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2024年8月

2024年8月30日 (金)

徳島県の隣県は兵庫県

地域最低賃金の最後に、徳島県が一気に34円も目安に上乗せしたことが話題ですが、

最低賃金、衝撃の引き上げ「徳島ショック」 知事介入で算出法を一変

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みんな徳島県の隣県というと四国の残り3県ことばっかり考えているみたいだけど、徳島の隣県、それも一番行き来しやすい隣県は兵庫県なんですよ。鳴門の渦潮の上を橋で渡ればそこは淡路島。最低賃金が1001円から1052円に上がった兵庫県です。

9784062731645_w そもそも、江戸時代には淡路島は蜂須賀家の徳島藩の領地で、幕末に家老稲田氏の一党が独立を目指して勤皇派になり、これでようやく洲本潘として独立できると思った瞬間に廃藩置県で全部ぱあになり、せめて徳島県から離れたいということで兵庫県に属したといういわく因縁があります。その経緯は船山馨の名作『お登勢』に描かれていますが、そういうわけで、文化的にも共通性の高い(淡路弁は徳島弁に極めて近い)淡路島が兵庫県という大都市を有する県に属していることは、今回の徳島ショックの背景として無視できないように思われます。

 

 

 

2024年8月28日 (水)

日本の賃金デフレの意外な共犯者は「定期昇給」だ@東洋経済

14828_ext_01_0 『東洋経済』の8月31日号の「ニュースの核心」というコラムで、野村 明弘 さんが「日本の賃金デフレの意外な共犯者は「定期昇給」だ」と喝破しています。

日本の賃金デフレの意外な共犯者は「定期昇給」だ 物価も賃金も上がらない「ゼロノルム」を後押し

Nomuraここ数年、日本銀行やメディアが「ノルム」(社会通念)という言葉を頻繁に使っている。

1990年代後半以降の金融危機や長期的経済停滞を受けて、物価も賃金も上がらないというノルムが日本社会に定着してしまった。これこそが脱デフレの足を引っ張る最大の要因であり、歴史的な世界インフレを奇貨とした本格的な賃上げでこのノルムが払拭されるかが焦点となっている。

物価も賃金も上がらないというノルムをゼロノルムと呼ぶ。そもそもなぜ、日本にゼロノルムが定着したのか。・・・

81tj1p4qhol_sy466__20240828114401 言っていることはまったく同感なんですが、それって、まさに拙著『賃金とは何か』のオビの文句そのものでもあるんですが。

 

 

2024年8月27日 (火)

JILPTの研究員募集

Hlogo_20240827105001 労働政策研究・研修機構(JILPT)が労働法、労使関係・人事労務管理、労働経済の3分野について研究員を募集しています。

令和7(2025)年度 研究員【労働法】の募集・採用について

令和7(2025)年度 研究員【労使関係・人事労務管理】の募集・採用について

令和7(2025)年度 研究員【労働経済】の募集・採用について

職務内容は,3分野共通に、

常勤の研究員として機構が実施する各種研究プロジェクトに参画し、特定の政策課題に関する調査研究を自ら担当することで、政策的論点の整理や政策的インプリケーションの提示を含む研究成果の取りまとめ・発信を行うこと。

機構内の組織横断的プロジェクトや、厚生労働省等からの緊急の要請に基づく調査、国内外の他の政策研究機関等との共同研究や国際会議への参加、フォーラム・セミナーでの研究報告、定期刊行物への原稿執筆、厚生労働省職員に対する研修の講師等、機構の各種事業に参画すること。

これに加えて、労使関係・人事労務管理と労働経済については、

特に、賃金分析に関しての研究参加が予定されているため、賃金に関する研究経験や知見が求められる。

応募資格は、3分野それぞれに次のようになっています。

まず、労働法については、

募集分野に関連した研究業績を有すること。
労働問題に関する法解釈及び法政策上の課題に係る実態把握及びその結果を踏まえた政策形成に関心を持ち、継続して調査研究に取り組む意欲と情熱があること。
欧米諸国(特にフランス)の労働問題に関心を持ち、過去5年以内に欧米諸国の労働法制に関する研究実績を有すること。
労働法研究に係る学部または学科(名称を問わず同様の研究分野であるものを含む)の博士課程修了者(修了予定者、単位取得退学者を含む)または研究業績からみてこれと同等以上の能力と経験を有すると認められる者。
日本語の報告書や論文を執筆・発表できる日本語能力を有すること。

 

労使関係・人事労務管理については、

募集分野に関連した研究業績を有すること。
賃金を中心とした労働分野の実態把握及びその結果を踏まえた政策形成に関心を持ち、賃金制度や賃金決定の分析、企業の雇用管理の変化等に関する調査研究に継続して取り組む意欲と情熱があること。
募集分野に関連した研究領域(名称を問わず関連研究分野であるものを含む)の博士課程修了者(修了予定者、単位取得退学者を含む)または研究業績からみてこれと同等以上の能力と経験を有すると認められる者。
自ら設計・実施したヒアリング調査又はアンケート調査に基づく研究業績を有すること。
日本語の報告書や論文を執筆・発表できる日本語能力を有すること。

労働経済については、

募集分野に関連した研究業績を有すること。
労働分野の実態把握及びその結果を踏まえた政策形成に関心を持ち、労働市場や賃金の分析、企業の雇用管理や生産性の変化等に関する調査研究に継続して取り組む意欲と情熱があること。
募集分野に関連した研究領域(名称を問わず同様の研究分野であるものを含む)の博士課程修了者(修了予定者、単位取得退学者を含む)または研究業績からみてこれと同等以上の能力と経験を有すると認められる者。
計量分析(計量経済学的手法による)に基づく研究業績を有すること。
日本語の報告書や論文を執筆・発表できる日本語能力を有すること。

となっています。

詳しくはリンク先の応募方法をお読みください。

 

 

 

 

 

 

はらひろひれはらさんの拙著評

81tj1p4qhol_sy466__20240827091101 はらひろひれはらさんが、X(旧twitter)上で拙著『賃金とは何か』を評していただいておりますが、私が内心「ここだぞ、読むのはここだぞ」と思っていた部分に見事に反応していただいておりまして、とても嬉しい気持ちになりました。

 

2024年8月26日 (月)

佐々木亮『雇止め・無期転換の法律実務』

650572 佐々木亮『雇止め・無期転換の法律実務』(旬報社)をお送りいただきました。これから続々と刊行される予定の「 最新テーマ別[実践]労働法実務」というシリーズの第2弾ということです。

https://www.junposha.com/book/b650572.html

第2巻は、「雇止め・無期転換」を取り上げる。
2013年に始まった「無期転換ルール」は、新たな労働問題を引き起こし、雇止めに関する裁判が頻発した。
今も重要な労働問題の一つである雇止めと無期転換の法律実務を詳しく解説!

第1章 総説
第2章 労契法19条の構造と「申込み」・「拒絶」
第3章 実質無期型と期待保護型
第4章 雇止めにおける客観的合理的理由と社会的相当性
第5章 不更新条項・更新上限条項をめぐる問題
第6章 訴訟等の間に期間の満了日が訪れた場合
第7章 高年齢者再雇用と雇止め
第8章 試用期間と有期労働契約
第9章 黙示の更新
第10章 労契法19条の場合以外に雇止めが否定される場合があるか
第11章 雇止め事件の受任から解決までの各留意点
第12章 無期転換申込権・総説
第13章 無期転換申込権行使にかかる論点
第14章 空白期間(クーリング期間)
第15章 無期転換後の労働条件
第16章 無期転換阻止を狙った解雇・雇止め
第17章 科技イノベ法・任期法の特例
第18章 有期雇用特別措置法の特例

 

 

城塚健之『労働条件変更の法律実務』

649854 城塚健之『労働条件変更の法律実務』(旬報社)をお送りいただきました。これから続々と刊行される予定の「 最新テーマ別[実践]労働法実務」というシリーズの第1弾ということです。

第1巻は、労働条件変更のさまざまな場面を労働者側の視点で解説。
労働紛争の大部分は使用者による「労働条件変更」から始まるため、労働紛争の全体をカバーしたシリーズの総論的な位置付けとなる。特に重要なテーマとして「個別合意」「就業規則」「労働協約」を重点的に取り扱い、その他の論点はシリーズ続刊で詳述する。

第1章 はじめに
第2章 労働条件が変更される場合とは
第3章 個別合意による変更
第4章 就業規則による変更
第5章 労働協約による変更
第6章 人事考課
第7章 年棒・賞与・仕事の割当
第8章 降格
第9章 配転(職務変更)
第10章 懲戒処分
第11章 退職金の不支給・減額
第12章 権利行使と賃金の減額・不支給等
第13章 定年後再雇用・企業年金
資料 重要判例要旨、判例一覧、裁判実務書式例など

まさしく実務書ですが、最初のはじめにのところで、労働弁護士としての裏話を書かれています。

城塚さんが担当されたハクスイテック事件は、成果主義賃金制度の導入をめぐって争った事件ですが、結果は一審、二審とも敗訴で、「その後、この判決は、使用者側弁護士から,さまざまな媒体においてリーディングケースとして紹介される羽目になり、肩身の狭い思いをした」そうなんですが、「しかし、実は、原告となったOさんにとっては少なくないメリットがあった」というのです。

それは、「会社は、裁判所に不利益性が小さいことをアピールするためであろうが、労使間で紛争が始まってから、数次にわたって、基準となる賃金を引き上げた」からで、「野球で高めの球を打つと飛距離が伸びるのと一緒で、裁判の結果を待たず、Oさんの賃金は長期的に見てかなりのアップとなった」のだそうです。

ふむ、こういうのは(会社側から見て不本意な)自己実現的予言というべきなのか、(労働者側から見て想定外の望ましい)自己破壊的予言というべきなのか分かりませんが、物事はそうそう単純なものではないということだけはよく分かります。

 

 

 

 

永瀬伸子『日本の女性のキャリア形成と家族』

648947 永瀬伸子さんより大著『日本の女性のキャリア形成と家族 雇用慣行・賃金格差・出産子育て』(勁草書房)をお送りいただきました。

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b648947.html

これまでさまざまな政策が実行されながらも、女性をとりまく、雇用慣行、賃金格差、正社員/非正社員間の壁、そして出産・育児・保育にまつわる困難は変わっていない。現代日本社会の30年余に及ぶ推移を丹念に追い、その十分な課題解決を阻む構造的実態を理論的かつ実証的に明らかにする。問題の所在を見定め、課題克服のための、具体的な方策を提言。

労働社会政策のいろんな局面でずっと活躍してこられた永瀬さんなので、単著の一つや二つはあると思い込んでいましたが、今回のこの本が初めての単著ということになるようです。

内容は、30年前の博士論文以来の膨大な研究成果を下の目次に見られるように再構成して一冊にしたものですが、それだけではなく、文章のあちらこちらに、永瀬さんご自身のライフヒストリーが混ぜ合わされ、繰り返し使われるこの30年間の各時期のヒアリング結果とともに、まさにこの30年間の日本の女性の労働・家庭・社会史の傑作に仕上がっています。

永瀬さん自身が、上智大学英文科卒業後、均等法直前に銀行に入社し、結婚退職して東大経済学部に入り直し、子どもを育てながら大学院に進学し、博士論文を書き、東洋大学に就職した後、現在のお茶の水女子大学で女性労働の労働経済学者として活躍してきた方であって、一つずれていたらそういうコースはたどれなかった可能性が高いとご自分も考えています。(p161の注では、「私はある大学の採用面接で、「お母さんにできるような仕事ではない」という面接官もいる中で採用された」と明かしています)

500ページ近い本書を通読して、もちろん日本の女性労働者の置かれた状況が、1985年均等法や1991年育休法ではあまり(というかほとんど)変わらず、21世紀になってようやく女性総合職が本格化し、育児休業が本格化するのも短時間勤務の義務化以降だとか、彼女の事実発見の数々はもちろん重要ですが、それ以上に、日本型雇用システム自体の問題性を強く意識し、その転換を主張するようになっていることが、大変印象に残りました。

終章で永瀬さんはこう論じます(p452)。

・・・「無限定性」が正社員の標準であれば、日本の男女賃金格差はいつまでも縮小しないだろう。また仕事時間が限定することが罰せられるような雇用慣行は、子育てに差別的である。

 私が女性にとって大きい問題だと思うのは、企業横断的な専門性がつかない雇用慣行である。専門性がつかないからこそ、いったん離職した者は、短時間低賃金の雇用者になる。さらに専門性が評価されないからこそ、2006-2012年にインタビューした非正規雇用のシングル男女は,どうやって低賃金から抜け出せるのか、その道筋が見えないでもがいていた。・・・

これは、永瀬さん自身のこういう経験に基づいているのでしょう(p320)。

・・・私の実感でいえば、働き方が柔軟であれば、キャリア形成をしつつ出産・子育てはできる。そして子育ては人生を面白くする。それができないだろうと日本女性の多くが思うのは、働き方を決める決定権の大きい部分が現在の日本では企業側にあり、また決定をする場に子育て経験を持つ女性が少ないからなのではないかと考えている。

内容目次は以下の通り。

はしがき
図表目次

第Ⅰ部 日本の女性の就業と少子化、家族の変化

第1章 現代日本のキャリアと出産の課題
 1.1 現代日本の大卒女性の中位年収の低さ──米英と対比して
 1.2 現代日本の課題
 1.3 必要な変化の方向性

第2章 女性の労働供給の変化を時代を追ってたどる
 2.1 はじめに
 2.2 1900年代から1960、70、80年代までの女性労働の日米比較
 2.3 国際比較から見る日本女性の労働参加、ジェンダー賃金ギャップと出産
 2.4 欧米での1980年代の育児期短時間労働の拡大と日本の大幅な遅れ
 2.5 女性の教育達成が就業選択に及ぼす日米で異なる効果
 2.6 まとめ

第3章 日本における「正社員」と「正社員以外の働き方」間の高い壁──日本の女性労働供給モデル
 3.1 はじめに
 3.2 日本の「パート」の特殊性──「パート」の呼称と「短時間性」
 3.3 補償賃金差モデル
 3.4 非自発的な選択(選別モデル)
 3.5 税制・社会保険・配偶者手当等、被扶養配偶者が持つ雇用者優遇政策の影響モデル
 3.6 まとめ

第4章 女性の労働供給の変化と経済理論
 4.1 はじめに
 4.2 社会規範や雇用慣行
 4.3 所得効果と代替効果
 4.4 米国における女性労働の研究
 4.5 日本における女性労働の研究
 4.6 その後のパート労働者の賃金に対する均等待遇法の影響
 4.7 就業調整の問題と週20時間パートの被用者保険加入への改正
 4.8 まとめ

第5章 聞き取り調査から見る若年女性の仕事と家族形成
 5.1 はじめに
 5.2 それぞれの聞き取り調査の時代的背景
 5.3 1997年の聞き取り:「いつか専業主婦になって大事に子育てをしたい」
 5.4 2006~2011年:団塊ジュニア世代が子どもを持ちにくく働き続けにくい理由
 5.5 増加する未婚派遣社員、契約社員、アルバイト社員
 5.6 2014年以降の育児休業復帰者に見られる職場環境の改善
 5.7 若い世代の意識と声
 5.8 まとめ

第6章 聞き取りと統計調査から見る米国の高学歴女性の就業と出産
 6.1 はじめに
 6.2 米国の働く母親の聞き取り
 6.3 訪問した4米国企業における現地の働く母親の事例
 6.4 米国のジョブ型雇用と日本の長期雇用は女性活躍にどう影響するか:日米の統計調査から
 6.5 人事制度と労働市場:日本と米国との差異
 6.6 米国の働き方が許す柔軟性と困難
 6.7 日米の比較から

第7章 女性の就業と出産・育児・保育──なぜ就業継続がすすまず未婚化が進展したのか
 7.1 はじめに
 7.2 1992年の育児休業法施行は継続の「期待」だけ高め出産遅延が起きた(1997年データの分析)
 7.3 未婚女性への非正規雇用就業の拡大と結婚・出産の停滞
 7.4 大都市の保育園供給の硬直性の問題
 7.5 保育園の拡充と2010年以降の第1子出産後の就業継続の拡大
 7.6 なぜ日本では法制化されても育児休業がとりにくかったのか
 7.7 男性の育児休業
 7.8 2010年を境に正社員の就業継続に大きい変化
 7.9 まとめ

第8章 なぜ日本では少子化が起きているのか──経済学、人口学から
 8.1 はじめに
 8.2 少子化は問題か
 8.3 先進国における少子化の進展の現状
 8.4 子どもに関する経済理論
 8.5 人口学からの出産と女性の就業に関する知見
 8.6 日本の子ども数の減少はどう読み取れるか
 8.7 まとめ

第9章 シングル女性のキャリア──シングル女性は幸せか
 9.1 はじめに
 9.2 2000年以降の若年層をめぐる構造変化と雇用の不安定化及び奨学金負担の増大
 9.3 未婚者の年収分布とキャリアの問題
 9.4 シングル男女の雇用と収入
 9.5 シングルでいることは幸せな選択か
 9.6 シングルのキャリア支援をどうしていくのか

