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2023年5月11日 (木)

ヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』@『労働新聞』書評

31grvfxfusl_sx343_bo1204203200_ 例によって『労働新聞』に月一回連載している書評コラム、今回はヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)です。

https://www.rodo.co.jp/column/149699/

 近年何かと騒がしいポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の源流から今日の蔓延に至る展開をこの一冊で理解できる。そして、訳者が皮肉って付けたこの邦題が、版元の早川書房の陳謝によって自己実現してしまうという見事なオチまでついた。
 ポリコレの源流は、意外にも正義なんて嘲笑っていたポストモダン(ポモ)な連中だった。日本でも40年くらい前に流行ってましたな。脱構築だの、全ては言説のあわいだとか言って、客観的な真実の追求を嘲弄していた。でもそれは20世紀末には流行らなくなり、それに代わって登場したのが、著者が応用ポストモダニズムと呼ぶ社会正義の諸理論だ。
 たとえばポストコロニアル理論では、植民地支配された側が絶対的正義であり、客観的と称する西洋科学理論は人種差別を正当化するための道具に過ぎない。ポモの文化相対主義が定向進化して生まれたこの非西洋絶対正義理論は、中東アフリカの少女割礼(クリトリス切除)を野蛮な風習と批判する人道主義を帝国主義的言説として糾弾する。
 たとえばクィア理論では、ジェンダーだけではなくセックスも社会的構築物だ。その結果、日本でも最近起こったように、男性器を付けたトランス女性が女湯に入ってくることに素直な恐怖心を表明した橋本愛が、LGBT差別だと猛烈な攻撃を受けて心からの謝罪を表明するに至る。もちろん、ジェンダーは社会的構築物だし、ジェンダー規範の強制が女性たちを抑圧している姿はイランやアフガニスタンに見られるとおりだが、ポモ流相対主義が定向進化すると、それを生物学的なセックスと区別することを拒否するのだ。
 そのジェンダースタディーズも、交叉性フェミニズムという名の被害者ぶり競争に突っ走る。批判的人種理論と絡み合いながら、白人男性は白人男性ゆえに最低であり、客観的なその言説を抑圧すべきであり、黒人女性は黒人女性ゆえに正義であり、どんな主観的な思い込みでも傾聴すべきという(ねじけた)偉さのランキングを構築する。いや黒人女性でも、それに疑問を呈するような不逞の輩は糾弾の対象となるのだ。
 その行き着く先は例えば障害学だ。もちろん、障害者差別はなくさなければならない。しかし、それは障害があるからといって他の能力や個性を否定してはならないということであり、だからこそ合理的配慮が求められるのだ。ところがこのポモ流障害学では、障害がない方がいいという「健常主義」を批判し、障害こそアイデンティティとして慶賀すべきと論ずる。その挙げ句、肥満は健康に悪いから?せた方がいいと助言する医者を肥満に対するヘイトだと糾弾するファットスタディーズなるものまで登場するのだ。もちろん、これは冗談ではない。
 いやほんとに冗談ではないのだ。ポリコレのコードに引っ掛かったら首が飛ぶ。本書にはその実例がてんこ盛りだ。そしてその列の最後尾には、本訳書を出版した早川書房の担当者が、訳者山形浩生の嫌味な解説を同社のサイトに載っけた途端に批判が集中し、あえなく謝罪して削除したという一幕が追加されたわけだ。まことに「社会正義」はいつも正しい。めでたしめでたし(何が)。     

(参考までに)

上記書評の最初と最後で触れた訳者山形浩生の嫌味な解説(削除されたもの)と、全面的に謝罪しながらこれを削除した早川書房の編集者氏のツイートを、参考までに挙げておきます。

https://archive.is/2022.11.15-133517/https://www.hayakawabooks.com/n/n3856ec404c2f

訳者解説

1 はじめに

本書はHelen Pluckrose and James Lindsay 『Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity—and Why This Harms Everybody』(2020年)の全訳だ。翻訳にあたっては出版社からのPDFとハードカバー版を参照している。

