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2024年10月

2024年10月 7日 (月)

朝日新聞社説が拙著『家政婦の歴史』に言及

51sgqlf3yol_sx310_bo1204203200__20241007064001 本日の朝日新聞の社説「家政婦の労災 労働者として保護せよ」は、タイトル通りの内容ですが、その中で拙著『家政婦の歴史』にわざわざ言及して、この問題の歴史的経緯について正しい認識を持つことを求めています。

(社説)家政婦の労災 労働者として保護せよ

Asahi_20241007064001   住み込みの女中は家族も同然。だから、自由に働かせてもいい――。そんな時代錯誤を許す条項が、労働基準法にある。速やかに改め、家政婦(夫)が労働者として保護されるようにすべきだ。

 2015年に、家政婦と訪問介護ヘルパーを兼ねていた60代の女性が急死した。休暇の同僚に代わり、7日間通しで個人宅に泊まり込んで働いた後のことだった。

 労働時間は計105時間、1日平均15時間に及んだが、労働災害の検討対象になったのは、介護をした31時間半だけ。残りは労基法が適用されない「家事使用人」としての仕事なので「過重業務」とはいえず、長時間労働による過労死にはあたらない――。労働基準監督署と東京地裁はそう判断した。

 だが、先月あった東京高裁の判決はこれを覆し、介護も家事も同一の会社との雇用契約に基づく一体の業務であると判断した。国は上告を見送り、判決が確定した。

 問題の根にあるのは、「家事使用人」には労基法を適用しないとする同法116条2項の規定だ。原告側は、社会的身分を理由とした差別などの憲法違反を主張したが、高裁判決はこの規定の解釈には踏み込まなかった。

 労基法制定時、この条項が主に想定していたのは、今では少なくなった「住み込みの女中」だった。ただ同時に、会社の紹介で個人と契約する家政婦も、同じ枠で扱われるようになった。

 『家政婦の歴史』を著した濱口桂一郎氏によると、大正時代に会社が家政婦を雇って家庭に派遣する事業が始まったが、敗戦後に労働者供給事業が禁止されたため、有料職業紹介の枠組みで生き残りを図った。「雇用主は紹介先の個人家庭」というかたちにして、「家事使用人」の枠に組み入れられたのだという。

 状況の変化や今回の訴訟を受けて、厚生労働省は、家事使用人にも労基法を適用する方向で具体的施策を検討すべきではないか、と提案している。規定の削除を考えるべきときだろう。

 ただ、労基法の適用対象になっても、雇い主が個人家庭の場合に、労災保険料の支払いや労働条件の順守を徹底できるのか、疑問も残る。

 今は介護も家事も労働者派遣が認められている。派遣先の家庭で仕事の指揮命令を受けている実態に照らしても、事業者に雇用される派遣労働者として労基法や労災保険の適用を受けるほうが、働き手の保護につながるはずだ。実態を踏まえ、時代にあった姿にしていきたい。

2024年10月 5日 (土)

家政婦過労死事件の高裁判決確定

Asahi_20241005182301 先日の東京高裁の国・渋谷労基署長(山本サービス)事件判決が、国が上告しなかったことにより確定したようです。

家政婦の急死、「労災」と認めた高裁判決が確定 国が上告せず

 家政婦と介護ヘルパーを兼ねて住み込みで働いていた60代女性の急死をめぐり、遺族が労災認定を求めた訴訟で、遺族補償などの不支給処分を取り消した東京高裁判決が確定した。敗訴した国側が、上告期限の3日までに上告しなかった。
 厚生労働省は「判決内容を真摯(しんし)に受け止め、所要の手続きを進めて参ります」とコメントした。 

51sgqlf3yol_sx310_bo1204203200__20241005182801 この事件は、拙著『家政婦の歴史』を執筆するもとになった記念すべき事件であり、本判決は、理屈建ては拙著とは異なるものですが、結論は本来あるべき姿によせたものになっていただけに、ひとまずは良かったということになるのでしょう。

できれば、今回の判決確定を機に、この問題に関心を寄せる多くの方々が、拙著を読んで、家事使用人と家政婦(派出婦)をめぐる歴史の真実に触れていただきたいものだと念じております。

 

2024年10月 3日 (木)