第10章 日本的雇用慣行と女性の昇進
 10.1 はじめに
 10.2 男女雇用機会均等法と男女の賃金格差の変化:先行研究から
 10.3 日本の男女賃金格差はジェンダー・ギャップかファミリー・ギャップか
 10.4 男女の管理職比率の時系列的な変化
 10.5 出生コーホートによって女性の管理職昇進はどう変わったのか
 10.6 優良日本企業への聞き取り調査から読み取る採用・評価・働き方の問題
 10.7 女性活躍推進法は女性管理職を増やしたか
 10.8 日本的雇用慣行という長期評価の慣行を変えないで女性管理職は増やせるのか

第Ⅱ部 政策効果の検証

第11章 育児短時間の義務化と結婚・出産・就業継続への影響
 11.1 はじめに
 11.2 育児後の就業継続の支援制度と母親の就業継続・出産への影響に関するモデル
 11.3 育児休業制度および関連する制度の効果と日本の課題
 11.4 育児短時間オプションと分析モデル
 11.5 分析結果
 11.6 おわりに

第12章 性別役割分業と第2子の出産──日本的雇用慣行が出生に与える影響
 12.1 はじめに
 12.2 性別役割分業と出生行動
 12.3 日本の結婚における性別役割分業に関する研究
 12.4 労働市場の構造、職場規範、判例法が家庭内の性別役割分業に与える影響
 12.5 仮説
 12.6 データと方法
 12.7 分析結果
 12.8 結論および考察

第13章 非正規雇用と正規雇用の賃金格差と就業調整問題──女性・若年の人的資本拡充のための施策
 13.1 はじめに
 13.2 非正規雇用の時系列的な変化
 13.3 パート労働はなぜ低賃金なのか
 13.4 無限定正社員の対としての低収入の主婦の保護
 13.5 なぜ就業調整が起きるのか
 13.6 パネル調査の固定効果モデルを用いた就業形態間の賃金差の推計結果
 13.7 2015年以後の政策とパート賃金の変化
 13.8 賃金格差縮小への提言と政府のガイドラインおよびキャリア権に関する考察

終章 これからの日本の労働政策・家族政策・社会保障政策
 14.1 はじめに
 14.2 令和5年度の人口推計と今後の労働力
 14.3 ケア視点からの福祉国家の類型論
 14.4 賃金制度の大転換:無限定性に代わる新しい賃金の考え方
 14.5 これからの労働政策、家族政策、社会保障政策
 14.6 この35年に何が変わり何が変わらなかったのか

参考文献
あとがき
索引

 

 

 

 

 

 

2024年8月24日 (土)

和田肇『労働政策立法学の構想』

650570和田肇『労働政策立法学の構想』(旬報社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.junposha.com/book/b650570.html

労働法判例解説や教科書などで知られる、現代労働法学を代表する論客が、
「労働政策立法学」という新たなテーマで労働法学方法論に挑戦する意欲的な一冊!

1990年代になって第二次世界大戦直後の労働基準法や労働組合法の制定時の資料が発見され、その調査と分析が行なわれてきた。
この研究により、これら法の立法趣旨が明らかにされ、解釈論にも貴重な基礎が提供されることになった。
こうした研究史の動向のなかで、本書は労働政策に関する立法を対象とした「労働政策立法学」という新たな研究領域の確立をめざす。

このタイトルは、わたくしの『日本の労働法政策』や、『季刊労働法』に連載している「労働法の立法学」とよく似ていますが、一読した感想からいうと、そうした政策過程論に関心を集中したものよりも、これまで判例評釈に傾いていた法解釈論を政策論の方向に広げようとしたものといった方がふさわしい気がしました。

実際、第1章の「労働政策立法学の構想」では、「本書で構想される労働政策立法学の一つの特徴は、政策立法の効果の検証にある」と述べ、それは一つにはビッグデータを利用したマクロ的な視点からなされるが、他方では裁判例の分析を通じたミクロな視点からなされる必要があるとし、「法律学がよりよく貢献できるのは、いうまでもなく後者の分析」と述べます。

目次を見ても窺われますが、特に第二部において、各分野ごとにこの裁判例による政策の検証に力が込められています。

はしがき 


第Ⅰ部 労働政策立法学の基礎
第1章 労働政策立法学の構想
 はじめに
 一 労働政策立法の時代 
 二 立法学と法政策学の隆盛 
 三 労働政策立法学の提案
 四 裁判例による政策立法の効果の検証 
 五 まとめ 
 【補論】 労働政策立法研究と統計等の資料
 はじめに
 一 日独の調査データや資料の違い
 二 ドイツの労働時間調査
 三 最低賃金制度に関する統計
 四 「社会の宝」としての労働協約
 五 まとめ
第2章 労働条件立法の体系
 はじめに
 一 いくつかの体系化の試み
 二 労働条件立法と憲法27 条
 三 日本における労働法体系の説明
 四 労働法における公法と私法
 五 労基法等における禁止規定違反の効果―賃金差別事案
 六 まとめ 
第3章 労働法の規範構造(その1)―強行法規とその逸脱
 はじめに 
 一 強行規定とその逸脱
 二 個別合意による強行法規の逸脱 
 三 労使協定による強行規定の逸脱
 四 ドイツ労働法における強行法規と逸脱の構造
 五 強行法規からの逸脱に関する日独比較
 六 労働法規範の再設計―労働条件の自己決定の課題 
 七 まとめ 
第4章 労働法の規範構造(その2)――ハードローとソフトロー
 はじめに
 一 労働法におけるソフトローとハードロー 
 二 ドイツ法におけるソフトローの展開 
 三 ソフトローによる法の性質変容 
 四 労働政策立法におけるソフトローの機能分析
   ―均等法における雇用平等政策効果を中心に
 五 ハードロー型立法規制の模索―差別救済について 
 六 まとめ
第5章 労働法のエンフォースメント
 はじめに
 一 先行研究 
 二 労働法の実効性確保手法 
 三 労基法の制度 
 四 行政上の制裁 
 五 行政上のその他の措置 
 六 労働組合のコンプライアンス監視機能
 七 女性活躍推進法による情報公開義務
 八 行政ADR 
 九 まとめ 

第Ⅱ部 労働政策立法の検証
第6章 有期雇用の法政策
 はじめに
 一 民法の制定と戦前の雇用
 二 労基法の制定と1980 年代までの有期雇用
 三 1990 年代前半頃までの有期雇用裁判例の展開
 四 1990 年代から2000 年代初頭にかけての有期雇用立法 
 五 労働契約法の制定と改正
 六 労契法18 条の効果 
 七 有期雇用立法政策の論点―比較法もふまえて 
 八 まとめ 
 【補論】労働契約法18条の特例――研究者・教員の雇用環境の整備
 はじめに
 一 特例法の制定過程
 二 研究特例法の対象者 
 三 国立大学・研究機関における2023 年問題 
 四 ドイツ法からの示唆
 五 まとめ
第7章 非正規雇用の均衡・均等処遇の法政策
    ―パートタイム労働を中心に
 はじめに
 一 1993 年パート労働法制定まで
 二 2007 年パート労働法改正
 三 2014 年パート労働法改正
 四 労契法20 条の機能・効果と限界 
 五 2018 年法改正(パート・有期雇用法)
 六 データに見るパート雇用政策立法の効果
 七 客観的で透明な職務分析 
 八 まと
第8章 人事異動の法政策―転勤(勤務地の変更を伴う配転)を中心に
 はじめに
 一 人事政策における配転の意義
 二 配転の出現とその後の展開
 三 判例・裁判例と学説の展開
 四 人事異動と立法政策
 五 ジョブ型雇用―勤務地限定正社員を中心に
 六 まとめ 
第9章 労働時間の法政策―女性(女子)の保護規定を中心に
 はじめに
 一 労働時間に関する女性(女子)保護規定の改正過程 
 二 1990 年代の国際動向
 三 女性の雇用実態と労働時間保護規制の撤廃 
 四 女性保護規定撤廃による影響―統計資料から見る実態 
 五 まとめ―女性保護規制のあり方と立法政策の陥穽
第10章 年次有給休暇の法政策
 はじめに
 一 労基法39 条の変遷過程 
 二 統計に見る年休の実態
 三 判例・裁判例の展開 
 四 判例・裁判例の検討 
 五 年休制度の発展のために―ドイツの年休制度との比較から
 六 まとめ 
第11章 雇用保険の法政策―休業の所得補償を中心に
 はじめに
 一 雇用保険制度とその歴史
 二 休業と民法・労働法―日本法
 三 コロナ禍と休業問題―雇用調整助成金制度等
 四 ドイツにおける休業と賃金補償制度
 五 比較法をふまえた分析
 六 雇用保険制度の課題―セーフティネットの張り替え
 七 まとめ 

第Ⅲ部 総括
第12章 男女雇用平等と立法政策
 はじめに 
 一 労働政策立法学の構想と検証手法 
 二 雇用平等の現状 
 三 雇用平等に影響を与えた要因分析(1)―法規範の設定方法
 四 雇用平等に影響を与えた要因分析(2)―労働時間法制
 五 雇用平等に影響を与えた要因分析(3)―非正規雇用政策 
 六 雇用平等に影響を与えた要因分析(4)―法のエンフォースメント 
 七 差別解消に向けた新たな立法 
 八 まとめ 
事項索引

これは全くその通りではありますが、一方で裁判例が出てこないと検証ができないということになると、どうしてもかなり時間が経った政策しか素材になりにくくなります。また、分野によって裁判例が多く出てくる分野とそうでない分野の精粗があり、全体をまんべんなく取り扱う政策論や立法学にまとめるのは難しくなりがちです。

 

 

2024年8月23日 (金)

山下ゆさんの拙著評

Asahishinsho_20240823233401 ネット界の書評家といえば山下ゆさんが筆頭でしょう。私も今まで何回も著書を書評していただいてきてますが、今回『賃金とは何か』も取り上げていただきました。山下ゆさんの採点は8点です。

http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52398441.html

 日本型の雇用をメンバーシップ型雇用として欧米のジョブ型雇用と対比させながら論じてきた著者が日本の賃金の歴史について論じた本。
 日本の賃金の特徴については『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)の第3章でも論じられていますので、単純に日本の賃金の特徴を知るのであればそちらのほうがいいかもしれません。
 一方、本書はさらに細かく日本の賃金の歴史が深掘りしてあり、そして多くの人が気になっている「日本の賃金が上がらない理由」というものがわかるようになっています。
 「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」という謎掛けのような言葉が最後に登場しますが、本書を読めばその意味がよくわかると思います。

と、読者に謎を残したまま、拙著のたいへん詳しい紹介を重ねていきます。

最後のパラグラフで、こう述べられています。

 このように読みどころの多い本ですが、第1部と第2部で2回歴史をたどる形になっているので少し読みにくさはあるかもしれません。自分も1回目に読んだときはずいぶんゴチャゴチャしているなと思いましたが、この記事を書くために読み直してみると第1部と第2部のつながりがよくわかりました。
 そして、戦時体制のもとでビルトインされた制度の根深さ(個人的は産業報国会→企業別組合という流れの影響力の強さを改めて感じた)というのも感じました。 

第1部と第2部の構成はなかなか難しいところでした。理屈から言えば、「決め方」と「上げ方」は別の話であり、いやむしろそれがごっちゃになっているのちゃんと別の話だという理路を理解してもらうのが本書の大きな目的でもあるのですが、ところがお読みになった方はわかるように、その理屈の上では別々のはずの話がごちゃごちゃに入り混じりねじれてしまっているところに戦後日本賃金史の最大の特徴があるのですから、読んでいくと第1部の話が第2部で繰り返されているようないないような訳の分からん感覚にとらわれてしまうでしょう。

それをどこまできちんと腑分けして解説できたのか不安も残りますが、山下ゆさんが2回目に読み直されて「第1部と第2部のつながりがよくわか」ったとのことですので、とりあえず安心しました。

 

 

 

2024年8月22日 (木)

教育訓練と資格制度のジョブ型・メンバーシップ型@『労基旬報』2024年8月25日

『労基旬報』2024年8月25日に「教育訓練と資格制度のジョブ型・メンバーシップ型」を寄稿しました。

 去る6月21日に閣議決定された『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2024年改訂版』は、「三位一体の労働市場改革の早期実行」の項目として、①個々の企業の実態に応じたジョブ型人事の導入、②労働移動の円滑化と並んで、③リ・スキリングによる能力向上支援を挙げています。このリ・スキリングという言葉は昨年5月の『三位一体の労働市場改革の指針』で使われて以来、政府の政策文書におけるバズワードになっていますが、それ以前も「スキルアップを通じた労働移動の円滑化」(2022年版)、「社会人の創造性育成(リカレント教育)」(2020年成長戦略実行計画)、「個々の働き手の能力・スキルを向上させる人材育成・人材投資の抜本拡充」(未来投資戦略2017)、「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関」(日本再興戦略 2016)、「若者等の学び直しの支援のための雇用保険制度の見直し」(2013年日本再興戦略)等々、労働者の職業スキルの向上(教育訓練)は政策の中心課題の一つであり続けています。近年の政府の教育訓練政策の特徴は、それが職務給などのジョブ型人事や労働移動の促進と相まって、外部労働市場指向型の政策として打ち出されてきていることです。この傾向は、既に1990年代後半から現れてきており、わたしはそれを「市場主義の時代」と呼んできましたが、第二次安倍内閣以来より鮮明になってきています。今年の『グランドデザイン』はその到達点と言えましょう。
 それに対して、1970年代後半から1990年代前半までの約20年間は、企業内の雇用維持を最優先とする雇用政策がとられた「企業主義の時代」でしたが、教育訓練についても企業内訓練、とりわけ仕事をしながらスキルを身につけていくOJTを最重要視する政策思想が社会を支配していました。そしてそれより以前の1950年代後半から1970年代前半までの高度経済成長時代には、それとは全く逆に、つまり1990年代後半以降と同様に、企業外におけるファーマルな教育訓練が重視されていた時代でした。こうした戦後労働政策の振幅については、これまでも繰り返し論じてきたので、ご承知の方も多いと思います。今回はこの二つの教育訓練思想を、ジョブ型とメンバーシップ型という雇用システム論の観点からごく簡単に整理しておきたいと思います。
 これまで繰り返してきた基礎の基礎の話ですが、ジョブ型社会では人よりも先にジョブがあります。企業とはジョブの束であり、それぞれのジョブに、そのジョブを最もよく遂行できそうな人をはめ込むのが採用です。そのために、まずそれぞれのジョブの内容を列記したジョブ・ディスクリプションがあり、それに照らして応募してきた人のうち誰を採用すべきかを決定します。その際に重要な基準となるのは、そのジョブに係る資格のある人、あるいはそのジョブの経験者であるかどうかです。もちろん、当該ジョブに係る資格があるからといって本当にそのジョブを遂行する上でのスキルがあるかどうかはやらせてみないとわかりませんが、資格があるということは少なくともそのように社会的に認められているということを意味します。ですから、そのジョブに係る資格のある人と資格のない人が応募してきたときに、(女性や少数民族といった属性を持った)資格のある人を差し置いて(男性や白人である)資格のない人の方を採用したりすれば、資格のない人の方がそのジョブをより適切に遂行できるはずであることをきちんと説明できなければ、差別であると疑われることになります。
 こういう話を聞くと、日本人は大変違和感を感じるはずですが、それは雇用システムの違いによるものです。すなわち、日本のようなメンバーシップ型社会では、企業はジョブの束ではなく社員(会社メンバー)と呼ばれる人の束であり、その人を企業内のさまざまな仕事に流動的にあてがっていくことが前提だからです。ですから、採用基準は特定のジョブを遂行するスキルがあるかどうかなどという枝葉末節のことではなく、採用後定年退職に至るまで人事異動によって社内のさまざまな仕事をこなしていける人材であるか、より具体的に言えば、採用や配置転換直後は素人ではあっても、上司や先輩の指導の下で実際に作業に当たっていくことで仕事のやり方を身につけていき、一人前に仕事ができるようになれる人材であると見込めるか、が最重要事項ということになります。これは資格や経験といった客観的な基準ではないので、日本では採用差別という概念は法律上には存在していますが、実際にはほとんど発動困難であるわけです。
 こうした採用の在り方の違いは、その企業や労働者が属する雇用社会における教育訓練の在り方に大きな違いをもたらします。ジョブ型社会では、採用以前に特定のジョブに係るスキルを身につけていることが求められる(資格や経験はその徴表)のですから、社会における教育訓練機能は主として企業の外部に設けられ、労働者(やその予備軍)は予め自らの発意でいずれかのジョブのスキルを身につけるために教育訓練機関に参加し、その受けた教育訓練内容とそれによって身につけた特定のスキルを証明してもらう必要があります。最も一般的な教育訓練機関は後期中等教育や高等教育段階の学校(高等学校、大学、大学院等々)であり、その卒業証書(ディプロマ)が最も一般的な職業資格証明として通用することになります。一言でいえば、就職前に企業外で特定のジョブのスキルを身につけるべく教育訓練を受け、その資格を得ることで就職できる、というのがジョブ型社会における教育訓練の位置付けです。教育訓練システムの中核をなすのは、就職前に企業外で受講する公私の教育訓練機関であり、就職後のオンザジョブトレーニングはあくまでもそれへの補完的なものにとどまります。「補完的」というのは、一応採用時点で一人前の労働者であると認めてはいるが、乏しい実践経験をOJTで補完することでより熟練した労働者になっていくという意味です。
 これに対してメンバーシップ型社会では、就職後に企業内で上司や先輩の指導下で実際に作業をしながら仕事のやり方を身につけていき、それを配置転換のつど繰り返すことで社内資格が上がっていくという構図になりますから、就職後のオンザジョブトレーニングこそが社会の中で最も中核的な教育訓練機能ということになり、就職前に企業外で受講する公私の教育訓練機関はあくまでもそれへの予備的なものにとどまります。「予備的」というのは、採用後OJTにより仕事のやり方を身につけて活躍することができるような人材であるかどうかという判断をする際に、就職前企業外の(特定のジョブの特定のスキルを目指したものではない一般教育的な)教育機関を卒業していること、より正確に言えば、当該教育機関で行われた教育内容自体には大して意味はないので、その教育機関に入学できたことが極めて重要な判断材料になります。なぜなら、選抜性の高い教育機関に入学できたということは、採用後OJTによる教育訓練に積極的に取り組み、仕事ができるようになっていく可能性が高いと見込まれるからです。ですから、「予備的」といっても重要性は高いのですが、大事なのは教育内容ではなく、応募者の素材としての優秀性のシグナルとしての機能にあります。逆に言うと、ジョブ型社会で評価されるような特定のジョブの特定のスキルを身につけたことを証明するような教育訓練機関は、その選抜性が低いことが多いため、かえって採用の際には低く評価されてしまいます。
 以上のような基礎の基礎の認識の上で、戦後日本における教育訓練政策の流れを概観すると、おおむね1970年代半ばまではジョブ型社会の理念型に基づいた政策が指向されていたのに対し、1970年代半ばから1990年代半ばまでの約20年間は、メンバーシップ型社会の理念型が圧倒するようになり、さらに1990年代半ば以降は再びジョブ型社会の理念型が優越的になっていると言えます。ただし、これはあくまでも政策理念のレベルであって、現実社会はむしろ一貫してメンバーシップ型社会の論理で動いてきています。そこで、第一の時期と第三の時期では、ジョブ型指向の政策とメンバーシップ型の現実社会との矛盾相克が常に問題になり続けることになるのです。

