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2025年3月21日 (金)

メンバーシップ型雇用社会は1300年の歴史!?

Aizawa 本日の日経新聞の「経済教室」に、一橋大学の相澤美智子さんが「男女格差解消、社会の体質改善が必要」を寄稿しているのですが、

男女格差解消、社会の体質改善が必要 相澤美智子氏 一橋大学教授

○男女格差の背景には長年のタテ社会構造
○メンバーシップ型雇用はタテ社会を反映
○「無限定性」の解消にジョブ型雇用導入を

相澤さんは、日本の男女格差を生み出しているのは、メンバーシップ型雇用という「日本版アンシャンレジーム」だと主張しているのですが、この「アンシャンレジーム」という用語法には、我々がジョブ型とメンバーシップ型という言葉で意味している以上の歴史認識があるようです。曰く:

・・・日本版アンシャンレジームと筆者が呼ぶのは、次のような状況である。

中国の影響を受け、わが国に律令天皇制国家が形成されたのは西暦700年ごろのことであった。まず天皇家と貴族層に「家」が形成され、この動きが武士、商人、そして農民層にまで及ぶのに約1000年の歳月を要した。長い年月をかけてわが国には、ほぼすべての人々が垂直的身分制的に編成されるタテ社会が形成された。・・・

戦後の日本国憲法は、人々が水平的(ヨコ)に結合する社会を創出すべく家制度を廃止し、両性の平等を定めた。しかし日本版アンシャンレジームないし身分制的タテ社会の伝統は、なお克服されていない。

法律に規定される夫婦同姓強制は、日本版アンシャンレジームの名残をもっともわかりやすく示す例である。また労働契約は、労働力と賃金の交換契約の外観を呈しているが、人々の意識においては身分契約(企業という団体に所属する身分を獲得する契約)のように意識されている。ここにも日本版アンシャンレジームを認めることができる。

企業における身分制的タテ社会は年功序列的人事や、人の能力を格付けする職能給制度などに認められ、正規・非正規労働者の著しい格差としても現れている。底に男女格差が複合的に重なる。

このように人を年齢、性別、雇用形態などによって身分制的に組織し評価するという日本企業特有の雇用のあり方を、最近では「メンバーシップ型雇用」と称することが多くなった。

メンバーシップ型雇用が確立したのは高度成長期の1960年代といわれている。この見方に従えば、この型の雇用は、成立からまだ60年程度しかたっていない。

しかし、メンバーシップ型雇用の本質が企業における身分制的タテ社会であるとの認識に基づけば、そうした社会編成の歴史は1300年に及ぶ。女性が活躍できない社会の基層に岩盤のごとく存在する、身分制的タテ社会の伝統克服が根本的課題である。・・・・

なんと、メンバーシップ型雇用には律令制導入以来の1300年の歴史があるということです。

でも、さすがにその歴史認識には異論を唱えたくなります。

そもそも、ジョブ型、メンバーシップ型という図式は「雇用」を前提にしています。そして、いうまでもなく社会の生産活動の大部分が「雇用」という契約関係によって遂行されるようになったのは、世界的に見ても産業革命以来のほんの200年あまりに過ぎず、日本では19世紀末以来の100年余りに過ぎません。

そして、産業革命期に「市場の挽き臼」でばらばらにされた労働者たちが、前近代の社会編成のある部分を蘇らせることでその復権を図っていったのが、労働法や社会政策の歴史に描き出されているわけです。西欧でも中世ギルドの伝統が労働組合として蘇ったり、労働者という「身分」に着目した労働者保護や社会保障が形成されていったわけですが、日本の場合、中世のギルドの伝統が弱かったことなどもあり、企業の「社員」という身分に着目した労働者保護や社会保障というかたちになりました。その点はもちろん重要であり、そこに「メンバーシップ型雇用」の特徴があるわけですが、でもそれはあくまでも産業革命後にいったんばらばらになった労働者の再統合のロジックとして前近代の社会編成のあるものが流入したのであって、雇用なんて働き方がほとんど存在しない古代社会から一貫して「メンバーシップ型雇用」が存在していたんだ、1300年の歴史があるんだ、というのは、さすがに無理があるのではないでしょうか。

