財やサービスは積み立てられない(再掲)
13年前のエッセイを、一字一句変えることなく、そのまま再掲しなくちゃいけない、ということに、却って悩み深いものを感じざるを得ません。
社会保険研究所の月刊誌『年金時代』5月号に、「財やサービスは積み立てられない」を寄稿しました。
中身は、本ブログで折に触れ書いてきたことですが。
この期に及んで、未だに賦課方式ではダメだから積立方式にせよなどという、2周遅れ3周遅れの議論を展開する人々が跡を絶たないようです。この問題は、いまから十年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、「積立方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。
財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積立方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。
かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。
「積立方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想が頭の中に生え茂ってしまうのでしょうか。
非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なのですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。
従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。
ところが、高齢者を優遇するなと叫んで、年金を積立方式にせよと主張するような経済学者に限って、一方では高齢者が働いて社会を支える側にまわるようにする政策に対しても、高齢者を優遇するなと批判することが多いようです。こういう安手の「若者の味方」が横行するのが、今日の悲劇かも知れません。高齢者を働かせずに現役世代に負担させ続けるのもダメなら、高齢者にも働いてもらって現役世代の負担を軽減するのもダメとなると、一体どういう政策が残ることになるのか。まさか「楢山節考」の世界ではあるまいと、心から祈るばかりですが。
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濱口さんの論理は閉鎖経済を前提としておられますが、GPIFが外国の株式や債券に投資しているように海外資産を積立てて外国人の労働力を活用する可能性があります。
また、積立方式なら生涯給付額に、世代ごとに予算制約がかかりますので、平均して長生きが見込まれれば追加負担を求め易くなります。現行の賦課方式では年金が保険ではなく福祉のように認識されるために、平均して長生きすることのコスト増を後代世代に負担させて当然と考えられ易いのではないでしょうか。
投稿: 八代尚宏 | 2025年3月15日 (土) 13時25分
前半については、自ら財やサービスを生産しない高齢者ばかりの日本人が、海外で若い労働力が生産した財やサービスを消費するだけという経済社会の在り方が、そもそも持続可能なのであろうかという疑問があります。この持続可能という言葉には、当然政治的ないし軍事的な意味もあります。自分でまとも動けない奴らばかりの日本なんか、養ってやる必要はないと、そういう若い国が思ったときに、それを止めるための手段を、働く人のいない日本はもっていないでしょうから。国際社会は国内社会と違ってそれを強制する上位権力がないことを、私たちは改めて思い知らされているように思います。
わたくしは正直、そういう状態は怖いと思います。
後半については、本来老衰による稼得不能というリスクに対応するための社会保険制度であるはずの年金保険制度を、元気いっぱいな高齢者にお金をばらまく制度だと思わせてきてしまった今までの運営のツケだと思いますが、長生きのリスクは長生きのメリットを享受して高齢でも元気いっぱいの世代が背負うしかないはずだと思います。
投稿: hamachan | 2025年3月15日 (土) 20時42分
単純な話、「多くの介護ロボットを整備している国」と「全く持ってない国」の違いはある訳で、
だけども、それは国が所有しているものであり、個人などの民間に属する何某かの所有権はなく、
「お前が積み立てている」という現実は存在しない、ということでしょう
一方で、個人が介護ロボットを所有しているのであれば、それに関しては財を積み立てている、と
いうことに当然、なるでしょう
投稿: 論理マン | 2025年3月16日 (日) 10時52分
積立方式方式を主張する人の中には、民間の個人年金と国の年金を混同している人がいるかもしれません。
民間のように払った額に運用益を加えた額しかもらえないように、国の年金を変更するのなら積立方式でもいいでしょう。
しかしある程度の額を死ぬまでもらえる現行の国の年金財源を、払った額に運用益を加えた額だけでまかなうなんてことは、年金額の算定に不確定要素が大きすぎて不可能です。
可能なら似たような年金商品を民間がとっくに扱っているはずです。
投稿: いけだ | 2025年3月16日 (日) 11時48分
