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2024年7月20日 (土)

賃金の決め方、上げ方、上がり方

なるほどね。経営学と経済学は斯様に異なる、と。

そういう意味で言えば、「賃金の決め方」というのが経営学の一分野たる人事労務管理論の問題意識であり、「賃金の上げ方」というのが同じく経営学の一分野たる労使関係論の問題意識であるのに対して、拙著ではあえて項目として起こさなかった「賃金の上がり方」というのはまさに経済学の一分野たる労働経済学の問題意識ということになるのかな。

「賃金の決め方」の目線が人事部で賃金制度をいじくっている人事屋の目線であり、「賃金の上げ方」の目線が労務部で労使交渉を担当している労務屋やそのカウンターパートの労働組合役員の目線であるのに対して、「賃金の上がり方」の目線はまさに上から下界を見下ろす神さまの目線、というか神さまの立ち位置に座っている経済学者やエコノミストの目線というわけだな。

(参考)

日本型雇用システム論と小池理論の評価(再掲)

・・・・ここで、こういう小池氏の発想の根源を探ってみたいと思います。多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているようです。しかし、小池氏の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した純粋経済学者のスタイルです。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系です。
 労使関係論とは何でしょうか?一言でいえば、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問です。その「ルール」は政治的に構築されるのですから、経済学的に正しい保障はありません。もちろん、政治的に構築されたルールが持続可能であるためには経済学的に一定の合理性を持つ必要があります。
 戦時賃金統制と電産型賃金体系が確立した生活給自体は政治的産物であるので、その合理性を経済学から演繹することはできません。しかし生活給を変形した(厳しい個人査定付き)年功的職能給制度の合理性は経済学的に説明することが可能です。
 いわば、小池理論とは、労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論なのです。

 この労使関係論なき純粋経済学ぶりは、賃金の決め方と上がり方をめぐる議論にも明確に現れています。上記『賃金』(1966年)を見てみましょう。小池氏は、当時経営側や政府で流行していた「年功賃金から職務給へ」に反論して、こう述べます。

・・・だが、右の議論には納得できない疑問点が数多く見出される。第一に、賃金率の上がり方と決め方が混同され、区別されていない。決め方とは、ここの賃金率を直接規定する方式のことである。・・・これに対して、賃金率が結果としてどのような趨勢をとるかが「上がり方」の問題である。
重要なのは、この二つが全く次元の異なったものだということである。例えば、決め方が職務給でも、上がり方が年齢に応じて上昇することもあり得る。・・・この両者のうち、より一層重要なのは上がり方である。そこに生活がかかっているからである。ところが右の年功賃金論は、この区別を知らない。職務給をとれば上がり方も緩やかになる、と考えている。だが職務給はもともと決め方にすぎないのであって、決め方を変えたからといって、上がり方がそれによって変わるものではない。・・・だから、そもそも上がり方としての年功賃金を、決め方としての職務給と対立させるのがおかしいのであり、両者は両立しうるのである。・・・

 さらっと読むと一見もっともらしく見えますが、生活給とは「上がり方」そのものを「決め方」で規制する仕組みであり、結果としてこういう上がり方になりましたというものではありません。労使関係論者であれば労使の抗争と妥協の中でどういう「ルール」になったかが最大の関心になるはずですが、小池氏にとっては(当事者が決定した)「ルール」よりも「より一層重要なのは」(当事者ではなく外部の観察者が調査しグラフ化して初めてみえてくる)「上がり方」であるという点に、その純粋経済学者としてのスタンスが現れています。
 とりわけトリッキーなのは、「そこに生活がかかっているからである」という台詞です。「そこに生活がかかっているから」こそ、電産型賃金体系は直接に「ルール」でもって「上がり方」を「決め」ようとしたのです。つまり確実に上がるような「決め方」が大事なのであって、労使当事者が決められる「ルール」の外側の経済学者が観察しグラフ化してはじめてみえてくる「上がり方」などに委ねようとはしなかったのです。

 

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コメント

>「賃金の上がり方」の目線はまさに上から下界を見下ろす神さまの目線、というか神さまの立ち位置に座っている経済学者やエコノミストの目線というわけだな。

 まさしくそうです。
 今アメリカのノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ教授の書いた経済学のテキスト、スティグリッツ ミクロ経済学を読んでいます。
 労働者の賃金は労働の供給曲線と需要曲線の交わるところに決まる、と書いてあります。
 賃金は市場で決まるものであり、労使交渉で決まるとは考えていないのですね。
 一応スティグリッツ教授はケインズ経済学者で政府の役割を重視し、いわゆる新自由主義やリーマンショックをもたらした金融資本家たちを厳しく批判した経済学左派ではありますけどね。

 それから「神さまの目線」と言うのはアダム・スミスが言ったとされている「神の見えざる手」からの連想なのでしょうけれども、アダム・スミス先生は「国富論」でも「道徳感情論」でも「見えざる手」としか言っておりません。
 ご承知かとは思いますが、気になりましたので一言させていただきました。

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