 

2024年8月21日 (水)

『日本労働研究雑誌』特集テーマ論文の公募

764_0203 『日本労働研究雑誌』が特集テーマ論文の公募をしています。

『日本労働研究雑誌』特集テーマ論文の公募について 特集テーマ「フレキシブルな働き方の実態・影響・課題」

 投稿受付期間は2025年3月1日~2025年4月17日(4月17日締切) で、掲載が決定した論文は、原則として、本誌2026年2・3月号(No.788)に掲載するとのことです。

 特集テーマは「フレキシブルな働き方の実態・影響・課題」です。

編集委員会の説明は以下の通りです。

多様な働き方や柔軟な働き方を推奨する機運が近年高まりを見せ、政策もそれを後押ししている。例えば、労働時間の上限規制や有給休暇の消化義務、テレワークや副業・兼業の推進などである。これらは、労働者にとっては、ワークライフバランスの改善、従来の枠組みには収まらない働き方の推進、本業とは異なる活動の充実、職住分離が可能になるなど、個人の時々のニーズに合わせたフレキシブルな働き方を可能にし得るものである。同時に、企業にとっても、柔軟な働き方を可能とする制度・環境を整えることで、優秀な従業員の確保や生産性、モチベーション向上に結びついているかもしれない。

他方、このような働き方の促進が、意図せざる結果に結びつく可能性もある。過度な労働時間規制や休暇取得の強制は、意欲の高い労働者のモチベーションを下げたり、若年層への教育訓練機会の抑制、将来的なキャリアの見通しの不透明さにつながり得る。従来とは異なる働き方は、新たな不安定就労を生み出すことになるかもしれない。企業側にとっても、売り上げや利益の減少、労務管理の難化といった事態を招き得る。

また、意識面では、柔軟な働き方を進めた結果、労働環境が変わることで、働くことへの意味づけや働く理由、労働観に変化が生じている可能性もある。あるいは、働く場所と時間を柔軟にするための選択肢が増えたことで、働くこと/働かないこと自体の判断や、労働時間と生活時間の決定パターンに係る意識構造自体に変化をもたらしているかもしれない。

以上を踏まえて、本特集では、フレキシブルな働き方の実態や影響、課題についての実証や問題提起、今後の政策提言につながる論文を募集する。これに関連する学問領域は広く、経済学(労働経済学、組織の経済学、家族の経済学など)、経営学(人的資源管理論、経営管理論、組織行動論など)、社会学(労働社会学、産業社会学、家族社会学など)、労働法学、労使関係論、産業・組織心理学に加えて、教育学やジェンダー論の観点から接近することも有用である。柔軟な働き方を促進する政策や制度が個人や企業の行動、意識にもたらす効果の他、それを可能とする人事システム、個別的~集団的な労使関係、新たな働き方を支えるための法体制、学校教育と職業生活の接続、働く人の能力・心理・ネットワークなどを扱う論文の投稿を想定している。実証研究のみならず、先端的な理論や方法論で現実に新たな光を当てるような研究も好ましい。雑誌の性質から、政策的貢献が高い研究も歓迎する。

これから約半年で執筆して、それからさらに1年近く経っての掲載ということになりますが、さまざまな観点からのアプローチがあり得るテーマだと思いますので、我と思わん方は応募してみてはいかがでしょうか。

ちなみに、どういう人々が編集委員なのかというと、

編集委員長

山下充 明治大学経営学部 教授

編集委員(50音順)

江夏幾多郎 神戸大学経済経営研究所 准教授
神吉知郁子 東京大学大学院法学政治学研究科 教授
児玉直美 明治学院大学経済学部 教授
小原美紀 大阪大学大学院国際公共政策研究科 教授
古村聖 関西学院大学経済学部 准教授
佐野晋平 神戸大学大学院経済学研究科 教授
首藤若菜 立教大学経済学部経済政策学科 教授
鈴木恭子 労働政策研究・研修機構(JILPT)研究員
富永晃一 上智大学法学部法律学科 教授
中島ゆり 長崎大学大学教育イノべーションセンター 准教授
西村純 中央大学商学部経営学科 助教
深町珠由 労働政策研究・研修機構(JILPT)副統括研究員
森永雄太 上智大学経済学部経営学科 教授
森山智彦 労働政策研究・研修機構(JILPT)研究員

 

 

 

 

2024年8月20日 (火)

満薗勇『消費者と日本経済の歴史』

102815 満薗勇『消費者と日本経済の歴史』(中公新書)を送りいただきました。ありがとうございます。

消費者と日本経済の歴史 高度成長から社会運動、推し活ブームまで

SDGs、応援消費、カスハラなど、消費者にまつわる用語に注目が集まっている。背景にはどのような潮流があるのか。本書は、一九六〇年代の消費革命から、平成バブル、長期経済停滞、現在までを、消費者を通して読み解く。生産性向上運動、ダイエー・松下戦争、堤清二とセゾングループのビジョン、セブン‐イレブンの衝撃、お客様相談室の誕生などを論じ、日本経済の歩みとともに変貌してきた消費者の姿と社会を描き出す。

近現代史をもっぱら労働者の観点から眺めてきた私にとって、消費者の目線からの歴史叙述はそれだけで結構目を開かされる思いのする体験となりました。なんというのかな、ある事象をもっぱら労働者側からの(というか労働者と使用者という労使関係的な)視点から見てきたことが、消費者側からの(と言うか消費者と生産者という)視点により違ったように見えるという感じです。

そうですね、まずもって消費者主権という概念が経済同友会の修正資本主義理論の根幹に位置するという認識を、その大塚万丈の『企業民主化試案』を繰り返し読み、かなり詳しく紹介したはずの私が、全くもっていませんでした。

帰ってきた「原典回帰」(第1回) 経済同友会企業民主化研究会編『企業民主化試案』同友社

この結構長めの文章の中に「消費者」という言葉は全く出てきません。要するに、私の問題意識には全く引っかからなかったということです。でも、満薗さんにかかると、この大塚理論の中核には、株主や労働者に対して経営者の権限を正当化する最大の所以は消費者利益にあるのです。ここは読みながら、「そうだったのか!」と叫んでしまいました。

それに続く生産性向上運動についても、戦後労使関係史にとって枢要なエポックメイキングな出来事だと繰り返し論じてきたつもりですが、その生産性運動の中から消費者主権の考え方が打ち出され、日本消費者協会が生み出されていくという歴史も、残念ながら私の視野には全く入っていませんでした。

こういう風に、本書に出てくる登場人物は見知らぬ人々ではなく、結構見知った人々でありながら、本書で取り上げられる側面についてはほとんど知らなかった、という印象が続きます。

ちょっと違った視点から読めたのは、生活クラブ生協の話です。これについては結構本や雑誌を読んで調べたことがあるのですが、それは現在の労働者協同組合に流れ込んだ源流の一つであるワーカーズ・コレクティブの歴史をたどると、生活クラブ生協に行き着いたからです。

「労働者協同組合のパラドックス」(『季刊労働法』2021年夏号(273号))

・・・これに対して生活クラブ生協は、安保闘争を経験した活動家が家庭の主婦層に向けて1965年に牛乳の共同購入事業を始めたのが出発点で、その運動の主眼は国産、無添加、減農薬といったこだわりの安心食材を宅配するところにありました。社会運動的性格は強いものの、大都市近郊のサラリーマン家庭の専業主婦層を担い手とするもので、労働問題とは対極にある存在と言えます*10。ちなみにそこから生まれた政党が生活者ネットワークです。
 その生活クラブ生協が、店舗型共同購入の荷捌き所(デポー)の業務を遂行するため、1982年に神奈川に初のワーカーズ・コレクティブ「にんじん」を設立し、これが全国に広がっていきました。その設立呼びかけ文には、「産業化社会における雇用・被雇用の賃金労働は自己を物象化するだけでなく、労働の主体を曖昧にし、賃金労働以外の働くことの価値を歪曲し、労働の差別化を促し、かつ固定化するに及んでいます」云々と、雇用労働に対する敵意が溢れています。その後、1989年には首都圏のワーカーズ・コレクティブが全国市民事業連絡会を設けてネットワーク化を図り、やがて1995年にワーカーズ・コレクティブネットワークジャパンを結成し、その前後から立法化運動を進めていきました。
やがて「消費者」という言葉は「お客様」に取って代わられ、顧客満足第一主義のマイナス面が徐々に指摘されていきます。本書の終章では、それが過重労働やカスタマーハラスメント、ブラック企業問題を生み出したことが指摘されるとともに、エシカル消費や推し活の登場など、近年の動きも概観されています。 

そこに向かう途中の歴史で、本書には登場しないのですが、消費者と労働者という観点から見て結構重要ではないかと思われるある出来事があります。それは近著『賃金とは何か』でも触れたのですが、1990年に日経連と当時設立されたばかりの連合が一緒になって、『内外価格差解消・物価引下げに関する要望』を行ったことです。そこでは、「労働組合は、職業人の顔とともに、消費者の顔をもつ」から「労働組合自らが消費者意識を高め、消費者に対しては物価引下げに必要な消費者意識や消費者世論の喚起に努めるべき」とまで言っていました。確かにその通りである面もありますが、その両者の利害が対立する面もあるわけで、消費者主権が「お客様は神様」に達すると、その神様に拝跪すべき労働者の権利は限りなく削られていくことになります。

その意味で、本書をじっくり読んだ上で、改めて消費者という大きなアクターを念頭に置いた上で、誰かが新しい『労働者と日本経済の歴史』を書いて欲しいなと思いました。

 

 

2024年8月19日 (月)

新人声優さんの拙著書評

81tj1p4qhol_sy466__20240819104901 (確か前は女性声優さんと名乗っていたと思いますが)新人声優さんが拙著『賃金とは何か』について書評をして下さっています。

濱口桂一郎さんの『賃金とは何か』を読んだ

日本では会社ごとの賃金があり、そしておおまかには在籍年数に応じて役職定年までは毎年昇給していく、という給与システムはごくあたり前のこととして受容されている(と思う)が、そうしたシステムはどのように作られてきたか、ということを労働行政の賃金マフィアとでも言うべき一群の人達の視点を中心に書いている歴史書。

「どのように」みたいな話は本に書かれているので、読んで頂ければいいとして、この本の白眉と言える部分は以下の3箇所だと思っている。

というわけで、本書の中から3か所をスライドにして貼っていただいています、

3fe5f204eae5c8d0fa3c909cb52f1cccA3d4811e15d23b94e4bcffbd0290f1ddE72bc4154d688958f68c30e341d6162f

これらのセリフがそこまで「白眉」と言えるのかどうか、著者の自分自身いささか疑問もありますが、まあでもここまで見事なプレゼン資料にしていただいたのは感謝です。

最後の2パラグラフはご自身で「完全な与太話」と言われていますが、その内容(日本のアニメの奇形的発展の原因は年功賃金制にあり)の妥当性如何については、私は全く判断するだけの材料を持ち合わせていませんので一切コメントは控えますが、ただその冒頭の記述については、若干誤解があるように見えるので、その点だけ指摘しておきます。

新人声優さんは「日本の年功制賃金は「若い男性に金を与えれば共産化するから若いうちは貧乏にさせとけ」という発想がベースの一つにあったことが本書に記されている」と書かれているのですが、いやこれは論理の裏の裏をとればそういうことになるとも言えますが、少なくとも直接的にはそういうことはいっていません。というか、これは呉海軍工廠長の伍堂卓雄海軍中将の「職工給与標準制定の要」の一節ですが、そこで伍堂が言っているのは、家族を扶養する中高年の職工が家族を養えないような低賃金では思想が悪化して共産主義に走る恐れがあるから、そこを手厚くしろ、若いのに多額の賃金を払っても酒色に費やすだけだから無駄だぞ、という理屈です。

若い男性に金を与えたらそいつらが共産化するというのではなく、女房子供抱えた中高年に金をやらないとそいつらが共産主義化すると言っているのであって、だから仕事の値打ちに関わらず若い奴は薄給にして中高年に手厚くしろというわけです。結果的には、その次のセンテンスである「このような賃金制度のもとで若い男性は「生活するだけでやっと」という賃金しか得られない、ということになった」に素直にそのままつながるので、裏の裏で元に戻って、その後の「完全な与太話」には全く影響を与えないのですが、お金をたくさんもらうとなぜか共産主義に走るというのはどう見ても理屈が逆なので、一応指摘だけしておきます。

(追記)

やっぱりそこんところに疑問を感じる人が出てきているようです。

で、「若い男性に金を持たせると共産化する」ってのがよく分からないのでもう少し解説ほしいのと、メンバーシップ型こそだいぶ社会主義的じゃない?と思ってしまうのと。

上述のように、若い男性に金を持たせたら、その金を持った若い男性が共産化するなんて莫迦な話は言ってなくって、若い男性に高い給料を払ったら女房子どもを抱えた中高年男性が低賃金で生活できなくなってそいつらが共産主義に走るぞ、って話です。

だから、共産化を防ぐためのある種社会主義的な発想であるわけです。

それが戦時中の皇国勤労観を通じて終戦直後の電産型賃金体系に流れ込んでいるわけですよ。

 

 

 

 

 

 

「学び直し」が「学歴ロンダリング」になるメンバーシップ型社会

何やらネット界隈でまたぞろ「学歴ロンダリング」がバズっているようです。

そういう議論に加わる気はこれっぽっちもありませんが、政府が鉦や太鼓で「学び直し」だ「リスキリング」だと大騒ぎしてくれていても、肝心の日本人の心性はこれっぽっちも変わっておらず、そういうのは唾棄すべき「学歴ロンダリング」であるというメンバーシップ感覚溢れる強い信念に揺るぎはなさそうです。

いうまでもなく、ジョブ型社会においては学歴、すなわち教育訓練機関の修了証書(ディプロマ)というのは、あるジョブを遂行するだけのスキルを身につけていることを証明しますよ、という資格証明なので、いまそれだけの学歴がないためにそのジョブに応募することができない人が、学び直しをして、れっきとしたディプロマをもらって、そいつを持って揚々と応募し、めでたく採用されてそのジョブに就く、というのは、まさに出世街道の王道です。別にほかの会社に転職するだけではなく、同じ会社の上位のジョブに応募するためにも、「いまの学歴じゃ無理だよ」と言われて一念発起してリスキリングしてディプロマを獲得して、めでたく上級ポストに移るというのはよくあることです。

ところが、そういうジョブ型社会では一番真っ当なコースであるはずの学び直しやらリスキリングやらが、このメンバーシップ型社会では、正々堂々とした出世街道を進むのではなく、その裏道をこそこそとすり抜けていくズルの極みみたいに見られてしまうのです。

なぜかといえば、これも拙著で繰り返し繰り返し山のように書いてきたことですが、日本社会では特定のジョブに向けた特定のスキルなどという枝葉末節のことはどうでもいいのであって、何にでも積極的に取り組み、一生懸命頑張ってなんでもこなせるようになる人間力こそが最も重要な「能力」だからであって、その「能力」というのは、十代の頃に一生懸命受験勉強に取り組んで高い偏差値の大学に入れたということによって「のみ」示されるのであって、その後大学でどんな勉強をしようがしまいがほとんど関係がないからです。

