児美川孝一郎『新自由主義教育の40年』
児美川孝一郎『新自由主義教育の40年-「生き方コントロール」の未来形-』(青土社)をお送りいただきました。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3944&status=published
改革の〈抗いがたさ〉を見つめる
なぜキャリア教育は「生き方教育」化してきたのか。大学改革はいかに教育を変容させていったのか。教員たちの真の「働き方改革」とは何か。なぜ教育の「市場化」に抗うことは難しいのか。教育現場に寄り添いながら、現代日本の教育史を問い直す一大クロニクル。
児美川さんからは今までも多くの本を頂いていますが、その多くは本書で言うと第1部のキャリア教育に関わるものでした。本書にもその部分はありますが、第2部は大学教育そのもの、第3部は教育労働の問題、そして第4部はより包括的に過去数十年の「新自由主義教育改革」を再検討するものになっています。いずれも過去十数年間に各種媒体に書かれた論文を微修正したものですが、各部の冒頭にかなり長めの解題がついていて、現在の視点からの解説がされています。
プロローグ
第1部 キャリア教育の現在
1章 「若者自立・挑戦プラン」以降の若者支援策の動向と課題――キャリア教育政策を中心として
2章 格差社会の中のキャリア教育
3章 学校の「道徳化」とは何か――新学習指導要領に透けて見える、「生き方コントロール」の未来形
4章 若者の「自己責任」への呪縛と企業社会への馴化第2部 大学教育の変容
5章 大学教育における「知」の地殻変動と「教養」のゆくえ
6章 「専門職大学」設置と大学改革の迷走
7章 大学におけるキャリア支援・教育の現在地――ビジネスによる侵食、あるいは大学教育の新しいかたち?
8章 大学教育の墓掘り人?――キャリア支援・教育はどこから来て、どこに向かうのか第3部 教育労働の現在
9章 任期付教員の増加と「大学教員」の変貌
10章 「働き方改革」で教職の魅力は回復するか
11章 公教育のハイブリッド仕様へ?――自己責任化する学びと教師の働きがい第4部 教育改革のゆくえ
12章 幕開ける「ポスト戦後型教育改革」の時代
13章 侵食する教育産業、溶解する公教育――攻防の現段階とゆくえ
14章 GIGAスクールというディストピア――Society5.0 に子どもたちの未来を託せるか?
15章 〈市場化する教育〉の現在地――抗いがたさはどこから来るのか?エピローグ
あとがき
本書では、児美川さんは基本的なスタンスとしての「戦後教育学」的な立場をかなり鮮明にしつつも、(多くのそういう立場の人々のように)その立場から単純に新自由主義改革をけしからんものと嘆き、「戦後に帰れ」的守旧派に安住するわけにはいかないことにも自覚的です。逆にその外側からみている私のような者からみると、そこまでこだわるのかなあ、という気もしますが、そこのところの悩ましさを正直に前面に出して論じているから、最後まで読者を引っ張っていく本になっているのでしょう。
大学教育における教養と職業教育の問題とか、教師の労働問題など、わたしが興味を持っていろいろ論じたい論点も多いのですが、ここでは最後の第4章で、公教育が市場化していくことを半ば嘆きつつも、その抗いがたさを論じているところについて、教育という高級なものに対して低級なものとされてきた訓練の世界ではそういう話にはならなかったのだなあ、という感想を抱いたことを書き付けておきたいと思います。
本書によれば、1990年代から2000年代に本格的に公教育の市場化が進められるようになるまでは、(私立学校を含む)公教育こそがほぼ唯一の教育であって、塾などの私教育は(現実には大きな社会的存在でありながら)建前上は日陰の存在であったようです。それが近年になってようやく官邸や内閣府、とりわけ経産省の力でぐりぐり押し込まれてきているというわけです。
そうか、公教育ってのは権威があったんだね、文部省ってのは偉かったんだね、とややひが目で思ったのは、公教育に対応する公的訓練ってのは、それよりずっと前に、1970年代によその役所でもなく、職業訓練行政を所管する当の労働省自らによって、さんざんに貶められていたからなんですね。
『季刊労働法』2022年夏号 に書いた「公的職業訓練機関の1世紀」でも述べたように、1978年の職業訓練法改正の際に当の職業訓練局長の名前で書かれた解説書では、「職業訓練制度は公共職業訓練を基本とするという意識を払拭し、公共職業訓練と事業主等の行う職業訓練とを対等に位置づけ」、「いやしくも公共職業訓練が職業訓練の本流であるとかの認識があってはなら」ないと、その思想を明確に打ち出していました。また、「法定職業訓練のみが制度の対象とされ」、「一定の型(特に訓練の教科、期間について)に該当しない職業訓練は、その拡充が図られないのみならず、職業訓練にあらざるものとして排除することとなりがち」だと1969年法の発想を厳しく批判し、「今後において事業主及び労働者の必要とする多様な職業訓練の振興を図っていくためには、法定職業訓練に該当しない職業訓練をも広く施策の対象として取り入れていく必要がある」と断言していたのです。
いってみれば、文部省の初等中等教育局長自身が、「教育制度は公教育を基本とするという意識を払拭し、公教育と企業等の行う教育とを対等に位置づけ」、「いやしくも公教育が教育の本流であるとかの認識があってはなら」ず、「学習指導要領に該当しない教育は、その拡充が図られないのみならず、教育にあらざるものとして排除することとなりがち」云々と、学校教育法の解説書で論じたてているような、そんな事態が、別に新自由主義でも何でもない1978年という段階で起こっていたんですよ、教育の世界はのんきで良かったですね、と思わず皮肉をいいたくなるのもわかりますよね。そうか、公教育ってのは権威があったんだね、文部省ってのは偉かったんだね、という感想が湧いてくる所以です。
」
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