広田照幸さんより『戦後日本の教職員組合と社会・文化(その6)』という報告書をお送りいただきました。
広田さんを中心に日教組の研究をずっと続けてこられたTU研の回顧録というか、前半が座談会で後半がエッセイ集という作りです。
いろんな話が出てきますが、いま問題になっている給特法について、中小路清雄書記長がこう語っていたというのは面白いと思います。
・・・当時から「毒まんじゅう」と指摘されていましたが、中小路さんは交渉の当事者でもあったので、「超勤四項目」や「賃金上昇4%」は達成したと評価していました。私が、確か、「残業代が除外されることは問題ではなかったのですか」と聞いたときに、「それが問題になるかね」といわれたことは、すごく印象的で覚えています。
当時の組合にとっては全体の利益が大事だったので、全体として4%上がった方が、個別に上がるよりもはるかによくて、労働運動としてはそちらの方がよかったのです。中小路さんは、もしそれが不足であれば、またストライキを打って団交すればいい問題だ、といっていました。それが強い印象になって、当時の労働運動の強さや、労働運動とはそういうものなのだと思ったことがあります。・・・
このブログでも百回くらい繰り返したような記憶がありますが、日教組というのは政治団体でも思想団体でも宗教団体でもなく、れっきとした労働組合、教師という労働者の労働条件をありとあらゆる手段を駆使して引き上げるために格闘する組織なのであって、給特法というのも、そういう労働組合としての日教組のある交渉段階における妥協点としての文書なのであるという歴史的視点を、半世紀以上後の我々はついつい忘れてしまいがちになるようです。
(参考)
教職員組合が、なぜ労働問題に口を出すんですか?
近畿大学教職員組合さんのツイートに、「実際に言われた衝撃的なクレーム」というハッシュタグ付でこんな台詞が
https://twitter.com/unionkin/status/1308256840254324736
「教職員組合が、なぜ労働問題に口を出すんですか?」
いやもちろん、まっとうな常識からすれば何をひっくり返った馬鹿なことをいっているんだということになるはずですが、それが必ずしもそうではないのは、戦後日本では日教組という団体が労働者の権利利益のための労働組合であるよりは、何かイデオロギーをかざす政治団体か思想団体であるかのように思われてきた、場合によっては自らもそう思い込みがちであったという、奇妙な歴史があるからです。
最近もちらりと触れましたが、たとえば広田照幸編『歴史としての日教組』(上巻)(下巻)(名古屋大学出版会)でも、日教組という団体はほとんどもっぱら路線対立に明け暮れる政治団体みたいに描かれていて、学校教師の超勤問題への取組みや、あるいは『働く女子の運命』で取り上げた女性教師の育児休業問題といった、まさに労働者としての教師の労働組合たる所以の活動領域がすっぽりと抜け落ちてしまっているんですね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-9b3560.html(内田良他『迷走する教員の働き方改革』)
この話は、もう10年以上も前から折に触れ本ブログで取り上げてきているんですが、なかなか認識が進まないところではあります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_1afe.html(日教組って労働組合だったんだあ。ししらなかった)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/vs_eccf.html(プリンスホテルvs日教組問題の文脈)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_f1e4.html(プリンスホテルの不使用呼びかけ 連合)
この問題を、思想信条の自由の問題とか、政治活動の問題だとか、日の丸君が代がどうとか、ウヨクとサヨクがどうしたとか、そういう類の話だと理解するのであれば、それにふさわしい反応の仕方があるのでしょう。そういう理解のもとにそういう反応をすること自体を否定するつもりはありません。
しかし、日本教職員組合という、教育に関わる労働者の労働組合の大会を拒否したと言うことは、何よりも働く者の団結権への攻撃なのであり、そうである限りにおいて、同じ労働者である以上思想信条の違いを超えて、ボイコットという手段を執ることは労働組合の歴史からして当然のことと言うべきでしょう。
残念ながら、マスコミも日教組をあたかも政治思想集団であるかの如くとらえて、今回の件の是非を論ずるかの如き歪んだ傾向がありますが(まあ、日教組の中にそういう傾向があることも否定できませんが)、労働組合の当然の活動への否定なのだという観点が世間から欠落してしまうことは、やはり大きな問題だと思います。その意味で、さまざまな政治的立場の組合が属する連合が、こういう姿勢を示したことは重要な意味があるでしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-4ed1.html(日本教職員組合の憲法的基礎)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-2336.html(労働者と聖職の間)
教師は労働者にあらず論
金子良事さんがときどき思い出したように『労働法政策』についてつぶやくのですが、
https://twitter.com/ryojikaneko/status/769927206101364738
濱口『労働法政策』を読み返しているけど、面白い。田中耕太郎文相が教師の争議権を禁止しようとしたら、GHQがダメといって否定された話のあとに、さらっと次のように書いてる。
https://twitter.com/ryojikaneko/status/769927408015187968