したがって、政府が鉦や太鼓で推奨する「学び直し」なるものは、メンバーシップ型感覚に溢れた常識人の目には、本来大学受験時に確定的に判定されたところの「能力」評価を、大学院などという不要不急の盲腸みたいな役立たずの機関にこそこそと潜り込むことによって、インチキにも上書きしてしまおうというこの上なくずる賢くも悪辣な企みということになってしまいます。

教育訓練機関で学ぶことによってスキルを高め、それを正当に評価されることによってより高い社会的地位に上昇することが、最も正当な出世の道であるジョブ型社会と、教育訓練機関に入るために努力することによって「能力」を示し、それを正当に評価されることによってより高い社会的地位に上昇することが、最も正当な出世の道であるメンバーシップ型社会との間に、深くて暗い川が流れていることを、この「学歴ロンダリング」という侮蔑語ほどよく示している言葉もないように思われます。

 

 

 

 

 

θさんの拙著評

81tj1p4qhol_sy466__20240819104901 amazonに、拙著『賃金とは何か』への2つめの書評がつきました。θ(シータ)さんの「賃金についての歴史を概説した本。長い引用が多めで、資料集の面も」という、こちらも大変長めの書評です。

賃金についての歴史を概説した本。長い引用が多めで、資料集の面も

本書は、日本の賃金制度の歴史をまとめた本である。
タイトルは「賃金とは何か」と一般的だが、基本的に日本の賃金制度の歴史(企業、労組、国がどういう施策や要求を出していたか。何が行われたか)しか出ておらず、諸外国との比較考察は最初少しだけだし、「どういう賃金体系が望ましいか」のような議論も弱めである点には注意が必要である。

まさにその通りで、意図的に「どういう賃金体系が望ましいか」のような議論を展開することは禁欲しています。小説ってのは気持ちを書くんじゃなくって行為を書くんだよという某作家さんの言葉じゃないけれども、日本の賃金の歴史を淡々と記述する中から読者の脳裏に自ずと浮かび上がってくる何かがあれば、それがメッセージになるのであって、著者が変にしゃしゃり出てこれがいい、あれは駄目みたいなことを言うのは、そういう指示されるのが好きな人は嬉しいかもしれないけれども、じぶんのあたまで考えたい人にとってはかえって邪魔でしょうから。

日本の賃金の歴史の簡便なまとめといったところであろう。
引用が長いわりにそれに対するまとめが短い(ただ引用しただけになっている)点、全体として整理より列挙の面がつよい点は気になるところであり、ここは改善してもらえるとよかった。

その意味では、本当に賃金については何も知らない人がはじめに読む本としてはやや不親切かも知れませんね。

ただね、想定する読者層の人々は、基本的には何かしら労働をしてその対価として賃金をもらっている人ないしその経験のある人なので、賃金論を読んだことはなくっても、自らの経験としては賃金ってものを知っているはずの人なんです。

そういう人が、いままであんまり深く考えたことのなかった自分のもらっている賃金について、「へぇ、そうだったのか」と思ってもらえるようなことが、一つでも二つでも盛り込まれていれば、本書の目的はそれなりに達成されたことになるのではないかと思っています。

X(旧twitter)では、いくつかそういう感想がアップされているようです。

中田:‖ さん曰く:

面白すぎて震えてます。自社の給与体系に訝る従業員と自社の給与体系をどうすべきかに悩む経営者の皆様に全力でお勧めできます。 明治期から賃金体系が頻繁に変化し複雑化してきた日本の歴史を、興味深い多数の資料やエピソードとともに紐解いてくれる一冊。目から鱗and鱗👀

個人的には、いままでの本でもそうですが「目から鱗」という評語ほど嬉しいものはありません。

chikanabeさん曰く: 

濱口桂一郎『賃金とは何か』読了。面白いの一言。日本の賃金を考えるに際して、「上げなくても上がるから上げないので上がらない」はあまりに的を得た言葉です。個人的には、海員組合が「日本でおそらく唯一の純粋ジョブ型労働組合である」との指摘が目から鱗でした。この内容で新書なのも嬉しい限り。

 

 

 

 

 

2024年8月16日 (金)

結社/経営体としての日本共産党

Jigazou_400x400 例の働き方改革の時に「ごはん論法」という名文句を案出し、左派関係者の間でミームとして一気に広がったことで我々労働関係者の間でも記憶されている神谷貴行(紙屋高雪)さんが、日本共産党を除籍・解雇されたとブログで書かれています。

日本共産党を除籍・解雇されました 

神谷さんを除籍・解雇した日本共産党の言い分が正しいのか、それとも神谷さんの言い分が正しいのか、といったことについてはここでは一切論じるつもりはありません。気分的には神谷さんに同情的ではありますが、ここで取り上げるのはそういうことではなく、「除籍・解雇」と異なる二つの概念が中ぽつでつなげて書かれていることに興味を惹かれたからです。

神谷さん自身はこう書かれています。

私・神谷貴行は、2024年8月6日付で日本共産党から除籍されました。
また、本日(2024年8月16日)付で日本共産党福岡県委員会から解雇されました。
これらについてはいずれも到底承服できないものです。

これを見る限り、政治結社たる日本共産党の一員としての党員籍を「除籍」されたことと、一個の経営体としてしんぶん赤旗等を発行する等の事業を営む使用者たる日本共産党から一方的にその雇用関係を解除(「解雇」)されたこととは、日付も異なり、別々の事柄であるようです。

前者が基本的にはよほどのことがない限り外部からの介入を認めにくい私的自治の世界に属するのに対して、後者はまさに使用者の一方的行為を外部から規制することが原則であるべき労働法の世界であり、とりわけ解雇に対しては解雇権濫用法理に従って、使用者たる日本共産党の言い分が許されるものであるかどうか厳格に審査さるべきものということになります。

とはいえ、経営体としての日本共産党は政治結社としての日本共産党と密接不可分であるはずで、結社の一員としてふさわしくないと当該結社(の意思決定者)が判断した以上、そのような者を労働者として使用することができないというのは十分立派な理屈であるという議論もありうるかもしれません。

112050118_20240816204801 つか、「社長の俺様に逆らうとはケシカラン。貴様なんかクビだぁ!」というたぐいの貴様ぁ解雇は、拙著『日本の雇用終了』にその実例が山のように溢れているように、日本の中小零細企業では結構日常茶飯事ですので、経営体たる日本共産党も、使用者としてはそうした貴様ぁ社長とよく似た性格であったということかもしれません。

ただ、下記裁判例(日本共産党愛知県委員会事件)に見られるように、日本共産党側は、そもそも神谷さんは雇用される労働者ではないと主張してくると考えられ、その意味ではこれは今流行りの「労働者性」をめぐる一事例ともいえることになります。

人さまの企業に対しては「労働者を守れ!」と叫ぶ一方で、自分のところで給料を払って働かせている人に対しては「労働者じゃないぞ!」と主張するというなかなか興味深い光景がみられることになりそうです。

なんにせよ、

今後のことは弁護士と相談して決めたいと思っていますが、もし訴訟になったらぜひみなさんに応援していただければ幸いです。

とのことなので、労働法研究者としてもなかなかに興味深いケースになっていく可能性があり、今後の動きについても注視していきたいと思います。

(参考)

 日本共産党愛知県委員会事件(名古屋地裁昭和53年11月20日決定判例時報927号242頁

・・・憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えていないが、憲法の定める議会制民主主義は、政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は、議会制民主主義を支える不可欠な要素であると共に、国民の政治意思を形成する最も有力な媒体である。
 この見地からすれば、政治結社である政党は、憲法二一条で保障されている結社の自由の保障を高度に与えられて然るべき団体ということができる。
 そして、同条にいう結社の自由の保障とは、政党の場合、憲法一九条所定の思想信条の自由と結びついて、政党の結成ないし政党に対する加入、脱退の自由を保障すると共に、政党が自らの組織運営について自治の権利を有することを保障したものと解される。そして、政党の自由な組織・運営に公権力の介入が認められるのは、政党資金規正法、公職選挙法、破壊活動防止法など法律に特別の規定がある場合に限定されているのであつて、政党の前記のような結社の重要性に着目すると、政党の自律権はできるだけ尊重すべきであり、党員に対し政党がした処分の当否については当該党員としてではなく、一般市民として有する権利(以下「市民的権利」という)を侵害していると認められない限りは、司法審査の対象とはならないと解するのが相当である。
 これを本件についてみるに、本件各処分は、いずれも政党内部の機関が規約上定められた権限に基づき党員に対し行なつたものであることは明らかであり、右各処分のうち、本件除名処分及び点在党員措置決定(申請人主張の継続決定は、疎明資料によれば、右点在党員措置決定の書面による正式通知を申請人が継続決定と誤解したもので、継続決定はなされていないことが認められる)は、その処分の性質自体に照らし党員の市民的権利を侵害する余地はないから、政党の有する自律権の範囲内に属しこれら処分の当否は司法審査の対象とならないと解するのが相当である。・・・

以上に認定した事実によれば、県勤務員は、自発的献身的に党活動に専従する政党の常任活動家であり、県常任委員の指揮命令を受けるというよりは、県常任委員を補佐し、これに協力して執行機関である県常任委員会を構成し、全県党の指導活動並びに一般党務に従事する者であり、勤務場所、勤務時間の拘束はなく、欠勤控除もないかわりに、時間外割増賃金、有給休暇の定めもないというのであるから、以上のような県勤務員の勤務の実態に即して考えると、県勤務員に対する給与は、党務に専従するための活動費であり、生活補償費の意味合も含まれてはいるが、労務の提供と対価関係にあるとは認められず、従属労働性の度合は稀薄であり、県勤務員と被申請人県委員会との法律関係は、労基法の適用を受ける雇用契約関係にあると目することは困難であって、寧ろ、県常任委員と同様に委任契約ないしこれに類似する法律関係と認めるのが相当である。
 もつとも、県勤務員は、先に認定したとおり、厚生年金、健康保険の被保険者とされ、給与中から右各保険料を控除されているが、厚生年金保険法、健康保険法に定める保険給付は、いずれも、労基法、労災保険法に定める災害補償等とその対象を異にし、専ら労働者及びその被扶養者又は遺族の生活の安定を図ることを目的としているのであつて、このような保険制度の有する社会的意義を考えると、この制度の利益を広範囲の労働従事者に及ぼすことが法の趣旨、目的に沿う所以である。従つて被保険者の資格要件である『事業所に使用される者(健康保険法一三条、一四条、厚生年金保険法九条、一〇条)』の範囲は、必ずしも労基法の適用対象である従属労働関係のある者に限定されず、委任ないしこれに類似の契約であつても、有償で継続的に稼働する者、例えば法人の代表者等もこれに包含されると解されるから,県勤務員もこれら保険の被保険者の資格要件を備えているものというべく、県勤務員がこれら保険の被保険者とされている事実は、県勤務員が労基法の適用を受ける雇用契約関係にないとの前記判断をなす妨げとはならないというべきである。
(三)然しながら、県勤務員は、給与名下に金員が支給され、有償である点において市民的権利につらなる側面のあることは否定できないところであるから、その限りにおいて政党の自律権は制約を受けるものというべく、本件解任処分の当否は、司法審査の対象となると解するのが相当である。これに反する被申請人らの主張は採用できない。 
六 そこで、本件解任処分の効力について判断するに、本件解任処分は、法的には委任契約の解除権の行使にほかならないところ、本件のような有償委任契約の解除については、委任者が任意にこれを行使することはできず、相当の事由を要すると解せられる。
 ところで、本件解任処分につき労基法の適用がないことは先に述べたとおりであるところ、申請人は、労基法一九条違反のみを無効原因として主張しているのであるから、右主張はもとより採用できず、他に無効原因の存することについては、何らの主張がないのみならず、申請人は、審尋期日に、解任するに足りる事由の存することについては争わない旨陳述しているから、本件解任処分は有効と認めるの外はなく、県勤務員たる地位の保全等を求める仮処分申請は、その余の点につき判断するまでもなく被保全権利の疎明を欠くことになる。 

なお、裁判所が受け入れた日本共産党側の主張は以下の通り。

 ・・・日本共産党は科学的社会主義の理論と運動の正当性を確信し、この理論のわが国での創造的適用、発展である党の綱領、規約を承認し、綱領のさし示す日本の社会主義的未来の実現をめざして奮闘することを決意した党員が、自由意志にもとづいて結集している政治結社である。共産主義社会の実現という目標で結ばれるこの組織体は、政治理念の共通性を基礎とする、自主的、自覚的結集を本質としている。
 党の構成員相互は、真に自由、平等な人格を基盤とする同志的な結合関係にあり、支配と被支配、搾取と被搾取、雇用と被雇用といつた、根本的に利害の相対立する関係は存在しない。
 党の綱領と規約を承認し、党の一定の組織に加わつて活動し、規定の党費をおさめるものは党員となることができる。党員は革命の事業に献身することを決意して党の戦列の一員となる。党活動に加わり、党生活を営むことは、党員のもつとも基本的な権利であると同時に義務である。(規約二条(二)、三条(二))。
 自発的意志にもとづいて党に加わつた党員は、党の政策と決定を積極的に実行し、党からあたえられた任務をすすんで行う、これはすべての党員に課せられた責務である。党員の部署と任務は党内で民主的に決定される。情勢、党の果たすべき課題、党員の資質、能力、条件等の諸要素を総合して、党員の力が適切に発揮され、党全体が統一し団結してたたかうにふさわしく決定される。いつたん決定された任務は必ず実行されなければならない。
 右にみたように党員の任務と活動は彼が党員であることそれ自体に由来する。自発的に結集された自治的組織である党内における党員の任務とその遂行は、彼が自覚的規律を承認した党の構成員であることの結果に外ならない。党員に課せられた任務の遂行は、したがつて党の政策と決定の具体的実践であり、党員の基本的権利、業務の実現である。彼が党務に献身するのは、何ものかに強いられるものでもなければ、命令されるからでもない。真の自発的意志にもとづくものである。これは党員のすべてに、例外なくいえることであつて、機関の構成員であるか否かによつて何らの差異もない。上級と下級、組織と党員の間にある指導、被指導の関係は党存立のよつてたつ組織の原則から必然である。党規律を同志的結合、自覚的結集の準則として承認する党員にとつて、指導、被指導の関係が支配、従属の関係として観念されることはない。
2 党と党員との間の右のような関係は党専従ないし県勤務員についても基本的に同様である。
 県勤務員は同一の政治的理念、信条に基づき自覚的に結集している党員の中から選出され、県党の指導機関たる被申請人を構成するものである。指導機関たる県委員会は、県党会議において選出されることになつており、このとき選出されるのは県委員、准県委員(県役員と呼ばれる)であるが(規約三九条)、県勤務員は県役員とともに指導機関の構成員としてそれぞれの部署に関して全県党の指導にあたるのである。
 申請人は指導機関の役員をへて昭和四四年(一九六九年)県勤務員となり、昭和四五年(一九七〇年)以降被申請人選対部の部員として総選挙をはじめ各種選挙の指導にあたつてきた。一定量の機械的労務を被申請人にたいし、その指揮命令に基づき提供するがごときものとはおよそ性質を異にする高度な政治指導の遂行であつた。
 以上の点において申請人は労基法九条の労働者に当たらず、被申請人は同法一〇条の使用者に当たるものでないことは明らかである。
3 県勤務員は専従の県役員と同様県党組織たる被申請人から「給与」の支払いを受けている。しかしこれは使用者の指導命令に基づく労働力売買ないし一定量の労働に対する対価などとは性格がまつたく異なるものである。
4 労基法上の労働者とは「事業所または事務所に使用される者で賃金を支払われる者」である。(同法九条)
 ここでいう「使用される」とは労働者が使用者との関係において、従属的労働関係にあることを意味するものである。従属的労働関係とは事業主の指揮命令をうけ、その監督のもとに労働を提供し、その対価として賃金をうる関係である。このように従属的労働とこれの対価としての賃金が労働者性を決定づける。
 党任務とその遂行は、社会主義を通じて共産主義社会を実現するという、党の目的に向つての行為である。大衆的前衛党である党は、数十万人の党員とすべての党組織の一致団結した共同行動によつてその政治理念を具現化しようと努める。党員の党活動への献身は日本の労働者階級と人民を搾取と収奪から根本的に解放するという崇高な共産主義者の信念と自覚からであつて、活動に対する報酬や対価の取得を目的とするものではないし、いわんや彼を支配する何者かに労働力を売渡した結果ではないことは明白である。党の任務は誇りある党員の確信と自覚に基づき、自発的になされるものであつて、活動の過程において支配被支配の力関係が及ぼされることもありえないから従属的労働をもつて論ずる余地はありえない。
 申請人は、申請人と被申請人の関係は、指導・被指導の党内関係のほかに、指導命令を中核とする使用従属関係があると主張するが、このような「二面論」はこれまで詳述した党の目的と性格、党の組織原則からいつて、到底是認しえない暴論である。党組織と党員、上級と下級の党内関係を、その本質的内容から意図的、恣意的に切離したうえで、あたかも従属労働関係が存在するように描き出す詭弁である。
 日本共産党の専従者は、すべてその生命、生活の全てを結社の目的実現にむかつて捧げてゆくことを当然の任務としている。この専従者に対する「給与」は、専従役員や専従勤務員が日常不断に、かつ専ら党活動に専念し、他に生計のための収入を得ることが不可能であるから、党任務の遂行を物質的に保障するために支給される活動費である。
 それは申請人が主張するように、被申請人に「採用」された結果として支給されたものではなく、党役員であれ、非役員勤務員であれ、専従党員に対して支給されるものなのである。ちなみに「専従」とは党の任務遂行の一つの党内配置であつて企業における「採用」とは根本的に異るものである。
 申請人の主張はこれをつきつめれば、党員はすべてその任務を遂行するについて、対価を請求できることに帰着するであろう。党活動を従属労働とみなす立場からは、その労働が専従党員のそれであるか否かは関係のないことだからである。しかし、党活動に対する報酬や対価は、党の目的と性格から容認されないのであつて、圧倒的多数を占める非専従一般党員がこのような対価を得ることもない。
 党内にあつてはいかなる使用従属関係も存在しえない。従つて党は使用者としての事業主ではないし、申請人は労働者ではない。党は労基法の適用をうけないのであつて、同法の定める賃金、労働時間、休憩、休日、有給休暇、時間外、休日労働、就業規則等々の諸規定は適用されない。一九条の解雇制限を根拠とする本申請が失当であることはあまりにも明らかである。
 党は「自発的意志にもとづき、自覚的規律でむすばれた共産主義者の統一された、たたかう組織である」(規約前文)。党内関係においては労使関係をもつて論ずることの可能な法律関係は一切存在しない。
 従つて、本件解任処分が労基法違反として無効とされる理由がない。

