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2025年4月

2025年4月18日 (金)

西村あさひ法律事務所・外国法共同事業編『サステナビリティ大全』

9784785731335 西村あさひ法律事務所・外国法共同事業編『サステナビリティ大全』(商事法務)をお送りいただきました。これはまた大変分厚い本です。

サステナビリティ大全

多角的視点からサステナビリティ(持続可能性)に関する各種の規範を分析し、紹介する。

サステナビリティ(持続可能性)の概念が唱えられて久しいが、その意味は多義的で、それらを巡るルールも数多く形成されている。本書は、日々新たに生じうるサステナビリティ課題を把握し、それが企業活動にどのような影響を与えるかについての視座を提示することを目指し、サステナビリティに関する各種の規範を分析し、紹介する。

目次は下記にありますが、サステナビリティというのが実に広範な範囲に及ぶ概念であることが、わかります。

トランプ大統領がDE&Iに猛攻撃を加えつつある今日ですが、世界の大きな流れとしてサステナビリティが消えることはないでしょう。

座右において時々コンサルトするにふさわしい重厚な本でしょう。

第 1 部 総 論
 第 1 章 サステナビリティの概念(沿革・関連概念等) 
 第 2 章 サステナビリティをめぐる規範を読み解く
 第 3 章 ESG 
  第 1 節 ESG の概念 
  第 2 節 ESG 要素の考慮と取締役の善管注意義務
  第 3 節 マテリアリティ 

第 2 部 コーポレート
 第 1 章 総 論 
 第 2 章 サステナビリティ・ガバナンス 
  第 1 節 サステナビリティ経営を支える体制 
  第 2 節 役員報酬 
  第 3 節 サステナビリティ情報開示
 第 3 章 ソーシャル ・ エンタープライズ 
  第 1 節 ベネフィットコーポレーション
    第 2 節 B Corp 認証制度 
  第 3 節 公益法人
 第4章 M&A と ESG 
  第 1 節 ESG デューデリジェンス
  第 2 節 M&A 契約と ESG 
  第 3 節 PMI と ESG

第 3 部 ファイナンス
 第 1 章 総 論 
  第 1 節 金融・金融機関とサステナビリティ 
  第 2 節 わが国の制度整備の動向
 第 2 章 ESG 投資 
  第 1 節 ESG 投資の意義と背景
  第 2 節 ESG 投資の視点・手法 
  第 3 節 ESG 投資と日本法における受託者責任──「科学的」な議論へ向けて
 第 3 章 サステナブル・ファイナンスと金融商品 
  第 1 節 サステナブル・ファイナンス商品の類型 
  第 2 節 サステナブル・ファイナンスの経済的メリット 
  第 3 節 サステナブル・ファイナンスに用いられる発行条件/契約条件
  第 4 節 サステナビリティ・リンク・デリバティブ(Sustainability-linked Derivatives) 
 第 4 章 サステナブル・ファイナンスとしてのプロジェクト・ファイナンス 
 第 5 章 インパクト投資 

第 4 部 ソーシャル
 第 1 章 Diversity, Equity & Inclusion 
  第 1 節 はじめに 
  第 2 節 多様な労働者に対応する人事労務と法政策
  第 3 節 ジェンダー投資
 第 2 章 ビジネスと人権 
  第 1 節 ビジネスと人権をめぐる規範 
  第 2 節 近時の海外法制の動向 
  第 3 節 個別の人権イシュー
  第 4 節 人権尊重責任と契約 
 第 3 章 労働法 
  第 1 節 サステナビリティと労働分野
  第 2 節 労務:フリーランス 
  第 3 節 同一労働同一賃金
  第 4 節 人的資本経営 
 第 4 章 地方再生・地方創生とサステナブル・ファイナンス
 第 5 章 アグリ・フード 
  第 1 節 アグリ・フード分野における日本のサステナビリティ政策の概要 
  第 2 節 農林漁業資産と食品のサステナビリティ:フードテック 
  第 3 節 漁業分野におけるサステナビリティ 
  第 4 節 農業と再生エネルギー(営農型太陽光発電) 
  第 5 節 農業従事者のサステナビリティ 
 第 6 章 消費者保護と SDGs ウォッシュ 
  第 1 節 消費者向け商品・サービスの表示とサステナビリティ
  第 2 節 ウォッシング
  第 3 節 消費者向けの表示とウォッシング規制 

