今年も最後の月になりました。この1年間、『労働新聞』に月1回連載してきた書評も12回分溜まりましたので、例によってまとめておきます。
グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』
『労働新聞』に月イチで連載している書評コラムですが、今年からまたタイトルが変わり、「書方箋 この本、効キマス」となりました。
その第1回目に私が取り上げたのは、グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』(明石書店 )です。
https://www.rodo.co.jp/column/143561/
半世紀前の1975年に、日米欧三極委員会は『民主主義の統治能力』(サイマル出版会)という報告書を刊行した。ガバナビリティとは統治のしやすさ、裏返せばしにくさ(アンガバナビリティ)が問題だった。何しろ、企業の中では労働者たちがまるでいうことを聞かないし、企業の外からは環境や人権問題の市民運動家たちがこれでもかと責め立ててくる。本書はその前後の70年代に、欧米とりわけアメリカのネオリベラルなイデオローグと企業経営者たちが、どういう手練手管を駆使してこれら攻撃に反撃していったかを、膨大な資料―それもノーベル賞受賞者の著作からビジネス書やノウハウ本まで―を幅広く渉猟し、その詳細を明らかにしてくれる。
評者の興味を惹いた一部だけ紹介すると、それまでの経営学ではバーリ=ミーンズやバーナムらの経営者支配論が優勢で、だからこそその権力者たる経営者の責任を問い詰める運動が盛んだったのだが、この時期にマイケル・ジェンセン(3340号7面参照)がその認識をひっくり返すエージェンシー理論を提唱し、経営者は株主の下僕に過ぎないことになった。そもそも企業とはさまざまな契約の束に過ぎない。従って、理論的に企業の社会的責任などナンセンスである。一方でこの時期、ビジネス書などで繰り返し説かれたのは、(厳密にはそれと矛盾するはずだが)問題が大きくなる前に先制的に問題解決に当たれという実践論だった。
本書は今では我われがごく当たり前に使っている概念が、この時期に企業防衛のために造り出されたことを示す。たとえばコスト・ベネフィット分析がそうだ。労災防止や公害防止の規制は、それによって得られる利益と比較考量して、利益の方が大きくなければすべきではないという議論が流行った。本書が引用するアスベスト禁止の是非をめぐるマレー・ワイデンバウム(レーガン政権で経済諮問委員長になった経済学者)とアル・ゴアのやり取りは、それなら人命に値段をつけろと迫られて逃げ回る姿がたいへん面白い。
思想史的には、70年代以後のネオリベラル主義が戦前ナチスに傾倒したドイツの政治思想家カール・シュミットとその影響を受けたネオリベラル経済学者ハイエクの合体であることを抉り出した点が新鮮だ。73年にチリのアジェンデ政権を打倒して成立したピノチェト軍事政権に対し、当時主流派のポール・サミュエルソンが「ファシスト資本主義」と批判したのに対し、ハイエクは「個人的には、リベラルな独裁制の方が、リベラル主義なき民主政府より好ましいですね」と答えている。いうまでもなくこの「リベラル」とは経済的な制約のなさを示す言葉であり、その反対語「全体主義」とは国家が市民社会に介入すること、具体的には福祉国家や環境規制がその典型だ。そういう悪を潰すためには、独裁者大いに結構というわけだ。
とはいえ、先進国で用いられた手法はもっとソフトな「ミクロ政治学」だった。正面から思想闘争を挑む代わりに、漸進的に少しずつ「民営化」を進め、気が付けば世の中のあれこれがネオリベラル化している。その戯画像が、野球部の女子マネージャーにドラッカーの『マネジメント』を読ませて喜ぶ現代日本人かもしれない。
エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』
例によって、『労働新聞』連載の「書方箋 この本、効キマス」に、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋)を取り上げました。
https://www.rodo.co.jp/column/144730/
専制主義は古臭く、民主主義は新しい、とみんな思い込んでいるけれども、それは間違いだ。大家族制は古臭く、核家族は新しいとの思い込み、それも間違いだ。実は一番原始的なのが民主主義であり、核家族なのだ。というのが、この上下併せて700ページ近い大著の主張だ。いうまでもなく、新しいから正しいとか、古臭いから間違っているとかの思い込みは捨ててもらわなければならない。これはまずは人類史の壮大な書き換えの試みなのだ。
トッドといえば、英米の絶対核家族、フランスの平等主義核家族、ドイツや日本の直系家族、ロシアや中国の共同体家族という4類型で近代世界の政治経済をすべて説明して見せた『新ヨーロッパ大全』や『世界の多様性』で有名だが、その空間論を時間論に拡大したのが本書だ。その核心は柳田国男の方言周圏論と同じく、中心地域のものは新しく周辺地域のものは古いという単純なロジックだ。皇帝専制や共産党独裁を生み出したユーラシア中心地域の共同体家族とは、決して古いものではない。その周辺にポツポツ残っているイエや組織の維持を至上命題とする直系家族の方が古いが、それも人類の歴史では後から出てきたものだ。ユーラシアの西の果てのブリテン島に残存した絶対核家族と、それが生み出す素朴な民主主義こそが、人類誕生とともに古い家族と社会の在り方の原型なのである。おそらく圧倒的大部分の人々の常識と真正面からぶつかるこの歴史像を証明するために、トッドは人類史の時空間を片っ端から渉猟する。その腕前はぜひ本書をめくって堪能してほしい。