今は民間の年金保険の勧誘の仕方も安定した公的年金制度の存在が前提になっていて、公的年金だけではゆとりのある老後生活をするのは難しいから個人年金で不足する分を補いましょう、と言って勧誘をしているようです。
数年前の老後の生活には2000万円必要です、と言うのもあくまで「ゆとりのある老後生活を送りたいのであれば」と言う前提で調査して出た結果だったはずです。
投稿: balthazar | 2025年3月16日 (日) 17時18分
他の方も疑問点や違和感を提示していますが、シンプルに「財やサービスは積み立てられない」ならば、貯蓄一般も意味を成さないことになりませんか。年金積立方式と貯蓄一般の違いをどのように考えているのでしょうか。
投稿: 通りすがり | 2025年3月20日 (木) 02時28分
連投になって申し訳ないが、「財やサービスは積み立てられない」 のような極限的な人口の年齢構成、例えば国民の99.99%が後期高齢者になったとしたら、確かに年金積立方式は意味をなさないでしょう。しかし、このような極限的な人口構成の場合、年金賦課方式も意味を成さないのではないか。
濱口氏の「財やサービスは積み立てられない」論に対する違和感は、この論が成立する状況では年金積立方式のみならず、賦課方式も存立不可能になるはずである。逆に年金賦課方式は成立する社会状況ならば積立方式も成立するはずである。
年金賦課方式は無効になるが、年金積立方式はなお有効であるような社会状況は一体どういったものか、濱口氏はどう想定されているのですか。
投稿: 通りすがり | 2025年3月20日 (木) 02時58分
まったくその通り。働く人がいない経済社会では、積立であろうが賦課方式であろうが、そもそも働かない人を養えないと言ってるのですが、素直にそう読み取ってもらえていないようです。
わたしがどこで「働く人がいない社会で、つまり年金保険料を払う人がいない社会で、なぜか賦課方式の年金給付だけは可能である」などという馬鹿げたことを言っているのでしょうか?
私ははっきりととこう言っているのですが
>従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。
もしかして、「通りすがり」さんは、働く人々が働かない人々をマクロ社会的に養うという年金システムがいかなる条件下で可能かというそもそもの議論には関心がなく、積立方式万歳論大対賦課方式万歳論という対立構図のどっちに与するかということのみに関心がおありなのかもしれませんね。
投稿: hamachan | 2025年3月20日 (木) 10時51分
回答ありがとうございます。なるほど。改めて読み直した所、「生産年齢人口が極端に減った極限的高齢化社会では積立方式は機能しないとの極論の提示は、あくまで積立方式が醸し出す『財やサービスは積み立てられる』という幻想を否定する趣旨に限定される。そのような極限的高齢化社会でもなお賦課方式は機能する、とまでは主張していない」これがブログ本文の論旨の一つだったんですね。確かに誤読しており、失礼しました。
ただ、それでも濱口さんの議論にはいくつか疑問があります。
まず第一の疑問点として、「年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つ(以下、便宜的に現役人口比バランスと呼ぶ)」点が、高齢化社会に対して年金制度を適応させるキーになるならば、なぜ積立方式ではこの点を実現できないかをもっと現実的な想定下で説明すべきではないでしょうか。単に極限的高齢化社会という極論を持ち出して、積立方式の幻想を打ち砕くだけでは不十分でしょう。
例えば、積立方式の場合、年金保険料引き上げや年金受給開始年齢引き上げを困難にする経済的または政治的なメカニズムがあるのでしょうか。積立方式のこれらの困難は、賦課方式と比較して大きなものになるのですか。
第二の疑問点として、議論の前提をひっくり返すようになりますが、通常の社会状況では積立方式はやはり『財やサービスは積み立てられる』のではないですか。つまり、一般に積立方式は単に保険料を貨幣のまま物理的に貯め込むのではなく、株式や債券などの金融資産に投資するわけです。これらの投資先は大部分は事業会社である以上、物理的な財やサービスの生産と結び付いているため、積立方式は実質的に『財やサービスは積み立てられる』と見ることもできるはずです。もちろん、極限的高齢化社会ではこのような過去の実物的な投資も無意味になってしまいますが、そのような極限状況を想定しないならば、実質的に『財やサービスは積み立てられる』は幻想ではないはずです。
以上のように考えると「積立方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない」と、両方式を同一視することに無理が生じてくるでしょう。過去の時点における実物的投資に対する現時点のリターン(+蓄積)として年金受給者は所得を得るのか、単に同じ時点での現役世代から退職世代へ所得移転がなされるのかで、両制度には大きな違いがあるからです。
投稿: 通りすがり | 2025年3月20日 (木) 18時23分
> 働く人々が働かない人々をマクロ社会的に養うという年金システムがいかなる条件下で可能か
衣食住などのインフラが整備されていれば、あくまで比較的にはある程度は、可能です。
逆に言えば、原始時代のように、そういったインフラが全くないのであれば、ごく一部のお偉いさんを除いては、見捨てられるほかはないのでしょうね。
