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2023年5月

2023年5月31日 (水)

裁判所における解雇の金銭解決の実態令和編@JILPTリサーチアイ

Shinpan_20230531164101 JILPTのホームページのコラム「リサーチアイ」に、「裁判所における解雇の金銭解決の実態令和編」を書きました。先月報告書としてアップした労働政策研究報告書No.226『労働審判及び裁判上の和解における雇用終了事案の比較分析』の主な内容を図解したものです。

https://www.jil.go.jp/researcheye/bn/078_230531.html

去る2023年4月末、労働政策研究報告書No.226『労働審判及び裁判上の和解における雇用終了事案の比較分析』を上梓した。これは、厚生労働省の要請を受けて当機構が実施した調査研究結果を取りまとめたものである。その概要は既に昨2022年の10月と12月に、厚生労働省の労働政策審議会労働条件分科会に報告されていたが、そこに含まれていなかった詳細な調査結果も今回の報告書には盛り込まれているので、関心のある皆さまには是非この報告書自体を見ていただければと思う。このリサーチアイでは、今回の報告書に至るこの分野の先行研究の推移を概観した上で、前回の平成調査との比較に重点を置いて、今回の令和調査の結果を図解していきたい。・・・・・

 

 

 

 

第5回JTS学術賞を受賞しました

Japan Treasure Summit(JTS)という団体が毎年行っているJTS学術賞の第5回目の同賞を受賞しました。

この団体は、小宮山宏元東大総長が代表理事で、理事にはかつて日本IBMの社長をされた北城恪太郎さんもおられるようです。

昨日授賞式にお招きいただき、小宮山さんから表彰状をいただきました。

Image0_20230531141001

昨年の授賞式がJTSのサイトに載っていますが、それによると昨年は新井紀子さんが受賞されていたようです。

https://treasure-summit.jp/activity/2022/06/

 

2023年5月27日 (土)

日本的インターンシップとジョブ型ヨーロッパのトレーニーシップ

B20230601  一昨日届いた『労務事情』6月1日号は、私の「自己都合離職による給付制限割合52.8%」という1ページのコラムの次に、倉重公太朗さんの「インターンシップに関する法的留意点」という20ページ近い力の入った論考が載っています。

倉重さんもツイッターで紹介していますね。

https://twitter.com/kurage4444/status/1661588773971566592

労務事情でインターンシップについて書かせてもらいました。箸の上げ下げまで国に指導されるのはなんか違うと思うので少し強めのトーンで。

でもわたしは、ちょうどEUで欧州議会がトレーニーシップについての決議を見たところだったので、日本ってなんてのんきな国なんだろう、という感想を持ってしまいました。

というのも、昨日午後、都内某所で例によってジョブ型についての講演をしたところだったこともあり、ジョブ型社会の若者というのはとても厳しいのです。ジョブ型雇用社会では、募集とはすべて具体的なポストの欠員募集であり、企業があるジョブについてそのジョブを遂行するスキルを有する者に応募を呼びかける行動であり、応募とはそのポストに就いたら直ちにその任務を遂行できると称する者が、それ故に自分を是非採用してくれるように企業に求める行動です。その際、その者が当該ジョブを的確に遂行できるかどうかを判断する上では、社会的に通用性が認められている職業資格や、当該募集ポストで必要なスキルを発揮してきたと推定できるような職業経歴を提示することが最も説得力ある材料となります。そうすると、学校を卒業したばかりの若者は職業経歴がないのですから、卒業したばかりの学校が発行してくれた卒業証書(ディプロマ)こそが、最も有効な就職のためのパスポートになります。しかしながら、すべての学校の卒業証書がその卒業生の職業スキルを証明してくれるわけではありません。そうすると、自分の職業スキルを証明してくれる材料を持たない若者は、つらく苦しい「学校から仕事への移行」の時期を過ごさなければなりません。

 という話は、これまで様々なところで喋ったり書いたりしてきたことですが、その「移行」のための装置としてかなりのヨーロッパ諸国で広がってきているのがトレーニーシップ(訓練生制度)です。スキルがないゆえに就職できない若者を、労働者としてではなく訓練生として採用し、実際に企業の中の仕事を経験させて、その仕事の実際上のスキルを身につけさせることによって、卒業証書という社会的通用力ある職業資格はなくても企業に労働者として採用してもらえるようにしていく、という説明を聞くと、大変立派な仕組みのように聞こえますが、実態は必ずしもそういう美談めいた話ばかりではありません。むしろ、訓練生という名目で仕事をさせながら、労働者ではないからといってまともな賃金を払わずに済ませるための抜け道として使われているのではないかという批判が、繰り返しされてきているのです。

 とはいえ、ジョブ型社会のヨーロッパでは、訓練生であろうが企業の中で仕事をやらせているんだから労働者として扱えという議論が素直に通らない理由があります。最初に言ったように、労働者として採用するということはそのジョブを遂行するスキルがあると判断したからなのであって、そのスキルがないと分かっている者を採用するというのは、そのスキルがある応募者からすればとんでもない不正義になるからです。スキルがない者を採用していいのは、スキルを要さない単純労働だけです。そして、単純労働に採用されるということは、ほっとくといつまで経ってもそこから抜け出せないということを意味します。ジョブ型社会というのは、本当に硬直的でしちめんどくさい社会なのです。

 スキルがない者であるにもかかわらず、スキルを要するジョブの作業をやらせることができるのは、それが教育目的であるからです。労働者ではなく訓練生であるという仮面をかぶることで、スキルのない(=職業資格を持たない)者がスキルを要するジョブのポストに就くことができるのである以上、この欺瞞に満ちたトレーニーシップという仕組みをやめることは難しいのです。

 ヨーロッパの中でもドイツ、スイスその他のドイツ系諸国においては、いわゆるデュアルシステムという仕組みが社会的に確立しており、学校教育自体がパートタイムの学習とパートタイムの就労の組み合わせになっていて、学校を卒業する時には既に3年か4年の職業経験を持った立派な職業資格を獲得できるので、若者の失業問題はあまり顕在化しないのですが、フランスをはじめとする多くの諸国では、そういう仕組みが乏しいために、学校卒業後に訓練生として実地で仕事を覚える時期を強いられることになりがちです。

 とはいえ、さすがにそれはひどいではないかと声が高まり、EUでは2014年に「トレーニーシップの上質枠組みに関する理事会勧告」という法的拘束力のない規範が制定されています。そこでは次のような事項が求められています。トレーニーシップの始期にトレーニーとトレーニーシップ提供者との間で締結された書面によるトレーニーシップ協定が締結されること。同協定には、教育目的、労働条件、トレーニーに手当ないし報酬が支払われるか否か、両当事者の権利義務、トレーニーシップの期間が明示されること。そして命じられた作業を通じてトレーニーを指導し、その進捗を監視評価する監督者をトレーニーシップ提供者が指名すること。

 また労働条件についても、週労働時間の上限、1日及び1週の休息期間の下限、最低休日などトレーニーの権利と労働条件の確保。安全衛生や病気休暇の確保。そして、トレーニーシップ協定に手当や報酬が支払われるか否か、支払われるとしたらその金額を明示することが求められ、またトレーニーシップの期間が原則として6カ月を超えないこと。さらにトレーニーシップ期間中に獲得した知識、技能、能力の承認と確認を促進し、トレーニーシップ提供者がその評価を基礎に、資格証明書によりそれを証明することを奨励することが規定されています。とはいえこれは法的拘束力のない勧告なので、実際には数年間にわたり訓練生だといってごくわずかな手当を払うだけで便利に使い続ける企業が跡を絶ちません。

 ごく最近の2023年5月、欧州議会の雇用社会問題委員会がEUにおけるトレーニーシップに関する決議を採択し、その中で欧州委員会に対して、訓練生に対して十分な報酬を支払うこと、労働者性の判断基準に該当する限り労働者として扱うべきことを定める指令案を提出するように求めています。欧州労連はこれを歓迎していますが、欧州経団連はトレーニーシップは何より教育目的なのだと厳しく批判しています。それが単なる逃げ口上ではないのは、上述の通りです。ジョブ型社会というのは(近頃はやりのインチキジョブ型コンサルタントの言うこととは全く異なり)かくも硬直的な社会システムなのです。

 そういうEUの姿を見てきた目で日本における最近のインターンシップをめぐる議論を見ると、その間のあまりの落差に目がくらむ思いがします。職業資格や職業経験がある者を欠員補充として採用するジョブ型社会とは全く異なり、そんなもののまったくないど素人を好んで採用し、採用してから適当な職場に配置して、上司や先輩がその若者に作業をさせながら鍛え上げていくというのが、最もメインストリームの労働者像である日本社会において、インターンシップという名で呼ばれるある活動が、ヨーロッパ社会におけるトレーニーシップとはほとんど何の関わりもない全く別次元の代物となるのは、当然のことだと言えるでしょう。採用してからど素人を鍛え上げていく前提である以上、そのインターンシップなるものに職業スキルを身につけるための何事かが含まれることはあり得ません。では、インターンシップとは何のためにやるのかと言えば、まさにメンバーシップ型の採用のための道具以外ではあり得ないわけです。

 にもかかわらず、日本政府はインターンシップは採用のために使ってはいけないなどという欺瞞に満ちた政策を言い続けてきました。もっとも、政策といってもこちらも法的拘束力のある法令などではありません、文部科学省、厚生労働省、経済産業省による「インターンシップ推進に当たっての基本的考え方」なる文書が、インターンシップとは学生が在学中に将来のキャリアに関連した就業体験を行うことであり、そこで取得した学生情報を採用選考活動に使用してはならないと言っていただけです。ジョブ型社会からすれば完全にひっくり返った発想ですが、ジョブのスキルなどではなく、何でも前向きに取り組み、こなしていけるような人間力こそが大事だという日本的発想からすれば、これこそ素直な考え方であったのでしょう。

 とはいえ、経団連が(どこまで本気かはともかく)ジョブ型などと口走り、政府の中枢からもジョブ型を目指すかの如き言辞が弄されるようになってくると、さすがにそれで通すことも難しくなってきたようで、昨年の2022年6月にこの三省は上記「基本的考え方」を改訂し、一定基準を満たしたインターンシップで企業が得た学生情報を採用選考活動に使うことを認めました。一定の基準とは、具体的には、就業体験要件(実施期間の半分を超える日数を就業体験に充当)、指導要件(職場の社員が学生を指導し、学生にフィードバックを行う)、実施期間要件(汎用能力活用型は5日間以上。専門活用型は2週間以上)、実施時期要件(卒業・修了前年度以降の長期休暇期間中)、情報開示要件(学生情報を活用する旨等を募集要項等に明示)です。また、2023年4月に4府省から経済団体宛にされた就職・採用活動に関する要請の中では、2025年度卒業生から、専門活用型インターンシップを活用する者については、6月1日ではなく3月1日から採用選考を開始できる旨を示しています。それにしても、労働者として扱われない訓練生として長期間にわたり無報酬ないし低報酬で働き続けているヨーロッパの訓練生たちにとっては、似たような言葉で呼ばれる日本の若者たちの状況は、同じ地球上の出来事とはとても考えられないようなことでしょう。

 

 

 

 

2023年5月26日 (金)

高野研一『DX時代のビジネスリーダー』

F9ff49829b1a06760c4070bc28e8d8225b4bbed1 高野研一『DX時代のビジネスリーダー 創業者・起業家の発想法に学ぶ』(経団連出版)をお送りいただきました。

https://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/pub/cat5/bf2f371389d3b2d477f1e22d6f7dca018c94e760.html

