『労働法律旬報』3月下旬号の巻頭言に、石井保雄さんがこんなエッセイを寄稿しています。
https://www.junposha.com/book/b643718.html
[巻頭]沼田稲次郎著『現代の権利闘争』(1966)を読む――濱口桂一郎〝hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)〟に促されて=石井保雄…………04
なんと、私のブログに促されて書かれたエッセイなんですね。
沼田稲次郎の同書については、『労基旬報』2019年8月25日号 に寄稿した「戦後労働法学の歴史的意味」と、海老原さんがやっていた今はなき『HRmics』第37号に寄稿した「帰ってきた原典回帰」第2回でいろいろと論じましたが、それを受け止めていただきました。
是非皆様もご一読ください。
なお、その元になったわたくしの小論を、参考までにここに再掲しておきます。
まず、労基旬報の「戦後労働法学の歴史的意味 」です。
昨年刊行した『日本の労働法政策』(労働政策研究・研修機構)では、近代日本の労働法政策の歴史をほぼ20年周期で区分し、自由主義の時代(1910年代半ば~1930年代半ば)、社会主義の時代(1930年代半ば~1950年代半ば)、近代主義の時代(1950年代半ば~1970年代半ば)、企業主義の時代(1970年代半ば~1990年代半ば)、市場主義の時代(1990年代半ば~)と名付けています。この時代区分自体にもいろいろと議論のあるところですが、今回はそれと労働法学の動向がどこまで対応していたのか、あるいはいなかったのかについて考えてみたいと思います。その際、終戦直後に誕生し、高度成長期に至るまで大きな影響力を振るったいわゆるプロ・レイバー労働法学をどう位置付けるべきかに焦点を当てて考えます。
戦前の自由主義の時代には、そもそも労働法学という分野自体確立しておらず、末弘厳太郎ら一部の研究者が新分野を開拓する形で研究を進めていました。これは当時内務省社会局が政府部内で社会立法に向けて気を吐いていたのと対応しています。労働法研究が大きく拡大するのは、戦時体制下で続々と勤労統制立法が相次ぐようになってからです。当時の労働法学者は、時代の空気を読んで国家主義的なレトリックをまぶしながら、次々と作り出される労働立法の解説に勤しみました。
日本が戦争に敗れた1945年は圧倒的に多くの歴史叙述において20世紀最大の画期とみなされていますが、労働法政策の観点からすれば同じ社会主義的労働政策の中で、ナチス流の国家社会主義的な方向からアメリカのニュー・ディール風の偏差を持った社会民主主義的な方向への転換がされた年という位置づけになります。では労働法学においてはどうだったのでしょうか。GHQ占領下で続々と制定された戦後労働立法を受けて、社会民主主義的な労働法学の潮流が確立していった・・・・というわけではありませんでした。むしろ、当時の急進的な労働運動に引きずられるように、あるいはそれを引きずるような形で、マルクス・レーニン主義や唯物史観を掲げる労働法学が一世を風靡し、多数派となっていったのです。世に言う「プロ・レイバー労働法学」です。これに対し、「労働力の集団的コントロール」を掲げ、欧米型のトレード・ユニオニズムを理念型とする吾妻光俊らは少数派にとどまりました。
当時の労働法学はその関心のほとんど大部分を労使関係法に向けていたので、その対立もほとんど労働組合、団体交渉、労働争議といったことに関わるものでした。まずもって終戦直後の労働組合が実行した生産管理闘争に対して、欧米労働組合の「労働力の売り止め」という労働争議のあり方に反することから否定的な吾妻らに対し、プロ・レイバー派はその正当化に努めました。その後も、職場占拠、ピケット、ビラ貼り、リボン闘争など、トレード・ユニオニズムからは正当化しがたい日本独自の職場闘争スタイルをいかに正当化するかがプロ・レイバー派の課題であり続けました。
