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2024年12月

2024年12月30日 (月)

公共職業安定署??

社労士の大河内満博さんがこんな疑問を呈しておられますが、

【公共職業安定所は公共職業安定署だった?】 今まで図書館で調べものをしていたのですが、昭和22年4月6日付けの朝日新聞に「公共職業安定署生る」との記事を見つけました。労働基準監督署の「署」も別に深い意味があって「署」と表記したわけではないそうですが、昭和22年11月30日に公布された当初の

職業安定法(添付の第1条参照)を見ても、昭和22年12月1日に公布された当初の失業保険法を見ても「公共職業安定所」となっています。当時の新聞記事では「署」も「所」も気にしない風潮だったのかどうかは知りませんが、仮に「公共職業安定署」の表記が正しかったとすると、職業安定法等の立法過程に

おける審議においては「公共職業安定署」と標記する案があったのかもしれません。 ※「公共職業安定所」という名称は、GHQの強い示唆を受けたもので、“Public Employment Security Office” を直訳したものです。その頃の職業安定行政の関係者たちは、その頭文字(PESO)から「ペソ」と呼んでいました。

国立国会図書館のデジタルコレクションで「公共職業安定署」を検索すると、

https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?pageNum=0&pageSize=100&sortKey=ISSUED_ASC&fullText=true&includeVolumeNum=true&keyword=%E5%85%AC%E5%85%B1%E8%81%B7%E6%A5%AD%E5%AE%89%E5%AE%9A%E7%BD%B2&displayMode=list&accessRestrictions=inlibrary&accessRestrictions=inlibrary&accessRestrictions=internet&accessRestrictions=ooc

56件ほどヒットしますね。ただし、その多くは単純な間違いのようです。

ただ、初めの方の「社会保障制度への勧告 : 米国社会保障制度調査報告書」における「公共職業安定署」は、もとの英文(Public Employment Security Office )を(既に労働省が分離独立した後の)厚生省が訳したもので、このときに法令上の「公共職業安定所」ではなく「公共職業安定署」という字になってしまったのがそもそもの原因のようです。

なぜ厚生省が「署」の字で訳してしまったのかというと、労働省が分離独立する直前の厚生省にあったのは「国民勤労動員署」改め「勤労署」であり、この「勤労署」のイメージを脳裡に残したまま、上記勧告を訳したので、「公共職業安定署」という実在しない官署名になってしまったのではないかと思われます。

 

 

 

2024年12月29日 (日)

欧州におけるセックス労働者の権利運動と労働組合@欧州労研

C1wp13 欧州労研(ETUI)が「The sex worker rights movement and trade unionism in Europe(欧州におけるセックス労働者の権利運動と労働組合)」という報告書を公表しています。

The sex worker rights movement and trade unionism in Europe

In this paper, we review the European sex worker rights movement and instances of trade unionism that have grown out of it before focussing on three case studies of contemporary sex worker organising: Red Umbrella in Sweden (RUS), the sex worker section (SW-S) of the Freie Arbeiter*innen Union (Free Workers’ Union) in Germany, and the Sex Workers’ Union (SWU) branch of the Bakers, Food and Allied Workers Union (BFAWU) in the United Kingdom. All three organisations demand decriminalisation, destigmatisation and decommodification and engage in social and political strategies to achieve these goals. In addition, SWU and SW-S are engaged in trade unionism in pursuit of decommodification. Read together, these case studies demonstrate that criminalisation, repressive regulation and stigma adversely affect sex workers’ strategies, including the trade unionism that is supposed to decommodify their labour via access to individual and collective labour rights and broader social welfare rights. At the same time, these groups report several successes, from effective peer to peer support networks to growing acceptance within trade unions and legal victories concerning employment status and other workplace issues. European and international labour institutions and national trade unions are uniquely placed to play a key role in supporting the decommodification strategies of the sex worker rights movement. This support must, however, extend to decriminalisation and destigmatisation.

本報告書において我々は欧州のセックス労働者の権利運動とそこから生み出されてきた労働組合運動の事例を概観したうえで、今日セックス労働者を組織している3つのケーススタディに焦点を当てる。すなわち、スウェーデンのレッド・アンブレラ(RUS)、ドイツの自由労働組合のセックス労働者支部(SW-S)、イギリスのパン・食品労組(BFAWU)のセックスる労働者組合(SWU)である。これら3組織は全て脱犯罪化、脱スティグマ化、脱商品化を求め、これら目標を達成する社会的政治的戦略に関与している。さらに、SWUとSW-Sは脱商品化を追求する労働組合運動にも関与している。併せて読めば、これらケーススタディは犯罪化、抑圧的規制およびスティグマが、個別的及び集団的労働権へのアクセスと広範な社会福祉権を通じてその労働を脱商品化しようという労働組合運動を含め、セックス労働者の戦略に悪影響を与えることを示している。同時に、これら集団は、効果的な仲間同士の支援ネットワークから労働運動内部での受容の拡大、雇用上の地位や他の職場の問題に関する法的な勝利に至るいくつもの成功を報告している。欧州オヨに国際的な労働組織と各国労働組合はセックス労働者の権利運動の脱商品化戦略を支持する上で重要な地位にいる。しかしながら、この支援は脱犯罪化と脱スティグマ化に拡大しなければならない。

なかなか興味深い報告書です。

 

 

 

本の要約サービス flier(フライヤー)に拙著『賃金とは何か』登場

Asahishinsho_20241229102101 本の要約サービス flier(フライヤー)に拙著『賃金とは何か』が登場しました。

https://www.flierinc.com/summary/4049

おすすめポイントにはこうあります。

賃金の仕組みについて、どれだけ深く考えたことがあるだろうか。本書『賃金とは何か』は、賃金という私たちの日常に密接するテーマを通じて、日本社会や労働市場の成り立ちを鋭く照らし出す一冊だ。

特に興味深かったのは、日本型雇用システムの本質に切り込んだ分析である。ジョブ型雇用が職務ごとの「値札」を基準に賃金を決定するのに対し、日本では「人」を基準に賃金を設定するメンバーシップ型雇用が採用されてきた。これは勤続年数や年齢といった属性が重視される年功賃金制や定期昇給制度につながり、労働者と企業の長期的な関係を支える基盤となっている。しかし、変化し続ける人口構造や労働市場の課題に直面しているいま、賃金制度が単なる経済的仕組み以上のものであることが浮き彫りになる。

また、賃金制度の歴史的な展開がいかにして日本の賃金制度を特徴づけてきたのか、本書では丁寧に描かれている。その中で、「賃金ベース」の発想が、賃金を抑制する仕組みからベースアップという賃金引き上げのロジックに転じていく流れは、経済状況や労使間の駆け引きが生むダイナミズムを感じさせた。

ただ歴史を追うだけではなく、読者に今後を考えさせる余地を残している点が本書の魅力だ。長期雇用慣行が揺らぎ、非正規雇用の拡大が続く中で、賃金制度はどこへ向かうべきか。賃金の形を問い直すことは日本社会の未来を考えることであるという、静かな訴えを感じた。

労働や雇用について考えるすべての人にとって、自分自身の働き方や賃金観についても再考したいと感じさせる、多くの示唆に富んだ一冊だ。

ちなみに、要約した石渡翔さんは、ほかにもハラリの『サピエンス全史』やアレントの『人間の条件』、オルテガの『大衆の反逆』などを要約しているようです。

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2024年12月27日 (金)

『ジュリスト』でカスハラ特集

L20250529301 昨日、労政審雇均部会がカスハラを含む建議をしたのに合わせたわけではないでしょうが、『ジュリスト』がカスハラ特集を組んでいます、」

労働政策審議会建議「女性活躍の更なる推進及び職場におけるハラスメント防止対策の強化について」を公表します

ジュリスト 2025年1月号(No.1605)

【特集1】カスタマーハラスメント

◇〔座談会〕カスタマーハラスメント対策の現状と展望…山川隆一(司会)/中井智子/新村響子/原 昌登……14

◇カスタマーハラスメントに関する現状と法的課題――労働法の視点から…日原雪恵……35

◇インターネット上の誹謗中傷とカスタマーハラスメント…板倉陽一郎……41

◇条例によるカスタマーハラスメント対策…川端倖司……47

大体は今まで見てきた話ですが、板倉さんのネット上の誹謗中傷は、ある面でカスハラを超える問題でもありますが、いろいろと面白い論点が示されていて興味深かったです。

また、川端さんの論文では、民事法との関係や給付行政との関係など、今まであまり目に入ってこなかった論点がいくつも並んでいて、目を開かされる感がしました。

なお、同号は判例評釈でも、例の滋賀県社会福祉協議会事件最高裁判決を竹内(奥野)寿さんと志水美雪(龔敏)さんが取り上げていて、読み比べても面白いです。

 

 

『人口問題研究』第80巻第4号に「子育て世代の労働時間と労働法政策」とパネル討論記録

Jinkoumondai 国立社会保障・人口問題研究所の『人口問題研究』第80巻第4号に、昨年12月に開催された第28回厚生政策セミナー「時間と少子化」 の記録が載っています。わたくしの報告「子育て世代の労働時間と労働法政策」とパネル討論記録も読めます。

https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/sakuin/jinko/331.html

・司会: それでは続きまして,『子育て世代の労働時間と労働法政策』と題しまして,独立行政法人労働政策研究・研修機構労働政策研究所長濱口桂一郎様よりご発表をいただきます.濱口様,よろしくお願い致します.

・濱口氏: はい,ご紹介いただきました労働政策研究・研修機構(JILPT)の濱口でございます.JILPTというのは,社人研と同じく厚生労働省関係の研究機関なのですが,社人研が厚生系であるのに対して,私のところは労働系ということになります.大石さんは労働経済学者でもありますので,そういう意味ではその話の続きということになりますが,私からはこのタイトルにあるように労働法政策・法制度のあり方に注目します.ただし法制度を解説することはいくらでもできるのですが,それを説明しただけではなぜ現実がこうなっているかということは全然わかりません.法制度はこういうふうになっているのだけれども実態はこうなっているのはなぜか,というところが実は大きな問題であります.時間が乏しいのできちんとした説明はできないかと思いますが,雇用システムという問題があるということを踏まえながらお話をできればと思っております.・・・

 

 

 

 

2024年12月26日 (木)

25年年金法改正の論点@『労基旬報』2025年1月5日号

『労基旬報』2025年1月5日号に「25年年金法改正の論点」を寄稿しました。

執筆時点ではまだ最終決着していなかったところもかなりあり、昨日取りまとめられた「社会保障審議会年金部会における議論の整理」よりも若干古い情報になっているところがあります。

社会保障審議会年金部会における議論の整理

 今年の通常国会に提出される予定の年金法改正案は、短時間労働者への適用拡大を始めとして労働法政策と関連する論点が多く、年の初めに若干整理しておきたいと思います。実は、ちょうど5年前の『労基旬報』2020年1月5日号に「2020年年金法改正の論点」を寄稿していますので、5年ぶりの年金法改正に合わせて5年ぶりの年金解説ということになります。
 直接に法改正に向けた審議は昨年7月3日から社会保障審議会年金部会(学識者19名、部会長:菊池馨実、部会長代理:玉木伸介)で開始され、2024年財政検証結果を確認した上で、被用者保険の適用拡大、いわゆる「年収の壁」問題、在職老齢年金等について議論を重ねてきました。本稿執筆時点ではまだ部会報告に至っていませんが、今後改正法案を作成して今年の通常国会に提出される予定です。ただしこのうち最重要事項である適用拡大については、2024年2月から「働き方の多様化を踏まえた被用者保険の適用の在り方に関する懇談会」(学識者17名、座長:菊池馨実)が開催され、2024年7月3日に議論の取りまとめがされていました。
 以下では、各問題の歴史的経緯にさかのぼって今日の問題を考察し、改正の方向性を論じていきます。なお年金財政の問題などマクロ的論点には触れません。
 
・短時間労働者への適用拡大等
 
 まず、適用拡大の中でも最も重要な短時間労働者の取扱いですが、そもそもの出発点は1980年6月に出された3課長内翰で、所定労働時間が通常の労働者の4分の3未満のパートタイマーには健康保険と厚生年金保険は適用しないと指示したことです(厚生年金保険法の条文上には根拠がありません)。この扱いがその後パート労働者対策が進展する中で見直しが求められるようになり、2007年には法改正案が国会に提出されましたが審議されることなく廃案となり、ようやく2012年改正で一定の短時間労働者にも適用されるようになりました。その適用要件は、まず本則上、①週所定労働時間20時間以上、②賃金月額88,000円以上、③雇用見込み期間1年以上、④学生は適用除外というルールを明記し、附則で当分の間の経過措置として⑤従業員規模301人以上企業という要件を加えたのです。その後、2016年改正でこの⑤の要件について、500人以下企業でも労使合意により任意に適用拡大できるようになりました。
 2020年改正では、上記③雇用見込み1年以上の要件を撤廃するとともに(これにより原則通り、2か月以内の期間を定めて使用される者のみが除外されます)、上記⑤従業員規模要件については、2022年10月から従業員101人以上企業に、2024年10月から従業員51人以上企業に段階的に拡大することとされ、既に昨年10月にこの段階に到達しています。今回の見直しは、この最終段階到達以前に開始されたことになります。
 昨年7月の「議論の取りまとめ」では、まず基本的な視点として「国民の価値観やライフスタイルが多様化し、短時間労働をはじめとした様々な雇用形態が広がる中で、特定の事業所において一定程度働く者については、事業主と被用者との関係性を基盤として働く人々が相互に支え合う仕組みである被用者保険に包摂し、老後の保障や万が一の場合に備えたセーフティネットを拡充する観点からも、被用者保険の適用拡大を進めることが重要である」と、被用者保険の大原則を述べた上で、「労働者の勤め先や働き方、企業の雇い方の選択において、社会保険制度における取扱いの違いにより、その選択が歪められたり、不公平が生じたりすることのないよう、中立的な制度を構築していく観点は重要である」と論じ、この関係で近年政治家によって取り上げられることの多いいわゆる「年収の壁」問題についても、「賃上げが進む中で、短時間労働者がいわゆる「年収の壁」を意識した就業調整をすることなく、働くことのできる環境づくりが重要である」と述べています。
 「年収の壁」には税制上のものと社会保険上のものがありますが、ここでいう「年収の壁」とは、上記②賃金月額88,000円以上要件が年収換算で約106万円となり、これを超えると保険料負担が生じ、手取り収入が減ることから「年収の壁」と呼ばれているものです。いうまでもなく、厚生年金に加入すれば手取りが減る一方で将来の年金額が増えますから、手取りだけでメリットデメリットが判断されるわけではありません。
 それを前提として、短時間労働者については具体的に次のような適用範囲の見直しを提起しています。まず①週所定労働時間20時間以上要件については、雇用保険法の2024年改正で週所定労働時間20時間以上から10時間以上に拡大したこと(施行は2028年度)から検討の必要性も指摘されましたが、「雇用保険とは異なり、国民健康保険・国民年金というセーフティネットが存在する国民皆保険・皆年金の下では、事業主と被用者との関係性を基盤として働く人々が相互に支え合う仕組みである被用者保険の「被用者」の範囲をどのように線引きするべきか議論を深めることが肝要」として、「雇用保険の適用拡大の施行状況等も慎重に見極めながら検討を行う必要がある」とかなり否定的なニュアンスの強い先送りとなっています。この点は年金部会の議論でも同様で、今回改正の論点ではなさそうです。
 次が「年収の壁」がらみの②賃金月額88,000円以上要件ですが、「議論の取りまとめ」では両論併記的であったのですが、年金部会ではこの要件の撤廃に舵を切ったようです。そもそもこの賃金要件は、これよりも低い賃金で被用者保険を適用した場合、国民年金第Ⅰ号被保険者より低い負担で基礎年金に加え報酬比例部分の年金も受けられることから、負担と給付のバランスを図るために設定されたものです。一方で、最低賃金の引上げに伴って週労働時間20時間以上であれば賃金要件も充たすようになってきています。また、社会保険関係の「年収の壁」としては、健康保険の被扶養者の年間収入が130万円未満であることも重要です。
 年金部会では、就業調整に対応した保険料負担割合を変更できる特例が検討されています。被用者保険の保険料は原則として労使折半ですが、健康保険法において、事業主と被保険者が合意の上、健康保険料の負担割合を被保険者の利益になるように変更することが認められています。これに対し厚生年金保険法では、政府が保険者とされており、健康保険法のような保険料の負担割合の特例に関する規定はありません。そこで、被用者保険の適用に伴う保険料負担の発生・手取り収入の減少を回避するために就業調整を行う層に対して、健康保険組合の特例を参考に、被用者保険(厚生年金・健康保険)において、従業員と事業主との合意に基づき、事業主が被保険者の保険料負担を軽減し、事業主負担の割合を増加させることを認める特例を設けることが提起されています。
 これに対して④学生適用除外要件については「就業年数の限られる学生を被用者保険の適用対象とする意義は大きくないこと、実態としては税制を意識しており適用対象となる者が多くないと考えられること、適用となる場合は実務が煩雑になる可能性があること等の観点から、本要件については現状維持が望ましいとの意見が多く、見直しの必要性は低いと考えられる」と否定的結論ありきです。
 段階的に拡大してきた⑤従業員規模要件が今回改正でも最大の論点ですが、「議論のとりまとめ」は「労働者の勤め先や働き方、企業の雇い方に中立的な制度を構築する観点から、経過措置である本要件は撤廃の方向で検討する必要があるとの見方が大勢を占めた」と述べ、「他の要件に優先して、撤廃の方向で検討を進めるべき」と、明確に撤廃の方向に舵を切りました。もっとも、新たに適用対象になる中小零細企業に対しては、「必要な支援策を講じ、事業所の負担軽減を図ることが重要」であるとしています。
 年金部会でもほぼこの方向で議論が進められており、これが2025年改正の目玉になることはほぼ間違いないでしょう。
 
・個人事業所に係る適用範囲
 
 短時間労働者の適用除外が1980年の3課長内翰で始まった(相対的に)新しい話であるのに対して、個人事業所への適用問題は1922年の健康保険法制定時にさかのぼります。一定規模以上の特定業種への適用という形で始まった被用者保険は、段階的にその適用範囲を拡大してきたのですが、1985年改正でようやく法人については従業員規模にかかわらず適用されることになったのですが、個人事業所は依然として5人以上でなければ適用されない状態のままです。なお、適用事業が未だに各号列記となっているために、各号列記に当てはまらない飲食サービス業や洗濯・理容・美容・浴場業など非適用業種では、法人でない限り5人以上事業所であっても適用されないという状況でした。これはさすがに問題ではないかということで、前回の2020年改正では、そのうち弁護士や公認会計士など法律や会計に関わる業務を取り扱う士業については、適用業種に追加するという微細な改正が行われています。年金を扱う社会保険労務士もこれに含まれます。
 この問題について「議論のとりまとめ」は、「労働者の勤め先や働き方、企業の雇い方に中立的な制度を構築する観点や、強制適用となる業種の追加が断続的に行われていた 1953(昭和 28)年までと比べると、我が国の産業構造が変化してきたこと、業種については制度の本質的な要請による限定ではなく合理的な理由は見出せないこと等から、まずは、常時5人以上を使用する個人事業所における非適用業種を解消する方向で検討する必要があるとの見方が大勢を占めた」と、非適用業種の解消という方向を明確に打ち出しています。
 これに対して5人未満の個人事業所については、「中立的な制度を構築する観点から本来的には適用するべきとの意見や、事業所の事務処理能力とは切り離して検討し、別途支援策を講じた上で次期制度改正において対応すべきとの意見があった一方、対象となる事業所が非常に多いため、その把握が難しいと想定されること、国民健康保険の被保険者のうち一定の勤労所得を有する者が被用者保険に移行することとなれば、国民健康保険制度への影響が特に大きいこと等から、慎重な検討が必要との意見もあった」と両論併記ながら消極的な姿勢がにじみ出ています。
 「常時5人以上を使用する個人事業所における非適用業種については、5人未満の個人事業所への適用の是非の検討に優先して、解消の方向で検討を進めるべきである」との結論からは、今回は非適用業種の解消に集中するという意図が伝わってきます。
 なおその後には、多様な働き方を踏まえた被用者保険の在り方として、フリーランスやプラットフォームワーカー、複数事業者で勤務する者の問題も論じていますが、なお中長期的な論点という位置づけで、今回の改正ではまだ本格的な論点にはならなさそうです。
 
