hamachanブログ2023年ランキング発表
まだ年末までに半月ありますが、そろそろ今年の総決算ということで、本ブログの2023年ランキングを発表します。
まず第1位は、これは正直やや意外でしたが、7月の「ナチス「逆張り」論の陥穽(再掲) 」でした。これはそもそも昨年のランキングで第3位になった記事ですが、昨年は朝日新聞の耕論に対するコメントだったのを、今年田野さんの本が出て話題になっていたので再掲したものです。
私はそもそもこの問題をナチス側からではなくナチスに叩き潰された社会民主党や労働組合の側から見ているので、こういう感想にならざるを得ないのです。
ナチス「逆張り」論の陥穽(再掲)(ページビュー数:5,905)
最近、田野さんの本が話題になっているということなので、この点はきちんと明確にしておかなければならないと思い、昨年のエントリをそのまま再掲することにしました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-ed416b.html
昨日の朝日新聞の15面に、「逆張りの引力」という耕論で3人が登場し、そのうち田野大輔さんが「ナチスは良いこともした」という逆張り論を批判しています。
https://www.asahi.com/articles/ASQ5S4HFPQ5SUPQJ001.html
私が専門とするナチズムの領域には、「ナチスは良いこともした」という逆張りがかねてより存在します。絶対悪とされるナチスを、なぜそんな風に言うのか。私はそこに、ナチスへの関心とは別の、いくつかの欲求があると感じています。
ナチスを肯定的に評価する言動の多くは、「アウトバーンの建設で失業を解消した」といった経済政策を中心にしたもので、書籍も出版されています。研究者の世界ではすでに否定されている見方で、著者は歴史やナチズムの専門家ではありません。かつては一部の「トンデモ本」に限られていましたが、今はSNSで広く可視化されるようになっています。・・・正直、いくつも分けて論じられなければならないことがややごっちゃにされてしまっている感があります。
まずもってナチスドイツのやった国内的な弾圧や虐殺、対外的な侵略や虐殺といったことは道徳的に否定すべき悪だという価値判断と、その経済政策がその同時代的に何らかの意味で有効であったかどうかというのは別のことです。
田野さんが想定する「トンデモ本」やSNSでの議論には、ナチスの経済政策が良いものであったことをネタにして、その虐殺や侵略に対する非難を弱めたりあわよくば賞賛したいというような気持が隠されているのかもしれませんが、いうまでもなくナチスのある時期の経済政策が同時代的に有効であったことがその虐殺や侵略の正当性にいささかでも寄与するものではありません。
それらが「良い政策」ではなかったことは、きちんと学べば誰でも分かります。たとえば、アウトバーン建設で減った失業者は全体のごく一部で、実際には軍需産業 の雇用の方が大きかった。女性や若者の失業者はカウントしないという統計上のからくりもありました。でも、こうやって丁寧に説明しようとしても、「ナチスは良いこともした」という分かりやすい強い言葉にはかなわない。・・・
ナチスの経済政策が中長期的には持続可能でないものであったというのは近年の研究でよく指摘されることですが、そのことと同時代的に、つまりナチスが政権をとるかとらないかという時期に短期的に、国民にアピールするような政策であったか否かという話もやや別のことでしょう。
田野さんは、おそらく目の前にわんさか湧いてくる、ナチスの悪行をできるだけ否定したがる連中による、厳密に論理的には何らつながらないはずの経済政策は良かった(からナチスは道徳的に批判されることはなく良かったのだ)という議論を、あまりにもうざったらしいがゆえに全否定しようとして、こういう言い方をしようとしているのだろうと思われますが、その気持ちは正直分からないではないものの、いささか論理がほころびている感があります。
これでは、ナチスの経済政策が何らかでも短期的に有効性があったと認めてしまうと、道徳的にナチにもいいところがあったと認めなければならないことになりましょう。こういう迂闊な議論の仕方はしない方がいいと思われます。
実をいうと、私はこの問題についてその裏側から、つまりナチスにみすみす権力を奪われて、叩き潰されたワイマールドイツの社会民主党や労働組合運動の視点から書かれた本を紹介したことがあります。
連合総研の『DIO』2014年1月号に寄稿した「シュトゥルムタール『ヨーロッパ労働運動の悲劇』からの教訓」です。
https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio289.pdf