そのようなインフラを整備するのは政府である場合が多いので、市場による備蓄は少なく、政府の備蓄による側面が多いでしょう。
ただ、政府である場合が多いというのは可変的かもしれません。
投稿: 小童 | 2025年3月20日 (木) 19時44分
根本的に勘違いされているようですが、そもそもわたくしは、年金が積み立て方式であることによって、あるいは年金が賦課方式であることによって、そういう年金形式の選択によって、現実社会の働く人と働かない人との比率がどうにかなるとかならない、といったおかしな因果関係は一切主張していません。
どうもやっぱりそこのところで、「通りすがり」さんは「積立方式万歳論大対賦課方式万歳論という対立構図のどっちに与するかということのみに関心がおあり」であるようです。どっちにくみそうがくみさまいが、実体経済が回るか回らないかは現実社会の働く人と働かない人との比率によって決まるといっているのです。なかなかご理解いただけないようですが。
ただし、このリアルな現実を認識できるか否かという一点において、積立方式には、実物経済がなくっても紙の上(電子データ上)に積み立てられたことになっているお金が財やサービスとして消費されるかのような幻想を抱かせやすいのに対して、賦課方式であればそのような幻想を抱く余地がなくなるので、後者に一日の長があるとは思います。あくまでも、積立方式のような幻想をもたせないというメリットであって、賦課方式をとることによって、ちちんぷいぷいあら不思議、なぜだか知らんけど実体経済がにわかに活性化し、働かない人を養うだけの財やサービスがどこからか湧いてくるなどという馬鹿げた妄想を抱いているわけではありません。
というか、どこをどう読めば、そんな馬鹿げた妄想を抱いているかのように読まれてしまうのでしょうか。素直に読んでいただいている方が圧倒的に多いだけに、不思議でなりません。
投稿: hamachan | 2025年3月21日 (金) 09時20分
返信ありがとうございます。
(本題に入る前に)
最初に、自分のコメントがいささか攻撃的であり濱口氏に不信感を招いていたとしたら、率直に謝罪したいと思います。次に、濱口氏とのやり取りの中で当該コラムに対する自分の問題意識が拡散してしまい、要領を得ない疑問の提示の仕方になっていました。そのため、これまでの疑問の提示を一旦すべて撤回し、仕切り直しさせてください。
自分の当該コラムに対する疑問点は、「財やサービスは積み立てられない」という主張は妥当なのか、というこの一点のみです。
(コラムに対する自分の解釈と疑問点)
念の為、当該コラムに対する自分の解釈を提示し、その解釈を元に疑問点を提示したいと思います。
※丸括弧書きは各主張の略表記
1.主旨(積賦同一論):積立方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。
1.1. 積賦同一論の根拠(積立無効論):財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。
1.2. 積立無効論の例示(極限的高齢化社会):非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっている。
2.主旨からの帰結(現役人口比重視論):従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。
自分の解釈では、積賦同一論がコラムの主旨であり、その根拠が積立無効論であり、主旨(積賦同一論)からの帰結が現役人口比重視論である、このように理解しました。そのため、主旨の根拠である積立無効論に疑問を呈したのです(その他の疑問も同時に提示してしまい、要領を得ない印象を与えてしまいましたが)。
繰り返しになりますが積立無効論は、やはり疑問です。その理由は、積立方式における運用では年金保険料が株式や債券などの金融資産に投資され、そしてこれらの金融資産は事業会社の生産活動と結びついている、すなわち積み立てられた保険料は物理的な財やサービスの生産資本に転換していることになるからです。したがって『財やサービスは積み立てられる』は、幻想ではないはずです。
そして積立無効論が偽ならば積賦同一論の正当性も崩れることなります。実際、財務総合政策研究所から出ている論文『日本の公的年金制度における財政方式の変遷 』( https://www.mof.go.jp/pri/international_exchange/kouryu/fy2019/chnjpn2.pdf )では、積立方式と賦課方式の違いを次のようにまとめています。
「積立方式は、高齢者の年金給付を、その世代が現役時代に積み立てた財源で賄う仕組みである。一方で賦課方式は、高齢者世代の年金給付を、その時点の現役世代が負担した財源で賄う仕組みである」(P.3)
「賦課方式のもとでt期に若年者から保険料τを徴収し、高齢者に年金bを給付すると、財政収支の均衡条件はN_{t}τ= N_{t-1}bとなる」(P.3)
「つまり、賦課方式における給付と保険料の関係は、人口成長率に依存する」(P.4)
「次に、積立方式のもとでt-1期に若年者から保険料τを徴収し、それを金利rで運用したうえでt期に高齢者に年金bを給付すると、財政収支の均衡条件はN_{t-1}τ(1+r) = N_{t-1}bとなる。」(P.4)
