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2023年9月27日 (水)

健康診断の源流

希流さんが、拙著に関わってこう呟いていますが、

濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』を読んで思わず目からウロコが落ちたかのように思わず実感させられたのは、労働者の健康診断を使用者に義務付けるのはメンバーシップ型雇用の発想だというくだり。これは本来公衆衛生の領域だという。

労働者個人の健康管理を使用者がするのは当然だと正直思い込んでいましたが、やはりこれは違うか。職場の労働安全衛生については使用者が責任を持たなければならないが、基本的に個人の健康管理を企業が行うというのはやはり違うでしょうね。有害業務とかだとまた話は違うのでしょうが。

D20230815 この日本独特の職場健康診断の問題は、昨年の日本労働法学会でも取り上げられましたが、その堀江正知さんが最近、『労働判例』のコラム「遊筆」で、次のように述べています。

 会社の定期健康診断には、医師が驚く2つの特徴がある。労働者に受診義務を課していることと、その結果が事業者に報告され保存されていることである。医師の日常は、患者への説明と同意なしには誰にも伝えられない情報で溢れている。その医療機関を選んだのは患者であり、受診するかどうかも患者の自由である。診察の強制は精神保健福祉法や麻薬取締法が規定する場合に限られるはずである。ところが、労働安全衛生法は、約6000万人の労働者に受診を強制し、その結果を他人に渡している。その理由は、科学的な合理性と国際標準ではなく、歴史的な経緯と保守的な文化である。
 1938年、国家総動員法の公布直後に、工場法の省令(工場危害予防及衛生規則)が改正され、工場医による健康診断が規定されたのが発端である。・・・・