・・・著者は戦前ヨーロッパ国際労働運動の最前線で活躍した記者で、ファシズムに追われてアメリカに亡命し、戦後は労使関係の研究者として活躍してきた。本書は大戦中の1942年にアメリカで原著が刊行され(1951年に増補した第2版)、1958年に邦訳が岩波書店から刊行されている。そのメッセージを一言でいうならば、パールマンに代表されるアメリカ型労使関係論のイデオロギーに真っ向から逆らい、ドイツ労働運動(=社会主義運動)の悲劇は「あまりにも政治に頭を突っ込みすぎた」からではなく、反対に「政治的意識において不十分」であり「政治的責任を引き受けようとしなかった」ことにあるという主張である。
アメリカから見れば「政治行動に深入りしているように見える」ヨーロッパ労働運動は、しかしシュトゥルムタールに言わせれば、アメリカ労働運動と同様の圧力団体的行動にとどまり、「真剣で責任ある政治的行動」をとれなかった。それこそが、戦間期ヨーロッパの民主主義を破滅に導いた要因である、というのだ。彼が示すのはこういうことである(p165~167)。・・・社会民主党と労働組合は、政府のデフレイション政策を変えさせる努力は全然行わず、ただそれが賃金と失業手当を脅かす限りにおいてそれに反対したのである。・・・
・・・しかし彼らは失業の根源を攻撃しなかったのである。彼らはデフレイションを拒否した。しかし彼らはまた、どのようなものであれ平価切り下げを含むところのインフレイション的措置にも反対した。「反インフレイション、反デフレイション」、公式の政策声明にはこう述べられていた。どのようなものであれ、通貨の操作は公式に拒否されたのである。
・・・このようにして、ドイツ社会民主党は、ブリューニングの賃金切り下げには反対したにもかかわらず、それに代わるべき現実的な代案を何一つ提示することができなかったのであった。・・・
社会民主党と労働組合は賃金切り下げに反対した。しかし彼らの反対も、彼らの政策が、ナチの参加する政府を作り出しそうな政治的危機に対する恐怖によって主として動かされていたゆえに、有効なものとはなりえなかった。・・・原著が出された1942年のアメリカの文脈では、これはケインジアン政策と社会政策を組み合わせたニュー・ディール連合を作れなかったことが失敗の根源であると言っているに等しい。ここで対比の軸がずれていることがわかる。「悲劇」的なドイツと無意識的に対比されているのは、自覚的に圧力団体的行動をとる(AFLに代表される)アメリカ労働運動ではなく、むしろそれとは距離を置いてマクロ的な経済社会改革を遂行したルーズベルト政権なのである。例外的に成功したと評価されているスウェーデンの労働運動についての次のような記述は、それを確信させる(p198~199)。
・・・しかし、とスウェーデンの労働指導者は言うのであるが、代わりの経済政策も提案しないでおいて、デフレ政策の社会的影響にのみ反対するばかりでは十分ではない。不況は、低下した私的消費とそれに伴う流通購買力の減少となって現れたのであるから、政府が、私企業の不振を公共支出の増加によって補足してやらなければならないのである。・・・
それゆえに、スウェーデンの労働指導者は、救済事業としてだけでなく、巨大な緊急投資として公共事業の拡大を主張したのである。・・・ここで(ドイツ社会民主党と対比的に)賞賛されているのは、スウェーデン社会民主党であり、そのイデオローグであったミュルダールたちである。原著の文脈はあまりにも明らかであろう。・・・
田野さんからすれば「「良い政策」ではなかったことは、きちんと学べば誰でも分かります」の一言で片づけられてしまうナチスの経済政策は、しかし社会民主党やその支持基盤であった労働運動からすれば、本来自分たちがやるべきであった「あるべき社会民主主義的政策」であったのにみすみすナチスに取られてしまい、結果的に民主的勢力を破滅に導いてしまった痛恨の一手であったのであり、その痛切な反省の上に戦後の様々な経済社会制度が構築されたことを考えれば、目の前のおかしなトンデモ本を叩くために、「逆張り」と決めつけてしまうのは、かえって危険ではないかとすら感じます。
悪逆非道の徒は、そのすべての政策がとんでもない無茶苦茶なものばかりを纏って登場してくるわけではありません。
いやむしろ、その政策の本丸は許しがたいような非道な政治勢力であっても、その国民に向けて掲げる政策は、その限りではまことにまっとうで支持したくなるようなものであることも少なくありません。
悪逆無道の輩はその掲げる政策の全てが悪逆であるはずだ、という全面否定主義で心を武装してしまうと、その政策に少しでもまともなものがあれば、そしてそのことが確からしくなればなるほど、その本質的な悪をすら全面否定しがたくなってしまい、それこそころりと転向してしまったりしかねないのです。田野さんの議論には、そういう危険性があるのではないでしょうか。
まっとうな政策を(も)掲げている政治勢力であっても、その本丸が悪逆無道であれば悪逆無道に変わりはないのです。
繰り返します。
悪逆非道の徒は、そのすべての政策がとんでもない無茶苦茶なものばかりを纏って登場してくるわけではありません。
まっとうな政策を(も)掲げている政治勢力であっても、その本丸が悪逆無道であれば悪逆無道に変わりはないのです。
