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2024年8月 5日 (月)

リスキリングの二重の拗れ

As20240730002493 朝日新聞に「「会社にいつ見限られるか」 追われるリスキリング、ただし米国では」という記事が載っているのですが、

「会社にいつ見限られるか」 追われるリスキリング、ただし米国では

 「AI(人工知能)時代に打ち勝つためのリスキリング(学び直し)」「転職にも生かせるスキルを」。そんなかけ声の下、働きながら学ぶ人が目立つようになりました。でも、日本のリスキリング、先行する米国とは違う意味合いになっていませんか。読者イベントを通して考えました。(藤えりか)

どう違う意味になっているのかというと、勅使川原真衣さんの言葉として、

  「リスキリングは米国では、社員が別の業務をできるようになるため、会社として、業務時間中に新しいスキルを身につけてもらうものです。日本では、会社が提供せず、『価値ある労働者でいるためには頑張り続けないといけない』と個人に強いるものにすり替わっています。深夜や週末にみなさんが頑張って、潤うのはオンライン講座や資格試験(の主催者)ではないでしょうか」

ここを読んで、うーんと唸ってしまいました。なんというか、日本とアメリカの能力開発思想のそもそもの違いが逆向きに拗れて、妙な話になってしまっているという感想です。

そもそもの違いというのは、例によって雇用システム論の基礎の基礎で、日本以外の社会ではある仕事ができる(はずの)人を当該その仕事に嵌め込むのが採用であり、就職なのであり、就職以前に当該その仕事ができるように「スキリング」しておくことが採用される前提であるのに対して、日本ではいろんな仕事をやらせていく人をその潜在能力を判断して採用するのであり、従って就職以前に下手に余計な「スキリング」などしていない方が採用されやすいわけです。採用面接で「学チカ」を聴かれてバイトだのサークル活動だのが大事で、勉強した中身など二の次三の次なのはそのためです。

これは「リ」のつかない「スキリング」の話です。

採用された後、日本以外の社会では、既に「スキリング」されて一定のスキルがある労働者に、当該そのスキルを発揮して労働してもらうことがほとんど唯一の要求であって、労働者の側もその既に有しているスキルでもってずっと長く働いていければそれに越したことはないのですから、特段の事情がなければ採用後に「スキリング」の必要はないのですが、時代の流れが速く、技術革新がはげしい世界では、就職前の「スキリング」でいつまでもやっていけなくなる場合が出てくるので、そうすると、既に「スキリング」されている労働者であっても、もういっぺんスキリングし直す必要が出てきます。はい、ようやくここで「リスキリング」ってのが出てくるんですね。

世の中の変化が緩慢であればそこまでやらなくてもいいんだけど、技術の進歩が早すぎてそのままでは取り残されてしまうとまずいぞという状況で初めて出てくるのが「リスキリング」なんです。

これに対して、日本ではそもそも就職前に当該仕事に向けた「スキリング」なんてしていない労働者を一括採用するのですから、採用後に「スキリング」しなくてはいけません。「リ」のつかない「スキリング」をやるのが、欧米社会と異なる日本企業の最大の責務となります。とはいえ、既に採用して一人前の給料を払いながらの「スキリング」ですから、どこかの大学や研修所でそればっかりやらせるなんて贅沢な「スキリング」ではなく、実際に職場に配置して、上司や先輩に叱られながら見よう見まねで何とか食らいついて仕事を覚えていくという、いわゆるOJTが一般的なやり方になります。

これは業務としては失敗したりやり直したりと不効率に見えますが、仕事をしながら仕事を覚えていくので、教育訓練費が別に掛かるということがないので、うまくいけばトータルでは効率的になります。というか、かつて(30年前まで)はこの日本的OJTこそが、世界に冠たる日本経済の競争力の源泉だと、鉦や太鼓で褒め称えられていたことを、中高年の皆さんはかすかに覚えているでしょう。

しかも、2年や3年おきに配置転換するので、その都度またはじめから素人になり、そこで必死にOJTで仕事を覚えて、何とかできるようになる、というサイクルを繰り返して、教育訓練費の国際比較では日本は圧倒的に少ないのに、日本の労働者は欧米なんかよりもずっとなんでも「できる」ようになっているぞ、日本型雇用は最強だ!という本が山のように出版されていました。

これを今風にいえば、日本企業は新入社員を採用後配置転換のたびに、OJTで「スキリング」を繰り返していたというわけで、それを2回目からは「リスキリング」といってもあながち間違いではありません。実は、欧米が最近になって「リスキリング」とか言い出す遙か昔から、日本は会社主導で「リスキリング」していたんです。

ここまでの話が、最近のリスキリング話では大体欠落しています。そうすると、話が拗れてくるんですね。

さて、30年前までは褒め称えられていたこの日本型「スキリング」、会社主導の「スキリング」&「リスキリング」のシステムが、30年前辺りから批判にさらされ、会社主導ではなく個人主導でいかなくてはいけないという話になっていきます。この辺、労働政策の詳しい流れは『日本の労働法政策』辺りを参照してください。「自己啓発」なんていうスローガンが流行り、雇用保険から教育訓練給付が出るようになったのもこの頃です。

もちろん、就職前に「スキリング」なんてしていないのですから、採用後に「スキリング」するという仕組み自体は何ら変わらないのですが、その後の「リスキリング」は会社が全部責任もつんじゃなく、労働者が個人で責任もってやっていくんだよ、という方向に流れていったわけです。とはいえ、かつてのように社内のOJTで仕事は身につくんだから、余所で余計な勉強なんかするんじゃない、という感覚もなお強固に残っており、会社に黙って夜間大学院に来てますという人も結構多かったりします。日本的な会社中心主義が強固に残りながら、個人の自己責任を強調する考え方も強まるという、なんとも難しい状況に置かれてしまっているわけですね、日本の労働者は。

で、『リスキリング』です。

もともと「スキリング」は個人の責任の社会で、それだけではまかないきれない例外的な状況向けに会社主導の「リスキリング」がようやく出てきた欧米社会と、もともと「スキリング」も「リスキリング」も会社がOJTで提供することが大前提の社会で、それではまずいからもっと個人主導にしていこうとここ20年あまりやってきた日本社会とを、その根っこを無視して、表層の現象だけ捕まえてあれこれ論じてみても、まことに表層的な議論にしかなり得ようがないのは、あまりにも当然ではなかろうかと嘆息が出るわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

「社内研修がリスキリングですよ」
って言ってあげると朝日新聞の記者さんでもわかると思います。
(何言ってんだてめぇ、って変な顔されるかもです)

リスキリングを含めスキリングは、会社主導のトレーニーが大前提の日本、個人と社会の責任で、それだけではまかないきれない例外的な状況向けに会社主導のトレーニーが夾雑物として紛れ込んでいる欧米

と言えるか、どうか?

> 職業資格などという下らんものを無視して(その会社の社員であるという唯一無二の資格を有する限り)最も適切なマッチングを人事部主導でやれる
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-925cf2.html

> 訓練生という名目で仕事をさせながら、労働者ではないからといってまともな賃金を払わずに済ませるための抜け道として使われている
> 労働者性の判断基準に該当する限り労働者として扱うべきことを定める指令案を提出するように求めています。欧州労連はこれを歓迎していますが、欧州経団連はトレーニーシップは何より教育目的なのだと厳しく批判しています
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/05/post-cb629a.html

賃金は、会社を超えた労働者たちの団交で定まるものであるという純粋ジョブ型からすれば、団交の権利を認めるか?否か?、が本丸である

と言えるか、どうか?

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