◆変革期のリーダーに求められる能力がわかる
◆企業の人材育成策、個人の能力開発法を探る
◆求められるのは、未知の世界を探索する「価値の目利き力」
これまでのリーダーシップ理論では、自社のビジョンを部下と共有し、彼らに権限を委譲して当事者意識を高め、育成やコーチングにも注力するといったことが求められてきました。そのようなバランスの取れたリーダーシップを発揮する力があるにもかかわらず、現実の事業運営において悪戦苦闘する人が近年、多くなっているようです。
DX(デジタルトランスフォーメーション)と呼ばれるデジタル革命が急速に進んだ結果、従来型ともいえる、工業化時代に確立されたビジネスモデルが価値を生まなくなる一方で、新たなビジネスモデルを見出し、多くのステークホルダーのベクトルを合わせることができれば、新たな価値を創出する糸口とすることができるようになりました。そのために求められるのが、「価値の目利き力」です。
これまで「価値の目利き力」は、「生まれながらのセンスのようなもので、育成できるものではない」といわれてきましたが、優れた創業者のものの見方を振り返り、またシリコンバレーからイノベーションが湧き起こる理由を探るなかで、「価値創出に関する仮説検証を繰り返すことで習得可能」な能力であり、「創業期のリーダーシップ」ともいうべきものであることがわかってきました。
本書では、DX時代の新たなリーダー像を描き出すとともに、目利き力とは何か、どうすれば習得できるのか、さらにはそれをどう評価し、育成するのか、その方策を探ります。

本書の内容
プロローグ
第1章 なぜ創業者ばかりが活躍するのか
従来のリーダーシップ論の限界/新たなリーダー像のスケッチ/優れた創業者の「ものの見方」を習得する
第2章 優れた創業者はどこにフォーカスを当てているのか
社会にどのような価値をもたらすか/価値が生まれるメカニズム/未知の世界に解を求める
第3章 DX時代のリーダー像
ネットワーク効果を活かす/グローバルなエコシステムに入り込む/キャピタルゲインを有効活用する
第4章 リーダーの強さと弱さ
リーダーとしての「強さ」/倫理の問題を突き詰めて考える
第5章 DX時代における企業と個人の能力開発
企業の人材育成策/個人の能力開発法

 

 

2023年5月25日 (木)

自己都合離職による給付制限割合52.8%@『労務事情』6月1日号

B20230601  『労務事情』6月1日号の「数字から読む日本の雇用」に、「自己都合離職による給付制限割合52.8%」を寄稿しました。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20230601.html

 去る4月12日に開かれた新しい資本主義実現会議において、事務局から示された三位一体労働市場改革の論点案には、リ・スキリングによる能力向上支援、個々の企業の実態に応じた職務給の導入、成長分野への労働移動の円滑化など広範にわたる労働政策課題が詰め込まれていますが、その中に、「失業給付制度の見直し」という項目があり、次のように自己都合離職者の失業給付の給付制限を見直すべきとしています。
 自らの選択による労働移動の円滑化という観点から失業給付制度を見ると、自己都合で離職する場合は、求職申込後2か月ないし3か月は失業給付を受給できないと、会社都合で離職する場合と異なる要件となっている。会社都合の場合の要件を踏まえ、自己都合離職者の場合の要件を緩和する方向で具体的設計を行う。
 この議論自体がいろいろと問題を孕んでいますが、ここではそもそも自己都合離職により給付制限を受けている離職者がどれくらいいるのかを、毎年の『雇用保険事業年報』で確認しておきましょう。・・・・・

 

 

 

日本におけるジョブ型流行史@『日本労働研究雑誌』2023年6月号

755_06 本日発行の『日本労働研究雑誌』2023年6月号に「日本におけるジョブ型流行史」を寄稿しました。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/new/index.html

これは、「ジョブをめぐる2つの論点」という特集の一つで、特集記事全体は次のようになっています。

提言
求められる「型」を超える視点 今野浩一郎(学習院大学名誉教授)

解題
ジョブをめぐる2つの論点 編集委員会

論文
日本におけるジョブ型流行史 濱口桂一郎(JILPT労働政策研究所長)
労使関係論とジョブ─調査体験論的考察 石田光男(同志社大学名誉教授)
労働契約の展開における職務の特定 鈴木俊晴(早稲田大学教授)
メンバーシップ型雇用管理とジョブ型雇用管理─ジョブ型雇用管理は日本に定着するか? 八代充史(慶應義塾大学教授)
雇用制度に内在するジェンダー格差─職務を通して見えるもの 秃あや美(跡見学園女子大学教授)
国際比較から見える日本のジョブの特徴 明日山陽子(日本貿易振興機構アジア経済研究所副主任研究員)
ジョブ・クラフティングの可能性の多角的検討 高尾義明(東京都立大学大学院教授) 

拙論の要約は以下の通りです。

近年日本では「ジョブ型」の雇用管理や賃金制度が流行語となっているが,日本の歴史上雇用管理や労働政策において「職務」が注目されたのは1950年代から1960年代に至る時期であり,新しいテーマではない。この時期,経営者団体は年功的な生活給から職務給への移行を唱道していたし,政府も累次の経済計画等で同一労働同一賃金に基づく職務給や企業を超えた労働移動を推進しようとしていた。ところが,1970年代から1980年代には,職務よりもヒトに着目する日本的な雇用管理が賞賛されるようになり,賃金制度もヒトの能力に基づく(とされる)職能給が普及し,年功的な処遇が維持された。1990年代以降は,企業側が中高年層の過度な高賃金を是正するため成果主義を唱道する一方,非正規労働者の過度な低賃金を是正するための同一労働同一賃金が課題となり,日本経済の不振も相まって,半世紀ぶりに再び「職務」が注目されるようになっている。

 

 

2023年5月24日 (水)

倉重公太朗・白石紘一編『実務詳解 職業安定法』

7f65219859394fde9070f41d57760e80 いやまだ出ていません。7月5日刊行ということなのでまだだいぶ先ですが、版元のサイトに書影がアップされたようなので、紹介しておきます。

https://www.koubundou.co.jp/book/b10031450.html

長年、職業紹介事業に関する基本法であった職業安定法。新卒学生の内定辞退率を予測するサービスが炎上して業界を震撼させた近年の「リクナビ事件」などを背景としつつ、テクノロジーの発達による募集情報等提供事業と職業紹介との区分の曖昧化や、人材サービスの活況に伴う職業紹介市場の右肩上がりの拡大などから、職業安定法が実務と関係してくる場面が飛躍的に増えています。2022年10月施行の職業安定法改正では、募集情報等提供事業にかかる届出制の新設のほか、求人情報や個人情報等の取扱に対する規制を強化。また、同改正では労働者を募集する企業に対する規制も拡大され、あらゆる企業が職業安定法に関係しうることとなりました。そこで本書は、職業安定法の最も実践的かつ信頼できる解説書をめざして、当分野第一線の弁護士・研究者・行政関係者が協働。生まれ変わった「シン・職安法」のすべてがわかる唯一無二の書です。

[編者]
倉重公太朗(KKM法律事務所代表)
白石 紘一(東京八丁堀法律事務所パートナー)

[執筆者]
濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構研究所長)
松浦 民恵(法政大学キャリアデザイン学部教授)
大野 博司(アドバンスニュース報道局長)
宮川  晃(元厚生労働審議官)
中山 達夫(中山・男澤法律事務所パートナー)
荒川 正嗣(KKM法律事務所パートナー)
安西  愈(安西法律事務所代表)
板倉陽一郎(ひかり総合法律事務所パートナー)
近衞  大(KKM法律事務所パートナー)
今野浩一郎(学習院大学名誉教授)

私は冒頭の「序章 職業安定法の過去・現在・未来」の「第1節 職安法規制はなぜ始まり、何を防ぎたかったのか」の部分を執筆しております。

 

 

 

本田一成『メンバーシップ型雇用とは何か』

627229 本田一成さんの著書『メンバーシップ型雇用とは何か 日本的雇用社会の真実』(旬報社)をお送りいただきました。

https://www.junposha.com/book/b627229.html

終身雇用や年功序列といった日本型雇用の特徴は、いまや過去のものとなりつつある。
こうした状況のなか、日本経団連は「メンバーシップ型雇用」から
「ジョブ型雇用」への転換を推進するとしている。

果たして「メンバーシップ型雇用」「ジョブ型雇用」とは何か?
日本において、メンバーシップ型雇用が定着し発展した経緯を歴史的に明らかにし、
現代の働き方とあり方を提示する。

本田さんがライフワークとして研究してきたチェーンストアという戦後登場発展してきた業態において、その業態の輸入元のアメリカ流のジョブ型ではなく、日本的なメンバーシップ型雇用がいかにして生成発展してきたのかを、その労働組合運動の歴史から明らかにしようという本です。

序 章 「メンバーシップ型雇用」を問い直す

第一章 黎明期の「メンバーシップ型雇用」

第二章 「メンバーシップ型雇用」の形成

第三章 「メンバーシップ型雇用」とは何か

終 章 「働き方改革」と「メンバーシップ型雇用」

そこから浮かび上がってくるのは、本田さんが「F型」と呼ぶ女性の働き方です。

・・・そんなメンバーシップ型雇用の主役はM型であるが、M型だけではメンバーシップ型雇用は成り立たない。M型たる働き方を支えるためにはF型を必要とする。この事実は、F型で働く当人たちが,つまりそのほとんどを占める女性たちが痛感していることである。しかし、メンバーシップ型雇用を議論する場合には、決して表面には出てこない。その意味でF型はメンバーシップ型雇用の「黒子」である。・・・

「F型を見よ!」。これが「メンバーシップ型雇用とは何か」という問いかけに対する一つの答である。・・・

ここ数年異様に言葉だけ流行している「ジョブ型」ですが、男女労働者の働き方の現場に遡って論じられることは未だに少ないようです。

実は今朝、立憲民主党の雇用問題対策プロジェクトチームというところに呼ばれてジョブ型について喋ったのですが、そこでも述べたように、経営改革という目線でジョブ型を生産性の高い新商品として賞揚する議論ばかりが横行し、柔軟で物的生産性が高いメンバーシップ型の働き方がそれゆえに若い男性陣の無理の利く働き方をデフォルトルールとし、それについて行けない人々の問題を生み出してしまうという社会学的問題こそが重大なのだということはなかなか世の中に伝わりにくいものです。

 

 

 

 