悪逆無道の輩はその掲げる政策の全てが悪逆であるはずだ、という全面否定主義で心を武装してしまうと、その政策に少しでもまともなものがあれば、そしてそのことが確からしくなればなるほど、その本質的な悪をすら全面否定しがたくなってしまい、それこそころりと転向してしまったりしかねないのです。
第2位は、これはわたしの本領の話で、2月の「ジョブ型と賃上げの関係」です。「賃上げしないと賃金が上がらないので、賃上げをするので賃金が上がるジョブ型社会」と「賃上げしなくても賃金が上がるので、賃上げをしないので賃金が上がらないメンバーシップ型社会」というまことにパラドクシカルなものの言い方をしていますが、筋道は極めて明快でわかりやすいと思います。
ジョブ型と賃上げの関係(ページビュー数:5,504)
ますます訳の分かっていない人があれこれ分からないことを分かったように言うもんだから、ますます訳が分からなくなるというスパイラルに入っているようですな。
ごくごく単純化して言えば、ジョブ型社会というのは、賃上げしないと賃金が上がらない社会だ。
一見同義反復のように見えるし、ジョブ型社会の人々にとっては実際同義反復でしかないのだが、人に値札が付いているんじゃなくて座る椅子に値札が付いている社会だから、同じ椅子に座っている限り賃金は上がらない。
どこかの国の親切な人事部みたいに勝手に昇進させてくれたりしないので、個人レベルで賃金を上げたければ、社内社外の欠員募集に応募して、今よりもっと高い値札の付いた椅子に座るしかない。でも、これは「賃上げ」ではない。
ジョブ型社会の賃上げとは、ほっとくと永遠に上がらない賃金を上げるために、働くみんなが団結して、団体交渉して、時には争議に訴えて、椅子に張り付けられた値札を一斉に高い価格に張り替えること。
賃上げしないと賃金が上がらないのがジョブ型社会というのはそういう意味だ。
ジョブ型社会というのは、賃金を上げたかったら、みんなで「賃上げ」するしかない社会なのだ。
ジョブ型と賃上げの関係というのは、要するにそういうことであって、それ以外のあれこれは全てどうでもいいことだ。上で述べた個人ベースで賃金の高いジョブを狙って上昇するというのは、社会全体の賃金上昇とは関係ない話に過ぎない。そういうのをジョブ型の賃金上昇だと思い込んであれこれ語る人の言っていることは全部無視して良い。
さて、では日本のメンバーシップ型社会はどうか。
ごくごく単純化して言えば、賃上げしなくても賃金が上がる社会だ。
一見語義矛盾のように見えるし、実際ジョブ型社会の人から見ればただのたわごとだろうが、日本の正社員社会ではれっきとした現実だ。
椅子に値札が付いているんじゃなくて人の背中に値札が付いていて、これが毎年少しずつ上がっていく社会だから、同じ椅子に座っていても賃金は毎年上がっていく。椅子も2,3年ごとに順番で次々に席替えをしていくんだが。
この定期昇給というのは、毎年一番賃金の高い人が定年退職していって、一番賃金の低い新入社員が入ってくるので、全体としてはプラスマイナスゼロで総額人件費は変わらないんだが(年齢構成一定ならば)、労働者個人の立場で見れば、毎年確実に賃金が上がってくれる仕組みだ。
ジョブ型社会のノンエリート労働者たちのように、みんなで団結して団体交渉して時には争議に訴えて、椅子に張り付けられた値札を一斉に書き換えるということをしなくたって、自分の賃金は上がるんだ。
自分の賃金だけじゃない。みんなの賃金も同じように上がるのだ。みんなの賃金が上がるのに、その上がったはずの賃金を全部足し合わせると、なぜか全然上がっていないということになるんだけれど、でも、上がっているからいいじゃないか。
賃上げしなくても賃金が上がるのがメンバーシップ型社会というのはそういうことだ。
メンバーシップ型社会というのは、みんなで「賃上げ」しなくても、賃金が上がる社会なのだ。だから、わざわざめんどくさい思いをしてまで「賃上げ」しようとしないのだ。
ジョブ型じゃないということと賃上げの関係というのは、要するにそういうことであって、それ以外のあれやこれやは全部どうでもいいことだ。どうでもいいことばかり語りたがる人がいっぱいいるけれども、どうでもいいことはしょせんどうでもいいことだ。
ということで、以上を(一見パラドクシカルな言い方で)まとめると、
賃上げしないと賃金が上がらないので、賃上げをするので賃金が上がるジョブ型社会と、
賃上げしなくても賃金が上がるので、賃上げをしないので賃金が上がらないメンバーシップ型社会、
ということになるのかな。
第3位は3月の「サヨクとウヨクのウクライナジレンマ」です。
サヨクとウヨクのウクライナジレンマ(ページビュー数:4,593 )
我が国が東洋平和のためにこんなに一生懸命してやってるのに、鬼畜米英なんかとつるんで敵対しやがってふざけるな、暴支膺懲だ!
という実にいい実例があるにもかかわらず、誰もウクライナ戦争にそれを持ち出そうとしないのは何故か?