この歴史的な経緯については、わたしも最近、『労基旬報』にやや詳しい解説を書いたことがあります。

健康診断の労働法政策@『労基旬報』2023年6月25日

 2022年10月29,30日に開催された日本労働法学会の第139回大会は「労働安全衛生法改正の課題」というテーマで大シンポジウムを開きましたが、そこにただ一人労働法学者以外から登壇していたのが産業医科大学教授の堀江正知氏でした。「産業医制度の歴史と新たな役割」というその報告で、堀江氏は戦時体制下で作られた一般健康診断という制度が他国に例を見ない独特の制度であることに注意を促しました。
 現在労働安全衛生法第66条以下に規定されている健康診断については、我々ほぼ全てが労働者として毎年受診してきた経験を持つこともあり、違和感を感じることもないまま過ごしてきていると思われますが、その源流は堀江氏が指摘するとおり、戦時体制下の健民政策にあり、それが戦後80年近くにわたってさらに拡大発展してきたという歴史があります。本稿では、労働法学の本流からは軽視されがちな労働安全衛生法制において、日本独特の発展の方向性を根底で形作ってきたものともいうべき職場における健康診断の源流を見ていきたいと思います。
 現在の労働安全衛生法の出発点は、1911年に制定され1916年に施行された工場法の第13条ですが、これに基づき制定された省令には健康診断規定はありませんでした。現行労働安全衛生法の健康診断規定の直接の原型である規定が初めて設けられたのは、1938年の工場危害予防及衛生規則改正(昭和13年4月16日厚生省令第4号)によってです。この背景には、戦時体制が進む中で、結核対策と国民の体力向上に熱心な陸軍のイニシアティブで厚生省が設置されたことと国家総動員法が制定されたことがあります。
 厚生省が設置されたのは1938年1月11日ですが、これは支那事変が始まった盧溝橋事件から6か月を経過し、近衛文麿首相が「蒋介石政権を対手とせず」と声明した同年1月16日の直前でした。しかしその動きは陸軍省医務局長・陸軍軍医総監であった小泉親彦が1936年秋頃、国民の体力向上のため強力な衛生行政の主務官庁を作る衛生省構想を提起したことに始まります。小泉はその理由を、「全国から某師団に集まる優良なる壮丁三千五、六百名の中で約二百名が慢性の胸の疾患を有つてゐる。然し是は甲種合格である。甲種にならなかつた乙種の体格者、それから不合格者の者を合せれば、全壮丁中の過半数以上となるが、此等の不良体格者の中に、如何に多数の胸の悪い青年が存在するか想像に難くない。病気でなく、日々仕事に励むで居る青年で、口から結核菌を吐出す人が百人に付二人づゝあるのであるから、此の有疾無息の健康者が全日本にどれ位多数あるか、能く考へて見なければならぬ」と述べていました。
 そこで陸軍は、近衛文麿に対し内閣支持の条件として同構想の受入れを求めたのです。一方近衛には福祉国家構想から内務省社会局を中心とした新省設置の考えがあり、この両者を合体させて、「国民体力の向上及び国民福祉の増進を図るため」保健社会省を設置することとしたのです。ところが枢密院から、国内情勢に照らして「社会」という文字は不適当という意見が出され、書経の「正徳利用厚生」からとった「厚生」という言葉を用いることとなり、体力局、衛生局、予防局、社会局、労働局の5局プラス保険院からなる厚生省が設置されたのです。新生厚生省の中でも最重要課題とされたのは国民体力の向上でした。体力局は鋭意調査を進め、国民体力管理法案を作成して議会に提出し、1940年4月8日国民体力法として成立に至りました。同法は未成年者に対する体力検査を義務づけるとともに、同局は国民運動として健民運動を展開しました。こうした動向が、健康診断規定の導入発展の背景事情として存在していたことは重要です。
 1938年工場危害予防及衛生規則改正の主眼は、安全管理者、工場医、安全委員といった、これもまた今日の労働安全衛生法に連なる安全衛生管理体制を義務づけたことにありますが、その工場医の任務として年1回の健康診断が初めて規定されたのです。
第三十四条ノ三・・・ 
⑦工業主ハ工場医ヲシテ毎年少クトモ一回職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ
⑧前項ノ健康診断ニ関スル記録ハ三年間之ヲ保存スベシ
 工場危害予防及衛生規則は1940年10月7日に改正され、工場医の選任義務が職工500人以上から100人以上に拡張されるとともに、衛生上有害業務従事者に対する年2回の特殊健康診断(という名称ではありませんが)の規定が設けられました。
第三十四条ノ三・・・