第 5 部 環 境
 第 1 章 気候変動 
 第 2 章 自然資本
 第 3 章 サーキュラーエコノミー 

第 6 部 独禁・通商
 第 1 章 通商・投資法 
  第 1 節 人権問題と通商規制 
  第 2 節 気候変動問題と通商規制
 第 2 章 競争法
  第 1 節 総論(協調が必要になっている背景、競争法との緊張関係、
          各国競争法の判断枠組み、各国競争当局の動向)
  第 2 節 各国競争法の判断枠組み
  第 3 節 行為類型ごとの考慮事項

労働法の感覚に慣れた目からすると、目次の立て方がなかなか新鮮です。労働関係は第5部の「ソーシャル」に含まれるのですが、女性、LGBT、シニア、障害者、外国人、疾病、ハラスメントは「多様な労働者」に含まれ、国際労働基準やバリューチェーンは「ビジネスと人権」で、フリーランス、同一労働同一賃金、人的資本経営が「労働法」だというのは、ふーん、そうなのかぁ、と思ってしまいました。

 

 

2025年4月17日 (木)

「マージナル大学」の社会的意義その他(再掲)

Mext なんだかすごくデジャビュな記事が垣間見えたので、

一部私大「義務教育のような授業」 財務省が指摘 文科省幹部は異論

 大学なのに義務教育のような授業だ――。財務省が15日の有識者らによる審議会で、一部の私大の教育内容を厳しく指摘し、私学助成の見直しを提唱した。教育の質の評価が必要という考えを示したが、文部科学省からは「粗い考えだ」との指摘もある。

例によって昔々のエントリをサルベージして再掲しておきますね。

「マージナル大学」の社会的意義

居神さんは本田由紀流の「レリバンス」論に対して、

>現在「マージナル大学」の教育現場を覆っているのは、教育内容のレリバンス性を根本的に無意味化する構造的圧力である。・・・「マージナル大学」におけるそれは想像の範囲をはるかに超えるものがある。

と述べ、続く「ノンエリート大学生の実態の本質」というところでは、それは「学力低下」論とも「ゆとり教育の弊害」とも関わりなく、

>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。

と述べ、その多様性を「認識と関係の発達の「おくれ」」と捉えて、

>もう少し具体的にいうと。認識の遅れは例えば公共的な職業訓練を受けるのに最低限必要な学力水準に到達していないレベルにある。・・・学校を卒業しても改めて何か具体的な技能を身につけようとしても、公共の職業訓練さえも受けられなければ、それは社会生活上の自立にとって大きなハードルになるだろう。

>関係のおくれも深刻である。こちらはもっと卑近な例で、コンビニのアルバイトの面接で落とされてしまうレベルといえばわかりやすいか。要は非正規雇用でも対人接触を伴う業務の遂行は困難なほどの社会性やコミュニケーションの問題が見られるということである

こういう記述を読むと、田中萬年さんの非「教育」論、職業訓練こそ真の学びという論すらも、職業能力開発総合大学校というそれなりに優秀な若者たちを集めたターシャリー教育機関の経験に基づくバイアスがあったのではないかという気がしてきます。

居神さんの「マージナル大学」はそんな生やさしいものではない、と。

では、そういうノンエリート大学生に何を伝えるべきなのか?

>ブラック企業の劣悪な労働環境をこれでもかと例示することによって、ノンエリート大学生がついつい陥ってしまう「楽勝就職」(事前の準備ゼロ、1回の面接で即内定)の末路が何らの仕事能力も身につかず「使い捨て」にされることを何となくでも分かってもらえば、さしあたりは成功である。

そして、ではブラックじゃない「まっとうな企業」に「雇用されうる能力」とは何か?

>まずは「初等教育レベルの教科書」を完璧にマスターしておくことをどうしても伝えておきたい。・・・要するに、「読み・書き・計算能力」こそが職業能力の土台であり、本当に「雇用されうる能力」を高めたければ、まずはそこからスタートしなければならない・・・

これは、まさしくヨーロッパの「エンプロイアビリティ」論が念頭に置いていたレベルです。日本はそうではない、ということを前提に今まで論じられてきたことが、なんだか全部ひっくり返る感じです。日本だって同じや。初等教育レベルのリテラシーとヌメラシーが大事や。まともなスキルはその先や。

世の「コミュニケーション能力」論は、実はやたらに高度な、並みの大人だってできないほどの、そのなんや、「はいぱあめりとくらしい」とやらの話と、こういうまさに小学生並みの、つまり2ちゃん用語でいえば「厨房」以下の話とが、相互に違うことを喋っているという認識すらないままごちゃごちゃになっていたのかもしれません。

