森直人・澤田稔・金子良事編著『「多様な教育機会」から問う』
昨日に続き、金子良事さんからお送りいただいた二冊セットの第2巻目です。
https://www.akashi.co.jp/book/b652787.html
このうち、第2章の森直人「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考え」という論文は、もともと不登校支援をめぐる対応から始まった多様な教育機会の議論の参照枠として、佐々木輝雄の「二つの教育の機会均等論」を取り上げています。
佐々木輝雄という名前を聞いて分かる人は、労働分野でもほとんどいないでしょう。ましてや教育分野では完全に知られざる人物でしょう。彼は教育界からも労働界からも辺境である職業訓練の世界で、教育とは何かを考え続けた人です。
ごく最近、稲葉振一郎氏が『市民社会論の再生』(春秋社)で、これまた異端中の異端の東城由紀彦と並んで取り上げたりしたので、ちょっと名が知られるようになったかも知れません。でも、JILPT図書館の佐々木輝雄職業教育論集全3巻は、あまり読まれている気配がないですね。
森さんの議論は、不登校支援から始まった普通教育機会確保法をめぐる教育の機会均等とは何かという議論と、かつて終戦直後の教育刷新会議で交わされた労働者教育(戦前の実業補習学校、青年訓練所、青年学校の流れをくむ企業内の事実上の教育)を認めるのか認めないのかをめぐる「教育機会均等」の議論を重ね焼きしながら、そのパラドックスを浮き彫りにしていくものです。
私は不登校支援をめぐる経緯にはまったく疎いので、その成否はよく分かりませんが、佐々木輝雄をちゃんと読み込んで、今現在の課題に応用してくれている人がいるということ自体に、しばし感動しました。いや、そう感動する資格は、佐々木輝雄の後継者である田中萬年さんにこそあるのでしょうが。
ところがその先を読んでいくと、なんと変な奴の変なエッセイが出てきます。濱口桂一郎という奴が、今は廃刊された『労働情報』という雑誌に寄稿した「交換の正義と分配の正義」をほじくり返してきて、パラドックスの構造はこれと一緒だというのです。うーん、そうですかねえ。書いた本人が、必ずしもそうは思えないんですが。
森さんが拙論を持ち出してきているのが正しいのかどうか、せっかくなので、その小論をここに再アップしておきますね。
本誌で前々号、前号に掲載された二つの対談(金子良事×龍井葉二、禿あや美×大槻奈己)を読んで論評せよとの依頼である。昨年来の官邸主導の「同一労働同一賃金」政策に対して、労働運動の側が明確なスタンスを示し得ていない現状の中で、これまで避けられてきた「論争」をあえて喚起しようという壮図に呼応して、本稿では日本の賃金制度の歴史を賃金思想に係るイデオロギー批判的観点から再考察し、両対談が提起した問題を掘り下げて論じてみたい。
このシリーズは「年功給か職務給か」と銘打っているが、そもそも両者は厳密な意味で対立しているのだろうか。龍井が言うように前提となる雇用システムが「仕事に人がつく」のか「人に仕事がつく」のかという意味では両者は対立概念である。しかし、賃金がいかなる社会的価値に対して支払われる(べきな)のか、言い換えれば賃金制度が従うべき正義は何か、という観点からは、対立軸は曖昧になる。「年功」が表示するものは何なのか、年齢に伴う生計費なのか、勤続に伴う職業能力なのか。
龍井が持ち出している勤続十年のシングルマザーの相談は示唆的である。彼女は「昨日入ってきた高校生の女の子となんでほとんど同じ時給なのか」と問う。大槻は「10年経験が違ったら・・・同じ賃金には絶対にならない」といささか的外れな反応をするが、彼女が聞きたいのは「養ってもらっている高校生と、子どもを育てているお母さんと時給が同じ」でいいのかということだ。
そもそも賃金は労務の対価として市場における交換の正義に従うとともに、それによって生計を立てるべき原資として分配の正義に服するべきものである。しかしながら両者は多くの場合矛盾する。このダブルバインドをいかに整合性ある思想の下に統一するかは、いかなる賃金制度であっても解決しなければならない課題であった。そして極めてざっくりいえば、それを労働市場の集団的プレイヤーたる労働組合が主導する形で、あくまでも交換の正義に従う「職務」に基づく賃金を分配の正義を充たす「生活」しうる水準に設定することによって達成しようとしてきたのが欧米の職務型社会であった。原則としてそれで生活できる水準の賃金を、団体交渉を通じて「職務」単位で決定する。それで賄いきれない部分は福祉国家を通じて、すなわち純粋に分配の正義に基づいて補われる。