その古臭い核家族に由来する素朴で野蛮なアングロサクソン型民主主義がなぜ世界を席巻し、古代オリエント以来の膨大な文明の積み重ねの上に構築された洗練の極みの君主・哲人独裁制を窮地に追い詰めたのか、という謎解きもスリリングだ。英米が先導してきたグローバリゼーションとは、ホモ・サピエンス誕生時の野蛮さをそのまま残してきたがゆえの普遍性であり、魅力なのだという説明は、逆説的だがとても納得感がある。我々がアメリカという国に感じる「とても先進的なはずなのに、たまらなく原始的な匂い」を本書ほど見事に説明してくれた本はない。
本書はまた、最近の世界情勢のあれやこれやをすべて彼の家族構造論で説明しようというたいへん欲張りな本でもある。父系制直系家族(イエ社会)のドイツや日本、韓国が女性の社会進出の代償として出生率の低下に悩む理由、黒人というよそ者を排除することで成り立っていたアメリカの脆弱な平等主義が差別撤廃という正義で危機に瀕する理由、共産主義という建前が薄れることで女性を排除した父系制大家族原理がますます露骨に出てきた中国といった、その一つだけで新書の一冊ぐらい書けそうなネタがふんだんに盛り込まれている。なかでも興味深いのは、原著が出た2017年にはあまり関心を惹かなかったであろうウクライナの話だ。トッドによれば、ロシアは専制主義を生み出す共同体家族の中核だが、ウクライナはポーランドとともに東欧の核家族社会なのだ。ウクライナ戦争をめぐっては勃発以来の1年間に膨大な解説がなされたが、この説明が一番腑に落ちた。
『労働新聞』に毎月寄せている書評、今回はジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話』(ハヤカワノンフィクション文庫)です。
https://www.rodo.co.jp/column/145984/
原題は「The Rebel Sell」。これを邦訳副題は「反体制はカネになる」と訳した。ターゲットはカウンターカルチャー。一言でいえば文化左翼で、反官僚、反学校、反科学、極端な環境主義などによって特徴付けられる。もともと左翼は社会派だった。悲惨な労働者の状況を改善するため、法律、政治、経済の各方面で改革をめざした。その主流は穏健な社会民主主義であり、20世紀中葉にかなりの実現を見た。
ところが資本主義体制の転覆をめざした急進左翼にとって、これは労働者たちの裏切りであった。こいつら消費に溺れる大衆は間違っている! 我われは資本主義のオルタナティブを示さなければならない。そこで提起されるのが文化だ。マルクスに代わってフロイトが変革の偶像となり、心理こそが主戦場となる。その典型として本書が槍玉に挙げるのが、ナオミ・クラインの『ブランドなんかいらない』だ。大衆のブランド志向を痛烈に批判する彼女の鼻持ちならないエリート意識を一つひとつ摘出していく著者らの手際は見事だ。
だが本書の真骨頂は、そういう反消費主義が生み出した「自分こそは愚かな大衆と違って資本が押しつけてくる画一的な主流文化から自由な左翼なんだ」という自己認識を体現するカウンターカルチャーのあれやこれやが、まさに裏返しのブランド志向として市場で売れる商品を作り出していく姿を描き出しているところだろう。そのねじれの象徴が、ロック歌手カート・コバーンの自殺だ。「パンクロックこそ自由」という己の信念と、チャート1位になる商業的成功との折り合いをつけられなかったゆえの自殺。売れたらオルタナティブでなくなるものを売るという矛盾。
しかし、カウンターカルチャーの末裔は自殺するほど柔じゃない。むしろ大衆消費財より高価なオルタナ商品を、「意識の高い」オルタナ消費者向けに売りつけることで一層繁栄している。有機食品だの、物々交換だの、自分で服を作るだの、やたらにお金の掛かる「シンプルな生活」は、今や最も成功した消費主義のモデルだろう。日本にも、エコロジーな世田谷自然左翼というブルジョワ趣味の市場が成立しているようだ。
彼ら文化左翼のバイブルの一つがイヴァン・イリイチの『脱学校の社会』だ。画一的な学校教育、画一的な制服を批判し、自由な教育を唱道したその教えに心酔する教徒は日本にも多い。それがもたらしたのは、経済的格差がストレートに子供たちの教育水準に反映されるネオリベ的自由であったわけだが、文化左翼はそこには無関心だ。
本書を読んでいくと、過去数十年間に日本で流行った文化的キッチュのあれやこれやが全部アメリカのカウンターカルチャーの模造品だったと分かって哀しくなる。西洋的合理主義を脱却してアジアの神秘に身を浸して自己発見の旅に出るインド趣味のどれもこれも、伝統でも何でもなくアメリカのヒッピーたちの使い古しなのだ。その挙げ句がホメオパシーなど代替医療の蔓延による医療崩壊というのは洒落にならない。
しかし日本はある面でアメリカの一歩先を行っているのかも知れない。反逆っぽい雰囲気の歌をアイドルに唱わせてミリオンセラーにする、究極の芸能資本主義を生み出したのだから。
渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』
例によって、『労働新聞』に月一で連載している書評ですが、今回は渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書)です。
https://www.rodo.co.jp/column/147391/