「つまり、積立方式における給付と保険料の関係は金利に依存し、人口成長率からは直接的に影響を受けない」(P.4)
「また、割引現在価値で評価した給付と負担の差は純便益として解釈することができるが、・・・賦課方式では、人口成長率nと金利rの関係で純便益が正となることもあれば負となることもあり、負となる世代から正となる世代へ世代間の移転が発生することとなる。一方で、積立方式の純便益は次のようにゼロであり、世代間の移転は発生しない」(P.4)
これに対して積賦同一論は、「積立方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」といいますが、積立方式における運用益を考慮しないのは奇妙に感じられます。積立方式と賦課方式の間には、保険料を積み立てて運用するか、現役世代の保険料を運用せずに退職世代に移転するか、この点で根本的な違いがあると考える他ありません。
最後に、現役人口比重視論について。積賦同一論が偽ならば現役人口比重視論も偽になると自分は考えますが、それに加えてそもそも何故、濱口氏は年金制度を考える文脈で現役人口比率を重視するのですか。年金制度を考える文脈であれば、単純に、当該年金制度における保険料総額(積立部分の運用益を含む)と年金給付総額の収支が長期的に均衡するか否かだけを議論すれば、事足りるのではないでしょうか。実際、上記の論文も基本的には各年金制度の収支にフォーカスしています。もちろん当該論文は人口増減も考察していますが、あくまで年金制度の「収支」に与える影響の点で考慮されており、現役人口比率それ自体を問題にはしていません。つまり、濱口氏の言葉を借りれば「紙の上の数字」だけで年金制度を考えているわけで、それで問題ないのではないですか。
もちろん、現役人口比率は経済安全保障の文脈であれば重要になるでしょう。しかしそれは、経済安全保障の文脈で議論すれば済む話です。なぜ、現役人口比率を(安全保障ではなく)年金制度を議論する文脈で言及するのか、この点が非常に疑問です。
(濱口氏の真意かもしれないコラムの解釈)
改めて濱口氏のコメントを読み直したうえでコラムを読んだ所、もしかしたら以下の解釈が真意なのではないか、とも思い至りました。
1. イントロダクション(積賦同一論を思い出させる):未だに賦課方式ではダメだから積立方式にせよ、と主張する人々がいる。この問題は、正村公宏氏の積賦同一論を思い出させる。※「思い出させる」だけで、積賦同一論に濱口氏は賛同しているわけではない。
1.1. 積賦同一論の根拠(積立無効論):略
1.2. 積立無効論の例示(極限的高齢化社会):略
2.主旨(極限的高齢化社会の例示を受けて現役人口比重視論を導出):従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。
たしかにコラムでは積賦同一論を「思い出させます」としか書いておらず、濱口氏自身がこの主張を支持するか否かは明言されてはいません。しかし、その後に続く文章で積賦同一論を正当化する根拠を何らの留保も無く延々と論じている以上、当然濱口氏も積賦同一論に賛同なのだろうと、自分は解釈しました。
また、この解釈論では全文に対してイントロダクションが7割程度もあることになり、もはやイントロダクション(=導入部)と位置付けるには長すぎます。
一体このコラムはどのように解釈すべきなのでしょうか。もしよろしければ、MS Wordのアウトラインのような形式で示して頂けませんか。もちろんお手数を取ることになりますし、匿名のコメントに対してそこまで対応する義理もないと思いますので、応じて頂く必要は全くないですが。
投稿: 通りすがり | 2025年3月22日 (土) 21時07分
何回も繰り返していますが、わたくしは紙の上の(あるいは電子データ上の)お金の額ではなく、年金生活者が現実に消費することができる財やサービスに着目しています。どうもそこの一番肝心かなめのところが、このやたらに長大な文章を見ても、あまり理解されていなさそうで、ややげんなりしています。
そもそも、私の同じことをさまざまな言い方で説明しているものを、ある部分をとらまえて「積賦同一論」と呼び、ある部分をとらまえて「積立無効論」と呼ぶなど、あまりにあらぬ誤解を招こうとしているかのようで、愉快ではありませんね。まさしく、紙の上では違うように見えても実物経済では同じだということを積立といっても賦課方式といっても同じだと言っているのであり、紙の上で積み立ててみても、いざというときに財やサービスに交換できなければ役に立たないよね(逆に言えば、財やサービスに交換できるのであればその限りで有効なので、誰も積立なんて悉く無効だなんて馬鹿げたことはいっていない)という話なので、なんでこんな単純なことをここまで複雑怪奇に見せかけ寝ければいけないのかが良く理解できません。
ちなみに、長々と引用されている財務総研の論文ですが、ここで言っていることはまさに紙の上ないし電子データ上のお金の話であって(財務総研なので、別にそれが悪いわけではないですが)、わたくしの言っているいざ年金給付をもらおうというときの実物経済の話までが射程に入っているのではないように見えます。
投稿: hamachan | 2025年3月22日 (土) 21時44分
以前の記事のコメントでも申し上げましたが、少子化等とは関係なく積立方式というのは公的な年金制度として成り立つのでしょうか?