いいなあ、こういう理屈で労働法の適用が排除できるんなら、ブラック企業はみんな政党を名乗ったらよさそうです。「わが社の社員はすべてその生命、生活の全てを会社の目的実現にむかつて捧げてゆくことを当然の任務としている。社内にあつてはいかなる使用従属関係も存在しえない。わが社は労基法の適用をうけない 。わが社は自発的意志にもとづき、自覚的規律でむすばれた統一された、たたかう組織である。社内関係においては労使関係をもつて論 ずることの可能な法律関係は一切存在しない 」とね。

 

 

 

 

 

2024年8月15日 (木)

過去3decadesにおける賃上げ率とその時の首相名

岸田首相が退陣表明したので、改めて過去3decadesにおける賃上げ率の推移とその時の首相名をグラフにしてみました。『賃金とは何か』に使ったデータをちょっとだけ加工したものですが、これをみると、改めていろいろなことを感じさせられます。

賃上げという観点からすると、細川・(羽田・)村山内閣というのはベアが1%程度にまで下がった時代でありその点でそれに続く橋本龍太郎内閣とほぼ同じであり、鳩山・官・野田内閣というのはベアが完全にゼロであるという点においてそれに先行する小泉内閣やその後続内閣とまったく同じであり、第2次安倍内閣というのは官製春闘を掲げてほんのちょっぴりだけベアが復活した時代であり、岸田内閣というのは本当に久しぶりに(同じ宏池会の宮沢内閣時に匹敵する)高いベアが実現した時代であったことが分かります。

民主党政権が小泉内閣の延長線上に過ぎなかったことは事業仕分けにも示されていますが、賃上げに何ら関心がないという点でも同様であったようですね。

Shushoumei

ジョブ型雇用に関する講演会@滋賀県労働委員会

ジョブ型雇用に関する講演会を開催します

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2024年8月14日 (水)

『賃金とは何か』は岸田総理の退陣表明に間に合った

Aa 本日、岸田総理が突然総裁選への不出馬を表明したようです。

岸田首相、自民党総裁選に出馬しない意向固める 官邸で記者会見へ

 自民党総裁の岸田文雄首相(67)は14日、9月の自民党総裁選に出馬しない意向を固め、与党幹部に伝えた。首相は6月21日の記者会見で「道半ばの課題に結果を出す」と語って続投に意欲を示していたが、内閣支持率が低迷し、党内の求心力が急速に落ち込むなか、これ以上の政権運営を続けることはできないと判断した模様だ。
 同日午前に首相官邸で記者会見を開き、自民党総裁として1期目の任期満了を迎える9月末をもって退陣することを正式に表明する。

新聞政治部記者をはじめ、政治関係の皆さんはお盆休み返上でご苦労様です。

Asahishinsho_20240814111801 わたくしの方は、このニュースを聞いて、『賃金とは何か』を先月7月20日に刊行しておいてよかった!と感じたものでした。

というのも、本書の「はじめに」では、読者の「つかみ」として、冒頭岸田総理がいかに職務給を熱心に謳い上げているかを縷々述べたうえで、その宏池会の大先輩である池田総理が、ちょうど60年前にやはり職務給を熱心に唱道していた話を述べて、さてその職務給というものの歴史はですね・・・と、戦前来の賃金制度の経緯を説明していくという構成になっていまして、初めに出てくる岸田総理に辞められてしまったらその構成が崩れてしまうんですね。

実は、本書刊行の少し前の段階で、朝日新書の編集者との間で、「岸田さん大丈夫ですよね、いきなり辞めたりしませんよね」「せめて刊行日まではもっててほしいね」という風な会話をしておりました。

まあ、刊行から一か月足らずで退陣表明ということになったわけですが、でも何とか間に合ったわけで、まあよかったね、と。

 

 

 

 

 

 

 

枝野演説から山口二郎氏の反省シリーズを思い出すなど

朝日新聞に「立憲・枝野氏「猫もしゃくしも改革。乗ってしまった反省がある」」という記事が載っていまして、

立憲・枝野氏「猫もしゃくしも改革。乗ってしまった反省がある」

  日本新党から初めて衆院選に立候補した時も、責任ある「変革」が党のスローガンだった。それから30年余り、猫もしゃくしも政治家は、「変革」「改革」と言う。ずっとやってきたのは、小さな政府と民営化と規制緩和。私も最初の10年間は、その主流派に乗ってしまっていた反省がある。

なんだかものすごいデジャビュが感じられたので、何だったかなと考えたら、あれでした。山口二郎氏の反省シリーズ。

山口二郎氏の反省


今頃あんたが後悔しても遅いわ、なんて突っ込みは入れません。この文章自体がまさにそれを懺悔しているわけで、人間というものは、どんなに優秀な人間であっても、時代の知的ファッションに乗ってしまうというポピュリズムから自由ではいられない存在なのですから。

まあ、でも90年代のそういう風潮に乗せられて、いまだに生産の場に根ざした連帯を敵視し、それこそが進歩だと信じ込んで、地獄への道をグッドウィルで敷き詰めようとする人々が絶えないんですからね。

山口二郎氏と竹中平蔵氏の対談


そこまで分かっているのであれば、「医療費の削減だとか、国民生活に直接影響する施策がたくさん内包されていたのにそれらがまともに吟味されることなく通ってしまった」というような小泉政権下の事態をもたらした責任の一端は、そういう「政治学の立場からの批判の矢」にもあったのではないかとという自省があってもいいように思われます。

五十嵐さん、和田先生の本のエントリーでも述べたことですが、もしカイカクがもっぱら竹中氏らの(新古典派)「経済学の立場から」の議論だけであったとしたなら、ああいう国民全体を巻き込むような熱狂的な「カイカク正義」万歳の大渦にはならなかったでしょう。

まさに山口二郎氏のような「政治学の立場からの批判の矢」が、朝日新聞をはじめとするリベラルなマスコミをも巻き込んで多くの国民を、とにかく極悪非道の官僚を叩いて政治主導のカイカクをやっているんだから正しいに違いないという気分にもっていったのではないかと私は思うわけです。

政治とは悪さ加減の選択


わたくしも、まったくそう思います。ただ、この真理を、一昨年の総選挙の前にも語っていたのであれば、もっと説得力があったように思います。

当時の麻生首相に「もう少し政権を続けさせることが現状では最善の選択だと」は考えなくても、「わざわざ最悪を引き寄せる」ようなことをしていなかったか、権丈先生であれば若干違う意見をお持ちかも知れません。

その違いが「長年の付き合いだから」ということであったのであれば、それはやはり考えるべきことがあるのでしょう。

さはあれ、「ポピュリストやデマゴーグの出番」がもっとも避けるべきであることだけは、まっとうな感覚の持ち主であれば共有するところでしょう。

まことに「政治とは悪さ加減の選択である」という真理が身に沁む思いです。

(追記)

北の山口二郎さんといえば、名古屋の後房雄さんですが、河村市長を応援してしまった経験がどこまで身に沁みておられるのかなぁ、と思わせられるブログ記事が。

こりゃだめだ


その魔法使いの弟子たちの挙げ句の果てが大阪やら名古屋であるという教訓は、いったいどこに行ったのでしょうか。

山口二郎氏の反省その2 参加や直接政は必ずしも民主主義を増進させないのか!?


立派な政治学者が今頃になってそんなことを言い出さないでよ!!といいたくなりますね。

実は、山口二郎氏と私は同年齢。同じ年に同じ大学に入り、同じような環境にいたはずですが、私がその時に当時の政治学の先生方から学んだのは、まさに歴史が教える大衆民主主義の恐ろしさであり、マスコミが悪くいう自民党のプロ政治のそれなりの合理性でした。

・・・今ごろ痛感しないでよ!と言いたいところですが、山口氏の同業者には未だに痛感していない、どころかますます熱中している方もおられるようなので、それ以上言いませんが。

ついでに言うと、政治学者と同じぐらい罪深いのは政治思想学者じゃないかと思ってます。「熟議」とかなんとか、横のものを縦にしただけの薄っぺらな議論をやってると、その言葉をポピュリストにうまいこと流用されるだけ。

大向こう受けだけを狙った朝まで生テレビ的超浅薄な議論が「熟議」にされちゃって、あんた等がさんざん悪く言っていたその分野に精通した自民党プロ政治家の利害関係者の利害得失をとことん突き詰めた「熟議」は、利益政治の名の下にゴミ箱に放り込まれてしまっていますよ。

「熟議」は「維新」

まあ、下世話な話といえばそうかも知れませんが、向こう三軒両隣にちらちらするフツーの人々は、むつかしげな政治思想の本なんかそうそう読むわけではありませんから、「熟議」とかいう新しげな言葉は、橋下さんちの「維新の会」みたいなやり方のことをいうんだろうなぁ、とたぶん何の違和感もなく思うんだと思いますよ。・・・

なるほど、「熟議」ってのは、守旧派の既成政党がぐだぐだ言って動かないのをむりやり動かすために、なにやら「市民」さまを持ち出して言うこと聞かせることなんだなぁ、と、ここ十年ばかりの物事を見てきたフツーの人々は思うのでしょうね。名古屋方面でも、そんな感じだったようだし。・・・

いやぁ、「市民側の議論の活発化」ですか。まさに、「市民」主義の皆様方がここ十年ばかり目指してきた路線ではありませんか。涙がこぼれるくらい素晴らしいです。これぞ「市民維新」でしょうか。

2024年8月13日 (火)

イギリス労働党政府がストライキ(最低サービス水準)法を廃止予定

Pn 昨年保守党政府の下で成立したストライキ(最低サービス水準)法を、労働党政府が廃止すると語ったそうです。英労働組合会議のサイトから。

A win for our right to strike

This week, the government committed to formally repeal the Minimum Service Levels Act.

今週、政府は正式に最低サービス水準法を廃止すると確約した。

これは昨年7月に保守党政権下で成立した法律で、ストライキ中に最低水準のサービス維持を義務付ける法律ですが、TUCは猛反発し、労働党は廃止を公約していました。

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月12日 (月)

世界のパワハラ 日本でしか聞かれない質問が象徴する「指導文化」@朝日新聞デジタル

Oo 今朝の朝日新聞デジタルに、「世界のパワハラ 日本でしか聞かれない質問が象徴する「指導文化」」というわたくしのインタビュー記事が載っています。インタビュワは岩田恵美記者です。

世界のパワハラ 日本でしか聞かれない質問が象徴する「指導文化」

 最近では兵庫県や自衛隊で問題になっているパワハラ。自治体、大学、企業……。パワハラにまつわるニュースが絶えません。日本は、世界と比べても問題が深刻なのでしょうか。労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎労働政策研究所長に聞きました。

――世界でも職場のハラスメントは問題になっているのでしょうか。

 この20年ほどで、世界的に問題として捉えられるようになり、2019年に職場の暴力とハラスメントを禁じる条約が国際労働機関(ILO)で採択され、21年に発効しました。「ハラスメント」という言葉は一般に浸透していますが、国によって問題意識の背景が異なり、それぞれ独自の用語、用法があります。

 日本の「パワーハラスメント」は、日本でしか通じません。日本のパワハラにあたるような職場での行為は、フランスでは「モラルハラスメント」、英国では「bullying」、ドイツでは「mobbing」と呼ばれています。英語、ドイツ語は「いじめ」という意味の言葉です。
 
――日本は世界でもハラスメント問題が深刻なのでしょうか。
 
 単純な比較はできません。世界的にみて、日本の「パワハラ」は非常に独特な概念です。それを示すものとして、日本企業の人事担当者からよく聞かれる質問があります。こうした質問がでるのは、日本ぐらいではないでしょう。
 
――どのような質問ですか。
 
 「どこまでやったらハラスメントになりますか」という質問です。つまり、上司による部下への指導の中で、それ以上厳しくするとパワハラになる一線があると考え、どこにその線を引けばいいのかと悩んでいるのです。
 
――日本のパワハラは「パワー」という言葉で表されるように、上司による部下への行為、というイメージが強くあります。
 
 職場でのハラスメントということで言うと、海外では同僚間で起きる「いじめ」を指すことが多い。指導の厳しさで線引きする「程度」の問題ではなく、本来職場にあってはいけないものなのです。
 
 このような違いは、企業組織の文化の違いによって生じていると私は解釈しています。
 
 欧米の企業は職務を明確に決めて、そのスキルをもった人を採用する「ジョブ型雇用」なのに対し、日本の企業は新卒などをまず採用し、その後に企業が社員にスキルを身につけさせます。上司には部下を指導することが求められ、その指導をめぐって独特のパワハラという問題が生じているのだと思います。・・・・・

(追記)

この記事に、小熊英二さんのかなり詳細なコメントが付いています。

「上司が権力を不当に使う」ことへの問題視は他国にもあるが、日本における「パワハラ」とは異なるというのは恐らく濱口氏の指摘の通りだろう。以下は私見だが、その理由は歴史的な経緯の違いだと思う。・・・・

ここで小熊さんが語っているのは、私流にいうと、欧米における伝統的なトレード型から20世紀に新たな(狭義の)ジョブ型が生み出されてくるメカニズムになります。

それが日本では起こらず、全く逆方向への「進化」が同時代的に進行したことの一つの帰結が、日本的なパワハラなのでしょう。

ただ、この紙面だけではやや言葉が足りない感もあるので付け加えておきますが、現実の日本の企業現場では、そういう教育訓練とどこで線引きすべきかに頭を悩ませるような(狭義の)パワハラだけではなく、むしろ言葉の正確な意味でのいじめでしかないような上位者による不当な権限行使としてのパワハラも山のようにあります。その辺は、個別労働紛争のファイルをめくっていると幾らでも出てくるので、それも日本の現実の一面です。

 

 

 

 

2024年8月11日 (日)

AmazonでSocialさんによるレビュー

Asahishinsho_20240811152001   Amazonのカスタマーレビューで、Socialさんによる『賃金とは何か』のレビューがアップされました。「熱心に語られるも何かとなかったことにされる職務給ちゃん、今度はどうか? 」というタイトルです。

https://www.amazon.co.jp/dp/4022952741#customerReviews

日本を代表する労働法政策研究者である著者の、朝日新書からの初の著作となる本書のテーマは「賃金」。
雇用システム論の基礎の基礎の解説後は、何とも複雑怪奇な賃金の世界を、明治以降の歴史年表片手に探検するような読書体験が得られる。
生活給思想は戦前と戦後に現実化したが、職務給思想(「職務給」は当たり前すぎて英訳がないそうだ。)は熱心に唱道されるも、不況のたびに腰折れして実現したとはいえない。現在は、官製春闘の次のキャンペーンとして、政府主導で「ジョブ型」人事の導入と合わせて職務給への移行の旗振りが行われている。果たして今度は腰折れせずにいられるだろうか・・・といった感想を、この本を読めば得られる。
現実社会の改革は白地に”映える”ポンチ絵を描くことではあり得ない。雇用システムと連動する社会保障が生活保障部分をより多く分担することになる等は想像に難くないし、さらに我が国のそこかしこに無意識的に埋め込まれている生活給を前提とする仕組みにも影響するだろう。政労使は、一国レベルでの影響の精査をすべきと考えるがどうか。
解決策は、今を生きる世代が叡智を結集して自ら考えなければならない。本書は、その内容に正答を期待すべきものではないが、私たちが置かれている複雑な現状を観察していくための素養を読者に与えてくれる。