森直人・澤田稔・金子良事編著『「多様な教育機会」から問う』

652787 昨日に続き、金子良事さんからお送りいただいた二冊セットの第2巻目です。

https://www.akashi.co.jp/book/b652787.html

このうち、第2章の森直人「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考え」という論文は、もともと不登校支援をめぐる対応から始まった多様な教育機会の議論の参照枠として、佐々木輝雄の「二つの教育の機会均等論」を取り上げています。

佐々木輝雄という名前を聞いて分かる人は、労働分野でもほとんどいないでしょう。ましてや教育分野では完全に知られざる人物でしょう。彼は教育界からも労働界からも辺境である職業訓練の世界で、教育とは何かを考え続けた人です。

ごく最近、稲葉振一郎氏が『市民社会論の再生』(春秋社)で、これまた異端中の異端の東城由紀彦と並んで取り上げたりしたので、ちょっと名が知られるようになったかも知れません。でも、JILPT図書館の佐々木輝雄職業教育論集全3巻は、あまり読まれている気配がないですね。

森さんの議論は、不登校支援から始まった普通教育機会確保法をめぐる教育の機会均等とは何かという議論と、かつて終戦直後の教育刷新会議で交わされた労働者教育(戦前の実業補習学校、青年訓練所、青年学校の流れをくむ企業内の事実上の教育)を認めるのか認めないのかをめぐる「教育機会均等」の議論を重ね焼きしながら、そのパラドックスを浮き彫りにしていくものです。

私は不登校支援をめぐる経緯にはまったく疎いので、その成否はよく分かりませんが、佐々木輝雄をちゃんと読み込んで、今現在の課題に応用してくれている人がいるということ自体に、しばし感動しました。いや、そう感動する資格は、佐々木輝雄の後継者である田中萬年さんにこそあるのでしょうが。

20170603225520_2 ところがその先を読んでいくと、なんと変な奴の変なエッセイが出てきます。濱口桂一郎という奴が、今は廃刊された『労働情報』という雑誌に寄稿した「交換の正義と分配の正義」をほじくり返してきて、パラドックスの構造はこれと一緒だというのです。うーん、そうですかねえ。書いた本人が、必ずしもそうは思えないんですが。

森さんが拙論を持ち出してきているのが正しいのかどうか、せっかくなので、その小論をここに再アップしておきますね。

年功給か職務給か?@『労働情報』にコメント

 本誌で前々号、前号に掲載された二つの対談(金子良事×龍井葉二、禿あや美×大槻奈己)を読んで論評せよとの依頼である。昨年来の官邸主導の「同一労働同一賃金」政策に対して、労働運動の側が明確なスタンスを示し得ていない現状の中で、これまで避けられてきた「論争」をあえて喚起しようという壮図に呼応して、本稿では日本の賃金制度の歴史を賃金思想に係るイデオロギー批判的観点から再考察し、両対談が提起した問題を掘り下げて論じてみたい。

 このシリーズは「年功給か職務給か」と銘打っているが、そもそも両者は厳密な意味で対立しているのだろうか。龍井が言うように前提となる雇用システムが「仕事に人がつく」のか「人に仕事がつく」のかという意味では両者は対立概念である。しかし、賃金がいかなる社会的価値に対して支払われる(べきな)のか、言い換えれば賃金制度が従うべき正義は何か、という観点からは、対立軸は曖昧になる。「年功」が表示するものは何なのか、年齢に伴う生計費なのか、勤続に伴う職業能力なのか。

 龍井が持ち出している勤続十年のシングルマザーの相談は示唆的である。彼女は「昨日入ってきた高校生の女の子となんでほとんど同じ時給なのか」と問う。大槻は「10年経験が違ったら・・・同じ賃金には絶対にならない」といささか的外れな反応をするが、彼女が聞きたいのは「養ってもらっている高校生と、子どもを育てているお母さんと時給が同じ」でいいのかということだ。

 そもそも賃金は労務の対価として市場における交換の正義に従うとともに、それによって生計を立てるべき原資として分配の正義に服するべきものである。しかしながら両者は多くの場合矛盾する。このダブルバインドをいかに整合性ある思想の下に統一するかは、いかなる賃金制度であっても解決しなければならない課題であった。そして極めてざっくりいえば、それを労働市場の集団的プレイヤーたる労働組合が主導する形で、あくまでも交換の正義に従う「職務」に基づく賃金を分配の正義を充たす「生活」しうる水準に設定することによって達成しようとしてきたのが欧米の職務型社会であった。原則としてそれで生活できる水準の賃金を、団体交渉を通じて「職務」単位で決定する。それで賄いきれない部分は福祉国家を通じて、すなわち純粋に分配の正義に基づいて補われる。

