今年もそろそろ終わりに近づき、ちょっと気が早いですが、毎年恒例の人気エントリランキングを発表します。ただし、昨年まではPV数でランキングしていましたが、中には入口回数が極めて少ないのになぜかPV数だけ異様に多いのもあったりして、そういうノイズを排除するため、入口回数でランキングします。
まず第1位は、11月7日の「低学歴者の逆襲(又はピケティ再訪)」で、7,178回でした。これはタイトルからも分かるように、3年前のエントリの再掲版であって、ちっとも新しくないのですが、トランプ再選という事態を前に、改めて読み返したくなった人も多かったのかもしれません。
低学歴者の逆襲(又はピケティ再訪)
今回のアメリカ大統領選結果を見て、改めてピケティが語っていた「どの国も右派は低学歴、左派は高学歴に移行してしまいました」という呪いの言葉の意味深さを噛み締めている人も多いのではないでしょうか。なおこの論文の趣旨はその後大著『資本とイデオロギー』に盛り込まれています。
以下、3年前のエントリの再掲です。
バラモン左翼と商売右翼への70年
トマ・ピケティの「バラモン左翼」は、私が紹介したころはあまり人口に膾炙していませんでしたが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html(バラモン左翼@トマ・ピケティ)
21世紀の資本で日本でも売れっ子になったトマ・ピケティのひと月ほど前の論文のタイトルが「Brahmin Left vs Merchant Right」。「バラモン左翼対商人右翼」ということですが、この「バラモン左翼」というセリフがとても気に入りました。・・・
その後日本でもやたらにバズるようになり、その手の本も結構並んでいます。この言葉、対句になる「商売右翼」とセットなんですが、こちらはあんまりバズってないようです。
そのピケティが、今月3人の共著という形で、「Brahmin Left versus Merchant Right:Changing Political Cleavages in 21 Western Democracies, 1948-2020」という論文を公表しています。
https://wid.world/document/brahmin-left-versus-merchant-right-changing-political-cleavages-in-21-western-democracies-1948-2020-world-inequality-lab-wp-2021-15/
これ戦後70年間にわたるバラモン左翼の形成史を追ったものですが、事態を何よりも雄弁に物語ってくれるのが、表A10から表A16までの7枚のグラフです。
縦軸に所得をとり(上の方が高所得)、横軸に学歴をとると(右のほうが高学歴)、1950年代には右派政党は高学歴で高所得、左派政党は低学歴で低所得のところに集まっていました。
![A10 A10](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a10.jpg)
ところがそれから10年間ごとにみていくと、あれ不思議、右派政党はだんだん左側の低学歴のほうに、左派政党はだんだん右側の高学歴のほうにシフトしていき、
![A11 A11](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a11.jpg)
![A12 A12](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a12.jpg)
![A13 A13](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a13.jpg)
![A14 A14](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a14.jpg)
![A15 A15](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a15.jpg)
![A15 A15](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a15.jpg)
かくして、直近の2010年代には若干の例外を除き、どの国も右派は低学歴、左派は高学歴に移行してしまいました。
![A16 A16](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/a16.jpg)
かくして、ピケティ言うところのバラモン左翼対商売右翼という70年前とはがらりと変わった政治イデオロギーの舞台装置が出来上がったわけです。
続く第2位は、「地方公務員は労働基準法第39条第7項が適用除外となっている理由」で4,447回でした。こちらは正直言って労働法の超絶トリビアな話題であって、一般向けするようなトピックであるとは全然思えないのですが、なぜか多くの人が読みに来たようです。
地方公務員は労働基準法第39条第7項が適用除外となっている理由
焦げすーもさんが、トリビアのように見えてなかなかディープな問題提起をしています。
おっちゃん「地方公務員の1/4くらいが年休5日/年取れてないという調査知っとるかい?」 ワイ「知らんけど、実感とズレるなあ。」 おっちゃん「地方公務員の大部分が労基署の調査対象外やけど、そもそも、年休取得が義務化されてない。」 ワイ「嘘やん、地方公務員法第58条第3項・・・ほんまや。」
地方公務員法第58条第3項(他の法律の適用除外等) “労働基準法第二条、(中略)第三十九条第六項から第八項まで、(中略) の規定並びにこれらの規定に基づく命令の規定は、職員に関して適用しない。” 改正労基法の年次有休休暇の取得義務の箇所がすっぽりと適用除外に。 どうしてこうなった。。
おっちゃんのこの問いは、なぜ地方公務員の労働基準が守られないかという根源的なものであった。 回答としては、 1.民間と比較して、監督機関が機能していない 2.罰則を背景としていない(※)ため、管理者が法令遵守する動機づけが弱い(※現業等を除く) 3.人事管理部署が素人集団 といったところか。
あとは、 同規模の民間企業と比較して、管理職のマネジメント意識・能力が低いこと。(エビデンスはない
そもそも地方公務員に労働基準法が原則的には適用されているにもかかわらず、国家公務員と同じように適用除外だと勝手に思い込んでいる人が結構多かったりするんですが、それはまあおいといて。
ていうか、そもそも労働基準法が1947年に制定された時に、ちゃんとこういう規定が設けられており、これは今日に至るまで存在し続けているんですが、公法私法二元論という実定法上に根拠のない思い込みの法理論によって、脳内で勝手に適用除外してしまっている人のなんと多いことか。
(国及び公共団体についての適用)
第百十二条 この法律及びこの法律に基いて発する命令は、国、都道府県、市町村その他これに準ずべきものについても適用あるものとする。
いずれにしても、地方公務員法で労働基準法の一部の規定については適用除外になっているのですが、それは公法私法二元論などとは全く関係がなく、単純に公務員法上は過半数組合又は過半数代表者がないために、それに引っかけた規定が適用除外されているということなんですね。そもそも、労働基準法第2条が先頭に立って適用除外されているのは、民間企業では労使対等かも知らんが、公務員に労使対等なんてないぞ、使用者は国民様や住民様であるぞ、というイデオロギーから来ているのですね。
で、労働基準法が制定された時には、第39条の年次有給休暇の規定はフルに適用されていたのですが、1987年改正で労使協定による計画付与(現在の第6項)が設けられた時に、労使協定というのは地方公務員にはあり得ないからという理由で、この項が適用除外にされたのです。労使協定による変形労働時間制やフレックスタイムや裁量労働制なんかと同じ扱いです。
さて、そういう目で働き方改革で導入された第7項を見ると、どこにも過半数組合又は過半数代表者とか労使協定とかという文字は出てきません。
⑦ 使用者は、第一項から第三項までの規定による有給休暇(これらの規定により使用者が与えなければならない有給休暇の日数が十労働日以上である労働者に係るものに限る。以下この項及び次項において同じ。)の日数のうち五日については、基準日(継続勤務した期間を六箇月経過日から一年ごとに区分した各期間(最後に一年未満の期間を生じたときは、当該期間)の初日をいう。以下この項において同じ。)から一年以内の期間に、労働者ごとにその時季を定めることにより与えなければならない。ただし、第一項から第三項までの規定による有給休暇を当該有給休暇に係る基準日より前の日から与えることとしたときは、厚生労働省令で定めるところにより、労働者ごとにその時季を定めることにより与えなければならない。