細かな話をすれば、メンバーシップ型雇用は高度成長期に出来た60年の歴史ではなく、20世紀初頭に遡る約100年余りの歴史であり、とりわけ重要なエポックは戦時雇用統制、賃金統制等の経済統制であったと思いますが、それにしても、1300年の歴史というのは大風呂敷が過ぎるのではないか、と。

ちなみに、日本に律令制をもたらした中国では、大陸、香港、台湾いずれをとっても欧米以上のジョブ型雇用です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

「家」を血縁的集団というよりも機能的集団として理解して、とにもかくにも家業を維持するためにあらゆる方法でその機能的側面を維持するような方向性にいたった家制度の特異性というのは検討する余地があるようには思います。世界でもかなり特異な方向性に進化した養子縁組制度などもこうしたものの所産ですし。

隋唐の北方的な律令は日本の法律文化の基底の一つではあるとは思いますが、「家」への意識、そしてそこから発生した仕事への意識、そして家制度が明治政府、マッカーサーによって二重に解体させたときに「カンパニー」に何が起きたかみたいのは、あまりにも分野が広がっていてなかなか難しい問題ですがなにかのインサイトが得られる可能性はあるんじゃないかなあ、と。

いえ、それは全く否定していません。

このテーマは、今から40年以上前に村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』で提起された議論が、その後東国武士ではなく京都の貴族に端を発するというふうに変化しつつ組み立てられてきた議論であって、日本のイエ制度の特殊性はいいんです。

ただ、近代以後の「雇用契約」において企業への所属が最重要事項になっていくプロセス自体は、前近代のイエ社会の影響が流れ込んでいることは確かですが、いったん切れて別物に流れ込んだと見るべきだという趣旨です。

 これは、要するに日本人なら全員が熟知している(!)「タテ社会の人間関係」(中根千枝)のことを言いたいわけですよね(hamachan先生のブログだと、2021年11月 6日 (土))。

 では、このような社会がいつ確立したのか、ということを日本史の専門家(與那覇潤、呉座勇一両先生)に伺ってみると、やはり社会が安定した、近世=江戸時代に入ってからである、ということですね(武士の誇りにも影響…中世のヨコ社会から近世のタテ社会へ 『タテ社会の人間関係』と文明論(4)ヨコ社会からタテ社会への転換 テンミニッツTV(https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5455))

 近代=明治の世の中となって、福沢諭吉先生が、近代社会においては、人間がヨコに繋がることが重要である、ということを強調し、societyに「社会」という訳語を充てたりもするわけですが、結局のところ慣れ親しんだ「タテ社会」が一番、ということで、社会が成熟してくると、日本人は、またまた原型に回帰していった、ということなのでしょう。

うーむ、相澤さんの議論は西洋と日本との根本的な差異を無視しているといわざるをえませんね。それは相澤さんにかぎらず多くの日本人には理解しがたいところではあるが。

そもそも西洋こそ強固な身分制によって社会を形成してきた歴史がある。10世紀頃から姿を見せ始め、12世紀には一旦完成し、その後近世の変動を通じて近代的な階級社会へと移り変わってきたものである。ジョブ型雇用はそのような不平等な社会構造を前提として発達してきたものであることを理解しなければならない。

中国は始皇帝以後、安定的な身分制の形成がほとんど見られなかった特異な社会である。均分相続によってたえず分裂していく小家族が利得機会を求めて激しい競争を繰り広げる社会であり、皇帝独裁によって抑え込むことで社会の安定を何とか維持してきたのである(宗族はおもに江南の士大夫層が形成した擬似血縁的な相互扶助組織であって、相続の単位となる現実の家族とは別のものである)。中国におけるジョブ型雇用というものは、おそらく西洋のそれとは全く内実を異にするものではないかと思われる。

日本は西洋とも中国とも異なる。律令制は一天万乗の皇帝の下で臣民が平等に並び立つ中国の社会システムを輸入しようとしたものだが、現実には蔭位制によって古代氏族が貴族に転化し、やがて貴族の氏は解体してイエが形成され、武士の台頭以降家産制が社会の全面を覆うにいたった。ただ、その家産制は中国のように絶えず均分相続によって小家族が分裂していくものではなく、西洋貴族のように一子相続を基調としたある程度の規模の家産共同体が公的な権利義務の主体として安定的に社会を形成しようとするものであった(『日本社会の基層構造 家・同族・村落の研究』)。これが完成したのが江戸時代なのは間違いない。ある意味では日本は西洋と中国の中間形態なのである。