求人情報誌規制の蹉跌と募集情報等提供事業規制の成立@『労基旬報』2023年5月25日号

『労基旬報』2023年5月25日号に「求人情報誌規制の蹉跌と募集情報等提供事業規制の成立」を寄稿しました。

 去る2022年3月に成立し、同年10月に施行された改正職業安定法は、2017年改正で導入された募集情報等提供事業という概念に対して、初めて本格的な規制を導入しました。これは、これまで職業紹介という行為に規制の焦点を当ててきた労働市場規制が、情報提供というより広い領域に拡大してきたものと捉えることができます。しかしながら、労働市場における情報流通自体を規制対象にするという発想は、実は今から40年前から30年前にかけての時期に、当時の労働省においてかなり真剣に検討されたテーマでもありました。結果的に何ら立法にはつながらなかったためにその経緯はほぼ忘れられていますが、募集情報等提供事業に対する規制が成立した今日の視点から、このかつての政策過程を振り返ってみることは意味のあることではないかと思われます。
 ただ、その当時と今とでは労働市場規制の枠組みが全く異なっていたということを最初に念頭に置いておく必要があります。日本の労働市場法制は、1938年の改正職業紹介法から1999年の職業安定法改正に至るまでの約60年間にわたって、職業紹介については国の独占を原則とし、有料職業紹介事業は原則として禁止されていました。若干の専門職については許されていたとはいいながら、普通の労働者を対象に大々的に職業紹介事業を行うということは不可能であったのです。そういう中にあって、いわば規制の対象外であった求人情報誌というビジネスモデルで急拡大していったのが、リクルートをはじめとする就職情報産業であったのです。
 求人情報誌に対する規制を求めていたのは労働組合側でした。当時のナショナルセンターの総評は、1984年3月に坂本三十次労働大臣に対し、「誇大広告などによる就職後の被害も増大傾向にある」と指摘し、その規制を求めました。労働省では部内で規制を検討していたようですが、その内容は明らかになっていません。ただ、労働省の規制の動きに反発した就職情報誌側が職業安定法研究会を設け、1984年7月に報告書を公表しており、その中に労働省事務局の規制案とおぼしきものが書かれています。すなわち、募集広告への倫理規定の新設、雇用情報誌への許可又は届出制、雇用情報誌への立入権、業務停止権、罰則の追加等です。同報告書は憲法を持ち出してこれらに猛反発しています。当時、リクルート社が政治家や官僚に未公開株をばらまくリクルート事件が世間を騒がせましたが、その背景にはこの情報誌規制の動きがあったともいわれています。いずれにしても、この時は1985年の労働者派遣法の制定に併せて行われた職業安定法改正により、第42条第2項として、文書募集「を行おうとする者は、労働者の適切な職業選択に資するため、前項において準用する第十八条の規定により当該募集に係る従事すべき業務の内容等を明示するに当たつては、当該募集に応じようとする労働者に誤解を生じさせることのないように平易な表現を用いる等その的確な表示に努めなければならない」として挿入されるにとどまりました。
 しかし話はそれで終わりではなく、その後1987年から1992年までの5年間、民間労働力需給制度研究会と中央職業安定審議会民間労働力需給制度小委員会において、この問題が議論され続けたのです。まず、1987年10月に設置され、1990年6月に報告書を取りまとめた民間労働力需給制度研究会は、求人情報提供事業について、募集主だけではなく労働者募集広告事業者にも責任を追及すべき点があることを確認した上で、具体的に労働者募集広告事業者に対する広告内容の適正化のための指導、業界団体等による自主規制による広告内容の適正化の促進、被害を受けた労働者に対する対応、コンピュータによる検索機能を有する求人情報提供システムの適正化、映像媒体や音声媒体を利用した労働者募集広告の取扱いの明確化、労働者の情報選別能力の向上、情報ネットワークの普及拡大に伴う問題への対応といったかなりソフトな対策を提起していました。
 しかしその後の審議会の場では労使間で意見がまとまらず、1992年9月の中間報告では「検討が必要」と書かれるにとどまり、その先の立法過程に進むことはありませんでした。具体的に労働者募集広告については、「一義的には職業安定法に規定されるとおり募集主の責任として行われるものであるが、広告内容の適正化において労働者募集広告を掲載する就職情報誌紙の果たすべき役割は少なくないと考えられ、現実に関係事業者団体等において掲載基準の作成及び普及により自主的な規制を実施している。これらについては、一定の成果が認められるものの、特に、未組織の事業者等においては、自主規制の効力は及ばず、また、規模の小さいものが多いことから、これらの趣旨が十分に配慮されていない状況もみられる。このため、その適正化の在り方等について、表現の自由の問題等との関係も勘案しつつ、引き続き検討するとともに、当面、行政において、掲載についての基準をガイドラインとして策定する等により、その内容の適正を担保するよう指導することが必要である。また、その普及を図るため、未組織の事業者の組織化について促進を図る必要がある。併せて、募集主に対する指導も強化する必要がある」と書かれています。しかし結果的に行政のガイドラインも策定されることはなく、実質的には事業者団体による自主規制に委ねられることになったのです。
 その後有料職業紹介事業の規制緩和、自由化が大きな政策課題となっていく中で、この問題は約四半世紀にわたって論点からこぼれ落ちた状態のまま推移していきました。そして、この当時ニューメディアとかパソコン通信といった古称で呼ばれていた情報通信技術が格段に発展してきた近年になって、募集情報等提供事業に対する規制が再び政策課題としてせり上がってくることになります。
 この問題が議論の場に上せられたのは、2016年9月から始まった労働政策審議会労働力需給制度部会の場でした。同部会ではJILPTが行った求人情報・求職情報関連事業実態調査結果が報告され、それに基づいて突っ込んだ審議が行われた結果、同年12月の労政審建議では募集情報等提供事業に関する記述が大きく盛り込まれたのです。これを受けて行われた2017年3月の職業安定法改正により、労働条件明示義務の強化、求人申込の拒否等の規定と並んで、募集情報等提供に係る規定が導入されたのです。もっとも、この時の規定ぶりはまだおっかなびっくり気味で、あまり踏み込んだものではありませんでした。
 まず何よりも重要なのは、この2017年改正により職業安定法上に初めて「募集情報等提供」という概念が定義されたことです。すなわち、「労働者の募集を行う者若しくは募集受託者の依頼を受け、当該募集に関する情報を労働者となろうとする者に提供すること」又は「労働者となろうとする者の依頼を受け、当該者に関する情報を労働者の募集を行う者若しくは募集受託者に提供すること」と定義されたのです。かつて求人情報誌規制をめぐって議論が繰り広げられ、結局立法に至らなかったことを考えれば、情報通信技術が飛躍的に発展した時代になって、改めて労働市場における情報流通サービスそれ自体を規制の対象として取り上げる段階にようやく到達したと評することもできるでしょう。
 とはいえ、この段階での規制の範囲はまだ極めて限られた領域に留まっていました。たとえば、第5条の4の求職者等の個人情報の取扱いについても、公共職業安定所、特定地方公共団体、職業紹介事業者及び求人者、労働者の募集を行う者及び募集受託者並びに労働者供給事業者及び労働者供給を受けようとする者を列挙して、個人情報保護を義務づけているのに対し、募集情報等提供事業者はそこに含まれていません。第51条の守秘義務の対象でもありませんし、厚生労働大臣の改善命令や厚生労働大臣への申告の対象でもありません。募集情報等提供事業を行う者に関する明示的な規定としては、第42条第1項に「当該労働者の募集を行う者が募集情報等提供事業を行う者をして労働者の募集に関する情報を労働者となろうとする者に提供させるときは、当該募集情報等提供事業を行う者に対し、必要な協力を求めるように努めなければならない」と追加され、同条第2項に「募集情報等提供事業を行う者は、労働者の募集を行う者若しくは募集受託者又は労働者となろうとする者の依頼を受け提供する情報が的確に表示されたものとなるよう、当該依頼をした者に対し、必要な協力を行うように努めなければならない」と規定され、さらに第42条の2で「募集情報等提供事業を行う者は、労働者の適切な職業選択に資するため、それぞれ、その業務の運営に当たつては、その改善向上を図るために必要な措置を講ずるように努めなければならない」と規定されたものが中心です。いずれも努力義務ですが、これらを受けて作られた法第48条に基づく指針の中に、かなり詳しく記述されています。
 この改正法の施行後、多くの人の耳目を揺るがすような事件が起こりました。リクナビ事件です。2019年8月、募集情報等提供事業であるリクナビを運営するリクルートキャリアが、募集企業に対し、募集に応募しようとする者の内定辞退の可能性を推定する情報を作成し提供したと報じられ、同年9月には厚生労働省が業界団体(全国求人情報協会、人材サービス産業協議会)に対して「募集情報等提供事業等の適正な運営について」を発し、本人同意なく、あるいは仮に同意があったとしても同意を余儀なくされた状態で、学生等の他社を含めた就職活動や情報収集、関心の持ち方などに関する状況を、本人があずかり知らない形で合否決定前に募集企業に提供することは、募集企業に対する学生等の立場を弱め、学生等の不安を惹起し、就職活動を萎縮させるなど学生等の就職活動に不利に働く恐れが高いと述べ、職業安定法第51条第2項(守秘義務)違反の虞もあると指摘しました。さらに同年12月には、日本経済団体連合会、日本商工会議所、全国中小企業団体中央会等の経済団体に対しても「労働者募集における個人情報の適正な取扱いについて」を発し、指針の遵守を求めるとともに、こうした個人情報の収集のための第三者によるサービスの利用は控えることを求めました。この事件は、募集情報等提供事業に対する更なる規制の必要を感じさせるものでした。
 こういった状況の中で、厚生労働省は2021年1月から労働市場における雇用仲介の在り方に関する研究会を開催し、同年7月に報告書を取りまとめました。これを受けて同年8月から労働政策審議会労働力需給制度部会で審議が始まり、同年12月に建議に至りました。そしてこれに基づき翌2022年3月に職業安定法が改正され、募集情報等提供事業への規制が抜本的に強化されるに至ったのです。
 すなわちまず「募集情報等提供」の定義に、「労働者の募集に関する情報を、労働者になろうとする者の職業の選択を容易にすることを目的として収集し、労働者になろうとする者等(=労働者になろうとする者又は職業紹介事業者等)に提供すること」(第4条第6項第2号)、「労働者になろうとする者等の依頼を受け、労働者になろうとする者に関する情報を労働者の募集を行う者、募集受託者又は他の職業紹介事業者等に提供すること」(同第3号)、「労働者になろうとする者に関する情報を、労働者の募集を行う者の必要とする労働力の確保を容易にすることを目的として収集し、労働者の募集を行う者等に提供すること」(同第4号)を追加し、これらも官民協力の対象と位置付けました。これにより、インターネット上の公開情報等から収集(クローリング)した求人情報・求職者情報を提供するサービスや、求人企業や求職者だけでなく職業紹介事業者や他の求人メディア等(募集情報等提供事業者)から求人情報・求職者情報の提供依頼を受けたり情報提供先に提供するサービスも、募集情報等提供事業者に該当することになります。
 これらのうち労働者になろうとする者に関する情報を収集して行うものを「特定募集情報等提供」と呼んでいます。そして「労働者の募集」の次に新第3章の3として「募集情報等提供事業」を置き、特定募集情報等提供事業者に届出義務を課しました(第43条の2)。特定募集情報等提供事業者には、その情報提供による労働者募集に応じた労働者からの報酬受領の禁止と事業停止命令、事業概況報告書の提出が規定され、それ以外も含む募集情報等提供事業を行う者には苦情処理体制の整備のほか、事業情報の公開等の規定が設けられました。その他、職業紹介事業者と募集情報等提供事業を行う者からなる事業者団体の規定が設けられています。また、これまで募集情報等提供事業者が含まれていなかった総則の情報の的確な表示(第5条の4)や個人情報保護の規定(第5条の5)、雑則の諸規定にも、他の雇用仲介事業者等と並んで募集情報等提供事業者が列挙されました。具体的な募集情報提供事業のイメージとしては、次のようになります。
○募集情報等提供に該当するサービスの定義
事業類型 提供する情報 提供する情報の収集方法(例) 該当サービス(例)
・1号事業者(特定募集情報等提供事業者)
・1号事業者




求人情報


 
・求人企業から提供依頼
・職業紹介事業者から提供依頼
・他の求人メディアから提供依頼
 
・求人サイト
・求人情報誌
・求人情報を投稿するSNS
・2号事業者(特定募集情報等提供事業者)
・2号事業者
・ウェブ上から収集(クローリング)
・他の求人メディアの転載
 
・クローリング型求人サイト
・ハローワーク情報の転載サイト
・3号事業者(特定募集情報等提供事業者)


求職者情報

 
・求職者が登録
・職業紹介事業者から提供依頼
 
・人材データベース
・求職者情報を登録・投稿するSNS
・4号事業者(特定募集情報等提供事業者) ・ウェブ上から収集(クローリング)
 