どこをどうみても、使用者に年休を取得させる義務を課しているだけで、これを適用除外する理由はなさそうに見えます。
ところが、この2018年改正時の地方公務員法第58条第3項の改正規定を見ると、それまで労働基準法第39条第6項だけが適用除外であったのが、同条第6項から第8項までが適用除外となっているのですね。いったいこの第8項とは何かというと、
⑧ 前項の規定にかかわらず、第五項又は第六項の規定により第一項から第三項までの規定による有給休暇を与えた場合においては、当該与えた有給休暇の日数(当該日数が五日を超える場合には、五日とする。)分については、時季を定めることにより与えることを要しない。
第5項は時季変更権ですが、第6項がまさに1987年改正で導入された労使協定による計画付与で、その場合にはこの第7項が排除されるというわけです。つまり、第7条の適用されるか否かは、第6条によって影響を受けるのであり、それは過半数組合や過半数代表者が関わってくるので、その論理的帰結として、第7条の規定も丸ごと地方公務員には適用除外とした、というまあそういう説明になるわけです。
とはいえ、そういう手続規定の輻輳を理由として、れっきとした実体法的規定を適用除外してしまっていいのか、というのは、それ自体大きな問題であり得るように思います。
本来なら立法の府であるはずの国会で、選良であるはずの国会議員の方々が口々に疑問を呈してもよかったはずだと思いますが、残念ながら国会審議の圧倒的大部分は、裁量労働制のデータが間違っていたことの非難と、高度プロフェッショナル制度というのが如何に危険きわまりないものであるかの糾弾に終始し、誰もこういう問題を提起することはありませんでした。まあ、それも繰り返される光景ではありますが。
第3位は「結社/経営体としての日本共産党」で、2,925回でした。これは労働関係でも有名な神谷貴行(紙屋高雪)さんが、日本共産党を除籍・解雇されたのに触発されて書いたものでした。
結社/経営体としての日本共産党
例の働き方改革の時に「ごはん論法」という名文句を案出し、左派関係者の間でミームとして一気に広がったことで我々労働関係者の間でも記憶されている神谷貴行(紙屋高雪)さんが、日本共産党を除籍・解雇されたとブログで書かれています。
日本共産党を除籍・解雇されました
神谷さんを除籍・解雇した日本共産党の言い分が正しいのか、それとも神谷さんの言い分が正しいのか、といったことについてはここでは一切論じるつもりはありません。気分的には神谷さんに同情的ではありますが、ここで取り上げるのはそういうことではなく、「除籍・解雇」と異なる二つの概念が中ぽつでつなげて書かれていることに興味を惹かれたからです。
神谷さん自身はこう書かれています。
私・神谷貴行は、2024年8月6日付で日本共産党から除籍されました。
また、本日(2024年8月16日)付で日本共産党福岡県委員会から解雇されました。
これらについてはいずれも到底承服できないものです。
これを見る限り、政治結社たる日本共産党の一員としての党員籍を「除籍」されたことと、一個の経営体としてしんぶん赤旗等を発行する等の事業を営む使用者たる日本共産党から一方的にその雇用関係を解除(「解雇」)されたこととは、日付も異なり、別々の事柄であるようです。
前者が基本的にはよほどのことがない限り外部からの介入を認めにくい私的自治の世界に属するのに対して、後者はまさに使用者の一方的行為を外部から規制することが原則であるべき労働法の世界であり、とりわけ解雇に対しては解雇権濫用法理に従って、使用者たる日本共産党の言い分が許されるものであるかどうか厳格に審査さるべきものということになります。
とはいえ、経営体としての日本共産党は政治結社としての日本共産党と密接不可分であるはずで、結社の一員としてふさわしくないと当該結社(の意思決定者)が判断した以上、そのような者を労働者として使用することができないというのは十分立派な理屈であるという議論もありうるかもしれません。
つか、「社長の俺様に逆らうとはケシカラン。貴様なんかクビだぁ!」というたぐいの貴様ぁ解雇は、拙著『日本の雇用終了』にその実例が山のように溢れているように、日本の中小零細企業では結構日常茶飯事ですので、経営体たる日本共産党も、使用者としてはそうした貴様ぁ社長とよく似た性格であったということかもしれません。
ただ、下記裁判例(日本共産党愛知県委員会事件)に見られるように、日本共産党側は、そもそも神谷さんは雇用される労働者ではないと主張してくると考えられ、その意味ではこれは今流行りの「労働者性」をめぐる一事例ともいえることになります。
人さまの企業に対しては「労働者を守れ!」と叫ぶ一方で、自分のところで給料を払って働かせている人に対しては「労働者じゃないぞ!」と主張するというなかなか興味深い光景がみられることになりそうです。
なんにせよ、
今後のことは弁護士と相談して決めたいと思っていますが、もし訴訟になったらぜひみなさんに応援していただければ幸いです。
とのことなので、労働法研究者としてもなかなかに興味深いケースになっていく可能性があり、今後の動きについても注視していきたいと思います。
(参考)
日本共産党愛知県委員会事件(名古屋地裁昭和53年11月20日決定判例時報927号242頁)
・・・憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えていないが、憲法の定める議会制民主主義は、政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は、議会制民主主義を支える不可欠な要素であると共に、国民の政治意思を形成する最も有力な媒体である。
この見地からすれば、政治結社である政党は、憲法二一条で保障されている結社の自由の保障を高度に与えられて然るべき団体ということができる。
そして、同条にいう結社の自由の保障とは、政党の場合、憲法一九条所定の思想信条の自由と結びついて、政党の結成ないし政党に対する加入、脱退の自由を保障すると共に、政党が自らの組織運営について自治の権利を有することを保障したものと解される。そして、政党の自由な組織・運営に公権力の介入が認められるのは、政党資金規正法、公職選挙法、破壊活動防止法など法律に特別の規定がある場合に限定されているのであつて、政党の前記のような結社の重要性に着目すると、政党の自律権はできるだけ尊重すべきであり、党員に対し政党がした処分の当否については当該党員としてではなく、一般市民として有する権利(以下「市民的権利」という)を侵害していると認められない限りは、司法審査の対象とはならないと解するのが相当である。
これを本件についてみるに、本件各処分は、いずれも政党内部の機関が規約上定められた権限に基づき党員に対し行なつたものであることは明らかであり、右各処分のうち、本件除名処分及び点在党員措置決定(申請人主張の継続決定は、疎明資料によれば、右点在党員措置決定の書面による正式通知を申請人が継続決定と誤解したもので、継続決定はなされていないことが認められる)は、その処分の性質自体に照らし党員の市民的権利を侵害する余地はないから、政党の有する自律権の範囲内に属しこれら処分の当否は司法審査の対象とならないと解するのが相当である。・・・
以上に認定した事実によれば、県勤務員は、自発的献身的に党活動に専従する政党の常任活動家であり、県常任委員の指揮命令を受けるというよりは、県常任委員を補佐し、これに協力して執行機関である県常任委員会を構成し、全県党の指導活動並びに一般党務に従事する者であり、勤務場所、勤務時間の拘束はなく、欠勤控除もないかわりに、時間外割増賃金、有給休暇の定めもないというのであるから、以上のような県勤務員の勤務の実態に即して考えると、県勤務員に対する給与は、党務に専従するための活動費であり、生活補償費の意味合も含まれてはいるが、労務の提供と対価関係にあるとは認められず、従属労働性の度合は稀薄であり、県勤務員と被申請人県委員会との法律関係は、労基法の適用を受ける雇用契約関係にあると目することは困難であって、寧ろ、県常任委員と同様に委任契約ないしこれに類似する法律関係と認めるのが相当である。