・在職老齢年金の見直し
 
 かつては、高齢期の就労と年金受給の在り方といえば、年金支給開始年齢の引上げが最大の論点でした。1994年に定額部分の支給開始年齢を段階的に60歳から65歳に引き上げていくという年金法改正がなされ、これを援護射撃するべく同年に65歳までの継続雇用を努力義務とする高年齢者雇用安定法の改正がされるとともに、高年齢雇用継続給付が雇用保険法に規定されました。また2000年に報酬比例部分の支給開始年齢をやはり60歳から65歳に引き上げていくという年金法改正がなされ、労働法サイドでは2004年に65歳継続雇用の原則義務化(労使協定による例外あり)、2012年には65歳継続雇用のほぼ完全義務化がなされています。
 しかし現在は、年金支給開始年齢を70歳に引き上げていくという政策はとられておらず、制度上年金を受給できる60歳代後半層の高齢者の就業を促進するという政策が2020年高齢者雇用安定法改正によってとられるようになっています。もっとも、制度上年金を受給できるからといって、受給しなければならないわけではありません。むしろ2004年改正で導入された繰下げ規定によって、就業し続ける65歳以上の高齢者が受給年齢を繰下げることによって、その年金額を増額することができるようになっており、2020年改正で繰下げの上限年齢が75歳に引き上げられました。この点は今回は論点になっていません。
 一方、2020年改正の検討時に打ち出されていながら、最終的に腰砕けになって改正案から消えたのが在職老齢年金(高在労)の見直しです。これが問題になるのは、上述の繰下げ支給に対する邪魔者になるからです。本来、繰下げ支給とは、受給開始を繰下げた分だけその後の受給額が増えるはずです。ところが、繰下げ支給制度と在職老齢年金制度を掛け合わせると、在労で減らされた分は(本来受給できた分ではないので)受給開始後戻ってこないことになってしまうのです。これでは、受給を繰下げようという意欲が大幅に減殺されてしまいます。
 そこで、11月25日に提示された事務局案では、案1:在職老齢年金制度の撤廃、案2支給停止の基準額を(現行50万円から)71万円に引上げ、案3:支給停止の基準額を62万円に引上げ、の3案を提起しています。しかし、野党の反対が強いことから、今回もその見通しは不透明です。
 
・労使団体の意見
 
 年金改正に対しては、経団連と連合がそれぞれに意見を公表しているので、ざっと見ておきましょう。
 経団連は9月30日に「次期年金制度改正に向けた基本的見解」を公表し、その中で「働き方に中立的な制度の構築」という観点から、被用者保険のさらなる適用拡大に賛成しています、まずは第1段階として企業規模要件の撤廃や個人事業所の非適用業種の解消を実現し、第2段階として次々回の2030年改正で労働時間要件や賃金要件の見直しを行うとしています。また第3号被保険者を縮小していき、将来的な検討、再構築を求めています。また在職老齢年金については、今回は対象者の縮小にとどめ、2030年改正で廃止に向けて本格的に検討すべきとしています。
 一方連合は10月18日の中央執行委員会確認で、全被用者への被用者保険の完全適用と第3号被保険者制度の廃止を打ち出しています。また「年金部会の検討事項に対する連合の考え方」ではこれに加えて、在職老齢年金について「「厚生年金保険の適用要件を満たさず加入していない人や賃金以外の収入がある人との公平性を確保するため、事業所得、家賃、配当・利子など、総所得をベースに、年金額を調整する制度」や「働きながら年金を受給する人の支給停止分を部分繰下げ扱いとし、一定の増減率を乗じた額を退職時に受給できる制度」などに見直す」と述べています。

 

2024年12月25日 (水)

国立国会図書館デジタルコレクションがなければ書けなかった本@『国立国会図書館月報』2025年1月号

Image0_20241225114001 本日届いた『国立国会図書館月報』2025年1月号に、わたくしの「国立国会図書館デジタルコレクションがなければ書けなかった本」が載っております。

https://www.ndl.go.jp/jp/publication/geppo/index.html (未掲載)

 2023年7月、文春新書から『家政婦の歴史』という本を出しました。これまでジョブ型だのメンバーシップ型だのといった雇用システムの話ばかり書いていたので、「妙な本を書いたなあ」と思われたようです。でも、読まれた方からはX(旧twitter)上で、「これはめちゃくちゃ面白い」とか「法の盲点を突く著作で面白かった」といった感想もいただき、ほっとしていました。とりわけ、労働研究者の本田恒平さんが「濱口さんの圧倒的な文献研究で、労働者供給の歴史の点と点が繋がり、霞が晴れていくような感覚。一見地味なテーマだけど、濱口作品の中で一番好きだった。一番震えた」と書いていただいたときは、うれしいと同時にこそばゆい思いが駆け巡りました。というのも、褒められた「圧倒的な文献研究」というのは、私が勤務する労働政策研究・研修機構(JILPT)の労働図書館の蔵書と、なによりも国立国会図書館のデジタルコレクションのおかげだったからです。・・・・・・

本稿では、本書(『家政婦の歴史』)がいかに国立国会図書館デジタルコレクションのおかげに負っているかをいくつもの事例を挙げて述べております。

これを読んだ方々が、「なんだ、濱口みたいな奴でもデジコレを使えばもっともらしい本がかけるのか!そうだ、僕も私もデジコレを駆使して論文を書こう、本を書こう!」と思って頂けるなら、こういう楽屋話的なエッセイを書いた甲斐があるというものです。

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それは「経済学論壇」というよりもノビー&「りふれは」イナゴだったのでは?

年末になって、拙著『働き方改革の世界史』を読まれてこんな感想を書かれている方が。「映画系ロボット系キャリアコンサルタント」だそうです。

そう、ゴンパーズはそうですね。読めば読むほど面白い人物です。

ちなみに、「経済学論壇の相手を罵倒する態度」ってのは、まっとうな経済「学」論壇ではなく、15年くらい前にネット上だけで流行っていたノビー&「りふれは」イナゴの諸氏だったんではないですか?

(追記)

濵田佳一郎『働き方改革の世界史』。ドイツの労働組合が、マルクス主義から離脱しカトリシズムの影響を強く受けているのが面白い。働き方って国の文化を強く表すよね、歴史学、社会学、人類学的な視野が必要

遂に名前が「濵田佳一郎」になってしまった。5文字中2文字しか合致していない。

2024年12月24日 (火)

労働時間法制の見直し@WEB労政時報

本日のWEB労政時報に「労働時間法制の見直し」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/88334

厚生労働省労働基準局は2024年1月23日から「労働基準関係法制研究会」(学識者10名、座長:荒木尚志氏)を開催してきましたが、年末に予定されている報告書の取りまとめが近づいてきています。去る12月10日に提示された報告書(案)は、労働基準関係法制に共通する総論的課題として、「労働者」「事業」「労使コミュニケーション」について論ずるとともに、労働時間法制の具体的課題について幾つか突っ込んだ議論をしています。今回はこのうち労働時間法制について、今後「労働政策審議会労働条件分科会」に報告され、そこでの審議につながっていくであろう幾つもの論点について、ここで確認しておきましょう。・・・・

 

 

2024年12月23日 (月)

森崎めぐみ『芸能界を変える』

Geacodqbgaa39_a 森崎めぐみさんより『芸能界を変える たった一人から始まった働き方改革』(岩波新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.iwanami.co.jp/book/b654992.html

芸能界、それは自由で華やかな憧れの世界。しかし一歩その中に足を踏み入れてみると、そこは将来への保証など存在せずハラスメントが横行する、無法の世界だ。しかし、このままでいいのだろうか? 俳優でありながら法整備とルール作りに奮闘した著者が、芸能界のこれまでを鋭く批判し、これからのあるべき姿を描き出す。

森崎さんは自ら俳優として活躍しながら、自営業者だからと権利を奪われてきた芸能人のために活動してきた方です。

本ブログでも、もう4年半前になりますが、脇田滋編著『ディスガイズド・エンプロイメント』を紹介した時に、コメント欄でやりとりさせていただきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-99cb38.html

本書でもっとも迫力があるのは、労災保険の特別加入めざして厚生労働省とやりとりする下りですが、その背景には、労働者じゃないからと労災保険の対象にならなかった芸能関係者たちの労災事故の積み重ねがありました。本書の90ページから22件が並んでいますが、

1 1963年 戦争映画の撮影中に俳優O氏が爆薬に直撃し両足が吹っ飛んだ。

2 1964年 川で映画の撮影中に脱獄囚役の女優T氏と俳優A氏が手錠をつないだまま川を渡っていくシーンで行方不明になりふたりとも死亡

3 1984年 オートバイと乗用車二台の併走シーンのリハーサル中に転倒し、14メートルの距離をスリップして倉庫の門に激突しスタッフ一名が死亡

8 1988年 映画『Z』の殺陣のリハーサル中に、出演者の俳優が真剣を小道具の刀と間違え使用し、相手役の俳優が死亡

11 1990年 映画『T』のロケ撮影中に滝で俳優H氏が溺死

・・・・

この方々の思いが森崎さんを駆動してきたのかも知れません。

ところで、芸能人の労働者性の問題は、本ブログでだいぶ前から繰り返し取り上げてきたテーマでもあります。

せっかくなので、いくつか御蔵出ししておきます。

芸人は民法上れっきとした雇傭契約である件について

都内某所で、雇用類似の働き方について議論することがあり、ひとしきり例の吉本興業の件についても話題になりましたが、そもそも社長が「クビだ」と言っているその「クビ」とは、雇用契約を解除するという意味すなわち解雇なのであろうか、とか話は尽きないわけですが、そもそもボワソナードが作成した旧民法では、相撲、俳優、歌手などの芸人は立派な雇傭契約であったということが、必ずしもあまり知られていないことが残念です。

第12章 雇傭及ヒ仕事請負ノ契約

第1節 雇傭契約  

第260条
 使用人、番頭、手代、職工其他ノ雇傭人ハ年、月又ハ日ヲ以テ定メタル給料又ハ賃銀ヲ受ケテ労務ニ服スルコトヲ得  

第265条
 上ノ規定ハ角力、 俳優、音曲師其他ノ芸人ト座元興行者トノ間ニ取結ヒタル雇傭契約ニ之ヲ適用ス

よく読むと、俳優や音曲師その他の芸人と雇傭契約関係にあるのは座元興行者とあるので、芸人を抱えていて様々な興行に送り込む芸能プロダクションは、雇用主自体ではなく労務供給事業に当たるのではないかという説も出てきて、ひとしきり談論風発しました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-dc7b.html (タカラジェンヌの労働者性)


うぎゃぁ、チケットのノルマが達成できないと「タレント契約」打切りですか。

これは、古川弁護士には申し訳ないですが(笑)、歌のオーディションでダメ出しされた新国立劇場のオペラ歌手の人よりもずっと問題じゃないですか。

売り上げノルマ達成できないからクビなんて、まあ個別紛争事例にはいくつかありますけど、阪急も相当にブラックじゃないか。これはやはり、日本音楽家ユニオン宝塚分会を結成して、タカラジェンヌ裁判で労働者性を争って欲しい一件です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-8a7f.html (ゆうこりんの労働者性)


Enn1108161540005p1_2この「実態は異なる」という表現は、労働法でいう「実態」、つまり「就労の実態」という意味ではなく、業界がそういう法律上の扱いにしている、という意味での「法形式の実態」ということですね。

そういう法形式だけ個人事業者にしてみても、就労の実態が労働者であれば、労働法が適用されるというのが労働法の大原則だということが、業界人にも、zakzakの人にも理解されていない、ということは、まあだいたい予想されることではあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-f75b.html (タレ・スポの労働者性と育成コスト問題)


これは、実は大変深いインプリケーションがあります。芸能人やスポーツ選手の労働者性を認めたくない業界側の最大の理由は、初期育成コストが持ち出しになるのに足抜け自由にしては元が取れないということでしょう。ふつうの労働者だって初期育成コストがかかるわけですが、そこは年功的賃金システムやもろもろの途中で辞めたら損をする仕組みで担保しているわけですが、芸能人やスポーツ選手はそういうわけにはいかない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d5d3.html (芦田愛菜ちゃんの労働者性)


20110920_ashidamana_02芦田愛菜ちゃんが労働基準法上の労働者であることには何の疑いもないからこそ、上の労基法61条5項をすり抜けようとして、こういう話になるわけですね。

そして、そうであれば、そもそもの労働時間規制が「修学時間を通算して1週間について40時間」「修学時間を通算して1日について7時間」であり、かつ小学校は義務教育ですから、その時間は自動的に差し引かれなければなりませんから、上の「朝から晩までずっと仕事漬けの日々」というのは、どう考えても労働基準法違反の可能性が高いと言わざるを得ないように思われます。

まあ、みんな分かっているけれども、それを言ったら大変なことになるからと、敢えて言わないでいるという状況なのでしょうか。

ところで、それにしても、芦田愛菜ちゃんのやっていることも、ゆうこりんのやっていることも、タカラジェンヌたちのやっていることも、本質的には変わりがないとすれば(私は変わりはないと思いますが)、どうして愛菜ちゃんについては労働基準法の年少者保護規定の適用される労働者であることを疑わず、ゆうこりんやタカラジェンヌについては請負の自営業者だと平気で言えるのか、いささか不思議な気もします。

ゆうこりんやタカラジェンヌが労働者ではないのであれば、愛菜ちゃんも労働者じゃなくて、自営業者だと強弁する人が出てきても不思議ではないような気もしますが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-6d6a.html (正規AKBとバイトAKBの処遇格差の合理性について)


2040819_201408110738045001407721125ふむ、さすがに労働基準法には違反しないようにと、細かく考えられているようですが、この有期雇用契約による非正規労働者たちの時給1000円という処遇については、正規AKBメンバーとの業務内容等の相違に基づき、合理的な説明がちゃんとできるようになっているんですよね、秋元さん。

なお、『ジュリスト』2024年12月号に掲載した判例評釈「アダルトビデオ女優の労働者性とアダルトビデオプロダクションの労働者供給事業該当性-アダルトビデオプロダクション労働者供給事件」では、昭和29年の最高裁判決を引用しつつ、次のように論じています。多分、タイトルだけ見てアダルトビデオ女優だけの話だと思われているのでしょうが、実は全芸能人に関わる話なんです。

労働判例研究 アダルトビデオ女優の労働者性とアダルトビデオプロダクションの労働者供給事業該当性-アダルトビデオプロダクション労働者供給事件

 確定した判例たる職業安定法違反被告事件(最一小判昭和29年3月11日刑集8巻3号240頁)は、旧遊郭地帯の待合業者に接待婦(売春婦)を紹介した事案について、「[職安法]5条にいわゆる雇用関係とは、必ずしも厳格に民法623条の意義に解すべきものではなく、広く社会通念上被用者が有形無形の経済的利益を得て一定の条件の下に使用者に対し肉体的、精神的労務を供給する関係にあれば足りるものと解するを相当とする」と判示している。
 この拡張労働者概念は、公衆道徳上有害業務への職業紹介という局面について刑事法上の適切な結論を導き出すために作り出されたものという印象を免れないが、最高裁判決が「[職安法]5条にいわゆる雇用関係とは」と大きく論じている以上、職安法の適用全般にわたってそのように解釈されるべきものと理解すべきであろう。おそらく多くの労働法研究者に認識が共有されていないが、最高裁は職安法上の労働者性について「広く社会通念上被用者が有形無形の経済的利益を得て一定の条件の下に使用者に対し肉体的、精神的労務を供給する関係にあれば足りる」と、極めて緩やかな経済的従属性によって判断するという枠組みを70年前の段階で確立していたのである。これは職業安定法違反被告事件(最三小決昭和30年10月4日刑集9巻11号2150頁)でも確認されている。
 その論理的帰結は極めて重大である。職業紹介、労働者募集、募集情報等提供、労働者供給、労働者派遣といった労働市場ビジネスにおける労働者概念が極めて緩やかな経済的従属性によって判断されるのであれば、現在フリーランスの紹介や募集といった形で行われているビジネスモデルについても、「広く社会通念上被用者が有形無形の経済的利益を得て一定の条件の下に使用者に対し肉体的、精神的労務を供給する関係」の仲介である限り職安法が適用され、したがって同法に基づく許可や届出なしに事業が行われているならば同法違反ということになるはずだからである。最高裁は職安法63条2号に限定した労働者概念ではなく、同法の定義規定たる5条(現4条)の解釈として判示しており、これは今日まで変更されていない。・・・・

このように労働者供給元・供給労働者関係該当性を諾否の自由のある弱い拘束性でもよいと広く捉える考え方は、Ⅰでみた職安法上の労働者性を広く捉える考え方と組み合わせるならば、職安法63条2号の公衆道徳上有害業務に限らず、広範な分野に労働者供給の存在を認めることに帰結する。なぜなら、本判決がいうように「他のプロダクションとの間でアダルトビデオ女優の活動が禁止されていたこと」、「違約金条項や損害賠償条項の存在」、「出演料の金額を知らせていなかった」等によって、アダルトビデオ女優の供給労働者該当性が容易に認定できるのであれば、アダルドビデオではない一般の女優や男優も含めて、およそ現在の芸能界における芸能プロダクションと所属芸能人の関係はことごとく労働者供給元と供給労働者の関係であると認定できそうである。本判決のロジックは公衆道徳上有害業務に限った話ではなく、職安法44条違反という一般条項にも関わるのであるから、公衆道徳上有害でないから普通の芸能プロダクションは大丈夫というわけにはいかない。・・・・ 

本判決は供給先との間で指揮命令関係を認定するに当たり、「求められた演技に対する拒否ができた、あるいは演技における裁量の余地があった」としても指揮命令関係があったとしているが、もしそうなら現在の芸能プロダクションに所属する芸能人の演技行為はことごとく指揮命令関係ありといえてしまうであろう。本判決は職安法63条2号に限らず、職安法44条違反として労働者供給一般について上のように判示しているのであるから、上記昭和29年最高裁判例と合わせて考えれば、公衆道徳上有害であろうがなかろうが、厳密な指揮命令関係が認められなくても、現在の芸能プロダクションに所属する芸能人の演技行為はことごとく労働者性ありと判断されるべきという理路になってしまいそうである。・・・ 

残念ながら現在までのところ、この問題に反応した人はいないようです。

 

 

土田道夫『労働契約法 第3版』

L24367 土田道夫さんより労働法鈍器本の最右翼たる『労働契約法 第3版』(有斐閣)をお送りいただきました。

https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641243675

労働契約という視点から労働法に切り込み,労働契約をめぐる法全般を理論的に描き出す,最高水準の体系書。緻密な筆致により,労働契約の成立・展開・終了を規律する法的ルールの神髄に迫る。8年ぶりの全面改訂で,最新の論点・法改正・重要判例に対応

本書は、労働法テキスト界において、その分厚さのみならず、改訂頻度の長期さにおいても群を抜いています。2年おきが主流化し、毎年改訂すらある中で、土田テキストはなんと8年おきという重厚さです。初版が2008年、第二版が2016年、そして今回の第三版が2024年というわけで、そうなるとはしがきの最後で「お世話になった。謝意を示したい」と述べているお弟子さんの世代がその間にがらりと変わっています。唯一ダブっているのが、第二版で博士後期課程で法令・文献の照合や事項索引の作成等で「お世話になった」岡村優希さんが、今回は「畏友・岡村優希氏」となり「校正原稿を読んでいただき、貴重なアドバイスをいただいた」ことでしょうか。

あと、本書の特色は巻末の判例索引にも現れています。普通、労働法テキストの判例索引といえば、労判と労経速がならび、そのなかに判時、判タがときたま挟まるものですが、本書の判例索引はそのいずれにも載っていないジャーナル(「労働判例ジャーナル」)が一番多く並んでいます。

枝葉末節なことばかり言ってますが、コラムの数も他を圧倒しています。549ページには「ジョブ型雇用」というコラムがあり、33行の間でほぼ言い尽くしています。

 

 

 

 

『東洋経済』ベスト経済書・経営書2024で第2位に選ばれました

14991_ext_01_0_20241223090501 本日発売の『週刊東洋経済』2024年12/28・1/4合併号に載っている、毎年恒例の「ベスト経済書・経営書2024」において、拙著『賃金とは何か』(朝日新書)が第2位に選ばれました。

ちなみに第1位は、今年のノーベル経済学賞を受賞したダロン・アセモグルの『技術革新と不平等の1000年史(上・下)』(早川書房)だそうで、アセモグルさんの次に良かったという評価は、この上ない喜びです。また、第3位は脇田成さんの『日本経済の故障箇所』(日本評論社)で、同書も「生産性以下の賃金が長期停滞を招いた」と論じています。

拙著をご推薦頂いた有識者の方々にお礼申し上げるとともに、読者の皆様にも感謝いたします。

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2024年12月21日 (土)

警察を民営化したらやくざである(再掲)その他

F8v9y8up_400x400 白ふくろうさんがこんなことを呟いていたので、もう15年近くも前の本ブログでのやり取りを思い出してしまいました。

なんでも民営化論者でも、警察部門の完全民営化を打ち出す人って見たことがないんだけど、どんな問題があるんだろう。あと、消防も聞かないな。

それがいたんです。

警察を民営化したらやくざである

リバタリアンと呼ばれたがる人々はどうしてこうも基本的な社会認識がいかがなものかなのだろうかと思ってしまうのですが、

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100818警察を民営化したならば

警察とは一国の法システムによって暴力の行使が合法化されたところの暴力装置ですから、それを民営化するということは、民間の団体が暴力行使しても良いということを意味するだけです。つまり、やくざの全面的合法化です。

といいますか、警察機構とやくざを区別するのは法システムによる暴力行使の合法化以外には何一つないのです。

こんなことは、ホッブス以来の社会理論をまっとうに勉強すれば当たり前ではあるのですが、そういう大事なところをスルーしたまま局部的な勉強だけしてきた人には却って難しいのかも知れません。最近では萱野さんが大変わかりやすく説明してますから、それ以上述べませんが。

子どもの虐待専門のNPOと称する得体の知れない団体が、侵害する人権が家宅侵入だけだなどと、どうして素朴に信じてしまえるのか、リバタリアンを称する人々の(表面的にはリアリストのような振りをしながら)その実は信じがたいほど幼稚な理想主義にいささか驚かされます。そもそも、NPOという言葉を使うことで善意の固まりみたいに思えてしまうところが信じがたいです。

警察の民営化というのは、民主国家においてはかかっている暴力装置に対する国民のコントロールの権限が、(当該団体が株式会社であればその株主のみに、非営利団体であればそれぞれのステークホルダーのみに)付与されるということですから、その子どもの虐待専門NPOと称する暴力集団のタニマチがやってよいと判断することは、当然合法的に行うことになるのでしょうね。

国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようになります。古代国家が崩れていくにつれ、武士団という暴力団が跋扈するようになったのもその例です。それは少なくとも人間社会の理想像として積極的に推奨するようなものではないというのが最低限の常識であると思うのですが、リバタリアンの方々は違う発想をお持ちのようです。

(追記)

日本国の法システムに通暁していない方が、うかつにコメントするとやけどするという実例。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>thesecret3 えええ、、実際暴力装置としての治安維持活動は日本では民間の警備会社の方が大きくないですか?現金輸送車を守ってるのは警察でもやくざでもありませんよ。

いうまでもなく、警備業者は警察と異なり「暴力装置」ではありませんし、刑事法規に該当する行為を行う「殺しのライセンス」を頂いているわけでもありません。

警備業法の規定:

http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%af&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S47HO117&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

>(警備業務実施の基本原則) 

第十五条  警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない。

それは「やくざ」の定義次第

松尾隆佑さんが、

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919131166

>「警察を民営化したらやくざ」との言にはミスリードな部分があって,それは無政府資本主義社会における「やくざ」を政府が存在・機能している社会における「やくざ」とは一緒にできない点.民営化はやくざの「全面的合法化」ではなく,そもそも合法性を独占的に担保する暴力機構の解体を意味する.