それと同時に、彼らの就職先は総じてブラック職場だが、

>そこにとどまることで少しでも職業能力の成長が期待できるならば、とるべき方策は「退出」ではなく、自らの職場を改善・変革するための「異議申し立て」であろう。そのためには、労働者としての権利に関する知識が不可欠である。

と、「ボイス」の必要性と、そのための労働法教育の必要性を強調しています。ノンエリート大学生だからこそ、必要なのです。居神さんはこの点について、近く『もう一つのキャリア教育試論』(法律文化社)を出されるようです。

「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由

>今は昔ほど偏差値があんまり学力の能力分布の代理指標になってくれない。ノビシロはあるけど、そこそこしか勉強してこなかったという優秀な子たちはちゃんと方向付けされると「へぇ勉強ってこんなに面白いんだ」とそれなりに勉強します。ついでに上の学校みたいにプライドが高くないから、鼻もちならないなんてこともないですし、気持ちもいいです。そういう子たちが底辺の子たちと一緒にいるんですね。だからね、正確に表現すなら、中堅以下の、定員を集めるのに困っている大学は、マージナルな層を抱えていると見るべきではないでしょうか。そもそも、そんな数字を大学が出してくれるわけないですし、境界線上は判定が難しいですから、実証なんて望むべくもありませんよ。

それはまったくその通りだろうと思います。すくなくとも、現に高等教育機関で学生たちに対している方々にとっては、極めて重要な認識であることは確か。

ただ、その正しい「大学がマージナルを抱えている」というミクロ的認識が、マクロ的には「マージナル大学」という認識枠組みで認識されてしまう不可避性というのもまた、統計的差別などという手垢のついた議論を持ち出すまでもなく、社会学的必然性であるわけです。

おっしゃるとおりなのだが、だからそういう(「マージナル大学」というような入れ物で判断するのではなく)本人をきちんと見てくれ、というときの、その見るべき「本人」の能力の判断基準が、「人間力」ということになると、具体的な職務能力といったものに比べて大変深みを要求する手間のかかるものとなり、それゆえに丁寧に選抜するためには、それに値しない者が多く含まれると考えられる集団をあらかじめ足切りすることが統計的に合理的であり得てしまうようなものとなってしまうために、本人は決してここでいわれるような意味での「マージナル」ではない学生たちが、人間力をじっくり判定してもらうところにまで行き着けないという意味において、彼らにとって非常に過酷なものになってしまうというのが、(金子さんが口を極めて批判する)本田由紀説の、わたくしが理解するところの一つのコアであるように思われます。

「マージナル大学」(に限りませんが)という思考経済的レッテルが、あまり有効性を持たないようなやり方はないのか、というのが、(必ずしも表には現れていないにしても)現在の就職問題を論ずる上での一つの軸でありましょう。

金子良事さんの理解と誤解

始めに申し上げておくと、今までも何回か金子さんから指摘されたような気がしますが、

>私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

というのは、ある意味でその通りです。わたしが本田先生のレリバンス論を繰り返し「活用」するのも、社会全体の方向付けと言うよりも、ある部分に関心を引きつけたいからであり、そここそ、まさに言葉の正確な意味での「マージナル」と呼ばれるような部分であるからです。

実をいうと、日本の大学は普通に考えられているよりもかなり多様であり、特に最近は文部科学省の自由放任主義的政策のお蔭で、専門学校の大学成りが急速に進み、言葉の正確な意味において専門学校に毛が生えたような(毛も生えていない?)大学がいっぱい出てきています。こういう大学は、偏差値的にはまさに「マージナル」ですが、実態はまさしく専門学校ですので、勉強はできないにしてもとっかかりはあるのです。そういうところは、うまくいくにせよ、いかないにせよ、いくいかないの操作可能性の支点が明確です。つまりそれが、わたしが本田先生の議論で役に立つと思っている「レリバンス」なるものです。

問題のある「マージナル」大学とは、むしろ高校レベルにおける「普通科底辺校」に相当するところです。勉強したことになっている範囲は開成や日比谷と正確に同じであるような普通科底辺校の卒業生が、その同じであるはずの学習内容をAO入試で「ウリ」にできるのか、というはなしです。勉強したことになっている範囲は東大や慶応の経済学部と正確に同じであるような偏差値底辺級のマージナル大学の学生が、その同じであるはずの学習内容を「ウリ」にできるのでしょうか、と翻訳すればわかりやすいでしょう。そう、大変むくつけなはなしであり、大学人は露骨に言いたくないでしょうね。しかし、その労働市場の入口における「ウリ」という観点から、せめてなにがしかとっかかりになるレリバンスを、という点において、わたしは本田先生の議論を評価しているのであってみれば、彼女の議論が今までの社会政策や人事労務管理論をきちんと踏まえていないというのは(それが正しいとしても)戦略的には顧慮すべき必要は感じません。