2 本書の背景

本書は、ここ10年ほどで欧米、特にアメリカで猛威をふるうようになったポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)、あるいは「社会正義」運動の理論と、その思想的源流についてまとめた本だ。
現在のアメリカでは、一部の「意識の高い」人々による変な主張がやたらにまかりとおるようになっている。少なくとも、それを目にする機会はずいぶん増えた。性別は自分で選べるといって、女子スポーツに生物学的な男性が出たりする。大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される。大学で非白人学生による単位や成績の水増し要求を断ると、白人による抑圧の歴史を考慮しない差別だと糾弾される。
批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それがまったくの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。
それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか奨励されるという異常な事態すら起きつつある。身近なところでは白人が日本の着物を着れば(あるいは黒人が日本アニメのコスプレをしたら)それが(ほとんどの日本人は気にしないか、むしろおもしろがっていても)関係ない第三者により文化盗用だと糾弾され、他文化の要素を採り入れたデザイナーや企業が謝罪に追い込まれる事態も頻発している。
さらにこうした事態に対して科学的知見に基づく反論をすると、各種科学や数学はすべて植民地帝国主義時代の白人男性が開発したものだから、それを持ち出すこと自体が差別への加担だ、と変な逆ギレをされ、この理屈がいまやカリフォルニア州の算数公式カリキュラムの基盤となりつつある。
そして2022年夏には科学分野で有数の権威を持つ『ネイチャー』誌までこうした運動に入り込まれ、今後はマイノリティのお気持ちに配慮しない、つまり「社会正義」に都合の悪い論文は却下するという公式方針(! !)を打ち出し、中世暗黒時代の再来かと嘆かれている始末だ。いったい何が起きているのか? 何がどうよじれると、こんな変な考えがはびこり、表舞台にまで浸透するようになるのか?
本書はこうした「社会正義」の様々な潮流を総覧して整理してみせる。そしてその源流が、かつてのポストモダン思想(日本では「ニューアカデミズム」とも呼ばれたフランス現代思想)の歪んだ発展にあるのだと指摘する。それが、過去数世紀にわたる飛躍的な人類進歩をもたらした、普遍性と客観性を重視するリベラルで啓蒙主義的な考え方を完全に否定する明確に危険なもので、これを放置するのは分断と敵対、自閉と退行につながりかねないと警鐘を鳴らす。

3 著者たちについて

ジェームズ・リンゼイは1979年生まれ、アメリカの数学者であり、また文化批評家でもある。ヘレン・プラックローズはイギリスの作家・評論家だ。いずれも、リベラリズムと言論の自由を強く支持し、本書に挙げられたような社会正義運動と、それに伴う言論弾圧やキャンセルカルチャーについては強く批判する立場を採る。
どちらも、いろいろ著作や活動はある。だが二人が有名になったのは何よりも、2017~2018年に起こった通称「不満スタディーズ事件」のおかげだ。
哲学研究者ピーター・ボゴシアンとともに、この二人はカルチュラル・スタディーズ、クィア研究、ジェンダー研究、人種研究等の「学術」雑誌(もちろん本書で批判されている各種分野のもの)にデタラメな論文を次々に投稿し、こうした学術誌の査読基準や学問的な鑑識眼、ひいてはその分野自体の学術レベルの低さを暴こうとした。「ペニスは実在せず社会構築物である」といった、明らかにバカげた論文が全部で20本作成・投稿され、途中で企みがバレたものの、その時点ですでに七本が各誌に受理・掲載されてしまった。もちろんこれは1995年にポストモダン系学術誌に物理学者アラン・ソーカルらがでたらめ論文を投稿したソーカル事件(後ほど少し説明する)を明確に意識していたものだったし、この事件も「ソーカル二乗」スキャンダルなどと呼ばれたりする。
この事件で各種現代思想/社会正義研究(少なくともその刊行物)のデタラメさ加減が見事に暴かれた、と考える人は多い。その一方で、ソーカル事件のときとまったく同じく、「手口が汚い」「学者の良心を信じる善意につけこんだ下品な手口」「はめられた雑誌は業界で最弱の面汚しにすぎず、何の証明にもならない」「主流派の焦りを示す悪意に満ちた詐術であり、これ自体がマイノリティ攻撃の差別言説だ」といった擁護論もたくさん登場した。首謀者の一人ボゴシアンは、この一件が不正研究に該当すると糾弾され(だまされた雑誌が「人間の被験者」であり、人間を研究対象とするときの倫理ガイドラインに違反した、とのこと)、勤務先のポートランド州立大学からの辞職に追い込まれている。
その残りの二人が、おそらくはこの事件を直接的に受けてまとめたのが本書となる。