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919469693

>他方,民間保護機関や警備会社同士なら「やくざ」ではないから金銭交渉などで何でも平和的に解決できるかと言えば,そういうわけでもなかろう.やくざだって経済合理性に無縁でなく,無駄な争いはすまい.行為を駆動する合理性の中身は多少違っても,本質的に違いがあるわけではない.やくざはやくざ.

言わずもがなではありますが、それは「やくざ」の定義次第。

国家のみが正当な暴力行使権を独占していることを前提として、国家以外(=国家からその権限を付与されのではない独立の存在)が暴力を行使するのを「やくざ」と定義するなら、アナルコキャピタリズムの世界は、そもそも国家のみが正当な暴力行使権を独占していないので、暴力を行使している組織を「やくざ」と呼べない。

より正確に言うと、世の中に交換の原理に基づく経済活動と脅迫の原理に基づく暴力活動を同時に遂行する多数の主体が同一政治体系内に存在するということであり、その典型例は、前のエントリで書いたように封建社会です。

そういう社会とは、荘園経営者が同時に山賊の親分であり、商船の船主が同時に海賊の親玉である社会です。ヨーロッパ人と日本人にとっては、歴史小説によって大変なじみのある世界です。

こういう「強盗男爵」に満ちた社会から、脅迫原理を集中する国家と交換原理に専念する「市民」を分離するところから近代社会なるものは始まったのであって、それをどう評価するかは社会哲学上の大問題ですし、ある種の反近代主義者がそれを批判する立場をとることは極めて整合的ではあります。

しかしながら、わたくしの理解するところ、リバタリアンなる人々は、初期近代における古典的自由主義を奉じ、その後のリベラリズムの堕落を非難するところから出発しているはずなので、(もしそうではなく、封建社会こそ理想と、呉智英氏みたいなことを言うのなら別ですが)、それと強盗男爵社会を褒め称えることとはいささか矛盾するでしょう、といっているだけです。

多分、サヨクの極地は反国家主義が高じて一種の反近代主義に到達すると思われますので(辺境最深部に向かって退却せよ!)、むしろそういう主張をすることは良く理解できるのですが(すべての犯罪は革命的である! )。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>tari-G , , ,  国家の強制力を現在の検警察組織に独占させないという発想自体は、検警察入管等のひどさを考えれば極めて真っ当。

アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?


TypeAさんが、「民間警察は暴力団にあらず 」というタイトルで、わたくしの小論について論じておられます。

http://c4lj.com/archives/773366.html

いろいろとご説明されたあとで、

>しかし、これでも濱口氏は納得しないに違いない。何故なら、蔵氏やanacap氏の説明は、無政府資本主義社会が既に成立し、安定的に運用されていることが前提であるからだ。

と述べ、

>だが、「安定期に入った無政府資本主義社会が安定的である」というのは、殆どトートロジーである。

>現在の警察を即廃止したとしても、忽ちに「安定期に入った無政府資本主義社会」が出現するわけではないからである。これまでの無政府資本主義者は、(他の政治思想も大抵そうであるが)その主張を受け入れてもらうために、己の描く世界の安定性のみを強調し、「ここ」から「そこ」への道のり、現行の制度からその安定した社会に至るためのプロセスを充分に説明していない。「国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようにな」るというのは、成程確かにその通りであると認めざるを得ないだろう。

と認められます。

ところが、そのあと、こういう風にその理想社会に到達するという図式を描かれるのです。

>これまでの多くの政府機関の民営化がそうであったように、恐らく警察においても最初は特殊法人という形を採ることになるだろう。法制度の改定により、民間の警備会社にもそれなりの権限は許可されるが、重大な治安維持活動は特殊法人・警察会社に委ねられる。それでも、今よりは民間警備会社に出来る範囲は広くなる。

>特殊法人・警察会社は徐々に独占している権限を手放す。民間警備会社が新たに手に入れた権限を巧く使うことが出来ることを証明できたならば、それは更なる民営化を遂行してよいという証拠になる。最終的に、元々公的機関であった警察は、完全に民営化される。(勿論テストに失敗した場合はこの限りではない。)恐らく数年~十数年は、元々公的機関であった"元"警察を信頼して契約を結ぶだろう。ノウハウの蓄積は圧倒的に"元"警察株式会社にあるだろうからだ。しかし、市場が機能する限り、"元"警察株式会社がその優位な地位に胡坐をかく状態が続けば、契約者は他の民間警備会社に切り替えることを検討することになるだろう。

こういうのを読むと、いったいアナルコキャピタルな方々は、国家の暴力というものを、せいぜい(警備業法が規定する程度の)警備業務にとどまるとでも思っておられるのだろうか、と不思議になります。

社会は交換原理だけではなく脅迫原理でもできているのだという事実を、理解しているのだろうか、と不思議になります。

先のエントリでも述べたように、国家権力の国家権力たるゆえんは、法に基づいて一般市民には許されない刑事法上に規定する犯罪行為(住居侵入から始まって、逮捕監禁、暴行傷害、場合によっては殺人すらも)を正当な業務行為として行うことができるということなのであって、それらに該当しない(従って現在でも営業行為として行える)警備行為などではありません。「民間の警備会社」なんて今でも山のようにあります。問うべきは「民間の警会社」でしょう。

大事なのは、その民間警察会社は、刑法上の犯罪行為をどこまでどの程度正当な業務行為として行うことができることにするのか、そして、それが正当であるかどうかは誰がどのように判断するのか、それが正当でないということになったときに誰がどのように当該もはや正当業務行為ではなくなった犯罪行為を摘発し、逮捕し、刑罰を加えるのか、といったことです。アナルコキャピタリズムの理念からすれば、そういう「メタ警察」はない、としなければなりませんが、それがまさに各暴力団が自分たち(ないしその金の出所)のみを正当性の源泉として、お互いに刑事法上の犯罪行為を振るい合う世界ということになるのではないのでしょうか。

その社会において、「刑事法」というものが現在の社会におけるような形で存在しているかどうかはよく分かりません。刑事法とはまさに国家権力の存在を何よりも前提とするものですから、ある意味では民間警察会社の数だけ刑事法があるということになるのかも知れませんし、一般刑事法はそれを直接施行する暴力部隊を有さない、ちょうど現代における国際法のようなものとして存在するのかも知れません。これはまさに中世封建社会における法の存在態様に近いものでしょう。

この、およそ「警察の民営化」とか唱えるのであれば真っ先に論ずべき点がすっぽり抜け押してしまっているので、正直言って、なにをどう論じたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

ちなみに、最後でわたくしに問われている蔵研也氏の第2のアイディアというのは、必ずしもその趣旨がよく理解できないのですが、

>むしろ公的な警察機構に期待するなら、警察を分割して「児童虐待警察」をつくるというのも、面白い。これなら、捜索令状もでるし、憲法の適正手続条項も満たしている。

というところだけ見ると、要するに、一般の警察とは別に麻薬取締官という別立ての正当な国家暴力機構をつくるのと同じように、児童虐待専門の警察をつくるというだけのはなしにも思えるので、それは政府全体のコスト管理上の問題でしょうとしかお答えのしようがないのですが、どうもその次を読むと必ずしもそういう常識的な話でもなさそうなので、

>さて、それぞれの警察部隊の資金は有権者の投票によって決まる。

はあ?これはその蔵氏のいう第2のアイディアなんですか。全然第2でも何でもなく、第1の民営化論そのものではないですか。

アイディア2というのが警察民営化論なのか、国家機構内部での警察機能分割論なのか、判断しかねるので、「濱口氏は如何お考えであるのか、ご意見を伺いたく思う。」と問われても、まずはどっちなのかお伺いした上でなければ。

(追記)

法システムの全体構造を考えれば、国家の暴力装置を警察だけで考えていてはいけません。警察というのはいわば下部装置であって、国家の暴力の本質は司法機関にあります。人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定するのは裁判所なのですから。

したがって、アナルコキャピタルな善意に満ちた人々は、何よりもまず裁判所という法執行機関を民間営利企業として運営することについての具体的なイメージを提示していただかなければなりません。

例えばあなたが奥さんを殺されたとしましょう。あなたは桜上水裁判株式会社に電話して、犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼します。同社は系列企業の下高井戸警察株式会社に捜査を依頼し、同社が逮捕してきた犯人を会社の会議場で裁判にかけ、死刑を言い渡す。死刑執行はやはり系列会社の松原葬祭株式会社に依頼する、と。

ところが、その犯人曰く、俺は殺していない、犯人は実は彼女の夫、俺を捕まえろといったヤツだ。彼も豪徳寺裁判株式会社に依頼し、真犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼する。関連会社の三軒茶屋警察株式会社は早速活動開始・・・。

何ともアナーキーですが、そもそもアナルコキャピタルな世界なのですから、それも当然かも。

そして、このアナーキーは人類の歴史上それほど異例のことでもありません。アナルコキャピタリズムというのは空想上の代物に過ぎませんが、近代社会では国家権力に集中した暴力行使権を社会のさまざまな主体が行使するというのは、前近代社会ではごく普通の現象でした。モンタギュー家とキュピレット家はどちらもある意味で「主権」を行使していたわけです。ただ、それを純粋市場原理に載っけられるかについては、わたくしは人間性というものからして不可能だとは思っていますが。

ちなみに、こういう法システム的な意味では、国際社会というのは原理的にアナーキーです。これは国際関係論の教科書の一番最初に書いてあることです。(アナルコキャピタリズムではなく)純粋のアナーキズムというのは、一言で言うと国内社会を国際社会なみにしようということになるのでしょう。ボーダーレス社会にふさわしい進歩的思想とでも評せますか。

人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?

typeAさんとの一連のやりとりについて、ご本人がご自分のブログで感想を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100911/1284167085(負け犬の遠吠え-無政府資本主義者の反省-。 )

いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。

おそらく、そこに引用されている「平凡助教授」氏のこの言葉が、アナルコキャピタリズムにまで至るリバタリアンな感覚をよく描写していると思うのですが、

>無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.

政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、あたかもそういう「モノ」を人間の意思で廃止したりすることができるかのように思う点にあるのでしょう。

人間という生き物にとって「交換」という行為をなくすことができるかどうかを考えれば、そんなことはあり得ないと分かるはずですが、こんなにけしからぬ「市場」を廃止するといえば、できそうな気がする、というのが共産主義の誤りだったわけであって、いや「市場」を廃止したら、ちゃんとしたまともな透明な市場は失われてしまいますが、その代わりにぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「市場まがい」で様々な交換が行われることになるだけです。アメリカのたばこが一般的価値形態になったりとかね。

「問題の多い市場の領域をなくして政府の領域だけにする」という理想は、人間性に根ざした「交換」という契機によって失敗が運命づけられていたと言えるでしょう。

善意で敷き詰められているのは共産主義への道だけではなく、アナルコキャピタリズムへの道もまったく同じですよ、というのが前のエントリのタイトルの趣旨であったのですが、はたしてちゃんと伝わっていたでしょうか。

こんなにけしからぬ「政府」を廃止するといえば、できそうな気がするのですが、どっこい、「政府」という「モノ」は廃止できても、人間性に深く根ざした「脅迫」という行為は廃止できやしません(できるというなら、ぜひそういう実例を示していただきたいものです)。そして、「脅迫」する人間が集まって生きていながら「政府」がないということは、ぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「政府まがい」が様々な脅迫を行うということになるわけです。それを「やくざ」と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎません。

「政府の領域をなくして市場の領域だけにする」という「モノ」に着目した言い方をしている限り、できそうに感じられることも、「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という言い方をすれば、学級内部の政治力学に日々敏感に対応しながら暮らしている多くの小学生たちですら、その幼児的理想主義を嗤うでしょう。

ここで論じられたことの本質は、結局そういうことなのです。

(注)

本エントリでは議論を簡略化するため、あえて「協同」の契機は外して論じております。人類史的には「協同「「脅迫」「交換」の3つの契機の組み合わせで論じられなければなりません。ただ、共産主義とアナルコキャピタリズムという2種類の一次元的人間観に基づいた論法を批判するためだけであれば、それらを噛み合わせるために必要な2つの契機だけで十分ですのでそうしたまでです。

ちなみに「協同」の契機だけでマクロ社会が動かせるというたぐいの、第3種の幼児的理想主義についてもまったく同様の批判が可能ですが、それについてもここでは触れません。

蔵研也さんの省察

本ブログで少し前に取り上げて論じた「警察の民営化」あるいはむしろ「国家の暴力装置の民営化」に関する議論について、その発端となった蔵研也さんが、ある意味で「省察」されています。いろんな意味で大変興味深いので、紹介しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100921無政府は安定的たり得るか?

>僕は自称、無政府資本主義者であり、実際そういったスタンスで本も書いてきた。

>しかし、slumlordさんの「なぜ私は無政府主義者ではないのか」

http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20100917/1285076558

を読んで、遠い昔に考えていた懸念が確かに僕の中に蘇り、僕は自分の立場に十分な確信を持てなくなった。

>僕はあまりに長い間文字だけの抽象的な世界に住んできたため、無政府社会が論理的にもつだろうと考えられる美徳に魅せられたため、人間の他人への支配欲やレイプへの欲望、さらにもっとブラックでサディスティックな欲望を軽視するというオメデタい野郎になってしまっていたのだろうか??

>大学時代までの自分は、空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑を与えていたことは、間違いない。

>警察や軍隊が、それぞれのライバル会社の活動を許容し、ビジネス倫理にしたがって競争するというのは、この意味では、共産主義社会の空想と同じくらいに、オメデタい空想なのかも知れない。そういった意味では、僕は自分の考えを再思三考する必要があるだろう。

今この問題は、なるほど現時点では僕にとってのopen question としか言いようがない。

蔵さんご自身が「open question」と言われている以上、ここでへたに答えを出す必要もありませんし、それこぞリバタリアンの皆さんがさまざまに議論されればよいことだと思います。

ただ、かつて若い頃にいくつかリバタリアンに属するであろう竹内靖雄氏のものを読んだ感想を思い出してみると、社会主義的ないし社会民主主義的発想を批判する際には、まさしく「空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑」が横溢していて、正直言うとその点については大変共感するところがあったのです。(なぜか菅首相と同じく)永井陽之助氏のリアリズム感覚あふれる政治学に傾倒していたわたくしからすると、当時の日本の「さよく」な方々にしばしば見られた「空想主義的、牧歌主義」は大変いらだたせるようなものでありました。

その「リアリズム感覚」からすると、空想主義的「さよく」を批判するときにはあれほど切れ味のよい人が、どうして同じくらい空想的なアナルコキャピタルな議論を展開できるのかは不思議な感じもしたのですが、ある意味で言論の商人として相手を見て使い分けしていたのかな?という気もしています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html(警察を民営化したらやくざである)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-2b5c.html(それは「やくざ」の定義次第)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-037c.html(アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-48c2.html(人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?)

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月20日 (金)

JILPTリサーチアイ 第84回「解雇等無効判決後における復職状況」

JILPTのホームページに、JILPTリサーチアイ 第84回「解雇等無効判決後における復職状況」をアップしました。

https://www.jil.go.jp/researcheye/bn/084_241220.html

Jilpthukushoku_20241220214001 中身は、調査シリーズNo.244『解雇等無効判決後における復職状況等に関する調査』の内容の紹介です。

 去る2024年7月、調査シリーズNo.244『解雇等無効判決後における復職状況等に関する調査』を上梓した。これは、厚生労働省の要請を受けて当機構が実施した調査研究結果を取りまとめたものである。その概要は既に2024年5月10日に、内閣府に設置された規制改革推進会議働き方・人への投資ワーキング・グループの第7回会合に、厚生労働省事務局より報告されているが、そこに含まれていなかった詳細な調査結果も今回の調査シリーズには盛り込まれているので、関心のある皆さまには是非この調査シリーズ自体を見ていただければと思う。このリサーチアイでは、今回の調査シリーズに至るこの分野の先行研究の推移を概観した上で、今回の調査の結果の概要を説明していきたい。

2827_h1 なお、労働法学研究会報でも第2827号として『解雇無効判決後の職場復帰状況』が出ています。

 

 

『賃金とは何か』第2刷刊行

皆様のお陰で、今年7月に刊行した『賃金とは何か』(朝日新書)の第2刷が刊行されました。

書店に並ぶのは来年以降になると思いますが、引き続きよろしくお願い申し上げます。

Asahi_20241220120801

今年もいいお年玉があるといいですね。

2024年12月19日 (木)

定松文さんによる拙著猛批判

9_212x300 日本フェミニスト経済学会の学会誌『経済社会とジェンダー』の第9巻に、拙著『家政婦の歴史』の書評が載っているということに気がつき、早速読んでみました。恵泉女学園大学の定松文さんという方によるかなり長い書評なのですが、拙著とは問題意識が違っているからなのでしょうが、かなり激しい批判を頂いています。

濱口桂一郎著『家政婦の歴史』 定松 文(恵泉女学園大学)

全体の半分以上は拙著の内容説明に充てられていて、6ページ目から「本書の意義と問題点」の指摘に入ります。最初のところは、「 本書には家政婦に関する労働行政の資料をまとめ上げたという重要な功績があり、この点は高く評価すべきであろう」とか「労働行政史として参照すべき著書であることに揺るぎはない」とお褒めの言葉を頂いていますが、そこから猛然と批判が始まります。

 本書は「家政婦は本来であれば労基法の適用対象であった」という主張を行政の立場からまとめるものであり、その枠組みにおいては、家事使用人を適用除外のままとする仕組み、構造的差別が明確になったと読み取れる。しかし、フェミニストそしてジェンダー研究者としての視点から本書を読めば、家政婦を「家事使用人という烙印をおされ」(237 頁)という表現をしつつ、日本社会において家事労働者がかかえる労働問題をこのような帰着点においてまとめることには大きな疑問がわき、また憤りを禁じ得なかった

私の議論の仕方は、定松さんにとっては「憤りを禁じ得な」いようなひどいものだったようです。

それは具体的にはどういうことか?