中国側の理由は簡単で、習近平がそれを許さないから。内心、プーチンの理屈は大日本帝国と同じやないかと思っている中国人は少なくないと思うが、習近平の世界戦略に反するので、そんなことを匂わせることも許されない。それはよく分かる。
では何故言論が自由な日本でそういう議論がほとんど出てこないのか、といえば、サヨクな人々にとってもウヨクな人々にとっても、それが都合が悪いからだろう。
アメリカ帝国主義がこの世の全ての悪の根源であり、それに抵抗する勢力は何をやらかそうが正義の側に位置するという信念を、かつての平和勢力であった共産圏がほぼ崩壊した後も心の奥底に守り続けてきたサヨクな人々にとっては、反米であるが故に絶対正義の側にあるプーチンを極悪非道であったはずの大日本帝国になぞらえるなどというのは許されない。
逆に、たとえ敗れたりと雖も大東亜共栄圏の理想は正しかったのであり、アメリカとつるんで正義の日本に敵対した支那が悪いんやとの信念を戦後民主主義の悪流の中ですっと守り続けてきたウヨクな人々にとっても、極悪非道のプーチンを絶対正義の大日本帝国になぞらえるなどというのは許されない。
どっちからしても許されないから、そういう誰もが思いつきそうな喩えは出てこなくなるということなんだろう。
第4位は再び労働関係で、9月の「志望動機を聞くのはメンバーシップ型だから」です。これは、あるツイートに触発されたものですが、ちょうどその前日にそこに関わることをしゃべっていたので、そのときのスライドをいくつか挙げています。
志望動機を聞くのはメンバーシップ型だから(ページビュー数:3,787)
昨日、都内某所で喋っていたことそのものなので思わずぷっと吹き出しました。
「この仕事できる人いますか?」というのが募集であり、「はい、わたしこの仕事できます」というのが応募であり、「じゃあ、この仕事やって下さい」というのが採用であり、「では、この仕事やります」というのが就職である。
というのが、日本以外のジョブ型社会の常識中の常識なので、できると言ってるけれど本当にこの仕事ができるのかどうかという点はちゃんと確認しようとするが、志望動機なんていうジョブともスキルとも関係のないどうでもいいことには関心がないのは当たり前。
逆に、日本のメンバーシップ型社会では、「我が社の一員になる気がありますか」というのが募集であり、「はい、御社の一員になりたいです」というのが応募であり、「じゃあ、我が社の一員として粉骨砕身して下さい」というのが採用であり、「では、御社に骨を埋める覚悟で頑張ります」というのが就職なので、ジョブとかスキルとかいうどうでもいいことじゃなくって、志望動機こそが最重要項目になるのは当たり前。
いやいや、それは新卒一括採用の話だろう、これは即戦力を求める中途採用の話なんだぞ、と思ったあなた。詰めが甘い。日本の中途採用は決して素直なジョブ型じゃないのです。
ちなみに、今では憶えている人はほとんどいないと思うけど、バブル真っ最中の1989年に、学生援護会のDODA(デューダ)が、「御社に骨を埋めさせていただきます」というCMを流していたんですね。イッセー尾形と大地康雄がいい味を出していました。
第5位は、朝日新聞のインタビュー記事の紹介ですが、子育て支援と増税の問題をめぐって、日本的な「憎税」感覚のもとを探っています。
税金は取られ損の意識はどこから 専門家が指摘する企業頼みの構図@朝日新聞デジタル(ページビュー数:2,852)
本日の朝日新聞デジタルに、浜田陽太郎記者による私のインタビュー記事が載っています。
https://www.asahi.com/articles/ASR4W72GWR4VUTFL009.html
子育て支援のお金をどう集めるのか。岸田政権が訴える「異次元の少子化対策」の成否は財源確保にかかっています。天からお金が降ってくるわけではないので、何らかの形で国民が払わなければならないはず。でも、負担増への拒否感は根強くあります。厚生労働省出身で、労働政策研究・研修機構(JILPT)の濱口桂一郎・労働政策研究所長は、強い拒否感は、日本における雇用のあり方と密接に関係しているといいます。話を聞きました。
――岸田政権の訴える少子化対策の財源確保策についてどう見ますか。
「その質問に関係して最近のエピソードで興味深かったのは、『五公五民』という言葉がネットで急激に盛り上がったことですね」――国民所得に占める税や社会保険料の割合を示す「国民負担率」が、2022年度に47.5%になったと財務省が発表し、ツイッターでトレンド入りしました。
「取り上げられた税金は我々庶民のところに戻ってくるものではなくて、どこかでうまいメシを食っているあいつらが取るんだと。そんな感覚でしょう」――「一揆起こさなあかん」とか「江戸時代とどっちがマシなのか」などとつぶやかれたようです。
「自分の取り分を減らして、政府に預けておけば、めぐりめぐって、自分を含めたみんなを潤すという回路が感じられていない」
「でも、それは良い悪いじゃなくって、社会構造がそうなっていたからです」――どういうことでしょうか。
「自民党や野党が一斉に、児童手当の所得制限をやめるとか言い出しているのに、世論調査をしてみると、反対の方が多い。児童手当は貧しい人のためのもの、みんなに配るなんておかしい。そう考えるのは、勤務先の企業が子育てに必要なお金は面倒をみるべきだという規範が岩盤のようにあるからです」