もつとも、県勤務員は、先に認定したとおり、厚生年金、健康保険の被保険者とされ、給与中から右各保険料を控除されているが、厚生年金保険法、健康保険法に定める保険給付は、いずれも、労基法、労災保険法に定める災害補償等とその対象を異にし、専ら労働者及びその被扶養者又は遺族の生活の安定を図ることを目的としているのであつて、このような保険制度の有する社会的意義を考えると、この制度の利益を広範囲の労働従事者に及ぼすことが法の趣旨、目的に沿う所以である。従つて被保険者の資格要件である『事業所に使用される者(健康保険法一三条、一四条、厚生年金保険法九条、一〇条)』の範囲は、必ずしも労基法の適用対象である従属労働関係のある者に限定されず、委任ないしこれに類似の契約であつても、有償で継続的に稼働する者、例えば法人の代表者等もこれに包含されると解されるから,県勤務員もこれら保険の被保険者の資格要件を備えているものというべく、県勤務員がこれら保険の被保険者とされている事実は、県勤務員が労基法の適用を受ける雇用契約関係にないとの前記判断をなす妨げとはならないというべきである。
(三)然しながら、県勤務員は、給与名下に金員が支給され、有償である点において市民的権利につらなる側面のあることは否定できないところであるから、その限りにおいて政党の自律権は制約を受けるものというべく、本件解任処分の当否は、司法審査の対象となると解するのが相当である。これに反する被申請人らの主張は採用できない。
六 そこで、本件解任処分の効力について判断するに、本件解任処分は、法的には委任契約の解除権の行使にほかならないところ、本件のような有償委任契約の解除については、委任者が任意にこれを行使することはできず、相当の事由を要すると解せられる。
ところで、本件解任処分につき労基法の適用がないことは先に述べたとおりであるところ、申請人は、労基法一九条違反のみを無効原因として主張しているのであるから、右主張はもとより採用できず、他に無効原因の存することについては、何らの主張がないのみならず、申請人は、審尋期日に、解任するに足りる事由の存することについては争わない旨陳述しているから、本件解任処分は有効と認めるの外はなく、県勤務員たる地位の保全等を求める仮処分申請は、その余の点につき判断するまでもなく被保全権利の疎明を欠くことになる。
なお、裁判所が受け入れた日本共産党側の主張は以下の通り。
・・・日本共産党は科学的社会主義の理論と運動の正当性を確信し、この理論のわが国での創造的適用、発展である党の綱領、規約を承認し、綱領のさし示す日本の社会主義的未来の実現をめざして奮闘することを決意した党員が、自由意志にもとづいて結集している政治結社である。共産主義社会の実現という目標で結ばれるこの組織体は、政治理念の共通性を基礎とする、自主的、自覚的結集を本質としている。
党の構成員相互は、真に自由、平等な人格を基盤とする同志的な結合関係にあり、支配と被支配、搾取と被搾取、雇用と被雇用といつた、根本的に利害の相対立する関係は存在しない。
党の綱領と規約を承認し、党の一定の組織に加わつて活動し、規定の党費をおさめるものは党員となることができる。党員は革命の事業に献身することを決意して党の戦列の一員となる。党活動に加わり、党生活を営むことは、党員のもつとも基本的な権利であると同時に義務である。(規約二条(二)、三条(二))。
自発的意志にもとづいて党に加わつた党員は、党の政策と決定を積極的に実行し、党からあたえられた任務をすすんで行う、これはすべての党員に課せられた責務である。党員の部署と任務は党内で民主的に決定される。情勢、党の果たすべき課題、党員の資質、能力、条件等の諸要素を総合して、党員の力が適切に発揮され、党全体が統一し団結してたたかうにふさわしく決定される。いつたん決定された任務は必ず実行されなければならない。
右にみたように党員の任務と活動は彼が党員であることそれ自体に由来する。自発的に結集された自治的組織である党内における党員の任務とその遂行は、彼が自覚的規律を承認した党の構成員であることの結果に外ならない。党員に課せられた任務の遂行は、したがつて党の政策と決定の具体的実践であり、党員の基本的権利、業務の実現である。彼が党務に献身するのは、何ものかに強いられるものでもなければ、命令されるからでもない。真の自発的意志にもとづくものである。これは党員のすべてに、例外なくいえることであつて、機関の構成員であるか否かによつて何らの差異もない。上級と下級、組織と党員の間にある指導、被指導の関係は党存立のよつてたつ組織の原則から必然である。党規律を同志的結合、自覚的結集の準則として承認する党員にとつて、指導、被指導の関係が支配、従属の関係として観念されることはない。
2 党と党員との間の右のような関係は党専従ないし県勤務員についても基本的に同様である。
県勤務員は同一の政治的理念、信条に基づき自覚的に結集している党員の中から選出され、県党の指導機関たる被申請人を構成するものである。指導機関たる県委員会は、県党会議において選出されることになつており、このとき選出されるのは県委員、准県委員(県役員と呼ばれる)であるが(規約三九条)、県勤務員は県役員とともに指導機関の構成員としてそれぞれの部署に関して全県党の指導にあたるのである。
申請人は指導機関の役員をへて昭和四四年(一九六九年)県勤務員となり、昭和四五年(一九七〇年)以降被申請人選対部の部員として総選挙をはじめ各種選挙の指導にあたつてきた。一定量の機械的労務を被申請人にたいし、その指揮命令に基づき提供するがごときものとはおよそ性質を異にする高度な政治指導の遂行であつた。
以上の点において申請人は労基法九条の労働者に当たらず、被申請人は同法一〇条の使用者に当たるものでないことは明らかである。
3 県勤務員は専従の県役員と同様県党組織たる被申請人から「給与」の支払いを受けている。しかしこれは使用者の指導命令に基づく労働力売買ないし一定量の労働に対する対価などとは性格がまつたく異なるものである。
4 労基法上の労働者とは「事業所または事務所に使用される者で賃金を支払われる者」である。(同法九条)
ここでいう「使用される」とは労働者が使用者との関係において、従属的労働関係にあることを意味するものである。従属的労働関係とは事業主の指揮命令をうけ、その監督のもとに労働を提供し、その対価として賃金をうる関係である。このように従属的労働とこれの対価としての賃金が労働者性を決定づける。
党任務とその遂行は、社会主義を通じて共産主義社会を実現するという、党の目的に向つての行為である。大衆的前衛党である党は、数十万人の党員とすべての党組織の一致団結した共同行動によつてその政治理念を具現化しようと努める。党員の党活動への献身は日本の労働者階級と人民を搾取と収奪から根本的に解放するという崇高な共産主義者の信念と自覚からであつて、活動に対する報酬や対価の取得を目的とするものではないし、いわんや彼を支配する何者かに労働力を売渡した結果ではないことは明白である。党の任務は誇りある党員の確信と自覚に基づき、自発的になされるものであつて、活動の過程において支配被支配の力関係が及ぼされることもありえないから従属的労働をもつて論ずる余地はありえない。
申請人は、申請人と被申請人の関係は、指導・被指導の党内関係のほかに、指導命令を中核とする使用従属関係があると主張するが、このような「二面論」はこれまで詳述した党の目的と性格、党の組織原則からいつて、到底是認しえない暴論である。党組織と党員、上級と下級の党内関係を、その本質的内容から意図的、恣意的に切離したうえで、あたかも従属労働関係が存在するように描き出す詭弁である。
日本共産党の専従者は、すべてその生命、生活の全てを結社の目的実現にむかつて捧げてゆくことを当然の任務としている。この専従者に対する「給与」は、専従役員や専従勤務員が日常不断に、かつ専ら党活動に専念し、他に生計のための収入を得ることが不可能であるから、党任務の遂行を物質的に保障するために支給される活動費である。
それは申請人が主張するように、被申請人に「採用」された結果として支給されたものではなく、党役員であれ、非役員勤務員であれ、専従党員に対して支給されるものなのである。ちなみに「専従」とは党の任務遂行の一つの党内配置であつて企業における「採用」とは根本的に異るものである。
申請人の主張はこれをつきつめれば、党員はすべてその任務を遂行するについて、対価を請求できることに帰着するであろう。党活動を従属労働とみなす立場からは、その労働が専従党員のそれであるか否かは関係のないことだからである。しかし、党活動に対する報酬や対価は、党の目的と性格から容認されないのであつて、圧倒的多数を占める非専従一般党員がこのような対価を得ることもない。
党内にあつてはいかなる使用従属関係も存在しえない。従つて党は使用者としての事業主ではないし、申請人は労働者ではない。党は労基法の適用をうけないのであつて、同法の定める賃金、労働時間、休憩、休日、有給休暇、時間外、休日労働、就業規則等々の諸規定は適用されない。一九条の解雇制限を根拠とする本申請が失当であることはあまりにも明らかである。