・クローリング型人材データベース
 
 いずれにしても、こうして30年以上前に頓挫した求人情報誌規制が、全く新たな情報通信技術の発達の中で、募集情報等提供事業規制という形で実現することになったわけです。

 

2023年5月23日 (火)

玄田有史・連合総研編『セーフティネットと集団』

9784296118113 玄田有史・連合総研編『セーフティネットと集団 新たなつながりを求めて』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。

https://bookplus.nikkei.com/atcl/catalog/23/04/11/00769/

雇用が不安定な人のほうが、セーフティネットも脆弱であるという問題を、どう解決する?
コロナ禍が浮き彫りにしたさまざまな社会課題を、最新のデータと調査をもとに丁寧に読み解く。
2020年以降の新型コロナウイルス危機は、私たちの仕事や生活にさまざまな影響をもたらし、生活困窮者のみならず、非正規雇用やフリーランスで働く人たちのセーフティネットの脆さも浮き彫りにしました。
しかしこれらの問題は、これまで長年解決策が探られてきた制度や政策の課題が表面化しただけとも言えます。たとえば、最新の調査・分析によると、実は最も対応が不足していたのは、生活が困窮しきってはいなくても、単に非正規雇用だったために失業給付がないような中間層のための所得保障であったことがわかります。
本書では、労働経済学、社会保障、労働法、人事管理などの気鋭の研究者が、それぞれの専門の立場から、現状のセーフティネットの制度的課題を明らかにするとともに、それを補完する集団の機能(ERGや労働組合)、制度を動かす基盤としての人と人、人と組織の必要な「つながり」の意義について、国内外で注目されたユニークな取り組み事例なども紹介しながら、縦横無尽に論じます。
雇用が不安定な人のほうが、セーフティネットも脆弱であるという問題を、どう解決するか。従来の措置に欠けているものは何か。「多様性」の尊重が、分断や孤立を加速させるという新たなジレンマに、どう対処するか。そのための必要な「集団」のあり方とは?
最新のデータと調査をもとに、現状の課題を解き明かし、今後求められる「安全網」とは何かに迫る一冊です。

コロナ禍におけるセーフティネットの問題については、私自身も含め、この間多くの人々によって論じられてきましたが、本書は連合総研の研究会をもとにしているだけに、「集団」という切り口から論じています。

 序章 安全とつながりの手応えを得るために
   玄田有史(東京大学社会科学研究所教授)
第1章 雇用のセーフティネットを編む──中間層に届かない支援
    酒井正(法政大学経済学部教授)
第2章 生活のセーフティネットを編む──誰もが利用できる安全網へ
    田中聡一郎(駒澤大学経済学部准教授)
第3章 セーフティネットの基盤を考える──必要な人に制度を届けるために
    平川則男(連合総研副所長)
第4章 職場の新たな「つながり」と発言──多様性のジレンマを乗り越える
    松浦民恵(法政大学キャリアデザイン学部教授)
第5章 セーフティネットとしての集団──法と自治の視点から
    神吉知郁子(東京大学大学院法学政治学研究科准教授)
第6章 ドイツの事例に学ぶ──「限界ギリギリのデリバリー運動」とは
    後藤究(長崎県立大学地域創造学部専任講師)
終章 これからのセーフティネットと集団のあり方
   玄田有史

もっとも、前半分(3章まで)は雇用と生活にかかわる第2のセーフティネットの話で、4章以後が集団の話です。

その中でも、本書のタイトルとほぼ一致している(「と」と「としての」)神吉さんの論文は、なかなか辛口の批評を交えながら、労働組合のこれからの姿を論じています。

ここでは、そのこれからの話ではなく、辛口の批評のところをちょっとだけ紹介しておきましょう。

・・・こうして他者のケア責任を負うことで仕事にフルコミットできない者は、まずは労働市場において低い処遇に甘んじることになる。格差是正が一筋縄でいかない根底には、日本ではパートタイムに対するフルタイム、有期に対する無期といった明確な軸による比較が不可能だという事情がある。正社員の価値が長期にわたる柔軟性そのものに置かれているため、日本の労働市場は、無制限に働けるかを分水嶺として、正規・非正規に分断されるのである。

そしてその分断は、労使自治というセーフティネット構築力にも反映される。自治は決して自然には達成されない。活動にかける時間、活動を支える資金(組合費)が必要になる。時間やお金という社会資源を持たない脆弱な個人には、つながること自体が難しくなる。自分のために自分の時間と経済的価値を使えない者、とくに時間を他者のケアに使わざるを得ない者は、つながりから排除されるために自治がままならなくなる。

労働者には所定就業時間中の職務専念義務があるため、組合の専従職員でもない限り、労使自治には私的な時間を割かなければならない。私的な時間を家族のケアに使う労働者は、そうしたセーフティネッティングに加わることが困難である。・・・

日本において圧倒的多数を占める企業別労働組合とその産別組織の多くは、典型的な男性型組織である。その中で、労働運動は主に男性組合員や男性役員を念頭においた取組として進められてきた。・・・

こうした状況は、変わっているのだろうか。・・・・

労使自治というセーフティネッティングには、一定以上の時間的・経済的余裕を持つ人でないと参加しにくい。集団で自前のセーフティネットを編める、つまり集団化できる余裕は、特権に近い。このことを無視して自治を定義すると、セーフティネットが結局は持てる資源や社会的資本に依存する状況を追認し、安易な自己責任論と接近する危険がある。・・・・

本書の読者層であるはずの労働組合の役員や組合員たちに、この言葉がどれくらい届くかが問題でしょう。

 

 

 

全身訴訟

弁護士の中川拓さんが、菅野和夫、下井隆史といった方々の論文にでてくる「全身訴訟」という言葉の意味が判らないと嘆いているのですが、

https://twitter.com/takun1981/status/1659062633260269570

Sdnvb8i4_400x400_20230523140901 00年代の菅野和夫論文に、「『全身訴訟』ともいわれる厳しい労使紛争」(判タ1253-48)、「仮処分手続が『全身訴訟』として長期化し本格化する現象」(ジュリ1275-9)と、
【全身訴訟】
という単語が出てくるが、定義がなく、意味がわからない。
判例秘書で検索すると、70年の萩沢清彦論文に、

「労働紛争の流動的性格、全身訴訟としての特色」(ジュリ441-188)、72年の下井隆史論文に、「労働事件の<全身訴訟>性は本案訴訟の提起を事実上無用または困難ならしめ」(ジュリ500-488)と出てくるが、やはり意味がわからない。
ググっても全く出てこない。昔の労働事件の業界用語?・・・

労働弁護士としては、労働事件=通常事件だが、時々労働でない一般民事をやると、その比較で何となく、「労働事件は全身訴訟」を体感する。
「人格、尊厳、生活、生存、人生、階級をかけた、全身全霊を込めた訴訟」のような感じ。
ただ、論文では主に仮処分関係で論じられてるので、やっぱり違う?

多分、ここでいわれていることに極めて接近した領域を研究している方がいます。平澤純子さんの「雇用終了をめぐる裁判の原動力に関する準備的考察」には、次のような一節が書かれています。

https://saigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1521&file_id=73&file_no=1

・・・解雇,雇止めは労働者の生活手段を途絶させるため,労使が鋭く対立しやすい。解雇,雇止めをめぐる労使紛争をここでは雇用終了紛争というが,雇用終了紛争が裁判に及んだときに投下される時間,費用,労力を思えば,紛争当事者と社会の損失を少しでも減らす方法を考えることが重要な課題となる。
 しかし,裁判経験事例の研究を重ねると,労使双方に自ら紛争を長引かせ,大規模にする言動が多いことがわかってきた。紛争当事者と社会の損失を軽減する方法を考える前に,自ら紛争の規模を大きくし,紛争を長引かせる要因・背景を理解することにまず注力するべきだと思うようになった。そうでなければ, 全く的外れな問題解決の方法を考えることになるのではないか。そう思うような不可解なことが次々に見つかったからである。それは例えば次のようなことである。
 裁判を起こすということは,裁判で勝つ自信があると推測する人が多いだろう。ところが,実際に裁判所で争った人に尋ねてみると,概して「勝つ自信があったわけではない」という。しかし,それでも「こんな解雇が許されて良いはずがない」と思って提訴したと異口同音に話していた。「許されない」「許されて良いはずがない」という言い方に,他者を意識していることが表れている。雇用終了で収入が絶たれるときになぜ他者を意識していられるのか。しかも,勝つ自信があるわけでもないのに,なぜ裁判を起こせるのか。不思議に思えるが,実際,彼らは概して自分の裁判を,社会にとって,労働者全体にとってできるだけ良い影響を及ぼす形で終結させるべく,有利な司法判断,より高い水準の和解で紛争を終結させようとする傾向を見せていた。こうした傾向は彼らに,敗訴したとき,社会や労働者全体に不利な司法判断の影響を及ぼすことになるので「申し訳ない」といって上訴という道を歩ませていた。かくして紛争がより一層長期化し大規模なものとなっていた。それを筆者は非合理的だと思った(1)。
 裁判所の下す判決・決定はその後の裁判に影響を及ぼし,労使の行動規範となる。判決・決定はある人が参照すれば他の人の参照機会が排除されるわけではなく,費用を負担しない人の参照を排除できるわけでもない。つまり,非競合性と排除不可能性とを備えた公共財だと言える。それにもかかわらず裁判費用を当事者のみが負担するのを筆者は不条理だと思っていた。ところが,解雇,雇止めで収入を絶たれた人たちは費用の負担を回避するどころか自分や家族の生活や将来をリスクにさらしてでも,縁もゆかりもない労働者全体への負の影響を避けたいがために訴訟を提起し,裁判を続けていた。それはフリーライドされることを自ら欲しているかのように筆者には思えた。なぜそのようなことができるのか。筆者には不思議でならなかった(2)。
 しかし,筆者は裁判経験事例の事例研究で,こうした不思議な人たちにたて続けに出会ってきた。一定数存在するということは,彼らの,フリーライドされることを自ら欲しているかのように見える言動には,道理があると考えるべきである。その道理をいかに理解したらよいのか。


 

 

 

 

2023年5月21日 (日)

ピケティの『資本とイデオロギー』は8月にでるらしい

09048_1_20230521211501 もう2年近く前に、みすず書房から『資本とイデオロギー』の非売品をお送りいただいた時に、そのことを本ブログに紹介したのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/08/post-e7dad0.html

みすず書房さんから薄い封筒が送られてきました。何じゃらほいと開けてみると、開けてびっくり、中から出てきたのは桃から生まれた桃太郎、じゃなくって、トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』!