これは、労働法政策が近代主義の時代に入った後もかなり長く続き、たとえば1966年に労働省の労使関係法研究会が浩瀚な報告を出したときも、会長の石井照久を始め、欧米型トレード・ユニオンの理念型から現実の日本の労働運動を批判する論調であったのに対して、プロ・レイバー派は非難を浴びせました。その最大の理由は、現実の日本の労働組合が圧倒的に企業別組合であるにもかかわらず、労使関係の近代化を主張することは結果的に労働運動の弱体化につながるではないかという点にありました。職務給の導入など欧米型の労働市場への近代化を唱える政府に対して、それが中高年男性の賃下げにつながると否定的であった当時の労働運動やマルクス経済学者とよく似た構図であったと言えましょう。
この、近代主義の時代に近代化を拒むスタンスは、言葉の上ではマルクス主義や唯物史観の用語がちりばめられているため「左翼的」に見えますが、現実の社会構造上の機能という観点から見れば、企業別組合という変えがたい現実に限りなく妥協しようとする現実主義であったと評することもできるでしょう。そしてそれは、戦時中の産業報国会を受けつぐものであり、その意味で社会主義の時代の産物でした。このことを最も明確に語っているのは、プロ・レイバー労働法学の旗手と言われた沼田稲次郎です。彼は著書『現代の権利闘争』(労働旬報社、1966年)の中でこう述べています。やや長いですが、戦後労働運動の本質、そしてそれを擁護した戦後労働法学の本質がくっきりと描き出されています。
・・・戦後日本において労使関係というもの、あるいは経営というものがどう考えられているかということ、これは法的意識の性格を規定する重要なファクターである。敗戦直後の支配的な意識を考えてみると、これには多分に戦争中の事業一家、あるいは事業報国の意識が残っていたことは否定できないと思う。生産管理闘争というものを、あれくらい堂々とやれたのは極貧状態その他の経済的社会的条件の存在によるところには違いないが、またおそらくは戦時中の事業報国の意識の残存であろうと思われる。事業体は国に奉仕すべきだという考え方、これが敗戦後は生産再開のために事業体は奉仕すべきだという考え方になった。観念的には事業体の私的性格を否定して、産業報国とそれと不可分の“職域奉公”という戦時中の考え方が抽象的理念を変えただけで直接的意識として労働関係を捉えた。産報の下では、民草はそれぞれの職域において働く。だから経営者は経営者の職域において、労働者は労働者の職域において職域奉公をなすべく、産業報国・事業報国が規範的理念であったことは周知の如くである。かかるイデオロギーというものが敗戦を機に一朝にしてなくなったのではなく、戦後における労使関係観というものの中に浸透していったといってよいだろう。
経営というものに対する見方についてもそういう考え方はやはり流れていたであろう。すると、その経営を今まで指導していた者が、生産サボタージュのような状態を起こしたとすれば、これは当然、覇者交替だったわけで、組合執行部が、これを握って生産を軌道に乗せるという発想になるのがナチュラルでなければならない。国民の懐いておった経営観というものがそういうものであった。経営というものは常に国家のために動いておらなければいけないものだ、しかるにかかわらず、経営者が生産サボをやって経営は動いておらない、これはけしからん。そこで組合は、我々は国民のために工場を動かしているんだということになるから、生産管理闘争というものは、世論の支持を受けたわけでもあり、組合員自身が正当性意識を持って安心してやれたということにもなる。
そんなわけで戦後の労使関係像というものが背後にあって、ある種の労使慣行というものができた。例えば組合専従制というもの、しかも組合専従者の給与は会社がまるまる負担する。組合が専従者を何人決めようが、これは従業員団であるところの組合が自主的に決めればいいわけである。また、ストライキといっても、労働市場へ帰って取引する関係としてよりも、むしろ職場の土俵の中で使用者と理論闘争や権力の配分を争う紛争の状態と意識されやすい。経営体として我々にいかほどの賃金を支払うべきであるかという問題をめぐって経営者と議論をして使用者の言い分を非難する-従業員としての生存権思想の下に-ということになる。課長以下皆組合に入っており、経営者と談判しても元気よくやれた。・・・団体交渉の果てにストライキに入ると、座り込んで一時的であれ、職場を占拠して組合の指導下においてみせる。そして、経営者も下手をすれば職場へ帰れないぞという気勢で闘ったということであろう。だから職場占拠を伴う争議行為というものは、一つの争議慣行として戦争直後は、だれもそれが不当だとは考えておらなかった。生産管理が違法だということさえなかなか承服できなかった。職場、そこは今まで自分が職域奉公していた場所なのだから、生産に従事していた者の大部分が座り込んで何が悪いのか。出て行けなんていう経営者こそもってのほかだという発想になる。経営というものは「私」さるべきものではなくて、事業報国すべき筋合いのものであるならば、経営を構成する者の大部分を占める従業員団が支配したって何が悪いか、というのも当然であったろう。