近年、家産制、家父長制を男性による女性支配と結びつけようとする言説が見られるが、頓珍漢きわまりない。家父長は男女どちらでもありえ、男だろうが女だろうがイエのメンバーである家子は家父長の支配と保護に服するのが家父長制である。まあ、家長制と訳すほうがよいのかもしれない。現実に老母により支配された家産共同体などいくらでもみられたし、かかあ天下などおなじみのものであろう。

むしろ男性による女性支配は西洋の身分制の方がキリスト教倫理と結びついて甚だしいというべきだろう。身分制は身分を単位に権利義務を付与して社会を形成するものだが、同一身分内では平等を建前としつつ、身分間の上下関係はきびしい。キリスト教は神の前での万人の平等を標榜して身分制の桎梏を緩和しつつ、それを正当化してきた。

日本が欧米にくらべて女性の社会進出が遅れているという言説が昨今かまびすしいが、日本女性の社会進出が遅れている原因は欧米にくらべて日本の方が自由で平等な社会だからということにある。

欧米で女性が高いステータスの職業についている割合が日本より多いというのは、要は上の階級の人間が男女問わず高い地位を独占して下の階級の人間を排除しているというだけのことであろう。欧米の教育システムが不平等きわまりないものであって、下の階級の人間を排除して階級社会を再生産していることは教育社会学では常識であろう。上の階級の人間が下の階級の人間を排除して男女問わず高いステータスの職業に就けるということの反映が欧米における「女性の社会進出」の実態であろう。

近年欧米で男女平等が称揚されているのは、社会経済の発展によって増大した高給な職業を上の階級で独占していることを正当化するプロパガンダではないかと私はにらんでいる。他方で労働者階級の経済的地位は劣悪化し、トランプや極右(支持層や政策の内容からいえば労働右派というべきかもしれないが)の台頭を招いているのだろう。

戦後日本の教育システムはきわめて平等なものであり、欧米よりもはるかに機会均等が実現している。結果として日本では男女問わずあらゆる人間が自分の選好と能力、適性にしたがって進路を選択できるようになっており、その結果が「女性の社会進出が遅れている」という結果にあらわれているのである。

そもそも高い職業的地位につくことを「社会進出」として称揚しようというのが偏った価値判断にほかならない。女性が自分の選好にしたがって専業主婦になることも自由であるし、給料は低いが負担が少なく私生活を優先できる職業につくことも自由である。それを政策的にどうこうしようとするのが間違っている。

たしかにかつての日本型雇用全盛期には女性が職業生活それ自体から排除されていたのであり、それは問題だった。しかし、それは現在ではほぼ解消されたといってよいだろう。「女性の社会進出」という概念の再検討が必要である。

男女が同じ職業をすることが「男女共同参画」なのではない。男女問わず自らの選好と能力、適性にしたがって自由に職業を選択するのが本来の男女共同参画であって、むりやり個々の職業の男女比率を均等にしようというのは愚の骨頂であり、おぞましいフェミファッショというしかない。教育面ではそのような意味での男女の機会均等はすでに実現しているのであり、経済社会でもかつての障害はほぼ取り除かれたといってよいだろう。それを前提として結果的に個々の職業で男女の不均等が生じたとしてもそれは自由な結果として受け入れるべきで、政府がそれに介入するなどあってよいことではない。管理職や会社役員の女性比率を高めようとする愚劣な政策は即刻やめるべきであろう。

現在における日本における男女の不均等は、日本が自由で平等な社会であることの反映であり、人々の自由な選択の結果である。

欧米の表面上男女均等にみえるものは、欧米が身分制の伝統にもとづく不平等な階級社会であることの反映にほかならない。

近年大学入学者に女子枠を創設する動きがみられるが、戦後日本の教育の機会均等を脅かすものであって、愚策というしかない。そのようなもので人々の自由な選択をゆがめ、平等な教育の理念を脅かすことは万死に値する罪である。