党は「自発的意志にもとづき、自覚的規律でむすばれた共産主義者の統一された、たたかう組織である」(規約前文)。党内関係においては労使関係をもつて論ずることの可能な法律関係は一切存在しない。
従つて、本件解任処分が労基法違反として無効とされる理由がない。
いいなあ、こういう理屈で労働法の適用が排除できるんなら、ブラック企業はみんな政党を名乗ったらよさそうです。「わが社の社員はすべてその生命、生活の全てを会社の目的実現にむかつて捧げてゆくことを当然の任務としている。社内にあつてはいかなる使用従属関係も存在しえない。わが社は労基法の適用をうけない 。わが社は自発的意志にもとづき、自覚的規律でむすばれた統一された、たたかう組織である。社内関係においては労使関係をもつて論 ずることの可能な法律関係は一切存在しない 」とね。
第4位は、国民民主党の103万円の壁の話から始まって、例によって3法則氏が社会保険の適用拡大を目の仇にする発言を繰り返しているのを見て、そもそもの筋道を説き聞かせるように書いた「そもそも被用者保険は被用者用なんだが」で、2,691回ですが、もちろん、ものの分からない人はこういうのを読んだりしませんね。
そもそも被用者保険は被用者用なんだが
元々何年も前から段階的に進んできていた被用者保険の拡大の話が、国民民主党の103万円の壁の話となぜか同期連動して106万円の壁がどうとかいう話になり、例によっていつもの3法則氏が法螺貝を吹き鳴らすという事態になっているようですが、もちろん、物事の分かっている人にはちゃんとわかっているように、この問題は、そもそも被用者保険(健康保険と厚生年金)は被用者、すなわち雇われて働いている人のための制度であり、地域保険(国民健康保険と国民年金)は被用者以外、すなわち自営業者やその家族等のための制度であるという制度の根本原則が、様々な経緯や政治的思惑のために捩じ曲げられ、ずれにずれまくってきてしまったことに、その最大の根源があるわけです。
どうかすると、社会保障のかなりの専門家ですら、パートタイマーは昔から適用除外だったと思い込んでいる向きもありますが、それは1980年の3課長内翰という「おてがみ」で導入されたものに過ぎません。それ以前は、健康保険法上にも厚生年金保険法上にも、短時間労働者を適用除外するなどという規定は一切存在せず、実際にも1956年の通達(昭和31年7月10日保文発第5114号)により、日々契約の2カ月契約で勤務時間は4時間のパートタイム制の電話交換手についても適用するという扱いでした。ところが、1980年6月6日付の「おてがみ」により、所定労働時間4分の3以上という基準が示され、それ未満のパートタイマーは適用除外となってのですが、そもそもこの「おてがみ」は発番号もなく、まともな行政文書であるかどうかも怪しげなものです、大体、行政文書であれば、冒頭に「拝啓 時下益々御清祥のこととお慶び申し上げます」なんて書いたりしないでしょう。限りなく私的な「おてがみ」っぽいこのいわゆる3課長内翰によって適用対象から一方的に排除されたパートタイマーを、再び適用対象に入れ込むために、21世紀初頭から既に20年以上にわたって少しずつ対象拡大が行われ、先月から50人超に拡大し、来年の改正でようやく従業員規模要件をなくすところまでいこうというわけですから、この「おてがみ」の後代に及ぼした影響の大きさには嘆息が漏れます。
もちろん、この「おてがみ」が出された背景には日経連の要望があり、昭和のサラリーマンの扶養家族の奥さんがちょいとパートで働いたからといって社会保険なんぞに加入させられて保険料なんぞ払わされたんでは堪らないという、当時の常識に沿ってそそくさと形式も整えずに対処したわけですが、もちろん短時間で働く非正規労働者はみんながみんなサラリーマンの奥様のパートタイマーというわけではないわけで、扶養家族でない非正規労働者もみんな被用者保険から排除されたために、国民という名のつく地域保険に入って、使用者負担分もなく自分で保険料を全額払わなければならないのに、給付は見劣りするという事態になってしまったわけです。
というような話は、21世紀初頭からさんざんぱら議論されつくしたものだと思っていたのですが、残念ながらそういういきさつも何もかも一切無知蒙昧なまま、れっきとした被用者を本来あるべき被用者保険に戻そうということに対して無上の敵意を燃やして攻撃する人々が出てくるんですね。
第5位は、第1位と同じ文脈で、トランプがヴァンスを副大統領候補に選んだという話で、やはりピケティを思い出したエントリです。「バラモン左翼と貧困ビジネス右翼」で1,250回でした。
バラモン左翼と貧困ビジネス右翼
もはやアメリカの英雄と化したかに見えるドナルド・トランプが、副大統領候補に選んだヴァンス上院議員というのは、ラストベルトの虐げられた白人労働者の声をこういう本にした人のようです。
トランプ氏、副大統領候補にバンス上院議員を選出…白人労働者層を描いた回想録がベストセラー
オハイオ州出身のバンス氏は、2016年出版の回想録「ヒルビリー・エレジー」で、製造業が衰退した「ラストベルト」の一つである同州の貧困に苦しむ白人労働者層の姿を描いた。同年大統領選で、トランプ氏を白人労働者が熱狂的に支持した現象が理解できるとして、ベストセラーとなった。
ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち
ニューヨーク生まれの富豪で、貧困や労働者階級と接点がないトランプが、大統領選で庶民の心を掴んだのを不思議に思う人もいる。だが、彼は、プロの市場調査より自分の直感を信じるマーケティングの天才だ。長年にわたるテレビ出演や美人コンテスト運営で、大衆心理のデータを蓄積し、選挙前から活発にやってきたツイッターや予備選のラリーの反応から、「繁栄に取り残された白人労働者の不満と怒り」、そして「政治家への不信感」の大きさを嗅ぎつけたのだ。
トランプを冗談候補としてあざ笑っていた政治のプロたちは、彼が予備選に勝ちそうになってようやく慌てた。都市部のインテリとしか付き合いがない彼らには、地方の白人労働者の怒りや不信感が見えていなかったからだ。そんな彼らが読み始めたのが、本書『ヒルビリー・エレジー(田舎者の哀歌)』だ。(解説より)
ポリティカリーコレクトでアイデンティティポリティクスでジェンダーに”のみ”センシティブで文化的に”だけ”マルクス主義的な「ウォーク」ども、ピケティのいう「バラモン左翼」に満ち満ちた民主党の大統領が、UAWのストライキに飛び入り参加して、組合のピケラインに加わった初めての大統領だと自慢してみても、そんなんじゃだまされねえぞ、粗野な田舎者の労働者の怒りを知るがいい、というメッセージを届けるのには一番ピッタリの人材だというわけでしょう。
その巧みさは、これぞ億万長者のトランプが貧しい労働者の味方面をする貧困ビジネスの真骨頂というべきでしょうか。(本来違う意味ですが)ピケティのいう商売右翼と悪魔合体させて「貧困ビジネス右翼」と呼びたい衝動に駆られます。
(追記)
ちなみにトランプが大統領に当選した2016年末にはこんな記事もありました。
明日のメシを満足に食べられる連中
朝日新聞の「Globe」が、「トランプがきた」の特集。
http://globe.asahi.com/feature/2016113000011.html
「中流が溶けていく」など、アメリカ社会の分析はだいたいこの間論じられているところに沿っていますが、興味深いのはあえて橋下徹前大阪市長にインタビューしているところ。
http://globe.asahi.com/feature/article/2016113000007.html?page=3
「負けたのは知識層だ」というタイトルで、インタビュワの突っ込みに対してむしろそれを上回る突っ込みを入れているやりとりが、いろんなことを考えさせます。
国末 かつて政治家の条件だったポリティカル・コレクトネスを、尊重しない人が出てきている。なぜでしょう。
橋下 有権者が政治家のきれいごとにおかしいと思い始めてきたんですよ。口ばかりで本気で課題解決をしない政治に。米国で言えばワシントン、英国で言えばウェストミンスターの中だけで通用するプロトコル(儀礼)できれいごとを言っても、それは明日のメシを満足に食べられる連中だから。ポピュリズムという言葉で自分たちと異なる価値観の政治を批判するのは間違っています。それは自分の考え以外は間違いだと言っているだけ。民主政治の本質は大衆迎合です。重要なのは、社会の課題を解決する力。エリート・専制政治の方が大衆迎合よりもよほど危険なことは歴史が証明しています。今回の選挙の敗北者は、メディアを含めた知識層ですよ。