 それに対し金子が引く伍堂卓雄は、賃金決定において年齢と扶養家族という分配の正義を全面に出し、交換の正義の追求を否定した。市場の集団的プレイヤーとしての労働組合が欠落した生活給思想は、戦時体制下に皇国勤労観によって増幅強化され、終戦直後の電産型賃金体系に完成を見る。当時、世界労連はかかる賃金制度を痛烈に批判していたのだが、日本の労働組合は断乎として交換の正義を拒否したのである。

 当初職務給への移行の論陣を張っていた経営側は、1969年の『能力主義管理』において、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給に転換した。正確にいうと、「職務を遂行する能力」という一見職務主義的な装いの下に、その実は極めて主観的な「能力」評価に基づく賃金制度を定式化したのである。「能力主義」とは、実際には「能力」査定によって差が付く年功制を意味した。そしてその差が不可視の「能力」によって正当化される仕組みの確立でもあった。本来交換の正義を否定して企業における分配の正義として構築された年功給が、「能力」の対価として企業という名の内部労働市場の交換の正義によって正当化されるという入り組んだ構図である。

 意外に思われるかも知れないが、「能力主義」においては、既に非正規労働者の均等処遇問題は論理的には解決済みである。なぜなら、正社員の賃金が高く、非正規労働者の賃金が低いのは、その「能力」にそれだけの格差があるからだ。そして、非正規労働者の主力が家計補助型のパート主婦と学生アルバイトで占められている時代には、それは分配の正義に概ね合致していた(そのずれを一身に体現するのがシングルマザーであったわけだが)。

 1990年代以降、性別と年齢を問わない形での非正規化が進行し、とりわけ家計維持型の若年・中年男性非正規労働者が目立つようになると、その生活費と低賃金のずれに社会的関心が集まってくる。しかしそれを的確に論じうるような道具立ては、先行する時代に既に消滅していた。主婦パートや学生アルバイトが低賃金なのは彼らの「能力」が低いからであり、正社員の高賃金はその「能力」が高いゆえであるという経済学的説明が正しいならば、若年・中年男性非正規労働者がいかに生活に苦しんでいたとしても、それは彼らの「能力」不足の帰結に過ぎない。生活給を能力で説明することで賃金のダブルバインドを解消してしまったかつての超先進国ニッポンは、交換の正義で掬えない分配の正義を正面から論じる道具をも見失ってしまった。

 本来分配の平等を何ら含意しない(し、むしろ思想的には逆向きである)職務給が、しかも成果主義的偏奇すら伴って、あたかも格差是正の妙薬であるかのように論じられるという現代日本のねじれにそれが露呈している。大槻はいささか無防備に「「働いた貢献」と「その時得られる報酬」っていうのは、そのときどきでバランスする必要がある」と口走る。だが今日の「能力主義」+「成果主義」的年功制は、(少なくとも建前上は)そんなものは既にクリアしているのだ。言うまでもなく、同一労働(なら)同一賃金とは対偶をとれば異なる賃金(なら)異なる労働であり、シングルマザーのレジ係を(昨日入った女子高生ではなく)そのスーパーの正社員の賃金水準に引き上げるものではない。この混迷をさらに増幅しているのが、(本来人権論的問題意識から男女差別についてのみ同一労働でなくても超越的に適用されるべきものとして発展してきた)同一「価値」労働同一賃金論を、職務分析という手法論を経由して、非正規労働問題に不用意に持ち込んできたことである。

 職務給も同一労働同一賃金も、それ自体は交換の正義しか含意しない。それを分配の正義であるかのごとく思い込むならば、手ひどいしっぺ返しを喰らうだろう。我々の課題は複合的である。一方で「能力」という万能空疎の原理ではなく、より客観的な指標に基づいて交換の正義たる賃金制度を再確立すること。他方でそれができる限り分配の正義をも充たすように企業と雇用形態を超えた「生活できる賃金水準」を(産業レベルで)確立し、併せて福祉国家という分配の正義を強化すること。そのいずれが欠けても、事態は少なくとも短期的には悪化するだろう。我々は依然として「生活」と「能力」のアポリアの中にある。