「企業が家族を養うための手当を出すんであって、国の手当なんて意味がない、という考え方が主流としてあり、日本社会は動いてきた。国なんかにカネを出すよりも、会社に預けておいた方がいい。残業代がまともに出ないかもしれないのに長時間労働するのは、会社に恩を売っておけばちゃんと自分に返ってくると思っているからです」・・・・・・・・・・・・その先の方では、これが左派やリベラルといわれるような人々の問題でもあることを指摘しています。
――介護のための社会保険が23年前に導入され、保険料で財源が確保されました。介護と子育て支援はどこが違うのですか。
「介護保険は新たな公的支援を望む国民の声があったから実現できたと思います。メインストリームにいる人たちにとっても、親の介護は、企業が面倒をみてくれる対象ではなく『公が何とかしなくちゃいかん』というロジックが突破力をもっていた。もちろん、当時も前近代的な家族意識から『年寄りは嫁が面倒をみるべきだ』などと考える政治家らもいたのですが、それよりも『大変だ。どうにかしないと』という有権者の声の方が大きかったということでしょう」――負担が増えても子育て支援を求める有権者の声が高まっていないのでしょうか。朝日新聞の世論調査でも、「少子化対策にあてるため国民負担が増えてもよいか」と尋ねたら、「増えるのはよくない」が6割を占めました。
「今の50歳以上の人たちの多くは、何とか自分たちで子育てしてきたと思っている。『近頃の若い人たちは子どもに自分のカネを使わないのは何事か』などと感じているのかもしれません。そんな『生活態度としての保守層』が多数派のうちは、負担増の受け入れはなかなか難しいでしょう」――大きな壁ですね。
「メンバーシップ型雇用の恩恵を享受してきた保守層は、企業福祉より見劣りすると感じる『政府による福祉』に無意識の敵対心を抱く。そこに小さな政府を志向する新自由主義的なグループや、国家権力による再配分に反発する層も加わり『神聖なる憎税同盟』を形成しているのが日本社会です」――日本では左派やリベラルも増税に否定的ですか。
「欧州では国民から集めた税金を再分配することこそが社会民主主義です。しかし、日本の戦後の左派にはその感覚が少ない。あったのは税金の廃止を理想とするようなものだった。この日本的な左派と、世界的に広がる新自由主義的なグループの考え方が意図しない形で結びついている。メンバーシップ型を前提とする給料が当然だと考える雇用層も加わって、『五公五民』意識が強化されてきたのではないでしょうか」・・・・・・
第6位は6月の「ジョブ型社会の男女賃金格差、日本の男女賃金格差」で、まさに雇用システムと賃金という真っ正面の話です。
ジョブ型社会の男女賃金格差、日本の男女賃金格差(ページビュー数:2,793)
ジョブ型社会とは同一ジョブ同一ペイであり、裏返して言うと異なるジョブ異なるペイである。この一番肝心要が分かっていない人が多いが、ジョブ型社会とはジョブがもっとも正当な格差をつける理由となる社会である。
それゆえ、同じジョブで男女平等であったとしても、ジョブの性別分布によって社会全体としては男女不平等となる。よりアグレッシブで闘争的な(いわゆる「マッチョ」な)高給ジョブは男性が多く、より対人関係配慮的でケア志向的な(いわゆる「フェミニン」な)低給ジョブは女性が多いからである。それを問題だとする労働フェミニストと雖も、ジョブ型社会の根本原則(異なるジョブ異なるペイ)を否定するわけではなく、高給ジョブに女性をもっと多くしろというか(ポジティブアクション)、女性の多いケア労働などの低給ジョブの職務評価をもっと高くしろ(正確な意味での同一価値労働同一賃金)ということになる。
同一ジョブでも成果によって差をつける成果給は、少数派ではあるが近年拡大傾向にある。ただ、圧倒的に多くの日本人の認識とは逆に、ジョブ型社会の成果給とは、そうしなければジョブにへばりついた固定価格から上げられない賃金を成果を上げたという理由で個別に引き上げるものである。
そして、近年労働フェミニストが問題だとしているのは、このジョブ型社会の成果給が男性により有利に、女性にはより不利に働いているという点だ。これはジョブの性別分布のために、アグレッシブで闘争的なジョブほど成果給による個別引上げが容易であり、対人関係的でケア的なジョブほどそれが困難だからである。男性の方が成果給の恩恵を受け、女性は成果給の恩恵を受けにくいことそれ自体が間接差別であるというロジックだ。
日本的なメンバーシップ型社会では、以上のロジックがすべて逆向きに回転する。
メンバーシップ型社会とは同一身分同一賃金であり、裏返して言えば異なる身分異なる賃金である。やってる仕事が同じか違うかなどという枝葉末節はどうでもよくて、同じ正社員か、同じ総合職か、といった身分がすべてである。
それゆえ、男女賃金格差の生成要因は主として、男女の雇用区分間の分布の不均衡によるものとなる。男性は正規に多く、女性は非正規に多い、男性は総合職に多く、一般職はすべて女性である。それゆえ、それを解決するロジックも、女性をより多く正規へ、総合職へ、というコースの平等を志向することとなる。