現実社会の改革は白地に”映える”ポンチ絵を描くことではあり得ない」という表現に、そこはかとない霞が関風の香りも感じられますね。

ここに書かれているように、本書は、そしてこれまで書いてきた多くの著書も、決して「その内容に正答を期待すべきものではな」く、「私たちが置かれている複雑な現状を観察していくための素養を読者に与え」ることを目指して書かれています。願わくは、多くの読者がその趣旨を読み取っていただけることを。

 

 

 

 

 

 

2024年8月10日 (土)

せつな朱遊さんの拙著書評

Asahishinsho_20240810215801 せつな朱遊さんの「せつな日記」で、拙著『賃金とは何か』がかなり長めに書評していただいておりました。

https://setsuna-chi.moe-nifty.com/blog/2024/08/post-9a60e6.html

 濱口桂一郎さんの新刊です。本書で嬉しかったのは、最低賃金に関して書かれていることです。日本で職務給を導入しようとすると、産業別または職種別の最低賃金にしかならないのではないかなという私の疑問への回答に思えました。
 最低賃金が加重平均で1000円を超えるという話題のときに、最低賃金について少し調べたんですよね。そうしたら、地域別(都道府県別)の最低賃金の他に、産業別の最低賃金があるというのです。その事実にかなり驚いた記憶があります。
 本書には、その産業別最低賃金が消されようとしていた歴史が記されています。消されなくてよかったのではないかな?
 現在、産業別最低賃金(特定最低賃金)は、東京都などで地域別最低賃金に追い越されているようです。このような状況ですが、エッセンシャルワーカーなど一部の職種で、濱口さんも産業別最低賃金を活用してはどうかと提案しています。・・・

真っ先に最低賃金、それもほとんど注目されていない産業別最低賃金について注目していただいたことに、内心とてもうれしく思いました。また、

 本書で最も驚いたのは、船乗りはジョブ型ということです。戦前からジョブ型らしいです。戦後もすぐに船乗りの組合(全日本海員組合)ができて、職種別の最低賃金を制定しているようです。
 ジョブ型の業種は存在するわけです。しかし、それが一般化しない。それが日本型雇用なのでしょう。

こんなふうに、ちょっと脇道に、しかしそれなりに重要なはずの話をさりげに書いておいたことが、ちゃんと反応されているのを見るのもとても嬉しいことです。

 

 

 

 

 

2024年8月 9日 (金)

もう一歩手前の入門書が欲しいよなあ@金子良事

81tj1p4qhol_sy466__20240809140201 最近ほとんどブログを更新しなくなった金子良事さんが、久しぶりに更新しておられて、拙著『賃金とは何か』を書評していただいていました。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-538.html

まず、この本は金子美雄一門の歴史観を踏襲するということで、前半はそのレビュー的な内容になっています。後半が昨今の動向を踏まえた様々な議論になっています。これは本当の意味での啓蒙的な本になっています。濱口さんが世間的に注目を浴びた『新しい労働社会』の前後の時にもおっしゃっていましたが、濱口さんは金子さんや孫田さんたち、それから田中博秀さんの議論を継承しています。重要なところを継承しつつ、その時代に合った形でリニューアルするというのは、本当に啓蒙的な仕事として大事なことですね。・・・

それはかなり自覚的にそうで、『若者と労働』が田中博秀の『現代雇用論』のリニューアルであったのと同様、今回の本は金子や孫田の本のリニューアルという面があるのですが、それ以上に(これは通読すれば気がつくと思いますが)始めから終わりまでここぞというところで必ず金子美雄が出てきて何か語っているという作りになっていて、彼ら労働省学派(なんてのはないですが)へのオマージュという思いも込めています。彼らと違って労働研究者からもほとんど忘れられた存在である宮島久義という賃金官僚の生き様にも、あえてアンバランスなほどのページ数をつぎ込んだのも同じ思いからでした。

ただ、入門書というよりは、ある程度、労働とか賃金、給与について知識のある人が復習と最近の動向を確認するという意味で良い本です。社会政策を専攻する人は、ぜひ読んでおいてほしいという気持ちと、初学者がこれを読んでも、難しいよなというところの間です。構造的に物事をとらえる、そういう視点を初学者がスキルとして獲得するには、どうすればよいのかというのは本当に悩ましいです。・・・

まあ、そもそもいまは制度学派の労働研究者自体が暁天の星の如き希少な存在になってしまっていますので、初学者も中堅もあまり関係がないのかも知れません。

実を言うと、この本を書いていたときに主たる想定読者層は、厚生労働省になって労働政策との関係がやや希薄になり、昔の蓄積がほぼ継承されなくなってしまっている若い官僚の皆さんでした。はしがきで、岸田総理の発言を延々と引用した後に昔の池田総理の発言をぶつけているのも、官邸から下りてくる声で動かされている彼らに、その背景にはこんな歴史的経緯があるんだよという謎解きをしてあげているつもりでもありました。シャーロック・ホームズの長編で、いま起こっている事件の背景にその昔のいろんなことが絡み合っていたんだよ、みたいな謎解きが延々と綴られるのと自分としては似たような感覚でもあります。

金子さんの最終評語は「もう一歩手前の入門書が欲しいよなあ」ということですが、それこそ金子さんが書くべきでしょう。

 

 

 

 

 

OECD『日本の移住労働者』

651114 OECD編著、是川夕・江場日菜子訳『日本の移住労働者 OECD労働移民政策レビュー:日本』(明石書店)をお送りいただきました。

https://www.akashi.co.jp/book/b651114.html

日本特有の状況における労働移民政策の役割はどうあるべきか。高齢化が労働力人口に及ぼす影響に対応するため、ここ数年で海外からの人材採用のガバナンスに大きな政策変更を導入した日本の労働移民政策とその有効性を検証し、今後の方向性を明らかにする。

日本は長い間、OECD加盟国の中で人口に対する移民の流入が最も少ない国のひとつであった。しかし、ここ数年で状況は大きく変化した。高齢化が労働市場に与える影響に対抗するため、日本は海外からの人材採用のガバナンスに大きな政策変更を導入した。

このレビューでは、比較的少ない移民受け入れと急速な高齢化という日本特有の状況における労働移民政策の役割を検証し、今後の政策の方向性を明らかにする。このレビューは、あらゆる技能レベルの労働移住を対象としている。留学生や高技能移民のための長年にわたる移住経路が、国際的な人材の誘致と定着においてどのような役割を果たしているかを評価する。また、最近導入された特定技能制度を含む、低・中技能職の主な移住経路についても検証している。

第1章 日本の労働移住制度に関する評価の概要と主な提言

第2章 労働移住の背景
日本経済は完全雇用に近く、人手不足が蔓延している/人手不足に対処するための移民の役割とは?

第3章 日本への労働移住
1950年代から今日までの労働移民政策の変遷/日本への労働移住/雇用全体に対する移民の寄与はわずかだが、今後10年間で増加する可能性が高い/一部の産業や地域の労働市場では、すでに移民が雇用の大きな割合を占めている/付属資料

第4章 労働移住の政策枠組み
高技能労働移住のためのプログラム/低技能職及び中技能職のための期限付き労働移住プログラム/豊富な小規模労働移住プログラム/付属資料

第5章 高技能移民と留学生の獲得と定着
高技能移民/留学生/付属資料「賃金構造基本統計調査を用いた技人国の賃金分析」

第6章 訓練と技能に基づく労働移住
技能実習制度は大規模な受け入れ制度へと発展した/特定技能制度は、技能実習制度の上に構築された/技能実習と特定技能は労働市場の一部しかカバーしていない/技能検定の枠組みは、職業教育の枠組みに基づいている/日本語教育、日本語試験の海外進出/外国人労働者のいくつかの脆弱性が残っている/期限付き労働移住プログラムから長期滞在への移行/スキルズ・モビリティ・パートナーシップ・モデルの構築に向けて/結論/付属資料「賃金構造基本統計調査を用いた技能実習生の賃金分析」/付属資料「追加表」

これはもう、今日の日本の外国人労働者問題についての「これ一冊」というべき本ですね。論ずるべきあらゆる点に目が行き届いていて、バランスのとれた分析がされています。

ここでは、外国人政策の本筋からはちょっと外れてしまいますが、第2章の最後のところで「日本の雇用システムには、外国人労働者の潜在的な貢献をみえにくくしている日本固有の特徴がある」という議論が提示されている部分を紹介しておきます。

2.2 日本の雇用システムには、外国人労働者の潜在的な貢献をみえにくくしている日本固有の特徴がある

・・・伝統的な日本の雇用システムでは、企業は通常、卒業後すぐに学生を採用し(多くの場合、在学中の最終年に採用を決定する)、定年まで同じ企業に勤めるのが一般的である。これは企業が若手新卒者を特定のポジションのために採用するのではなく、会社の活動に貢献するために採用することから、「メンバーシップ型雇用」と呼ばれることもある。その結果、職務内容や労働契約は、他のOECD加盟国に比べあまり具体的でない傾向がある。・・・

 伝統的な雇用制度は、移民が労働市場に統合されることを困難にしている日本の労働市場の特徴でもある。・・・

 第一に、労働市場における流動性が低いという特徴がある。中途入社の労働者には、主要な雇用市場ではほとんど機会がない。母国で学業を修了してから来日した移民は、卒業後の新卒採用の機会に乗り遅れることになる。

 第二に、長期雇用が一般的であるため、研修は主に企業内で行われる。研修では、一般的な技能よりも企業固有の技能の獲得が目指される。これは雇用の流動性の低さと相まって、企業間の技能のポータビリティを確保する仕組み、特に技能認証が市場で発展しない構造的な原因となっている。来日した労働移民には、海外で習得した技能を認証し、日本の労働市場で確実に活用する手段がない。・・・

 第三に、新卒者の賃金は比較的低いが、勤続年数とともに急上昇する。日本では同じ会社で働き続けることの賃金プレミアムは大きい。特に、日本の労働者の収入のピークは他国の労働者よりも遅い。・・・若い移住労働者は、キャリア全体を通じて日本に、そして同じ会社にとどまる可能性が低い場合、日本での雇用を魅力的とは思わないかもしれない。・・・

OECDの目から見れば、特殊な日本の仕組みを「メンバーシップ型」と呼ぶことはあっても、特殊じゃないごく普通の当たり前の仕組みにわざわざ「ジョブ型」なんていうヘンテコな名前をつけて呼ぶ必要は全くないわけです。

Oecd なお、原著ではこうなっています。

https://www.oecd.org/en/publications/recruiting-immigrant-workers-japan-2024_0e5a10e3-en.html

The Japanese employment system has unique characteristics complicating the potential contribution of foreign workers

In the traditional Japanese employment system, firms typically recruit students straight after graduation – often hiring recruits during their last year of studies – and it is still common for workers to remain in the same firm until retirement age. This is sometimes referred to as “membership type employment” given that companies hire young graduates not for a specific position but to contribute to the activities of the company as these evolve. Consequently, job descriptions and labour contracts tend to be less specific than in other OECD countries.・・・

The traditional employment system is at the origin of several features of the Japanese labour market that make it challenging for immigrants to integrate into the labour market. ・・・

First, the labour market is characterised by low job mobility. There are few opportunities for mid-career workers in the primary job market. Immigrants who arrive in Japan after completing their studies will have missed the main recruitment post-graduation.

Second, given the prevalence of long-term employment, training occurs mainly within firms. Training is geared towards firm specific more than general skills. Combined with low job mobility, this has led to the under-development of mechanisms to ensure the portability of skills across firms, and in particular to the development of skill certification. Recently arrived labour migrants have no way to certify the skills they acquired abroad and ensure these are used in the Japanese labour market.・・・

hird, wages for new graduates are relatively low but increase steeply with tenure. The wage premium of working continuously in the same company in Japan is large. In particular, the earnings of Japanese workers peak later than their counterparts in other countries. ・・・ Young labour migrants may not find employment in Japan attractive if they are unlikely to remain in Japan, and in the same firm, throughout their entire career.

 

 

 

 

 

 

 

読後感としては多分に歴史書だな@労務屋さん

Asahishinsho_20240809092501 拙著『賃金とは何か』に対する労務屋さんの読後感は、「読後感としては多分に歴史書だなという印象」であったようです。まさにそういうものとして書いたので、その通りであります。

https://roumuya.hatenablog.com/entry/2024/08/08/174251

 読後感としては多分に歴史書だなという印象で、先生の大著『日本の労働法政策』の該当部分をわかりやすく再整理したうえで直近の状況を付け加えて解説されています。昨今政労使で大いに論点となっている賃上げに関して、日本の賃金というものはどういう経緯でどのような仕組みになっていて、したがってこういう議論になるのだ、ということがきちんと理解できる本といえましょう。

とりわけ、なんでいまこういう本をまとめたのかというと、

  特に重要なのは、往々にして企業が悪いとか政治が悪いとか労組がダメとかいった一面的な議論になりがちな風潮がある中で、これらの歴史と現状は労使あるいは政労使によって作られてきたものだ、ということが明示されているところでしょう。もちろん労使の立場の違いは明らかですし、交渉事ともなればその違いが大いに強調されるわけですが、しかし現実は交渉と妥協の歴史であり、相互作用がが積み上がった産物であるわけです。このあたりよくわからないままにあれこれ発言している論者というのを見かけるわけですが、ぜひ一読をすすめたいものだと思います。

世の賃金論の多くが、あまりにも歴史的経緯がすっぽり抜けたものになっている感があったので、図書館の奥に眠っている資料を引っ張り出して、実はこれこれこういういきさつがあったのだよ、と伝えるのも年寄りの役割かな(をいをい、お前まだ生まれてねえだろが)という趣旨でありました。

いくつかご指摘の点ですが、まず常々労務屋さんから違和感を表明されている知的熟練論批判ですが、本書には小池和男は出てこず、楠田丘もちらりと出てくるだけですが、むしろ日経連の累次の賃金本の記述の推移の中にそれが醸し出されているのではないかと思って、そちらを丁寧に紹介しておいたつもりです。

第Ⅰ部第5章の「2 中高年・管理職問題と職能給」では、1980年の『新職能資格制度』から1989年の『職能資格制度と職務調査』への記述の変化という、ほとんど誰も気にもとめないようなトリビアルな点に着目しておりますが、『日本の雇用と中高年』で論じていた話を、日経連自身の文書によって跡づけてみたものでした。

も一つサブタイトルについて、

 あともう一つ余談ですが、さてここでお礼を書こうかという段になってはじめて「職務給の蹉跌と所属給の呪縛」という副題がついているのに気づき、あれちょっと待って「所属給」とか論じられてたっけ?と思ってもう一度目を通すことになりました。でまあ(見落としがあるかもしれませんが)この所属給という用語、本文中では・・・・・最初と最後に2回出てくるだけでした。印象に残らなかったわけだ(笑)。それはそれとしてジョブ型/メンバーシップ型に対応する職務給/所属給というのは割としっくりくる用語のように思いましたので、もっと展開してもよかったかなと少々もったいなく思いました。

本書は賃金論の歴史叙述が中心なので、戦前から今日まで一貫してみんなから「職務給」と呼ばれているものを、「ジョブ型賃金」などと薄っぺらな言い方をするわけにはいかず、とすると、それの対義語たる「メンバーシップ型賃金」をちゃんとした日本語で表現しようとすると、その一部の性質にのみ着目した「属人給」でも「年功賃金」でも帯に短く襷に長く、しかも「職務給」と対になるような三文字で最後の字が「給」になるような言葉は何かないかと考えて、ほとんど(まったくではないが)使われてきたことのない「所属給」という言葉をでっち上げてサブタイトルにしたわけです。

4830945117 もっとも、実は「所属型賃金」という言葉はあって、晴山俊雄さんの『日本賃金管理史―日本的経営論序説』(文眞堂)では、日本的経営の基軸は「年功賃金」というよりもむしろ「所属型賃金」であると論じています。その意味では、実は(表現型は若干違いますが)「所属給」という言葉の発案者は晴山俊雄であるというべきかも知れません。

日本的賃金の本質的意義を問う!日本の賃金管理の実態を、昭和準戦時・戦時期から戦後の現代期まで歴史的にその形成の展開を試み、日本の賃金の本質的意義の解明を図るもの。戦後との連続性に注目しながら、従来の「年功賃金」の規定の限界を超えて、「所属型賃金」という日本的賃金の実態に即した新しい本質規定を提起し、そこから日本的経営の意義に迫った研究成果。

目次

序章 日本の賃金管理への接近
第1章 昭和初期の賃金管理
第2章 労務統制と労務管理―労働者固定化政策
第3章 賃金統制と賃金管理―賃金体系の理想型
第4章 産業報国運動と職場組織―職業人の大量形成
第5章 賃金体系の変遷
第6章 戦後賃金体系の展開
第7章 能力主義管理と賃金管理
第8章 成果主義管理の展開
第9章 日本的経営論の展開
終章 所属型賃金と日本的経営

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年8月 7日 (水)