本ブログでずっと昔に指摘したように、本田先生には(自分自身が所属する東京大学教育学部のような高度な研究者養成を主たる目的とする組織も含め)一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向があります。そこは、それが弊害をもたらしかねなくなった時点で指摘すればよいと、(プラグマティックに)わたしは考えています。

なお、景気が最も重要なファクターであることはおそらく誰も反論しない基本事項ですが、(それも分からずに脳天気なことを言っている「ヘタレ人文系」(?)な人々に対してであれば格別)それを前提にして議論がされているところに、あえて他の議論の重要性を削減するために景気問題を持ち出すことは、議論それ自体の正当性とは別次元において言説としての不適切性があると考えています。これは金子さんではなく、もっと別の土俵で述べられるべきことですが。

(追記)

ちなみに、金子さんや森さんは同時代的には読まれてないと思いますが、今から4年以上前に本ブログ上で時ならぬレリバンス論議が交わされたことがあり、その時のエントリを読んでいただくと、わたくしの変わらぬ問題意識はご理解いただけるものと思われます。

たとえば、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。

コメント欄:

>マクロ社会的には、必ずしも優秀でない素材までが、かつて優秀であるシグナルとして機能した(と思いこんでいる)基礎的な専門教育の欠如というシグナリングを求めて普通科になだれ込んできたために、シグナリング機能が消滅したことがあります。
そうすると、こういう連中は、優秀でない上にへたに雇ったら初期教育訓練コストもかさむ存在になりますから、労働市場で一番周辺に追いやられてしまいます。
これは格差の原因ではないにしても、それをある程度増幅する機能は果たしているように思われます。

いずれにしても、専門高校であっても、所詮高校レベルで教えることのできる専門性なんて、それほど大したものではないのですから、「普通高校で教えることの可能な広義の意味での専門性」にそんなに悩む必要もないように思います。
高校レベルで何らかの職業教育を全員が受けた上で、その能力に応じてさらに進学するという仕組みになることのメリットは、進学しない場合のリスクを最小限にすることができることで、これはかなり重要ではないかと思います。

>職業教育の拡大というのは、別に「うまい話」なんかではなく、何にもないまま労働市場に投げ出される若者に、せめてなけなしの装備を提供してやろうという、はなはだみみっちい話に過ぎません

>全くその通りでしょう、私は初めから、日比谷だの戸山だのへいって東大や京大を目指す連中のことは念頭に置いてません。書店に行けば、高校進学ガイドなる冊子がおいてあって、ごく少数の職業科を押しやって山のように名前も聞いたことのないような普通科高校があることがわかります。しかも結構就職しているんですね。入試偏差値でシグナリング機能が代替されてしまい、普通科に進学した意味が全くない彼らをどう救えるのか、ってところに主たる関心があるものですから。(最初に断っているように、私は教育の専門家ではなく、教育の高邁な理念なるものには何の思い入れもないものですから、何がどう役立つか、という関心からのみものを言っています)

(再追記)

ついでに、当時のいくつかのエントリも紹介しておきます。

まず「一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向」の実例。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、・・・・・・

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

>大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです

これらレリバンスを論ずべきではそもそもないものに対し、まさにレリバンスを問うべきではないかと論じているのが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

>哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。

>経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。

こういうのを読まれると、このhamachanという奴のレリバンス論というのは、なんというむくつけでむきだしでいやらしいものかと感想をお持ちの方もおられるでしょう。その通りです。そういう本音を隠したきれい事で教育論を済ませようとするから、話がことごとくおかしな方向にいくのです。

そして、少なくともわたくしの考えるところでは、社会科学的思考とは物事をこういう風に見て、こういう風に考えることであるはずです。むき出しの事実をありのままに見るところからしか、理想も何も出発のしようはないのです。

 

 

経済同友会がエッセンシャルワークへの職種別最低賃金導入を提言

Logo_20250417131001 日本の最低賃金の歴史を知る人は、経営側は長らく産別最賃なんか要らない廃止しろと言い続けてきたと知っているだけに、今回のこの経済同友会の提言に驚くかも知れません。