日本的な年功賃金は決してストレートな年齢給、勤続給ではなく、ほぼ全員に対して能力評価、情意評価というブラックボックスによる差別化が行われる点に特徴があるが、ここで意識的無意識的に男性に高評価、女性に低評価の傾向が生じるのは、会社への貢献志向度(実際にどれくらい貢献したかではなく、貢献する気があるか)に自ずから男女差があるからである。
さて、日本でも成果主義と称する賃金制度が四半世紀前に導入されたが、その意味合いはジョブ型社会の成果給とは全く逆であった。ほっとくと上がらない賃金を、成果を上げた労働者について個別的に引き上げるのがジョブ型社会の成果給だが、それとは全く逆に、日本の成果主義というのは、ほっとくと(能力が毎年上がっているという建前に基づいて)ほっとくとどんどん上がってしまう(主として中高年男性の)高賃金を、「お前は成果を上げていないではないか」と難癖をつけて個別に引き下ろすための道具である。
よって、成果主義の影響をもろに受けるのは能力評価の積み重ねで上がりきってしまった中高年男性であって、その結果相対的に男女格差を縮小する効果をもたらすことになる。別段女性が成果主義で高く評価されて引き上げられるなどということはないのだが、結果的に特殊日本型成果主義は特殊日本型能力主義による中高年男性の高給を引き下げることによって、女性を相対的に引き上げることになる。
成果給の男性バイアスを厳しく批判するジョブ型社会の労働フェミニストから見れば、信じられないようなアリスのワンダーランドというべきであろうか。
第7位は贈呈いただいた本の紹介で、3月の「カール・マルクス『一八世紀の秘密外交史』」です。この本、結構評判を呼んだようなので、6月には『労働新聞』の書評にも取り上げました。
カール・マルクス『一八世紀の秘密外交史』(ページビュー数:2,315)
カール・マルクス『一八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源』(白水社)をお送りいただきました。
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b621504.html
と、書くと、えっ?と思われる方も多いかも知れません。
いや、正真正銘の、あのひげのおじさんのマルクスの本です。ただし、浩瀚なマルクス・エンゲルス全集には収録されていない稀覯論文です。
なぜ収録されていないか?それは、レーニンや、とりわけスターリンの逆鱗に触れるような中身だからです。
タタールの軛がもたらしたものは? なぜロシアは膨張したのか? クリミア戦争下構想され、数奇な運命を辿ったマルクスによるロシア通史。
「ロシアが欲しいのは水である」
資本主義の理論的解明に生涯を捧げたマルクス。彼はこの『資本論』に結実する探究の傍ら、一八五〇年代、資本の文明化作用を阻むアジア的社会の研究から、東洋的専制を発見する。
他方、クリミア戦争下に構想された本書で、マルクスはロシア的専制の起源に東洋的専制を見た。ロシア社会の専制化は、モンゴル来襲と諸公国の従属、いわゆる「タタールの軛」(一二三七―一四六二)によってもたらされたと分析したのである。
このため、マルクスの娘、エリノアの手になる本書は歴史の闇に葬られ、とりわけ社会主義圏では一切刊行されなかったという。
とはいえ、東洋的専制という問題意識は、その後、本書の序文を書いたウィットフォーゲルによって深められた。
フランクフルトの社会研究所で頭角を現した彼は、『オリエンタル・デスポティズム』(一九五七年)に収斂していく研究で、専制の基底に大規模灌漑を要する「水力世界」を見出し、さらに、ソ連・中国の社会主義を東洋的専制の復活を見た。
ウクライナ戦争が長期化する中、ロシアの強権体質への関心が高まっている。本書収録「近代ロシアの根源について」は今こそ読まれるべきだ。そう、マルクスを崇拝していると称するロシアや中国といった諸国の正体が、まごうことなき東洋的専制主義であることを、その奉じているはずのマルクス本人が、完膚なきまでに暴露した本であるが故に、官許マルクス主義の下では読むことが許されない御禁制の書として秘められていた本というわけです。
そういうクリミア戦争を見ながら書かれた19世紀の本が、いま新た日本訳されて出版されるのは何故かと言えば、いうまでもなく、歴史は繰り返しているからです。今目の前で進行しつつあるウクライナ戦争を理解する上で最も役に立つのが、19世紀のマルクスの本だというのは何という皮肉でしょうか。
そして、本書のマルクスが書いたあんこの部分を包む皮の部分を書いているのが、70ページに及ぶ序文を書いているのが、あの東洋専制主義の大著を書いたカール・ウィットフォーゲルであり、40ページ近い解説を書いているのが、中国の専制主義を論じた福本勝清さんであり、その後の10ページ弱のあとがきを書いているのが本ブログでも何回も登場している石井知章さんという風に、いずれも中国の専制主義に強い関心を持っている人々である、というのも、まさに今日のアクチュアルな関心にぴたりと対応していると言えましょう。
序(ウィットフォーゲル)
Ⅰ ロシア—どこへ? 人類—どこへ?