いやいや、まさかあの分厚い本が出たわけではありません。50ページほどの小冊子の表紙の真ん中あたりには、

内容見本(非売品)

12月上旬刊行予定

の字が。

ふむふむ、1000ページを超える大著の前宣伝に、抜き刷り方式で「中身のチラ見」をやろうというわけですな。

抜き刷りされているのは、第1章が始まる前の「はじめに」だけなんですが、それだけで50ページを超える代物。目次を見ると、今回の本が格差レジームを切り口に人類史を一刀両断するものすごい本であることが分かります。

・・・・・

最近人口に膾炙しているバラモン左翼という言葉も、この文脈で出てきたものであることが分かります。

ていうか、今までほとんど何のおつきあいもなかったみすず書房さんから今回の抜き刷りが送られてきたのは、おそらく本ブログで何回かバラモン左翼論を紹介したきたからじゃないかと思われます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html(バラモン左翼@トマ・ピケティ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-3616d9.html(バラモン左翼と商売右翼への70年)

これはもう、『労働新聞』で月一回当番で回ってくる書評用には当選確実ですが、それだけじゃなく本気でじっくりと隅から隅まで読んでみたい本です。

というわけでそれから2年近く、出たら直ぐに読んで『労働新聞』の月一書評に取り上げるつもりでいたのですが、2021年12月刊行予定のはずが、2022年12月になっても全然出る気配がないので、ちょっと文句を言ったのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/12/post-606ce1.html

なんだか、ピケティ本がフランス語からの直訳じゃなくて英訳からの重訳だからけしかるとはけしからんとかいう下らぬ話が燃えてるらしいけど、そんなことどうでもいいから、昨年末に出るはずだった『資本とイデオロギー』の翻訳をさっさと出してくれ。

なにしろ、昨年の8月に非売品の内容見本が送られてきて、昨年12月には刊行予定とはっきり書いてあったのに、その1年後になっても出る気配がない。

そんなにぐずぐずするんなら、フランス語から訳してもよかったんじゃないのか、と嫌みを言われるよ。

今みすず書房のサイトをちらりと見に行ったら、8月22日刊行予定と出ていました。

さすがにそば屋の出前もスタンバイしたようですね。

https://www.msz.co.jp/book/detail/09048/

判型 A5判
頁数 1072頁
定価 6,930円 (本体:6,300円)
ISBN 978-4-622-09048-9
Cコード C
発行予定日 2023年8月22日予定

しかし、バラモン左翼という言葉も一時流行したけど最近は全然聞かなくなったなあ。

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2023年5月19日 (金)

日本の賃金が上がらない構造@『政経研究時報』2023年4月号

Seikei 公益財団法人政治経済研究所というところが出している『政経研究時報』2023年4月号に、去る3月13日に行った「日本の賃金が上がらない構造」という講演の概要が載っています。

Ⅰ 日本型雇用システムにおける賃金

⑴ 雇用システム論の基礎の基礎

 日本の賃金について考える前提として、まず日本の雇用システムという構造的な部分に遡って議論を始める。

日本の雇用システムの本質は雇用契約に職務(job)が明記されず、使用者の命令によって定まることである。日本の雇用契約ではその都度遂行すべき特定の職務が書き込まれるのである。つまり、日本における雇用とはジョブ型雇用ではなく、メンバーシップ型雇用である。

 ⑵ ジョブ型とメンバーシップ型の対比

 ジョブ型雇用では、職務を特定して雇用するので、その職務に必要な人員のみを採用し、必要な人員が減少すれば雇用契約を解除する。ジョブ型雇用では職務以外の労働を命じることは契約違反なのである。

これに対してメンバーシップ型雇用では、職務が特定されていないので、ある職務に必要な人員が減少しても他の職務に異動させて雇用契約を維持できる。これが日本の長期雇用慣行に繋がっている。ただし、日本の解雇規制が他国に比べて厳しいというわけではない。正当な理由なく解雇出来るアメリカを除けば、欧州もアジアも正当な理由がない限り解雇は許されない。

 また、ここ数年議論になっている同一労働同一賃金についても、契約で定める職務によって賃金が決まるのが同一労働同一賃金原則の本質であり、裏を返せばジョブが違えば賃金も違うということである。日本(メンバーシップ型)は全く逆であり、契約で職務が特定されていないため、職務に基づいて賃金を決めることは困難である。したがって職務と切り離した「人基準」で賃金を決めざるを得ないため、客観的な基準は勤続年数や年齢となることから、結果としてこれが年功賃金制へと繋がる。

またジョブ型では、団体交渉・労働協約は職種ごとに賃金を決めるため、職業別・産業別労働組合にならざるを得ない。一方、メンバーシップ型では賃金が職務で決まらないので、団体交渉・労働協約は企業別に総人件費の増分の配分を交渉するため、企業別労働組合となる。

 ⑶ ジョブ型社会の労使関係

そもそも労働者は企業の一員ではなく、企業の取引相手である。法律上、雇用は債権(債務)契約である。つまり、労働と報酬の交換契約となっている。しかし取引相手の中でも労働者はとりわけ弱いため、強大な企業と取引する弱小な労働販売業者が「団結」(=談合)をするわけだが、これはまさにカルテルである。現在、これが容認されている。

賃金とは労働という商品の価格、団体交渉とは労働の価格の集合的取引(collective bargaining)であり、労働組合とはそのためのカルテル、労働協約とは種類別の労働の価格一覧表である。

 ⑷ ジョブ型社会の賃金引上げ

ジョブ型社会での採用とは、全て具体的なポストへの「はめ込み」である。したがってジョブ型社会における賃金とは、人に値段が付くことではなく、はめ込まれるポストにあらかじめ付いている価格のことである。したがってポストが変わらない限り、自動的にその価格が上昇することはありえないのである。

それゆえ、ポストに貼り付けられた価格を労働者みんなが交渉して一斉に引き上げる必要が出てくる。これがジョブ型社会の団体交渉であり、数年に一回大規模に労働価格表の書き換えを行うのである。

 ⑸ 日本の労使関係

日本社会では報酬をもらっている労働者は企業の一員(社員)であると考えられているが実定法上は欧米と同じく企業の取引相手に過ぎない。

また日本ではヒラの労働者から管理職、経営者に至るまで、オペレーションとマネージメントの割合が連続的に変化する連続体をなし、前者から後者に昇進していくことが社会的規範となっている。それゆえ、管理職と非管理職の線引きが問題となるが、そもそも雇用契約で職務が限定されていないので、企業の命令で様々な職務に従事し、(特定のジョブの専門家ではなく)特定の企業の専門家になっていく。それゆえ、賃金を職務に紐付けることも困難(高給職から低給職に配転を命じられない)である。したがって年齢・勤続年数をベースに、賃金決定せざるを得ない(年功賃金制)。職務が変わっても賃金は上がらないが、職務が変わらなくても賃金は上がるという構造である。

 ⑹ 日本の賃金引上げ

このようなことを前提としたうえで、日本における賃上げとは一体何か。日本には全く異なる2種類の賃上げがある。定期昇給とベースアップである。

定期昇給とは、毎年個人の賃金が上昇していくことである。しかし、定期昇給では、最も高給の最年長者が定年退職していなくなり、最も低給の新規採用者が入社してくるので(これを「内転」という)、企業にとっての賃金コストは(年齢別人員構成が変わらなければ)増加しない。個人の賃金は上がっているけれども、全員の賃金を足し上げると全然上がっていないという現象のミクロ的基礎はここにある。

それに対して、ベースアップというものがあるが、これも日本独特のものである。これは、企業の売上げの中から「社員」への分け前としてどれぐらい配分するかという概念であって、定期昇給による年齢別賃金表の全体を上方に書き換えるものである。ジョブの値札を一斉に付け替えるジョブ型団体交渉とは似て非なるものである。日本の企業別労働組合は毎年ベースアップを要求して労働争議を繰り返してきた(春闘)。

 ⑺ 日本の賃金闘争

敗戦後、日本中の企業で多くの労働組合が結成された。その主流は一企業一組合原則に基づく工場委員会型の企業別組合であった。

その最大の特徴は、ブルーカラーとホワイトカラー(課長や部長クラスまで組織)双方を組織する工職混合組合である。

高度成長期までの日本は、世界的に見ても労働争議の多い国であった。しかし過激な闘争をやりすぎると肝心の組合員が引いていき、穏健な第二組合が結成されて、あっという間に衆寡逆転。これが戦後日本労働組合運動史のミクロ的基礎である。その後の企業別組合は穏健化し、労働争議は絶滅したが、ジョブ型社会の穏健組合とは違い、企業の生産性向上の労働者への配分を担当する機関として存続することなる。21世紀に入ると、そもそもベースアップ要求をしなくなり、定期昇給の維持を要求する機関になった。

 Ⅱ 日本の賃金が上がらなくなった経緯

⑴ 石油危機後の賃上げ自粛

ここからは過去半世紀にわたる歴史から賃金が上がらなくなった理由を考えたい。

1973年、第4次中東戦争で石油価格が暴騰、これを受けて日本でもインフレが起こり、1974年の春闘では32.9%という空前の賃上げ率が実現した。

1974年の大幅賃上げを受けて、当時の政府部内では所得政策が本格的に検討されつつあり、インフレ抑制に協力する形で宮田義二鉄鋼労連委員長が経済整合性論を打ち出し、他の組合も同調して、1975年春闘では13.1%の引上げにとどまった。このとき経営側(日経連)が、生産性基準原理という賃金抑制のロジックを提起し、その後のベースアップは生産性向上の範囲内とされていく。

 ⑵ 安い日本の原因は高い日本批判

1990年ごろの日本では、「高い日本」こそが大問題であり、それを安くすることが労使共通の課題であった。当時は、物価引下げによる実質所得の向上が国全体の実質購買力の増加させ、商品購買意欲の高まることにより新商品の開発、新産業分野への参入などの積極的な行動が活発化し、経済成長を大いに刺激すると考えられていた。しかし、実際には、過去30年間全く逆の道筋が展開した。名目賃金も実質賃金も下落し、国民の購買力も縮小し、商品購買意欲も収縮し、研究開発や設備投資も後退した。

 ⑶ 生産性向上の誤解

そもそも「生産性」とは何か?これについては圧倒的に多くの人が誤解している。まず、勤勉に働くと生産性が高くなるというのは誤りである。物的生産性であればそうとも言えるが、日本生産性本部が毎年発表しているのは付加価値生産性である。付加価値とは売上高から原材料費等を差し引いた額である。それゆえ高く売れば付加価値生産性が高くなり、安く売れば付加価値生産性は低くなる。これは善悪ではなく定義の問題である。勤勉とは言い難い欧米は賃金が高く、それゆえ物価が高く、それゆえ付加価値生産性が高い。勤勉な日本は賃金が低く、それゆえ物価が低く、それゆえ付加価値生産性が低い。決して日本の労働者の人件費が高いことは生産性が低いことの原因ではない。

賃金が上がると生産性が向上するのに、生産性の範囲内に賃上げを自粛すると、結局賃金も生産性も上がらない、という罠にはまり込んでしまう。

以上のように、構造的な部分とともに、労働組合や経営側の動き、世間の誤解などによって今の日本の賃金が上がらないという状況に至ったのではないだろうか。

私の講演録の次には、松尾匡さんの「コロナショックドクトリンと帝国主義への道」という』文章も載っていますね。

ちなみに、この政治経済研究所というのは、この表紙の左下に書かれているように、東亜研究所を受け継いで戦後末弘厳太郎を所長に設立された団体のようです。知らなかったのですが、労働法とは大変縁の深い団体であったようです。

 

2023年5月18日 (木)

GPTの奴って

GPTの奴って、ネットでつながって居る何処かにちゃんと書かれている情報に関しては、即座にかつおおむね適切に端的にまとめて答を返してくるけれども、そうじゃないところにある情報は当然のことながら知らないので、ほんとにいい加減な知ったかぶりで返してくるんだな。このもっともらしい知ったかぶりが、その個別分野のネット上にある情報とない情報の配置状況が分かっている人間には「こいつ、ネット上にある聞きかじった知識だけでもっともらしい知ったかぶりしやがって」と透けて見えるのだけれども、そうじゃない人間には分かっている人が自信たっぷりに返してきているようにしか見えないんだよな。これが最大のリスクだろう。