4 本書の概要

本書の最大の功績の一つは、多岐にわたる「社会正義」の各種「理論」を、まがりなりにも整理し、多少は理解可能なものとしてまとめてくれたことにある。
こうした「社会正義」の理論と称するものの多くは、とんでもなく晦渋だ。文字を追うだけでも一苦労で、なんとか読み通しても変な造語や我流の定義が説明なしに乱舞し、その理論展開は我田引水と牽強付会の屁理屈まがいに思える代物で、ほぼ常人の理解を超えている。それをわざわざ読んで整理してくれただけでも、実にありがたい話だ。
さらに一般的には、一応はまともな肩書きを持つ学者たちによる「理論」が、そんなおかしなものだとはだれも思っていない。読んでわからないのは自分の力不足で、理論そのものは難解だけれど、まともなのだろう、世の中で見られる異常な活動の多くは、末端の勇み足なのだろう、というわけだ。
が、実はだれにも理解できないのをいいことに、そうした「理論」自体が、まさに常軌を逸した異常なものと化している場合があまりに多い。それを本書は如実に明らかにしてくれる。
では、本書の指摘する各種理論の変な部分はどこにあるのだろうか? そのあらすじを以下でざっとまとめておこう。
フェミニズム、批判的人種理論、クィア理論等々の個別理論については、ここで細かくまとめる余裕はないので本文を参照してほしい。だが、本書によればそうした理論のほとんどは同じ構造を持ち、その歴史的な源流も同じなのだ。こうした様々な「思想」の基本的な源流はかつてのポストモダン思想にあるという。
で、そのポモ思想って何?