現代の理論v.現代の理論事件第2ラウンド

以前本ブログで『現代の理論』と名乗る雑誌同士の知的財産権をめぐる訴訟について取り上げたことがありますが、

現代の理論v.現代の理論事件

Cover3_013_2007_9 Gr_cover030 現代の理論というのはかつて高度成長期には共産党に批判的な構造改革派左翼の雑誌として有名でしたが、21世紀になって再度刊行され、その時には私も何回か寄稿しています。その後今では電子版のマガジン「現代の理論」として発信されています。こちらが原告側の現代の理論です。

http://gendainoriron.jp/vol.27/index.html

Opinon101 一方被告側のNPO現代の理論も雑誌「現代の理論」を出していて、こちらはかつて「OPINION FORUM」というタイトルだったころに何回か寄稿(というか講演録の掲載)したことがあります。

https://sites.google.com/site/gendainoriron/forumopinion/2021natsu

もともと人的にも共通する似たような潮流の雑誌なんですが、そこが「現代の理論」というある意味後光が差すような有難い雑誌名をめぐっていわば家庭争議的に喧嘩しあっているということのようです。親の位牌を取り合う兄弟喧嘩とでもいうべきか。

本日発行された電子版『現代の理論』の編集後記に、「読者の皆さんにご迷惑をおかけしている「偽・現代の理論」問題について、本誌31号「謹告」で編集委員会の立場をお伝えしたが、そこに記載した第2次訴訟(2022年8月5日提訴)が当方の全面勝訴で決着したことをお知らせする」とあったので、裁判所のHPを見に行くと、その最高裁が上告を棄却した知財高裁の判決が、元の東京地裁の判決とともに載っていました。

東京地方裁判所令和5年8月24日

知的財産高等裁判所令和6年3月6日

この中で興味深いのは「雑誌の精神を誰が受け継いでいるか」という論点について、

また、雑誌「現代の理論」の創刊当時の精神を誰が引き継いでいるか否かといった事項は、権利関係の帰属の問題と異なり客観的に判断することが困25 難であり、本件においてこれを確定するに足りる証拠もない。第1審被告NPOが明石書店に雑誌「現代の理論」の出版権を譲渡した後に発行していた雑誌「FORUM OPINION」に「NPO現代の理論・社会フォーラム」という名称を付記していたとか、第1審被告NPOの名称に「現代の理論」が含まれているといった点は、第1審被告NPO側の認識を示すものにすぎないし、購読者らからのメッセージ(乙13)は、雑誌「現代の理論」5 を懐かしむ一定の者がいることを示すものとはいえても、第1審被告NPOが需要者から雑誌「現代の理論」創刊当初からの精神を引き継いでいると広く認識されていることを意味するものではない。

と一蹴していることでしょうか。

いずれにしても「親の位牌を取り合う兄弟喧嘩」であることに変わりはないようですが、そもそも『現代の理論』という雑誌名がそれほどまでに後光が差すような神聖なるものであるという感覚を共有する人々自体が、既に超高齢化して徐々にこの世から消滅しつつあるのではないかという気もしないではありません。

 

 

 

 

『戦後日本の教職員組合と社会・文化(その6)』

Image0_20240807123501 広田照幸さんより『戦後日本の教職員組合と社会・文化(その6)』という報告書をお送りいただきました。

広田さんを中心に日教組の研究をずっと続けてこられたTU研の回顧録というか、前半が座談会で後半がエッセイ集という作りです。

いろんな話が出てきますが、いま問題になっている給特法について、中小路清雄書記長がこう語っていたというのは面白いと思います。

・・・当時から「毒まんじゅう」と指摘されていましたが、中小路さんは交渉の当事者でもあったので、「超勤四項目」や「賃金上昇4%」は達成したと評価していました。私が、確か、「残業代が除外されることは問題ではなかったのですか」と聞いたときに、「それが問題になるかね」といわれたことは、すごく印象的で覚えています。

 当時の組合にとっては全体の利益が大事だったので、全体として4%上がった方が、個別に上がるよりもはるかによくて、労働運動としてはそちらの方がよかったのです。中小路さんは、もしそれが不足であれば、またストライキを打って団交すればいい問題だ、といっていました。それが強い印象になって、当時の労働運動の強さや、労働運動とはそういうものなのだと思ったことがあります。・・・

このブログでも百回くらい繰り返したような記憶がありますが、日教組というのは政治団体でも思想団体でも宗教団体でもなく、れっきとした労働組合、教師という労働者の労働条件をありとあらゆる手段を駆使して引き上げるために格闘する組織なのであって、給特法というのも、そういう労働組合としての日教組のある交渉段階における妥協点としての文書なのであるという歴史的視点を、半世紀以上後の我々はついつい忘れてしまいがちになるようです。

(参考)

教職員組合が、なぜ労働問題に口を出すんですか?

近畿大学教職員組合さんのツイートに、「実際に言われた衝撃的なクレーム」というハッシュタグ付でこんな台詞が

https://twitter.com/unionkin/status/1308256840254324736

「教職員組合が、なぜ労働問題に口を出すんですか?」

いやもちろん、まっとうな常識からすれば何をひっくり返った馬鹿なことをいっているんだということになるはずですが、それが必ずしもそうではないのは、戦後日本では日教組という団体が労働者の権利利益のための労働組合であるよりは、何かイデオロギーをかざす政治団体か思想団体であるかのように思われてきた、場合によっては自らもそう思い込みがちであったという、奇妙な歴史があるからです。

最近もちらりと触れましたが、たとえば広田照幸編『歴史としての日教組』(上巻)(下巻)(名古屋大学出版会)でも、日教組という団体はほとんどもっぱら路線対立に明け暮れる政治団体みたいに描かれていて、学校教師の超勤問題への取組みや、あるいは『働く女子の運命』で取り上げた女性教師の育児休業問題といった、まさに労働者としての教師の労働組合たる所以の活動領域がすっぽりと抜け落ちてしまっているんですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-9b3560.html(内田良他『迷走する教員の働き方改革』)

この話は、もう10年以上も前から折に触れ本ブログで取り上げてきているんですが、なかなか認識が進まないところではあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_1afe.html(日教組って労働組合だったんだあ。ししらなかった)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/vs_eccf.html(プリンスホテルvs日教組問題の文脈)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_f1e4.html(プリンスホテルの不使用呼びかけ 連合)

この問題を、思想信条の自由の問題とか、政治活動の問題だとか、日の丸君が代がどうとか、ウヨクとサヨクがどうしたとか、そういう類の話だと理解するのであれば、それにふさわしい反応の仕方があるのでしょう。そういう理解のもとにそういう反応をすること自体を否定するつもりはありません。

しかし、日本教職員組合という、教育に関わる労働者の労働組合の大会を拒否したと言うことは、何よりも働く者の団結権への攻撃なのであり、そうである限りにおいて、同じ労働者である以上思想信条の違いを超えて、ボイコットという手段を執ることは労働組合の歴史からして当然のことと言うべきでしょう。

残念ながら、マスコミも日教組をあたかも政治思想集団であるかの如くとらえて、今回の件の是非を論ずるかの如き歪んだ傾向がありますが(まあ、日教組の中にそういう傾向があることも否定できませんが)、労働組合の当然の活動への否定なのだという観点が世間から欠落してしまうことは、やはり大きな問題だと思います。その意味で、さまざまな政治的立場の組合が属する連合が、こういう姿勢を示したことは重要な意味があるでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-4ed1.html(日本教職員組合の憲法的基礎)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-2336.html(労働者と聖職の間)

教師は労働者にあらず論

金子良事さんがときどき思い出したように『労働法政策』についてつぶやくのですが、

https://twitter.com/ryojikaneko/status/769927206101364738

濱口『労働法政策』を読み返しているけど、面白い。田中耕太郎文相が教師の争議権を禁止しようとしたら、GHQがダメといって否定された話のあとに、さらっと次のように書いてる。

https://twitter.com/ryojikaneko/status/769927408015187968

「教育関係者に根強い「教師は労働者にあらず論」があっさり否定されたわけで、その後も現在にいたるまで私立学校教員の争議権が否定されたことは一度もない」いろんな意味で、勘所だわ。

いや別に勘所も何も、文字通りなんですけど。

ただ、日教組が(今日に伝えられているもっぱら「教え子を戦場に送るな」的なイデオロギー的な文脈だけではなく)そういうまさに教育労働者の労働条件を改善するための労働運動そのものとしての文脈でもマクロ社会的アクターとして議論されていた、という歴史的事実自体がほとんど忘れ去れてしまっていることが問題なんだと思います。

ましてや、そういう教育労働者の本来的な労働運動としての日教組に対して、(政治イデオロギー的にはむしろより急進的なはずの)共産党が「教師は聖職だ」といって水をぶっかけていたこととかは、今ネット上で一生懸命リベサヨ叩きをしている人々のほとんどすべてが知らないのでしょうし。

本ブログでも繰り返し言っているように、その文脈が希薄化してしまったことが、今日の教育労働現場の様々なブラック的な労働問題の一つの遠因にもなっているように思います。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/vs_eccf.html(プリンスホテルvs日教組問題の文脈)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-4ed1.html(日本教職員組合の憲法的基礎)

※欄

正直言って、わたしは政治結社としての日教組を擁護する気持ちはありません。勝手に右翼と喧嘩してればよろしい。

しかし、全国の教育労働者の代表組織には、重要な存在意義と責任があります。近年、労働者としての権利主張をすること自体がけしからんかのような言論も多く見られるだけに、そこはきちんと言っておく必要がありましょう。わたしははじめからそこにしか関心はありません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-b495.html(今こそ、教師だって労働者)

・・・しかし、ここで描かれている教師たちの姿は、ブラック企業で身をすり減らし、心を病み、自殺に追い込まれていくあの労働者たちとほとんど変わらないように見えます。

そう、これは何よりもまず「労働問題」、教師という名の労働者たちの限りなくブラックに近づいていく労働環境について問題を提起した本と言うべきでしょう。

彼ら教師たちの労働環境をブラック化していく元凶は、「教育問題」の山のような言説の中に詰め込まれている、文部省が悪いとか日教組が悪いとか、右翼がどうだとかサヨクがどうだとか、そういう過去の教育界の人々が口泡飛ばしてきた有象無象のことどもとはだいぶ違うところにあるということを、この秀逸なルポルタージュは浮き彫りにしています。

それは、親をはじめとした顧客たちによる、際限のないサービス要求。そしてそれに「スマイルゼロ円」で応えなければならない教師という名の労働者たち。

今日のさまざまなサービス業の職場で広く見られる「お客様は神さま」というブラック化第一段に、「この怠け者の公務員どもめ」というブラック化第2段階が重なり、さらに加えて横町のご隠居から猫のハチ公までいっぱしで語れる「教育問題」というブラック化第3段階で、ほぼ完成に近づいた教育労働ブラック化計画の、あまりにも見事な『成果』が、これでもかこれでもかと描かれていて、正直読むのが息苦しくなります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-ad08.html(認識はまったく同じなのですが・・・)

・・・ただ、それこそ大阪方面の出来事の推移を見てもわかることですが、日教組の労働組合としての本質ではない部分を意識的にフレームアップする政治意図と、その労働組合としては本来非本質的な部分を自分たちのこれこそ本質的な部分だと思いこんでいるある種の人々のパブロフの犬的条件反射的行動様式とが、ものの見事にぴったりと合わさって、政治結社としての日教組という定式化されたイメージを飽きもせず再生産するメカニズムが働き続けているという、(おそらく心ある労働運動家だけではいかんともしがたい)どうしようもなさがその根っこにあるので、この金子さんのそれ自体としてはまことに正しいつぶやきが、何の役にも立たないという事態がそのまま続いていくわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-92c4.html(公教育における集団的労使関係欠如の一帰結?)

・・・戦前以来の、そして右翼も左翼も共有してしまっている「教師は聖職」だから労働条件如きでぐたぐた文句を言うな感覚。

日教組自身がニッキョーソは政治団体という右翼側の思い込みに乗っかって政治イデオロギーの対決ばかりに熱中してきた歴史。

そういう空中戦ばかりの教育界で、全てのツケを回す対象とされてきた国法が認めてくれている残業代ゼロ制度。

そして何よりかにより、他の全ての国における「教師=教育というジョブを遂行する専門職」が共有されず、学齢期の子供(ときどきガキども)の世話を(学校内外を問わず、いつでもどこでも何でも)全て面倒見るのが仕事という、典型的にメンバーシップ型の教師像。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-cdda.html(日教組婦人部の偉大な実績)

・・・なんにせよ、日教組といえば妙な政治的イデオロギーの眼鏡越しでばかり論じようとする傾向が強いだけに、こういうまことにまっとうな労働組合としての本来あるべき政治活動を実践し、法律として実現させてきた日教組婦人部の歴史を、きちんと見直していく必要があると思われます。

 

 

 

 

 

ほとんどの図書館で借り出されているようです

Asahishinsho_20240807092001 「カーリル」という図書館検索サービスがあるのですが、東京都の図書館を見てみたら、ほとんどの図書館で借り出されているようです。

賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛 (朝日新書)

Kariru

2024年8月 6日 (火)

さらなる社会保険(被用者保険)の適用拡大へ?@WEB労政時報

WEB労政時報に「さらなる社会保険(被用者保険)の適用拡大へ?」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/87550

 去る7月3日、厚生労働省は「働き方の多様化を踏まえた被用者保険の適用の在り方に関する懇談会」(学識者16名、座長:菊池馨実氏)の「議論の取りまとめ」を公表しました。被用者保険というのは、国民年金に対する厚生年金保険、国民健康保険に対する健康保険のように、被用者と自営業者で分立している社会保険制度における被用者向けの制度を指します。とはいえ、本来自営業者向けであった国民年金や国民健康保険に被用者保険からこぼれ落ちた多くの被用者(そのほとんどは非正規労働者)が含まれていることは周知のとおりです。また、非正規労働者であるパート主婦の多くが、年金制度においては第三号被保険者、健康保険制度においては被扶養者というカテゴリーに属することによって、そこから排除されていることもよく知られています。
 こうした被用者保険に関わる法政策は・・・・

 

 

2024年8月 5日 (月)

リスキリングの二重の拗れ

As20240730002493 朝日新聞に「「会社にいつ見限られるか」 追われるリスキリング、ただし米国では」という記事が載っているのですが、

「会社にいつ見限られるか」 追われるリスキリング、ただし米国では

 「AI(人工知能)時代に打ち勝つためのリスキリング(学び直し)」「転職にも生かせるスキルを」。そんなかけ声の下、働きながら学ぶ人が目立つようになりました。でも、日本のリスキリング、先行する米国とは違う意味合いになっていませんか。読者イベントを通して考えました。(藤えりか)

どう違う意味になっているのかというと、勅使川原真衣さんの言葉として、

  「リスキリングは米国では、社員が別の業務をできるようになるため、会社として、業務時間中に新しいスキルを身につけてもらうものです。日本では、会社が提供せず、『価値ある労働者でいるためには頑張り続けないといけない』と個人に強いるものにすり替わっています。深夜や週末にみなさんが頑張って、潤うのはオンライン講座や資格試験(の主催者)ではないでしょうか」

ここを読んで、うーんと唸ってしまいました。なんというか、日本とアメリカの能力開発思想のそもそもの違いが逆向きに拗れて、妙な話になってしまっているという感想です。

そもそもの違いというのは、例によって雇用システム論の基礎の基礎で、日本以外の社会ではある仕事ができる(はずの)人を当該その仕事に嵌め込むのが採用であり、就職なのであり、就職以前に当該その仕事ができるように「スキリング」しておくことが採用される前提であるのに対して、日本ではいろんな仕事をやらせていく人をその潜在能力を判断して採用するのであり、従って就職以前に下手に余計な「スキリング」などしていない方が採用されやすいわけです。採用面接で「学チカ」を聴かれてバイトだのサークル活動だのが大事で、勉強した中身など二の次三の次なのはそのためです。

これは「リ」のつかない「スキリング」の話です。

採用された後、日本以外の社会では、既に「スキリング」されて一定のスキルがある労働者に、当該そのスキルを発揮して労働してもらうことがほとんど唯一の要求であって、労働者の側もその既に有しているスキルでもってずっと長く働いていければそれに越したことはないのですから、特段の事情がなければ採用後に「スキリング」の必要はないのですが、時代の流れが速く、技術革新がはげしい世界では、就職前の「スキリング」でいつまでもやっていけなくなる場合が出てくるので、そうすると、既に「スキリング」されている労働者であっても、もういっぺんスキリングし直す必要が出てきます。はい、ようやくここで「リスキリング」ってのが出てくるんですね。

世の中の変化が緩慢であればそこまでやらなくてもいいんだけど、技術の進歩が早すぎてそのままでは取り残されてしまうとまずいぞという状況で初めて出てくるのが「リスキリング」なんです。

これに対して、日本ではそもそも就職前に当該仕事に向けた「スキリング」なんてしていない労働者を一括採用するのですから、採用後に「スキリング」しなくてはいけません。「リ」のつかない「スキリング」をやるのが、欧米社会と異なる日本企業の最大の責務となります。とはいえ、既に採用して一人前の給料を払いながらの「スキリング」ですから、どこかの大学や研修所でそればっかりやらせるなんて贅沢な「スキリング」ではなく、実際に職場に配置して、上司や先輩に叱られながら見よう見まねで何とか食らいついて仕事を覚えていくという、いわゆるOJTが一般的なやり方になります。