武藤浩子『企業が求める〈主体性〉とは何か』

9784798918433scaled 武藤浩子『企業が求める〈主体性〉とは何か 教育と労働をつなぐ<主体性>言説の分析 』(東信堂)をお送りいただきました。

https://www.toshindo-pub.com/book/91843/

教育界・産業界に飛び交うマジック・ワード――〈主体性〉
近年、〈主体性〉を持った人材が社会で広く求められており、教育界もまた、〈主体性〉を持った人材の育成に取り組んでいる――しかし、その〈主体性〉とは一体何なのか?
本書は、これまで曖昧なままにされてきた〈主体性〉に鋭く切り込み、〈主体性〉が強く求められることで生じるパラドキシカルな今日的課題についても示唆する。〈主体性〉に関わる教育界・産業界の方々、また教育から労働へと移行する学生、必読の書。

ということですが、実は本書には私の本が若干引用されていまして、それがp13の

・・・では、企業では、このような定型、非定型の仕事に対して、誰がどのように評価をしているのだろうか。濱口(2013)は、上司(管理職者)が、部下社員の日々の仕事ぶりを観察することで、社員の能力は評価できるとした。・・・

 なんですが、これはいささかミスリーディングな引用のような気がします。拙著では、確かにp125以下で

515201 「社員」の選抜基準
 あらためて、日本の会社がどういう基準で「社員」となるべき者を選抜するのかを考えてみましょう。その基準が、一九六九年の『能力主義管理』で掲げられた「職務遂行能力」、すなわち、いかなる職務をも遂行しうる潜在能力にあることはいうまでもありません。問題はそれをどのようにして確認するか、ということです。
 会社に入ってからの人事管理であれば、それはまさに日々の作業ぶりを上司が観察することで、とりわけOJTで未経験の仕事をしながらその仕事をいかに早く的確にこなせるようになっていくかを観察することによって、その「社員」の「能力」を評価することができます。そして、それを配置転換を重ねることにより複数の上司の目で繰り返し評価を行い、これを長期間積み重ねていくことにより、ますます的確な評価を下すことができます。長期雇用慣行の下で定期人事異動を繰り返すという人事管理には、そういう意味も込められているのです。
 しかし、それらはすべて、「社員」として会社のメンバーに採用してからの話です。ところが、新規学卒者は定義上、そういう長期的に仕事ぶりを見極めて「能力」を確認するということが不可能です。あるいは少なくとも極めて困難です。なぜなら、定義上、会社に入社する四月一日の前の三月三一日まではその者は学生であり、その主な活動は学業にあるはずだからです。・・・

と書いていて、それを素直に書き写しただけなんでしょうけど、この文脈はジョブ型社会のように資格や経験で選抜するのではないメンバーシップ型社会の選抜の特殊性を論じているところであり、日々の仕事ぶりを観察云々も、まさに素人の若者がOJTで仕事を覚えていく状況を前提に書いているところなので、それを一般化して、日本企業では上司による日々の仕事ぶりの観察によってあらゆる社員の能力を常に的確に評価しているんだぞ、キリッ、と、日本型能力主義万能!みたいなことを言っているようにとられると、それこそとりわけ中高年や女性の問題をめぐって、日本的な「能力」概念の特殊さをいっぱい論じている身からすると、すごくずれた引用をされている感があります。

 

 

 

EUの賃金透明性指令がようやく官報に掲載

Euoj EU官報(Official Journal)の昨日(5月17日)版に、ようやく賃金透明性指令が掲載されています。

https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/PDF/?uri=CELEX:32023L0970

中身は既に閣僚理事会と欧州議会の間で確定していたものですが、官報に載らないと何年何月何日の指令番号何々というラベルが貼れませんので、これでようやく指令案ではなく指令として引用できます。

残念ながら『労働六法』2023年版には間に合いませんでしたが、中身はそこに載っている合意版のとほぼ変わりません。

 DIRECTIVE (EU) 2023/970 OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL of 10 May 2023 to strengthen the application of the principle of equal pay for equal work or work of equal value between men and women through pay transparency and enforcement mechanisms

賃金透明性と執行機構を通じて男女同一労働又は同一価値労働に対する同一賃金の原則の適用を強化する2023年5月10日の欧州議会と理事会の指令2023/970 

 

2023年5月16日 (火)

ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0』

0000000150832_exbxt8c 労働新聞の3月6日号でジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターの『反逆の神話』を取り上げたので、同じヒースのこの本を読んでみました。

あまり短期間に同じ著者の本を取り上げるのもどうかと思ったので、労働新聞の書評には使いませんが、読んでそのままにしておくのももったいない本なので、心覚え的に。

本書の内容については、早川書房のサイトに公開されている訳者のあとがきに委ねて、

https://www.hayakawabooks.com/n/ne204b2e91a2f

本書を読みながら思ったのは、前半部分でこれでもかこれでもかとばかりにクラシックな啓蒙思想1.0のだめっぷりを書き連ねた挙げ句に、しかしそれに代わって出てきた右翼左翼両側のどうしようもないブタのような非合理主義の席捲に対して、賽の河原に石の塔を積み上げるかのように正気を取り戻すべくあれこれと考えていくその姿は、実は低劣なポピュリズムに叩かれてはそこまで墜ちて行きたがる日本の進歩派と言われる人々に爪の垢を煎じて飲ませたくなるような内容です。

ま、理性よりも情緒に訴える方が票につながる政治の世界では、啓蒙思想などと口走った瞬間に、「なにっ、啓蒙だとっ?私たちを無知蒙昧だとでも云うのか!可哀想な我々の蒙昧を啓いて下さるとでも云うつもりか!偉そうなことを云いやがってふざけるな!差別だ、許せない!」という次第になるだけでしょうけど。

 

 

2023年5月15日 (月)

日本労働法学会誌136号『労働安全衛生法改正の課題 』

32418125_1 日本労働法学会誌136号『労働安全衛生法改正の課題 』が届きました。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04276-7

昨年10月29,30日に法政大学で開催された日本労働法学会第139回大会の大シンポジウムと6つのワークショップの記録が収録されています。

《大シンポジウム》
労働安全衛生法改正の課題 ―産業の高度化と少子高齢化を踏まえて(鎌田耕一/三柴 丈典/石﨑 由希子/北岡 大介/長谷川 聡/堀江 正知/井村 真己)

《シンポジウムの記録》
労働安全衛生法改正の課題 ―産業の高度化と少子高齢化を踏まえて

《ワークショップ》
Ⅰ 多様化するライフコースにおける労働と公正性の保障について考える ―ドイツにおける架橋的パートタイム制度と賃金透明化法を中心に(緒方 桂子・橋本 陽子・浅倉 むつ子)
Ⅱ 労働協約の地域的拡張適用制度 ―意義と実践的・理論的課題(野田 進・西尾 多聞・松井 健・古川 景一)
Ⅲ 新興感染症にかかる労務問題と法(水島 郁子/林 健太郎/佐々木 達也/吉田 肇)
Ⅳ ジェンダー規範からみるトランスジェンダーの労働 ―「男女別」施設へのアクセス権を中心に(内藤 忍/神谷 悠一/立石 結夏/中野 麻美/龔 敏)
Ⅴ 企業グループと集団的労使関係法理 ―団体交渉と争議行為を中心として(大塚 達生/川口 美貴/田中 誠)
Ⅵ テレワークをめぐる法的課題(岡田 俊宏/大浦 綾子/竹村 和也/細川 良)

《個別報告》(雨夜 真規子/青木 克也/松井 有美)

《回顧と展望》(小林 大祐/松井 良和/仲 琦)

2021年度学会奨励賞について(島田 陽一)

シンポジウム記録では、私もちょびっとコメントしています。どれくらい意味のあることを言っていたのか読み返してみるとやや疑問も感じますが、ゲストスピーカーの堀江さんの興味深いコメントを引き出したという点に意味があったと思っています。

なお、ちょうど今政治の世界で揉めているトランスジェンダーの話が、4つめのワークショップで取り上げられていますね。このWSは私は全く参加しませんでしたが、例のトランス女性の女子トイレ使用問題についての経産省事件判決をめぐって研究者と弁護士が色々と議論しています。

 

 

2023年5月12日 (金)

学校法人早稲田大学事件評釈

本日、東大の労働判例研究会で学校法人早稲田大学事件の評釈をしてきました。評釈というより、この事案をめぐって考えたことを綴ったエッセイみたいなものですが、いろいろと考えるネタの詰まった事件ではあります。

http://hamachan.on.coocan.jp/rohan230512.html

労働判例研究会                             2023/5/12                                    濱口桂一郎
大学教授の採用選考情報開示拒否
学校法人早稲田大学事件(東京地判令和4年5月12日)
(判例集未搭載)
 
Ⅰ 事実
1 当事者
X1:Yの専任教員募集への応募者(政治学者)
X2:X1が加入している組合(東京ユニオン)
Y:大学等を設置している学校法人(早稲田大学)
 
2 事案の経過
・X1は明治大学商学部教授であり、平成26年度後期から平成30年度後期までY政治経済学術院の非常勤講師を勤めた。
・Yは平成28年1月19日、Y大学院アジア太平洋研究科専任教員(募集領域:現代中国の政治と国際関係、採用後の身分:教授又は准教授)1名の募集を行った(本件公募)。
・X1は同年4月15日、本件公募に応じ、応募書類を提出した。
・Y大学院アジア太平洋研究科は同年6月13日、X1に対し、メールにより、本件公募の書類審査結果について、X1の採用を見送ることになった旨の通知をした。
・X1は自らが公募で示された採用条件を満たす数少ない研究者の一人であると考えていたが、それにもかかわらず書類審査の段階で不合格とされたことから、選考過程の公正さについて疑念を抱き、本件公募の対象ポストの前任者A(X1と学問的・政治的対立関係にあると認識)が選考過程に関与したのではないかと疑った。
・X1は本件公募当時の研究科長Bに対し、同年10月4日付書簡及び同月5日付メールにより、選考過程について情報開示を求めたが、新研究科長Cは同日付メールで選考過程及び結果についての情報開示を拒否した。
・X1はCに対し、同月10日付メールで面会を求めたが、Cは同月11日付メールで拒否した。
・X1はYの常任理事に対し、同月19日付書簡により、理事会で選考過程を精査し、選考のやり直しを検討することを求めたが、Yの教務担当理事は同月27日付書簡により、個別の選考過程について詳細を開示できないと回答した。
・X1はYの教務担当理事に対し、平成29年2月12日付書簡により、内規の開示、選考過程に関する情報開示、選考のやり直しを求めたが、Yは回答しなかった。
・X1とY政治経済学部教授1名がX2に加入してX2早稲田大学支部を結成、X2は平成30年11月30日付通知書でこの旨を通知するとともに、本件公募の選考過程について団体交渉を申し入れた。
・X2とYは平成31年1月9日に第1回団体交渉を行い、Yは本件公募の選考過程に関しては団交を拒否した。
・X2とYは同年4月15日に第2回団体交渉を行い、Yは本件公募の選考過程に関しては団交を拒否した。
・X2はYに対し、令和元年5月10日付申入書により書面の解答を要求したが、Yは同月16日付書簡により団交に応じる義務はないとして回答せず、以後団体交渉は行われていない。
・Xらは令和元年6月11日、YがX1の透明・公正な採用選考に対する期待権及び社会的名誉を侵害したとして慰謝料の支払を、X2の団交申入れを正当な理由なく拒否したとして団交を求める地位の確認と無形の財産的損害の賠償を求めて提訴した。(同年11月20日付で、ネットメディア「現代ビジネス」に、田中圭太郎「早稲田大学「教員公募の闇」書類選考で落ちた男性が訴訟を起こした 選考プロセスが不透明すぎる」との記事が掲載(https://gendai.media/articles/-/68471))
・令和4年5月12日、東京地裁が判決(本件判決)。
・令和5年2月1日、東京高裁が判決(控訴棄却)。
 