ポモ思想は、本書の認識では左派知識人の挫折から生まれたやけっぱちの虚勢だ。1960年代の社会主義(学生運動)の破綻で、左翼系知識人の多くは深い絶望と挫折を感じ、資本主義社会にかわる現実的な方向性を打ち出せなくなった。その幻滅といじけた無力感のため、彼らは無意味な相対化と極論と言葉遊びに退行した。それがポストモダン思想の本質だった、という。
そのポモ思想によれば世界は幻想だ。客観的事実などは存在せず、すべてはその人や社会の採用する思考の枠組みや見方次第だ。だから資本主義社会の優位性も、ただの幻想なんだよ、と彼らは述べる。
そして、その思考の枠組み(パラダイムとか、エピステーメーとか「知」とかいうとカッコいい)は社会の権力関係により押しつけられる。それは社会の言説(ディスクール、というとカッコいい)としてあらわれるのだ。その中にいるパンピーは、知らぬ間にそうした枠組みに組み込まれてしまい、それがありのままの客観的な世界だと思い込んでいる。そして人々がその支配的な言説に基づき行動/発言すること自体が、まさにその枠組みを強化し、延命させるのだ。
つまりオメーらみんな、口を開いた瞬間に権力に加担している。えらいアタマのいい、言語に対するシャープな批判力を養い、社会を超越した視線を持つ自分たちだけが、その欺瞞に気づけるし、資本主義の幻想の中で右往左往するだけのオメーらのバカさ加減を認識できるんだよ、というのがポストモダニズムだ、と本書は述べる。
ふーん、それで? 資本主義社会が幻想ならどうしろと? それに代わるものをこの理屈は提出できない。その意味でポモ思想は、左翼がかった高踏的なインテリどもの知的お遊びにすぎなかった。やがてその遊びのネタが次第に尽き、自己参照的な言葉遊びに堕すと、こうした知的お遊戯自体が無内容で非建設的なものとして逆に嘲笑の対象と化した。現代思想業界の雑誌が、本物の科学者たちの捏造した無内容なインチキ論文を嬉々として採用してバカにされた1995年のソーカル事件は、そうした社会的な認識の現れでもある。
が、それと前後してポモ思想に飛びついた人々がいた。それが活動家たちだ。活動家たちも、20世紀後半には壁にぶちあたっていた。女性の抑圧や植民地主義、人種差別といった社会の問題は、当初は資本主義社会の抱える本質的な問題と思われていた。社会主義は、資本主義がそういう搾取の上に成立しているのだ、自分たちはそれを解決する、と主張し続けてきた。それを信じて、多くの社会活動家は社会主義、マルクス主義的な立場からの活動を続けてきた。
が……社会主義の惨状と崩壊で、その立場も崩れてきた。一方で啓蒙思想とリベラリズムが広がるとともに、こうした問題も次第に資本主義の枠内で改善してきた。もちろん完璧ではない。地域差もある。だが20世紀半ばまでに、こうした問題のフォーマルな面はかなり解消された。それにつれて多くの社会活動家たちの活動範囲もどんどんせばまった。しかも残された差別の多くは、社会的な慣習、惰性、初期条件の差から来る創発的なもので、政治的な発言力などではなかなかどうにかできるものではないし……
そこにあらわれたのがポモ思想だ。そこでは、各種の抑圧や差別は、社会全体における権力関係として、人々の「知」の構造の中にはびこるものとなる。それを表現するのが言説であり、そしてその言説が繰り返されると「知」は強化され、そこに内在する差別や抑圧はますます強まる。それを何とかしない限り、形式的な法律だの規制だのをいくらいじったところで、各種社会問題は何も解決しないのである! 社会の正義を実現するためには、社会全体の言説と「知」のあり方を変えねばならない!
だがこれは、一瞬で言葉狩りと思想統制と人民裁判へと転じかねない発想だ。差別的な発言を探して糾弾し、それを述べた人物を吊し上げて、言説を発する立場(つまりは職場など)から追い落とすことで言説の権力構造を変える──まさに現在はびこりつつあるキャンセルカルチャーそのものだ。
そして……抑圧者、権力者たちは自分たちに都合のいい、差別を構造化した知/言説を構築し、そこに安住しすぎているが故に、そうした権力構造をそもそも認識できない。それを認識できるのは、排除され、抑圧されてきたが故にその欺瞞を実感している、被抑圧者、被差別者、弱者、他者、マイノリティたち……そしてもちろん、こうした思想や活動を学んで「社会正義」に目覚めた(Wokeな)意識の高い人たち(つまり自分たち)だけなのだ!
つまり自分たちだけが言葉狩りと思想統制の審問官になれる、というわけだ。だからこの人たちの癇にさわった(「トリガーした」)言説は、それだけで有罪確定だ。そこでは事実も論理も関係ない(それ自体が権力的な言説なのだから)。表面的な意味を越えて、そうした言説や表現の持つ構造的な含意にこそ差別があるのであり、それを検出できるのは被差別者や他者のお気持ちだけだ。それに反論するのはまさに、その反論者が差別構造に気づけない、つまりその人物が無自覚な(いやヘタをすると悪意に満ち)罪深い差別者である証拠だ。いやそれどころか、その反論自体が被抑圧者へのセカンドレイプでヘイトスピーチなのだ。
本書で挙げられた各種の「社会正義」理論の流派は、すべてこのパターンにあてはまる。そこでの「弱者」は何でもいい。女性、LGBT、黒人、マイノリティ、肥満者、身体障害者、病人、そしてそうした各種要因の無数の組み合わせ。歴史的経緯や主要論者の嗜好により多少の差はあれ、本書での説明ではどれもおおむね似たようなパターンをたどる。
そしてそのいずれでも、弱者アピールが何よりも正統性の根拠となる。差別されているというアイデンティティによってこそ、その人の「正義」と批判力は担保される。「社会正義」運動の多くが「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる所以だ。そしてこれは、往々にしてきわめて倒錯的な主張につながる。この発想からすれば差別をなくして対等な立場と平等性を実現しようとするのは、そうした弱者の特権性をつぶして既存権力構造に隷属させようとする差別的な口封じの陰謀になりかねない。病気を治療したり、マイノリティの教育水準を引き上げて社会的な不利をなくそうとしたりするのは、その人々の弱者としてのアイデンティティ否定だ!
差別をなくす、というのは本来、社会的な不利をなくす、ということだったはずだ。それが弱者アイデンティティの否定だというなら、これは差別をなくすために差別を温存すべきだ、というに等しい変な議論になりかねない。が、いまの「社会正義」理論の一部はまさにそういうものになり果てている。これは誰のための、何のための「正義」なのか、と本書は批判する。
マーティン・ルーサー・キングは、肌の色ではなくその中身で人が判断される時代を待望した。これは啓蒙主義とリベラリズムの思想で、あらゆる人を平等に扱おうとする。だが「弱者」に特権的な視点と判断力があり、その人たちのお気持ちだけを重視すべきで、そこに含まれない人々は目覚めていないんだからその主張は無視してよい、というこの「社会正義」の理論は、分断と対立を煽り、別の形で差別を温存させるだけだ。
そうした危険な動きの拡大には警戒すべきだ、と本書は述べる。アイデンティティを超える普遍的な価値観と万人の共通性を強調した、啓蒙主義とリベラリズムの立場を復活させるべきなのだ。だって、それが実際に社会の平等と公正を拡大してきたのはまちがいのない事実なのだから。そしてそのためには、本書で異様な「社会正義」理論を理解したうえで、それに対して筋の通った反論をしよう。
これまでは、「差別はいけません」といった漠然としたお題目のために、みんなこうした理論に正面きって反対するのを恐れてきた面がある。それがこうした「理論」をはびこらせてしまった。だが「社会正義」理論を否定するというのは、別に差別を容認するということではない。どこは認め、どこは受け入れないのかをはっきりさせて、決然とした対応を!