 

 

 

 

 

 

 

渡辺将人『台湾のデモクラシー』

71zav6bwdl252x400 例によって、月1回の『労働新聞』書評です。

【書方箋 この本、効キマス】第83回 『台湾のデモクラシー』 渡辺 将人 著

 世界の200近い国には、自由で民主的な国もあれば、専制独裁的な国もある。イギリスのエコノミスト誌が毎年発表している民主主義指数では、第1位のノルウェーから始まって各国の格付けを行っているが、当然のことながら上位には欧米系諸国、下位にはアジア、アフリカ諸国が並ぶ。日本の周辺には、第165位の北朝鮮、第148位の中華人民共和国など、独裁国家が目白押しだ。しかしかなり上位に位置する国もある。韓国は第22位、日本は第16位で、イギリス(第18位)などと肩を並べる。そうか、アジアで一番民主的な日本でも第16位か、と勝手に思ってはいけない。実は、アジアで最も民主的な国は第10位の台湾なのである。

 これは、年配者にとっては意外な光景だろう。なぜなら、台湾を支配する中華民国は1987年まで戒厳令の下にあった典型的な専制国家だったのだ。それから40年足らずで世界に冠たるデモクラシーの模範国家となった台湾という国(正確には、世界のほとんどすべての国から国家承認を受けていないので、「国」ということすら憚られる状態なのだが、本稿では「国」で通す)の軌跡/奇跡は、どんな理論書にも増して民主主義を理解するうえで有用であろう。

 本書の著者はアメリカ政治の専門家で、新書本も含め10冊以上も関連書籍を出している。彼が台湾とかかわったのは、若い頃アメリカ民主党の大統領選挙陣営でアジア太平洋系の集票戦略を担当し、在米チャイニーズの複雑な分裂状況に直面したときだったという。そこから台湾政治とアメリカ政治の密接な関係を認識して、頻繁に訪台するようになり、民進党系、国民党系などさまざまな政治運動やマスメディアの研究に没頭していく。

 彼が注目するのは、アメリカ式の大規模な選挙キャンペーンだ。日本の報道でもよく流れたのでご存じの方も多いだろうが、「台湾の選挙に慣れすぎるとアメリカの選挙演説が静かで退屈にすら感じる」くらいなのだ。とりわけ他国に例を見ないのは屋外広告とラッピングバスだ。選挙時には交通機関の半分以上が候補者の顔で埋め尽くされる。実は筆者も2010年に国際会議に参加するため台北を訪れた際、目の前を走るバスがすべて候補者の顔になっているのを見て度肝を抜かれた思い出がある。アメリカ風からさらに定向進化した台湾風というべきか。

 台湾はデモクラシーだけでなく、リベラルでもアジアの最先進国だ。フェミニズムを国家権力が全力で弾圧する中国は言わずもがな、自由社会のはずの日本も保守派の抵抗でなかなか進まないリベラルな社会変革が、ほんの一世代前まで戒厳令下にあった国で進められていく。19年にアジアで初めて同性婚を認めた台湾は、トランスジェンダーのオードリー・タン(唐鳳)が閣僚になった初めての国でもあり、多様性と人権と市民的自由が花開いた東アジアのリベラルの橋頭堡である。本来ならば、日本のネトウヨ諸氏は専制中国でこそ居心地が良く、リベラル諸氏は台湾こそわが同志と思ってしかるべきではないかと思われるが、その代表格と目される鳩山由紀夫氏や福島瑞穂氏は中国の「火の海にする」という軍事的恫喝に諸手を挙げて賛同しているのだから、まことに拗れきった関係だ。

 

2024年10月 2日 (水)

森直人・澤田稔・金子良事編著『「多様な教育機会」をつむぐ』

652786 金子良事さんから、金子さんが編著者の一人となっている二冊セットの本をお送りいただきました。「公教育の再編と子供の福祉」という2冊シリーズの第1巻『「多様な教育機会」をつむぐ ジレンマとともにある可能性』と、第2巻の『「多様な教育機会」から問う   ジレンマを解きほぐすために』です。

https://www.akashi.co.jp/book/b652786.html

本書に収録されている金子さんの「第2章 「無為の論理」再考 」の最初のところを読んで、金子さんが大阪の方に行かれてから、拙著へのコメントもされなくなり、なんだか没交渉になってしまった感が強かったのですが、その理由が分かりました。