3 団体交渉事項目録(別紙1)
・研究科専任教員採用人事内規の開示
・早稲田大学大学院アジア太平洋研究科が平成28年1月に行った専任教員の公募につき「研究科運営委員会の定めた手続」資料の開示及び説明
・本件公募手続における原告Aに対する評価の開示及び説明
・原告Aが採用面接に至らなかった理由の開示及び説明
・上記評価の根拠となった資料の開示
・本件公募手続への前任者の関与の有無
・本件公募から採用に至る過程に対する事後的検証の有無、方法、内容
・採用審査の過程で開催された運営委員会の議事録の開示
 
4 X1がYに対して開示を求める情報(別紙2)
・研究科専任教員採用人事内規
・X1に対する評価の根拠となる資料
・X1が採用面接に至らなかった根拠となる審査情報
・採用審査の過程で開催された運営委員会の議事録
 
Ⅱ 判旨 請求棄却
1 労働契約締結過程における信義則上の義務
「X1は、本件公募に応募したが、書類選考の段階で不合格になったものである・・・。X1とYとの間で、X1を専任教員として雇用することについての契約交渉が具体的に開始され、交渉が進展し、契約内容が具体化されるなど、契約締結段階に至ったとは認められないから、契約締結過程において信義則が適用される基礎を欠くというべきである。
 Xらの主張は、X1が本件公募に応募したというだけで、信義則に基づき、Yに本件情報開示・説明義務が発生するというに等しく、採用することができない。」
2 公募による公正な選考手続の特殊性に基づく義務
「大学教員の採用を公募により行う場合、その選考過程は公平・公正であることが求められており、応募者の基本的人権を侵害するようなものであってはならないということはできる。
 しかしながら、X1は、Yとの間で契約締結段階に至ったとは認められず、契約締結過程において信義則が適用される基礎を欠くことは上記(1)のとおりであり、このことは、選考方式が公募制であったことによって左右されるものではない。したがって、仮に、X1が本件公募について透明・公正な採用選考が行われるものと期待していたとしても、その期待は抽象的な期待にとどまり、未だ法的保護に値するとはいえず、Yが専任教員の選考方式として公募制を採用したことから、直ちに本件情報開示・説明義務が発生する法的根拠は見出し難い。」
3 個人情報の適正管理に関する義務
「職業安定法5条の4は、・・・求職者等に対する個人情報の開示に関しては、何ら規定していない。したがって、職業安定法5条の4は、本件情報開示・説明義務の法的根拠とはなり得ないというべきである。」
「X1がYに対して開示を求めたとする別紙2記載の情報についてみると、同1記載の情報及び同4記載の情報のうちX1に言及がない部分がX1の個人情報に当たらないことは、明らかである。
 また、別紙2の2及び3記載の情報並びに別紙2の4記載の情報のうちX1に言及する部分は、X1を識別可能であることからX1の個人情報に該当するものがあるとしても、本件全証拠及び弁論の全趣旨によっても、これらの情報が個人情報データベース等を構成していることをうかがわせる事情は何ら認められないから、個人情報保護法28条2項(ママ)に基づく開示の対象となる保有個人データであるとは認められない。
 さらに、仮に、別紙2の2及び3記載の情報並びに別紙2の4記載の情報のうちX1に言及する部分が保有個人データに当たるとしても、これらの情報を開示することは、個人情報保護法28条2項2号に該当するというべきである。すなわち、Yは、採用の自由を有しており、どのような者を雇い入れるか、どのような条件でこれを雇用するかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるところ、大学教員の採用選考に係る審査方法や審査内容を後に開示しなければならないとなると、選考過程における自由な議論を委縮させ、Yの採用の自由を損ない、Yの業務の適正な実施に著しい支障を及ぼすおそれがあるからである。したがって、Yは、個人情報保護法28条2項2号により、これらの情報を開示しないことができる。」
4 団交応諾義務
「Yは、X2がYに対して団体交渉を申し入れた平成30年11月当時、X1を非常勤講師として雇用していたことが認められるから、当時、X1の労働組合法上の使用者であったことが認められる。しかしながら、X1は、Yから非常勤講師として雇用されていたものであり、また、YにはX1に対する本件情報開示・説明義務が認められないことは前記1で説示したとおりであるから、専任教員に係る本件公募の選考過程は、X1とYとの間の労働契約上の労働条件その他の待遇には当たらない。したがって、別紙1記載の各事項は義務的団体交渉事項には当たらないから、X2がYに対して別紙1記載の各事項について団体交渉を求める地位にあるとはいえず、また、Yが別紙1記載の各事項について団体交渉に応じなかったことは、X2に対する不法行為を構成するものではない。」
 
 
Ⅲ 評釈 判旨に反対するのは困難だがいくつか論点がある
1 本事案の射程
 本判決を通常の労働法の感覚で評釈するならば、「判旨賛成、原告の訴えには無理がある、以上。」で終わるような事案であろう。しかしながら、それで済ませて良いのか、多くの人に何らかの違和感が残るのではなかろうか。ここでは、その違和感の依って来たるところを少し突っ込んで考えてみたい。
 一つ目は、募集採用に係る日本の判例法理として半世紀前に確立している三菱樹脂事件最高裁判決の射程がどこまで及ぶのか、言い換えればどのような募集採用に対しては及ぼすべきではないと考えられるのかという論点である。
 もう一つは、これはもはや労働法の範囲を逸脱するとも言えるが、一定の学問的・政治的対立が存在する中における一定の地位をめぐる争奪戦がどこまで法的紛争として救済の対象となり得るのかという論点である。
 本事案はこういった論点を考える上でいくつもの素材を提供してくれる事案である。以下は、厳密な意味での判例評釈というよりは、これら論点をめぐって思いついたことを書き連ねたエッセイに類する。
 なお、本件の原告側弁護士は宮里邦雄と中野麻美であり、被告側弁護士は木下潮音、小鍛治広道らであり、両陣営の大物が登場している。宮里は本件控訴審判決(令和5年2月1日)の直後の2月5日に亡くなっており、彼が最後に携わった事件ということになる。
 
2 募集採用法理の射程
 今日においても、労働者の募集採用に係る日本の判例法理としては、三菱樹脂事件最高裁判決が最重要の先例である。
・・企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し、自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるのであつて、企業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆえをもつて雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできないのである。憲法一四条の規定が私人のこのような行為を直接禁止するものでないことは前記のとおりであり、また、労働基準法三条は労働者の信条によつて賃金その他の労働条件につき差別することを禁じているが、これは、雇入れ後における労働条件についての制限であつて、雇入れそのものを制約する規定ではない。また、思想、信条を理由とする雇入れの拒否を直ちに民法上の不法行為とすることができないことは明らかであり、その他これを公序良俗違反と解すべき根拠も見出すことはできない。
 右のように、企業者が雇傭の自由を有し、思想、信条を理由として雇入れを拒んでもこれを目して違法とすることができない以上、企業者が、労働者の採否決定にあたり、労働者の思想、信条を調査し、そのためその者からこれに関連する事項についての申告を求めることも、これを法律上禁止された違法行為とすべき理由はない。もとより、企業者は、一般的には個々の労働者に対して社会的に優越した地位にあるから、企業者のこの種の行為が労働者の思想、信条の自由に対して影響を与える可能性がないとはいえないが、法律に別段の定めがない限り、右は企業者の法的に許された行為と解すべきである。また、企業者において、その雇傭する労働者が当該企業の中でその円滑な運営の妨げとなるような行動、態度に出るおそれのある者でないかどうかに大きな関心を抱き、そのために採否決定に先立つてその者の性向、思想等の調査を行なうことは、企業における雇傭関係が、単なる物理的労働力の提供の関係を超えて、一種の継続的な人間関係として相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようにいわゆる終身雇傭制が行なわれている社会では一層そうであることにかんがみるときは、企業活動としての合理性を欠くものということはできない。
 およそ採用に関する一般原則として、思想・信条による採用差別(正確にいえば試用期間満了による本採用拒否であり、雇用関係は生じていた事案)をも採用の自由として容認するこの考え方を前提とすれば、書類選考の段階で不合格になったことを捉えてあれこれ言うこと自体が笑止千万であり、議論の余地もないところであろう。しかしながら、この最高裁判決が自ら述べるように、この判決は「継続的な人間関係」「相互信頼」「終身雇傭制」といったキーワードで彩られる日本型雇用システムを大前提とし、かつ、採用時点において採用後担当する職務について(潜在能力はあっても)個別具体的な技能を有していることは何ら期待されていないような新規学卒者一括採用方式における学生の募集採用であることを前提として下された判決であり、そのような前提が希薄であるような状況下においても同様に適用されるべきであるかについては、議論の余地が十分にある。
 この判決後、日本でも男女雇用機会均等法が制定され、累次の改正を経て募集・採用から退職・解雇に至る雇用の全ステージにおける性別に基づく差別が禁止されるに至っているが、今日まで問題として表れてきているのはほとんどすべて採用後の処遇に係る差別であって、採用そのものにおける差別事案というのは登場してきていない。配置・昇進をめぐる差別は処遇問題としてのみ捉えられ、欧米におけるような社内における募集・採用の問題として捉える観点はほとんど見られない。
 近年「ジョブ・ディスクリプション」という言葉が氾濫しているが、そもそもそれが募集・採用のための基準であるという認識はほとんど見られず、「ジョブ型」の流行もほぼ処遇に限られ、募集・採用まで含めて論ずるものは稀である。とはいえ、もし本気で「ジョブ型」の雇用社会を目指すつもりがあるのであれば、そこにおける募集・採用は上記最高裁判決が前提とするようなものではなく、募集するポストのジョブ・ディスクリプションを詳細に記述し、資格・経験等から判断してその職務を最も適切に遂行しうると見込まれる者を採用するというのが、(もとより現実とは一定の乖離があるにせよ)出るところに出た時のあるべき姿ということになるであろう。すなわち、採用された候補者と採用されなかった候補者について、募集の際に提示した職務内容や要する資格等との関係で合理的な判断がなされたことを示すことが求められると考えられる。EU運営条約の改正をもたらしたEU司法裁判所のカランケ判決やマルシャル判決は、まさに管理職の募集採用において男女の応募者が資格同等の際に女性を優先させることの是非が問われたものである。
 政府や経団連や評論家の掛け声にもかかわらず、そのような方向に日本が動いていくという見込みは予見しうる将来にわたって希薄であるので、少なくとも募集・採用に関する一般論としてはなお上記最高裁判決の法理が妥当し、「継続的な人間関係」「相互信頼」「終身雇傭制」を前提に、会社の仲間としての適格性でもって採用判断することになんら制約はなく、その採用過程を公開せよなどという要求が通る見込みはないと思われる。
 しかしながら、一般社会はそうであっても、特殊な高度専門職についてその特別の能力を有する者を広く社会全体に対して募集する場合にはそれとは異なる法理が適用されるべきではないか、というのが、原告側の第二の主張であろう。「大学教員の採用を公募により行う場合、その選考過程は公平・公正であることが求められ」るという原告の主張は、実態はともかく建前としては否定しがたいものであるはずである。すべての大学教授がそうであるか否かはともかく、一定の大学教授ポストがそのような存在であることは社会的に認識されていることであろうと思われる。
 これに対してY側は、(上記最高裁判決を踏まえた)採用の自由論に加えて、憲法23条に基づく学問の自由をその論拠として挙げているが、この点は後述の第2の論点にかかわるので、ここでは前者について考える。畢竟、Y側は高度専門職を公募で採用する場合と無技能の新卒学生をポテンシャル採用する場合とで適用されるべき法理に違いはないと主張していると考えられ、本判決の裁判官も「このことは、選考方式が公募制であったことによって左右されるものではない」と述べていることからも、そのように判断していると考えられるが、その判断で良いのかどうかは、少なくとも議論の余地のあるところであろう。
 もっとも、採用という入口の反対側の出口に当たる解雇事案においては、大学教授といえども(いやむしろその方が?)職務の専門性とは関わりなく身分的保障がなされるべきという主張を大学教授自身が行い、裁判所もそれを認めるという判決が積み重なってきているので、このY側の主張と平仄が合っているというべきかもしれない。
 すなわち、学校法人大乗淑徳学園事件(東京地判裁令和元年5月23日労働判例1202号21頁)は、学部廃止に伴う大学教授の整理解雇について、「Xらの所属学部及び職種が同学部の大学教員に限定されていたか否かにかかわらず、同学部の廃止及びこれに伴う本件解雇についてXらに帰責性がないことに変わりはなく、Yの主張するXらの所属学部及び職種の限定の有無は、本件解雇の効力を判断する際の一要素に過ぎない」と述べ、解雇無効と判示している。ちなみにこの事案の評釈(『ジュリスト』2020年4月号)で筆者は次のように述べたことがあるが、単なる雇用関係ではなく、(専門性を一切捨象した)大学教授という身分自体を保護対象と考えるこの発想は、Y側の主張と極めて整合的であると言えよう。
 本件で興味深いのは、大学教授の配置転換可能性として事務職員としての雇用継続という選択肢も論じられていることである。この点に関しては、Xら側が大学教授という職務への限定性を強く主張し、本判決もそれを認めている。しかしながら、そもそも「大学教員はその専門的知識及び実績に着目して採用されるもの」を強調するのであれば、およそ大学教授であれば何を教えていても配置転換可能などという議論はありえまい。例えば法学部が廃止される場合、その専任教員を事務職員にすることは絶対に不可能であるが、理学部の専任教員にすることは同じ「大学教員」だから可能だとでも主張するのであろうか(労働法の教授を人事担当者にする方がよほど専門知識に着目しているとも言えよう)。
 同様に学部廃止に伴う整理解雇事案である学校法人奈良学園事件(奈良地判令和2年7月21日労働判例1231号56頁)でも、本来専門性が高くなればなるほど配置転換の可能性は少なくなるはずなのに、逆に「ビジネス学部及び情報学部に在籍する学生がほとんどいなくなったことにより過員となった教員たる原告らを人間教育学部又は保健医療学部に異動させ、担当可能科目を担当させることがおよそ不可能であるとはいえず」などと、より無限定的な配転可能性を要求している。日本の裁判所にとって、大学教授というのは身分としては最大限尊重されるべきであるが専門性は尊重する値打ちはないようである。
 