Ⅱ マルクスのロシアに関する発見をめぐる深くかつ矛盾だらけの根源
Ⅲ ピョートル大帝への再評価と世界史の新しい視点への切り口
Ⅳ ロシア政治に関するある新しい歴史草案──大掴みで不安を煽るようなもの
Ⅴ マルクスの『一八世紀の秘密外交史』を超えて──「アジア的復古」
Ⅵ 「偶然」と「自由」──マルクスが残した最高の遺産
第一章 資料と批判 一七〇〇年代のイギリス外交とロシア
第二章 北方戦争とイギリス外交──『北方の危機』
第三章 イギリスのバルト貿易
第四章 資料と批判 イギリスとスウェーデンの防衛条約
第五章 近代ロシアの根源について
第六章 ロシアの海洋進出と文明化の意味
解説(福本勝清)
あとがき(石井知章)
人名索引/関連年表
第8位は、これもあるツイートに触発されたものですが、9月の「ポンコツジョブとポンコツ従業員 」です。
ポンコツジョブとポンコツ従業員(ページビュー数:2,073)
正確に言えば、ポンコツでも務まる下級ジョブにはそれにふさわしい人を選んではめ込み、その上のまあまあな人でないと務まらないけどまあまあな人でも務まる中の下のジョブにはそういう人を選んではめ込み、その上のそれなりの人でないと務まらないけどそれなりの人なら務まる中の中のジョブにはそういう人を選んではめ込み、その上の相当な人でないと務まらないけど相当な人なら務まる中の上のジョブにはそういう人を選んではめ込み、その上のとても優れた人でないと務まらないような上級ジョブにはそういう人を選んではめ込む、というのが、実際にそういう風に理想的になっているかどうかは別として(かなりの場合そうなっていないんだろうけど)、少なくとも理念型としてのジョブ型組織のあるべき姿ということになっているはず。
上記ツイート(X)は、まずそもそもの前提として具体的なジョブへのはめ込み以前に「クズでポンコツでやる気も能力もない従業員」という一般的存在を前提としている点で、極めて日本的な組織の有り様に引きずられた考え方になっているように思われる。
正確に言えば、日本の組織というのは、ジョブ型社会ならポンコツ用の下級ジョブから優秀者用の上級ジョブまで、何でもやらせる前提の『能力』の高いことになっている従業員が、ジョブなどという硬直的なものにとらわれずにフレキシブルにその『能力』を発揮して仕事をするということになっているので(これまた理念型であって、実際にはそんなうまい具合に行かないことが多いんだけど)、うまくいかないと従業員がポンコツやからだめなんやと責任をなすりつけたがるんだろうね。
第9位もそうなんですが、これは為末大さんの広末涼子の一件へのツイートへの反応です。
言いたい(であろう)ことには賛成なんだが、言ってることは完全にナンセンス(ページビュー数:1,869)
https://twitter.com/daijapan/status/1668801359993536513
ワークライフバランスも、兼業副業も、ジョブ型も、その本質は公私の切り離しだと思いますが、日本で実現するのは難しそうです。
広末涼子を無期限謹慎処分、所属事務所が発表「鳥羽様との関係は記事のとおり」本人が報道認めるいや、為末さんの言いたいこと、と言うかたぶん言いたいのであろうこと、というかおそらくこういうことを言いたいんじゃないのかな,と想像されることに対しては、ほぼ完全に賛成なのだ。女優が不倫したからと言って無期限謹慎処分とか、日本はいつからイランやアフガン並みの道徳警察だらけの嫌らしい国に成り果てたんだと言いたいんだろうと思う。
でもね、それとワークライフバランスも、兼業副業も、いわんやジョブ型も、何の関係もない。ちょびっとはかすっているかという気配もない。かけらもない。なので、このつぶやきは完全にナンセンスな台詞になっちゃっているんだな。
なんでこんな全くかけらも関係のない労働関係のバズワードが広末不倫一件でぞろぞろ湧いてくるのか謎の極みではありますが、たまたまニュースで耳に入った意味不明の言葉がなぜかふっと湧いて出た、というだけではないとすると、もしかしたらこういうことかなという謎解きを。
もしかしたら、為末さんの脳内では、女優業というのがワークで、男女関係というのがライフで、不倫で女優業から下ろされるというのはワークとライフのバランスを取り損なったというイメージなのかも知れない。ふむ、でもそれは、ワークライフバランスという労働用語とはかけらも関係がない。
もしかしたら、為末さんの脳内では、女優業というのが本業で、男女関係というのが副業で、不倫で女優業から下ろされるというのは本業と副業がバッティングしてしまったというイメージなのかも知れない。ふむ、でもそれは、兼業副業という労働用語とはかけらも関係がない。
ここまでは何とか解読作業ができたけれども、最後のジョブ型だけは全く歯が立たない。そのジョブ型という労働用語を作り出し、いろいろと本も書いた当の本人にも全く理解できない。何でここにジョブ型が出てくるんや。誰か教えてくれ。
もしかしたら、明日(6月15日)発売の『季刊労働法』夏号のジョブ型特集に、そのヒントが見つかるかも知れませんね。