もちろん当時は共産党の指導していた産別会議時代だから、生産管理戦術には工場ソヴィエト的な考え方が流れていたかも知れない。あるいは、工場ソヴィエト的な考え方と、事業一家、職域奉公の意識が結びついて、一種独特な経営像が成り立ったといえるのかもしれない。いずれにせよ、そこから出てくる労使慣行というものは、労、使の立場が分離しない条件に規定せられていたといえよう。労働組合が、かえって労務管理的な機能を営んでいたともいえそうである。戦争中の労務管理体制というものは崩れてしまって、組合の執行部を通して労働力がようやく使用者によって握られていたという関係があったから、組合専従者が会社から月給を取るのも当たり前だとせられたのも不思議なことではなかった。そしてそのような労働慣行を承認しつつ労働法が妥当していたといえよう。・・・
一言で言えば、戦時中の産業報国会に左翼的な工場ソヴィエトの風味を若干まぶしたようなものを、欧米型のトレード・ユニオンを前提に作られた労働組合法上の労働組合としていかに正当化するかが戦後労働法学の最大の使命であったわけです。とりわけ、アメリカ型労使関係法制の全面的導入を目論見ながらそれが中途半端に終わった1949年改正の後には、それでもなお残る労使慣行をいかに擁護するかに精力が注がれました。沼田は1949年改正の意味を「戦後に残っていた産業報国会的な経営観、労使関係観を破るところにあった」とし、「「労」と「使」の立場を峻別するということにほかならなかった」と評しています。そして、結局、在籍専従制度の定着、チェック・オフの慣行化、組合事務所の貸与、就業時間中のある程度の組合活動など、完全には労、使の立場を峻別しない特有の妥協点に至ったと述べています。吾妻光俊や石井照久らトレード・ユニオン派の労働法学者に対抗するプロ・レイバー労働法学者たちの任務は、これら産業報国会の残滓を断固擁護することであったわけです。
この歴史叙述はほぼ正確なものだと思われますが、問題は終戦直後にはかなり強く匂っていた「工場ソヴィエトの風味」が、時代の推移とともに蒸発していき、一部の労働組合活動家や労働法学者以外にはほとんど何の意味もないものになっていったということです。工場ソヴィエトの風味をまぶした産業報国会からその風味が蒸発したら、残るのはただの産業報国会となります。「労」と「使」を峻別せず、事業一家的な経営観の下で、従業員団の代表としての経営者の指導の下に、労働組合が労務管理的な機能を果たし、従業員たちが「職域奉公」する世界です。そこにおいては、かつて(工場ソヴィエトの幻想に浸って)従業員団の代表として活躍した組合活動家たちは、企業秩序を破壊する生産阻害者とみなされ、少数派組合へと追いやられていきます。従業員の圧倒的多数は、自分たちにとってより素直になじめる労使協調型、あるいはむしろ労使一体型の企業別組合に流れ込んでいったのです。
プロ・レイバー労働法学者たちはこの事態に悲憤慷慨しましたが、事態は深刻でした。工場ソヴィエト風味が消え失せた労使協調型組合は、プロ・レイバー労働法学が(トレード・ユニオン派に抗して)作り上げ、一定の判例法理に反映させてきた、企業別組合に適合したさまざまな小道具-ユニオンショップ協定やチェックオフや統制処分-を使える立場になったからです。大変皮肉なことですが、プロ・レイバー労働法学は、自分が作り上げてきた武器によって自分が擁護したい当の勢力が追い詰められるという立場に立たされたわけです。