戦国時代といえば、幕末と並んでNHK大河ドラマの金城湯池だ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑をはじめ、武田信玄、上杉謙信など英雄豪傑がこれでもかと活躍し、血湧き肉躍る華麗なる時代というのが一般認識だろう。だが、彼らの活躍の陰では、冷酷無惨な奴隷狩り、奴隷売買が横行していた。時代小説やドラマで形作られた戦国の華々しいイメージを修正するのに、この新書本はとても有効な解毒剤になる。
戦国時代の戦争は、敵兵の首を取り恩賞をもらうだけが目的ではない。戦場での金目の物の略奪も重要な目的で、その中にはヒトを捕まえて売り飛ばすことも含まれていて、当時「乱取り」といった。『甲陽軍鑑』によれば、川中島の戦いで武田軍は越後国に侵入し、春日山城の近辺に火を放ち、女や子供を略奪して奴隷として甲斐に連れ帰ったという。信濃でも、上野でも、武田軍は行く先々で乱取りを行っている。乱取りは恩賞だけでは不足な将兵にとって貴重な収入源であった。
上杉軍も負けてはいない。上杉謙信が常陸の小田城を攻撃した時、落城直後の城下はたちまち人身売買の市場になったという。これは、謙信の指示によるものだと当時の資料にはっきり書かれている。城内には、周辺に住んでいた農民たちが安全を確保するために逃げ込んでいたのだが、彼らが一人20銭、30銭で売り飛ばされた。伊達政宗の軍も、島津義久の軍も、みんな乱取りをしていた。
現在放映されている『どうする家康』では絶対に出てこないだろうが、大坂夏の陣で勝利した徳川軍は女子供を次々に捕まえて凱旋している。「大坂夏の陣図屏風」には、逃げ惑う敗残兵や避難民を徳川軍が略奪・誘拐・首取りする姿が描かれている。将兵は戦いに集中するよりも、ヒトや物の略奪に熱中していた。
国内で奴隷狩り、奴隷売買が盛んな当時の日本は、彼らを外国に売り飛ばす国でもあった。豊臣秀吉は九州征伐の途上で、ポルトガル商人たちが日本人男女数百人を買い取り、手に鉄の鎖をつけて船底に追い入れている様を見て激怒し、イエズス会のコエリョと口論になったという。コエリョ曰く「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」。これがやがて秀吉による伴天連追放令の原因になるのだが、理屈からいえばコエリョが正しい。キリスト教徒を奴隷にすることを禁ずる西洋人にとって、非キリスト教徒が非キリスト教徒を奴隷として売ってくるのを買うのは何ら良心が傷まないことだったのだろう。
伊東マンショら天正遣欧使節の4人の少年たちは、マカオなど行く先々で売られた日本人奴隷を見て心を痛めていた。千々石ミゲルはこう述べたという。「日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。我が民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった」と。
英雄を称賛する大河ドラマには絶対に出ない戦国日本の恥部が、薄い新書本のここかしこに溢れている。テレビの後にご一読を。
ヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』
例によって『労働新聞』に月一回連載している書評コラム、今回はヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)です。
https://www.rodo.co.jp/column/149699/
近年何かと騒がしいポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の源流から今日の蔓延に至る展開をこの一冊で理解できる。そして、訳者が皮肉って付けたこの邦題が、版元の早川書房の陳謝によって自己実現してしまうという見事なオチまでついた。
ポリコレの源流は、意外にも正義なんて嘲笑っていたポストモダン(ポモ)な連中だった。日本でも40年くらい前に流行ってましたな。脱構築だの、全ては言説のあわいだとか言って、客観的な真実の追求を嘲弄していた。でもそれは20世紀末には流行らなくなり、それに代わって登場したのが、著者が応用ポストモダニズムと呼ぶ社会正義の諸理論だ。
たとえばポストコロニアル理論では、植民地支配された側が絶対的正義であり、客観的と称する西洋科学理論は人種差別を正当化するための道具に過ぎない。ポモの文化相対主義が定向進化して生まれたこの非西洋絶対正義理論は、中東アフリカの少女割礼(クリトリス切除)を野蛮な風習と批判する人道主義を帝国主義的言説として糾弾する。
たとえばクィア理論では、ジェンダーだけではなくセックスも社会的構築物だ。その結果、日本でも最近起こったように、男性器を付けたトランス女性が女湯に入ってくることに素直な恐怖心を表明した橋本愛が、LGBT差別だと猛烈な攻撃を受けて心からの謝罪を表明するに至る。もちろん、ジェンダーは社会的構築物だし、ジェンダー規範の強制が女性たちを抑圧している姿はイランやアフガニスタンに見られるとおりだが、ポモ流相対主義が定向進化すると、それを生物学的なセックスと区別することを拒否するのだ。
そのジェンダースタディーズも、交叉性フェミニズムという名の被害者ぶり競争に突っ走る。批判的人種理論と絡み合いながら、白人男性は白人男性ゆえに最低であり、客観的なその言説を抑圧すべきであり、黒人女性は黒人女性ゆえに正義であり、どんな主観的な思い込みでも傾聴すべきという(ねじけた)偉さのランキングを構築する。いや黒人女性でも、それに疑問を呈するような不逞の輩は糾弾の対象となるのだ。
