リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い(再掲)とその前説
https://twitter.com/ShinHori1/status/1686574496952758272
大戦後の日本の言論や論壇の世界では長らく左派が有力だったとかいう議論があるが、左派といっても実際は社会主義派というような人は少なくて、多数の評論家やジャーナリストは「なんとなく社会福祉だけはあってほしいアナーキスト」みたいな感じの論調が多かったような気がする。
もう少しいうと、日本の言論界で割と多かったのは
「社会福祉と文化施設だけはあってほしい無政府主義者」
みたいな緩やか左派的な論者だったのではないか。こういうのは欧米流のポリティカルコンパスの「経済右派・左派」の図にはうまく落とし込めない。
変な言い方になるが、戦後日本の左派的な言論界の多数派も、ある意味「小さな政府主義者」だったのである。
戦後日本の左派言論の「社会福祉と文化施設だけやる小さな政府」を良しとする空気は、結局は「小さな政府」志向であることには違いがないから、結局は「政治家や公務員の無駄」の攻撃にとびつく。
朝日新聞が福祉軽視ではないのになぜか小さな政府志向で公共支出の無駄削減にうるさいのはその一例 ただ一般的にいう「小さな政府」は、警察や国防など安全維持の最低限の国家機能を意味するのだが、戦後日本の言論界の多くは「社会福祉と文化施設だけをやる小さな政府」を考えていた。
おおむねそういうことだろうな、と思うのですが、もっというと「社会福祉だけはあってほしい」すら希薄で、もっと先鋭な小さな政府主義者であったという指摘もあるんですね。
これはもう17年も前の本ブログのエントリですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_5af3.html(リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い)
一昨日のエントリーで紹介した後藤さんの本ですが、なかなか面白い記述があります。1960年代に左派からなされた福祉国家批判なんですが、例えば鈴木安蔵編『現代福祉国家論批判』にこういう叙述が見られるとして紹介しているんですが、福祉国家論の自由競争批判と国家機能の拡大擁護という議論は、「レッセ・フェールの原理の否定」「国家統制の強化と個人意思の社会全体への従属の必要性の強調」だといって批判しているんですね。後藤さん曰く、「福祉国家は個人の自由を奪うものだという批判は、通常は資本家サイドからのものであり、古典的自由主義からの批判である。つまり、右派が言うべき批判を日本では左派が述べていたことになる。保守派ではなく、左派が個人主義と自由主義を擁護する先頭に立つという、よく見られた光景の一こまであろう」。
こういう左がリベラルで右がソーシャルという奇妙な逆転現象の背景に、当時の憲法改正をめぐる動向があったようです。当時の憲法調査会報告は「憲法第3章を眺めると、それは18世紀的な自由国家の原理に傾きすぎており、時代遅れである」「20世紀的な社会連帯の観念、社会国家の原理にそれを切り替える必要があり、基本的人権の原理については、現代福祉国家の動向に即応すべきである」と強調していました。サヨクの皆さんにとって、福祉国家とは国民主権の制限の口実に過ぎず、ただの反動的意図にすぎなかったのでしょう。
かくのごとく、日本のサヨク知識人はリベラルなことノージックよりも高く、アンチ・ソーシャルなことハイエクよりも深し、という奇妙奇天烈な存在になっていたようです。そうすると、福祉国家なんぞを主張するのは悪質なウヨクということになりますね。これを前提にして初めて理解できる発言が、「構造改革ってなあに?」のコメント欄にあります。田中氏のところから跳んできた匿名イナゴさんの一種ですが、珍しく真摯な姿勢で書き込みをされていた方ですので、妙に記憶に残っているのです。
>稲葉さんの偉さは、一左翼であることがリフレ派であることと矛盾しないことを左翼として始めて示した点だと思う。それまでの左翼は、ある意味ネオリベ以上の構造派で、つまりはアンチ・リフレであったわけだから。それに対して、稲葉さんはそれが「ヘタレ」にすぎないことを左翼として始めて断言したわけで、これは実はとても勇気のあるすごいことだと思う。
投稿 一観客改め一イナゴ | 2006/09/20 14:46:18
普通の人がこれを読んだら頭を抱えてしまうでしょう。特にヨーロッパ人が見たら、「サヨクは市場原理主義者であるはずなのに。稲葉氏はめずらしくソーシャルだ、偉い」といってるようなもので、精神錯乱としか思えないはず。でも、上のような顛倒現象を頭に置いて読めば、このイナゴさんは日本のサヨク知識人の正当な思考方式に則っているだけだということがわかります。
しかし、いい加減にこういう顛倒現象から抜け出さないといけませんね。その点(だけ)はわたしはゴリゴリサヨクの後藤氏と意見を同じくします。
20年近く経っても、似たような話が続くというのも、いささかうんざりします。
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コメント
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「税金による社会福祉」、「税金による文化施設」、「アナーキスト」と並べるとおかしいので、
「篤志家による社会福祉」、「篤志家による文化施設」、「アナーキスト」なんですかね?
