても、所詮高校レベルで教えることのできる専門性なんて、それほど大したものではないのですから、「普通高校で教えることの可能な広義の意味での専門性」にそんなに悩む必要もないように思います。
高校レベルで何らかの職業教育を全員が受けた上で、その能力に応じてさらに進学するという仕組みになることのメリットは、進学しない場合のリスクを最小限にすることができることで、これはかなり重要ではないかと思います。

>職業教育の拡大というのは、別に「うまい話」なんかではなく、何にもないまま労働市場に投げ出される若者に、せめてなけなしの装備を提供してやろうという、はなはだみみっちい話に過ぎません

>全くその通りでしょう、私は初めから、日比谷だの戸山だのへいって東大や京大を目指す連中のことは念頭に置いてません。書店に行けば、高校進学ガイドなる冊子がおいてあって、ごく少数の職業科を押しやって山のように名前も聞いたことのないような普通科高校があることがわかります。しかも結構就職しているんですね。入試偏差値でシグナリング機能が代替されてしまい、普通科に進学した意味が全くない彼らをどう救えるのか、ってところに主たる関心があるものですから。(最初に断っているように、私は教育の専門家ではなく、教育の高邁な理念なるものには何の思い入れもないものですから、何がどう役立つか、という関心からのみものを言っています)

(再追記)

ついでに、当時のいくつかのエントリも紹介しておきます。

まず「一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向」の実例。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、・・・・・・

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

>大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです

これらレリバンスを論ずべきではそもそもないものに対し、まさにレリバンスを問うべきではないかと論じているのが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

>哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。

>経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。

こういうのを読まれると、このhamachanという奴のレリバンス論というのは、なんというむくつけでむきだしでいやらしいものかと感想をお持ちの方もおられるでしょう。その通りです。そういう本音を隠したきれい事で教育論を済ませようとするから、話がことごとくおかしな方向にいくのです。

そして、少なくともわたくしの考えるところでは、社会科学的思考とは物事をこういう風に見て、こういう風に考えることであるはずです。むき出しの事実をありのままに見るところからしか、理想も何も出発のしようはないのです。

 

 

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コメント

この話、「義務教育で教わったけれど身に着けられなかった初等的なことが、大学で卒業単位のために履修登録をしたら、身に付く割合ってそんなに高くないと思うんだけど」ってだけの話じゃないか?
授業料が無料の代わりに、できていない場合はガンガン落とすってやるのなら、高くなるかもしれないですけどね

素人の疑問ですが、ここで述べられている状況になっているのは日本だけなのでしょうか?

>>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。

https://www.globalnote.jp/post-1465.html
世界の大学進学率 国別ランキング
によると欧米の大学進学率は
  イギリス  80%
  米国    79%
  ドイツ   76%
  イタリア  76%
  フランス  71%
  日本    64%
となっていて、どの国も日本より上です。他国では社会人になってから大学に進学する方も多いそうなので高校生の進学率はこれより低いと思いますが、それでも”高等教育の内部に多様性が存在する”という点では日本と同じだと思います。他国ではその点に対してどのように対応しているのでしょうか?


>>まずは「初等教育レベルの教科書」を完璧にマスターしておくことをどうしても伝えておきたい。・・・要するに、「読み・書き・計算能力」こそが職業能力の土台であり、本当に「雇用されうる能力」を高めたければ、まずはそこからスタートしなければならない・・・

大学生の前段階である小学生や中学生に対する世界的な学力調査では日本は上位の常連だったと思います。また日本の成績に対して”応用力が弱い”という評価もずっと言われていたと思います。つまり”応用力”以前の「読み・書き・計算能力」では日本の小学生や中学生はずっと世界のトップレベルだと思います。
小学生や中学生段階では世界のトップレベルだった「読み・書き・計算能力」が大学生になると劣化してしまうのでしょうか?それとも小学生や中学生段階で「読み・書き・計算能力」が日本より劣っていた他国では大学生レベルでも「読み・書き・計算能力」は問題となっている日本よりもさらに低いのでしょうか?その場合は他国ではその点に対してどのように対応しているのでしょうか?


>高校レベルで何らかの職業教育を全員が受けた上で、その能力に応じてさらに進学するという仕組みになることのメリットは、進学しない場合のリスクを最小限にすることができることで、これはかなり重要ではないかと思います。

私は
Ⅰ. 進路の決定時期
Ⅱ. 専門学校の存在
Ⅲ. 成人年齢(選挙権)の低下
という点から高校レベルでは職業教育(専門高校)よりも一般教育(普通科高校)を重視すべきだと思います


>哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システム

昔々、私が大学生だった頃にゼミの先生とたまたま文学部の前を通りました。
私が
  大学に文学部は必要でしょうか?大学の各部門はそれぞれの学問を発展させるためにあると思います。
  学問を発展させるためには大学の専門教育でその分野のそれまでの成果を習得する必要があります。
  しかし優れた文学者(作家)には文学部での専門教育と無縁の方も多いです。
  その意味で文学部は文学の発展にあまり貢献していないように思います。
と言ったら、先生(数学科出身)が
  私は国立大学になぜ工学部があるかが分かりません。あれは技術を使って金儲けをしたい人たちが
  お金を出し合って作ればよいので、国がお金を出す必要はありません。
と仰った事を思い出しました。

進学率上昇の長期的な効果もあるでしょうが、急にこういうことになったのは
単位認定の厳格化、実質化のせいでしょうね。

それ以前は授業内容が全然、できていなくても単位を取得させることも多く、
多くの科目で全然、できていなくても学生は卒業ができた。それを止める、と
いうことになったので、「内容を簡単にする」という措置が同時に取られた。
実質化とともに「卒業に必要な単位数を減らして、少数の難しいことに集中を
することで、難しい内容を習得する」という方向もできたと思うのですけど、
まあ、国民がバカだったから、そうはならなかったということなんでしょう。

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