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2024年1月27日 (土)

ドロサヨ(泥臭左翼)の時代

2024012600010009huffpost0001view 「桐島、逃亡生活やめるってよ」というニュースが駆け巡った一日でしたが、彼が関わっていた「東アジア反日武装戦線」の爆弾事件はちょうど私の高校生時代で、あれからほぼ半世紀が経ったんだな、という感慨が湧いてきます。

そして、この頃のこういう動きが、左翼というのをそれまでの近代的、科学的な指向のイデオロギーから、それとはむしろ真逆の、反近代的、反科学的な指向のものと受け止める考え方の構えが一般化していったのだな、と思い返されます。

このあたり、もう10年以上も前に、演歌の本をめぐってこんなことを書いたことがありました。

新左翼によって「創られた」「日本の心」神話

わたくしの観点から見て、本書が明らかにしたなかなか衝撃的な「隠された事実」とは、演歌を「日本の心」に仕立て上げた下手人が、実は60年代に噴出してきた泥臭系の新左翼だったということでしょうか。p290からそのあたりを要約したパラグラフを。

いいかえれば、やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、それゆえに見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった、ということです。

昭和30年代までの「進歩派」的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。

この泥臭左翼(「ドロサヨ」とでも言いましょうか)が1960年代末以来、日本の観念構造を左右してきた度合いは結構大きなものがあったように思います。

そして、妙な話ですが、本ブログではもっぱら「リベサヨ」との関連で論じてきた近年のある種のポピュリズムのもう一つの源泉に、この手のドロサヨも結構効いているのかも知れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-9d19.html(「マージナル」とはちょっと違う)

それまでの多数派たる弱者だったメインストリームの労働者たちが多数派たる強者になってしまった。もうそんな奴らには興味はない。そこからこぼれ落ちた本当のマイノリティ、本当の「マージナル」にこそ、追究すべき真実はある・・・。

言葉の正確な意味における「マージナル」志向ってのは、やはりこの辺りから発しているんじゃなかろうか、と。とはいえ、何が何でも「マージナル」なほど正しいという思想を徹底していくと、しまいには訳のわからないゲテモノ風になっていくわけで。

それをいささかグロテスクなまでに演じて見せたのが、竹原阿久根市長も崇拝していたかの太田龍氏を初めとするゲバリスタな方々であったんだろうと思いますが、まあそれはともかくとして。

(追記)

上で、「ドロサヨ」などという言葉を創って、自分では(「泥臭」と「左翼」という違和感のある観念連合を提示して)気の利いたことを言ってるつもりだったのですが、よくよく考えてみると、それはわたくしの年齢と知的背景からくるバイアスであって、世間一般の常識的感覚からすれば、むしろ、上で「ゲテモノ」とか「グロテスク」と形容した方のドロサヨこそが、サヨクの一般的イメージになっているのかも知れませんね。少なくとも、高度成長期以降に精神形成した人々にとっては、左翼というのは泥臭くみすぼらしく、みみっちいことに拘泥する情けないたぐいの人々と思われている可能性が大ですね。

・・・・・・

高度成長後の日本においては、「左翼」というのはこの上なく自由主義的で福祉国家を敵視するリベサヨか、辺境最深部に撤退して限りなく土俗の世界に漬り込むドロサヨか、いずれにしてもマクロ社会的なビジョンをもって何事かを提起していこうなどという発想とは対極にある人々を指す言葉に成りはてていたのかも知れません。

改めて考えてみれば、「東アジア反日武装戦線」なんて看板は、ナショナリズムとショービニズムとネイティビズムに充ち満ちたイデオロギーであって、ただ一つ異様なのは、日本人の一員である彼らがそれを民族的憎悪の対象とするという点にのみ存するということでしょう。そういうベクトルの向きだけ逆さに付け替えた極右思想を、過去半世紀の日本人は「左翼」だと思い込んできたわけです。

 

 