その行き着く先は例えば障害学だ。もちろん、障害者差別はなくさなければならない。しかし、それは障害があるからといって他の能力や個性を否定してはならないということであり、だからこそ合理的配慮が求められるのだ。ところがこのポモ流障害学では、障害がない方がいいという「健常主義」を批判し、障害こそアイデンティティとして慶賀すべきと論ずる。その挙げ句、肥満は健康に悪いから?せた方がいいと助言する医者を肥満に対するヘイトだと糾弾するファットスタディーズなるものまで登場するのだ。もちろん、これは冗談ではない。
いやほんとに冗談ではないのだ。ポリコレのコードに引っ掛かったら首が飛ぶ。本書にはその実例がてんこ盛りだ。そしてその列の最後尾には、本訳書を出版した早川書房の担当者が、訳者山形浩生の嫌味な解説を同社のサイトに載っけた途端に批判が集中し、あえなく謝罪して削除したという一幕が追加されたわけだ。まことに「社会正義」はいつも正しい。めでたしめでたし(何が)。
カール・マルクス『一八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源』
毎月一回寄稿している『労働新聞』の書評ですが、今回はマルクスです。とはいえ、一筋縄ではいきませんよ。
https://www.rodo.co.jp/column/150864/
一昨年から毎月、書籍を紹介してきたが、今回の著者は多分一番有名な人だろう。そう、正真正銘あの髭もじゃのマルクスである。
ただし、全50巻を超える浩瀚なマルクス・エンゲルス全集にも収録されていない稀覯論文である。なぜ収録されていないのか? それは、レーニンやとりわけスターリンの逆鱗に触れる中身だからだ。そう、マルクスを崇拝していると称するロシアや中国といった諸国の正体が、まごうことなき東洋的専制主義であることを、その奉じているはずのマルクス本人が、完膚なきまでに暴露した本であるが故に、官許マルクス主義の下では読むことが許されない御禁制の書として秘められていたわけである。
本書の元論文がイギリスの新聞に連載されたのはクリミア戦争さなかの1856年。そんな19世紀の本が、いま新たに翻訳されて出版されるのは何故かといえば、いうまでもなく、歴史は繰り返しているからだ。今目の前で進行中のウクライナ戦争を理解するうえで最も役に立つのが、19世紀のマルクスの本だというのは何という皮肉であろうか。
マルクス曰く「タタールのくびきは、1237年から1462年まで2世紀以上続いた。くびきは単にその餌食となった人民の魂そのものを踏み潰しただけではなく、これを辱め、萎れさせるものであった」。「モスクワ国家が育まれ、成長したのは、モンゴル奴隷制の恐るべき卑しき学校においてであった。それは、農奴制の技巧の達人になることによってのみ力を集積した。解放された時でさえ、モスクワ国家は、伝統的な奴隷の役割を主人として実行し続けていた。長い時間の末、ようやくピョートル大帝は、モンゴルの奴隷の政治的技巧に、チンギス・ハンの遺言によって遺贈された世界征服というモンゴルの主人の誇り高き野望を結びつけた」。
ヨーロッパ国家として歩み始めたキエフ国家が滅び、タタールのくびきの下でアジア的な専制主義を注入されたモスクワ国家が膨張し、ロシア帝国を形成していく過程を描き出すマルクスの筆致は、ほとんどロシア憎悪にすら見える。もちろん彼が憎んでいるのはツァーリ専制の体制である。そしてそれがそのまま共産党支配下のスターリン専制に、今日のプーチン専制に直結している。
しかもその射程はロシアに留まらない。序文を書いているカール・ウィットフォーゲルの主著は『東洋的専制主義』で、彼がマルクスのロシア像の向こう側に透視しているのは皇帝専制の中華帝国であった。本書をいま刊行しようとした石井知章、福本勝清という二人の編訳者はいずれも現代中国研究者であり、天安門事件以来の中国共産党支配と習近平の専制政治を見つめてきた人たちである。
訳者の一人福本は言う。「今日の世界情勢が告げていることは、専制主義は既に過去のものと考えることはできない、という事実である。…専制国家が世界史の動向を左右する、あるいは専制国家の振る舞いが周辺国家を脅かす、という可能性は今後も消えることはない。…今後、いかに強大な専制国家と対峙していくか、その非専制化への歩みをどのように促すのか、保守革新、左右両翼など従来の枠組みに関わりなく、問われている」。
余計な台詞ですが、マルクスのロシア帝国主義批判の本の書評が載っているメディアの名前が何処かの独裁国家の新聞名とそっくりなのも何かの皮肉でしょうか。
ダニエル・サスキンド『WORLD WITHOUT WORK』
例によって『労働新聞』7月3日号に、書評(【書方箋 この本、効キマス】)を寄稿しました。今回はダニエル・サスキンドの『WORLD WITHOUT WORK』(みすず書房)です。
https://www.rodo.co.jp/column/152297/
原題の英文を訳せば「仕事のない世界」となる。「AI(人工知能)で仕事がなくなるからBI(ベーシックインカム)だ」という近頃流行りの議論を展開している一冊だといえばそのとおりなのだが、日本で近年出された類書に比べて、議論のきめが相当に細かく、かつて『日本の論点2010』(文藝春秋)でBIを批判した私にとっても引き込まれるところが多かった。
前半の3分の2は、AIで仕事が絶対的に減少していくという未来図を描く。労働経済学では、工場労働のような定型的タスクは機械に代替され、専門職や対人サービスのような非定型的タスクは代替されにくいというが、AIの発達により身体能力、認知能力、感情能力も代替されるようになり、専門職的な知的労働こそがタスク侵蝕に曝されるようになった。その結果もたらされるのは大変な不平等社会だ。ではどうする?