おそらくはこうした矛盾に耐えきれなくなったためでしょうが、1970年代にはプロ・レイバー労働法学が大きな方向転換を試みていきます。一言で言えば、企業、職場レベルの集団性に立脚し、従業員としての生存権を強調する考え方から、労働者個人の人権に立脚し、企業や組合からの自由を強調する考え方への大転換です。集団志向と個人志向、統制志向と自由志向というのは、およそ社会思想を大きく二分する最大の分類基準であることを考えると、これはもうほとんど180度の大転換ということができます。そんなことがあり得たのは、彼らが擁護しようとしていたかつての工場ソヴィエト風味の残党が、もはや少数派ですらなく、孤独な闘争を繰り広げる個人になりつつあったからかもしれません。最も強硬な集団主義者たちが個人レベルにまで少数化してしまったことの帰結としての逆説的な個人主義の称揚を、どこまで真の個人主義、自由主義と呼ぶことができるのかわかりませんが、いずれにしても、1970年代はプロ・レイバー労働法学の大転換の時期でした。
そしてそれは、社会の主流派における逆向きの大転換とも軌を一にしていたのです。そう、1970年代というのは、それまで政府や経営側が(少なくとも建前としては掲げていた)近代主義の旗を降ろし、日本的な雇用慣行や労使関係の素晴らしさを正面から称揚し、「近代を超えて」などと言い出していた時代です。それまで「労使関係の近代化」を掲げ、欧米と異なる日本的なあれこれの特徴を否定的に見ていた発想も、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の大合唱の中でいつの間にか消え失せていきました。私が労働法政策において「近代主義の時代」から「企業主義の時代」へとして描いた転換は、この時期の日本社会の相当部分で同時に進行していた変化でもあったように思われます。その中で、欧米のトレード・ユニオニズムを理念型とする「労働市場の集団的コントロール」理論も現実社会に何の存立基盤もない理想論として、疾うに消え失せていたのです。
こうして、集団主義者だったはずの者が個人主義者になり、個人主義者だったはずの者が集団主義者になるという二重のパラドックスをくぐり抜けて、集団主義的な日本型雇用システムに即した労働法学と、それに批判的で労働者個人の人権を強調する労働法学が対峙する構造がようやく達成された・・・と思ったのもつかの間、その図式は再び揺るがされます。1990年代には再び労働法政策の大転換が進み、「市場主義の時代」が押し寄せてきたからです。企業中心の発想から再び個人の自由重視の発想が支配的イデオロギーとなりました。転換したプロ・レイバー労働法学は再度、労働者個人はそれほど強い存在ではなく、個人の自由を掲げるだけでは市場の強大な力に流されてしまうだけだという、古典的な労働法の公理を噛みしめることになっていきます。
次に、『HRmics』の記事ですが、これはサッチモのサイトでもまだ雑誌掲載時のまま読めます。
http://www.nitchmo.biz/hrmics_37/HTML5/pc.html#/page/30
1 生産管理闘争とは何だったのか?
前回、「新装開店」の第1回目に取り上げたのは、終戦直後の1947年に刊行された経済同友会企業民主化研究会編『企業民主化試案』でした。労働組合側が主たる争議戦術として、生産管理という過激な形態の経営参加を進めていた時期に、それを正面から受け止めて会社の在り方自体を根本的に見直そうとする試みとして、今なお読み直されるに値するエポックメイキングなマニフェストと言えます。
では、肝心の労働側においてその生産管理闘争の哲学を高らかに謳い挙げたマニフェストのようなものがあるかというと、これがなかなかないのです。むしろ、明確な思想的設計図のないまま、現場の労働者たちの半ば無意識的な志向性の赴くままに進められたのが、この時期の生産管理闘争だと言っていいかもしれません。
もっとも、同時代的言説においても、また後代の言説においても、労働側においてそれを描く際に最も多く用いられたイデオロギー的枠組は公式的マルクス・レーニン主義に基づくものでした。そこでは、終戦直後の生産管理闘争はロシア革命時の「工場ソビエト」やドイツ革命時の「工場レーテ」と同様、プロレタリア階級の労働者たちが共産主義社会への第一歩としてまずは自分たちの働く工場に「コミューン」を作り上げようとした先駆的な試みであったと礼賛の対象となります。