ポリティカルコレクトネスを大事に考えている(と少なくとも振る舞っている)インタビュー記者に対して「それは明日のメシを満足に食べられる連中だから」という一言は、かなり痛烈なものでしょう。
そのあとのこのやりとりはさらに刺激的です。
国末 失礼な言い方だが、トランプは成り上がり者。橋下さんも庶民の出身。ポピュリストたちはみんなそうです。だからこそエリートの嫌な面が見えるのでしょうか。
橋下 明日のメシに苦労せず、きれいごとのおしゃべりをして、お互いに立派だ、かっこいい、頭がいいということを見せ合っているのが、過度にポリティカル・コレクトネスを重視する現在の政治家・メディア・知識人の政治エスタブリッシュメントの状況じゃないですか。そんな連中に社会の課題が分かるはずがない。政治なんて、もっとドロドロしたものなんです。僕はポピュリズムというものは課題解決のための手段だと思ってます。メディアの仕事は、下品な発言の言葉尻を批判することではなくて、政治家のメッセージの核を見つけて分析し、有権者にしっかりと情報提供することですよ。
実を言えばこの「明日のメシ」という台詞は、橋下氏だからこそ切実さを感じられる言葉になるので、トランプ氏が言っても空疎な感じがするだろうと思いますが、彼らに投票した人々の気持ちというレベルに降りてみれば、やはり重要なファクターであることは間違いないと思います。
そして、そもそも産業革命以来の200年の歴史を振り返ってみれば、「明日のメシを満足に食べられる連中」の中だけで通用する「プロトコール」に則った「立派」で「かっこいい」「頭がいいということを見せ合っている」政治、貴族やブルジョワジーの(当時の支配イデオロギーからすれば)政治的に正しい政治に対して「ノー」を突きつけてきたのが、社会主義運動や労働運動であったということは、高校世界史の教科書レベルでもちゃんと書いてあるわけです。
彼ら、それまでの上流の政治家たちから見れば眉をひそめるような低俗な要求、喰わせろだの金寄こせだのというドロドロした野卑な政策を掲げる、まさに当時の支配感覚からすれば低劣なポピュリズムが、やがて数にものをいわせて先進国の政治に地歩を獲得していくというのが、とりわけこの100年間の政治の歴史だったのではないか、と振り返ってみると、その人々の流れの果てがトランプやルペンに対してポリティカルコレクトしか対抗軸がなくなってしまったかに見えるこの事態はなんと皮肉なんだろうか、と思わざるを得ません。
(追記)
http://b.hatena.ne.jp/Yoshitada/20161204#bookmark-311098240
Yoshitada
私もそう思いますよ。つか、これは別にトランプ本人が「明日のメシを満足に食べられる連中」かどころか、億万長者であるかどうかとは別の話で、「明日のメシを満足に食べられる連中」のポリティカルコレクトを憎む人々の感情をうまいこと煽り立てたということに過ぎないので。
アメリカに限らず、かつては貧しい人々の本音を代弁していたはずの社会民主主義ないし米流「リベラル」な勢力が、そうやって鳶に油揚をさらわれるような状況になっているということについて、なにがしでも反省するかどうかということだと思いますが。
ご覧の通り、ウォークな人々に反省の気配はかけらもないようです。
第6位は、これはもう過去10年近くに亘って毎年定番のように登場する「勤勉にサービスしすぎるから生産性が低いのだよ!日本人は」で、1,130回です。
勤勉にサービスしすぎるから生産性が低いのだよ!日本人は
産経の記事ですが、
http://www.sankei.com/politics/news/151218/plt1512180033-n1.html (労働生産性、先進7カ国で最低 茂木友三郎生産性本部会長「勤勉な日本が…残念な結果」)
日本の生産性が低いことは以前から繰り返し本ブログでも取り上げてきていますが、この新聞記事を見てがっくりきたのは、日本生産性本部のトップともあろうお方が、こんな認識であったのか、といういささかの絶望感でありました。
茂木会長は、「日本は勤勉な国で、生産性が高いはずと考えられるが、残念な結果だ」と評価した。
生産性のなんたるかがよくわかっていない市井の人々はよくこの手の間違いをしますが、さすがに日本生産性本部会長がこの言葉はないでしょう、と。
茂木会長は「労働人口が減少する日本が国内総生産(GDP)600兆円を達成させるためにも、生産性の向上が必要で、特にサービス産業の改善が求められる」と語った。
まさに、サービス業の生産性というのが何で決まってくるのかをしっかりと考えてこそ、その「改善」も可能になろうというものです。
あとはもう、以前から本ブログをお読みの皆様方にとっては今更的な話ばかりになりますが、せっかくですので、以前のエントリを引っ張り出して、皆様の復習の用に供しようと思います。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8791.html (なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!)
依然としてサービスの生産性が一部で話題になっているようなので、本ブログでかつて語ったことを・・・、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-107c.html(スマイル0円が諸悪の根源)
日本生産性本部が、毎年恒例の「労働生産性の国際比較2010年版」を公表しています。
http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013.html
>日本の労働生産性は65,896ドル(755万円/2009年)。1998年以来11年ぶりに前年水準を割り込み、順位もOECD加盟33カ国中第22位と前年から1つ低下。
>製造業の労働生産性は米国水準の70.6%、OECD加盟主要22カ国中第6位と上位を維持。
>サービス産業の労働生産性は、卸小売(米国水準比42.4%)や飲食宿泊(同37.8%)で大きく立ち遅れ。
前から、本ブログで繰り返していることですが、製造業(などの生産工程のある業種)における生産性と、労働者の労務それ自体が直接顧客へのサービスとなるサービス業とでは、生産性を考える筋道が違わなければいけないのに、ついつい製造業的センスでサービス業の生産性を考えるから、
>>お!日本はサービス業の生産性が低いぞ!もっともっと頑張って生産性向上運動をしなくちゃいけない!
という完全に間違った方向に議論が進んでしまうのですね。
製造業のような物的生産性概念がそもそもあり得ない以上、サービス業も含めた生産性概念は価値生産性、つまりいくらでそのサービスが売れたかによって決まるので、日本のサービス業の生産性が低いというのは、つまりサービスそれ自体である労務の値段が低いということであって、製造業的に頑張れば頑張るほど、生産性は下がる一方です。
http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013/attached.pdf
この詳細版で、どういう国のサービス生産性が高いか、4頁の図3を見て下さい。
1位はルクセンブルク、2位はオランダ、3位はベルギー、4位はデンマーク、5位はフィンランド、6位はドイツ・・・。
わたくしは3位の国に住んで、1位の国と2位の国によく行ってましたから、あえて断言しますが、サービスの「質」は日本と比べて天と地です。いうまでもなく、日本が「天」です。消費者にとっては。
それを裏返すと、消費者天国の日本だから、「スマイル0円」の日本だから、サービスの生産性が異常なまでに低いのです。膨大なサービス労務の投入量に対して、異常なまでに低い価格付けしか社会的にされていないことが、この生産性の低さをもたらしているのです。
ちなみに、世界中どこのマクドナルドのCMでも、日本以外で「スマイル0円」なんてのを見たことはありません。
生産性を上げるには、もっと少ないサービス労務投入量に対して、もっと高額の料金を頂くようにするしかありません。ところが、そういう議論はとても少ないのですね。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)
(追記)
ついった上で、こういうコメントが、
http://twitter.com/nikoXco240628/status/17619055213027328
>サービスに「タダ」という意味を勝手に内包した日本人の価値観こそが諸悪の根源。
たしかに、「サービス残業」てのも不思議な言葉ですね。英語で「サービス」とは「労務」そのものですから素直に直訳すれば「労務残業」。はぁ?