で、第10位にはなぜか2019年の「「工業高校」と「工科高校」の違い」が入っていて、これは昨年のランキングでも第10位に入っていて、なぜこんな地味な記事が読まれ続けているのか、書いた本人にもよくわかりかねるのですが、なんなんでしょうね。
「工業高校」と「工科高校」の違い (ページビュー数:1,809 )
正直意味がよくわからないニュースです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186251000.html (「工業高校」を一斉に「工科高校」に変更へ 全国初 愛知県教委)
愛知県の教育委員会が、県立の「工業高校」13校の名称を、再来年4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたことが分かりました。科学の知識も学び、産業界の技術革新に対応できる人材を育成するのがねらいで、工業高校の名称を一斉に変更するのは全国で初めてだということです。 ・・・
いやまあ、高校の名称をどうするかは自由ですが、その理由がよくわからない。
・・・関係者によりますと、すべての県立工業高校の名称について「工学だけでなく、科学も含めた幅広い知識を学ぶ高校にしたい」というねらいから、再来年の4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたということです。・・・
ほほう、「工業高校」だと科学は学べないとな。「工科高校」だと科学が学べるとな。
「工業高校」の「業」は「実業」の「業」ですが、「工科高校」の「科」は「科学」の「科」だったとは初めて聞きましたぞなもし。
東京工業大学は実業しか学べないけど、東京工科大学は科学が学べるんだね。ふむふむ。
というだけではしょうもないネタなので、トリビアネタを付け加えておくと、東京工業大学は前身は東京高等工業学校でしたが、それとならぶ東京高等商業学校は、一橋大学になる前は東京商科大学でした。一方が「業」で他方が「科」となった理由は何なんでしょうか。
ちなみに、東京高商と並ぶ神戸高等商業学校は、大学になるときには神戸商業大学と名乗っていますな。今の神戸大学の前身ですが、同じ商業系でもこちらは「科」じゃなくて「業」です。
さらにちなみに、神戸商科大学というのもあって、これは戦前の兵庫県立神戸高等商業学校が戦後大学になるときにそう名乗ったんですね。今の兵庫県立大学の前身です。
なんだか頭が混乱してきましたが、東京商科大学は戦時中東京産業大学と名乗っていたので、別に「業」を忌避していたわけでもなさそうです。
さて、今年の10位以内には入らなかったけれども、いかにも今年の記事らしいものとして、第12位の「桃色争議 」を挙げておきましょう。今も毎朝放送されている連続テレビ小説「ブギウギ」に出てきた桃色争議の実話編です。
桃色争議(ページビュー数:1,746)
朝の連続テレビ小説「ブギウギ」は、いよいよ桃色争議が佳境に入っていくようですが、そういえば2年前に紹介した『日本人の働き方100年 定点観測者としての通信社』に、この桃色争議の写真があったのではないかと思い出しました。
テレビでは「梅丸少女歌劇団」となっていますが、もちろんこれは現実に存在した松竹少女歌劇団のことです。この少女たちが、1933年(昭和8年)に起こしたのが、有名な桃色争議です。
『日本人の働き方100年 定点観測者としての通信社』に載っているこの写真は、東京の水ノ江滝子を中心とする争議団で、大阪の三笠静子(テレビでは福来スズ子)らが参加したものではありませんが、でも当時の争議の雰囲気が良く伝わってきます。
多くの人は勘違いをしていますが、戦時体制下に近いこの時代でも、今日に比べると遙かに多くの労働争議が起こっていたのです。
この1933年には、全国で1897件の争議が起こり、115、733人が参加していました。今日のスト絶滅に近い状態とは対照的です。
それだけではなく、この時代には、こうした芸能人が労働者としてストライキをするということに対して、誰も疑問を呈することがなかったということも、今日改めて考え直す必要がありそうです。
芸能人は労働者に非ず、自営業者なり、というおかしな理屈がまかり通って、労働者としての権利を行使することもできなくなっている今日のおかしな状況を考え直す上で、1933年という戦争直前の時期に少女歌劇団の少女たちが起こしたストライキが提起するものがかなり大きなものがあるはずです。
(参考)
第12章 雇傭及ヒ仕事請負ノ契約
第1節 雇傭契約第260条
使用人、番頭、手代、職工其他ノ雇傭人ハ年、月又ハ日ヲ以テ定メタル給料又ハ賃銀ヲ受ケテ労務ニ服スルコトヲ得第265条
上ノ規定ハ角力、 俳優、音曲師其他ノ芸人ト座元興行者トノ間ニ取結ヒタル雇傭契約ニ之ヲ適用ス
« EUのプラットフォーム労働指令に理事会と欧州議会が合意 | トップページ | 労使関係の「近代化」の非近代的帰結 »
« EUのプラットフォーム労働指令に理事会と欧州議会が合意 | トップページ | 労使関係の「近代化」の非近代的帰結 »
コメント