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2023年9月10日 (日)

ウェーバー歴史観はほんの30年前までは生きていたんだが

1904年に「資本主義の発展はプロテスタンティズムと関連があるんだよ!!」と唱えたヴェーバーの気持ちはまぁわからんでもないんだけど、日本とか中国とかインドがバリバリ経済発展してる2023年にヴェーバーをやたら持ち上げてる人は何考えてんの?とは思う。

これは、世代差が結構効いていると思うんだが、実を言うと、ほんの30年くらい前までは、「資本主義の発展は、プロテスタンティズム及び近世日本におけるその等価物と関連があるんだよ!!」という歴史観が、非マルクス系社会科学においては極めて強力な影響力を持っていたことは、もっと認識されていいと思う。

その近世日本における等価物については、アメリカのロバート・ベラーの『トクガワ・レリジョン』をベースに、多くの学者があれやこれやと議論し、イザヤ・ベンダサンこと山本七平氏も多くの著書を書いている。1970年代から80年代の頃の日本経済が世界を制覇するかのような議論が盛んだった頃の、その社会文化的説明として、当時政府系の研究会などでももてはやされていたのは、大体こういう修正ウェーバリアン的歴史観だった。

細々したことはどうでもいいけど、これらの議論は要するに、世界中で資本主義が発展したのは欧米と日本だけであるというほんの30年くらい前までは皆が当然の前提と認める事実を、ウェーバー的な歴史観と整合性あるように説明をつけるためのあれやこれやだったわけだが、そのほんの30年くらい前から、プロテスタンティズムとも近世日本のあれこれの思想とも縁のなさそうな、まさに東洋的停滞の極みと思われていたような中国やらインドやらが急速に資本主義的発展を遂げてきてしまったので、かつてはあれほど流行りに流行っていた議論が、急激に萎みきっていき、今では誰もかつてそんな議論が華やかに行われていたなんて知らなかったような顔をするに至っているわけだ。

だから、この浮き世離れした哲学者氏は、120年も時代遅れというわけではなく、せいぜい30年前の流行りの議論が脳みそに残っているだけに過ぎないのかも知れない。

 

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コメント

 確か森嶋通夫先生が「なぜ日本は没落するのか」で「日本のエリートには以前はマックス・ウェーバー的なエートス(倫理観)があった。しかし現在そのようなエートスがエリートたちから失われてしまった。だから日本は没落するのだ」と言う様な事を書いていましたね。

確かに政治家、財界人にはそのようなエートスは今やなくなってしまっていますね。
もっとも彼ら政治家・財界人もかつては農民だった普通の日本人が戦後の急成長でのし上がった人たちがほとんどのはずなので、にわかに身に付けたエートスを棄ててもとの普通の日本人のエートスに戻ってしまっただけなのかもしれないですが(^^;

それからウェーバーの「プロテスタンティズム・・・」は日本最大の読書会と称する猫町倶楽部の聖書を課題本にした読書会の事前レクチャーで宗教社会学者の橋爪大三郎さんが好意的に紹介していましたね。
橋爪さんはルーテル派のクリスチャンなので、いまだに思い入れがあるようです。

猫町倶楽部も「プロテスタンティズム・・・」を課題本として良く取り上げていましたが、橋爪さんの後押しがあったのかも。
しかし、「プロテスタンティズム・・・」」は確かに私の学生時代はまだ良く言及されていたものの、最近は聞かなくなっていたので多少の違和感を感じていたのは事実です。
結局その読書会には参加しませんでした。

橋爪大三郎さんはお師匠の小室直樹さんが森嶋通夫先生のお弟子さんらしいので森嶋先生の孫弟子に当たると言えば言えなくもないですね。

まあ、戦後日本におけるヴェーバー受容というのも特異な文脈によるものでしたね。
明確にマルクス主義唯物史観との対峙という構図でヴェーバー的な歴史観は流通した。日本における経済発展と平等化の両立は唯物史観を否定するものとしてとらえられた。

実際には、プロテスタンティズムがもたらしたエートスが資本主義の発展を因果的に促したという議論はヴェーバー自身の議論の本筋とはあまり関係がないのだが(しかし、そのように解釈できる余地はヴェーバーにある)。それゆえインドや中国の経済発展は特段ヴェーバーの議論を反駁するものにはならない。

マルクス主義が凋落して久しい現在、ヴェーバーはむしろ当時の世界最高峰といえる水準に達したドイツの歴史学や社会科学の文脈のなかで再評価する必要があるでしょうね。この知的蓄積はナチスの台頭を受けた学者の海外亡命によってアメリカに流出したが、70年代以降のアメリカの学問の変質によって失われてしまったようだ。