後半の3分の1はサスキンドの処方箋が展開される。まず批判されるのは「人的資本が大事だ、もっと教育訓練を」という現在主流の政策だ。彼はこれを去りゆく「労働の時代」のなごりに過ぎないと批判する。「学び直しても臨むべき仕事の需要そのものが充分にないとしたら、世界トップレベルの教育も無用の長物」だからだ。だから、「正しい対策は、職業や労働市場に頼らない,全く別の方法でゆたかさを分かち合う方法を見つけ」なければならない。
そこで「大きな政府」によるBIという話になるのだが、彼は無条件のユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)には批判的で、条件付きベーシックインカム(CBI)を主張する。その理由が、かつて私がBIを批判した論点と共通する。それは、誰をBIをもらえるコミュニティ・メンバーとして認めるのかという問題だ。観光ビザで来た外国人にも気前良く給付するというのでない限り、どこかで線引きが必要になる。それは「俺たち仲間のためのBIを奴らよそ者に渡すな」という「血のナショナリズム」を生み出さずにはおかない。労働の時代には仕事で貢献しているというのが移民排斥に対する反論になった。しかし仕事の足りない世界ではそうはいかない。彼がBIに付すべきという条件は労働市場ではなくコミュニティを支えることだ。
私がかつてBIを批判したもう一つの論拠は「働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりである」ということだった。最終章「生きる意味と生きる目的」で、彼はこの問題を取り上げ、絶妙な処方箋を提示する。CBIの給付条件とは、「有償の仕事をしない人が、経済的な方法ではない形で、自分の時間の少なくとも一部を投じて社会のために貢献すること」である。「労働市場の見えざる手が無価値なものと判定している活動を、目に見えるコミュニティの手ですくい上げ、価値があるもの、大切なものとして掲げ直す」のだ。そうすることで、「CBIの要件を充たして給付金を得ることは、家族のために給料を稼ぐことで感じる充足感とさほど変わらない充足感をもたらす」だろう。これこそが、近年急拡大しているアイデンティティ・ポリティクスへの対抗力になるはずだと彼は言う。これは議論する値打ちのある提言だと思う。
岩井克人『経済学の宇宙』
例によって月1回の労働新聞書評、今回は岩井克人『経済学の宇宙』です。
https://www.rodo.co.jp/column/153750/
著者は東京大学経済学部名誉教授であり、日経新聞からこのタイトルで出れば、偉い学者の『私の履歴書』みたいなものと思うのが普通だ。実際、生い立ちからMIT留学までは、貧しいながらも知的な家庭から東大に進学し、米国に留学する立志伝的な話。ところがそこから話がとてつもない方向に逸れていく。新古典派経済学の真っ只中にいながら、市場経済がその根底に不安定さを秘めていることを暴露する不均衡累積過程の理論を構築し、非主流派の道を歩み始める。ちょうどそこへ東大経済学部から声が掛かり、1981年帰国。このとき、評者は法学部生として岩井助教授の「近代経済学」の初講義を聴いたはずだが、中身はまったく記憶にない。
ここから経済学者の枠を超える岩井の大活躍が始まる。柄谷行人らとの交流のなかから、マルクスの価値形態論の限界を突破し、貨幣商品説と貨幣法制説の双方を超克する貨幣の自己循環論法理論を構築する。その後日本経済論を経て、法人論に取り組むことになる。彼が法人という存在の不思議さに気が付いたのは、プリンストン大学の図書館で戦前の『法律学辞典』の「法人」という項に、末弘厳太郎(「末廣巌太郎」というのは誤り)が「法人とは自然人にあらずして法律上“人”たる取扱いを受くるものを言ふ」と書いているのを見て、驚きのあまり本を落としそうになったときだ。
私も含めて法学部出身者にとっては、これは民法総則の初めの方で勉強する常識中の常識で、何ら驚くことではない。ところが、学生時代に「法律などという権力の道具にすぎないものを勉強するなんてとんでもない」と思って法律に関する講義は一度も取っていなかった岩井は、ヒトでありながらモノでもある不可思議な存在に驚いた。ヒトは主体としてモノを所有し支配する。モノは客体としてヒトに所有され支配される。奴隷社会や家父長制社会とは異なり、ヒトをモノとして扱ってはいけないのが近代社会のはずだ。だが法人は、モノであるのにヒトとして扱われ、ヒトとして扱われているのにモノでしかない。こんな不思議な存在になぜ今まで気が付かなかったのだろうと。驚いた岩井はそこから法人論や会社法の猛勉強を始め、会社統治の議論に乱入し、流行していた株主主権論を論破する。素直に民法の授業を聞いていた法学部出身者にはできない荒技だ。
マイケル・ジェンセン(参照記事=【本棚を探索】第5回『マイケル・ジェンセンとアメリカ中産階級の解体』ニコラス・レマン 著/濱口 桂一郎)のエージェンシー理論によって歪められた会社統治のあるべき姿を探し求めて、岩井は「信任関係」という概念に辿り着く。日本では知られていないこの英米法概念こそ、資本主義社会の中核にある会社という存在を根底で成り立たせている経営者の会社に対する忠実義務であり、「倫理=法」なのだ。その根底にあるのは、トマス・シェリングの「人は自分と契約できない」という原理である。経済学は「私的悪こそ公共善だ」と嘯いて倫理を葬ったはずなのに、会社の中核には倫理が法として存在しているというこの逆説。そして、経営者の会社への信任関係を否定して株主利益に奉仕するエージェンシーに貶めたマイケル・ジェンセンのイデオロギーは、株主に奉仕すると称して「自分と契約」することによってお手盛りで巨額の報酬を得る経営者たちとして実現した。
末弘厳太郎の字が間違っているとわざわざ指摘しているのは、世の中にはこの間違いがけっこう多いから。末弘であって、末廣じゃありません!