第一に資料に関して家事労働分野に関する先行研究への言及がほとんど見当たらないことである。・・・

先行研究は、確かに女中と家政婦を分けて行政史を研究していないが、それは、派出婦/家政婦と女中とが区別できない存在であることをとらえる視点に、重要な意味があるためである。

これはまさに問題意識の違いなのですが、本来女中とは区別される存在であった家政婦が女中扱いされるようになったのはなぜなのかという問いが、今回の過労死事件を受けて私が追及した最大の問いなので、その両者が「区別できない存在」であるという視点こそが重要だと言われても、それでは私の抱いた誰も答えてくれない問いが全く無意味であると言われているに等しいと感じます。

 第二に、本書が上記のように家事労働を包括してとらえる視点に欠くことは、派出婦/家政婦と女中という二つのカテゴリーの区分化の背景を見るという点では効果的かもしれないが、それ以外のさまざまな家事労働者職の見落としにつながっている。

実は編集者とは、家事請負サービスや個人請負といったさまざまなビジネスモデルが出てきているのをどう扱うかという話もしたのですが、あくまでも今回の過労死事件判決の原因を探るという一点集中型の本にしたかったので、あれやこれやの話題はあえて取り上げませんでした。

 本書の議論の前提にあるのは、あくまでも労働基準法である。貫かれているのは、どのような雇用・業務命令関係の下にあるかによってしか労働者をとらえない視点であり、実際の労働内容については目が向けられない。

正確に言えば、労働基準法をはじめとした労働法制における女中と家政婦の位置付けの推移に焦点を絞っています。それがわたくしのエクスパタイズであり、それを超えた分野に下手に手を出していい加減なことを書かない方が良心的だと考えたからです。とはいえ、実際に本を読んでいただければ、さまざまな資料を使って「実際の労働内容」についても記述が盛り込まれていることは理解いただけると思うのですが、行政が作成した資料と新聞記事と同時代の小説の引用では、「目が向けられない」という評価になってしまうのでしょうか。

 第三に、本書には、国際的動向からみた家事労働者の位置づけについての議論が抜け落ちている。そのことは家事労働者の問題が人権問題であるということの認識の欠落を示しているといってよいだろう。

結局、今回の過労死事件判決をどのレベルで批判すればお気に召したのかということなのでしょう。なまじ労働法の実務の感覚に近いところにいると、余りにもそもそも論過ぎて裁判官から玄関先で一蹴されてしまうような高邁な議論だけが唯一正しい議論の立て方であって、裁判官が立脚している法理論体系それ自体の中に一蹴できないような矛盾を見つけ出し、そこをぐりぐりと追求する様な世俗的で泥臭い議論の仕方は「人権問題であるということの認識の欠落を示」すものであるという発想は、大変麗しく素晴らしいものであるとは思いますが、それのみが唯一の真理であり正義であるとまではいえないようにも思われます。

51sgqlf3yol_sx310_bo1204203200__20241219094901 定松さんの批判は大変身に染み入るところがあり、いろいろと考えるヒントも頂きましたが、結局のところ、はじめに書いたように、問題意識の違いというのは想像以上に大きなものなのだなあ、と感じたところです。拙著のような議論でこそ、今まで関心のなかったこの問題が「刺さる」人もいれば、全く逆に「憤りを禁じ得な」い人もいるということが分かったことが、最大の収穫であったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

2024年12月18日 (水)

労働組合組織率16.1%

本日、令和6年労働組合基礎調査の概況が公表されました。

https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/roushi/kiso/24/dl/gaikyou.pdf

毎度注目される労働組合組織率ですが、今年はさらに下がって16.1%です。

Union24

一方、パートタイムの組織率はまた少し上がって8.8%となりました。

また、100人以下の中小零細企業の組織率はまた少し下がって0.7%です。

これらの傾向はずっと続いてきているものですが、依然として変わっていません。

 

 

 

 

 

2024年12月17日 (火)

今年1年間の『労働新聞』書評たち

今年も最後の月になりました。この1年間、『労働新聞』に月1回連載してきた書評も12回分溜まりましたので、例によってまとめておきます。

ウラジーミル・プーチン『プーチン重要論説集』@『労働新聞』書評

9784065332658_2245x400_20241217085101 ロシアがウクライナへの侵略を開始してから早くも3年近くが経った。この間、国際政治学者や軍事評論家により膨大な解説が溢れたが、そもそもプーチンは何でこんなとんでもないことを始めたのか、という一番肝心のことについては、いまいち隔靴掻痒の感を免れない。弱い者いじめをする悪者だから、で片付けてしまってはいけないだろう。戦争とは正義と正義のぶつかり合いであるとするならば、プーチンにはプーチンの正義があるはずだ。それを知るには、誰かの解説という間接話法ではなく、プーチン自身の肉声に耳を傾けるのが一番いい。そのために絶好の素材が、この500ページを超える分厚い新書版の翻訳書だ。・・・・

マイケル・リンド『新しい階級闘争』@『労働新聞』書評

9784492444719_600_20241217085201 近頃世界的に無責任な言説をまき散らすポピュリストが蔓延して困ったものだ、・・・と感じている人は多いだろう。しかし、これは階級闘争なのだ。知的エリート階級に経済的のみならず知的にも抑圧されているノンエリート労働者階級の「反乱」なのだ。・・・・

ビル・ヘイトン『「中国」という捏造』@『労働新聞』書評

817yaysygzl273x400_20241217085301 「捏造」というタイトルは過度に挑発的だと感じられるかもしれない。しかし、原題の「invention」には「発明」とともに「捏造」という意味もある。ほんの百数十年前までは存在しなかった「中国」という概念を、清朝末期から中華民国時代の思想家や政治家たちが創り出してしまったということだ。と、いう話なら、日本でも岡本隆司『「中国」の形成』(岩波新書)など類書はある。本書の読みどころは、康有為、梁啓超、黄遵憲、厳復といった思想家や、李鴻章、孫文、蒋介石といった政治家たちが、苦闘しながらひねり出していった「中国」という創作物が、21世紀の今日、習近平の「中国の夢」というスローガンの下、「中華民族」という究極の虚構が14億の多様な人々の違いをすり潰すイデオロギーとして猛威を振るうに至った歴史を、生々しく描き出しているところだろう。・・・・

戸森麻衣子『仕事と江戸時代』@労働新聞書評

61bof5yoxl245x400_20241217085501 この書評も2021年から始めたのでもう4年目になるが、その初めの頃に十川陽一『人事の古代史』(ちくま新書)を取り上げたことがある(関連記事=【GoTo書店!!わたしの一冊】第17回『人事の古代史―律令官人制からみた古代日本』十川 陽一 著/濱口 桂一郎)。古代から戦乱に明け暮れた中世を経て、平和な時代となった近世には、再び「働き方」が社会の重要な問題となった。本書は、戦士のはずだったのに官僚の道を歩まざるを得なくなった武士をはじめ、武家奉公人、商家の奉公人、職人、百姓に至るまでの、江戸時代の「働き方」万華鏡を垣間見せてくれる。・・・

デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』@『労働新聞』書評

4334100597_20241217085601 「万物の黎明」(The Dawn of Everything)とは超絶的に大風呂敷なタイトルだが、元の副題(A New History of Humanity(人間性の新たな歴史))や邦訳の副題(人類史を根本からくつがえす)というのが、まあ妥当なところだろう。著者の一人は本連載の初年度に『ブルシット・ジョブ』を取り上げたデヴィッド・グレーバーだが、本書も刊行以来賞賛の嵐らしい。ここ数年来、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』、ジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』など、いわゆるビッグ・ヒストリーが大流行だが、これらポップ人類史を全面的に批判し、否定し去ろうとする本なので、「人類史を根本からくつがえす」という副題は当を得ている。・・・

ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』@『労働新聞』書評

91dczn8qspl_sl1500_277x400_20241217085701今年の正月、NHKの『欲望の資本主義2024「ニッポンのカイシャと生産性の謎」』に出演した。ジョエル・コトキンというアメリカの学者が「新しい封建制がやってくる」と論じていたのが印象に残った。今年2月5日号で取り上げたマイケル・リンドの『新しい階級闘争』をさらに増幅した感じだったからだ。

 読んでみてその印象はますます強化された。もはや資本主義創生期の階級闘争などという生易しいものではない。中世の貴族階級に相当するハイテク企業の大金持ち寡頭支配層(テック・オリガルヒ)と、中世の聖職者階級に相当する「有識者」層が、第1・第2身分として支配する社会で、中世のヨーマンに相当する中産階級と、中世の農奴に相当する労働者階級とが屈従を強いられているというのだから。・・・

ヤン・ルカセン『仕事と人間』@『労働新聞』書評

51ay6jvvrl_20241217085801労働史といえば、産業革命以来のせいぜい二〇〇年余りを対象とするものがほとんどだが、本書は副題の通り「七〇万年のグローバル労働史」を上下巻九〇〇頁にわたって描き出す大著だ。ハラリやダイヤモンド、ピンカーらのグローバルヒストリーの労働版といったところだが、改めて人類の歴史は多種多様な労働の歴史だったと痛感する。・・・

81enrd5kosl_sy425__20241217085801上下巻を跨ぐ一五〇〇年から一八〇〇年あたりで、東アジアの労働集約型発展経路(勤勉革命)から西欧の資本集約的発展経路(産業革命)への転換が描かれ、ようやくこのあたりから普通の労働史の対象領域に入ってくる。とはいえその視野はあくまでも広い。一八〇〇年以降の二〇〇年間の労働史についても、産業化に伴う自由賃金労働の増加と同時に、非自由労働(奴隷)の衰退、自営労働や家庭内労働の減少がすべて同時に論じられていく。労働時間の短縮、労働組合運動、福祉国家といった近代労働史のおなじみのテーマが出てくるのは、下巻の終わり近く、第七部の第二五章から第二七章になってからだ。・・

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』@『労働新聞』書評

611b1jbvvjl245x400_20241217090101 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルに、「読書史と労働史でその理由がわかる」というオビの文句を加えれば、これはもうドンピシャリ、『労働新聞』の書評コラムに取り上げないという選択肢はあり得まい。いや実は、著者の三宅香帆さんは一昨年、この書評コラムで毎月面白い本を紹介していた当人でもある(選書のまとめ…上半期分下半期分)。

和田泰明『ルポ年金官僚』書評

9784492224168_1_4277x400_20241217090201 著者は週刊ポストや週刊文春の記者として年金記事を書きまくり、20年前の国民年金保険料未納を巡る騒動のときには、小泉首相の未納情報を関係者から入手して記事にした当人でもある。そういう人がこのタイトルで書いた本とくれば、例によって扇情的な年金ポルノ本の類いだろうと思う人も多いだろう。ところがさにあらず、週刊誌的な筆致で書かれた本書は、誠に真っ当な戦後日本年金史でもあるのだ。・・・

渡辺将人『台湾のデモクラシー』

71zav6bwdl252x400_20241217090301 世界の200近い国には、自由で民主的な国もあれば、専制独裁的な国もある。イギリスのエコノミスト誌が毎年発表している民主主義指数では、第1位のノルウェーから始まって各国の格付けを行っているが、当然のことながら上位には欧米系諸国、下位にはアジア、アフリカ諸国が並ぶ。日本の周辺には、第165位の北朝鮮、第148位の中華人民共和国など、独裁国家が目白押しだ。しかしかなり上位に位置する国もある。韓国は第22位、日本は第16位で、イギリス(第18位)などと肩を並べる。そうか、アジアで一番民主的な日本でも第16位か、と勝手に思ってはいけない。実は、アジアで最も民主的な国は第10位の台湾なのである。・・・

尾脇秀和『女の氏名誕生』@『労働新聞』書評

61buevqbyl_sl1200_245x400_20241217090401 過去数十年にわたって夫婦別姓を巡ってさまざまな議論や訴訟が繰り返されている。今年6月には経団連が、選択的夫婦別姓の導入を要望して注目された。政治問題になってしまったこの問題について、しかしながら熱っぽく論じている人々の多くは、そもそも日本において女性の名前というものがいかなるものであったのかについて、きちんとした知識を有しているのだろうか。・・・

足立啓二『専制国家史論』

4480098436_20241217090501 習近平政権の専制的傾向がますます強まり、中国の民主化の希望が遠のくにつれ、この専制的性質が中国という国家にとって本質的なものなのではないかという問題意識が世界的に高まってきている。中国史の専門家がこの課題に挑戦し、壮大な世界史像を練り上げたのが本書だ。ただし原著は鄧小平の死後間もない1998年刊行であり、その頃はまだ改革開放政策の真っ最中であった。文庫本化されたのが2018年であり、習近平が国家主席の任期制限を撤廃して終身独裁への道を開いた年である。それから7年経ち、今や明清朝の皇帝独裁にも比すべきワンマン体制は完成しつつあるように見える。そういう時期であるからこそ、本書は改めて読み返されるべきであろう。・・・

来年も引き続き月1回のペースで『労働新聞』で書評を書いていきますのでよろしくお願いします。

2024年12月16日 (月)

國武英生・沼田雅之・山川和義・山下昇編著『日本的雇用を問い直す』

09410 國武英生・沼田雅之・山川和義・山下昇編著『日本的雇用を問い直す これからの労働法をどう考えるか』(日本評論社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/9410.html

年功制や転勤命令などの「日本的雇用」は、これからも望ましい形であり続けるのか?定年、勤務場所、ストライキ…。多くの人が抱く「素朴な疑問」に労働法研究者が応える!人口減少社会における「これからの労働法」を考えるための論点を網羅した、働くすべての人のための1冊。

本書は、『法律時報』に1年半にわたって連載されたオムニバス論文をまとめたもので、どれも日本型雇用システムと格闘しながら日本の労働法を考えようとしており、大変面白論文が並んでいます。

はじめに(國武英生)

第1部 雇用慣行を問い直す 
扉解説(山川和義)
第1章 どうして就業規則にしたがわなければならないのかーー就業規則法理について問い直す(山川和義)
第2章 年功型賃金と定年の合理性ーー日本的年功制度の法的意義を問い直す(柳澤 武)
第3章 労働法が保護の対象としているのは「会社員」だけなのか?--労働法の適用範囲のあり方を問い直す(細川 良)
第4章 解雇規制は厳しすぎるかーー解雇規制の在り方を問い直す(國武英生)

第2部 労働条件を問い直す
扉解説(山下 昇)
第1章 合意による労働契約内容決定の行方ーー「成立」と「内容」の結びつきを問い直す(新屋敷恵美子)
第2章 これからの働き方と労働時間規制ーー裁量労働制を問い直す(植村 新)
第3章 賞与と労基法ーー賞与の意味を問い直す(山下 昇)
第4章 退職金は永年勤続のご褒美かーー退職金の賃金性と不支給・減額措置の有効性を問い直す(淺野高宏)

第3部 業務命令を問い直す
扉解説(國武英生)
第1章 転勤命令を受けた夫とその妻のことーージェンダー平等と日本型福祉社会を問い直す(緒方桂子)
第2章 在宅勤務できるのに出社しなくてはならないのかーー勤務場所の決定・変更の法理を問い直す(岡本舞子)
第3章 職場におけるワクチン接種強制は可能かーー職場における労働者の健康保護のあり方を問い直す(後藤 究)

第4部 雇用平等を問い直す
扉解説(沼田雅之)
第1章 均衡・均等処遇規定で、正規・非正規間の労働条件格差は縮小するのか?--日本的処遇のあり方について問い直す(沼田雅之)
第2章 私傷病時の短時間・有期雇用労働者の生活保障は、如何なる主体が担うべきか?--私傷病休暇・休職時の雇用保障・所得保障のあり方を問い直す(北岡大介)
第3章 ガラスの天井を割るのは誰か?--女性の管理職登用の視点からコース制を問い直す(所 浩代)
第4章 公務員は民間労働者よりも優遇されている?--非正規問題から公務員に関する法制度を問い直す(早津裕貴)

第5部 労働組合を問い直す
扉解説(國武英生)
第1章 「組合に入る意味はあるか」という労働者の問いが投げかける意味とはーー労働組合の組織の在り方を問い直す(小山敬晴)
第2章 ストライキ(団体行動)は現代の社会で何の意味があるのかーー団体行動権を問い直す(藤木貴史)

第1部第2章の柳沢さんの「年功型賃金と定年の合理性ーー日本的年功制度の法的意義を問い直す」では、冒頭に妖精さんが登場します。妖精さん?そう、朝日新聞で浜田陽太郎記者が名づけたあの妖精さんです。それと、名古屋自動車学校事件の定年後再雇用で賃金が激減した話を並べて、日本的年功制度についていろいろと考えていきます。

 

 

 

 

 

2024年12月15日 (日)

朝日新聞デジタル記事「勝率3%からの逆転 「勝訴したよ」家政婦だった妻へ9年越しの報告」に登場しました

本日、朝日新聞デジタル版記事「勝率3%からの逆転 「勝訴したよ」家政婦だった妻へ9年越しの報告」(杜宇萱記者)の最後の方に、わたくしのコメントが載っております。

勝率3%からの逆転 「勝訴したよ」家政婦だった妻へ9年越しの報告

Iii  「勝訴したよ。安心して」
 10月下旬、山形県遊佐町の海岸で、東京都の男性(77)は心の中でつぶやきながら、花束を海へ投げ入れた。20代の頃、何度もデートで訪れ、9年前に妻の遺骨を散骨した海。亡き妻への裁判勝訴の報告だった。・・・・

記事はこの事件の詳細を追っていきますが、最後のところでわたくしのコメントが載っています。

・・・『家政婦の歴史』を著した労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎・労働政策研究所長は、紹介所が事実上の雇用者であるにもかかわらず、使用者責任が一般家庭に転嫁されていることを問題視する。家政婦には特別加入の形で労災保険が適用される仕組みはあるものの、保険料を一般家庭と家政婦本人が負担するため、加入率が34.3%にとどまっている(23年)。「70年以上続けてきた紹介所制度は現実に合わない。家政婦の派遣事業所として再編し、使用者責任を明確に負うべきだ」と指摘している。

51sgqlf3yol_sx310_bo1204203200__20241215135401 もちろん、わたくしは歴史の話もいっぱいしたのですが、この事件に関する限り、こういうコメントになりました。

 

 

 

 

 

2024年12月14日 (土)

昭和感覚の減税主義者たち(再掲)

減税3兄弟が暴れ回っている今日、もう3年半前のエントリですが、これがますます身に染みてきますな。「手取り」しか目に入らない昭和感覚の横溢した専業主婦付きのおじさん族ばかりが猛威を振るう令和の悲劇というべきか。

昭和感覚の減税主義者たち

くろかわしげるさん曰く:

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/1406246839700000771

1ojde3gp_400x400_20210620123401 労働界がお父さんが持って帰る可処分所得のことしか考えない時代は減税ばかり要求してきたけど、社会政策がないと女性の就労は不可能とわかって減税を言わなくなっている。
そのことがわからないで、いまだに高度成長期のままの思考の人が多すぎる。

も少し敷衍すると、福祉は全部生活給に由来する年功賃金で賄えてきたし、賄うのが当たり前だという昭和の感覚にどっぷり漬かったまま、この令和の時代になっても依然として税金が自分の福祉の原資であるなんて感覚がこれっぽっちもないまま、ひたすら自分の女房子供の生活費から教育費から住宅費からすべて賄うはずの給料から他人の福祉のための税金を取られることに絶対的拒否反応ばかりを叫び上げる人々が政界でも評論家でもやたらにでかい顔をしていることの矛盾でしょう。野末陳平が減税だけを一枚看板にしてサラリーマンの党とか言ってた半世紀前の時代から何一つ進化していない現代の恐竜たち。

そういう超絶的時代遅れの連中から比べれば、組合員に女性がかなり入ってきて否応なく時代に適応せざるを得なくなってきた労働組合の方がまだまだ百万倍まともです。

今年の人気エントリランキング

今年もそろそろ終わりに近づき、ちょっと気が早いですが、毎年恒例の人気エントリランキングを発表します。ただし、昨年まではPV数でランキングしていましたが、中には入口回数が極めて少ないのになぜかPV数だけ異様に多いのもあったりして、そういうノイズを排除するため、入口回数でランキングします。

まず第1位は、11月7日の「低学歴者の逆襲(又はピケティ再訪)」で、7,178回でした。これはタイトルからも分かるように、3年前のエントリの再掲版であって、ちっとも新しくないのですが、トランプ再選という事態を前に、改めて読み返したくなった人も多かったのかもしれません。

低学歴者の逆襲(又はピケティ再訪)

今回のアメリカ大統領選結果を見て、改めてピケティが語っていた「どの国も右派は低学歴、左派は高学歴に移行してしまいました」という呪いの言葉の意味深さを噛み締めている人も多いのではないでしょうか。なおこの論文の趣旨はその後大著『資本とイデオロギー』に盛り込まれています。

以下、3年前のエントリの再掲です。

バラモン左翼と商売右翼への70年

Images_20210530130701 トマ・ピケティの「バラモン左翼」は、私が紹介したころはあまり人口に膾炙していませんでしたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html(バラモン左翼@トマ・ピケティ)

21世紀の資本で日本でも売れっ子になったトマ・ピケティのひと月ほど前の論文のタイトルが「Brahmin Left vs Merchant Right」。「バラモン左翼対商人右翼」ということですが、この「バラモン左翼」というセリフがとても気に入りました。・・・ 

その後日本でもやたらにバズるようになり、その手の本も結構並んでいます。この言葉、対句になる「商売右翼」とセットなんですが、こちらはあんまりバズってないようです。

そのピケティが、今月3人の共著という形で、「Brahmin Left versus Merchant Right:Changing Political Cleavages in 21 Western Democracies, 1948-2020」という論文を公表しています。

https://wid.world/document/brahmin-left-versus-merchant-right-changing-political-cleavages-in-21-western-democracies-1948-2020-world-inequality-lab-wp-2021-15/

これ戦後70年間にわたるバラモン左翼の形成史を追ったものですが、事態を何よりも雄弁に物語ってくれるのが、表A10から表A16までの7枚のグラフです。

縦軸に所得をとり(上の方が高所得)、横軸に学歴をとると(右のほうが高学歴)、1950年代には右派政党は高学歴で高所得、左派政党は低学歴で低所得のところに集まっていました。

A10

ところがそれから10年間ごとにみていくと、あれ不思議、右派政党はだんだん左側の低学歴のほうに、左派政党はだんだん右側の高学歴のほうにシフトしていき、

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かくして、直近の2010年代には若干の例外を除き、どの国も右派は低学歴、左派は高学歴に移行してしまいました。

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かくして、ピケティ言うところのバラモン左翼対商売右翼という70年前とはがらりと変わった政治イデオロギーの舞台装置が出来上がったわけです。

 

続く第2位は、「地方公務員は労働基準法第39条第7項が適用除外となっている理由」で4,447回でした。こちらは正直言って労働法の超絶トリビアな話題であって、一般向けするようなトピックであるとは全然思えないのですが、なぜか多くの人が読みに来たようです。