東大の藤井総長が日本における男女の不均等を「構造的差別」と表現したようだが、上記のようにその不均等はむしろ構造的に日本社会が欧米とくらべて自由で平等な社会であることから生じてきたものである。このような社会科学的背景を無視して安易に「構造的差別」という反証可能性の乏しい非科学的概念を公言したことは科学者として自殺したといわざるをえない。藤井氏は安田講堂の前で腹を切るしかあるまい。

そうですね、「通りすがり2号」さんの指摘は適格だと思います。

本ブログで中根千枝さんのタテ社会論に触れた時の引用したツイートにあるように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/11/post-81fd56.html

>わたしは、「メンバーシップ」型は「イエ」型で、「ジョブ」型は「カースト」型のように言い換えても良いように感じている。

> 男女平等が称揚されているのは、社会経済の発展によって増大した高給な職業を上の階級で独占していることを正当化するプロパガンダではないかと私はにらんでいる。他方で労働者階級の経済的地位は劣悪化し、トランプや極右(支持層や政策の内容からいえば労働右派というべきかもしれないが)の台頭を招いているのだろう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2025/03/post-08e709.html#comment-121821478

そうは言っても、上流内部での男女間の争いの問題はあるでしょう。
ただ、その問題は外部の多くの女性にとってはあまり関係ないことであるのに、
さる高名なフェミニストによる例の祝辞に代表されるように「この争いに女性が
勝つことが多くの女性にとって重要なことなのよ」とやる訳です、あの連中は。

> 自分が「男性同様に、上位1%に入る」ことしか目指していない「エリート主義フェミニズム」なのだ。
> 「99%の女性たち」を、フェミニズムの名の下に煽動して、自身の「立身出世」のために利用するだけなのである。「私がこうなれたように、あなたたちもこうなれるのだ。だから、私を応援して」と、そう言って欺くのである。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n4769b50c962e

薄々感じていた違和感を、山下ゆさんが明確に言語化していました。

https://x.com/yamashitayu/status/1903415051077439916

>相澤美智子氏のメンバーシップ雇用を古代律令制から続くものとしている部分を批判しているんだけど、こういう「新しさ/古さ」と「よい/悪い」が混じっちゃっているような認識は結構ありますよね。

そう、古いから悪いという素朴進歩主義にあまりに安易に寄りかかってしまっていることがそもそもの問題点でしょう。

実は、戦後確立した日本型雇用システムにおける男女性別役割分業は、まさに戦後高度成長期にこそ最も普及したのであって、古いか新しいかといえば、きわめて新しいものです。ざっくりいえば、我々の親の世代に普及したものであって、我々の祖父母の世代にはまだ社会の大勢ではなかったのです。そして、それをもたらした一つの要因は、戦後民主主義によってエリート層とノンエリート層との平等化が進行し、社員の平等と主婦の平等が結合した形で社員家庭の平等が形成されたことがありましょう。そういう戦後民主主義世代にもてはやされたかつての「新しい生活スタイル」を、あまりにも乱暴に1300年の歴史のある律令制の遺制であるかのごとき議論を展開するのは、さすがに問題だということでしょうね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-1f2d57.html