公益的な活動に対する「税金からの補助金」の交付なんかは後者には入らないはずだから、
後者の方々は、そんなのは求めなくても良いはずなんだよね
投稿: jj | 2023年8月 7日 (月) 18時42分
さすがに、革新自治体がブームになった、1960年代後半からは、日本的左派も「社会福祉だけはあってほしい」という立場に転換せざるを得なかったようですね。
ただし、それに対する財源の手当てはどうするか、ということについては、いまだに十分に頭が回らず「政治家や公務員の無駄のカット(軍事費の削減、というのも大別すると、こちらに入ると思います)」に飛びつくのでなければ、赤字国債の発行で万事OKということになっているようです。
投稿: SATO | 2023年8月 7日 (月) 18時42分
小さな政府志向の左派としてジャーナリストの斎藤貴男さんを挙げておきます。
斎藤さんは反戦平和的な言論人ですが、そのためか、第二次世界大戦中に発足した厚生年金保険を批判して積立金を全部国民に払い戻してゼロからやり直せ、と書いているのを見た時はさすがに呆れかえりました。
これはちくま文庫「国家に隷従せず」だったかと思います。
斎藤さんは今の厚生年金保険は発足後10数年後に積立方式から賦課方式に改めた事や仮に積立金を国民に払い戻したとしても賦課方式だから年金制度は維持出来る事、そして積立金を払い戻したら将来世代の保険料が上がってしまう事などは頭に血が昇り過ぎた・・・のか都合よく忘れたようです(^^;
斎藤貴男さんは他にも同時代社 クロポトキン「相互扶助論」の帯で「斎藤貴男氏絶賛」と言う煽りが書かれているのを見た事があります(^^;
投稿: balthazar | 2023年8月 7日 (月) 19時57分
ここには労働問題に関心を持つ人だけあって随分所得の高い人たちが揃っているようで、庶民増税の一環として消費税増税を礼賛する人ばかりなのが悪い意味で興味深い。日本国憲法下の憲政において増税のアガリは経団連および金融機関減税と国債償還、緊縮財政の種銭にしか使われていない事実を認識してなお庶民増税を主張するのだから、そう考えざるを得ない。
投稿: Lenazo | 2023年8月10日 (木) 22時44分
日本のソーシャリストは55年体制のかなり早い段階から事実上(ネオ)リベラル化していたんですね。
リベラル憲法の護憲を通じてそうなったというのはこじつけが過ぎるのでしょうが。
投稿: 不勉強な大人 | 2023年8月13日 (日) 13時20分
不勉強な大人様
>リベラル憲法の護憲を通じてそうなったというのはこじつけが過ぎるのでしょうが
それはなかなか難しい問題ですよね。
そもそも日本のソーシャリストは「日本人民共和国憲法」を掲げていた日本共産党のみならず、労農マルクス派の社会主義協会が主導する日本社会党左派も実は改憲派だったはずです。
社会主義協会はソ連流社会主義国家を目指していて、将来はその方向で改憲することを目指していたらしい。
ソーシャリストの掲げる「護憲」と言うのはあくまで日本国憲法第9条についてで、労農マルクス派の山川均氏の「非武装中立論」が代表的なものです。
しかし山川均氏は「非武装中立論」もあくまで反戦平和運動を自らの運動に引き付けるための方便として唱えていただけだったそうです。
荒畑寒村氏は民兵による防衛論を唱えて山川氏、そして向坂逸郎氏と論争していたと記憶しています。
マルクス主義色の強い日本のソーシャリストたちがその主張ゆえに政権に就く道を自ら閉ざしてしまい、「反権力」的な言説を振り回すうちに知らず知らずに「小さな政府」の主張に親和的になったという事ではないでしょうか。
投稿: balthazar | 2023年8月14日 (月) 19時04分