⑦工業主ハ工場医ヲシテ毎年少クトモ一回職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ
⑧工業主ハ瓦斯、蒸気又ハ粉塵ヲ発散シ其ノ他衛生上有害ナル業務ニ従事スル職工ニ付テハ工場医ヲシテ毎年少クトモ二回健康診断ヲ為サシムベシ
⑨其ノ年ニ於テ国民体力法ノ体力検査ヲ受ケタル者ニ付テハ一回ヲ限リ前二項ノ規定ニ依ル健康診断ハ之ヲ為サシメザルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ国民体力法ニ基キ体力検査ヲ行ヒタル工業主以外ノ工業主ハ国民体力法ノ体力検査票又ハ精密検診票ノ写ヲ作製スベシ
⑩前三項ノ健康診断ニ関スル記録又ハ体力検査票若ハ精密検診票ノ写ハ三年間之ヲ保存スベシ
 このように創設拡充されてきた健康診断規定が、大東亜戦争中の1942年に大きく再編拡充されましたが、これは規定の置かれる省令がそれまでの工場危害予防及衛生規則から工場法施行規則に移行する形を取りました。それまでは安全衛生管理体制の一環として工場医の任務という位置づけであったのが、正面から工業主が職工に対して実施すべき義務として位置づけられたわけです。
第八条 工業主職工ヲ雇入レタルトキハ雇入後三十日以内ニ医師ヲシテ其ノ職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ但シ厚生大臣ノ指定スル健康診断ヲ受ケ三月ヲ経過セザル者ヲ雇入レタルトキハ此ノ限ニ在ラズ
第八条ノ二 工業主ハ医師ヲシテ毎年少クトモ一回職工ノ健康診断ヲ為サシムベシ
②瓦斯、蒸気又ハ粉塵ヲ発散シ其ノ他衛生上有害ナル業務ニ従事スル職工ニ付テハ前項ノ健康診断ハ毎年少クトモ二回之ヲ為サシムベシ
③其ノ年ニ於テ前条ノ規定ニ依ル健康診断又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ヲ受ケタル者ニ付テハ其ノ受ケタル回数ニ応ジ前二項ノ規定ニ依ル健康診断ハ之ヲ為サシメザルコトヲ得
第八条ノ三 前二条ノ健康診断ニ於テハ左ノ項目ニ付計測、検査又ハ検診ヲ行フベシ但シ其ノ年二回以上ノ健康診断ヲ行フ場合ニ於テハ身長、体重及胸囲ノ測定並ニ視力、色神及聴力ノ検査ハ之ヲ一回行フヲ以テ足ル
一 身長、体重、胸囲
二 視力、色神、聴力
三 感覚器、呼吸器、循環器、消化器、神経系其ノ他ノ臨床医学的検査
四 「ツベルクリン」皮内反応検査
②前項第四号ノ検査ハ其ノ反応陽性ナルコト明カナルモノニ付テハ之ヲ省略スルコトヲ得
③「ツベルクリン」皮内反応ガ陽性若ハ疑陽性ノ者又ハ医師ニ於テ必要ト認ムル者ニ付テハ「エツクス」線間接撮影又ハ「エツクス」線透視ヲ行フベシ
④ 前項ノ検査ニ依リ結核性病変又ハ其ノ疑ヲ認ムル者ニ付テハ「エツクス」線直接撮影赤血球沈降速度検査及喀痰検査ヲ行フベシ
⑤地方長官ハ前二項ノ検査ノ実施ヲ困難トスル工場ニ付テハ之ヲ免除スルコトヲ得
⑥業務ノ種類又ハ作業ノ状態ニ依リ厚生大臣必要アリト認ムルトキハ第一項、第三項及第四項以外ノ項目ニ付テモ検査ヲ行ハシムルコトヲ得
第八条ノ四 工業主第八条又ハ第八条ノ二ノ規定ニ依リ職工ノ健康診断ヲ為サシメタルトキハ健康診断ノ結果ニ関スル記録ヲ作成スベシ
②第八条ノ二第三項ノ規定ニ依リ健康診断ヲ為サシメザリシ場合ニ於テハ工業主ハ国民体力法ノ体力検査ノ体力検査票若ハ精密検診票又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ノ結果ニ関スル記録ノ写ヲ作成スベシ
③前二項ノ規定ニ依ル健康診断ノ結果ニ関スル記録、体力検査票若ハ精密検診票ノ写又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ノ結果ニ関スル記録ノ写ハ各三年間之ヲ保存スベシ
第八条ノ五 工業主ハ職工ノ健康診断ノ結果注意ヲ要スト認メラレタル者ニ付テハ医師ノ意見ヲ徴シ療養ノ指示、就業ノ場所又ハ業務ノ転換、就業時間ノ短縮、休憩時間ノ増加、健康状態ノ監視其ノ他健康保護上必要ナル処置ヲ執ルベシ
第八条ノ六 工業主ハ毎年一回第八条又ハ第八条ノ二第一項若ハ第二項ノ規定ニ依ル健康診断ノ結果(第八条ノ二第三項ノ規定ニ依リ健康診断ヲ為サシメザリシ者ニ付テハ体力検査又ハ厚生大臣ノ指定スル健康診断ノ結果)ヲ様式第七号ニ依リ地方長官ニ報告スベシ
第八条ノ七 工業主其ノ他健康診断ノ事務ニ従事シ又ハ従事シタル者ハ其ノ職務上知リ得タル職工ノ秘密ヲ故ナク漏洩スベカラズ
第二七条ノ二 第八条ノ七ノ規定ニ違反シタル者(工業主ヲ除ク)ハ百円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス
②前項ノ罪ハ告訴ヲ待テ之ヲ論ズ