「教育関係者に根強い「教師は労働者にあらず論」があっさり否定されたわけで、その後も現在にいたるまで私立学校教員の争議権が否定されたことは一度もない」いろんな意味で、勘所だわ。
いや別に勘所も何も、文字通りなんですけど。
ただ、日教組が(今日に伝えられているもっぱら「教え子を戦場に送るな」的なイデオロギー的な文脈だけではなく)そういうまさに教育労働者の労働条件を改善するための労働運動そのものとしての文脈でもマクロ社会的アクターとして議論されていた、という歴史的事実自体がほとんど忘れ去れてしまっていることが問題なんだと思います。
ましてや、そういう教育労働者の本来的な労働運動としての日教組に対して、(政治イデオロギー的にはむしろより急進的なはずの)共産党が「教師は聖職だ」といって水をぶっかけていたこととかは、今ネット上で一生懸命リベサヨ叩きをしている人々のほとんどすべてが知らないのでしょうし。
本ブログでも繰り返し言っているように、その文脈が希薄化してしまったことが、今日の教育労働現場の様々なブラック的な労働問題の一つの遠因にもなっているように思います。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/vs_eccf.html(プリンスホテルvs日教組問題の文脈)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-4ed1.html(日本教職員組合の憲法的基礎)
※欄
正直言って、わたしは政治結社としての日教組を擁護する気持ちはありません。勝手に右翼と喧嘩してればよろしい。
しかし、全国の教育労働者の代表組織には、重要な存在意義と責任があります。近年、労働者としての権利主張をすること自体がけしからんかのような言論も多く見られるだけに、そこはきちんと言っておく必要がありましょう。わたしははじめからそこにしか関心はありません。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-b495.html(今こそ、教師だって労働者)
・・・しかし、ここで描かれている教師たちの姿は、ブラック企業で身をすり減らし、心を病み、自殺に追い込まれていくあの労働者たちとほとんど変わらないように見えます。
そう、これは何よりもまず「労働問題」、教師という名の労働者たちの限りなくブラックに近づいていく労働環境について問題を提起した本と言うべきでしょう。
彼ら教師たちの労働環境をブラック化していく元凶は、「教育問題」の山のような言説の中に詰め込まれている、文部省が悪いとか日教組が悪いとか、右翼がどうだとかサヨクがどうだとか、そういう過去の教育界の人々が口泡飛ばしてきた有象無象のことどもとはだいぶ違うところにあるということを、この秀逸なルポルタージュは浮き彫りにしています。
それは、親をはじめとした顧客たちによる、際限のないサービス要求。そしてそれに「スマイルゼロ円」で応えなければならない教師という名の労働者たち。
今日のさまざまなサービス業の職場で広く見られる「お客様は神さま」というブラック化第一段に、「この怠け者の公務員どもめ」というブラック化第2段階が重なり、さらに加えて横町のご隠居から猫のハチ公までいっぱしで語れる「教育問題」というブラック化第3段階で、ほぼ完成に近づいた教育労働ブラック化計画の、あまりにも見事な『成果』が、これでもかこれでもかと描かれていて、正直読むのが息苦しくなります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-ad08.html(認識はまったく同じなのですが・・・)
・・・ただ、それこそ大阪方面の出来事の推移を見てもわかることですが、日教組の労働組合としての本質ではない部分を意識的にフレームアップする政治意図と、その労働組合としては本来非本質的な部分を自分たちのこれこそ本質的な部分だと思いこんでいるある種の人々のパブロフの犬的条件反射的行動様式とが、ものの見事にぴったりと合わさって、政治結社としての日教組という定式化されたイメージを飽きもせず再生産するメカニズムが働き続けているという、(おそらく心ある労働運動家だけではいかんともしがたい)どうしようもなさがその根っこにあるので、この金子さんのそれ自体としてはまことに正しいつぶやきが、何の役にも立たないという事態がそのまま続いていくわけです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-92c4.html(公教育における集団的労使関係欠如の一帰結?)
・・・戦前以来の、そして右翼も左翼も共有してしまっている「教師は聖職」だから労働条件如きでぐたぐた文句を言うな感覚。
日教組自身がニッキョーソは政治団体という右翼側の思い込みに乗っかって政治イデオロギーの対決ばかりに熱中してきた歴史。
そういう空中戦ばかりの教育界で、全てのツケを回す対象とされてきた国法が認めてくれている残業代ゼロ制度。
そして何よりかにより、他の全ての国における「教師=教育というジョブを遂行する専門職」が共有されず、学齢期の子供(ときどきガキども)の世話を(学校内外を問わず、いつでもどこでも何でも)全て面倒見るのが仕事という、典型的にメンバーシップ型の教師像。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-cdda.html(日教組婦人部の偉大な実績)
・・・なんにせよ、日教組といえば妙な政治的イデオロギーの眼鏡越しでばかり論じようとする傾向が強いだけに、こういうまことにまっとうな労働組合としての本来あるべき政治活動を実践し、法律として実現させてきた日教組婦人部の歴史を、きちんと見直していく必要があると思われます。
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