「仕切られた平等」の崩壊

1984/3/29

 現在進行しつつあるのは、老壮青男女の「仕切られた平等」システムの崩壊である。「青少年はただ勉強していればいい。他はするな。」「成人女性はただ家事をしていればいい。他はするな。」「成人男性はただ仕事をしていればいい。他はするな。」という社会的棲み分けが現代社会の基本的な構造をなしているが、この構造はそれぞれの内部における強い平等主義--それも競争意識に満ちた平等主義に彩られている。平等主義と競争意識は建前・本音構造をなし、閉じられた不自由性と相まって、ものすごい緊張をその中に発生することになる。
 「仕切られた平等」システムの中核をなすのは、成人男性における「社員の平等」である。これは次の3つからなる。第1は平等な出発点としての新卒一括採用システムであり、第2は平等な過程としての年功序列システムであり、第3は平等な結末としての一律定年システムである。これらはいずれも能力による差別の否定という建前の上に成り立っている。企業ができるだけ中途採用を避け、新卒一括採用をしたがるのは、それが新入者間に格差なしという建前にもっとも合致するからである。中途採用の場合、どうしても資格・経験等による能力判断を強いられる。その点、新卒ならどうせ皆未経験な未熟者なのだから、同じスタートラインに乗せても問題はない。しかし、この平等主義の建前の裏では、その平等なスタートラインに乗るための競争、本音のレベルであるが故に正当化されえず、それゆえいっそう緊張度の高い競争が渦巻くことになる。この矛盾の象徴が、個性を殺すことによって目立とうとするリクルートスタイルであるといえよう。
 こうしていったん会社にもぐり込むと、皆等しく「社員」である。元来「社員」とは財産法上の概念であって、会社の出資者を指すのだが、それがいつの間にか、雇用労働者を指すことになっていたというのも面白い現象である。「社員」という言葉で彼らを表現することによって、共同体の成員であるかのような意識が発達する。この「皆同じ社員」たちを、いつまでも皆同じ社員にしておくための労務管理システムが年功序列システムであるが、これもまた建前としての平等主義による同期一斉昇進システムと本音としての足の引っ張り合い競争の中で、「同期間で微妙に差を付けながら、逆転人事はしない」という同期間競争年功序列システムという表現型をとっている。
 賃金制度の面からいうと、彼らは皆三角家族の世帯主あるいはそうなるべき者として年功型生活給賃金体系のもとにある。労働力としての限界生産性ではなく、家族を扶養して生活していける賃金というのがその決定原則であり、これは「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義原理の具体化とみることもできよう。このため若年者において生産性以下の賃金しか支払われない分を中高年者において生産性以上のプレミアムとして分配することになり、労働市場の需要供給関係を著しく歪めることになる。企業それ自体は市場の海に浮かんでいるため全体として労務費の採算がとれていなければならず、生産性と分配の差が一定限度を超える者は排出する必要が発生するが、これもまた一律定年システムとして平等主義的に解決される。
 このように、成人男性に与えられた生き方は、入るときから出るときまで、一律平等に「社員」という身分のもとで会社に忠誠を誓いながら隠れた競争を行い、三角家族世帯主たることを前提とした年功序列型分配システムのもとで建前としての平等を享受するというものであった。