地方公務員は労働基準法第39条第7項が適用除外となっている理由

F9fmcqd_400x400 焦げすーもさんが、トリビアのように見えてなかなかディープな問題提起をしています。

おっちゃん「地方公務員の1/4くらいが年休5日/年取れてないという調査知っとるかい?」 ワイ「知らんけど、実感とズレるなあ。」 おっちゃん「地方公務員の大部分が労基署の調査対象外やけど、そもそも、年休取得が義務化されてない。」 ワイ「嘘やん、地方公務員法第58条第3項・・・ほんまや。」

地方公務員法第58条第3項(他の法律の適用除外等) “労働基準法第二条、(中略)第三十九条第六項から第八項まで、(中略) の規定並びにこれらの規定に基づく命令の規定は、職員に関して適用しない。” 改正労基法の年次有休休暇の取得義務の箇所がすっぽりと適用除外に。 どうしてこうなった。。

おっちゃんのこの問いは、なぜ地方公務員の労働基準が守られないかという根源的なものであった。 回答としては、 1.民間と比較して、監督機関が機能していない 2.罰則を背景としていない(※)ため、管理者が法令遵守する動機づけが弱い(※現業等を除く) 3.人事管理部署が素人集団 といったところか。

あとは、 同規模の民間企業と比較して、管理職のマネジメント意識・能力が低いこと。(エビデンスはない

そもそも地方公務員に労働基準法が原則的には適用されているにもかかわらず、国家公務員と同じように適用除外だと勝手に思い込んでいる人が結構多かったりするんですが、それはまあおいといて。

ていうか、そもそも労働基準法が1947年に制定された時に、ちゃんとこういう規定が設けられており、これは今日に至るまで存在し続けているんですが、公法私法二元論という実定法上に根拠のない思い込みの法理論によって、脳内で勝手に適用除外してしまっている人のなんと多いことか。

(国及び公共団体についての適用)
第百十二条 この法律及びこの法律に基いて発する命令は、国、都道府県、市町村その他これに準ずべきものについても適用あるものとする。

いずれにしても、地方公務員法で労働基準法の一部の規定については適用除外になっているのですが、それは公法私法二元論などとは全く関係がなく、単純に公務員法上は過半数組合又は過半数代表者がないために、それに引っかけた規定が適用除外されているということなんですね。そもそも、労働基準法第2条が先頭に立って適用除外されているのは、民間企業では労使対等かも知らんが、公務員に労使対等なんてないぞ、使用者は国民様や住民様であるぞ、というイデオロギーから来ているのですね。

で、労働基準法が制定された時には、第39条の年次有給休暇の規定はフルに適用されていたのですが、1987年改正で労使協定による計画付与(現在の第6項)が設けられた時に、労使協定というのは地方公務員にはあり得ないからという理由で、この項が適用除外にされたのです。労使協定による変形労働時間制やフレックスタイムや裁量労働制なんかと同じ扱いです。

さて、そういう目で働き方改革で導入された第7項を見ると、どこにも過半数組合又は過半数代表者とか労使協定とかという文字は出てきません。

 使用者は、第一項から第三項までの規定による有給休暇(これらの規定により使用者が与えなければならない有給休暇の日数が十労働日以上である労働者に係るものに限る。以下この項及び次項において同じ。)の日数のうち五日については、基準日(継続勤務した期間を六箇月経過日から一年ごとに区分した各期間(最後に一年未満の期間を生じたときは、当該期間)の初日をいう。以下この項において同じ。)から一年以内の期間に、労働者ごとにその時季を定めることにより与えなければならない。ただし、第一項から第三項までの規定による有給休暇を当該有給休暇に係る基準日より前の日から与えることとしたときは、厚生労働省令で定めるところにより、労働者ごとにその時季を定めることにより与えなければならない。

どこをどうみても、使用者に年休を取得させる義務を課しているだけで、これを適用除外する理由はなさそうに見えます。

ところが、この2018年改正時の地方公務員法第58条第3項の改正規定を見ると、それまで労働基準法第39条第6項だけが適用除外であったのが、同条第6項から第8項までが適用除外となっているのですね。いったいこの第8項とは何かというと、

 前項の規定にかかわらず、第五項又は第六項の規定により第一項から第三項までの規定による有給休暇を与えた場合においては、当該与えた有給休暇の日数(当該日数が五日を超える場合には、五日とする。)分については、時季を定めることにより与えることを要しない。

第5項は時季変更権ですが、第6項がまさに1987年改正で導入された労使協定による計画付与で、その場合にはこの第7項が排除されるというわけです。つまり、第7条の適用されるか否かは、第6条によって影響を受けるのであり、それは過半数組合や過半数代表者が関わってくるので、その論理的帰結として、第7条の規定も丸ごと地方公務員には適用除外とした、というまあそういう説明になるわけです。

とはいえ、そういう手続規定の輻輳を理由として、れっきとした実体法的規定を適用除外してしまっていいのか、というのは、それ自体大きな問題であり得るように思います。

本来なら立法の府であるはずの国会で、選良であるはずの国会議員の方々が口々に疑問を呈してもよかったはずだと思いますが、残念ながら国会審議の圧倒的大部分は、裁量労働制のデータが間違っていたことの非難と、高度プロフェッショナル制度というのが如何に危険きわまりないものであるかの糾弾に終始し、誰もこういう問題を提起することはありませんでした。まあ、それも繰り返される光景ではありますが。

第3位は「結社/経営体としての日本共産党」で、2,925回でした。これは労働関係でも有名な神谷貴行(紙屋高雪)さんが、日本共産党を除籍・解雇されたのに触発されて書いたものでした。

結社/経営体としての日本共産党

Jigazou_400x400 例の働き方改革の時に「ごはん論法」という名文句を案出し、左派関係者の間でミームとして一気に広がったことで我々労働関係者の間でも記憶されている神谷貴行(紙屋高雪)さんが、日本共産党を除籍・解雇されたとブログで書かれています。

日本共産党を除籍・解雇されました 

神谷さんを除籍・解雇した日本共産党の言い分が正しいのか、それとも神谷さんの言い分が正しいのか、といったことについてはここでは一切論じるつもりはありません。気分的には神谷さんに同情的ではありますが、ここで取り上げるのはそういうことではなく、「除籍・解雇」と異なる二つの概念が中ぽつでつなげて書かれていることに興味を惹かれたからです。

神谷さん自身はこう書かれています。

私・神谷貴行は、2024年8月6日付で日本共産党から除籍されました。
また、本日(2024年8月16日)付で日本共産党福岡県委員会から解雇されました。
これらについてはいずれも到底承服できないものです。

これを見る限り、政治結社たる日本共産党の一員としての党員籍を「除籍」されたことと、一個の経営体としてしんぶん赤旗等を発行する等の事業を営む使用者たる日本共産党から一方的にその雇用関係を解除(「解雇」)されたこととは、日付も異なり、別々の事柄であるようです。

前者が基本的にはよほどのことがない限り外部からの介入を認めにくい私的自治の世界に属するのに対して、後者はまさに使用者の一方的行為を外部から規制することが原則であるべき労働法の世界であり、とりわけ解雇に対しては解雇権濫用法理に従って、使用者たる日本共産党の言い分が許されるものであるかどうか厳格に審査さるべきものということになります。

とはいえ、経営体としての日本共産党は政治結社としての日本共産党と密接不可分であるはずで、結社の一員としてふさわしくないと当該結社(の意思決定者)が判断した以上、そのような者を労働者として使用することができないというのは十分立派な理屈であるという議論もありうるかもしれません。

112050118_20240816204801 つか、「社長の俺様に逆らうとはケシカラン。貴様なんかクビだぁ!」というたぐいの貴様ぁ解雇は、拙著『日本の雇用終了』にその実例が山のように溢れているように、日本の中小零細企業では結構日常茶飯事ですので、経営体たる日本共産党も、使用者としてはそうした貴様ぁ社長とよく似た性格であったということかもしれません。

ただ、下記裁判例(日本共産党愛知県委員会事件)に見られるように、日本共産党側は、そもそも神谷さんは雇用される労働者ではないと主張してくると考えられ、その意味ではこれは今流行りの「労働者性」をめぐる一事例ともいえることになります。

人さまの企業に対しては「労働者を守れ!」と叫ぶ一方で、自分のところで給料を払って働かせている人に対しては「労働者じゃないぞ!」と主張するというなかなか興味深い光景がみられることになりそうです。

なんにせよ、

今後のことは弁護士と相談して決めたいと思っていますが、もし訴訟になったらぜひみなさんに応援していただければ幸いです。

とのことなので、労働法研究者としてもなかなかに興味深いケースになっていく可能性があり、今後の動きについても注視していきたいと思います。

(参考)

 日本共産党愛知県委員会事件(名古屋地裁昭和53年11月20日決定判例時報927号242頁

・・・憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えていないが、憲法の定める議会制民主主義は、政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は、議会制民主主義を支える不可欠な要素であると共に、国民の政治意思を形成する最も有力な媒体である。
 この見地からすれば、政治結社である政党は、憲法二一条で保障されている結社の自由の保障を高度に与えられて然るべき団体ということができる。
 そして、同条にいう結社の自由の保障とは、政党の場合、憲法一九条所定の思想信条の自由と結びついて、政党の結成ないし政党に対する加入、脱退の自由を保障すると共に、政党が自らの組織運営について自治の権利を有することを保障したものと解される。そして、政党の自由な組織・運営に公権力の介入が認められるのは、政党資金規正法、公職選挙法、破壊活動防止法など法律に特別の規定がある場合に限定されているのであつて、政党の前記のような結社の重要性に着目すると、政党の自律権はできるだけ尊重すべきであり、党員に対し政党がした処分の当否については当該党員としてではなく、一般市民として有する権利(以下「市民的権利」という)を侵害していると認められない限りは、司法審査の対象とはならないと解するのが相当である。
 これを本件についてみるに、本件各処分は、いずれも政党内部の機関が規約上定められた権限に基づき党員に対し行なつたものであることは明らかであり、右各処分のうち、本件除名処分及び点在党員措置決定(申請人主張の継続決定は、疎明資料によれば、右点在党員措置決定の書面による正式通知を申請人が継続決定と誤解したもので、継続決定はなされていないことが認められる)は、その処分の性質自体に照らし党員の市民的権利を侵害する余地はないから、政党の有する自律権の範囲内に属しこれら処分の当否は司法審査の対象とならないと解するのが相当である。・・・

以上に認定した事実によれば、県勤務員は、自発的献身的に党活動に専従する政党の常任活動家であり、県常任委員の指揮命令を受けるというよりは、県常任委員を補佐し、これに協力して執行機関である県常任委員会を構成し、全県党の指導活動並びに一般党務に従事する者であり、勤務場所、勤務時間の拘束はなく、欠勤控除もないかわりに、時間外割増賃金、有給休暇の定めもないというのであるから、以上のような県勤務員の勤務の実態に即して考えると、県勤務員に対する給与は、党務に専従するための活動費であり、生活補償費の意味合も含まれてはいるが、労務の提供と対価関係にあるとは認められず、従属労働性の度合は稀薄であり、県勤務員と被申請人県委員会との法律関係は、労基法の適用を受ける雇用契約関係にあると目することは困難であって、寧ろ、県常任委員と同様に委任契約ないしこれに類似する法律関係と認めるのが相当である。
 もつとも、県勤務員は、先に認定したとおり、厚生年金、健康保険の被保険者とされ、給与中から右各保険料を控除されているが、厚生年金保険法、健康保険法に定める保険給付は、いずれも、労基法、労災保険法に定める災害補償等とその対象を異にし、専ら労働者及びその被扶養者又は遺族の生活の安定を図ることを目的としているのであつて、このような保険制度の有する社会的意義を考えると、この制度の利益を広範囲の労働従事者に及ぼすことが法の趣旨、目的に沿う所以である。従つて被保険者の資格要件である『事業所に使用される者(健康保険法一三条、一四条、厚生年金保険法九条、一〇条)』の範囲は、必ずしも労基法の適用対象である従属労働関係のある者に限定されず、委任ないしこれに類似の契約であつても、有償で継続的に稼働する者、例えば法人の代表者等もこれに包含されると解されるから,県勤務員もこれら保険の被保険者の資格要件を備えているものというべく、県勤務員がこれら保険の被保険者とされている事実は、県勤務員が労基法の適用を受ける雇用契約関係にないとの前記判断をなす妨げとはならないというべきである。
(三)然しながら、県勤務員は、給与名下に金員が支給され、有償である点において市民的権利につらなる側面のあることは否定できないところであるから、その限りにおいて政党の自律権は制約を受けるものというべく、本件解任処分の当否は、司法審査の対象となると解するのが相当である。これに反する被申請人らの主張は採用できない。 
六 そこで、本件解任処分の効力について判断するに、本件解任処分は、法的には委任契約の解除権の行使にほかならないところ、本件のような有償委任契約の解除については、委任者が任意にこれを行使することはできず、相当の事由を要すると解せられる。
 ところで、本件解任処分につき労基法の適用がないことは先に述べたとおりであるところ、申請人は、労基法一九条違反のみを無効原因として主張しているのであるから、右主張はもとより採用できず、他に無効原因の存することについては、何らの主張がないのみならず、申請人は、審尋期日に、解任するに足りる事由の存することについては争わない旨陳述しているから、本件解任処分は有効と認めるの外はなく、県勤務員たる地位の保全等を求める仮処分申請は、その余の点につき判断するまでもなく被保全権利の疎明を欠くことになる。 

なお、裁判所が受け入れた日本共産党側の主張は以下の通り。

 ・・・日本共産党は科学的社会主義の理論と運動の正当性を確信し、この理論のわが国での創造的適用、発展である党の綱領、規約を承認し、綱領のさし示す日本の社会主義的未来の実現をめざして奮闘することを決意した党員が、自由意志にもとづいて結集している政治結社である。共産主義社会の実現という目標で結ばれるこの組織体は、政治理念の共通性を基礎とする、自主的、自覚的結集を本質としている。
 党の構成員相互は、真に自由、平等な人格を基盤とする同志的な結合関係にあり、支配と被支配、搾取と被搾取、雇用と被雇用といつた、根本的に利害の相対立する関係は存在しない。
 党の綱領と規約を承認し、党の一定の組織に加わつて活動し、規定の党費をおさめるものは党員となることができる。党員は革命の事業に献身することを決意して党の戦列の一員となる。党活動に加わり、党生活を営むことは、党員のもつとも基本的な権利であると同時に義務である。(規約二条(二)、三条(二))。
 自発的意志にもとづいて党に加わつた党員は、党の政策と決定を積極的に実行し、党からあたえられた任務をすすんで行う、これはすべての党員に課せられた責務である。党員の部署と任務は党内で民主的に決定される。情勢、党の果たすべき課題、党員の資質、能力、条件等の諸要素を総合して、党員の力が適切に発揮され、党全体が統一し団結してたたかうにふさわしく決定される。いつたん決定された任務は必ず実行されなければならない。
 右にみたように党員の任務と活動は彼が党員であることそれ自体に由来する。自発的に結集された自治的組織である党内における党員の任務とその遂行は、彼が自覚的規律を承認した党の構成員であることの結果に外ならない。党員に課せられた任務の遂行は、したがつて党の政策と決定の具体的実践であり、党員の基本的権利、業務の実現である。彼が党務に献身するのは、何ものかに強いられるものでもなければ、命令されるからでもない。真の自発的意志にもとづくものである。これは党員のすべてに、例外なくいえることであつて、機関の構成員であるか否かによつて何らの差異もない。上級と下級、組織と党員の間にある指導、被指導の関係は党存立のよつてたつ組織の原則から必然である。党規律を同志的結合、自覚的結集の準則として承認する党員にとつて、指導、被指導の関係が支配、従属の関係として観念されることはない。
2 党と党員との間の右のような関係は党専従ないし県勤務員についても基本的に同様である。
 県勤務員は同一の政治的理念、信条に基づき自覚的に結集している党員の中から選出され、県党の指導機関たる被申請人を構成するものである。指導機関たる県委員会は、県党会議において選出されることになつており、このとき選出されるのは県委員、准県委員(県役員と呼ばれる)であるが(規約三九条)、県勤務員は県役員とともに指導機関の構成員としてそれぞれの部署に関して全県党の指導にあたるのである。
 申請人は指導機関の役員をへて昭和四四年(一九六九年)県勤務員となり、昭和四五年(一九七〇年)以降被申請人選対部の部員として総選挙をはじめ各種選挙の指導にあたつてきた。一定量の機械的労務を被申請人にたいし、その指揮命令に基づき提供するがごときものとはおよそ性質を異にする高度な政治指導の遂行であつた。
 以上の点において申請人は労基法九条の労働者に当たらず、被申請人は同法一〇条の使用者に当たるものでないことは明らかである。
3 県勤務員は専従の県役員と同様県党組織たる被申請人から「給与」の支払いを受けている。しかしこれは使用者の指導命令に基づく労働力売買ないし一定量の労働に対する対価などとは性格がまつたく異なるものである。
4 労基法上の労働者とは「事業所または事務所に使用される者で賃金を支払われる者」である。(同法九条)
 ここでいう「使用される」とは労働者が使用者との関係において、従属的労働関係にあることを意味するものである。従属的労働関係とは事業主の指揮命令をうけ、その監督のもとに労働を提供し、その対価として賃金をうる関係である。このように従属的労働とこれの対価としての賃金が労働者性を決定づける。
 党任務とその遂行は、社会主義を通じて共産主義社会を実現するという、党の目的に向つての行為である。大衆的前衛党である党は、数十万人の党員とすべての党組織の一致団結した共同行動によつてその政治理念を具現化しようと努める。党員の党活動への献身は日本の労働者階級と人民を搾取と収奪から根本的に解放するという崇高な共産主義者の信念と自覚からであつて、活動に対する報酬や対価の取得を目的とするものではないし、いわんや彼を支配する何者かに労働力を売渡した結果ではないことは明白である。党の任務は誇りある党員の確信と自覚に基づき、自発的になされるものであつて、活動の過程において支配被支配の力関係が及ぼされることもありえないから従属的労働をもつて論ずる余地はありえない。
 申請人は、申請人と被申請人の関係は、指導・被指導の党内関係のほかに、指導命令を中核とする使用従属関係があると主張するが、このような「二面論」はこれまで詳述した党の目的と性格、党の組織原則からいつて、到底是認しえない暴論である。党組織と党員、上級と下級の党内関係を、その本質的内容から意図的、恣意的に切離したうえで、あたかも従属労働関係が存在するように描き出す詭弁である。
 日本共産党の専従者は、すべてその生命、生活の全てを結社の目的実現にむかつて捧げてゆくことを当然の任務としている。この専従者に対する「給与」は、専従役員や専従勤務員が日常不断に、かつ専ら党活動に専念し、他に生計のための収入を得ることが不可能であるから、党任務の遂行を物質的に保障するために支給される活動費である。
 それは申請人が主張するように、被申請人に「採用」された結果として支給されたものではなく、党役員であれ、非役員勤務員であれ、専従党員に対して支給されるものなのである。ちなみに「専従」とは党の任務遂行の一つの党内配置であつて企業における「採用」とは根本的に異るものである。
 申請人の主張はこれをつきつめれば、党員はすべてその任務を遂行するについて、対価を請求できることに帰着するであろう。党活動を従属労働とみなす立場からは、その労働が専従党員のそれであるか否かは関係のないことだからである。しかし、党活動に対する報酬や対価は、党の目的と性格から容認されないのであつて、圧倒的多数を占める非専従一般党員がこのような対価を得ることもない。
 党内にあつてはいかなる使用従属関係も存在しえない。従つて党は使用者としての事業主ではないし、申請人は労働者ではない。党は労基法の適用をうけないのであつて、同法の定める賃金、労働時間、休憩、休日、有給休暇、時間外、休日労働、就業規則等々の諸規定は適用されない。一九条の解雇制限を根拠とする本申請が失当であることはあまりにも明らかである。
 党は「自発的意志にもとづき、自覚的規律でむすばれた共産主義者の統一された、たたかう組織である」(規約前文)。党内関係においては労使関係をもつて論ずることの可能な法律関係は一切存在しない。
 従つて、本件解任処分が労基法違反として無効とされる理由がない。

いいなあ、こういう理屈で労働法の適用が排除できるんなら、ブラック企業はみんな政党を名乗ったらよさそうです。「わが社の社員はすべてその生命、生活の全てを会社の目的実現にむかつて捧げてゆくことを当然の任務としている。社内にあつてはいかなる使用従属関係も存在しえない。わが社は労基法の適用をうけない 。わが社は自発的意志にもとづき、自覚的規律でむすばれた統一された、たたかう組織である。社内関係においては労使関係をもつて論 ずることの可能な法律関係は一切存在しない 」とね。

第4位は、国民民主党の103万円の壁の話から始まって、例によって3法則氏が社会保険の適用拡大を目の仇にする発言を繰り返しているのを見て、そもそもの筋道を説き聞かせるように書いた「そもそも被用者保険は被用者用なんだが」で、2,691回ですが、もちろん、ものの分からない人はこういうのを読んだりしませんね。