 この改正により、健康診断を実施する義務は工場医選任義務のある職工100人以上工場だけではなく、工場法の適用される職工10人以上工場の工業主に課せられます。それゆえ、健康診断を担当するのは工場医に限らない「医師」とされています。また、年1回の定期健康診断と年2回の特殊健康診断に加えて、雇入時の健康診断も義務づけられました。さらに、検査項目にもツベルクリン検査やエックス線撮影など結核対策が前面に打ち出されています。この前年の1941年7月18日、陸軍軍医中将の小泉親彦は第3次近衛文麿内閣で厚生大臣に就任しており、同年10月18日の東条英機内閣でも留任して、1944年7月18日の総辞職までその職を務めました。この省令改正は、「結核は亡国病である」という小泉の信念を実現しようとするものであったと言えましょう。
 戦後になって制定された労働基準法は、労働時間規制をはじめとしてさまざまな分野で戦前の水準を遥かに超える労働者保護を達成した法律ですが、よく見ると戦時下の諸法令で導入されていたいくつもの規定がほぼそのまま、あるいは若干形を変えて盛り込まれていることが分かります。労働安全衛生管理体制や健康診断に関わる領域はその最も顕著な分野です。
 労基法には第5章として「安全及び衛生」が置かれ、危害の防止(第42~45条)、安全装置(第46条)、性能検査(第47条)、有害物の製造禁止(第48条)、危険業務の就業制限(第49条)、安全衛生教育(第50条)、病者の就業禁止(第51条) といった規定に続いて、次のような規定が設けられました。
 (健康診断)
第五十二条 一定の事業については、使用者は、労働者の雇入の際及び定期に、医師に労働者の健康診断をさせなければならない。
②使用者の指定した医師の診断を受けることを希望しない労働者は、他の医師の健康診断を求めて、その結果を証明する書面を、使用者に提出しなければならない。
③使用者は、前二項の健康診断の結果に基いて、就業の場所又は業務の転換、労働時間の短縮その他労働者の健康の保持に必要な措置を講じなければならない。
④第一項の事業の種類及び規模並びに定期の健康診断の回数は、命令で定める。
 法律の文言上は特殊健康診断と一般健康診断がまとめて規定されてしまっていますが、省令レベル(労働安全衛生規則)ではより詳細な規定が設けられています。まず雇入時健康診断は労働者50人以上事業と各号列記されている有害業務の常用労働者に義務づけられます。前者は安衛則第11条により医師である衛生管理者と医師でない衛生管理者の選任義務が課せられている事業と同じですが、1942年規則が工場法の適用される職工10人以上工場に雇入時健康診断を義務づけていたのに比べると小規模工場が対象から外れています。一方定期健康診断については、年1回型と年2回型があるのは1942年規則と同じですが、労基法の適用範囲が工場法よりも大きく拡大したこともあって、規定ぶりが複雑になっています。まず、年1回の定期健康診断が義務づけられるのは、上記雇入時健康診断の対象労働者に加えて、農林水産業と金融広告業、官公署等を除く大部分の業種の常用労働者です。これらには規模要件はありません。言い換えれば事実上ほぼすべての事業の労働者に一般定期健康診断を義務づけたことになります。これに対し、規模に関わりなく雇入時健康診断が義務づけられる各号列記の有害業務については、年2回の定期健康診断が義務づけられています。
 こうしてほぼ戦時下の法令をベースにして作られた健康診断規定が、1972年には労働安全衛生法上により詳細に規定され、その後も累次の改正によって次々と膨れあがっていったことは、読者もよくご存じの通りです。今や労働安全衛生法の第66条から第66条の10までの計13か条、労働安全衛生規則の第43条から第52条の21までの計40か条に及ぶ膨大な健康診断関連規定の原点は、戦時体制下の国民体力向上の必要性にあったという事実は、関係者によってもっと知られてもいいことだと思われます。

つまり、戦時体制下で、国家的メンバーシップの観点から、天皇の赤子としてやがて出征すべき労働者を預かる企業に義務づけられた健康診断規定が、戦後企業的メンバーシップの文脈に読み代えられて、今日まで脈々と継続されてきたわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

 「反戦平和」を掲げてきた旧総評は「日本の健康診断なるものは悪しき軍国主義の残滓であるから廃止すべきである!」と言っていたことはあったのでしょうか(^^;

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