となれば当然、そのイデオロギー的対立者の側からすれば、それは資本主義社会の根幹たる所有権秩序を破壊しようという許しがたい暴挙ということになります。実際、当時の日本政府は、内務、司法、商工、厚生4大臣による「暴行、脅迫又は所有権侵害などの違法不当なる行動に対しては断固処断せざるを得ない」との声明にみられるように、(資本主義社会における労働力売買を前提とした労働力の売り止めという)ストライキのような本来許される争議手段と異なり、本来許されない争議手段だという認識に立っていました。
しかし、このいずれのイデオロギー的認定も、工場現場で生産管理闘争をやっている労働者たちの現場感覚とは著しく乖離したものでした。彼らがどういう意識で生産管理闘争をやっていたのかを、彼ら自身の意識に即して解説したものは、少なくとも同時代的にはほとんど見当たりません。生産管理闘争真っ盛りの1946年11月に、当時夕刊京都新聞社政経部論説委員兼組合長であった沼田稲次郎が書いた『生産管理論』(日本科学社)でも、「合理的で自由平等な立場で行われる商品の流通過程と、これに照応する自由平等なる法的人格者の自由なる法律行為(労働契約)を媒介として結ばれる法律関係とのヴェールに隠されたところの、法律行為外の価値増殖過程乃至は商品生産過程と、これに照応する身分的支配の現実が、生産管理によってそのヴェールをひきむしられる。生産管理によって、商品崇拝教の秘密が暴露せられ、資本の搾取という社会悪が計数的具象的に把握せられてしまう。そして、争議における資本家の狡猾な駆引きは封殺せられてしまうのである。且つ、賃金不払という企業主の切札は奪われ、原料、資材等の闇流しの利き腕も押さえられる。」などと、法学用語とマルクス用語がちゃんぽんになったアジビラ風の議論が展開されているばかりでした。
沼田はその後東京都立大学の労働法教授となり、あらゆる論理を駆使して左翼労働組合運動を支援するいわゆるプロレーバー労働法学の旗手として活躍していきます。その著作も膨大な数に上りますが、その中の一冊、生産管理闘争から20年後の1966年3月に刊行された、『現代の権利闘争』(労働旬報社)の中に、かつての著作にはみられなかった生産管理闘争に関するかなり的確な描写があるのを見つけました。唯物史観に基づくマルクス主義労働法学を構築したとされる沼田の叙述の中に、それとはまったく相反する生産管理の実相が描き出されていること自体が、壮大な皮肉という気もしますが、まずは本書の言うところに耳を傾けてみましょう。
2 産業報国会の裏返しとしての企業別組合
沼田稲次郎は終戦直後から左翼労働組合運動のイデオローグとして活躍した運動寄添い型労働法学者の典型です。本書は、1950年代半ばから当時の総評が進めていた職場闘争路線のいわばテキストブックとして書かれたものです。その序言に曰く、「私は、権利闘争というものが、そもそも労働者の権利感情ないし権利意識に支えられる闘争であるかぎり、階級的陣営のモラルの自覚的形成と、資本制社会における階級闘争の必然性を認識しその闘争の正当性の意識を広めかつ深めるという陣営内部の実践的努力とそれは不可分の闘争であり、相互規定的に発展するものだと考えている。」マルクス主義労働法学者としての沼田は、それゆえ、階級的労働運動を支えるべき現場の労働者たちの権利感情や権利意識に寄り添おうとします。欧米の労働法学理論を勉強した近代主義的労働法学者たちが、ウェッブ夫妻の『産業民主制論』を初めとする欧米労働運動のテキストブックの筋道に則ってあるべき労使関係を論じ、結果的に日本の現実の労働運動のやり方に対して極めて批判的なまなざしになるのに対して、沼田は現実の労働運動のメンタリティに徹底的に寄り添おうとします。しかし、その結果浮き彫りになってくるのは、マルクス主義者沼田が期待したのとは似ても似つかぬ異相の労働者感覚なのです。
「敗戦後、盛り上がった大衆運動は、戦争とファシズムの被害者たる勤労大衆の破壊された生活からの要求をもったものであり、「戦前の日本」の否定の原理として民主主義の旗をかざした。暗黒の殿堂が占領軍の一陣の風によって崩壊し去ったあと、大衆運動は自由の光の中を進み得た。」(p63)と礼賛するそのすぐ後ろから、次のようにその実相が描き出されます(p64~66)。