ちなみに末弘厳太郎は拙著『家政婦の歴史』にも登場して、暴れ回っています。
トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』
例によって月1回の労働新聞書評、今回は トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』(みすず書房)です。
【書方箋 この本、効キマス】第32回 『資本とイデオロギー』 トマ・ピケティ著/濱口 桂一郎
もう5年以上も前になるが、『21世紀の資本』がベストセラーになって売れっ子だったピケティの論文「Brahmin Left vs Merchant Right」(バラモン左翼対商人右翼)という論文を
拙ブログで紹介したことがある。この「バラモン左翼」という言葉はかなり流行したが、右翼のリベラル批判の文脈でしか理解しない人も多く、造語主ピケティの真意と乖離している感もあった。
原著でも1000ページ、邦訳では1100ページを超える本書は、このバラモン左翼がいかなる背景の下に生み出されてきたのかを人類史的視野で描き出した大著だ。第1章と第2章は中世ヨーロッパの三層社会-聖職者、貴族、平民-を論じ、第3章から第5章はそれが近代の所有権社会に転換していった姿を描く。第6章から第9章は欧州以外の奴隷社会、植民地社会を描くが、特に第8章ではインドのカースト社会を論じる。ここまでで400ページ。いつになったら今日の格差社会の話になるのだとじりじりする人もいるかも知れないが、いやいやこれらが全部伏線になっているのだ。
20世紀初頭に財産主義に基づく格差社会の極致に達した所有権社会は「大転換」(ポランニー)によって社会民主主義社会に転換する。(ドイツや北欧の)社民党、(フランス等の)社会党、(イギリスの)労働党、(アメリカの)民主党が主導したこの転換は、保守政党によっても受け継がれ、社会は著しく平等化し、1980年代までの高度成長を生み出した。しかし、やがて新たな財産主義のイデオロギーが世を覆うようになっていく。本書では、1950-1980年代と1990-2010年代の間にいかに世界中の国々で格差が拡大していったかという統計データがこれでもかこれでもかと載っている。
このネオリベ制覇の物語は誰もが知っているが、なぜそんなことが起こったのかについて、本書が提示するのが左翼のバラモン化なのだ。半世紀前には、上記左派政党の支持者は明確に低学歴、低所得層であり、保守政党の支持者は高学歴、高所得層であった。低学歴層に支持された左派政権は教育に力を入れ、高学歴化が進んだ。その結果、学歴と政党支持の関係に大逆転が起こった。左派は高学歴者の党となり、右派が低学歴者の党になったのだ。インテリ政党と化した左翼は、もはや「うるせぇ、理屈はいいから俺たちに金寄こせ」というかつての素朴な叫びからはほど遠く、経済学者や社会学者のこむつかしい屁理屈を振り回す頭でっかちの連中でしかない。その姿を、かつての三層社会の聖職者(インドではバラモン)に重ね焼きして「バラモン左翼」と呼ぶピケティの哀しき皮肉をじっくり味わってもらいたい。
バラモン左翼に愛想を尽かして社会民主主義政党から離れた低所得層に、「君たちの窮状の原因は移民どもだ」と甘い声をかけるのがネイティビスト(原住民優先、移民排斥の思想で、「自国主義」という訳語は違和感がある)だ。特に、「外国人どもが福祉を貪っているから君たちの生活が苦しいんだ」と煽り立てるソーシャル・ネイティビストが世界中で蔓延っている。ピケティは最後の章で21世紀の参加型社会主義を提起するが、そしてそれは評者の理想と極めて近いものではあるのだが、現実との落差はため息が出るほどだ。
メアリー・L・グレイ、シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク』
例によって月1回の労働新聞書評、今回は メアリー・L・グレイ、シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク』(晶文社)です。
https://www.rodo.co.jp/column/166499/
2023年になっても状況は変わっていないが、タスク型社会の明暗をそれぞれ強調する翻訳書が出た。(日本支社はジョブ型の売り込みに余念のない)マーサー本社のジェスターサン&ブードロー『仕事の未来×組織の未来』(原題:「ジョブなきワーク」)(ダイヤモンド社)が,伝統的なジョブ型雇用社会の駄目さ加減をこれでもかと徹底批判するのに対し、今回取り上げる『ゴースト・ワーク』は、タスク型労働社会の絶望的なまでの悲惨さを、アメリカとインドの底辺労働者の現実を克明に描き出すことによって訴える。