それに対し金子が引く伍堂卓雄は、賃金決定において年齢と扶養家族という分配の正義を全面に出し、交換の正義の追求を否定した。市場の集団的プレイヤーとしての労働組合が欠落した生活給思想は、戦時体制下に皇国勤労観によって増幅強化され、終戦直後の電産型賃金体系に完成を見る。当時、世界労連はかかる賃金制度を痛烈に批判していたのだが、日本の労働組合は断乎として交換の正義を拒否したのである。
当初職務給への移行の論陣を張っていた経営側は、1969年の『能力主義管理』において、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給に転換した。正確にいうと、「職務を遂行する能力」という一見職務主義的な装いの下に、その実は極めて主観的な「能力」評価に基づく賃金制度を定式化したのである。「能力主義」とは、実際には「能力」査定によって差が付く年功制を意味した。そしてその差が不可視の「能力」によって正当化される仕組みの確立でもあった。本来交換の正義を否定して企業における分配の正義として構築された年功給が、「能力」の対価として企業という名の内部労働市場の交換の正義によって正当化されるという入り組んだ構図である。
意外に思われるかも知れないが、「能力主義」においては、既に非正規労働者の均等処遇問題は論理的には解決済みである。なぜなら、正社員の賃金が高く、非正規労働者の賃金が低いのは、その「能力」にそれだけの格差があるからだ。そして、非正規労働者の主力が家計補助型のパート主婦と学生アルバイトで占められている時代には、それは分配の正義に概ね合致していた(そのずれを一身に体現するのがシングルマザーであったわけだが)。
1990年代以降、性別と年齢を問わない形での非正規化が進行し、とりわけ家計維持型の若年・中年男性非正規労働者が目立つようになると、その生活費と低賃金のずれに社会的関心が集まってくる。しかしそれを的確に論じうるような道具立ては、先行する時代に既に消滅していた。主婦パートや学生アルバイトが低賃金なのは彼らの「能力」が低いからであり、正社員の高賃金はその「能力」が高いゆえであるという経済学的説明が正しいならば、若年・中年男性非正規労働者がいかに生活に苦しんでいたとしても、それは彼らの「能力」不足の帰結に過ぎない。生活給を能力で説明することで賃金のダブルバインドを解消してしまったかつての超先進国ニッポンは、交換の正義で掬えない分配の正義を正面から論じる道具をも見失ってしまった。
本来分配の平等を何ら含意しない(し、むしろ思想的には逆向きである)職務給が、しかも成果主義的偏奇すら伴って、あたかも格差是正の妙薬であるかのように論じられるという現代日本のねじれにそれが露呈している。大槻はいささか無防備に「「働いた貢献」と「その時得られる報酬」っていうのは、そのときどきでバランスする必要がある」と口走る。だが今日の「能力主義」+「成果主義」的年功制は、(少なくとも建前上は)そんなものは既にクリアしているのだ。言うまでもなく、同一労働(なら)同一賃金とは対偶をとれば異なる賃金(なら)異なる労働であり、シングルマザーのレジ係を(昨日入った女子高生ではなく)そのスーパーの正社員の賃金水準に引き上げるものではない。この混迷をさらに増幅しているのが、(本来人権論的問題意識から男女差別についてのみ同一労働でなくても超越的に適用されるべきものとして発展してきた)同一「価値」労働同一賃金論を、職務分析という手法論を経由して、非正規労働問題に不用意に持ち込んできたことである。
職務給も同一労働同一賃金も、それ自体は交換の正義しか含意しない。それを分配の正義であるかのごとく思い込むならば、手ひどいしっぺ返しを喰らうだろう。我々の課題は複合的である。一方で「能力」という万能空疎の原理ではなく、より客観的な指標に基づいて交換の正義たる賃金制度を再確立すること。他方でそれができる限り分配の正義をも充たすように企業と雇用形態を超えた「生活できる賃金水準」を(産業レベルで)確立し、併せて福祉国家という分配の正義を強化すること。そのいずれが欠けても、事態は少なくとも短期的には悪化するだろう。我々は依然として「生活」と「能力」のアポリアの中にある。
« 渡辺将人『台湾のデモクラシー』 | トップページ | 家政婦過労死事件の高裁判決確定 »
コメント