「大衆運動の主体たる勤労大衆の組織は、敗戦後急速に結成せられたが、その支配的意識の社会主義的な性格にもかかわらず、組合員大衆の直接的な規範意識にはなお抜きがたい日本的国家主義と前期的家父長制的残滓とが絡みついていた。激しい生産管理戦術の中にも一面に社会主義的意識がみられると同時に、事業報国と事業一家の意識もみられたのである。労働組合の組織自体が、職域奉公せしめられた戦争被害者集団の組織としてまさにデモンストレーションの主体であったと同時に、職場集団の組織として日常的経済的機能を職場単位ないし企業単位において営むものであった。」
「組合の結成がいわば産業報国会の裏返しのような形-指導した者が軍部を背景とした経営者であったか、占領軍を背景とした組合幹部であったか、のちがいであり、むしろ産報化の過程と似て多くは「大勢順応」であった-で行われたのである。大衆は自ら団結したというより、団結への同調者といった意識によって、企業の中に組合という制度を作り、執行部に運営を依託したのだといっても過言ではないだろう。」
3 産業報国意識ゆえの生産管理闘争
終戦直後日本における生産管理闘争という異相の争議手段は、ブルジョワ法の観点から見れば資本家の私的所有権に対するあからさまな侵害以外の何物でもないですし、プロレタリア革命の観点からしても資本主義転覆と共産主義実現への橋頭堡と評価される英雄的な行動のはずですが、肝心の生産管理闘争をやっていた現場の労働者たちにとっては、まったく違う文脈に位置付けられるものだったのです。それを、当の左翼労働運動応援団の右代表であった沼田稲次郎がこう明確に述べています(p214~)。
「戦後日本において労使関係というもの、あるいは経営というものがどう考えられているかということ、これは法的意識の性格を規定する重要なファクターである。敗戦直後の支配的な規範意識を考えてみると、これにはたぶんに戦争中の事業一家、あるいは事業報国の意識が残っていたことは否定できないと思う。生産管理闘争というものを、あれくらい堂々とやれたのは極貧状態その他の経済的社会的条件の存在によるところにちがいないが、またおそらくは戦時中の事業報国の意識の残存であろうと思われる。事業体は国に奉仕すべきだという考えかた、これが敗戦後は生産再開のために事業体は奉仕すべきだという考え方になった。観念的には事業体の私的性格を否定して、産業報国とそれと不可分の“職域奉公”という戦時中の考え方が抽象的理念を変えただけで直接的意識として労働関係をとらえた。」
「すると、その経営をいままで指導していた者が、生産サボタージュのような状態をおこしたとすれば、これは当然、覇者交替だったわけで、組合執行部が、これを握って生産を軌道にのせるという発想になるのがナチュラルでなければならない。国民の懐いておった経営観というものがそういうものであった、経営というものは常に国家のために動いておらねばいけないものだ。しかるにかかわらず、経営者が生産サボをやって経営は動いておらない。これはけしからん。そこで組合は、われわれは国民のために工場を動かしているんだということになるから、生産管理闘争というものは、与論の支持を受けたわけでもあり、組合員自身が正当性意識をもって安心してやれたということにもなる。」
なんと、法学インテリやマルクス主義インテリの目にはとんでもないor素晴らしい行動と映った生産管理闘争とは、戦時中の産業報国意識が余りにも強烈に労働者の精神に染み込んでいたがゆえに、あまりにも当たり前の行動様式として自然に選択されたものであったというわけです。資本主義の根幹を揺るがす革命的行動であるどころか、戦時中の産業戦士の意識がそのまま露出したに過ぎなかったのです。
もちろん沼田は、「当時は共産党の指導していた産別会議時代だから、生産管理戦術には工場ソヴイエト的な考え方が流れていたかもしれない。あるいは、工場ソヴイエト的な考え方と、事業一家、職域奉公の意識が結びついて、一種独特な経営像がなりたったといえるのかもしれない」(p217)と、マルクス主義インテリ的な視角も否定してはいません。しかし、それは所詮、現場労働者の即自的意識とは乖離したものに過ぎなかったようです。
4 日本的労使慣行を支える産業報国意識
この戦時中から脈々とつながる産業報国意識が、特殊戦後日本的なさまざまな労使慣行を生み出し、正当化していくことになります。本連載の最初でウェッブ夫妻の『産業民主制論』を引いて、そもそも日本人の考える「団体交渉」というものが、いかに本来のコレクティブ・バーゲニング(集合取引)と隔絶したものであるかを説明しましたが、その根源は実にここにあったわけです。