政策提言 企業と人材の流動化により中堅・中小企業の付加価値の創造と日本経済の復活を

企業と人材の流動化により 中堅・中小企業の付加価値の創造と日本経済の復活を(本文)

この提言の中で、経済同友会は明確にこう言っています。

①職種別最低賃金制度の導入

デスクワーク領域からエッセンシャルワーク領域への労働移動にあたっては、給与ギャップが生じることが課題となる。その縮小を図るため、従来の施策に加えて、「1.成長を加速させる支援」に記載した提言を踏まえた施策を着実に実行し、生産性を向上させる一方、エッセンシャルワーク領域については、より高水準の最低賃金の設定を可能にすべきである。

具体的には、中央最低賃金審議会において、エッセンシャルワーク領域の特定最低賃金8についても改定額の「目安」9を示し、これを参考に、地方最低賃金審議会において、地域の事情を踏まえて審議を行い、都道府県ごとに必要職種の最低賃金を上げていくことが必要と考えられる。

 

 

 

2025年4月16日 (水)

岸本周平さんの拙著書評

Kishimoto 和歌山県知事の岸本周平さんが急逝されたとの報を聴き、

和歌山県の岸本周平知事が死去、68歳 敗血症性ショックで

和歌山県の岸本周平知事(68)が15日、敗血症性ショックで死去した。14日に知事公舎の寝室で倒れているのが見つかり、病院の集中治療室で治療を受けていた。 

岸本知事は和歌山市出身で東大法学部卒。旧大蔵省に入省し、財務省国庫課長などを経て2009年の衆院選に和歌山1区から民主党公認で立候補し、初当選した。民主党政権で経済産業政務官などを歴任。国民民主党の幹事長代行を務めた。

岸本さんが和歌山県知事になる前の、民主党の国会議員であったころに、そのブログで拙著『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)を取り上げていただいたことがあります。

この本は、拙新書の中では例外的に重版がかからなかった「売れない本」だったのですが、岸本さんの心のこもった書評にはとてもありがたい思いをした記憶が蘇ってきます。

ホワイトカラー・エグゼンプションとは何か?

(濱口桂一郎著、「日本の雇用と中高年」、ちくま新書、2014年5月)

「ホワイトカラー・エクゼンプション」とは、何か?

 これは、管理職でない、ある一定のサラリーマンに残業代を払わない制度のことです。

 労働省出身の濱口桂一郎先生の説明では、中高年の人件費対策としての残業代カットのことです。

 つまり、ある時期までは、日本の企業は管理職手当ありで残業代ゼロの本来の「管理職」になれない中高年を「スタッフ職」として管理職手当を出して処遇できていました。

 しかし、90年代以降、そのようなゆとりが無くなったものですから、スタッフ職も管理職待遇ではなく、残業代支給の対象になってきました。この残業代の負担を減らすことが、企業の課題になってきたのです。

 ところが、2007年に、「ホワイトカラー・エクゼンプション」の法案を政府が提案した時に、本来、中高年の残業代を減らす話からスタートしたのに、政府の説明が、「自立的な働き方」だとか、「ワークライフバランスが良くなる」などと実態を反映していなかったので、つぶれたわけです。

 安倍内閣の政策は、いつでも、説明の仕方や表現と中身が大きくかけ離れています。「ホワイトカラーエクゼンプション」も、その典型的な例です。私も、秋の臨時国会では、しっかりと追及します。

 一方、濱口桂一郎先生の「日本の雇用と中高年」(ちくま新書、2014年5月)を読むと、戦後の日本の労働政策の変化が判りやすく書かれています。

 1960年代までは、欧米型の「ジョブ型(職務給)社会」を目指していたのですが、石油危機の70年代以降、「職務の限定のない雇用契約」を特色とする「日本型雇用」が肯定されるようになりました。

 その中で、「同一価値労働、同一賃金」の原則は放棄され、年功序列賃金や家族手当など、中高年になれば支出が増える家計を企業がサポートするようになりました。

 80年代以降、「ジャパン・アズ・ナンバー1」などと、日本型の経営方法がほめそやされる中、「日本型雇用」も反省されること無く続きました。

 ヨーローッパでは、あくまでも「同一価値労働、同一賃金」を原則に、家計支出の増加には子ども手当など社会保障で政府が手当しています。

 正規の職員間ですら「同一価値労働、同一賃金」の哲学が無かった日本に、非正規雇用に対して「同一価値労働、同一賃金」を適用するのは難しいのかもしれません。

 また、今、企業が家計を支援できなくなっているにもかかわらず、政府の社会保障施策が遅れていることが、いろんなところで「貧困」問題を生んでいるように思います。

 また、日本でも一時期、定年制は年齢による差別なので廃止すべきだという動きがありましたが、その後、定年制延長、継続雇用などによる方向に動いています。これが、本当に中高年の雇用の保障になるのかは疑問です。