 この「社員の平等」と対をなすのが成人女性における「主婦の平等」である。「主婦」というのは戦前の山の手族の間で発生した概念で、「家政」を取りしきり、女中や下男を使用する主体としての「主」なる「婦」という意味だったのだが、戦後システムにおいては核家族(三角家族)の妻を指すようになった。つまり誰でも結婚さえすれば「主婦」になれるわけで、上野千鶴子流にいえば「主婦の粗製濫造時代」であり、著しい意味のインフレをきたしているわけだが、これはちょうど成人男性が誰でも雇われれば「社員」になれるのと対応している。しかも「社員」以上に「主婦」は相互に対等であり、社会全体にわたってもっとも無階層的均質化に到達したのは戦後システムにおける主婦たちであったといってもいいであろう。核家族というのは、すべての成人女性が等しく主婦であり得るための制度である。それは姑と嫁という同一世帯内における主婦相互間の緊張を伴った階層化を排除するとともに、家族構成を相互に同型的にすることによって(三角家族)、異なる世帯の主婦の間における格差を極小化した。
 「主婦の平等」はさらに3つに分けられる。第1は「結婚の前の平等」であり、「女の平等」と呼べるものである。第2は「家事の前の平等」であり、「妻の平等」と呼べるものである。第3は「育児の前の平等」であり、「母の平等」と呼べるものである。
 第1の「結婚の前の平等」を支えるものとして恋愛結婚イデオロギーがある。これは結婚の正当性は当事者男女間の恋愛感情の存在によってのみ根拠づけられるとするものであって、所有財産や稼得能力に基づく結婚を「不純」として非正統化することによって、女性をその社会的属性から切り離された「女として平等」な地位に置く。多くの少女向け読み物が、男性獲得競争において取り柄のない平凡な娘が取り柄のある少女たちに勝利するというテーマを好んで描いてきたのは、このことを示している。これが目立たないことによって選ばれるというリクルートスタイルの思想と相似形をなしているのは興味深い。
 結婚して妻になると、彼女らは「家事の前に平等」である。戦後システムの最大の特徴は、かつて主婦から女中に至る階層構造をなしていた「家政」が、ただ「主婦」のみによって担われる「家事」に移行したことであり、これは女中という大量の女子労働力が消滅したことによって示される。家事の非市場化は、「家事は主婦がすべてこれを行い、しかも主婦のみがこれを行う」という新しいパラダイムの成立を告げるものであった。この背景として、電化等の技術革新によって、一家の家事量が一人の労働力で賄え、しかも一人の労働力は必要である程度にまで収縮したことがある。その意味では、やがて技術革新の一層の進展により「妻無用論」(梅棹忠夫)が出てくることが予想されたわけだが、少なくともそれまでは、主婦というのは結婚したその日から相互に対等であり、しかも家族にとって唯一無二必要不可欠なものとして社会的に評価される存在として、学校教師に似たところがあった。
 出産によって妻は母に昇進する。母は「育児の前に平等」である。子守や乳母といった育児労働者はほとんど姿を消し、育児に最大限の考慮を払わない母は道徳的非難の対象となる。母の価値は育児への投下労働量で決まるため、戦後生まれの子供は空前絶後の過保護下で育つことになった。
 核家族化によって主婦はかなり徹底した相互平等性を獲得したが、これはもちろん競争の不存在を意味するものではない。ただ彼女らにあっては競争の認識・評価主体と実行主体が分離しており、夫の出世や子供の成績のいいことが競争の対象となる。そのことが建前としての「妻の平等」のもとでの本音としての自らの妻としての優位性、建前としての「母の平等」のもとでの本音としての自らの母としての優位性を求める感情を満足させてくれることになる。
 いずれにしても、戦後システムにおける「主婦の平等」は非常に広い範囲にわたって平等性を実現したという点で空前絶後のものであろう。そして、これと先述の成人男性における「社員の平等」とが相まって、世界でももっとも世帯間平等度の高い社会となったわけである。このシステムがもっとも完成に近づいたのは、世帯主外労働力率が最低になった1970年代中頃とみられる。これは世帯主間所得格差を埋めるべき必要が最少になったことを意味している。このことは戦後パラダイムにおいては幸福の絶頂と評価すべきことであった。

 戦後型「仕切られた平等」システムが崩壊し、能力主義的多就業世帯システムに移行すると、雇用機会の配分が偏る危険性が高い。つまり、今まではすべての世帯に一つづつ世帯主用就業機会を配分した後、世帯間所得格差縮小のため低所得層ほどより多くの雇用が配分されたわけであるが、老壮青男女すべてが就業することが前提となると、かつては世帯主間だけにあった良好雇用機会獲得競争がすべての人々の間に広がることになり、世帯主であるなしに関わらずその能力順に良好な雇用機会が配分されるため、ある世帯は成員が皆良好な雇用機会を得ているのに、他の世帯は誰も良好な雇用機会、いや劣悪な雇用機会すら得られないという状況が発生しやすくなる。「結婚の前の平等」が薄れるため、階層内インブリーディングの傾向が強まることもこの事態を促進すると考えられる。つまり、良好な雇用機会を獲得しやすい者同士が結婚するため、追い出され効果によって獲得しにくい者同士が結婚せざるを得ず、結果的に良好な雇用機会から疎外された世帯が多数発生することが予想されるのである。マイクロエレクトロニクスを始めとする情報化によって社会全体として必要労働量が著しく減少することを考慮に入れると、社会の少なからぬ部分が雇用機会がほとんど配分されない完全失業世帯となる危険性もある。
 もちろん時代の雰囲気が「必要」「生活」「平等」といった社会主義的なものから、「能力」「機会」「自由」といった資本主義的なものに変わっているであろうから、それが直ちに正義に反するものとして断罪されることはないにしても、世帯間雇用機会配分の不均等は低所得層における反社会的意識傾向を強めることになろう。いうならば、かつての産業化の時期にも似た階級分化が進むわけである。

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