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2023年12月16日 (土)

職業レリバンスとは社会構造である

もう百万回以上繰り返してきた話のような気がしますが、でも社会に出ようとしている若者にとっては、その都度我が身に降りかかってくる問題なのでしょうね。

https://togetter.com/li/2276249

大学で民俗学やって、一般教養で美術史とか美学とか歴史とか取りまくって、フル単どころか超過しててもうめちゃくちゃ勉強楽しかったんだけど、就活のときに「あなたが大学でやってきたことが我が社にどう役立ちますか?」って質問されて、「えっ、役立たないとあかんもんなの」とショックを受けて

そりゃ技術職なら専門学校とか大学でやってきたことを活かしたいですって言えるのかもしれんけど、ただの一般大学の文系学部で興味あることだけワーッと勉強してきたって、そんなもん仕事に活かせるわけないじゃん、精々「雑学王」みたいな…、営業マンになるための勉強とか一切してないんだもん・・・・・

この件については、20年近く前から山のようなエントリがいっぱいあって、このブログで「レリバンス」で検索したら30以上の記事がぞろぞろ出てくるはず。

ここでは、伝統的な日本型雇用システムの下では、そういういかにも文化系のいかにも役に立たなさそうなものこそが就職に直結するシグナルになっていたというはなしを再掲しておきましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-2313.html


就職に強いといえば、かつての女子短大は最強でした。四年制大卒女子が軒並み土砂降りで泣き濡れているときでも、すいすいといくらでも就職できたのです。それも、なまじ栄養学科なんていう仕事に役立てようなんて色気のありそうなところじゃなくって、英文科とか国文科とか、絶対に職業人としてやっていく気なんてこれっぽっちもありませんから、と言わんばかりなところのほうが就職率は良かったわけです。

それは極めて明快な理由であって、男女異なる労務管理がデフォルトルールであった時代には、一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますというメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。

現実の社会構造の中で、それが会社への入口で高く評価される以上、それも立派な職業的レリバンスに違いありません。だから多くの十代の女子たちは、自らの将来設計を冷静に冷徹に見据えた上で、そういう意思決定をしていたわけです。そしてそれは(少なくとも入口では)確かにペイするものでありました。

ところが、1990年代に舞台設定ががらりと変わり、それまでいくらでも採用してくれていた女子短大というレーベルが、とりわけ英文科とか国文科といった定番のレーベルが、一番お呼びでないものになってしまいました。文系男子と同様、ばりばり会社のために無限定に働きますというメッセージを発する文系女子のレーベルは、それまで可愛くないと忌避されてきた法律経済系の四大卒に変わってしまったわけです。もちろん、それだって、どのジョブのどのスキルとはなんの関係もない「意欲」と「能力」の指標でしかないわけですが、求められる「意欲」と「能力」ががらりと変わってしまった以上、そっちが職業レリバンスのあるシグナルであることはどうしようもありません。

その時期に、女子短大英文科の教授氏が、なぜ日本社会は(俺様の教える)英文学の価値を理解しなくなったのだ、などと悲憤慷慨してみても、あんまり意味がない、というのと、まあよく似た話だと言うことですね。

なお、哲学・文学といった分野について、もう少し真っ正面から論じたのはこちらです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html

平家さんの「労働・社会問題」ブログで、大学教育の職業レリバンスをめぐって平家さんと私との間にやりとりがありました。これのもともとは、本田由紀先生のブログのコメント欄におけるやりとりです。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060327

この日のエントリーで、本田先生は例によって「大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか」云々という文章を引いて、大学教育の職業レリバンスの重要性というご自分のテーマを強調されていたわけですが、これに対するコメント欄において、「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、「哲学や国文でも、たとえばその学部・学科を出られた方がどんな仕事や活動に従事しており、学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育を提供することはできると思うのです。それと同時に、ある分野に関するメタレベルの認識を与えることが教育において常に意識される必要があると思います。たとえば国文ならば、文学や「言葉」とは人間にとっていかなる意味をもっているのか、それを紡ぎ出す出版や編集、マスメディアの世界にはどのような意義と陥穽があるのか、といったようなことです。いずれにしても、今を生きる人間の生身の生にかかわらせることなく、ただ特定の知識を飲み込め、というスタンスで教育がなされることには問題があると思います」と。