 多くの先進国では、定年制は、年齢による差別なので違法だとされています。

 一律の規制よりも、個人の多様性に基づく柔軟な制度が望まれます。

 もう一度、「同一価値労働、同一賃金」のジョブ型(職務給)社会を目指し、非正規雇用や中高年の雇用改善への挑戦をすべきではないでしょうか。そのためにも、社会保障改革は避けては通れない考えます。

 

2025年4月12日 (土)

スポットワークは雇用型プラットフォーム労働

最近スポットワーク(スキマバイト)が話題ですが、どうも日本の文脈では職業紹介なのか労働者供給なのかといった労働市場規制問題の枠組みでばかり議論されがちですが、世界的な労働問題の文脈でいえば、むしろプラットフォーム労働のアルゴリズム問題が表出している領域ではないかと思われます。

プラットフォーム労働というと、これまたウーバーやウーバーイーツが想起され、ほとんどもっぱら労働者なのか自営業者なのかという労働者性問題の文脈でのみ議論される傾向にありますが、昨年成立したEUプラットフォーム労働指令にせよ、この6月にILO総会で議論される条約勧告案にせよ、非常に大きな部分がアルゴリズムによる意思決定の問題に充てられていて、その問題はプラットフォーム労働者が法的に雇用労働者であるかそれとも自営業者であるかに関わりなく、共通の問題として提起されています。

残念ながら日本では、この問題をつなげて論じようという感覚が極めて弱く、そもそもスポットワークがプラットフォーム労働であるという認識もほとんど持たれていないようです。

この点については先日「WEB労政時報」に「スポットワークと日雇派遣」を書いたときに、その末尾にちょびっと書き記しておきましたが、

スポットワークと日雇派遣@WEB労政時報

・・・・さて、スポットワークについては、これとは別の観点から考察する必要もあります。スマートフォンアプリによる単発の就労といえば、近年世界的に拡大し、日本でもコロナ禍で急拡大したウーバーイーツのようなプラットフォーム労働が思い浮かびます。実を言えば、スポットワークも広い意味でのプラットフォーム労働の一種です。プラットフォーム労働には非雇用型と雇用型があり、前者の労働者性が世界的に大きな問題となっていますが、スポットワークはそもそも雇用型なのでその問題はクリアしています。しかし、プラットフォームのアルゴリズムによる諸問題は共通です。
 
 特に、2024年10月14日付の朝日新聞記事「スポットワーク、アプリに違法規則 マッチした仕事、『無断欠勤』したら無期限利用停止 厚労省が指導」で報じられた問題は、同省が職業安定法5条の7(求職受理原則)の趣旨に反するという指導を行ったとのことですが、これは2024年10月23日に成立したEUのプラットフォーム労働指令でいう「自動的な意思決定システム」のうちの「プラットフォーム労働遂行者のアカウントを制限、停止又は解除(中略)する意思決定」に当たると思われます。労働過程におけるAIの利用に関する問題は世界的に注目され始めていますが、スポットワークをそういう観点から考えていく必要は今後ますます高まっていくと思われます。

 

 

2025年4月10日 (木)

特定最賃は業者間協定の直系の子孫

焦げすーもさんの疑問にストレートに答えると、

業者間協定方式(静岡の缶詰業者が起源)と、現行の特定最賃は、わずかながら関連性があると言っていいのか否か。 hamachan本を掘り起こしたら、わかるか。

わずかながらどころではなく、むしろ特定最賃は業者間協定の直系の子孫とすら言えます。

静岡県労働基準局長が地元の缶詰業界にやらせたところから始まり、1959年最賃法で立法化された業者間協定方式は、まさに産業別地域別の最低賃金でした。

それがILO条約違反だと叩かれて、1968年改正で業者間協定方式が廃止されて審議会方式となったのですが、とりあえずは既存の業者間協定の業種や地域を拡大しつつ対応したので、このときの最賃は審議会方式の産別最賃でした。

このころ、労働側は全国一律最賃ばかりを主張し、一方経営側は産別最賃の維持を主張していましたが、労働省は産別だけでは漏れる業種があるので、既存の細別最賃とは別に都道府県ごとの地域最賃を全国に広げることを目指し、これが実現したのが1976年です。