そもそも被用者保険は被用者用なんだが

元々何年も前から段階的に進んできていた被用者保険の拡大の話が、国民民主党の103万円の壁の話となぜか同期連動して106万円の壁がどうとかいう話になり、例によっていつもの3法則氏が法螺貝を吹き鳴らすという事態になっているようですが、もちろん、物事の分かっている人にはちゃんとわかっているように、この問題は、そもそも被用者保険(健康保険と厚生年金)は被用者、すなわち雇われて働いている人のための制度であり、地域保険(国民健康保険と国民年金)は被用者以外、すなわち自営業者やその家族等のための制度であるという制度の根本原則が、様々な経緯や政治的思惑のために捩じ曲げられ、ずれにずれまくってきてしまったことに、その最大の根源があるわけです。

どうかすると、社会保障のかなりの専門家ですら、パートタイマーは昔から適用除外だったと思い込んでいる向きもありますが、それは1980年の3課長内翰という「おてがみ」で導入されたものに過ぎません。それ以前は、健康保険法上にも厚生年金保険法上にも、短時間労働者を適用除外するなどという規定は一切存在せず、実際にも1956年の通達(昭和31年7月10日保文発第5114号)により、日々契約の2カ月契約で勤務時間は4時間のパートタイム制の電話交換手についても適用するという扱いでした。ところが、1980年6月6日付の「おてがみ」により、所定労働時間4分の3以上という基準が示され、それ未満のパートタイマーは適用除外となってのですが、そもそもこの「おてがみ」は発番号もなく、まともな行政文書であるかどうかも怪しげなものです、大体、行政文書であれば、冒頭に「拝啓 時下益々御清祥のこととお慶び申し上げます」なんて書いたりしないでしょう。限りなく私的な「おてがみ」っぽいこのいわゆる3課長内翰によって適用対象から一方的に排除されたパートタイマーを、再び適用対象に入れ込むために、21世紀初頭から既に20年以上にわたって少しずつ対象拡大が行われ、先月から50人超に拡大し、来年の改正でようやく従業員規模要件をなくすところまでいこうというわけですから、この「おてがみ」の後代に及ぼした影響の大きさには嘆息が漏れます。

もちろん、この「おてがみ」が出された背景には日経連の要望があり、昭和のサラリーマンの扶養家族の奥さんがちょいとパートで働いたからといって社会保険なんぞに加入させられて保険料なんぞ払わされたんでは堪らないという、当時の常識に沿ってそそくさと形式も整えずに対処したわけですが、もちろん短時間で働く非正規労働者はみんながみんなサラリーマンの奥様のパートタイマーというわけではないわけで、扶養家族でない非正規労働者もみんな被用者保険から排除されたために、国民という名のつく地域保険に入って、使用者負担分もなく自分で保険料を全額払わなければならないのに、給付は見劣りするという事態になってしまったわけです。

というような話は、21世紀初頭からさんざんぱら議論されつくしたものだと思っていたのですが、残念ながらそういういきさつも何もかも一切無知蒙昧なまま、れっきとした被用者を本来あるべき被用者保険に戻そうということに対して無上の敵意を燃やして攻撃する人々が出てくるんですね。

第5位は、第1位と同じ文脈で、トランプがヴァンスを副大統領候補に選んだという話で、やはりピケティを思い出したエントリです。「バラモン左翼と貧困ビジネス右翼」で1,250回でした。

バラモン左翼と貧困ビジネス右翼

もはやアメリカの英雄と化したかに見えるドナルド・トランプが、副大統領候補に選んだヴァンス上院議員というのは、ラストベルトの虐げられた白人労働者の声をこういう本にした人のようです。

トランプ氏、副大統領候補にバンス上院議員を選出…白人労働者層を描いた回想録がベストセラー

オハイオ州出身のバンス氏は、2016年出版の回想録「ヒルビリー・エレジー」で、製造業が衰退した「ラストベルト」の一つである同州の貧困に苦しむ白人労働者層の姿を描いた。同年大統領選で、トランプ氏を白人労働者が熱狂的に支持した現象が理解できるとして、ベストセラーとなった。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

9784334039790 ニューヨーク生まれの富豪で、貧困や労働者階級と接点がないトランプが、大統領選で庶民の心を掴んだのを不思議に思う人もいる。だが、彼は、プロの市場調査より自分の直感を信じるマーケティングの天才だ。長年にわたるテレビ出演や美人コンテスト運営で、大衆心理のデータを蓄積し、選挙前から活発にやってきたツイッターや予備選のラリーの反応から、「繁栄に取り残された白人労働者の不満と怒り」、そして「政治家への不信感」の大きさを嗅ぎつけたのだ。

トランプを冗談候補としてあざ笑っていた政治のプロたちは、彼が予備選に勝ちそうになってようやく慌てた。都市部のインテリとしか付き合いがない彼らには、地方の白人労働者の怒りや不信感が見えていなかったからだ。そんな彼らが読み始めたのが、本書『ヒルビリー・エレジー(田舎者の哀歌)』だ。(解説より)

ポリティカリーコレクトでアイデンティティポリティクスでジェンダーに”のみ”センシティブで文化的に”だけ”マルクス主義的な「ウォーク」ども、ピケティのいう「バラモン左翼」に満ち満ちた民主党の大統領が、UAWのストライキに飛び入り参加して、組合のピケラインに加わった初めての大統領だと自慢してみても、そんなんじゃだまされねえぞ、粗野な田舎者の労働者の怒りを知るがいい、というメッセージを届けるのには一番ピッタリの人材だというわけでしょう。

その巧みさは、これぞ億万長者のトランプが貧しい労働者の味方面をする貧困ビジネスの真骨頂というべきでしょうか。(本来違う意味ですが)ピケティのいう商売右翼と悪魔合体させて「貧困ビジネス右翼」と呼びたい衝動に駆られます。

(追記)

ちなみにトランプが大統領に当選した2016年末にはこんな記事もありました。

明日のメシを満足に食べられる連中


朝日新聞の「Globe」が、「トランプがきた」の特集。

http://globe.asahi.com/feature/2016113000011.html

「中流が溶けていく」など、アメリカ社会の分析はだいたいこの間論じられているところに沿っていますが、興味深いのはあえて橋下徹前大阪市長にインタビューしているところ。

http://globe.asahi.com/feature/article/2016113000007.html?page=3

「負けたのは知識層だ」というタイトルで、インタビュワの突っ込みに対してむしろそれを上回る突っ込みを入れているやりとりが、いろんなことを考えさせます。

国末 かつて政治家の条件だったポリティカル・コレクトネスを、尊重しない人が出てきている。なぜでしょう。

橋下 有権者が政治家のきれいごとにおかしいと思い始めてきたんですよ。口ばかりで本気で課題解決をしない政治に。米国で言えばワシントン、英国で言えばウェストミンスターの中だけで通用するプロトコル(儀礼)できれいごとを言っても、それは明日のメシを満足に食べられる連中だから。ポピュリズムという言葉で自分たちと異なる価値観の政治を批判するのは間違っています。それは自分の考え以外は間違いだと言っているだけ。民主政治の本質は大衆迎合です。重要なのは、社会の課題を解決する力。エリート・専制政治の方が大衆迎合よりもよほど危険なことは歴史が証明しています。今回の選挙の敗北者は、メディアを含めた知識層ですよ。

ポリティカルコレクトネスを大事に考えている(と少なくとも振る舞っている)インタビュー記者に対して「それは明日のメシを満足に食べられる連中だから」という一言は、かなり痛烈なものでしょう。

そのあとのこのやりとりはさらに刺激的です。

国末 失礼な言い方だが、トランプは成り上がり者。橋下さんも庶民の出身。ポピュリストたちはみんなそうです。だからこそエリートの嫌な面が見えるのでしょうか。

橋下 明日のメシに苦労せず、きれいごとのおしゃべりをして、お互いに立派だ、かっこいい、頭がいいということを見せ合っているのが、過度にポリティカル・コレクトネスを重視する現在の政治家・メディア・知識人の政治エスタブリッシュメントの状況じゃないですか。そんな連中に社会の課題が分かるはずがない。政治なんて、もっとドロドロしたものなんです。僕はポピュリズムというものは課題解決のための手段だと思ってます。メディアの仕事は、下品な発言の言葉尻を批判することではなくて、政治家のメッセージの核を見つけて分析し、有権者にしっかりと情報提供することですよ。

実を言えばこの「明日のメシ」という台詞は、橋下氏だからこそ切実さを感じられる言葉になるので、トランプ氏が言っても空疎な感じがするだろうと思いますが、彼らに投票した人々の気持ちというレベルに降りてみれば、やはり重要なファクターであることは間違いないと思います。

そして、そもそも産業革命以来の200年の歴史を振り返ってみれば、「明日のメシを満足に食べられる連中」の中だけで通用する「プロトコール」に則った「立派」で「かっこいい」「頭がいいということを見せ合っている」政治、貴族やブルジョワジーの(当時の支配イデオロギーからすれば)政治的に正しい政治に対して「ノー」を突きつけてきたのが、社会主義運動や労働運動であったということは、高校世界史の教科書レベルでもちゃんと書いてあるわけです。

彼ら、それまでの上流の政治家たちから見れば眉をひそめるような低俗な要求、喰わせろだの金寄こせだのというドロドロした野卑な政策を掲げる、まさに当時の支配感覚からすれば低劣なポピュリズムが、やがて数にものをいわせて先進国の政治に地歩を獲得していくというのが、とりわけこの100年間の政治の歴史だったのではないか、と振り返ってみると、その人々の流れの果てがトランプやルペンに対してポリティカルコレクトしか対抗軸がなくなってしまったかに見えるこの事態はなんと皮肉なんだろうか、と思わざるを得ません。

(追記)

http://b.hatena.ne.jp/Yoshitada/20161204#bookmark-311098240


Yoshitada                                つーても、トランプは別に「富裕層寄りの政策をしない」とは言ってないし、経済閣僚はウォール街のもろエスタブリッシュメントで固めてるわけで。割と早い段階で貧困層の願望は裏切られるかと思うが。

私もそう思いますよ。つか、これは別にトランプ本人が「明日のメシを満足に食べられる連中」かどころか、億万長者であるかどうかとは別の話で、「明日のメシを満足に食べられる連中」のポリティカルコレクトを憎む人々の感情をうまいこと煽り立てたということに過ぎないので。

アメリカに限らず、かつては貧しい人々の本音を代弁していたはずの社会民主主義ないし米流「リベラル」な勢力が、そうやって鳶に油揚をさらわれるような状況になっているということについて、なにがしでも反省するかどうかということだと思いますが。

ご覧の通り、ウォークな人々に反省の気配はかけらもないようです。

第6位は、これはもう過去10年近くに亘って毎年定番のように登場する「勤勉にサービスしすぎるから生産性が低いのだよ!日本人は」で、1,130回です。

勤勉にサービスしすぎるから生産性が低いのだよ!日本人は

産経の記事ですが、

http://www.sankei.com/politics/news/151218/plt1512180033-n1.html (労働生産性、先進7カ国で最低 茂木友三郎生産性本部会長「勤勉な日本が…残念な結果」)

日本の生産性が低いことは以前から繰り返し本ブログでも取り上げてきていますが、この新聞記事を見てがっくりきたのは、日本生産性本部のトップともあろうお方が、こんな認識であったのか、といういささかの絶望感でありました。


茂木会長は、「日本は勤勉な国で、生産性が高いはずと考えられるが、残念な結果だ」と評価した。

生産性のなんたるかがよくわかっていない市井の人々はよくこの手の間違いをしますが、さすがに日本生産性本部会長がこの言葉はないでしょう、と。


茂木会長は「労働人口が減少する日本が国内総生産(GDP)600兆円を達成させるためにも、生産性の向上が必要で、特にサービス産業の改善が求められる」と語った。

まさに、サービス業の生産性というのが何で決まってくるのかをしっかりと考えてこそ、その「改善」も可能になろうというものです。

あとはもう、以前から本ブログをお読みの皆様方にとっては今更的な話ばかりになりますが、せっかくですので、以前のエントリを引っ張り出して、皆様の復習の用に供しようと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8791.html (なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!)


依然としてサービスの生産性が一部で話題になっているようなので、本ブログでかつて語ったことを・・・、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-107c.html(スマイル0円が諸悪の根源)

日本生産性本部が、毎年恒例の「労働生産性の国際比較2010年版」を公表しています。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013.html

>日本の労働生産性は65,896ドル(755万円/2009年)。1998年以来11年ぶりに前年水準を割り込み、順位もOECD加盟33カ国中第22位と前年から1つ低下。

>製造業の労働生産性は米国水準の70.6%、OECD加盟主要22カ国中第6位と上位を維持。

>サービス産業の労働生産性は、卸小売(米国水準比42.4%)や飲食宿泊(同37.8%)で大きく立ち遅れ。

前から、本ブログで繰り返していることですが、製造業(などの生産工程のある業種)における生産性と、労働者の労務それ自体が直接顧客へのサービスとなるサービス業とでは、生産性を考える筋道が違わなければいけないのに、ついつい製造業的センスでサービス業の生産性を考えるから、

>>お!日本はサービス業の生産性が低いぞ!もっともっと頑張って生産性向上運動をしなくちゃいけない!

という完全に間違った方向に議論が進んでしまうのですね。

製造業のような物的生産性概念がそもそもあり得ない以上、サービス業も含めた生産性概念は価値生産性、つまりいくらでそのサービスが売れたかによって決まるので、日本のサービス業の生産性が低いというのは、つまりサービスそれ自体である労務の値段が低いということであって、製造業的に頑張れば頑張るほど、生産性は下がる一方です。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013/attached.pdf

この詳細版で、どういう国のサービス生産性が高いか、4頁の図3を見て下さい。

1位はルクセンブルク、2位はオランダ、3位はベルギー、4位はデンマーク、5位はフィンランド、6位はドイツ・・・。

わたくしは3位の国に住んで、1位の国と2位の国によく行ってましたから、あえて断言しますが、サービスの「質」は日本と比べて天と地です。いうまでもなく、日本が「天」です。消費者にとっては。

それを裏返すと、消費者天国の日本だから、「スマイル0円」の日本だから、サービスの生産性が異常なまでに低いのです。膨大なサービス労務の投入量に対して、異常なまでに低い価格付けしか社会的にされていないことが、この生産性の低さをもたらしているのです。

ちなみに、世界中どこのマクドナルドのCMでも、日本以外で「スマイル0円」なんてのを見たことはありません。

生産性を上げるには、もっと少ないサービス労務投入量に対して、もっと高額の料金を頂くようにするしかありません。ところが、そういう議論はとても少ないのですね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)

(追記)

ついった上で、こういうコメントが、

http://twitter.com/nikoXco240628/status/17619055213027328

>サービスに「タダ」という意味を勝手に内包した日本人の価値観こそが諸悪の根源。

たしかに、「サービス残業」てのも不思議な言葉ですね。英語で「サービス」とは「労務」そのものですから素直に直訳すれば「労務残業」。はぁ?

どういう経緯で「サービスしまっせ」が「タダにしまっせ」という意味になっていったのか、日本語の歴史として興味深いところですね。

※欄

3法則氏の面目躍如:

http://twitter.com/ikedanob/status/17944582452944896

Zrzsj3tz_400x400>日本の会社の問題は、正社員の人件費が高いことにつきる。サービス業の低生産性もこれが原因。

なるほど、ルクセンブルクやオランダやベルギーみたいに、人件費をとことん低くするとサービス業の生産性がダントツになるわけですな。

さすが事実への軽侮にも年季が入っていることで。

なんにせよ、このケーザイ学者というふれこみの御仁が、「おりゃぁ、てめえら、ろくに仕事もせずに高い給料とりやがって。だから生産性が低いんだよぉ」という、生産性概念の基本が分かっていないそこらのオッサン並みの認識で偉そうにつぶやいているというのは、大変に示唆的な現象ではありますな。

(追記)

http://twitter.com/WARE_bluefield/status/18056376509014017

>こりゃ面白い。池田先生への痛烈な皮肉だなぁ。/ スマイル0円が諸悪の根源・・・

いやぁ、別にそんなつもりはなくって、単純にいつも巡回している日本生産性本部の発表ものを見て、いつも考えていることを改めて書いただけなんですが、3法則氏が見事に突入してきただけで。それが結果的に皮肉になってしまうのですから、面白いものですが。

というか、この日本生産性本部発表資料の、サービス生産性の高い国の名前をちらっと見ただけで、上のようなアホな戯言は言えなくなるはずですが、絶対に原資料に確認しないというのが、この手の手合いの方々の行動原則なのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_b2df.html(労働市場改革専門調査会第2回議事録)

(参考)上記エントリのコメント欄に書いたことを再掲しておきます。

>とまさんという方から上のコメントで紹介のあったリンク先の生産性をめぐる「論争」(みたいなもの)を読むと、皆さん生産性という概念をどのように理解しているのかなあ?という疑問が湧きます。労働実務家の立場からすると、生産性って言葉にはいろんな意味があって、一番ポピュラーで多分このリンク先の論争でも意識されているであろう労働生産性にしたって、物的生産性を議論しているのか、価値生産性を議論しているのかで、全然違ってくるわけです。ていうか、多分皆さん、ケーザイ学の教科書的に、貨幣ヴェール説で、どっちでも同じだと思っているのかも知れないけれど。

もともと製造業をモデルに物的生産性で考えていたわけだけど、ロットで計ってたんでは自動車と電機の比較もできないし、技術進歩でたくさん作れるようになったというだけじゃなくて性能が上がったというのも計りたいから、結局値段で計ることになったわけですね。価値生産性という奴です。

価値生産性というのは値段で計るわけだから、値段が上がれば生産性が上がったことになるわけです。売れなきゃいつまでも高い値段を付けていられないから、まあ生産性を計るのにおおむね間違いではない、と製造業であればいえるでしょう。だけど、サービス業というのは労働供給即商品で加工過程はないわけだから、床屋さんでもメイドさんでもいいけど、労働市場で調達可能な給料を賄うためにサービス価格が上がれば生産性が上がったことになるわけですよ。日本国内で生身でサービスを提供する労働者の限界生産性は、途上国で同じサービスを提供する人のそれより高いということになるわけです。

 

どうもここんところが誤解されているような気がします。日本と途上国で同じ水準のサービスをしているんであれば、同じ生産性だという物的生産性概念で議論しているから混乱しているんではないのでしょうか。

>ていうか、そもそもサービス業の物的生産性って何で計るの?という大問題があるわけですよ。

価値生産性で考えればそこはスルーできるけど、逆に高い金出して買う客がいる限り生産性は高いと言わざるを得ない。

生身のカラダが必要なサービス業である限り、そもそも場所的なサービス提供者調達可能性抜きに生産性を議論できないはずです。

ここが、例えばインドのソフトウェア技術者にネットで仕事をやらせるというようなアタマの中味だけ持ってくれば済むサービス業と違うところでしょう。それはむしろ製造業に近いと思います。

そういうサービス業については生産性向上という議論は意味があると思うけれども、生身のカラダのサービス業にどれくらい意味があるかってことです(もっとも、技術進歩で、生身のカラダを持って行かなくてもそういうサービスが可能になることがないとは言えませんけど)。

>いやいや、製造業だろうが何だろうが、労働は生身の人間がやってるわけです。しかし、労働の結果はモノとして労働力とは切り離して売買されるから、単一のマーケットでついた値段で価値生産性を計れば、それが物的生産性の大体の指標になりうるわけでしょう。インドのソフトウェアサービスもそうですね。

しかし、生身のカラダ抜きにやれないサービスの場合、生身のサービス提供者がいるところでついた値段しか拠り所がないでしょうということを言いたいわけで。カラダをおいといてサービスの結果だけ持っていけないでしょう。

いくらフィクションといったって、フィリピン人の看護婦がフィリピンにいるままで日本の患者の面倒を見られない以上、場所の入れ替えに意味があるとは思えません。ただ、サービス業がより知的精神的なものになればなるほど、こういう場所的制約は薄れては行くでしょうね。医者の診断なんてのは、そうなっていく可能性はあるかも知れません。そのことは否定していませんよ。

>フィリピン人のウェイトレスさんを日本に連れてきてサービスして貰うためには、(合法的な外国人労働としてという前提での話ですが)日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活費をかけて労働力を再生産しなければならないのですから、フィリピンでかかる費用ではすまないですよ。パスポートを取り上げてタコ部屋に押し込めて働かせることを前提にしてはいけません。

もちろん、際限なくフィリピンの若い女性が悉く日本にやってくるまで行けば、長期的にはウェイトレスのサービス価格がフィリピンと同じまで行くかも知れないけれど、それはウェイトレスの価値生産性が下がったというしかないわけです。以前と同じことをしていてもね。しかしそれはあまりに非現実的な想定でしょう。

要するに、生産性という概念は比較活用できる概念としては価値生産性、つまり最終的についた値段で判断するしかないでしょう、ということであって。

>いやいや、労働生産性としての物的生産性の話なのですから、労働者(正確には組織体としての労働者集団ですが)の生産性ですよ。企業の資本生産性の話ではなかったはず。

製造業やそれに類する産業の場合、労務サービスと生産された商品は切り離されて取引されますから、国際的にその品質に応じて値段が付いて、それに基づいて価値生産性を測れば、それが物的生産性の指標になるわけでしょう。

ところが、労務サービス即商品である場合、当該労務サービスを提供する人とそれを消費する人が同じ空間にいなければならないので、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の高い人やその関係者であってサービスに高い値段を付けられるならば、当該労務サービスの価値生産性は高くなり、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の低い人やその関係者であってサービスに高い価格をつけられないならば、当該労務サービスの価値生産性は低くなると言うことです。