5 本書の受容とその後

当然ながら、本書はスティーブン・ピンカーをはじめ、啓蒙主義とリベラリズムを擁護し、その21世紀的な復権を主張する論者からはきわめて好意的に迎えられた。もちろん、著者二人の先人ともいうべき、ソーカル事件のアラン・ソーカルも絶賛している。「社会正義」サイドは、無理もないが本書を口をきわめてののしっていて、著者たちも執拗な攻撃を受けている。著者の一人リンゼイは、LGBT活動などをからかったツイートをやり玉にあげられて、2022年の8月5日にツイッターの垢バンをくらってしまった。
またこうした思想的な潮流よりは、社会経済的な背景が重要との指摘もある。学術界全般の悪しきこむずかしさ崇拝傾向に加え、アメリカの大学のほとんどが私学で、学費と寄付金のために生徒やその親の過激な主張に断固とした態度がとれないこと、つぶしのきかない人文系大卒者の激増と就職難に伴う「意識の高い」NGO急増のほうが主因だという説も出た。現代思想は彼らの方便でしかないというわけだ。これは一理あるが、その方便に気圧されないためにも、それが出てきた背景と中身を知っておくのは無駄ではない。
いずれにしても読者の評判はかなりよく、いくつかメジャー紙のベストセラーにランクインするほどの売上を見せている。『フィナンシャル・タイムズ』紙などの年間ベストブックにも選ばれた。こうした理論の冷静でわかりやすい概説書が欲しいというニーズは(おそらく支持者側とアンチ側の双方に)それなりにあったらしい。
そうした解説ニーズに応えるためか、2022年には本書をさらに噛み砕いた「読みやすいリミックス版」(Social (In)justice: Why Many Popular Answers to Important Questions of Race, Gender, and Identity Are Wrong—and How to Know What’s Right)も出版され、こちらもかなり好評だ。
そしておそらく、その後のアメリカの政治状況も、本書の好評とある程度は関係している。「社会正義」理論の弊害への懸念が2010年代末から高まっていたのはすでに述べた通り。それが本書登場の背景でもある。特に2020年に全米で吹き荒れた、黒人差別に抗議するBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動とそれに伴う騒乱は、社会に大きな傷痕を残し、それを「社会正義」的な思想の広まりがその暴走を煽ったという指摘もあった。つまりは、左派による「社会正義」理論の濫用が問題だということだ。
だがそこで奇妙な倒錯が生じた。2020年のヴァージニア州知事選で、共和党候補が批判的人種理論ことCRTの教育制限を公約に挙げた。「社会正義」の理論と、その教育現場への安易な導入こそが、人種分断を煽る大きな要因なのだという。だが実際に当選してから彼らがはじめたのは、きわめて穏健な人種差別教育や多様性教育の抑圧だった。そしてそれが、続々と他の州にも拡大し、同時にジェンダー教育などもCRTのレッテルの下に含めて潰そうとしつつある。つまり今度は右派による「社会正義」理論の(レッテルとしての)濫用が課題になってきたというわけだ。
こうしていまや「社会正義」理論は、一部の人しか知らない特異な社会運動理論から、政争ツール最前線にまで踊り出てしまった。好き嫌い(および肯定否定)を問わず、こうした議論の妥当性を判断する一助としても、思想や理論について、概略でも理解する必要性は高まっている。その意味で、本書のような見通しのよい解説書への需要は、今後当分続くのではないだろうか。