これは業務としては失敗したりやり直したりと不効率に見えますが、仕事をしながら仕事を覚えていくので、教育訓練費が別に掛かるということがないので、うまくいけばトータルでは効率的になります。というか、かつて(30年前まで)はこの日本的OJTこそが、世界に冠たる日本経済の競争力の源泉だと、鉦や太鼓で褒め称えられていたことを、中高年の皆さんはかすかに覚えているでしょう。

しかも、2年や3年おきに配置転換するので、その都度またはじめから素人になり、そこで必死にOJTで仕事を覚えて、何とかできるようになる、というサイクルを繰り返して、教育訓練費の国際比較では日本は圧倒的に少ないのに、日本の労働者は欧米なんかよりもずっとなんでも「できる」ようになっているぞ、日本型雇用は最強だ!という本が山のように出版されていました。

これを今風にいえば、日本企業は新入社員を採用後配置転換のたびに、OJTで「スキリング」を繰り返していたというわけで、それを2回目からは「リスキリング」といってもあながち間違いではありません。実は、欧米が最近になって「リスキリング」とか言い出す遙か昔から、日本は会社主導で「リスキリング」していたんです。

ここまでの話が、最近のリスキリング話では大体欠落しています。そうすると、話が拗れてくるんですね。

さて、30年前までは褒め称えられていたこの日本型「スキリング」、会社主導の「スキリング」&「リスキリング」のシステムが、30年前辺りから批判にさらされ、会社主導ではなく個人主導でいかなくてはいけないという話になっていきます。この辺、労働政策の詳しい流れは『日本の労働法政策』辺りを参照してください。「自己啓発」なんていうスローガンが流行り、雇用保険から教育訓練給付が出るようになったのもこの頃です。

もちろん、就職前に「スキリング」なんてしていないのですから、採用後に「スキリング」するという仕組み自体は何ら変わらないのですが、その後の「リスキリング」は会社が全部責任もつんじゃなく、労働者が個人で責任もってやっていくんだよ、という方向に流れていったわけです。とはいえ、かつてのように社内のOJTで仕事は身につくんだから、余所で余計な勉強なんかするんじゃない、という感覚もなお強固に残っており、会社に黙って夜間大学院に来てますという人も結構多かったりします。日本的な会社中心主義が強固に残りながら、個人の自己責任を強調する考え方も強まるという、なんとも難しい状況に置かれてしまっているわけですね、日本の労働者は。

で、『リスキリング』です。

もともと「スキリング」は個人の責任の社会で、それだけではまかないきれない例外的な状況向けに会社主導の「リスキリング」がようやく出てきた欧米社会と、もともと「スキリング」も「リスキリング」も会社がOJTで提供することが大前提の社会で、それではまずいからもっと個人主導にしていこうとここ20年あまりやってきた日本社会とを、その根っこを無視して、表層の現象だけ捕まえてあれこれ論じてみても、まことに表層的な議論にしかなり得ようがないのは、あまりにも当然ではなかろうかと嘆息が出るわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

峰崎直樹さんの拙著書評

Minezakicolumn 北海道労働者福祉協議会のホームページに毎週連載されている峰崎直樹さんのコラム「独言居士の戯言」で、拙著『賃金とは何か』を書評いただきました。

独言居士の戯言(第351号)

峰崎さんは本ブログでも何回か取り上げたことがありますが、一般的には政治家であり、民主党政権(鳩山・菅政権)における財務副大臣を務めた方ということになりますが、本書を取り上げられたのはその前半生が関わっています。

何故この『賃金とは何か』という著書を待ち望んだのか、私自身のヒストリーとも関係してくる。一つは、私の生まれた広島県呉市という戦前の海軍工廠があり、私の家族も含めて『職工』さんの街でもあったわけで、労働者にとって生活の糧である賃金に子供の頃から関心を持っていたことは言うまでもない。家庭内で、ちゃぶ台を囲みながら晩酌をする父親から「毎年春の昇給期に査定の不公平さに愚痴をこぼす姿を見聞きしてきた」わけだ。

さらに、私自身が大学を卒業し初めて仕事に従事したのが鉄鋼労連であり、1969年から5年間だったが日本を代表する鉄鋼産業の労働組合で春闘をはじめとする労働運動に身を置くこととなった。しかも、賃金問題を担当する部署に配属され、「職務給」とは何なのか、濱口さんの今回の『賃金とは何か』の中で中心的なテーマとして扱われている問題を、初心者として勉強させられたのだ。この5年間、千葉利雄調査部長の下で宮田義二委員長が進める鉄鋼労連の第一期長期賃金政策の戦いの第一線に参加したわけだ。ちょっと余談になるが、この新書の中でもしばしば登場する金子美雄氏(労働省発足時の初代調査局長などを歴任)についても千葉利雄部長と一緒に懇談する機会があった。金子美雄氏が一番好感を持っておられた労働組合が、何と当時の「動労」(国鉄動力車労働組合の略称)だったという事など、今思うに身近で大変な権威のある方達から日本の労働問題の在り方についての貴重な話に触れることができ、光栄の至りであった。それにしても、今思うに鉄鋼労連の5年間は短すぎたように思う。

この二つのパラグラフを読んだだけで、『賃金とは何か』に出てくるさまざまな舞台設定や登場人物が出てきますね。呉海軍工廠の生活給思想、鉄鋼労連の賃金政策、千葉利雄に宮田義二、しかも、本書に最初から最後まで出てくる主人公の金子美雄が動労を評価していたなんていう裏話まで飛び出してきます。

動労は本書にも(総評の賃金パンフレットから)ちょびっと出てきますが、そもそも動労の前身の機労(機関車労組)は国労という企業別組合の中に職種別処遇を求めて分離独立した日本には極めて稀なる職種別労組であって、そういう観点からの研究がもっとされてもいいと思っています。動労というと動もすると革マル派だの松崎明だのという話ばかりになるのですが、そうでない観点がなさ過ぎではないかと。と、話がそれてしまいました。

本書について詳しく紹介していきながら、ご自分の経験も踏まえていろいろとコメントをされています。最後のところで、

最後に、何故日本の賃金は上がらないのだろうか、終章で「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」という禅問答のような指摘がなされている。「定昇」という2%前後毎年上がっていくシステムが存在していることによって、労働者には賃金が上がっているように思えるが、労務費総体は増えないままである。世界はジョブ型であり、「定昇」等は存在していない。自分たちの賃金は自分たちが力で勝ち取っていく以外にないわけで、その力が失われている日本の賃金が欧米に比べて落ち込んでいくのは必然なのかもしれない。

本を読み終えて、まことに良く書かれた賃金の書ではあるが、どう日本の労働組合が「1940年体制」から脱却していけるのか、深くて構造的な弱点(ジョブ型ではなくメンバーシップ型雇用といった)の克服に向けてもがき続ける労働運動の姿が私には浮かんでこない。それが現実なのだろうが、次の世代に託す以外に道はないのだろう。

本書では「1940年体制」という言葉は出てきませんが、戦後日本の賃金の在り方(決め方も上げ方も支え方もその全て)が1940年前後の賃金統制令に発しているというのが本書のメッセージですから、まさに「「1940年体制」の硬くて重い壁をどう改革できるのか」というのが本書のスフィンクスの問いになるわけです。

 

 

 

 

 

 

2024年8月 3日 (土)

労働法学研究会「解雇無効判決後の職場復帰状況」

労働開発研究会の労働法学研究会「解雇無効判決後の職場復帰状況」が9月4日に開催されます。

https://www.roudou-kk.co.jp/seminar/workshop/12323/

 解雇の金銭解決制度(解雇無効時の金銭救済制度)をめぐる議論は長らく厚生労働省で継続されています。2022年には厚生労働省が設置した有識者検討会により解雇無効時の金銭救済制度に係る法技術的論点に関する報告書が取りまとめられ、引き続き労働政策審議会において制度導入の是非等を議論していくこととなっています。
 雇用の現場においては、すでに働き方の多様化は進み、終身雇用等の雇用慣行への意識も変化するなか、解雇規制の見直しを望む声もあります。また依然として解雇をめぐる紛争は絶えない状況でもあり、労使にとって解雇の金銭解決制度は極めて関心の高い問題です。
 この制度の検討に際して、このほど労働政策研究・研修機構から「解雇等無効判決後における復職状況等に関する調査」が公表されました(JILPT 調査シリーズNo.244・2024年7月)。この調査は日本労働弁護団や経営法曹会議等の労働問題に関連する弁護士を対象に機構が行ったもので、解雇事案において解雇無効とされた場合に、復職状況等の実態はどうなっているのかを調査しており、労使にとっても解雇をめぐる現状や問題を知ることは重要であると思われます。
 そこで本例会では、この調査を執筆された労働政策研究・研修機構(JILPT)研究所長の濱口先生を講師にお招きして、今回の調査に関する解説と今後の制度検討の行方等についてお話しいただきます。解雇法制をめぐる状況や制度検討の経緯等に精通する濱口先生からの貴重なお話しとなりますので、企業人事や労働組合のご担当者をはじめ関心ある皆様はぜひこの機会にご受講ください。

会  期 開催日時:2024年09月04日(水)14:00~16:00 (会場受付は13:30~)

Jilpthukushoku_20240803000701 なお、この講演の元となる調査シリーズは此方からPDFファイルで全文読めますので、ご参考までに。

調査シリーズNo.244 解雇等無効判決後における復職状況等に関する調査

研究の目的

解雇無効時の金銭救済制度について、地位確認がされた労働者の実際の職場復帰の割合等を把握することが重要であるとの観点から、弁護士へのアンケート調査を行った。

研究の方法

労働問題を専門とする日本労働弁護団、経営法曹会議に加え、日弁連その他の各弁護士会の労働問題に関連する委員会のメーリングリストに登録している会員弁護士を対象に、WEB上の調査票で回答を記入してもらうというやり方を採用した。実査は令和5年10月6日から11月6日に行われた。

 

2024年8月 1日 (木)

国家公務員は(形式上は)職務給なんだよ、なんだってぇ!?

焦げすーもさんがこういう素朴な疑問を提示し、らふろい燗さんとこういう会話をしているんですが、

国家公務員、ボーナス増へ 月給上げ幅、27年ぶり1%超も(共同通信) →hamachan先生の新著を読んだから気になったのだが、 これって定期昇給を含むの?含まない気がするのだが。教えて有識者。

人事院勧告は、定期昇給分を含まないよね。俸給表の書き換えなので、「ベースアップ」とも考え方が違うのでは?

ベアそのものかと思ってたんですけど、これ以外の考え方があるのですか? >「ベースアップ(ベア)」「ベースダウン」 >賃金表(略)の改定により賃金水準を引き上げる、又は引き下げることをいう。

「ベース賃金=単体企業の賃金合計額」という言葉が先にあり、ベース賃金の1人平均額を上げる労使交渉を「ベースアップ」と呼ぶようになったそうです。 こう理解しています 賃金表の上方書き換えは、必ずベースアップになる ↑ ↓ ベースアップは、必ずしも賃金表の上方書き換えを伴うわけではない。

なので、前掲ツイート “俸給表の書き換えなので、「ベースアップ」とも考え方が違う” というのは誤りですね💦

なるほど、「賃金表の書き換え⊂ベースアップ」であってイコールではない、という話ですかね。

ですです。 半端な理解のままなので、hamachan先生の新著を読み直さないとな・・

焦げ先生のツイートをみてhamachan先生の新著きになってました。 今度買います(思い出した

そもそも人事院自身が「ベースアップ」と呼んでいるので、それをベースアップではないとは言えませんが、しかし仕組みから言えばこれは平均賃金方式ではなく個別賃金方式ですね。しかも、俸給表のどこを見ても、年齢もなければ勤続年数も書かれていない。

そう、実は国家公務員の賃金は、現在でも70年以上前に作られたときと同様、形式上は職務給なんです。

『賃金とは何か』の71ページから75ページに書かれているように、国家公務員法の基本構造はいまでもジョブ型であり、その賃金制度は(極めて形式上のはなしですが)職務給なんですよ。

ただし、肝心の「職務」分類は、現在の俸給表で言えば、行政職、税務職、公安職、海事職、教育職、研究職、医療職、福祉職、専門スタッフ職という程度であって、多くの等級と、超絶的に多数の号俸(行政職だと125号俸まである)によって事細かに区分けされ、そしてこの号俸をほぼ勤続年数に応じて定期的に上がっていくことによって、まさに定期昇給と同じ効果をもたらしているわけです。

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この俸給表を毎年書き換えるのを人事院自ら「ベースアップ」と呼んでいるのですが、少なくともこの言葉の語源である人件費総額の増分がまず先にありきという構造にはなっていませんので、肝心の職務がほとんど分類されていないという点を別にすれば、空疎な職務給というか、労働者個人個人の(何等級の何号俸という)「銘柄」を一律に書き換えて引き上げるという意味では個別賃金引き上げ方式と呼ぶべきでしょう。

いずれにしても、定期昇給に相当する部分は、人事院勧告による引き上げとは別に、各役所ごとに号俸の引上げの形で行われるわけですから、これは定期昇給を含まないベースアップにのみ対応する部分であることは間違いありません。

なので、この表の民間賃上げ率が「定昇込み」になっているのは紛らわしいというか、そもそも間違いであって、これを見ると民間労働者は毎年2%ずつ賃上げしているのに国家公務員は限りなくゼロに近いかのように見えますが、いや民間の定昇抜きの純ベア部分と比べればほぼ同じようなものです。

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和田泰明『ルポ年金官僚』書評

例によって、月1回の『労働新聞』書評です。

・・・・って、おや?先週載ったのにまた今週も?どうしたの?とお思いでしょうが、いや、執筆予定者にいろいろあったそうで、急遽順番を差し替えとなった次第。その辺柔軟に対応いたします。

9784492224168_1_4277x400 というわけで、本来9月に載るはずだった書評は、和田泰明『ルポ年金官僚』(東洋経済新報社)です。

https://www.rodo.co.jp/column/180800/

 著者は週刊ポストや週刊文春の記者として年金記事を書きまくり、20年前の国民年金保険料未納を巡る騒動のときには、小泉首相の未納情報を関係者から入手して記事にした当人でもある。そういう人がこのタイトルで書いた本とくれば、例によって扇情的な年金ポルノ本の類いだろうと思う人も多いだろう。ところがさにあらず、週刊誌的な筆致で書かれた本書は、誠に真っ当な戦後日本年金史でもあるのだ。

 年金本は大きく3つに分けられる。年金保険とは何かをよくわきまえた社会保障学者や政策関係者が書いた真っ当だが読んでもあんまり面白くない本。年金のなんたるかをわきまえない俗流経済学者や政治評論家が制度を知らないままに経済理論だけで書いた制度攻撃の本。そして週刊誌やテレビがまき散らす年金にかかわるあれこれのスキャンダル=年金ポルノだ。戦後日本年金史、とりわけ過去30年の波瀾万丈の歴史は、この3つの流れが政治的思惑のなかで拗れながら絡まり合って生み出されてきた。その年金ポルノの制作現場にいた著者が、くそ面白くもない年金制度をしっかりと勉強して、無知な学者や政治家による年金攻撃の愚かしさを浮彫りにしているのが本書なのだ。

 本書は小山進次郎局長による国民年金法制定、山口新一郎局長による1985年年金大改正(基礎年金導入)を劇的に一叙事詩の如く描く。通史では淡々と書かれるその政策過程が、数々の回想を重ね焼きしながら情緒的に描き出される。とりわけ司令官の「戦死」のシーンは圧巻だ。だが、その間に挟まれた横田陽吉局長による73年改正が、田中角栄と野党のイケイケドンドンに乗って年金の大盤振る舞いとグリーンピアを生み出し、後代への負債となったことにも注意を喚起する。

 1990年代後半から2010年代前半までの20年間は、制度に一知半解の経済学者がおいしいネタを見つけたとばかりに、一斉に年金の世代間不公平を言い立て、積立制度への移行を主張した時代であると同時に、グリーンピア、タレントや政治家の年金保険料未納問題、そして年金記録の持ち主不明(基礎年金番号へ統合されていない記録)5000万件問題が次から次に湧いてきて、国民の年金不信が高まり、野党の政府攻撃の絶好の材料になった時代であった。

 年金ポルノで名をはせた野党政治家たちが「抜本改革」の名でぶち上げた年金改革案は、彼らが政権の座に就くことによって化けの皮が剥がれる。「幼稚園児のお絵かき、論評に値しない一枚紙の絵、政策でも制度でもない政治的プロパガンダ」は、現実に直面した民主党政権自らによって紙くずのように葬り去られ、自民党への政権交代直前に真っ当な社会保障制度改革への道が再びつけられた。

 民主党政権の「戦果」は、扶養から外れても届出しなかったために保険料未納の主婦たちについて、長妻厚労相の指示により運用で3号被保険者と認めるいわゆる「運用3号」通達を出した年金局の課長を更迭して見せたことと、不祥事続きの社会保険庁を解体して日本年金機構に改組する際、民主党の選挙運動に長年汗をかいてきた社会保険庁の労働組合員たちを懲戒処分経験者として「分限免職」で報いたことくらいだった。

 

 

 

 

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