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コメント

>改めて考えてみれば、「東アジア反日武装戦線」なんて看板は、ナショナリズムとショービニズムとネイティビズムに充ち満ちたイデオロギーであって、ただ一つ異様なのは、日本人の一員である彼らがそれを民族的憎悪の対象とするという点にのみ存するということでしょう。そういうベクトルの向きだけ逆さに付け替えた極右思想を、過去半世紀の日本人は「左翼」だと思い込んできたわけです。

 hamachan先生のおっしゃることは全くその通りだと思います。
 反日武装戦線をアナキストと言う人がいますが、全然違うと思います。
 アナキスト=テロリストではないですし、アナキストは連帯を重視しているはずです。
 反日武装戦線は現在のイスラム過激派に見られるローンウルフ型テロリストの先駆けと言っても良いと思います。

 戦前弾圧されて息の根をひそめていたはずの「左翼」が戦後、占領下で一気に増えたのは戦前の「右翼」が皇国史観からマルクス主義へ看板を架け替えただけで、その精神構造は変わらないまま「左翼」に形だけ転向したからではないでしょうか。
 

東アジア反日武装戦線については、行動自体が許されるわけではないのは当然ですが、その組織論には着目してもよいのではないでしょうか。というのもアフィニティ・グループの組織論をとっているからです。
東アジア反日武装戦線は多くの組織に当てはまるピラミッド型の中央集権制ではなく、離脱の自由を認めたヒエラルキーなき人間関係を志向していました(だからこそ同志殺しを行っていない、党大会で代表者から罵詈雑言を浴びせられることもない)。
例えば2003年公開「踊る大捜査線 THE MOVIE2レインボーブリッジを封鎖せよ!」の犯人は「リーダーがいない。誰かが命令して誰かが従うのではない。参加者全員に意思決定権がある。目的だけを共有し、あとは各自が判断する」といった行動原理をもつグループであり、東アジア反日武装戦線と酷似しています。警察のような典型的なピラミッド型組織とは正反対です。
ピラミッド型組織が本当によいのか、アフィニティ型組織から学べることはあるのか、企業経営を考えるにあたっても重要な視点だと考えます。

日本語の看板しかないなら、日本人を相手にした商売でしかない。戦「線」ならぬ戦「点(東京だけ)」でしょ。組織論て言うなら、組織化のノウハウを見せなさいよ、東アジア現地語で。

組織化で言うのであればアラブへ高飛びした日本赤軍と言うのがありましたね。
日本赤軍のリーダーだった重信房子の父は右翼団体のメンバーだったそうで、彼女も父に相当な影響を受けたそうです。
彼女もまた「看板だけ架け替えた」精神構造は右翼なままの左翼ではないでしょうか。

balthazarさんのご見解には少々異論があります。
アナキズムといっても多様であって、友愛や連帯を重んじテロリズムには否定的なのはクロポトキンからプルードンの系譜を受けたアナキズムであり、
バクーニンなどの系譜は個人主義やテロリズムを否定しているわけではないでしょう。そちらの系譜に通ずるところがあるとみれば東アジア反日武装戦線もアナキズムの潮流の一つとして理解されてもおかしくないと思います。
また日本でも戦前単身決起でテロリズムを敢行した難波大介のようなアナキストがいたわけですし、ローンウルフ型テロリストの先駆けという規定もおかしいと思います。少数による陰謀的なテロリズム自体は昔から珍しいものでもなかったと思いますが。

希流さん

私が東アジア反日武装戦線に厳しい見方を取るのは、私の父が勤務していた企業が東アジア反日武装戦線に最初に狙われた企業だったからです。
亡くなった桐島容疑者が起こしたものではなく、大道寺将司らが起こしたものですが。
私の父はその企業の関連会社に入り、事件の少し後に転籍したようです。
事件現場の本社にはその1年後ぐらいに異動になったと父から聞いています。

一度だけ父が東アジア反日武装戦線について「馬鹿な奴らだ」と激しく怒っていたことを覚えています。
もしかしたら事件に遭遇した同僚と事件の事について会話をしたのかもしれません。

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