これにより、それまで主流であった産別最賃は傍流化し、それまで地賃に否定的であった経営側が、地賃があるんだから産別最賃はいらないと主張し始めて、産別最賃の日陰の身の流浪の旅が始まるわけです。自分たちに身近なはずの産別最賃をほったらかして表層的に全国一律最賃ばかり叫んでいた労働側は、慌てて今更のように産別最賃は大事だと言い出しましたが、実力が伴わないためになかなか広がりません。過去半世紀以上にわたって、産別最賃無用論に叩かれながら何とか生き延びてきたのが、2007年改正でややごまかしのような手口で産別最賃は廃止するけれども代わりに特定最賃を作りますと称して命をつないだのが現在の特定最賃というわけです。

という波乱万丈の人生行路ですが、とはいえ特定最賃の元をたどると業者間協定方式であることは確かでしょう。

Asahishinsho_20250410231501 詳細は『賃金とは何か』の第3部に書いてあります。

同書の259~260頁に、やや皮肉な口調でこんなことを書いております。

 今日では、業者間協定は最低賃金の黒(くろ)歴(れき)史(し)としてのみ記憶されているでしょう。しかしこの制度は、ある地域のある業界の経営者団体を、自分たちの雇う労働者の最低賃金を決めさせるという土俵に引っ張り出して、責任を持たせていたということもできます。当時の労働組合は全国一律最低賃金を唱えるばかりで、自分たちの力である地域やある業種の最低賃金を協定の形で勝ち取る力量などほとんどありませんでした。後述するように、当時地域別最低賃金にすら反対し、業者間協定方式に固執していた経営側は、七〇年代前半に全都道府県で地域別最低賃金ができてしまったら、今度は産業別最低賃金など不要だと言い出しました。それをかいくぐって、一九八六年には新産業別最低賃金、二〇〇七年には特定最低賃金としてなんとか生き延びさせてきたのです。企業別組合の枠を超えられない日本の労働組合には、自分たちで産業別最低賃金を作り出す力量が乏しいということを立証しています。
 今になって考えれば、当時あれだけ「ニセ最賃」と罵倒していた業者間協定をうまく使って、それに関係労組をうまく載っける形でのソフトランディングはありえなかったのだろうか、という思いもします。業界団体という土俵はあったのです。企業を超えた賃金設定システムという生まれつつあった土俵を叩き潰して、もはやその夢のあとすら残っていません。改めて業者間協定という黒歴史を、偏見なしに考え直してみるべきかも知れません。

 

 

 

J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』@『労働新聞』書評

817owjuk5pl_uf10001000_ql80_ 『労働新聞』の書評ですが、今回はJ.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』です。

https://www.rodo.co.jp/column/196246/

 今年2月、ホワイトハウスに招かれたウクライナのゼレンスキー大統領はアメリカのトランプ大統領と口論を繰り広げて合意が破談になったが、そのきっかけはヴァンス副大統領の「失礼だ」「感謝しないのか」という発言であった。トランプに輪をかけた暴れん坊っぷりを世界に示したヴァンス副大統領とはどういう人物なのか? それを語る彼自身による半生記が本書だ。2017年に第一次トランプ政権が発足したときに単行本として刊行され、その後文庫化された。その内容はすさまじいの一言に尽きる。

 彼の故郷オハイオ州ミドルタウンはかつて鉄鋼メーカーの本拠地だったが、その衰退とともにいわゆるラストベルトとなり、失業、貧困、離婚、家庭内暴力、ドラッグが蔓延する地域となっていた。彼の両親は物心のついたときから離婚しており、看護師の母親は、新しい恋人を作っては別れ、そのたびに鬱やドラッグ依存症を繰り返す。そして、ドラッグの抜き打ち尿検査で困ると、息子に尿を要求する。登場人物表には、「筆者の父親、および父親候補(母親の彼氏)たち」という項目があり、実父を始め6人の名前が列挙されている。おおむねろくでなしばかりだ。

 母親代わりの祖母ボニーが、彼の唯一のよりどころであり、窮地に陥った彼を助けてくれる全編を通しての天使役だが、彼女自身も十代で妊娠してケンタッキーから駆け落ちしてきた女性であり、貧困、家庭内暴力、アルコール依存症といった環境しか知らない。彼の育った環境を彼はこう描写する。