積立方式というのが
自分が過去に支払った掛け金のみを自分がもらう年金の原資とする
という方式だとすると自分がもらう年金の原資は有限で、その額は今後多子化になって年金の掛け金を払う人が増えても変わりません。公的年金制度で積立方式を主張される方は例えば80歳を過ぎてから自分が積み立てた年金の原資が尽きて年金が支給されなくなるという事態に対する覚悟がおありなのでしょうか?
日本でも過去には年金が積立方式だった事があったそうですが、積立方式でやっていけたのは平均寿命が短かったからだと思います。
当時は
55歳の定年まで働いて掛け金を支払い60歳から年金を受給する
という方式だったそうですが当時の平均寿命は65歳程度だったそうです。これを現在に換算すると
75歳の定年まで働いて掛け金を支払い80歳から年金を受給する
という事になると思います。これなら現在でも積み立てた掛け金よりも寿命が先に尽きる人が大部分だと思うので積立方式でもやっていけると思いますが、積立方式を主張される方は現状の方式よりもこの方式のほうが良いとお考えなのでしょうか?
また公的年金制度で積立方式を主張される方は公的医療保険制度でも積立方式を主張されるのでしょうか?
世界で公的年金や公的医療保険の制度がある国は多いと思いますが、その中で賦課方式ではなく積立方式を採用している国はどの程度あるのでしょうか?
賦課方式と積立方式の違いを聞いて、
天国の住人も地獄の住人も大きな食卓の両側に並んで非常に長い箸を使って食事をします。
天国の住人は長い箸で対面の人に食べさせます(自分も対面の人にたべさせてもらう)このため普通に食事ができます。
地獄の住人は他人と協力せず自分だけで食事をしようとしますが箸が長すぎて食事ができません。
という寓話を思い出しました。
投稿: Alberich | 2025年3月23日 (日) 20時54分
公的年金に限って言えば積立方式を採用しているのは南米チリの他数か国ぐらいしかないと思います。
チリは元々賦課方式でしたが、あのピノチェト政権の時ミルトン・フリードマン率いるシカゴ・ボーイズの指導で積立方式に変更しました。
しかしこのため格差が酷くなったと言う批判があり、また低所得者層には賦課方式による年金が支給されるとのこと。
1990年代までは世界銀行はチリの経験を踏まえて公的年金は積立方式を推奨していましたが、その後、スウェーデンの賦課方式による公的年金の改革に影響される形で賦課方式を推奨しています。
日本でも厚生労働省を始め、多くの民間のシンクタンクも賦課方式を推奨しています。
積立方式で年金を運営するのであれば莫大な積立金が必要です。
莫大な積立金になるまで年に一人当たりどれくらい積み立てればいいのか、そして安定した年金給付を継続するためには安定した利子率で長期間にわたって運用しなければいけないが果たして実際にそれは実現可能なのか、など様々な条件を考えれば積立方式が無理そうなのは分かりそうな気もします。
まあ、信じるのは勝手ですが、積立方式を実現可能どうか素人が考えるのは時間の無駄にしかならないと思いますのでいい加減諦めた方が良いと思います。
投稿: balthazar | 2025年3月24日 (月) 23時34分
公的年金の積み立て方式なるものは、年金保険料なる名目で拠出をした分として、富裕層が税金をより多く取り戻すためのプロバガンダだと思っている
投稿: YT | 2025年3月25日 (火) 11時10分