全身訴訟
弁護士の中川拓さんが、菅野和夫、下井隆史といった方々の論文にでてくる「全身訴訟」という言葉の意味が判らないと嘆いているのですが、
https://twitter.com/takun1981/status/1659062633260269570
00年代の菅野和夫論文に、「『全身訴訟』ともいわれる厳しい労使紛争」(判タ1253-48)、「仮処分手続が『全身訴訟』として長期化し本格化する現象」(ジュリ1275-9)と、
【全身訴訟】
という単語が出てくるが、定義がなく、意味がわからない。
判例秘書で検索すると、70年の萩沢清彦論文に、「労働紛争の流動的性格、全身訴訟としての特色」(ジュリ441-188)、72年の下井隆史論文に、「労働事件の<全身訴訟>性は本案訴訟の提起を事実上無用または困難ならしめ」(ジュリ500-488)と出てくるが、やはり意味がわからない。
ググっても全く出てこない。昔の労働事件の業界用語?・・・労働弁護士としては、労働事件=通常事件だが、時々労働でない一般民事をやると、その比較で何となく、「労働事件は全身訴訟」を体感する。
「人格、尊厳、生活、生存、人生、階級をかけた、全身全霊を込めた訴訟」のような感じ。
ただ、論文では主に仮処分関係で論じられてるので、やっぱり違う?
多分、ここでいわれていることに極めて接近した領域を研究している方がいます。平澤純子さんの「雇用終了をめぐる裁判の原動力に関する準備的考察」には、次のような一節が書かれています。
https://saigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1521&file_id=73&file_no=1
・・・解雇,雇止めは労働者の生活手段を途絶させるため,労使が鋭く対立しやすい。解雇,雇止めをめぐる労使紛争をここでは雇用終了紛争というが,雇用終了紛争が裁判に及んだときに投下される時間,費用,労力を思えば,紛争当事者と社会の損失を少しでも減らす方法を考えることが重要な課題となる。
しかし,裁判経験事例の研究を重ねると,労使双方に自ら紛争を長引かせ,大規模にする言動が多いことがわかってきた。紛争当事者と社会の損失を軽減する方法を考える前に,自ら紛争の規模を大きくし,紛争を長引かせる要因・背景を理解することにまず注力するべきだと思うようになった。そうでなければ, 全く的外れな問題解決の方法を考えることになるのではないか。そう思うような不可解なことが次々に見つかったからである。それは例えば次のようなことである。
裁判を起こすということは,裁判で勝つ自信があると推測する人が多いだろう。ところが,実際に裁判所で争った人に尋ねてみると,概して「勝つ自信があったわけではない」という。しかし,それでも「こんな解雇が許されて良いはずがない」と思って提訴したと異口同音に話していた。「許されない」「許されて良いはずがない」という言い方に,他者を意識していることが表れている。雇用終了で収入が絶たれるときになぜ他者を意識していられるのか。しかも,勝つ自信があるわけでもないのに,なぜ裁判を起こせるのか。不思議に思えるが,実際,彼らは概して自分の裁判を,社会にとって,労働者全体にとってできるだけ良い影響を及ぼす形で終結させるべく,有利な司法判断,より高い水準の和解で紛争を終結させようとする傾向を見せていた。こうした傾向は彼らに,敗訴したとき,社会や労働者全体に不利な司法判断の影響を及ぼすことになるので「申し訳ない」といって上訴という道を歩ませていた。かくして紛争がより一層長期化し大規模なものとなっていた。それを筆者は非合理的だと思った(1)。
裁判所の下す判決・決定はその後の裁判に影響を及ぼし,労使の行動規範となる。判決・決定はある人が参照すれば他の人の参照機会が排除されるわけではなく,費用を負担しない人の参照を排除できるわけでもない。つまり,非競合性と排除不可能性とを備えた公共財だと言える。それにもかかわらず裁判費用を当事者のみが負担するのを筆者は不条理だと思っていた。ところが,解雇,雇止めで収入を絶たれた人たちは費用の負担を回避するどころか自分や家族の生活や将来をリスクにさらしてでも,縁もゆかりもない労働者全体への負の影響を避けたいがために訴訟を提起し,裁判を続けていた。それはフリーライドされることを自ら欲しているかのように筆者には思えた。なぜそのようなことができるのか。筆者には不思議でならなかった(2)。
しかし,筆者は裁判経験事例の事例研究で,こうした不思議な人たちにたて続けに出会ってきた。一定数存在するということは,彼らの,フリーライドされることを自ら欲しているかのように見える言動には,道理があると考えるべきである。その道理をいかに理解したらよいのか。
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