どういう経緯で「サービスしまっせ」が「タダにしまっせ」という意味になっていったのか、日本語の歴史として興味深いところですね。
※欄
3法則氏の面目躍如:
http://twitter.com/ikedanob/status/17944582452944896
>日本の会社の問題は、正社員の人件費が高いことにつきる。サービス業の低生産性もこれが原因。
なるほど、ルクセンブルクやオランダやベルギーみたいに、人件費をとことん低くするとサービス業の生産性がダントツになるわけですな。
さすが事実への軽侮にも年季が入っていることで。
なんにせよ、このケーザイ学者というふれこみの御仁が、「おりゃぁ、てめえら、ろくに仕事もせずに高い給料とりやがって。だから生産性が低いんだよぉ」という、生産性概念の基本が分かっていないそこらのオッサン並みの認識で偉そうにつぶやいているというのは、大変に示唆的な現象ではありますな。
(追記)
http://twitter.com/WARE_bluefield/status/18056376509014017
>こりゃ面白い。池田先生への痛烈な皮肉だなぁ。/ スマイル0円が諸悪の根源・・・
いやぁ、別にそんなつもりはなくって、単純にいつも巡回している日本生産性本部の発表ものを見て、いつも考えていることを改めて書いただけなんですが、3法則氏が見事に突入してきただけで。それが結果的に皮肉になってしまうのですから、面白いものですが。
というか、この日本生産性本部発表資料の、サービス生産性の高い国の名前をちらっと見ただけで、上のようなアホな戯言は言えなくなるはずですが、絶対に原資料に確認しないというのが、この手の手合いの方々の行動原則なのでしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_b2df.html(労働市場改革専門調査会第2回議事録)
(参考)上記エントリのコメント欄に書いたことを再掲しておきます。
>とまさんという方から上のコメントで紹介のあったリンク先の生産性をめぐる「論争」(みたいなもの)を読むと、皆さん生産性という概念をどのように理解しているのかなあ?という疑問が湧きます。労働実務家の立場からすると、生産性って言葉にはいろんな意味があって、一番ポピュラーで多分このリンク先の論争でも意識されているであろう労働生産性にしたって、物的生産性を議論しているのか、価値生産性を議論しているのかで、全然違ってくるわけです。ていうか、多分皆さん、ケーザイ学の教科書的に、貨幣ヴェール説で、どっちでも同じだと思っているのかも知れないけれど。
もともと製造業をモデルに物的生産性で考えていたわけだけど、ロットで計ってたんでは自動車と電機の比較もできないし、技術進歩でたくさん作れるようになったというだけじゃなくて性能が上がったというのも計りたいから、結局値段で計ることになったわけですね。価値生産性という奴です。
価値生産性というのは値段で計るわけだから、値段が上がれば生産性が上がったことになるわけです。売れなきゃいつまでも高い値段を付けていられないから、まあ生産性を計るのにおおむね間違いではない、と製造業であればいえるでしょう。だけど、サービス業というのは労働供給即商品で加工過程はないわけだから、床屋さんでもメイドさんでもいいけど、労働市場で調達可能な給料を賄うためにサービス価格が上がれば生産性が上がったことになるわけですよ。日本国内で生身でサービスを提供する労働者の限界生産性は、途上国で同じサービスを提供する人のそれより高いということになるわけです。
どうもここんところが誤解されているような気がします。日本と途上国で同じ水準のサービスをしているんであれば、同じ生産性だという物的生産性概念で議論しているから混乱しているんではないのでしょうか。
>ていうか、そもそもサービス業の物的生産性って何で計るの?という大問題があるわけですよ。
価値生産性で考えればそこはスルーできるけど、逆に高い金出して買う客がいる限り生産性は高いと言わざるを得ない。
生身のカラダが必要なサービス業である限り、そもそも場所的なサービス提供者調達可能性抜きに生産性を議論できないはずです。
ここが、例えばインドのソフトウェア技術者にネットで仕事をやらせるというようなアタマの中味だけ持ってくれば済むサービス業と違うところでしょう。それはむしろ製造業に近いと思います。
そういうサービス業については生産性向上という議論は意味があると思うけれども、生身のカラダのサービス業にどれくらい意味があるかってことです(もっとも、技術進歩で、生身のカラダを持って行かなくてもそういうサービスが可能になることがないとは言えませんけど)。
>いやいや、製造業だろうが何だろうが、労働は生身の人間がやってるわけです。しかし、労働の結果はモノとして労働力とは切り離して売買されるから、単一のマーケットでついた値段で価値生産性を計れば、それが物的生産性の大体の指標になりうるわけでしょう。インドのソフトウェアサービスもそうですね。
しかし、生身のカラダ抜きにやれないサービスの場合、生身のサービス提供者がいるところでついた値段しか拠り所がないでしょうということを言いたいわけで。カラダをおいといてサービスの結果だけ持っていけないでしょう。
いくらフィクションといったって、フィリピン人の看護婦がフィリピンにいるままで日本の患者の面倒を見られない以上、場所の入れ替えに意味があるとは思えません。ただ、サービス業がより知的精神的なものになればなるほど、こういう場所的制約は薄れては行くでしょうね。医者の診断なんてのは、そうなっていく可能性はあるかも知れません。そのことは否定していませんよ。
>フィリピン人のウェイトレスさんを日本に連れてきてサービスして貰うためには、(合法的な外国人労働としてという前提での話ですが)日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活費をかけて労働力を再生産しなければならないのですから、フィリピンでかかる費用ではすまないですよ。パスポートを取り上げてタコ部屋に押し込めて働かせることを前提にしてはいけません。
もちろん、際限なくフィリピンの若い女性が悉く日本にやってくるまで行けば、長期的にはウェイトレスのサービス価格がフィリピンと同じまで行くかも知れないけれど、それはウェイトレスの価値生産性が下がったというしかないわけです。以前と同じことをしていてもね。しかしそれはあまりに非現実的な想定でしょう。
要するに、生産性という概念は比較活用できる概念としては価値生産性、つまり最終的についた値段で判断するしかないでしょう、ということであって。
>いやいや、労働生産性としての物的生産性の話なのですから、労働者(正確には組織体としての労働者集団ですが)の生産性ですよ。企業の資本生産性の話ではなかったはず。
製造業やそれに類する産業の場合、労務サービスと生産された商品は切り離されて取引されますから、国際的にその品質に応じて値段が付いて、それに基づいて価値生産性を測れば、それが物的生産性の指標になるわけでしょう。
ところが、労務サービス即商品である場合、当該労務サービスを提供する人とそれを消費する人が同じ空間にいなければならないので、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の高い人やその関係者であってサービスに高い値段を付けられるならば、当該労務サービスの価値生産性は高くなり、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の低い人やその関係者であってサービスに高い価格をつけられないならば、当該労務サービスの価値生産性は低くなると言うことです。
そして、労務サービスの場合、この価値生産性以外に、ナマの(貨幣価値を抜きにした)物的生産性をあれこれ論ずる意味はないのです。おなじ行為をしているじゃないかというのは、その行為を消費する人が同じである可能性がない限り意味がない。
そういう話を不用意な設定で議論しようとするから、某開発経済実務家の方も、某テレビ局出身情報経済専門家の方も、へんちくりんな方向に迷走していくんだと思うのですよ。
>まあ、製造業の高い物的生産性が国内で提供されるサービスにも均霑して高い価値生産性を示すという点は正しいわけですから。
問題は、それを、誰がどうやって計ればいいのか分からない、単位も不明なサービスの物的生産性という「本質」をまず設定して、それは本当は低いんだけれども、製造業の高い物的生産性と「平均」されて、本当の水準よりも高く「現象」するんだというような説明をしなければならない理由が明らかでないということですから。
それに、サービスの価値生産性が高いのは、製造業の物的生産性が高い国だけじゃなくって、石油がドバドバ噴き出て、寝そべっていてもカネが流れ込んでくる国もそうなわけで、その場合、原油が噴き出すという「高い生産性」と平均されるという説明になるのでしょうかね。
いずれにしても、サービスの生産性を高めるのはそれがどの国で提供されるかということであって、誰が提供するかではありません。フィリピン人メイドがフィリピンで提供するサービスは生産性が低く、ヨーロッパやアラブ産油国で提供するサービスは生産性が高いわけです。そこも、何となく誤解されている点のような気がします。
>大体、もともと「生産性」という言葉は、工場の中で生産性向上運動というような極めてミクロなレベルで使われていた言葉です。そういうミクロなレベルでは大変有意味な言葉ではあった。
だけど、それをマクロな国民経済に不用意に持ち込むと、今回の山形さんや池田さんのようなお馬鹿な騒ぎを引き起こす原因になる。マクロ経済において意味を持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。
とすれば、その価値生産性とは財やサービスを売って得られた所得水準そのものなので、ほとんどトートロジーの世界になるわけです。というか、トートロジーとしてのみ意味がある。そこに個々のサービスの(値段とは切り離された本質的な)物的生産性が高いだの低いだのという無意味な議論を持ち込むと、見ての通りの空騒ぎしか残らない。
>いや、実質所得に意味があるのは、モノで考えているからでしょう。モノであれば、時間空間を超えて流通しますから、特定の時空間における値段のむこうに実質価値を想定しうるし、それとの比較で単なる値段の上昇という概念も意味がある。
逆に言えば、サービスの値段が上がったときに、それが「サービスの物的生産性が向上したからそれにともなって値段が上がった」と考えるのか、「サービス自体はなんら変わっていないのに、ただ値段が上昇した」と考えるのか、最終的な決め手はないのではないでしょうか。
このあたり、例の生産性上昇率格差インフレの議論の根っこにある議論ですよね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-0c56.html(誰の賃金が下がったのか?または国際競争ガーの誤解)
経済産業研究所が公表した「サービス産業における賃金低下の要因~誰の賃金が下がったのか~」というディスカッションペーパーは、最後に述べるように一点だけ注文がありますが、今日の賃金低迷現象の原因がどこにあるかについて、世間で蔓延する「国際競争ガー」という誤解を見事に解消し、問題の本質(の一歩手前)まで接近しています。・・・・・
国際競争に一番晒されている製造業ではなく、一番ドメスティックなサービス産業、とりわけ小売業や飲食店で一番賃金が下落しているということは、この間日本で起こったことを大変雄弁に物語っていますね。
「誰の賃金が下がったのか?」という疑問に対して一言で回答すると、国際的な価格競争に巻き込まれている製造業よりむしろ、サービス産業の賃金が下がった。また、サービス産業の中でも賃金が大きく下がっているのは、小売業、飲食サービス業、運輸業という国際競争に直接的にはさらされていない産業であり、サービス産業の中でも、金融保険業、卸売業、情報通信業といたサービスの提供範囲が地理的制約を受けにくいサービス産業では賃金の下落幅が小さい。
そう、そういうことなんですが、それをこのディスカッションペーパーみたいに、こういう表現をしてしまうと、一番肝心な真実から一歩足を引っ込めてしまうことになってしまいます。
本分析により、2000 年代に急速に進展した日本経済の特に製造業におけるグローバル化が賃金下落の要因ではなく、労働生産性が低迷するサービス産業において非正規労働者の増加及び全体の労働時間の抑制という形で平均賃金が下落したことが判明した。
念のため、この表現は、それ自体としては間違っていません。
確かにドメスティックなサービス産業で「労働生産性が低迷した」のが原因です。
ただ、付加価値生産性とは何であるかということをちゃんと分かっている人にはいうまでもないことですが、世の多くの人々は、こういう字面を見ると、パブロフの犬の如く条件反射的に、
なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!