6 日本にとっての意義

日本では幸いなことに、本書の発端になったような異常な事件が頻発したりはしていないようだ。各種の思想や哲学系の雑誌で、「社会正義」的な思想の特集が組まれても、その思想自体が各種の運動を煽ったという事例は、寡聞にして知らない。「社会正義」的主張を掲げる抗議運動や、それを口実にした吊し上げやキャンセル活動は確かにある。
だが系統だったものは少なく、また多くの場合には本音の私的な遺恨や派閥抗争がだらしなく透けて見える。一方で受容側の企業や、かなり遅れてはいるが公的機関や大学なども、SNS炎上などの対処方法がだんだんわかってきた様子はうかがえる(基本、無視がいいようだ)。
だからおそらく読者の多くは、「社会正義」が生み出した変な運動の矢面に立たされることもないだろう(と祈っていますよ)。政治トピックに上がるとも思えないから、本書に述べられた個別理論の細部を理解する必要に迫られることもないだろう。本書への関心も、恐い物見たさの野次馬めいたものが大きいのではないか。
だが怪しげな理論の先鋭化と暴走が現実的な問題を引き起こす可能性は常にある。本書を通じてその現れ方を理解しておくのは、決して無駄にはならない。そしてそれ以上に、本当の社会正義や社会集団共存の実現は当然ながら必要なことだ。多くの人がそれを認識しているからこそ、異様な「社会正義」理論(またはその反動)がつけいる隙も生まれてしまう。
それを防ぐためには、その社会正義を自分自身がどう考えるのか、何を目指すのかについて、個人や組織が自分なりの基盤と筋を確立しておく必要がある(本書で懸念されている、「社会正義」の巣窟となりかねない企業や組織の多様性担当者といった役職は、本来はそうした基準の構築が仕事だろう。もちろんCRT禁止の旗印で常識的なジェンダーや多様性の教育まで潰されそうになったときにも、ある程度の知識があれば「これはCRTとちがう」と変な介入をはねかえして筋の通った対応をしやすくなる)。
そして本書や類書の最大の貢献はそこにあるはずだ。本書により「社会正義」理論のおかしな展開を見る中で、読者は自ずと自分にとって何が正しいかを考えるよう迫られるからだ。
それを一人でも多くの読者がやってくれれば、訳者(そしてまちがいなく著者たちも)冥利につきようというものだ。

7 謝辞など

翻訳は、前半を森本、後半を山形が行い、最終的に山形がすべてを見直している。

訳者たちはいずれも、こうした分野の専門家ではない。各種専門用語などは、なるべく慣用や定訳に従ったつもりだが、思わぬまちがいや各種理論・理屈の誤解などはあるかもしれない。また引用部分については、邦訳があるものはなるべく邦訳を参照したが(邦訳の該当ページは注を参照)、文脈その他に応じて修正した部分もそこそこある。誤訳、用語のまちがいなど、お気づきの点があれば、訳者までご一報いただければ、反映させていただく。そうした正誤表や関連リソースについては、以下のサポートページで随時更新する。https://cruel.org/books/books.html#translations
本書の編集は早川書房の一ノ瀬翔太氏が担当された。当方の様々な見落としをご指摘いただいたばかりか、太字や大文字表記などで特殊な概念を示した原著を、日本語での違和感のない表記法を編み出してわかりやすくしていただき、心より感謝する。そしてもちろん、本書を手に取ってくださる読者のみなさんにも。
 2022年9月 デン・ハーグにて

