待鳥聡史・宇野重規編著『〈やわらかい近代〉の日本』
これは、たまたま本屋で見つけて買った本ですが、いくつか感じるところがあったので。
待鳥聡史・宇野重規編著『〈やわらかい近代〉の日本 リベラル・モダニストたちの肖像』(弘文堂)
伝統的秩序への回帰を志向しないという意味で保守主義でもなく、急進的な体制変革を志向しないという意味でマルクス主義でもない、自由民主主義体制内からの積極的な近代化の推進を特徴とする立場、それが「リベラル・モダニズム」。本書は、体制内改革派として左右の狭間にあったがために、これまで時に微妙な、あるいは正当でない評価しかされてこなかった「リベラル・モダニスト」たちを取り上げ、戦後思想の構図の中に位置付けるとともに、その思想的潮流がひいては55年体制崩壊後の政治改革の源流ともなったことをも示します。政治思想のマトリクスを書き換える一冊です。
この本、編者も執筆者もみんな政治学者なので、戦後自民党政権は「伝統主義」の一種としての「保守主義」に分類され、それとは異なる「近代主義」の一種として、「リベラル・モダニズム」が位置付けられるのですけれど、政策史の視点から見れば、戦後自民党政権のやってきた政策は、揺れはあっても基本的に一貫して「近代主義」であったと思われるので、この本が保守主義とマルクス主義の狭い狭間の人々という観点でリベラル・モダニストを位置付けようとするその手際が、非常に違和感を感じさせるものになっています。
おそらくそれは、個々の政策の中身よりも政治全体の動きをみる政治学者の眼に映る映像ゆえなのだと思うのですが、ところが本書の各章の中には、そういう政策の各論に立ち入って論じているものがあり(第5章の家族政策、第6章の教育政策)、そこで取り上げられている香山健一の位置づけが、せっかく「リベラル・モダニスト」という新しい概念でもって戦後政治史を切ろうという本なのに、第5章では伝統主義者に、第6章では新自由主義者に描かれてしまっており、この概念の意義が却ってよくわからなくなっている感があります。
序 章 リベラル・モダニストとは何か〔待鳥聡史〕
第一章 「開国」をめぐるトリアーデ──和辻哲郎・小林秀雄・丸山眞男〔苅部 直〕
第二章 「柔構造社会」の若者たち──学園紛争期の永井陽之助〔趙 星銀〕
第三章 高度経済成長期における黒川紀章の思想と実践
──「やわらかい」建築から「かたい」カプセルへ〔山本昭宏〕
第四章 リベラル・モダニズムの二つの頂点──村上泰亮と山崎正和〔宇野重規〕
第五章 二つの近代家族像──香山健一とリベラル・モダニストの家族像〔德久恭子〕
第六章 早すぎた教育改革──体制内改革は可能か?〔青木栄一〕
第七章 改革の時代におけるリベラル・モダニストの肖像──佐々木毅〔待鳥聡史〕
終 章 リベラル・モダニストが残したもの〔宇野重規〕
このうち、特に第5章で取り上げられている1970年代後半から1980年代に流行した男女性別役割分業を前提とした「日本型福祉社会論」については、香山健一のみならず、本書でリベラル・モダニストとして取り上げられている人々が、むしろその前の世代の近代主義者の感覚を受け継ぎながら、むしろその先にそれを超える(それをポストモダンと呼ぶならば)脱近代主義的な発想を探っていたことが、却って前近代的な家族主義と接合してしまった面があるように思われます。
労働政策でいえば、1950年代から1960年代頃の、国民所得倍増計画などに活写されている欧米社会を見習おうという近代主義的発想が、マルクス主義的な思想をほぼ制圧した1970年代になって、むしろそれまで否定的な眼差しで見られてきた日本的なさまざまな特徴を、却って日本の急速な経済成長に寄与したものとして高く評価するようにシフトしてきたのであり、そういうそれまで否定的にみられてきた日本的な共同体を評価する発想の一つの現れが、本書第5章でいう家族主義が支える福祉社会なのであってみれば、それは単純に伝統主義故と斬って捨てられるものではなく、近代主義者が近代主義を越えようとするあまり陥った陥穽と見た方が良いように思われます。迂闊に「近代を超え」ようとすると伝統主義に陥るというのは、実はここかしこでよくみられる光景かも知れません。
もっとも、そもそも核家族型性別役割分業とは、決して「伝統的」なものではなく。むしろ20世紀後半に一般化したきわめてモダンなものであったことを考えれば、それを伝統主義に陥ったと批判すること自体が極めて皮肉な構図でもありますが。
一方、家族主義において伝統主義者とされた香山健一が教育政策では新自由主義者とみられるのも、やはりその前の世代の産業化に有益な教育政策という近代主義を超える道をそこに見ていたからなのでしょう。これもまた、(それをポストモダンと呼ぶならば)脱近代主義的な発想かもしれません。
正直、編者たちの構想する「リベラル・モダニズム」という概念にはあまり説得されなかったにもかかわらず、書かれていること以上に書かれていないことにいろいろと想像が膨らみ、本書はとても面白い読書経験を提供してくれました。
« 野村浩子『地方で拓く女性のキャリア』 | トップページ | 『季刊労働法』2015年春号(288号) »
>>編者も執筆者もみんな政治学者なので、戦後自民党政権は「伝統主義」の一種としての「保守主義」に分類され、それとは異なる「近代主義」の一種として、「リベラル・モダニズム」が位置付けられるのですけれど、政策史の視点から見れば、戦後自民党政権のやってきた政策は、揺れはあっても基本的に一貫して「近代主義」であったと思われるので、この本が保守主義とマルクス主義の狭い狭間の人々という観点でリベラル・モダニストを位置付けようとするその手際が、非常に違和感を感じさせるものになっています。
これなんですよね。戦後日本は、欧米であれば労働者階級であったであろう広範な層がプチブル化したため、欧米的なブルジョワと労働者階級との対立という構図が成立しなかった。自民党は「日本型福祉社会論」など、この現実に対応した近代主義的政策を展開していったが、階級対立の激しい英米の圧倒的な影響下にある日本の政治学ではこれがうまくとらえられなかったのではないか。政治改革の失敗の原因もこのあたりにあると思います。
「リベラル・モダニスト」は欧米であれば、ブルジョワの中の左派、アメリカ流の「リベラル」に近いであろうが、欧米的な階級対立の希薄な日本では、つねになにかがずれてしまったのだろう。彼らの改革論は、ある面ではブルジョワ的な価値観にしたがってそれが新自由主義に親和的なものとなり、別の面では欧米的な近代を乗り越えようとする志向が伝統主義とも接続した。それが当時の英米の保守革命と妙な形でシンクロし、さらに戦後日本的なものを嫌悪する新左翼的志向とも合流した結果、改革のバカ騒ぎを招いたというのが私の印象です。
しかしグローバリゼーションの結果、欧米ほどではないにせよ階層対立が日本でも見え始めたようなので、「リベラル・モダニスト」的なものが日本でも有効な局面が出てくるのかもしれない。まあこのあたりは今後の世界秩序の成り行きと連動するでしょうが。
投稿: 通りすがり2号 | 2025年3月 9日 (日) 18時33分