いや、付加価値生産性の定義上、そういう風にすればする程、生産性は下がるわけですよ。
そして、国際競争と関係の一番薄い分野でもっとも付加価値生産性が下落したのは、まさにそういう条件反射的「根本的に間違った生産性向上イデオロギー」が世を風靡したからじゃないのですかね。
以上は、経済産業研究所のDPそれ自体にケチをつけているわけではありません。でも、現在の日本人の平均的知的水準を考えると、上記引用の文章を、それだけ読んだ読者が、脳内でどういう奇怪な化学反応を起こすかというところまで思いが至っていないという点において、若干の留保をつけざるを得ません。
結局、どれだけ語ってみても、
なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!
とわめき散らす方々の精神構造はこれっぽっちも動かなかったということでしょうか。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-fcfc.html(労働生産性から考えるサービス業が低賃金なワケ@『東洋経済』)
今年の東洋経済でも取り上げたのですけどね。
「日本の消費者は安いサービスを求め、労働力を買いたたいている。海外にシフトできず日本に残るサービス業をわざわざ低賃金化しているわけだ。またその背景には、高度成長期からサービス業はパート労働者を使うのが上手だったという面もある」(労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員)
こう考えると、サービス業の賃金上昇には、高付加価値化といった産業視点の戦略だけでなく、非正社員の待遇改善など労働政策も必須であることがわかる。「サービス価格は労働の値段である」という基本に立ち戻る必要がある。
第7位は、ネット上で騒がれていた学歴ロンダリングについて、雇用システム論的観点からきちんと論じて見せたもので、そういう意味ではまともに労働法政策の論説的要素もある「「学び直し」が「学歴ロンダリング」になるメンバーシップ型社会 」で、1,072回です。
「学び直し」が「学歴ロンダリング」になるメンバーシップ型社会
何やらネット界隈でまたぞろ「学歴ロンダリング」がバズっているようです。
そういう議論に加わる気はこれっぽっちもありませんが、政府が鉦や太鼓で「学び直し」だ「リスキリング」だと大騒ぎしてくれていても、肝心の日本人の心性はこれっぽっちも変わっておらず、そういうのは唾棄すべき「学歴ロンダリング」であるというメンバーシップ感覚溢れる強い信念に揺るぎはなさそうです。
いうまでもなく、ジョブ型社会においては学歴、すなわち教育訓練機関の修了証書(ディプロマ)というのは、あるジョブを遂行するだけのスキルを身につけていることを証明しますよ、という資格証明なので、いまそれだけの学歴がないためにそのジョブに応募することができない人が、学び直しをして、れっきとしたディプロマをもらって、そいつを持って揚々と応募し、めでたく採用されてそのジョブに就く、というのは、まさに出世街道の王道です。別にほかの会社に転職するだけではなく、同じ会社の上位のジョブに応募するためにも、「いまの学歴じゃ無理だよ」と言われて一念発起してリスキリングしてディプロマを獲得して、めでたく上級ポストに移るというのはよくあることです。
ところが、そういうジョブ型社会では一番真っ当なコースであるはずの学び直しやらリスキリングやらが、このメンバーシップ型社会では、正々堂々とした出世街道を進むのではなく、その裏道をこそこそとすり抜けていくズルの極みみたいに見られてしまうのです。
なぜかといえば、これも拙著で繰り返し繰り返し山のように書いてきたことですが、日本社会では特定のジョブに向けた特定のスキルなどという枝葉末節のことはどうでもいいのであって、何にでも積極的に取り組み、一生懸命頑張ってなんでもこなせるようになる人間力こそが最も重要な「能力」だからであって、その「能力」というのは、十代の頃に一生懸命受験勉強に取り組んで高い偏差値の大学に入れたということによって「のみ」示されるのであって、その後大学でどんな勉強をしようがしまいがほとんど関係がないからです。
したがって、政府が鉦や太鼓で推奨する「学び直し」なるものは、メンバーシップ型感覚に溢れた常識人の目には、本来大学受験時に確定的に判定されたところの「能力」評価を、大学院などという不要不急の盲腸みたいな役立たずの機関にこそこそと潜り込むことによって、インチキにも上書きしてしまおうというこの上なくずる賢くも悪辣な企みということになってしまいます。
教育訓練機関で学ぶことによってスキルを高め、それを正当に評価されることによってより高い社会的地位に上昇することが、最も正当な出世の道であるジョブ型社会と、教育訓練機関に入るために努力することによって「能力」を示し、それを正当に評価されることによってより高い社会的地位に上昇することが、最も正当な出世の道であるメンバーシップ型社会との間に、深くて暗い川が流れていることを、この「学歴ロンダリング」という侮蔑語ほどよく示している言葉もないように思われます。
第8位は、内閣府のへんてこなコンテストを取り上げた「内閣府(とりわけ幹部)に労働法研修を(追記あり)」で、969回ですが、これが実はPV数がダントツで21,566にもなっています。
内閣府(とりわけ幹部)に労働法研修を(追記あり)
毎週送られてくる『労働新聞』。私の書評の番でないときは、だいたい「ふーん」といいながらめくっていくんですが、今回(7月8日号)には驚愕しました。「今週の視点」の「驚愕のアイデアが優勝飾る」という記事。
https://www.rodo.co.jp/news/179307/
内閣府が全職員を対象に開いた賃上げに関する政策コンペで、「残業の業務を従業員が個人事業主としてこなし、手取り増を図る」という施策が優勝した。労働者性をめぐるこれまでの議論を完全に無視しており、実現可能性には疑問符がつく。厚生労働省にはぜひ「指揮命令が必要な業務だから労働者を雇う」という基本のキを、内閣府に教授してもらいたい。
あまりのことに、内閣府のサイトに飛んで行ってみたら、確かにありましたぞなもし。
「賃上げを幅広く実現するための政策アイデアコンテスト」を開催しました
今般、内閣府全職員を対象に、「賃上げを幅広く実現するための政策アイデアコンテスト」を開催しました。
今年の春闘で昨年以上の賃上げ率が示される中、今後、物価高を超える賃上げを実現し、「賃金が上がることが当たり前」という前向きな意識を全国に広げ、社会全体に定着させていくことが重要です。
こうした問題意識の下、本コンテストでは、内閣府の職員のみならず、他省庁・地方自治体・民間企業からの出向者等の参加を得て、賃上げを幅広く実現するための政策アイデアを募りました。
応募アイデア総数の36件の中から、アイデアの新規性や詳細度、実現可能性の観点からの評価と、応募者からのプレゼンテーションにより、以下の優勝および優秀アイデアが決定されました。
その優勝したアイディアというのはこれです。
https://www.cao.go.jp/others/jinji/cntest/winner.pdf
![001_20240704140901 001_20240704140901](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/001_20240704140901.jpg)
![002_20240704141001 002_20240704141001](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/002_20240704141001.jpg)
いや、もちろんこのアイディアを思いついて応募した内閣府の若い職員を責める気持ちは全くありません。若いうちはいろいろと考えを広げるのはいいことです。それとともに色々と勉強していけばいい。でもね、経済財政諮問会議や規制改革推進会議を抱え、ここ20年以上にわたって労働政策を大幅に左右するだけの権限を振るってきた内閣府の幹部職員の方々が、このアイディアを素晴らしいと褒め称えて優勝させていることについては、そこまで大目に見るわけにはいかないように思われますぞ。
「思ヒテ学バザレバ即チ殆シ」ってのは、若者に対しては「だからもっと勉強しような。だからといって考えることに臆病になるなよ」という意味合いで使われるんだと思うのですが、若くない方々にはもう少し厳しめの意味合いになりそうな気がします。