そして、労務サービスの場合、この価値生産性以外に、ナマの(貨幣価値を抜きにした)物的生産性をあれこれ論ずる意味はないのです。おなじ行為をしているじゃないかというのは、その行為を消費する人が同じである可能性がない限り意味がない。

そういう話を不用意な設定で議論しようとするから、某開発経済実務家の方も、某テレビ局出身情報経済専門家の方も、へんちくりんな方向に迷走していくんだと思うのですよ。

>まあ、製造業の高い物的生産性が国内で提供されるサービスにも均霑して高い価値生産性を示すという点は正しいわけですから。

問題は、それを、誰がどうやって計ればいいのか分からない、単位も不明なサービスの物的生産性という「本質」をまず設定して、それは本当は低いんだけれども、製造業の高い物的生産性と「平均」されて、本当の水準よりも高く「現象」するんだというような説明をしなければならない理由が明らかでないということですから。

それに、サービスの価値生産性が高いのは、製造業の物的生産性が高い国だけじゃなくって、石油がドバドバ噴き出て、寝そべっていてもカネが流れ込んでくる国もそうなわけで、その場合、原油が噴き出すという「高い生産性」と平均されるという説明になるのでしょうかね。

いずれにしても、サービスの生産性を高めるのはそれがどの国で提供されるかということであって、誰が提供するかではありません。フィリピン人メイドがフィリピンで提供するサービスは生産性が低く、ヨーロッパやアラブ産油国で提供するサービスは生産性が高いわけです。そこも、何となく誤解されている点のような気がします。

>大体、もともと「生産性」という言葉は、工場の中で生産性向上運動というような極めてミクロなレベルで使われていた言葉です。そういうミクロなレベルでは大変有意味な言葉ではあった。

だけど、それをマクロな国民経済に不用意に持ち込むと、今回の山形さんや池田さんのようなお馬鹿な騒ぎを引き起こす原因になる。マクロ経済において意味を持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。

とすれば、その価値生産性とは財やサービスを売って得られた所得水準そのものなので、ほとんどトートロジーの世界になるわけです。というか、トートロジーとしてのみ意味がある。そこに個々のサービスの(値段とは切り離された本質的な)物的生産性が高いだの低いだのという無意味な議論を持ち込むと、見ての通りの空騒ぎしか残らない。

 

>いや、実質所得に意味があるのは、モノで考えているからでしょう。モノであれば、時間空間を超えて流通しますから、特定の時空間における値段のむこうに実質価値を想定しうるし、それとの比較で単なる値段の上昇という概念も意味がある。

逆に言えば、サービスの値段が上がったときに、それが「サービスの物的生産性が向上したからそれにともなって値段が上がった」と考えるのか、「サービス自体はなんら変わっていないのに、ただ値段が上昇した」と考えるのか、最終的な決め手はないのではないでしょうか。

このあたり、例の生産性上昇率格差インフレの議論の根っこにある議論ですよね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-0c56.html(誰の賃金が下がったのか?または国際競争ガーの誤解)

経済産業研究所が公表した「サービス産業における賃金低下の要因~誰の賃金が下がったのか~」というディスカッションペーパーは、最後に述べるように一点だけ注文がありますが、今日の賃金低迷現象の原因がどこにあるかについて、世間で蔓延する「国際競争ガー」という誤解を見事に解消し、問題の本質(の一歩手前)まで接近しています。・・・・・

国際競争に一番晒されている製造業ではなく、一番ドメスティックなサービス産業、とりわけ小売業や飲食店で一番賃金が下落しているということは、この間日本で起こったことを大変雄弁に物語っていますね。

「誰の賃金が下がったのか?」という疑問に対して一言で回答すると、国際的な価格競争に巻き込まれている製造業よりむしろ、サービス産業の賃金が下がった。また、サービス産業の中でも賃金が大きく下がっているのは、小売業、飲食サービス業、運輸業という国際競争に直接的にはさらされていない産業であり、サービス産業の中でも、金融保険業、卸売業、情報通信業といたサービスの提供範囲が地理的制約を受けにくいサービス産業では賃金の下落幅が小さい。

そう、そういうことなんですが、それをこのディスカッションペーパーみたいに、こういう表現をしてしまうと、一番肝心な真実から一歩足を引っ込めてしまうことになってしまいます。

本分析により、2000 年代に急速に進展した日本経済の特に製造業におけるグローバル化が賃金下落の要因ではなく、労働生産性が低迷するサービス産業において非正規労働者の増加及び全体の労働時間の抑制という形で平均賃金が下落したことが判明した。

念のため、この表現は、それ自体としては間違っていません。

確かにドメスティックなサービス産業で「労働生産性が低迷した」のが原因です。

ただ、付加価値生産性とは何であるかということをちゃんと分かっている人にはいうまでもないことですが、世の多くの人々は、こういう字面を見ると、パブロフの犬の如く条件反射的に、

なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!

いや、付加価値生産性の定義上、そういう風にすればする程、生産性は下がるわけですよ。

そして、国際競争と関係の一番薄い分野でもっとも付加価値生産性が下落したのは、まさにそういう条件反射的「根本的に間違った生産性向上イデオロギー」が世を風靡したからじゃないのですかね。

以上は、経済産業研究所のDPそれ自体にケチをつけているわけではありません。でも、現在の日本人の平均的知的水準を考えると、上記引用の文章を、それだけ読んだ読者が、脳内でどういう奇怪な化学反応を起こすかというところまで思いが至っていないという点において、若干の留保をつけざるを得ません。

結局、どれだけ語ってみても、

なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!

とわめき散らす方々の精神構造はこれっぽっちも動かなかったということでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-fcfc.html(労働生産性から考えるサービス業が低賃金なワケ@『東洋経済』)

今年の東洋経済でも取り上げたのですけどね。

「日本の消費者は安いサービスを求め、労働力を買いたたいている。海外にシフトできず日本に残るサービス業をわざわざ低賃金化しているわけだ。またその背景には、高度成長期からサービス業はパート労働者を使うのが上手だったという面もある」(労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員)

こう考えると、サービス業の賃金上昇には、高付加価値化といった産業視点の戦略だけでなく、非正社員の待遇改善など労働政策も必須であることがわかる。「サービス価格は労働の値段である」という基本に立ち戻る必要がある。

第7位は、ネット上で騒がれていた学歴ロンダリングについて、雇用システム論的観点からきちんと論じて見せたもので、そういう意味ではまともに労働法政策の論説的要素もある「「学び直し」が「学歴ロンダリング」になるメンバーシップ型社会 」で、1,072回です。

「学び直し」が「学歴ロンダリング」になるメンバーシップ型社会

何やらネット界隈でまたぞろ「学歴ロンダリング」がバズっているようです。

そういう議論に加わる気はこれっぽっちもありませんが、政府が鉦や太鼓で「学び直し」だ「リスキリング」だと大騒ぎしてくれていても、肝心の日本人の心性はこれっぽっちも変わっておらず、そういうのは唾棄すべき「学歴ロンダリング」であるというメンバーシップ感覚溢れる強い信念に揺るぎはなさそうです。

いうまでもなく、ジョブ型社会においては学歴、すなわち教育訓練機関の修了証書(ディプロマ)というのは、あるジョブを遂行するだけのスキルを身につけていることを証明しますよ、という資格証明なので、いまそれだけの学歴がないためにそのジョブに応募することができない人が、学び直しをして、れっきとしたディプロマをもらって、そいつを持って揚々と応募し、めでたく採用されてそのジョブに就く、というのは、まさに出世街道の王道です。別にほかの会社に転職するだけではなく、同じ会社の上位のジョブに応募するためにも、「いまの学歴じゃ無理だよ」と言われて一念発起してリスキリングしてディプロマを獲得して、めでたく上級ポストに移るというのはよくあることです。

ところが、そういうジョブ型社会では一番真っ当なコースであるはずの学び直しやらリスキリングやらが、このメンバーシップ型社会では、正々堂々とした出世街道を進むのではなく、その裏道をこそこそとすり抜けていくズルの極みみたいに見られてしまうのです。

なぜかといえば、これも拙著で繰り返し繰り返し山のように書いてきたことですが、日本社会では特定のジョブに向けた特定のスキルなどという枝葉末節のことはどうでもいいのであって、何にでも積極的に取り組み、一生懸命頑張ってなんでもこなせるようになる人間力こそが最も重要な「能力」だからであって、その「能力」というのは、十代の頃に一生懸命受験勉強に取り組んで高い偏差値の大学に入れたということによって「のみ」示されるのであって、その後大学でどんな勉強をしようがしまいがほとんど関係がないからです。

したがって、政府が鉦や太鼓で推奨する「学び直し」なるものは、メンバーシップ型感覚に溢れた常識人の目には、本来大学受験時に確定的に判定されたところの「能力」評価を、大学院などという不要不急の盲腸みたいな役立たずの機関にこそこそと潜り込むことによって、インチキにも上書きしてしまおうというこの上なくずる賢くも悪辣な企みということになってしまいます。

教育訓練機関で学ぶことによってスキルを高め、それを正当に評価されることによってより高い社会的地位に上昇することが、最も正当な出世の道であるジョブ型社会と、教育訓練機関に入るために努力することによって「能力」を示し、それを正当に評価されることによってより高い社会的地位に上昇することが、最も正当な出世の道であるメンバーシップ型社会との間に、深くて暗い川が流れていることを、この「学歴ロンダリング」という侮蔑語ほどよく示している言葉もないように思われます。

第8位は、内閣府のへんてこなコンテストを取り上げた「内閣府(とりわけ幹部)に労働法研修を(追記あり)」で、969回ですが、これが実はPV数がダントツで21,566にもなっています。

内閣府(とりわけ幹部)に労働法研修を(追記あり)

毎週送られてくる『労働新聞』。私の書評の番でないときは、だいたい「ふーん」といいながらめくっていくんですが、今回(7月8日号)には驚愕しました。「今週の視点」の「驚愕のアイデアが優勝飾る」という記事。

https://www.rodo.co.jp/news/179307/

内閣府が全職員を対象に開いた賃上げに関する政策コンペで、「残業の業務を従業員が個人事業主としてこなし、手取り増を図る」という施策が優勝した。労働者性をめぐるこれまでの議論を完全に無視しており、実現可能性には疑問符がつく。厚生労働省にはぜひ「指揮命令が必要な業務だから労働者を雇う」という基本のキを、内閣府に教授してもらいたい。

あまりのことに、内閣府のサイトに飛んで行ってみたら、確かにありましたぞなもし。

「賃上げを幅広く実現するための政策アイデアコンテスト」を開催しました

今般、内閣府全職員を対象に、「賃上げを幅広く実現するための政策アイデアコンテスト」を開催しました。

 今年の春闘で昨年以上の賃上げ率が示される中、今後、物価高を超える賃上げを実現し、「賃金が上がることが当たり前」という前向きな意識を全国に広げ、社会全体に定着させていくことが重要です。
 こうした問題意識の下、本コンテストでは、内閣府の職員のみならず、他省庁・地方自治体・民間企業からの出向者等の参加を得て、賃上げを幅広く実現するための政策アイデアを募りました。

 応募アイデア総数の36件の中から、アイデアの新規性や詳細度、実現可能性の観点からの評価と、応募者からのプレゼンテーションにより、以下の優勝および優秀アイデアが決定されました。

その優勝したアイディアというのはこれです。

https://www.cao.go.jp/others/jinji/cntest/winner.pdf

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いや、もちろんこのアイディアを思いついて応募した内閣府の若い職員を責める気持ちは全くありません。若いうちはいろいろと考えを広げるのはいいことです。それとともに色々と勉強していけばいい。でもね、経済財政諮問会議や規制改革推進会議を抱え、ここ20年以上にわたって労働政策を大幅に左右するだけの権限を振るってきた内閣府の幹部職員の方々が、このアイディアを素晴らしいと褒め称えて優勝させていることについては、そこまで大目に見るわけにはいかないように思われますぞ。

「思ヒテ学バザレバ即チ殆シ」ってのは、若者に対しては「だからもっと勉強しような。だからといって考えることに臆病になるなよ」という意味合いで使われるんだと思うのですが、若くない方々にはもう少し厳しめの意味合いになりそうな気がします。

少なくとも、「アイデアの新規性や詳細度、実現可能性の観点からの評価と、応募者からのプレゼンテーションにより」決定したと書かれている以上、内閣府の幹部諸氏には、このアイディアがどれくらい実現可能性があると判断したのか詳細にお聞きしたいですね。なんてったって、優勝アイディアですからね。

まさか次の規制改革推進会議で、「労働者の時間外労働はフリーランスということにしてやるべし」なんてのが入り込んでくるんじゃないでしょうね。

(追記)

先週紹介したこの記事ですが、ここにきてようやくネット上でも話題になってきたようです、

内閣府のコンテストで「残業時間から突然個人事業主に変身し、業務委託契約になる」という案が、優勝しているらしい「過労死待ったナシ」

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(再追記)

というわけで、遂に朝日新聞の澤路毅彦記者が記事にしました。

脱法行為?賃上げアイデア「残業時間は個人事業主に」 内閣府が表彰

 残業時間はすべての会社員を個人事業主に――。こんな提案を内閣府が政策コンテストで優勝アイデアとして表彰したことがわかった。労働法規制や社会保険料の支払い義務を免れるための「脱法スキーム」を推奨しているともうけとられかねない内容だ。・・・・

 澤路さんのつぶやき:

濱口さんのブログで気がつきました。揚げ足取りが本意ではありませんが、さすがに驚きました。脱法行為?賃上げアイデア「残業時間は個人事業主に」 内閣府が表彰:朝日新聞デジタル

優秀賞の中には「物価上昇と連動した最低賃金改定システムの導入」というのがあります。こういうシステムの国はあるので、決して新しいものではありませんが、よっぽど内閣府らしいアイデアではないかと思いまし

(再三追記)

朝日新聞が社説で取り上げたようです。

(社説)内閣府コンペ 新藤大臣の見識を疑う

 この役所に政策の立案を任せて大丈夫なのか。そんな疑念を持たざるをえない事態だ。責任者である新藤義孝経済再生担当相に、早急に説明を求める。・・・ 

社説なので署名はありませんが、もちろん書いたのは澤路さんでしょう。

これには堪らないと、内閣府は諸々の情報をお蔵入りさせてしまったようです。

「賃上げを幅広く実現するための政策アイデアコンテスト」を開催しました

これらのアイデアの概要については、一定の周知期間が経過し、個人情報が含まれること等を考慮の上、掲載を終了しました。

第9位は、「高齢者の定義は・・・55歳だった!?」で920回ですが、これも労働法政策のトリビア編でしょうか。

高齢者の定義は・・・55歳だった!?

政府の経済財政諮問会議で、民間議員が高齢者の定義を65歳から70歳にせよと主張したという話が駆け巡っています。大体みんな社会保障、年金関係の文脈で騒いでいるようですが、原資料を見ると、そういう風にならないように、わざと「社会保障の強靱化」の方ではなく、「女性活躍・子育て両立支援、全世代型リスキリング、予防・健康づくり」の方の、リスキリングの項目に書き込んでいたようですね。

誰もが活躍できるウェルビーイングの高い社会の実現に向けて① (女性活躍・子育て両立支援、全世代型リスキリング、予防・健康づくり)

〇全世代リスキリングの推進:高齢者の健康寿命が延びる中で、高齢者の定義を5歳延ばすことを検討すべき。その上で、いつでもチャレンジできるよう、DXや将来の人材ニーズを踏まえ、就業につながる教育・訓練の実施と、新たな給付等を活用した受講者の生活保障の充実を、利用状況を検証しつつ一体的に進める。その際、諸外国の例も参考にしながら、生産性向上の切り札であるリスキリング推進をめぐる現下の課題に対して関係省庁が連携の上、女性、高齢者、就職氷河期世代等を含む全世代を対象としたリスキリングについて官民一体による国民的議論を喚起すべき。

誰もが活躍できるウェルビーイングの高い社会の実現に向けて② (社会保障の強靱化)

とはいえ、高齢者の定義を5歳引き上げるといわれれば、みんな書いていない社会保障の方の話だと思ってしまうわけです。

わざわざそちらの方に書き込んだリスキリングの話だとは思ってくれないようです。

ちなみに、リスキリングによって長く働けるようにしようということでいえば、雇用に関しては既に60歳以上定年と65歳までの雇用確保が義務づけられているのに加えて、70歳までの就業確保が努力義務となっていることは周知の通りですが、それと高齢者の定義とがどう関わるのか、あんまり明確ではないですね。

というか、これはおそらく労働関係者でも必ずしもよく知られていないのではないのではないかと思われるのですが、実はこれら規定が置かれている高年齢者雇用安定法には、高年齢者の定義規定というのがあるんです。正確に言うと、法律ではなくてその施行規則(省令)ですが。

高年齢者等の雇用の安定等に関する法律

(定義)
第二条 この法律において「高年齢者」とは、厚生労働省令で定める年齢以上の者をいう。

高年齢者等の雇用の安定等に関する法律施行規則

(高年齢者の年齢)
第一条 高年齢者等の雇用の安定等に関する法律(昭和四十六年法律第六十八号。以下「法」という。)第二条第一項の厚生労働省令で定める年齢は、五十五歳とする。

 なんと日本国の実定法上、「高年齢者」というのは55歳以上の人のことをいうんですね。

これは、55歳定年が一般的であった1970年代に作られた規定が、そのまま半世紀にわたってそのまま維持され続けているために、こうなっているんですが、おそらく現代的な感覚からすれば違和感ありまくりでしょう。

ちなみに、同省令には続いて、

(中高年齢者の年齢)
第二条 法第二条第二項第一号の厚生労働省令で定める年齢は、四十五歳とする。

45歳になったら中高年という規定もあって、こちらはそうかなという気もしますが(若者だと思っている人もいるようですが)、でも45歳からたった10年で55歳になったら高齢者というのは可哀想すぎますね。

高齢者の定義というのは、下手に踏み込むと得体の知れないものが出てくる魔界のようです。

そして栄えある第10位はこれも5年前から毎年なぜか人気が続いている「「工業高校」と「工科高校」の違い 」で、822回です。

「工業高校」と「工科高校」の違い

正直意味がよくわからないニュースです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186251000.html (「工業高校」を一斉に「工科高校」に変更へ 全国初 愛知県教委)

愛知県の教育委員会が、県立の「工業高校」13校の名称を、再来年4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたことが分かりました。科学の知識も学び、産業界の技術革新に対応できる人材を育成するのがねらいで、工業高校の名称を一斉に変更するのは全国で初めてだということです。 ・・・

いやまあ、高校の名称をどうするかは自由ですが、その理由がよくわからない。

・・・関係者によりますと、すべての県立工業高校の名称について「工学だけでなく、科学も含めた幅広い知識を学ぶ高校にしたい」というねらいから、再来年の4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたということです。・・・

ほほう、「工業高校」だと科学は学べないとな。「工科高校」だと科学が学べるとな。

「工業高校」の「業」は「実業」の「業」ですが、「工科高校」の「科」は「科学」の「科」だったとは初めて聞きましたぞなもし。

東京工業大学は実業しか学べないけど、東京工科大学は科学が学べるんだね。ふむふむ。

というだけではしょうもないネタなので、トリビアネタを付け加えておくと、東京工業大学は前身は東京高等工業学校でしたが、それとならぶ東京高等商業学校は、一橋大学になる前は東京商科大学でした。一方が「業」で他方が「科」となった理由は何なんでしょうか。

ちなみに、東京高商と並ぶ神戸高等商業学校は、大学になるときには神戸商業大学と名乗っていますな。今の神戸大学の前身ですが、同じ商業系でもこちらは「科」じゃなくて「業」です。

さらにちなみに、神戸商科大学というのもあって、これは戦前の兵庫県立神戸高等商業学校が戦後大学になるときにそう名乗ったんですね。今の兵庫県立大学の前身です。

なんだか頭が混乱してきましたが、東京商科大学は戦時中東京産業大学と名乗っていたので、別に「業」を忌避していたわけでもなさそうです。

 

 

 

 

 

 

2024年12月13日 (金)

スキマバイト問題と日雇派遣禁止のツケ

最近、スキマバイトとかスポットワークの問題が盛んに取り上げられてきているけど、今から10年以上前に、当時やたらに炎上していた日雇派遣禁止問題に対して、派遣法で日雇派遣だけを禁止したって意味がないと言い続けて結局無視された私から見ると、そのツケが回ってきたとしか思えない。

日雇派遣だけを禁止しても日雇紹介という形で生き続けるだけだし、どっちがいいかというと、派遣法により派遣会社に使用者責任が課せられているだけ日雇派遣の方がましなんだ、といくら言っても、派遣こそが諸悪の根源だと思い込んでいる人々にはまるで通じなかったな。

世の中にスポット的な労働需要があり、それに対応する労働供給がある以上、それをできるだけ弊害の少ない形でうまく回すにはどういうやり方がいいのか、と考えれば、紹介してしまったらはいそれでおしまいよ、後は何が起ころうが知らぬ存ぜぬがデフォルトの日雇紹介よりも、働いている間はずっと使用者としての責任を追及できる建付けの日雇派遣の方がましであるという理路が、当時の人々にはわからなかったんだから、そのツケがこういう形で露呈してくるのも当然のことだと、私は思う。そんなこと言ってみても、誰も反省なんかしないだろうけど。