これは「通りすがり」氏の皮肉な口調に対する対応としては、あまりにも正面から受け答えされ過ぎたとも言えますし、逆に、通りすがり氏の無遠慮なものの言い方に変に遠慮して、本来のご自分の職業レリバンス論の意義を失わせるような後退をされたのではないかという印象も受けます。

このやり取りに対して、平家さんがご自分のブログで、やや違った観点からコメントをされました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_6.html

ここで平家さんが言われているのは、「大学のどのような学部であっても、学生に社会人として意味のあるスキル、能力を身につける機会を提供することは可能」であり、「それは「その主張の根拠を明示して、自分の主張を明確に述べるスキル」である、「哲学など人文科学系の学部は、むしろこういう教育に向いているのではないでしょうか」ということです。

これに対して、私は話がおかしくなっているのではないかと感じました。その旨を当該エントリーへのコメント欄に次のように書き込みました。

あえて、手厳しい言い方をさせていただければ、それは問題の建て方が間違っているのではないでしょうか。ここで言われているのはあくまで「職業的レリバンス」であって、そういう「人間力」的な話ではないはずです。いや、もちろん、そういう自己主張能力的なスキルは大事ですよ、でも、そのために哲学や文学をやると言うことにはならない。それは哲学や文学のそれ自体としての意義(即自的レリバンスとでもいいますか)に対してかえって失礼な物言いでしょう。それに、おそらく、ロースクールあたりで現実の素材を使ってやった方が、もっと有効でしょう。

問題は、大学教育というものの位置づけそれ自体にあるのではないでしょうか。学校教育法を読めばわかりますが、高校も高専も、短大も、大学院ですら、「職業」という言葉が出てきますが、大学には出てこないんです。職業教育機関などではないとふんぞり返っているわけですよ、大学は。実態は圧倒的に職業人養成になっているにもかかわらず。
冷ややかに言えば、哲学や文学をやった人のごく一部に大学における雇用機会を提供するために、他の多くの人々がつきあわされているわけです、趣味としてね。いや、男女性別役割分業のもとでは、それはそれなりに有効に機能してきたとは言えます。しかし、もはやサステナブルではなくなってきた、そういうことでしょう。

特に後半はかなり舌っ足らずなので、大変誤解を招きかねない表現になっていますが、前半でいってることは明確だと思います。ただ、話が本田先生のブログから始まっただけに、私が本田先生の立場に立ってものを言っているという風に誤解されてしまった嫌いがあるようです。

平家さんは翌々日のエントリーで、

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_8.html

「私としては、問題を発展させたという意識です」と言われています。それはそうなんですよ。もとの本田先生のコメント自体が、哲学や国文にも職業レリバンスを見つけようという(どこまで本気かはわかりませんが)姿勢で書かれていますから。私としては、そういう回答の仕方自体が、「問題の建て方が間違っている」と言いたかったわけです。本田先生自身が自分の主張を裏切っているのではないか、と言っているのです。

いや、もちろん、これは「職業レリバンス」なる言葉の定義をどうするかということに最後は至りつくのです。しかし、こういう本田先生のコメントや、それを発展させた平家さんのコメントの方向性というのは、結局、職業レリバンスというものを、現実の労働市場から引き離し、何やら抽象的な「メタレベルの認識」だの、「人間にとっていかなる意味」だの、いやもちろん大いに結構ですよ、大いにおやりになればよい、私も大好きだ、趣味としてね、しかしそういう観念的な世界に持ち出すだけではないかと言いたかったわけです。

実際、本田先生のコメントや平家さんのコメントに見られるのは、まさに本田先生が「言うな!」と叫んでおられる「人間力」そのものではありませんかね。私は、実は人間力なるものはそれなりに大事だと思うし、「言うな!」とまで叫ぶ気はありませんが、少なくとも「職業レリバンス」が問題になっているまさにその場面で、そういう得体の知れない人間力まがいを提示するというのはいかがなものか、と言わざるを得ません。ご自分の主張を裏切っているというのはそういうことです。

上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

(追記)