「ゴースト・ワーク」とは何か?世間ではAIによって多くの仕事が失われると騒ぐ声が喧しいが、失われるのはまとまった安定的なジョブであって、AIが繰り出す見事な技の背後には膨大な量の隠された人間労働があるのだ。印象的な数字がある。AIをトレーニングするためには膨大な量の画像にラベルを貼る必要がある。最初は学生たちを雇ってやらせたがそれでは作業完了には19年かかる。機械学習でやらせたが間違いが多すぎて使い物にならない。そこで、クラウドワーク大手のアマゾン・メカニカル・タークを使い、167か国4万9千人のワーカーを使って320万の画像に正確にラベル付けできたという。メカニカル・ターク(機械仕掛けのトルコ人)とは、人が中に入っていかにも機械仕掛けのように振る舞うチェス自動(実は手動)機械のことだ。なんと皮肉なことか。
そう、人間がやってないような顔をしているAIは膨大な人間労働によって支えられているのだ。ただしそれは、一つ一つのタスクを瞬時に世界中で奪い合う苛酷な社会である。彼らは画面上でアルゴリズムに従って作業するだけで、お互いに何のつながりもない。彼らの労働の融通性とは極度の神経集中であり、自主性とは孤独とガイダンスの欠如であり、技術的不具合や善意の努力のせいで不正行為と判断されアカウントを停止され、報酬をもらえないこともしばしばだ。彼らAIを支えるゴースト・ワーカーたちを著者は「機械の中の幽霊」(ゴースト・イン・ザ・マシン)と呼ぶ。アーサー・ケストラーの有名な本のタイトルであるこの言葉が、これほどに似合う人々もいないだろう。
著者は,2055年までには今日の全世界の雇用の6割が何らかの形のゴーストワークに変わる可能性が高いと警告する。自動化対人間労働というのは偽りの二項対立だ。ジョブという確立した社会安定装置が崩壊し、そのときそのときの見えざる「機械の中の幽霊」労働が世界を覆うだろうと。最後に著者が並べ立てる解決策には、ポータブル評価システム、ゴーストワークのサプライチェーンの責任の所在を明らかにするグッドワークコード、新たな商事改善協会としての労働組合、国民皆保険制度、そして成人労働者全員に被雇用者として基本給を支払う一種のベーシックインカムなどがある。しかし、これで未来は安心だというのはなかなかない。人間の未来は機械の中の幽霊なのだろうか。
ここには書きませんでしたが、著者の一人の名前の「シッダールタ」には、思わず「お、お釈迦さま!」と口走ってしまいました。
栄剣『現代中国の精神史的考察』
例によって『労働新聞』に月イチで連載の書評ですが、今回は栄剣『現代中国の精神史的考察』(白水社)です。
【書方箋 この本、効キマス】第40回 『現代中国の精神史的考察』栄 剣 著/濱口 桂一郎
次の台詞はどこの国のどういう勢力が権力掌握前に繰り出していたものか分かるだろうか。
「民主がなければすべては粉飾だ」、「民主を争うのは全国人民の事柄だ」、「民主主義の鋭利な刀 米国の民主の伝統」、「思想を檻から突破させよ」、「中国は真の普通選挙が必要だ」、「民主が実現しなければ、中国の学生運動は止まらない」、「天賦の人権は侵すことはできない」、「一党独裁は至る所で災いとなる」、「誰が中国を安定させられないのか?専制政府だ!」。
これは、中国共産党が抗日戦争勝利前後に『解放日報』と『新華日報』に発表した憲政に関する主要な言論を、一切手を加えず原文を再現したものだ。もちろん現在の中国共産党は、こんな恥ずかしい「黒歴史」はひた隠しにしている。
「民主」を掲げて「共産」を売りつけた後はもっぱら「専制」でやってきた革命の元勲の二世たち(中国でいう「太子党」)の政権にとって、こんな都合の悪いことばかり書かれた本の出版を許すはずはない。本書の原著は、アメリカで出版された中国語の本だ。かつてなら香港辺りで出版されていたのだろうが、今の香港ではもはや不可能なのだろう。著者の栄剣氏は1957年生まれのマルクス主義哲学者。天安門事件で研究を断念し、画廊を経営しながら中国国内で言論活動を展開してきた希有な人だ。その鋭い筆鋒は習近平政権の本質を容赦なく抉り出す。
初めの4章は習政権成立直前にスキャンダルで倒れた薄熙来の「重慶モデル」を賞賛していた権威主義学者たちの醜態をこれでもかと暴く。革命歌を唱い(「唱紅」)、汚職を摘発(「打黒」)して権力を強化する文革の再来ともいうべき重慶モデルは、薄夫妻のスキャンダルで幕を閉じたが、その本質は同じ太子党の習近平政権に受け継がれていることがよく分かる。
権力の座を脅かす可能性のある者をことごとく排除してイエスマンで固めた独裁者のアキレス腱は、ずばり後継者問題だと著者は指摘する。独裁者・毛沢東死後の政治危機を経験した鄧小平らが作り上げた任期制(国家主席は10年まで)、隔世決定制(現職の総書記ではなく前任の総書記が次期総書記の人選を行う)、儲君制(皇太子を決めておく)という3原則は、習近平によってことごとく破壊された。