少なくとも、「アイデアの新規性や詳細度、実現可能性の観点からの評価と、応募者からのプレゼンテーションにより」決定したと書かれている以上、内閣府の幹部諸氏には、このアイディアがどれくらい実現可能性があると判断したのか詳細にお聞きしたいですね。なんてったって、優勝アイディアですからね。
まさか次の規制改革推進会議で、「労働者の時間外労働はフリーランスということにしてやるべし」なんてのが入り込んでくるんじゃないでしょうね。
(追記)
先週紹介したこの記事ですが、ここにきてようやくネット上でも話題になってきたようです、
内閣府のコンテストで「残業時間から突然個人事業主に変身し、業務委託契約になる」という案が、優勝しているらしい「過労死待ったナシ」
![240613_04 240613_04](https://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/240613_04.jpg)
(再追記)
というわけで、遂に朝日新聞の澤路毅彦記者が記事にしました。
脱法行為?賃上げアイデア「残業時間は個人事業主に」 内閣府が表彰
残業時間はすべての会社員を個人事業主に――。こんな提案を内閣府が政策コンテストで優勝アイデアとして表彰したことがわかった。労働法規制や社会保険料の支払い義務を免れるための「脱法スキーム」を推奨しているともうけとられかねない内容だ。・・・・
澤路さんのつぶやき:
濱口さんのブログで気がつきました。揚げ足取りが本意ではありませんが、さすがに驚きました。脱法行為?賃上げアイデア「残業時間は個人事業主に」 内閣府が表彰:朝日新聞デジタル
優秀賞の中には「物価上昇と連動した最低賃金改定システムの導入」というのがあります。こういうシステムの国はあるので、決して新しいものではありませんが、よっぽど内閣府らしいアイデアではないかと思いまし
(再三追記)
朝日新聞が社説で取り上げたようです。
(社説)内閣府コンペ 新藤大臣の見識を疑う
この役所に政策の立案を任せて大丈夫なのか。そんな疑念を持たざるをえない事態だ。責任者である新藤義孝経済再生担当相に、早急に説明を求める。・・・
社説なので署名はありませんが、もちろん書いたのは澤路さんでしょう。
これには堪らないと、内閣府は諸々の情報をお蔵入りさせてしまったようです。
「賃上げを幅広く実現するための政策アイデアコンテスト」を開催しました
これらのアイデアの概要については、一定の周知期間が経過し、個人情報が含まれること等を考慮の上、掲載を終了しました。
第9位は、「高齢者の定義は・・・55歳だった!?」で920回ですが、これも労働法政策のトリビア編でしょうか。
高齢者の定義は・・・55歳だった!?
政府の経済財政諮問会議で、民間議員が高齢者の定義を65歳から70歳にせよと主張したという話が駆け巡っています。大体みんな社会保障、年金関係の文脈で騒いでいるようですが、原資料を見ると、そういう風にならないように、わざと「社会保障の強靱化」の方ではなく、「女性活躍・子育て両立支援、全世代型リスキリング、予防・健康づくり」の方の、リスキリングの項目に書き込んでいたようですね。
誰もが活躍できるウェルビーイングの高い社会の実現に向けて① (女性活躍・子育て両立支援、全世代型リスキリング、予防・健康づくり)
〇全世代リスキリングの推進:高齢者の健康寿命が延びる中で、高齢者の定義を5歳延ばすことを検討すべき。その上で、いつでもチャレンジできるよう、DXや将来の人材ニーズを踏まえ、就業につながる教育・訓練の実施と、新たな給付等を活用した受講者の生活保障の充実を、利用状況を検証しつつ一体的に進める。その際、諸外国の例も参考にしながら、生産性向上の切り札であるリスキリング推進をめぐる現下の課題に対して関係省庁が連携の上、女性、高齢者、就職氷河期世代等を含む全世代を対象としたリスキリングについて官民一体による国民的議論を喚起すべき。
誰もが活躍できるウェルビーイングの高い社会の実現に向けて② (社会保障の強靱化)
とはいえ、高齢者の定義を5歳引き上げるといわれれば、みんな書いていない社会保障の方の話だと思ってしまうわけです。
わざわざそちらの方に書き込んだリスキリングの話だとは思ってくれないようです。
ちなみに、リスキリングによって長く働けるようにしようということでいえば、雇用に関しては既に60歳以上定年と65歳までの雇用確保が義務づけられているのに加えて、70歳までの就業確保が努力義務となっていることは周知の通りですが、それと高齢者の定義とがどう関わるのか、あんまり明確ではないですね。
というか、これはおそらく労働関係者でも必ずしもよく知られていないのではないのではないかと思われるのですが、実はこれら規定が置かれている高年齢者雇用安定法には、高年齢者の定義規定というのがあるんです。正確に言うと、法律ではなくてその施行規則(省令)ですが。
高年齢者等の雇用の安定等に関する法律
(定義)
第二条 この法律において「高年齢者」とは、厚生労働省令で定める年齢以上の者をいう。
高年齢者等の雇用の安定等に関する法律施行規則
(高年齢者の年齢)
第一条 高年齢者等の雇用の安定等に関する法律(昭和四十六年法律第六十八号。以下「法」という。)第二条第一項の厚生労働省令で定める年齢は、五十五歳とする。
なんと日本国の実定法上、「高年齢者」というのは55歳以上の人のことをいうんですね。
これは、55歳定年が一般的であった1970年代に作られた規定が、そのまま半世紀にわたってそのまま維持され続けているために、こうなっているんですが、おそらく現代的な感覚からすれば違和感ありまくりでしょう。
ちなみに、同省令には続いて、
(中高年齢者の年齢)
第二条 法第二条第二項第一号の厚生労働省令で定める年齢は、四十五歳とする。
45歳になったら中高年という規定もあって、こちらはそうかなという気もしますが(若者だと思っている人もいるようですが)、でも45歳からたった10年で55歳になったら高齢者というのは可哀想すぎますね。
高齢者の定義というのは、下手に踏み込むと得体の知れないものが出てくる魔界のようです。
そして栄えある第10位はこれも5年前から毎年なぜか人気が続いている「「工業高校」と「工科高校」の違い 」で、822回です。
「工業高校」と「工科高校」の違い
正直意味がよくわからないニュースです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186251000.html (「工業高校」を一斉に「工科高校」に変更へ 全国初 愛知県教委)
愛知県の教育委員会が、県立の「工業高校」13校の名称を、再来年4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたことが分かりました。科学の知識も学び、産業界の技術革新に対応できる人材を育成するのがねらいで、工業高校の名称を一斉に変更するのは全国で初めてだということです。 ・・・
いやまあ、高校の名称をどうするかは自由ですが、その理由がよくわからない。
・・・関係者によりますと、すべての県立工業高校の名称について「工学だけでなく、科学も含めた幅広い知識を学ぶ高校にしたい」というねらいから、再来年の4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたということです。・・・
ほほう、「工業高校」だと科学は学べないとな。「工科高校」だと科学が学べるとな。
「工業高校」の「業」は「実業」の「業」ですが、「工科高校」の「科」は「科学」の「科」だったとは初めて聞きましたぞなもし。
東京工業大学は実業しか学べないけど、東京工科大学は科学が学べるんだね。ふむふむ。
というだけではしょうもないネタなので、トリビアネタを付け加えておくと、東京工業大学は前身は東京高等工業学校でしたが、それとならぶ東京高等商業学校は、一橋大学になる前は東京商科大学でした。一方が「業」で他方が「科」となった理由は何なんでしょうか。
ちなみに、東京高商と並ぶ神戸高等商業学校は、大学になるときには神戸商業大学と名乗っていますな。今の神戸大学の前身ですが、同じ商業系でもこちらは「科」じゃなくて「業」です。
さらにちなみに、神戸商科大学というのもあって、これは戦前の兵庫県立神戸高等商業学校が戦後大学になるときにそう名乗ったんですね。今の兵庫県立大学の前身です。
なんだか頭が混乱してきましたが、東京商科大学は戦時中東京産業大学と名乗っていたので、別に「業」を忌避していたわけでもなさそうです。
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