あり得べき誤解を避けるため、平家さんのブログのコメント欄に以下のようなコメントを追加しておきました。

私は、個人的には哲学や文学は好きです。特に、哲学は大好きといってもいい。「哲学者や文学者も生かして置いた方が豊かな生活が送れる」と思っています。そして、そういう人々を生かしておくためには、「哲学や文学を教える」役割の人間を一定数社会の中に確保しておくことが重要であろうと考えています。問題は、それを”制度的に”「教えられる」側の人間の職業生涯との関係で、それをどう社会的に調整すべきかということです。
「性別役割分業の下での有効性のお話」は、そういう意味合いで申し上げたことです。

 

 


 

 

 

 

 

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コメント

 最近の「教養」ブームなるものは、「そりゃ技術職なら専門学校とか大学でやってきたことを活かしたいですって言えるのかもしれんけど、ただの一般大学の文系学部で興味あることだけワーッと勉強してきたって、そんなもん仕事に活かせるわけないじゃん、精々「雑学王」みたいな…、営業マンになるための勉強とか一切してないんだもん・・・・・」と言う人たちの自分たちのしてきた勉強を無駄にしたくない、と言う思いの現われなのでしょうか。
 しかし「教養」を謳い文句にしたあるコミュニティではやたら中途半端な知識をひけらかしてマウントする人たちばかり跋扈しておりましたが(^^;

 そもそも明治以降の戦前の「教養」なるものはエリートの必須要件として身に付けるべきものとされていましたね。
 もっとも一方で「教養」のあるエリート層が読むべきものと考えられたであろう日本の近代文学では漱石先生の作品が「高等遊民」の日常を書いたもの、と言うスタイルが多かったのはどういうことなのか、と思いますけれども(^^;

有用なのに「家庭科」の存在感が薄い理由
障壁となる「旧世代のジェンダー観」と「受験」
https://toyokeizai.net/articles/-/721158

まあ、学校は、「職業レリバンス」における生徒達の上昇(今の場合は、「受験」)に関心がある、ということでしょう。
ジェンダー観の方は、むしろ、それは変わって来たけど、システムはそれに合わせて急に変わらないということでしょう。

昔は、まさに、専業主婦を職業として、「職業レリバンス」を上昇させるものとして、機能していたのかもしれませんね。
兼業主婦、及び、兼業主夫がメインストリームになれば、自然に変わるんだと思いますけどね。

>就活のときに「あなたが大学でやってきたことが我が社にどう役立ちますか?」って質問されて、「えっ、役立たないとあかんもんなの」とショックを受けて

会社への就職の際に、”会社の役に立たないと就職できないのか?”とショックを受ける人はジョブ型社会でもメンバーシップ型社会でも就職できないと思います。私は、”会社の役に立たないとその会社に就職できない”という事にショックを受ける人やそれに賛同する人が存在する事にショックを受けました。会社への就職(就社)はカルチャースクールへの入学とは異なると思います。
  大学の勉強さえちゃんとやっておけば他の事は何も考えなくても就職できるべきだ(就職できるよう周囲が配慮すべきだ)
と考える人がいるのは、中学や高校では学校の勉強さえちゃんとやっておけば他の事は何も考えなくても高校や大学に進学できた事が影響しているのでしょうか?


>伝統的な日本型雇用システムの下では、そういういかにも文化系のいかにも役に立たなさそうなものこそが就職に直結するシグナルになっていた
>就職に強いといえば、かつての女子短大は最強でした。

伝統的な日本型雇用システムの下で就職に強い所として女子短大の他に大学体育会があったと思います。全盛期には体育会の部員は答案用紙に名前と所属する部名("野球部", "ラグビー部"等)を書けば卒業でき成績の良い学生より就職で有利だったそうです(都市伝説?) 
体育会系の運動部では、部員は上司(監督, コーチ)や先輩の指示には無条件に全力で取り組まなければなりません。会社にとって、このような体育会の環境に順応してきた事は文系理系や勉強してきた事が役に立つか立たないかより就職に直結するシグナルだと思います。


>あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。

最近の新聞に ”別れても好きな人” というデュエット曲を歌った男性歌手の訃報記事がありました。
その中で50代の女性が、
 当時はカラオケで上司がこの曲をリクエストしたら、さっとマイクを握って上司に寄り添うのが若手女子社員の心得でした
と述べていました。

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