しかし、そこにこそ破滅の源泉が埋め込まれている。栄剣曰く「憲法改正により長期政権ひいては終身政権に対する法律の妨げが一掃され、反腐敗運動により党内の誰をも戦々恐々とさせる恐怖によるバランス調整を行い、軍隊をがっちりと押さえることにより個人独裁の拠るべき存在としての国家の暴力機械を掌握し、あからさまな個人崇拝により党内で提灯持ちを競っておもねりへつらう皇帝賛美文化を作り上げ、さらに一歩進んでビッグデータなど最先端のITを掌握することにより前例のない政治デジタル全体主義帝国を作り出している。しかし、これらすべては、いずれも党権主義が直面する究極的な権力の難局を有効に解決することができない。それはすなわち、後継者の問題を最終的に解決することができないために、権力の制御システムが遅かれ早かれ崩壊する日が来るのである」と。そろそろ不老不死の妙薬を探しに徐福を蓬莱国に送り出す時期かもしれない。
牛窪恵『恋愛結婚の終焉』
月イチで連載している『労働新聞』の書評、今回は牛窪恵さんの『恋愛結婚の終焉』(光文社新書)です。
【書方箋 この本、効キマス】第44回 『恋愛結婚の終焉』牛窪 恵 著/濱口 桂一郎
岸田文雄首相が「異次元の少子化対策」を打ち出しても、人口減少の流れは一向に止まらない。結婚した夫婦の子育て支援に精力を注入しても、そもそも若者が結婚したがらない状況をどうしたら良いのか。この袋小路に「恋愛と結婚を切り離せ!」という衝撃的なメッセージを叩き込むのが本書だ。
でも考えてみたら、なぜこのメッセージがショッキングなのだろう。20世紀半ばまでの日本では、恋愛結婚は少数派で、大部分はお見合いで結婚に至っていたはずなのに。
そこで著者が元凶として指摘するのが、近代日本に欧米から導入され、戦後開花したロマンティック・ラブ・イデオロギーだ。結婚には恋愛が前提条件として必要だという、恋愛と結婚と出産の聖なる三位一体が、結婚のあるべき姿として確立し、歌謡曲の歌詞や恋愛小説を通じて若者たちの精神を調教してきた。恋愛なき結婚などというのは、薄汚い計算尽くの代物のようにみなされてきた。戦後社会論の観点からすると、このイデオロギーが会社における社員の平等と家庭における主婦の平等を両輪とする戦後型性別役割分業体制の基礎構造をなしてきたのだろう。
実際、昭和の歌謡曲は、男が「俺についてこい」と歌い、女が「あなたについていくわ」と歌うパターンがやたらに多い。そういうのを褒め称える歌を、みんなが歌っていたわけだ。
ところが、今日の若者にとって、恋愛はそんなに望ましいものではなくなってきているようだ。恋人がいるという男女が減少しただけでなく、恋人が欲しいという男女も激減しているのだ。にもかかわらず、今日の若者たちは「恋人はいらない」、「恋愛は面倒」と考えながら、いずれ結婚はしたいと思い、そして結婚するなら恋愛結婚でなければならないと思い込んでいる。
そこで、「恋愛と結婚を切り離せ!」というメッセージになるわけだ。そもそも、恋愛と結婚は一体どころか相反する性格のものなのではないか……と。
そのあたりの感覚を、20歳代半ばの2人の女性の言葉が見事に表現している。曰く、「結婚で大事なのは、生活を続けられるサステナビリティ(持続可能性)でしょう。恋愛みたいな一過性の楽しみは、学生時代に済ませたから、必要ないんです」。「オシャレなレストランに詳しい男性は、結婚後に浮気するし、冷蔵庫の余り物でこどものご飯を作る能力もない。“恋愛力”なんて(結婚に)邪魔なだけ」。つまり、恋愛と結婚のニーズは180度違うというわけだ。
かくして著者は、恋愛結婚の終焉を宣言する。曰く――そろそろ私たち大人がロマンティック・ラブの形骸化を認め、結婚と恋愛を切り離し、「結婚に恋愛は要らない」と若者に伝えてあげませんか?また結婚相手を決めかねている男女にも、「不要な『情熱』にこだわらず、互いを支え合える『よい友達』を探せばいいんだよ」と教えてあげませんか?――と。
トレンド評論家の著者が、社会学、歴史学、進化人類学、行動経済学といった諸学問を渉猟してさまざまなネタを繰り出しながら、恋愛結婚という昭和の遺産からの脱却を説く本書は、軽そうで重く、浅そうで深い、実に味わいのある一冊に仕上がっている。
(牛窪 恵 著、光文社新書 刊、税込1034円)
ちなみに、この牛窪恵さん、かつて拙著『働く女子の運命』を地方紙で書評していただいたことがあります。今回はそのときのお礼を兼ねて。
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