「たとえば組合専従制というもの、しかも組合専従者の給与は会社がまるまる負担する。組合が専従者を何人きめようが、これは従業員団であるところの組合が自主的にきめればいいわけである。また、ストライキといっても、労働市場へ帰って取り引きする関係としてよりも、むしろ職場の土俵のなかで使用者と理論闘争や権力の配分を争う紛争の状態と意識されやすい。経営体としてわれわれにいかほどの賃金を支払うべきであるかという問題をめぐって経営者と議論をして使用者の言い分を非難する-従業員としての生存権思想の下に-ということになる。課長以下皆組合に入っており、経営者と談判しても元気よくやれた。ときには、「お前らは戦争中うまいことやっていたじゃないか」というようなこともいったりして、経済的というよりもむしろ道義的な議論で押しまくった。団体交渉の果てにストライキに入ると、座り込んで一時的であれ、職場を占拠して組合の指導下においてみせる。そして、経営者も下手をすれば職場へ帰れないぞという気勢で戦ったということであろう。だから職場占拠を伴う争議行為というものは、一つの争議慣行として戦争直後は、だれもそれが不当だとは考えておらなかった。生産管理が違法だということさえなかなか承服できなかった。職場、そこはいままで自分が職域奉公していた場所なのだから、生産に従事していた者の大部分がすわり込んで何が悪いのか。出ていけなんていう経営者こそもってのほかだという発想になる。」(p216-217)
GHQと日本政府は1948年から49年にかけて、経済9原則やドッジプラン、労働組合法全面改正、さらにはレッドパージといった政策手段を駆使して、こうした過激な労働運動を叩きつぶしにかかります。こうして生産管理闘争自体は終戦直後の一時期のエピソードとして歴史の中に埋もれていきましたが、その根幹を支えていた産業報国意識はその後もさまざまな労使慣行の中に生き残り続けます。それは一つには経営側がそれを完全に破壊し、欧米型のコレクティブ・バーゲニングに移行することを忌避したからです。沼田はこう語ります(p219~)。
「しかしここで徹底的に従来の慣行を打ち破るとなると労働組合を本当に対立者に追いやることになる。それは資本にとっても困った形でもあった。そこに特有な妥協点が出た。たとえば、在籍専従制度の定着、チェック・オフの慣行化、組合事務所の貸与、就業時間中のある程度の組合活動などである。つまり完全には労、使の立場を峻別し得ない。そこまでやってしまえば、今度は組合が横断組織になって団体交渉に乗り込んでくるかもしれない。少なくとも経営者の一番嫌いな職業的幹部が乗り込んでくることになる。これをなんとかして抑えておきたい。うちの組合との話合いというこの戦後的なムードのなかでつくり上げられてきた、そういう慣行だけは有利に使いたかったということにほかならない。」
5 日本的労使慣行の岩盤
こうして生み出された修正型日本的労使慣行は、1949年改正労組法が掲げる欧米型労使関係モデルと、産業報国会の延長線上に終戦直後確立した生産管理型労使関係モデルとの奇妙なアマルガムとなりました。ある一つの原理できちんと説明しようとしても説明しきれない日本的労使慣行の岩盤は、この時期の労使双方の暗黙の密約によって生み出されたというべきなのかもしれません。沼田は淡々とこう述べていきます(p239)。
「かなり権力的に行われた法の改正によって予想したとおりの労使関係に現実は必ずしもついてこないで、労働慣行によってうめられるべきギャップの存するのは避けがたかった。労組法は一応労使の立場ははっきり別のものだというけれども、組合が企業の枠を超えた組織になっておらない。従業員団の範囲を超えた労働者仲間の立場が現実の意識にのぼってこない。その上ドッジ・ラインで、企業の格差が出てきた。そして嵐のごとく企業整備がなされた。かかる現象のなかで、労働者が企業にしがみついたのは当然であろう。超企業的組織によって生活の基盤が支えられていないとすれば、労働者は企業第一主義、企業エゴイズムに傾くのもさけがたいことであり、使用者もそのような意識を利用した。」