金子さんとは、彼が大原社会問題研究所にいた頃、私が2年間ほど法政大学社会学部で講義をしに行ったときにお目にかかり、その後、『日本の雇用と労働法』『若者と労働』『日本の雇用と中高年』『働く女子の運命』といった本を献呈するたびに、

濱口さんの『日本の雇用と労働法』日経文庫を何度かざっと読みながら、何ともいいようのない違和感があったので

しかし、最近の濱口先生の本は、というか、前からそうでしたけど、読み切りにくいですねえ。

老婆心ながら、この本で女性労働の歴史を学びたいという方には、おやめなさいと申し添えておきます。

といった厳しいご指摘をいただいてきていたので、その後の本には何の反応もなくなってしまったのは寂しい思いがしていました。

今年の『賃金とは何か』には久しぶりに充実したコメントをいただいたので、とても嬉しかったのですが、ではその間金子さんは何に関心を持ち、何をしていたのか?

今回お送りいただいた本の中で、金子さんはこう語っています。

2018年に大阪にやってきてから、縁があって、私は外国ルーツの子どもたちの学習支援(居場所活動的な意味も含まれています)や小学校の居場所活動、若者支援に携わってきました。また、そうした現場で培ってきたことをフィードバックして、今度は本務校での学生支援に力を入れてきました。研究者としてのキャリアをスタートさせてから、そのアイデンティティは歴史研究者だったのですが、大阪に来てからは歴史研究者ではなく、実践者としてやってきました。・・・・

ああ、そうだったのですね。大阪の子どもたち、若者たちにとって金子さんがかけがえのない存在になっていたのであれば、拙著にコメントをするなんて言う余計なことをしている暇はなかったのでしょうね。

 

 

 

 

『改革者』で萩原里紗さんが拙著書評

24hyoushi10gatsu 政策研究フォーラムの機関誌『改革者』の10月号で、萩原里紗さんが拙著『賃金とは何か』の書評をしていただいております。

月刊誌「改革者」2024年10月号

書評   濱口桂一郎著『賃金とは何か』 評者 萩原里紗 P65

 なぜ日本の賃金は上がらないのか?本書は、その理由を「上げなくても上がるから上げないので上がらない」と答えている。
 一見すると何を言っているのか分からないが、主語を加えるとわかりやすくなる。言い換えると、「ベースアップが行われなくても、定期昇給が行われ、一人一人の賃金は上がっているのだからそれでよしとしているため、日本の賃金は全体として上がらない」ということを意味している。

・・・・・そのような労働組合を今すぐ組織することは難しいものの、本書は賃金制度の歴史を辿ることで、今後の労働組合のあるべき姿を考える上での青写真を提供している。本書が労働組合に属する人たちにとっての必読書になることを期待する。

拙著で書いてあることのその先まで見通して書評していただきました。

 

 

 

大久保幸夫『マネジメントのリスキリング』

A846ae4416c10a9f9a7a614acf731b07acbc6f6a 大久保幸夫『マネジメントのリスキリング ジョブ・アサインメント技法を習得し、他者を通じて業績を上げる』(経団連出版)をお送りいただきました。

働く人々や働き方の多様化、「人的資本経営」への関心の高まりなどを受けて、日本企業は今、従来のマネジメントのあり方を大きく変革する必要に迫られています。また、そのために、マネジャーのマネジメントスキルの再開発・再教育が喫緊の課題となっています。
マネジメントの役割は、「他者を通じて業績を上げる」ことです。本書は、マネジメントの基本技術である32の「ジョブ・アサインメント」(日常のマネジメント行動)の解説を中核に、マネジメントのポイントをテーマ別に整理し、ジョブ・アサインメントの各項目とつないで詳しく説明しています。
マネジメント研修のサブテキストとして、また多面観察評価後の内省機会における思考の整理におすすめの一冊です。

