特定最賃は業者間協定の直系の子孫
焦げすーもさんの疑問にストレートに答えると、
業者間協定方式(静岡の缶詰業者が起源)と、現行の特定最賃は、わずかながら関連性があると言っていいのか否か。 hamachan本を掘り起こしたら、わかるか。
わずかながらどころではなく、むしろ特定最賃は業者間協定の直系の子孫とすら言えます。
静岡県労働基準局長が地元の缶詰業界にやらせたところから始まり、1959年最賃法で立法化された業者間協定方式は、まさに産業別地域別の最低賃金でした。
それがILO条約違反だと叩かれて、1968年改正で業者間協定方式が廃止されて審議会方式となったのですが、とりあえずは既存の業者間協定の業種や地域を拡大しつつ対応したので、このときの最賃は審議会方式の産別最賃でした。
このころ、労働側は全国一律最賃ばかりを主張し、一方経営側は産別最賃の維持を主張していましたが、労働省は産別だけでは漏れる業種があるので、既存の細別最賃とは別に都道府県ごとの地域最賃を全国に広げることを目指し、これが実現したのが1976年です。
これにより、それまで主流であった産別最賃は傍流化し、それまで地賃に否定的であった経営側が、地賃があるんだから産別最賃はいらないと主張し始めて、産別最賃の日陰の身の流浪の旅が始まるわけです。自分たちに身近なはずの産別最賃をほったらかして表層的に全国一律最賃ばかり叫んでいた労働側は、慌てて今更のように産別最賃は大事だと言い出しましたが、実力が伴わないためになかなか広がりません。過去半世紀以上にわたって、産別最賃無用論に叩かれながら何とか生き延びてきたのが、2007年改正でややごまかしのような手口で産別最賃は廃止するけれども代わりに特定最賃を作りますと称して命をつないだのが現在の特定最賃というわけです。
という波乱万丈の人生行路ですが、とはいえ特定最賃の元をたどると業者間協定方式であることは確かでしょう。
同書の259~260頁に、やや皮肉な口調でこんなことを書いております。
今日では、業者間協定は最低賃金の黒(くろ)歴(れき)史(し)としてのみ記憶されているでしょう。しかしこの制度は、ある地域のある業界の経営者団体を、自分たちの雇う労働者の最低賃金を決めさせるという土俵に引っ張り出して、責任を持たせていたということもできます。当時の労働組合は全国一律最低賃金を唱えるばかりで、自分たちの力である地域やある業種の最低賃金を協定の形で勝ち取る力量などほとんどありませんでした。後述するように、当時地域別最低賃金にすら反対し、業者間協定方式に固執していた経営側は、七〇年代前半に全都道府県で地域別最低賃金ができてしまったら、今度は産業別最低賃金など不要だと言い出しました。それをかいくぐって、一九八六年には新産業別最低賃金、二〇〇七年には特定最低賃金としてなんとか生き延びさせてきたのです。企業別組合の枠を超えられない日本の労働組合には、自分たちで産業別最低賃金を作り出す力量が乏しいということを立証しています。
今になって考えれば、当時あれだけ「ニセ最賃」と罵倒していた業者間協定をうまく使って、それに関係労組をうまく載っける形でのソフトランディングはありえなかったのだろうか、という思いもします。業界団体という土俵はあったのです。企業を超えた賃金設定システムという生まれつつあった土俵を叩き潰して、もはやその夢のあとすら残っていません。改めて業者間協定という黒歴史を、偏見なしに考え直してみるべきかも知れません。
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