朝日新聞-関根秀一郎との対談「日雇い派遣 禁止は有効?」(2008年5月29日)

 電話一本で呼び出され、賃金も低くて「ワーキングプア(働く貧困層)の温床」と批判を浴びる日雇い派遣。4野党は先月、労働者派遣法を改正し「原則禁止」を盛り込む方針を固め、日本人材派遣協会も28日、原則禁止の自主ルールを決めた。派遣労働者を支援している関根秀一郎・派遣ユニオン書記長と、労働法のブログを主宰する濱口桂一郎・政策研究大学院大学教授に議論してもらった。(編集委員・竹信三恵子)
 
 ――「日雇い派遣禁止」は、なぜ必要なのですか。
 関根 派遣労働は、派遣会社が派遣料から会社の取り分(マージン)を引いて賃金を支払うのでピンハネが横行しやすい。なのに、派遣法が99年に改正されたとき、対象を立場の弱い肉体労働にまで広げた。このため日雇い派遣が急拡大し、三つの問題が起きた。①3~5割ものピンハネによる賃金の大幅下落②生計を主に担う働き手まで派遣労働に落とし込まれる③派遣先が、「ウチの社員じゃない」と派遣社員の安全対策を怠り、労働災害が多発――だ。
 濱口 問題点は同感だが、ニーズがあるのに禁止しても、企業は他の形に逃げるだけ。85年に派遣法ができた当初も、対象を専門的職種に限ったが、一般事務が「ファイリング」の名で派遣OKとなり、女性の非正社員化が進んだ。事業規制ばかりを考え、労働者保護をほったらかしにする日本の派遣法の枠組みこそ問うべきだ。
 ――どんなニーズが?
 濱口 アルバイトや、本業がほかにある人の週末の副業など、こうした働き方が必要な人もいる。企業にとっても、社員が急病の場合や仕事の繁閑が大きい職種など、1日単位の派遣が必要なケースはあるはず。日雇い派遣という業態そのものは、あってもいい。
 関根 日雇い派遣の広がりは「あってもいい」のレベルを超えている。人集めも解雇も簡単なため、20~30代の「ネットカフェ難民」だけでなく、40~50代の「サウナ難民」まで出た。
 濱口 そもそも「日雇い派遣」だから問題なのか。直接雇用の日雇いも過酷さは同じだ。
 関根 20年ほど前、直接雇用の日雇いとして物流業界でバイトしたが、日給は1万円を下らなかった。日雇い派遣の広がりでピンハネが激しくなり、今は6千~7千円。派遣はマージンを取るので、働き手の取り分を減らし、過酷さを増幅する。
 濱口 日雇い派遣なら、毎日別の職場に派遣されても、合わせて週40時間働いていれば「派遣社員として正社員と同等の時間働いている」ことになり、均衡処遇を求める契機になる。
 関根 現実は違う。厚生労働省に、「実質は正社員と同じように毎日働いているのだから、仕事が途絶えたら休業手当を払うよう派遣会社を指導すべきだ」と求めたがダメだった。理由は「日雇いだから」だ。
 ――日雇い派遣を禁止しないとすると、どう解決しますか。
 濱口 関根さんの挙げた三つの問題点でいうと、賃金については、派遣会社のマージン率を公開させ、規制する。安全面では危険有害業務への派遣を制限し、労働時間について定める労使協定(36協定)や労災補償に関し、派遣先にも使用者責任を負わせる。安いからと非正社員を増やす反社会的な企業行動には、労組などによる監視の目をはりめぐらす方が効果的だ。
 関根 今の提案はすべて賛成だ。だが、禁止措置も意味は大きい。確かに、違法派遣をしたグッドウィルが事業停止処分を受けると、仕事がなくなり困る人も出た。一方で、グッドウィルとの取引をやめた会社から「直接雇用に」と誘われ、日給が4割増えた人もいる。とりあえずストップをかけて企業の方向を変える必要がある。
 ――労組による監視で企業行動に歯止めをかけられますか。
 濱口 日雇い派遣の業態は認め、そのかわり派遣労働者と正社員との均等待遇や均衡処遇を徹底し、「手軽だから日雇い派遣」とはさせないことも必要だ。4月に施行された改正パート労働法で均衡処遇が定められたので、派遣に広げればいい。
 関根 日本の「均等待遇」は正社員並みに働くごく一部のパートにしか適用されず、その他のパートへの「均衡処遇」も極めてあいまいだ。
 ――マージン率の公開は可能でしょうか。
 濱口 ピンハネして自家用飛行機を買うような経営者は困るが、マージンは、社会保険料負担や働き手への情報提供などのために必要な経費でもある。その透明化はまともな派遣元にはプラスだ。
 関根 派遣業界との交渉で、「悪質な派遣会社と一線を画すためにもマージンの公開を」と迫ってきたが応じない。
 ――今後は何が必要ですか。
 濱口 日本の派遣法は、正社員の派遣社員への置き換え防止に主眼を置き、派遣事業の規制ばかりに目を向けていた。世界の流れは非正社員も含めた均衡処遇と透明化だ。
 関根 日雇い派遣を合法化したことで、派遣への置き換えが進んだ。欧州のような均等待遇の実現は遠すぎる。緊急避難として日雇い派遣の禁止を急ぐべきだ。

 

歌人が選ぶ今年の10冊

81tj1p4qhol_sy466__20241213085501 「毎日、妻と短歌と学生野球のことだけ考へて生きていけたらいいのに」と言われる「さとうひ @第一歌集『殘照の港󠄁』」さんが、「歌人が選ぶ今年の10冊」を挙げられているのですが、その中に、

今年読んだ近年刊行の本で。 #歌人が選ぶ今年の10冊 『平安貴族とは何か』#倉本一宏 NHK出発新書 『日本漢字全史』#沖森卓也 ちくま新書 『日本の呪術』#繁田信一 MdM新書 『古代中国王朝史の誕生』#佐藤信弥 ちくま新書 『いつの空にも星が出ていた』#佐藤多佳子 講談社文庫 (続く)

後半 #歌人が選ぶ今年の10冊 『よくわからないけど、あきらかにすごい人』#穂村弘 毎日文庫 『つれづれならざる』#駒田晶子 福島民報社 『賃金とは何か』#濱口桂一郎 朝日新書 『美術道』#パピヨン本田 KADOKAWA 『つながる読書』#小池陽慈 編 ちくまプリマー新書   ガチの歌集・歌書は除きました

ほかの本は、いかにも歌人の方が選びそうな本なのですが、なぜかわたくしの『賃金とは何か』が入っております。

本書の何かが歌人の方の心の何かに触れるものがあったのでしょう。有り難いことです。

2024年12月 9日 (月)

堀川祐里編著『労働環境の不協和音を生きる』

655072 堀川祐里編著『労働環境の不協和音を生きる 労働と生活のジェンダー分析 』(晃洋書房)をお送りいただきました。

https://www.koyoshobo.co.jp/book/b655072.html

生きるために働いているはずが、

労働によって日々の生活やいのちが脅かされる実情がある。

耳を澄ませて不協和音を聴けば、不協和音が我々に問いかけてくる。


社会学、文学、社会福祉学、歴史学、経済学といった多角的なアプローチから社会政策に迫る試み。コロナ禍が顕在化させた「労働環境の不協和音」を、社会政策の両輪である「労働」および「生活」という切り口から描き出す。

コロナ禍という未曾有の事態は「労働環境の不協和音」を響かせた。社会政策の初学者とともに〈生きるために働く〉ことをジェンダー視点から理解し再構築したい。歴史縦断的、領域横断的なアプローチが労働と生活を切り結ぶ、社会政策とは何かを考えるきっかけとなる一冊。

私の関心からすると、編者の堀川さんの「ジェンダー平等は健康の権利を放棄しなければ得られないか――労働力の再生産から考える生理休暇の意義」が興味深かったです。

 

 

 

2024年12月 7日 (土)

『季刊労働法』287号(2024冬号)

287_h1347x500 まだ一週間ほど先ですが、12月15日刊行予定の『季刊労働法』287号(2024冬号)の案内が労働開発研究会のサイトに既にアップされているので、こちらでも紹介しておきます。

季刊労働法287号(2024/冬季)2024年12月15日発売

特集:フリーランス新法に残された課題
 11月1日から施行されたフリーランス新法。企業等発注者側とフリーランスとの間で報酬やハラスメント等をめぐるトラブルが問題となるなか、同法では、契約の適正化やハラスメント防止等の就業環境整備に向けた対策を発注側に求めています。そもそもフリーランス保護の規制原理はどこにあるのか、また労働法、経済法、それぞれの視点から見た同法の意義と課題は何か、こうした論点に迫ります。
第2特集では、2023年8月に逝去された道幸哲也先生の個別労働関係法に関する業績を振り返ります。

特集 フリーランス新法に残された課題
フリーランス政策はどうあるべきか―フリーランス法の規制原理の検討からみえるもの― 神戸大学教授 大内 伸哉

フリーランス法における就業環境整備に関する規制の概要と問題点 弁護士 山田 康成

フリーランス法第2章(取引の適正化)の解説と検討―経済法の視点からみた意義と課題― 青山学院大学教授 岡田 直己

「特定フリーランス事業の特別加入」の業務遂行性と特別加入団体―「特定フリーランス事業の特別加入」関連3通達を踏まえて― 東洋大学講師 田中 建一

【第2特集】道幸哲也先生と個別的労働関係法
本特集の解題 北海学園大学教授・弁護士 淺野 高宏

労働者の自立と権利主張の基盤整備法理~労働契約法理の見直し論を中心に~ 北海学園大学教授・弁護士 淺野 高宏

権利実現のためのワークルール教育 早稲田大学名誉教授 島田 陽一

道幸法学における人格権法理―労働者の自立とプライヴァシーを考える視点 福岡大学教授 所 浩代

道幸哲也先生の判例分析と研究手法 東京農業大学非常勤講師 山田 哲

【特別企画】公務員集団的労働関係法をめぐる分野横断的検討(後編)
公務員の団体交渉権保障・再考 金沢大学准教授 早津 裕貴

公務員勤務条件決定システムの制度設計の捉え方―憲法の観点から― 甲南大学教授 篠原 永明

公務員勤務条件決定システムに関する行政法上の諸論点 名城大学教授 北見 宏介

■論説■
スペインのライダー法の意義と課題―アルゴリズミック管理の規制を中心に― 神戸大学法学研究科助手 劉 子安

■要件事実で読む労働判例―主張立証のポイント 第10回■
事業場外労働のみなし制に関する要件事実―協同組合グローブ事件(最三小判令和6・4・16労判1309号5頁)を素材に 弁護士 岸 聖太郎

■イギリス労働法研究会 第45回■
フリーランス新法における期間的要件の解釈方法―イギリス法におけるumbrella contract 概念を参考に― NTT 社会情報研究所 岡村 優希

■アジアの労働法と労働問題 第56回■
解雇紛争処理をめぐるアセアン10か国間の比較 神戸大学名誉教授 香川 孝三

■労働法の立法学 第72回■
教育訓練給付の法政策 労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口 桂一郎

■判例研究■
公立学校教員の過労死事案におけるいわゆる労災民訴の判断枠組み滑 川市事件(富山地判令5・7・5判時2574号72頁) 信州大学准教授・弁護士 弘中 章(コメント)岡山大学教授 堀口 悟郎

■重要労働判例解説■
同性カップルに対する扶養手当支給の可否 北海道扶養手当請求事件(札幌地判令和5・9・11労経速2536号20頁) 立正大学教授 高橋 賢司

違法行為を強要する命令の不法行為(パワハラ)該当性 大津市事件(大津地判令和6・2・2判例集未登載) 全国市長会 戸谷雅治 

わたくしの「労働法の立法学」は、教育訓練給付を取り上げます。

 

2024年12月 5日 (木)

『賃金とは何か』2刷

Asahishinsho_20241205214401 皆様のお陰で拙著『賃金とは何か―職務給の蹉跌と所属給の呪縛』(朝日新書)に2刷がかかりました。7月の初刷からほぼ半年ですが、まあまあロングセラーの道を歩み始めたと言っていいのでしょうか。

日本の賃金の歴史を過不足なく解説した本が長年にわたってなくなっていたことを考えると、そろそろこういうたぐいの本が求められていたのかもしれないな、という気もします。

ちょうど数日前に、ラスカルさんがブログで「今年の10冊」を挙げておられて、その中にこの拙著も入れていただきました。

備忘録 ー 経済概観、読書記録等 ー

2024年7月刊。本書を読むと、1954年の中労委調停における定期昇給の登場、日経連の生産性基準原理、さらに経済整合性論に基づく賃上げの抑制(1975年)や内外価格差解消に向けた労使協調(1989年)を経て、その後の長期デフレに関係する日本経済の「低賃上げ体質」が形成された実情がみえる。2000年代半ば頃、団塊引退に伴う賃金原資の余裕が一人当たり賃金上昇に寄与する、との分析をしたことがあったが、思えば、これも平均賃金を(大きくは)上昇させない定期昇給、「内転」論理の陥穽であろう。 ・・・・

 

 

 

2024年12月 4日 (水)

憎税左翼が北朝鮮を絶賛していたんだが

この人何を言ってんだろ?

日本を半分に分けて片方を減税派の国、もう片方を増税派の国にしたら、どちらが繁栄するかハッキリするんだよね。 既に朝鮮半島で社会実験済みなので、やる前から結果は明らかなんだけどね。増税派の国は電気付いてません。

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もしかして、北朝鮮が増税派だって?

いやいや、かつて消費税を目の敵にしていた日本社会党が心から親しくしていた朝鮮民主主義人民共和国のことを、こんな風に絶賛していたんですよ。

「憎税」左翼の原点?

「『北朝鮮はこの世の楽園』と礼賛し、拉致なんてありえないと擁護していた政治家やメディア」
と言われても実感が湧かない皆さんに、証拠を開示しよう。これは日本社会党(現社民党)が1979年に発行した「ああ大悪税」という漫画の一部。北朝鮮を「現代の奇蹟」「人間中心の政治」と絶賛している。 

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その文脈はそういう政治話が好きになひとに委ねて、ここでは違う観点から。と言っても、本ブログでは結構おなじみの話ですが。よりにもよって「ジャパン・ソーシャリスト・パーティ」と名乗り、(もちろん中にはいろんな派閥があるとはいえ)一応西欧型社民主義を掲げる社会主義インターナショナルに加盟していたはずの政党が、こともあろうに金日成主席が税金を廃止したと褒め称えるマンガを書いていたということの方に、日本の戦後左翼な人々の「憎税」感覚がよく現れているなぁ、と。そういう意味での「古証文」としても、ためすすがめつ鑑賞する値打ちがあります。

とにかく、日本社会党という政党には、国民から集めた税金を再分配することこそが(共産主義とは異なる)社会民主主義だなんて感覚は、これっぽっちもなかったということだけは、このマンガからひしひしと伝わってきます。

そういう奇妙きてれつな特殊日本的「憎税」左翼と、こちらは世界標準通りの、税金で再分配なんてケシカランという、少なくともその理路はまっとうな「憎税」右翼とが結託すると、何が起こるのかをよく示してくれたのが、1990年代以来の失われた30年なんでしょう。

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2024年12月 3日 (火)

解雇規制と労働移動@『改革者』2024年12月号

24hyoushi12gatsu 政策研究フォーラムの『改革者』2024年12月号に「解雇規制と労働移動─ 実体のない解雇規制がなぜ争点になりうるのか? ─」を寄稿しました。

月刊誌「改革者」2024年12月号

自民党総裁選で突如として現れた解雇規制論争。人員整理が認められにくいのは、規制があるからではなく、会社の強大な人事権があるからに他ならない。むしろ、中小零細企業の解雇の濫用に問題があり、金銭解決の補償基準を法定化すべきだ。

 

 

 

 

EU(偽装)研修生指令案は継続審議

昨日の雇用社会相理事会の結果が理事会サイトに載っていますが、

Employment, Social Policy, Health and Consumer Affairs Council (Employment and Social Policy), 2 December 2024

Combatting unfair traineeships

The Hungarian presidency sought agreement on the Council’s negotiating position (‘general approach’) for the ‘traineeships directive’, which aims to improve working conditions for trainees and prevent employers from disguising employment relationships as traineeships.

Although a number of member states were ready to support the text as it currently stood, others felt that more time was needed to discuss outstanding issues. As a result, the Council will continue to work on the proposal under the Polish presidency.

The presidency also presented a progress report on the Council recommendation on a reinforced quality framework for traineeships, which calls for all trainees to be paid fairly, have access to adequate social protection and be given a mentor.

多くの加盟国が提示されたテキストに同意したが、他の諸国は、全研修生に公正な賃金支払や十分な社会保護とメンターへのアクセスといった問題解決にはなお時間が必要と感じた。

というわけで、昨日の段階で一般的アプローチには達せず、継続審議となったようです。

 

 

『ジョブ型雇用社会とは何か』8刷

71ttguu0eal_20241203085401 皆様のお陰で、拙著『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)に8刷がかかりました。2021年9月の刊行から3年余り経ちましたが、依然としてロングセラーを続けさせて頂いているようで、有り難いことです。

書店の人事労務管理のコーナーに行くと、大きな書店では「ジョブ型」なんていうインデックスプレートで仕切られていたりすることもありますが、そこに並んでいる「ジョブ型」をタイトルに謳った本の大部分(全てではない)が、本書で「そんなものはジョブ型じゃねぇ」と一刀両断したはずの代物であるのは、この言葉をでっち上げた張本人からすると、なかなかに微妙なものでありますね。

 

 

 

2024年12月 1日 (日)

EUの(偽装)研修生指令案の理事会合意案が骨抜きに?

今年3月に、欧州委員会が「研修生の労働条件の改善強化及び研修を偽装した正規雇用関係と戦う指令案」(「研修生(偽装研修対策)指令案」)を提案したことは、本ブログでご紹介したところですが、明日(12月2日)に予定されている雇用社会相理事会でこの指令案についての一般的アプローチ(昔の「共通の立場」で、ほぼこういうことで合意したというもの)に合意される予定の案文というのが、理事会のサイトにアップされています。

https://data.consilium.europa.eu/doc/document/ST-16136-2024-INIT/en/pdf

このテキストをざっと見たところ、第5条の研修を偽装する正規雇用関係であるかどうかを判断する詳細なチェックリストが丸ごと削除されていることが分かりました。

第4条の偽装研修を是正させろという規定は残っていますが、どういうのが偽装研修なのかというリストが消えてしまっているんですね。

Chapter III Employment relationships disguised as traineeships

Article 4
Measures to combat employment relationships disguised as traineeships
Member States shall provide for effective measures in accordance with national law or practice,
including where appropriate controls and inspections conducted by the competent authorities, to
combat practices where an employment relationship is disguised as a traineeship whereby trainees
are not considered as employees by the traineeship provider but should be, in accordance with the
law, collective agreements or practice in force in the Member State, with consideration to the case
law of the Court of Justice.

Article 5
Assessment of employment relationships disguised as traineeships
1.For the purposes of Article 4, Member States shall ensure that an overall assessment of all
relevant factual elements of the traineeship is performed in accordance with national law or
practice.
(a)[deleted]
(b)[deleted]
(c)[deleted]
(d)[deleted]
(e)[deleted]
(f)[deleted]
2.For the purpose of the assessment referred to in paragraph 1, Member States shall ensure
that traineeship providers provide, upon request, the competent authorities with the
necessary information, which may include the following:
(a)the number and employment status of trainees and the number of persons in an
employment relationship hosted by that traineeship provider;
(b)the duration of traineeships;
(c)the tasks and responsibilities of trainees and of comparable employees.
(d)[deleted]
(e)[deleted]
3.[deleted]

第5条第1項の全面削除されてしまった各号列記は、欧州委員会の原案ではこうなっていました。

(a) the absence of a significant learning or training component in the purported traineeship;
(b) the excessive duration of the purported traineeship or multiple and/or consecutive purported traineeships with the same employer by the same person;
(c) equivalent levels of tasks, responsibilities and intensity of work for purported trainees and regular employees at comparable positions with the same employer;
(d) the requirement for previous work experience for candidates for traineeships in the same or a similar field of activity without appropriate justification;
(e) a high ratio of purported traineeships compared with regular employment relationships with the same employer;
(f) a significant number of purported trainees with the same employer who had completed two or more traineeships or held regular employment relationships in the same

(a) 研修と称するものにおける顕著な学習又は訓練の要素の欠如
(b) 研修と称するもの又は同一使用者との複数若しくは連続的な研修と称するものの長すぎる期間
(c) 研修と称するものと同一使用者と比較可能な地位にある正規雇用被用者の間で課業、責任、労働負荷の水準の同等性
(d) 研修応募者に対し、正当な理由なく同一ないし類似の分野での就労経験を要求すること
(e) 同一使用者の下で正規雇用関係に比して研修と称するものの比率が高すぎること
(f) 同一使用者の下での研修生と称するものの相当数が2以上の研修を修了しているか又は研修と称するものに就く前に同一又は類似の分野での正規雇用関係を有していること

もちろん、偽装研修を正そうという指令の目的自体は変わっていないのですが、そのための判断基準が削除されてしまったということのようです。

まあ、明日の雇用社会相理事会でどういう議論になるのかもわかりませんが、とりあえず現時点の状況はこういうことのようです。

 

 

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