しかし主流派経済学に代表されるアメリカ的な社会科学の行き詰まりを見るに、かつてのドイツの知的遺産は十分探求するに値する鉱脈のように思われる。

話の発端はしょーもない社会学者の放言にあるようだが、そんな暇があったら昔の外国の学者の研究の翻訳や紹介、まとめをやったほうがはるかに意義があるだろう。だいたい二流以下の学者のオリジナルの研究なんて大して意味がないのである(暴言)。業績競争と称して二流以下の学者にオリジナルの研究なんてやらせてもくだらない論文の山ができるだけである。結果として、昔は二流以下の学者(こんなに繰り返すと怒る人間がいそうだがw)がやっていた翻訳とか基礎的なデータ採集の仕事に支えられて成立していた、本当にクリエイティブなオリジナルの研究ができる一部の学者のパフォーマンスも、二流以下の学者(まだ言うか)がやっていた下働き仕事がないために低下して学問全体が低調になっているのが現在の日本の状況であろう。研究というのは問題意識や関心を共有する学者の緩やかな集団プレーによって成立しているものである。どうも学術政策当事者は学問を個人プレーと考えて競争を促せば学問が発展すると思っているようだが、それはとんだ勘違いであって、学問は自律的な研究者間のゆるやかな分業によって成立するものであろう。だから近年の学術政策はすべて無残な失敗に陥っているのである。

このような競争的政策による結果は小器用な二流学者の跋扈である。つまり、真に学問全体を発展させる力量はないが、時世に応じて受ける研究成果を提示できるような学者である。選択と集中によってこのような学者にリソースを集中しても一過性のものであって学問全体の停滞をもたらすだけである。学問の発展に必要なのはクリエイティブな研究ができる一流学者と分際をわきまえた三流学者であって、思い上がった二流学者はいらない。

しかし政策当事者は二流学者の意見を聞きがちである。役人自身が二流の人間の集まりだからであろうか。

もはや文科省は政策の失敗を素直に認めるべきであろう。文科省の大学や学術に関する近年の政策に正しいものが一つもないのは驚くべきことである。全部的を外すというのは狙ってできることではない。根本的にものの考え方が間違っているのであろう。

文科次官はまず大学院重点化や博士号取得者増加政策の誤りを記者会見で謝罪すべきである。単純に欧米と日本との制度的違いを無視したために起こった間違いだが、これらがボタンの掛け違いのはじまりである。財務省の神田某も大学についておかしなことを言っていたのでついでに謝っておけ。カメラのフラッシュで頭ピカーと光らせておけ。それで円安もおさまるのではないか。知らんけど。

最近の国際卓越研究大学制度もくだらない。アメリカの猿真似の次はシンガポールの猿真似であろうか。シンガポールなんてグローバリゼーションに寄生して、グローバリゼーションの終焉とともにオワコンになるような国の真似をいまさらするなんて周回遅れもいいところであろう。センスがない。アメリカといい、シンガポールといい、日本とは国情が全く異なる国の真似ばかりしたがるのは青い鳥探しの現実逃避であろうか。諸大学はもうこのアホなゲームから降りて東北大学だけ晒し者にする方がよかろう。

しかし一連の失敗に終わった科学技術政策のブレーンらしき上山某はいまだに居座って責任をとらないでいるのにはほとほと呆れる。恥知らずほど恐ろしいものはない。この失敗は国力を著しく損なうものであってその罪は万死に値する。皇居前広場で切腹すべきであろう。

もちろん、プロ倫だけがウェーバーではないのですが、あの宗教社会学論集の中で、西洋と対比して東洋的停滞の典型として中国(儒教と道教)とインド(ヒンズー教と仏教)を描いていたその二つが、ここ数十年で急速に資本主義発展を遂げてしまったというのは、結構ボディーブローな気がします。

もちろん、宗教社会学だけがウェーバーではないので、あの膨大な経済と社会のあちらこちらに、昨今のチンピラ社会学者が足下にも及ばない様々な洞察がちりばめられているのですが。

ウェーバーは、中国やインドでは資本主義は将来にわたって発展し得ない、と言っているわけでは全くないのですが、研究者やマニア以外に理解されるのはなかなか難しいでしょうね。それより、社会学が話題になっているにも関わらず、野口雅弘さんなど現在の日本の代表的なウェーバー研究者の多くが政治学者で、社会学者の名前があまり見当たらないのが気になるところです。「職業としての政治」を熟読しろと言いたくなるような社会学者が一部に目立ちますが、社会学界でもあまり勉強されなくなっている可能性があります。

もちろん、厳密に議論すればそうなのでしょうが、専門のウェーバー学者でもない読書人が『宗教社会学論選』所収の中間考察や儒教とピューリタニズムあたりで受けていた印象は、そういう認識だったと思います。というか自分の若い頃の印象に過ぎませんが。

話の元になっているらしき「社会学者ガー」については、なまじわたしがよく知っているのは労働社会学とか教育社会学といった実証派のハイフン付き社会学者の人たちなので、芸能界で活躍するヒョーロン家的社会学者ばかりが右代表にされていることに違和感を感じるのですが、でもそれが世間の一般的印象なんですかね。

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