https://twitter.com/shotichin/status/1599788337015189504

『「社会正義」はいつも正しい』解説記事の公開を停止しました。私はテキストが持ちうる具体的な個人への加害性にあまりに無自覚でした。記事により傷つけてしまった方々に対して、深くお詫び申し上げます。記事の公開後、多くのご批判を社内外で直接・間接に頂き、 問題を自覚するまでに一週間を要しました。結果、対応がここまで遅れてしまったことにつきましても、誠に申し訳ございません。取り返しのつくことではございませんが、今後の仕事に真摯に向き合い、熟慮を重ねてまいります。

(念のため)

ちなみに、こういうことを言う人もいるので、

https://twitter.com/killjoy2thewld/status/1656795432612405248

また知識人(濱口桂一郎氏)がポリコレ腐しつつクィア理論やトランスに関する悪意ある言説を広めるってのを観測した
まあこの本取り上げてる時点で…って感じだけどさ…。

濱口氏実はお会いしてお話しさせていただいたことあるんだけど、コンタクトを取ったことがある人に後から信頼を削ぎ取られるようなことがあるたびに無力感を感じる

本書がそういう差別を煽動する悪辣な極右の際物本であるかどうかを、本書の最後の結論部分を引用して確認できるようにしておきます。

・人種差別はいまも社会問題だし、対応が必要だというのは認める

・批判的人種<理論>や交差性が、その対応の最も役に立つツールだとは認めない。人種問題は、可能な限り厳密な分析を通じて解決するのが最もよいと信じるから。

・人種差別は、人種に基づく個人や集団に対する偏見や差別的行為として定義されるし、そのようなものとして対応するのがよいと考える

・人種差別が言説を通じて社会に焼き込まれているとか、それが避けがたく、あらゆるやりとりの中に存在するからそれを見つけて糾弾すべきだとか、それがいつどこにでも存在し、あらゆるところに充満した偏在する制度的な問題の一部だ、とかいう話は認めない

・人種差別に対処する最もよい方法は、人種分類に社会的に対する重要性を復活させて、その重要性を極端に高めることだ、などとは考えない

・各人は、人種差別的な見方をしないという選択ができるし、またそうなるよう期待される。それにより人種差別は次第に低減し、珍しいものになり、お互いをまずは人間として見て、ある人種の一員かどうかは二の次になるだろうと考える。人種問題は、人種化された体験について正直に述べることで対処するのがよく、その一方で共通の目標と共有されたビジョンに向けて活動するべきだと考える。そして人種によって差別しないという原理は普遍的に尊重されるべきだと考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

あの人達の基本原理は、男女別に反対する訳ではなく、それは温存したままま
その振り分けは「私達のような良識のある人間の判断に従うべきなのよ」って
ことですからね

客観性や手続き的正統性ではなくてね

ポモが私的領域を守るべき、その私的領域では相対性が認められるべき、って
いう話だったのがそこに「私的なことは、公的なこと」なんぞを加えたものだ
から、偉いことに

法律論は「その企業とその労働者で結ばれたその契約」において、そのキャンセルは適法か、否か、という話なんだけど、ポリコレさんは「不逞の輩はキャンセルすべき。だから、問われるべきは当該人物が不逞の輩か、そうでないか、ということ。そして、それを判断するのは、私達なのよ。」ですからね

幸か、不幸か、日本ではもともと、こういう感覚が自然であるが故に、キャンカルが急拡大、という感じにはならないんですよね。キャンカルを前提に、それを利用して、気に入らない奴を追い詰めたり、逆に、キャンカルから身を守ったりする体制が双方ともに既に発達している訳で。ネットによるキャンカルは新しい現象だ、というだけのことですね

結論部分の引用は手打ち入力でしょうか
交差性は交叉性だと思われます

ポリコレが主張する「私的なことは公的なこと」が本当に実現すると、
全員、タレントみたいなことになるのね。そうすると、箸の上げ下げ
みたいなことも全て評価の対象になるのだけれど、それでいいのかな?
多分、いいんだろうね。そういうマナー的なことが評価の重要部分に
なることがバラモンさんの要求の根本じゃないかな

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