その結果残ったのは例えば在籍専従制度です。もちろん、労働組合法が明確に「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助を受けるもの」は労働組合ではないと定義している以上、組合専従者の給与を会社が負担するという慣行は(少なくとも表面からは)なくなりましたが、実態としては「やみ専従」がけっこう存在していました。また、組合費を会社が組合に代わって徴収してあげるチェック・オフ制度も、本来「むしろ奇異な慣行」なのに、「なんの不自然も意識されないで、むしろ当然のこととして」定着したのも、それが従業員団以外の何物でもなかったからでしょう。
しかしさらに考えれば、もしそれが(自発的な団結体である労働組合ではなく)職場の共有を根拠とする従業員団であるならば、その専従者の人件費が会社の負担であり、その運営費が会社の負担であることになんのおかしさもないはずです。実際、ドイツやフランスなど大陸欧州諸国の従業員代表制度はそうなっています。ただ、それら従業員代表制度は労働組合ではなく、それゆえ団体交渉や労働争議をやる権限がないだけです。それらは産業レベルで結成されている労働組合の専権事項だからです。
と考えると、企業別組合が(本来のあるべき労働組合像から乖離しているとしてやましさを抱えながら)堅持してきたこれら日本的労使慣行は、その主体が労働組合だということになっているがゆえに異常に見えるだけで、企業別組合とは産業報国会を受け継ぐ従業員団であって、コレクティブ・バーゲニングを行うトレード・ユニオンなんかではないと割り切れば、まったく正常な事態であったとも言えます。もちろん、組合自身が「企業別組合は労働組合に非ず」なんて言えるわけはないのですが。
皮肉なのは、認識論的にはここまで企業別組合の実相を残酷なまでに抉り出している沼田が、実践論的にはその従業員団たる組合の権利闘争を懸命に唱道していることです。本書のタイトル自体がそのスタンスを示していますが、500ページを超える本書は(今回取り上げたごく僅かな歴史認識にかかる部分を除けば)、ほぼ全ての紙数を費やして、点検闘争、遵法闘争、保安闘争、抗議スト、協約・メモ化闘争等々、既に終戦直後の勢いを失って久しい企業別組合に対して、いちいち使用者側に因縁を付け、喧嘩をふっかけるようなたぐいの「闘争」を訴えています。
確かに、トレード・ユニオンではない従業員団がその唯一の居場所たる職場で「闘争」をしようとすれば、(企業倒産の瀬戸際といった特殊な状況下でもない限り)こうした家庭争議的なチンケな闘争手段に走るしかないのでしょう。しかし、そんなことを繰り返せば繰り返すほど、そのいうところの「階級的」労働運動の勢力の縮小消滅に大きく貢献したことは間違いないと思われます。沼田らのプロレーバー労働法学とは、企業別組合がトレード・ユニオンらしい行動が取れず、従業員団でしかないことを(近代主義派労働法学と異なり)懸命に弁証しつつ、その従業員団に(西欧諸国の従業員代表制とは正反対に)職場闘争をけしかけるという矛盾に満ちた存在でした。
しかしその結果生み出されたのは、企業を超えたコレクティブ・バーゲニングを遂行するトレード・ユニオンも存在しなければ、チンケな職場闘争を繰り返す「反逆型」従業員団もほとんど消滅し、争議などとは無縁のもっぱら労使協議に勤しむ(そこだけ見れば西欧の従業員代表と同様の)「忠誠型」従業員団だけによって構成される「片翼だけの労使関係」だったのです。
もっともそれは、生産管理闘争華やかなりしころに既に見えていた姿だったのかもしれません。先に、「法学用語とマルクス用語がちゃんぽんになったアジビラ風の議論」と評した若き沼田稲次郎の『生産管理論』の一節のすぐ後は、こう続いていました。「このように生産管理は労働階級には武器を与え、資本家からはそれを奪うことになるが、さらに、これによって労働者は当面の争議における武器以上のものを体験する。それは職場における実践の統一性に基づいて、労働者に階級的共感を昂め、団結を強化する。しかも、技術者や事務職員と労働者との結集をも深めるのみならず、自らも亦工場の経営や各方面の技術を修得する動機を与える。」そう、終戦直後の生産管理闘争とは、ブルーカラーとホワイトカラーがともに「社員」としての自覚を持ち、企業経営や技術革新に必死で取り組んでいこうとする戦後日本的雇用システムの原点だったのです。
最近のコメント