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2024年5月15日 (水)

岩田龍子『学歴主義の発展構造』再読

7198zjctal_ac_uf10001000_ql80_dpweblab_ むかし学生時代に読んでいたはずですが、何しろ40年以上前なのですっかり中身を忘れていましたが、たまたま図書館の教育書の棚に並んでいたので再読したところ、思っていた以上に現在の私の考え方にそっくりなことを言っていることを発見し、いささかびっくりしています。

・・・これにたいして、日本の社会においては、人々は潜在的可能性としての「能力」にたいしてよりつよい関心をしめす傾向がみられる。このように、日本の社会には、能力の一般的性格についての、あるぬきがたい信仰のようなものが存在しているために、すぐれた「能力」をもつ人、すなわち「できる人」はなにをやらせてもできるのであり、逆に「駄目な奴」はなにをやらせても駄目なのだと考えられやすい。・・・つまり、日本の社会では、適材適所とは、しばしば一般的能力のレヴェルにかんしていわれる場合が多く、本人の個性・関心・興味を中心にこれが主張されることはむしろ稀である。

 このような「能力」の一般的性格にたいする信仰は、日本の企業の職員採用などにも明瞭にみとめられる。・・・・そこで問題となるのは、一般的な性格を持つ潜在的能力としての「能力」を想定することなしには、企業によるこのような人材獲得競争自体が存在しえないということである。なぜなら、これらの企業は、一般に特定の職務への配属をあらかじめ決定せずに人を採用して、採用後に適宜配属を決定しているからである。このような状況のもとでは、実力をもとめての人材獲得競争は不可能である。つまり、日本の場合、このようなはげしい人材獲得競争においてもとめられている人物は、「実力」のある人物ではありえず、それは「能力」に恵まれた人物でなければならないことになる。

さきごろ、ある一流総合商社の人事担当者が、「どのような人材をもとめているのか」というテレビ記者のインタビューにこたえて、「ウチはなにができるかにができるということをもとめてはおりません。将来大きく成長する人物をもとめています」と答えていたが、このような考え方は、特殊な業種や職種を別にすれば、おおむね日本の有力企業に共通する考え方であると思われる。・・・

本書は、当時の日本が学歴社会だ、いやそうじゃないという論争に対して、欧米のような意味での「なにができるかにができる」の証明書たるディプロマが大事な学歴社会ではないけれども、一般的な「能力」の指標としての「学歴」、大学を卒業したことじゃなくて大学の入学試験をクリアしたことをもって「将来大きく成長する人材」であることの証明書と見なす独特の学歴社会であるということを論証しようとする本なのですが、それを超えて、日本の雇用=教育を貫く社会のあり方をみごとに浮き彫りにしていると言えます。

用語法として、日本独特の「能力」の対義語として「実力」という言葉を使っている点がやや違和感があります。日本社会では「実力」ってのも無限定的な意味合いで使われがちだからです。これはむしろ具体的なジョブを想定した「スキル」と言った方が明確でしょう。

そう、二か月ほど前にここでこんなことを書き付けたのですが、この日本的「能力」ってのはまさに「できる人」の「デキル」であって、「スキル」じゃないということであるわけです。

スキルとデキル

ジョブ型雇用社会で必要なのはスキル。具体的なジョブを実際に遂行することができるスキル。これに対してメンバーシップ型社会で求められるのは、いかなる意味でも具体的なジョブのスキルではなくて、どんなことでも「できる」ことなんだなあ。「できません」はありえない。できるまで頑張る。スキルとデキル。あまりいいしゃれじゃないか。

 

 

 

 

 

 

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