 「どこの家庭も混沌を極めている。まるでフットボールの観客のように、父親と母親が互いに叫び声を上げ、罵り合う。家族の少なくとも一人はドラッグをやっている。父親の時もあれば母親の時もあり、両方のこともあった。特にストレスが溜まっているときには、殴り合いが始まる。それも、小さな子どもも含めたみんなが見ているところで始まるのだ」。「子どもは勉強しない。親も子どもに勉強を求めない。だから子どもの成績は悪い。親が子どもを叱りつけることもあるが、平和で静かな環境を整えることで成績が上がるよう協力することはまずあり得ない。成績がトップクラスの一番賢い子たちですら、仮に家庭内の戦場で生き残ることができたとしても、進学するのはせいぜいが自宅近くのカレッジだ」。

 そんな環境で育ったヴァンスが、一念発起して海兵隊に入隊し、イラクに派兵され、帰国後オハイオ州立大学に入学し、さらにエリート校中のエリート校であるイェール大学ロースクールに進学するというのだから、絵に描いたようなサクセスストーリーともいえる。だが、彼はイェールで居心地の悪さを禁じ得ない。恋人ウシャに対して突発的にとってしまう暴言や乱暴な振る舞いの中に、彼は母親の姿を見てしまう。逆境的児童体験によるトラウマから脱却しようと試みる。とはいえ、彼は祖母の生き方に息づいているヒルビリー(田舎者)の精神が大好きだ。上流階級の匂いをプンプンさせている民主党が大嫌いなのだ。

 

 

 

 

 

2025年4月 7日 (月)

大木正俊・鈴木俊晴・植村新・藤木貴史『労働法判例50!』

L24383 今一番イキのいい若手労働法学者4人組による判例集です。

https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641243835

事案を読む際に着目すべき点を《読み解きポイント》で,判決文・決定文の示した要点を《この判決/決定が示したこと》で明確に示して,事案と判旨だけでは難解な事例もしっかり理解できる。体系的な理解を促すIntroductionや《解説》で着実な理解に導く。

百選でも200でもなく、たった50の超重要判例に絞って、懇切丁寧に解説しています。

でも、本書を開いて驚愕したのは、その中身ではありません。

冒頭の「はしがき」で、著者4人とおぼしき人々が、「労働法教科書私の推し本発表会!」てのをやっていて、

F氏は、O先生らによる『ストディア労働法』を、

O氏は、M先生の『プレップ労働法』を、

S氏は、M先生の『労働法』を、

それぞれ推していて、ふむふむ、なるほどと、思っていたら、その次に地雷が仕掛けられていました。

U氏:H先生による『ジョブ型雇用社会とは何か』は新書ですが教科書としても使えます。・・・・

いやいや使えませんって。新書で使えるのはM先生のでしょ。

つか、拙著を労働法の教科書に使おうというのは無謀にもほどがあると思いますよ。

ちなみに、「はしがき」の最後には、「以上の会話は著者の一人である大木の創作です。実在の人物や団体などとは関係ありません」という断り書きがあります。いやいや、実在の人物じゃないと言われても・・・・・

 

 

2025年4月 2日 (水)

川口美貴『労働法〔第9版〕』

B0a77b8849a7457cbf238b992c4f60bc 川口美貴『労働法〔第9版〕』(信山社)をお送りいただきました。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b10133435.html

毎年改訂の最新2025年版。要件と効果、証明責任を明確化。新たな法改正・施行と、最新判例・裁判例や立法動向(2025年2月分まで)、学説の展開状況に対応。長年の講義と研究活動の蓄積を凝縮し、講義のための体系的基本書として、広く深い視野から丁寧な講義を試みる。全体を見通すことができる細目次を配し、学習はもとより実務にも役立つ労働法のスタンダードテキスト第9版。

昨年の今頃も言いましたが、まさに完全に年鑑と化している川口労働法です。

そして、川口さんと言えばその独自の労働者概念で有名ですが、その膨大な労働者概念に関する記述の中に、職業安定法上の労働者概念はやはり出てきません。

というか、この1100ページに及ぶ大冊の中に、労働市場法制は全く出てこないのです。そこは見事に割り切っているようです。

ただ、その結果、膨大な判例の中でおそらく唯一川口さんの労働者概念とほぼ同一の徹底した経済的従属性基準を貫いている昭和29年の最高裁の判例(「[職安法]5条にいわゆる雇用関係とは、必ずしも厳格に民法623条の意義に解すべきものではなく、広く社会通念上被用者が有形無形の経済的利益を得て一定の条件の下に使用者に対し肉体的、精神的労務を供給する関係にあれば足りるものと解するを相当とする」 )が、本書に収められている膨大な判例の中に顔を出さないという大変皮肉な事態になっています。

 

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