【おもな内容】
第1章 キャリアとしての「管理職(マネジャー)」を考える
第2章 マネジメントには黄金法則がある ―ジョブ・アサインメント32の行動
第3章 業績を高める ―目標達成支援のマネジメント
第4章 人を育てる ―キャリア支援のマネジメント
第5章 やる気を引き出す ―エンパワーのマネジメント
第6章 効率を高める ―仕事と時間をデザインするマネジメント
第7章 価値を生み出す ―人的資本経営のマネジメント
第8章 テレワーク普及で求められるリモート・マネジメント
第9章 ダイバーシティの深化で求められる配慮のマネジメント
第10章 マネジメントの経験学習 ―多面観察評価を活かす

一番最後に,3人の名言が載っています。

人を用いるには、すべからくその長ずるところをとるべし。人それぞれに長ずるところあり、何事も一人に備わらんことを求めるなかれ。(徳川家康)

ダメな部下はいない。ダメなリーダーがいるだけだ。(ジャック・マー)

他人に花を持たせよう。自分に花の香りが残る。(斉藤茂太)

 

 

 

 

2024年10月 1日 (火)

『労務事情 』2024年10月1日号に2本ほど

B20241001 本日刊行の『労務事情 』2024年10月1日号に、毎月連載の「数字から読む 日本の雇用」に加えて、特集「〈1500号記念企画〉人的資本投資時代の人事・労務管理~現状と展望」の記事も書いております。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20241001.html

この特集はこういうラインナップですが、

◎「人材マネジメント」の視点から 学習院大学 名誉教授 今野浩一郎
◎「教育研修・人材育成」の視点から 事業創造大学院大学 事業創造研究科 教授 浅野浩美
◎「働き方」「働かせ方」の視点から 神戸大学大学院 法学研究科 教授 大内伸哉
◎「健康経営」の視点から 東京大学大学院 医学系研究科 特任教授/一般財団法人淳風会 代表理事 川上憲人
◎「福利厚生」の視点から 山梨大学 名誉教授/福利厚生戦略研究所 代表 西久保浩二
◎「従業員エンゲージメント」の視点から 同志社大学 政策学部 教授 太田 肇
◎「情報開示」の視点から 労働政策研究・研修機構 研究所長 濱口桂一郎

わたくしのは、労働法制における情報開示の変遷をざっと概観するとともに、情報開示に対して企業に求められる姿勢について述べています。

もう一つの、毎月連載の方は、

◎数字から読む 日本の雇用 濱口桂一郎 第28回 女性の管理職割合 12.7%

今年7月に公表された令和5年度雇用均等基本調査における女性管理職割合を取り上げています。

 

 



解雇規制論の誤解再び@WEB労政時報

WEB労政時報「HR Watcher」に「解雇規制論の誤解再び」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/87863

 今は毎月1回こうして寄稿しているWEB労政時報「HR Watcher」の連載ですが、その記念すべき第1回目は、2013年4月19日の「解雇規制論の誤解」でした。その前年2012年末の総選挙で自民党が大勝し、第2次安倍内閣が発足して、経済財政諮問会議、規制改革会議、産業競争力会議など官邸の会議体が次々に新たな政策を打ち出し、その中で解雇規制緩和が声高に唱道され始めた時期でした。私はさまざまなメディアに登場して、「日本は解雇規制が厳し過ぎるから緩和すべき」という議論が間違っており、問題の本質はジョブ型ではなくメンバーシップ型である日本の雇用システムにあるのだと論じてきました。そのおかげで、世の論者のかなりの部分は、あまりにもおかしな議論を展開することは少なくなってきたのではないかと思っていました。
 
 ところがそれから11年以上が経過し、どうも政治家の頭の中では何らそういう進歩は見られなかったことが明らかになってきたようです。というのも、ご承知のとおり、去る8月14日に岸田文雄首相が辞意を表明し、その後継者を目指して9人の候補者が自民党の総裁選挙に出馬しています。本稿が公開される10月1日には新総裁が選出され、新たな内閣が発足しているでしょうが、本稿執筆時点では、まだ誰が次期総裁になるか皆目分かりません。しかしながら、立候補した9人のうち、河野太郎氏と小泉進次郎氏は、解雇規制の緩和を政策に掲げ、突如として解雇規制緩和論が政界の話題の先端に上り詰めたのです。・・・・

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