3 採用の自由と学問の自由
 上述のように、Y側は採用の自由論に加えて、憲法23条に基づく学問の自由をその論拠として挙げている。この議論は裁判所の採用するところとはなっていないが、それとして論ずる値打ちがあると思われる。Y側の論理は次のようである。「憲法23条は、学問の自由を保障しているところ、大学における学問の自由を保障するため、大学の自治が認められている。教員の人事における自治は、大学の自治の核心であるから、大学は、私企業に比して、採用の自由がより広範に保障されるべき立場にある。採用の自由が認められることの当然の帰結として、応募者をどのように評価するかについては、大学に広範な裁量権がある。」
 学問の自由や大学の自治については、東大ポポロ事件最高裁判決が次のように述べている。
・・・大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている。この自治はとくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される。また、大学の施設と学生の管理についてもある程度で認められ、これらについてある程度で大学に自主的な秩序維持の権能が認められている。
 このように、大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。
 Y側の主張はこの「この自治はとくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される」というところに着目したものであろう。だが、この「自主的判断」というのは、憲法の自由権規定の一環として、まず第一義的には国家の干渉からの自主性を意味する。ここでいう国家の干渉とは、戦前の滝川事件等におけるような行政権の介入のことであって、民事事件における司法権の介入までを否定するような意味合いはないはずである。もしそうなら、そもそも上記のような大学教授の整理解雇事件を司法の判断に委ねること自体が許されないことになる。そのようなことはあり得まい。
 ではY側の主張する学問の自由に基づく採用の自由とは何を意味しているのだろうか。本件に行政権は一切介入しておらず、司法の介入が当然であるとすると、残る当事者はXしかいない。とすると、Y側はXの訴えが学問の自由への侵害であると主張しているようである。
 もちろん、憲法の私人間効力論という議論はあり、私人による学問の自由の侵害ということも立論可能である。実際、強大な財力を有する企業や団体が大学の学問研究に干渉しようとするということも考えられるし、立論の仕方はともかく、それを学問の自由という概念で議論することはあってよい。しかしながら本件においては、XはYの一非常勤講師にして教員公募への応募者に過ぎない。社会経済的な力関係からいえば圧倒的にYが優勢である。Yの云い分は、Xが自分の採用選考が公正に行われたか否かをYに問うことが、学問の自由を侵害すると言わんばかりであり、そのあまりにも矮小化ではなかろうか。
 もっとも、これが単なる一個人の採用選考をめぐる紛争ではなく、背後に何らかの対立構造があり、本件はその表出であるとするならば、この反応にも理解できるところがある。それは、X側の次の主張に垣間見えている。すなわち、「Xは、自らが本件公募における上記(3)アの採用条件を満たす数少ない研究者の一人であると考えていたところ、それにもかかわらず、書類審査の段階で不合格とされたことから、選考過程の公正さについて疑念を抱き,本件公募の対象となったポストの前任者(Xは、前任者について、自己と学問的・政治的立場を全く異にしており、学問上対立関係にあると認識している。)が選考過程に関与したのではないかと疑った。」とあるように、ここには当該ポストの前任者とXとの間のイデオロギー的対立が影を落としており、前任者が自らと対立するイデオロギーの持ち主であるXを忌避して同じイデオロギーの者を後任者としたいと考えていたとするならば、それをその前任者の側が「学問の自由」と認識することはありえたからである。こうしたことは社会科学系の学問分野ではままありうるが、とりわけ本件における募集ポストが「現代中国の政治と国際関係」という極めてイデオロギー対立の激しいと考えられる分野であれば、これはいかにもありそうなことではある。
 この学問の自由論は、裁判所は結論を出すのに必要ないと考えたためか、あえて取り上げていないが、巷間、特定のイデオロギーの集団が特定大学の特定分野の教授ポストを独占している云々と噂されることはよくあり、それが司法審査の対象となり得るのかも疑問であるが、イデオロギー闘争に基づくポスト争いの理屈に学問の自由論を持ち出すのも、あまり見栄えのいいものではないとはいえよう。
 
4 団交応諾義務について
 本件の理論的コアは以上に尽き、個人情報の適正管理や団交応諾義務に関わる論点は枝葉末節に類する。ただし、団交応諾義務の成否に関しては、やや脇道であるが興味深い論点がある。それは、X1がYの非常勤講師であったことに関わる。
 そもそも、X1は本件公募への応募者個人として選考過程の開示を求めた後、本件訴訟を提起するまでの間に、X2に加入して団体交渉という集団的労使関係の枠組みで同じく選考過程の開示を求めているが、それが可能であったのは、たまたまX1が平成26年度後期から平成30年度後期までYの非常勤講師であり、言い換えればYは既にX1の使用者であって、「使用者が雇用する労働者の代表者と団体交渉をすることを正当な理由がなくて拒むこと」が不当労働行為たる団体交渉拒否になり得たからである。逆にいえば、X1がYの非常勤講師ではなく、純粋に本件公募への応募者としてX2に加入して団体交渉を要求したとしても、Y側はそもそもYはX1の使用者ではないとして拒否し得た可能性が高い。
 では、非常勤講師としての立場で使用者たるYに対して本件公募の選考過程の開示を求めることは義務的団交事項に当たるのであろうか。X1側の云い分は「X1にとって、本件公募による採用は、非常勤講師としての地位から専任教員としての地位への転換としての意味を有するものでもあり、Yと雇用関係にない純然たる第三者の採用の問題とは、その性質を異にするというべきである。」というものであり、本判決はこれを「専任教員に係る本件公募の選考過程は、X1とYとの間の労働契約上の労働条件その他の待遇には当たらない」と一蹴している。
 ここは、理論的にはそう簡単に言いきれないと思われる。恐らく大学人の意識においては、テニュアを有する専任教員と非常勤講師とは全く身分が異なるものであり、民間企業における正社員と非正規労働者のように単に労働時間や契約期間が異なるものではないと意識されているのであろうが、民間企業でも社会学的実態としてはそのような身分的意識が一般的であり、しかしながら法的には同じ雇用契約であって、私立大学や国立大学法人の専任教員と非常勤講師におけると何ら異なるところはない。そして、いずれも同様に労働契約法18条の適用を受け、無期転換ルールの下にあるのであるから、非常勤講師の無期転換要求は労働契約上の労働条件その他の待遇に含まれる。
 X2がYに団体交渉を申し入れた時点で、X1は非常勤講師として5年目に入っており、無期転換請求権の発生が目前にあったことからすると、Yが無期転換請求権の発生を防止するために当該年度で雇止めする危険性があり、それを防ぐために先んじて無期転換要求を提示しておくということは無意味ではなかろう。これに対して、大学非常勤講師には科学技術・イノベーション創出の活性化に関する法律15条の2の労働契約法の特例により無期転換ルールは10年となるという反論が考えられるが、学校法人専修大学(無期転換)事件(東京高判令和4年7月6日労働判例1273号19頁)は、研究活動を行わない非常勤講師については労働契約法の5年の本則が適用されると判示しており、X1にもこれが該当すると考えられる。
 もっとも、ここはさらに複雑な議論があり得て、非常勤講師としてのX1は、非常勤先のYにおいては教育活動のみに従事していたものと思われるが、本籍の明治大学では立派に研究活動をしているので、同条第1号の「研究者等であって研究開発法人又は大学等を設置する者との間で期間の定めのある労働契約(以下この条において「有期労働契約」という。)を締結したもの」という規定ぶりからすると、まさにこれに該当し、研究活動を行っていない非常勤講師としての雇用関係を有するYとの関係においても、労働契約法の5年ではなくイノベ法の10年が適用されることになるとも考えられる。
 この論点については、上記専修大学事件判決(地裁判決の引用部分)は「科技イノベ活性化法15条の2第1項1号の「研究者」というには,研究開発法人又は有期労働契約を締結した者が設置する大学等において,研究開発及びこれに関連する業務に従事している者であることを要するというべきであり,有期雇用契約を締結した者が設置する大学において研究開発及びこれに関連する業務に従事していない非常勤講師については,同号の「研究者」とすることは立法趣旨に合致しないというべきである」と明確に述べており、X1は明治大学では研究者であってもYでは研究者に該当しないので、労働契約法の5年出向き転換が適用されるはずである。
 ただし、これは団交応諾義務を引っ張り出すための理屈立てであって、事案の実体からすればかなりの程度において仮装というべきであろう。本件の社会的実態はYの雇用する非常勤講師X1の無期転換をめぐる紛争ではなく、Yのあるポストをめぐって、研究者共同体内部の学問的・政治的対立関係が表出したものというべきである。
 
  

 

 

 

 

 

2023年5月11日 (木)

ヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』@『労働新聞』書評

31grvfxfusl_sx343_bo1204203200_ 例によって『労働新聞』に月一回連載している書評コラム、今回はヘレン・ブラックローズ&ジェームズ・リンゼイ『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)です。

https://www.rodo.co.jp/column/149699/

 近年何かと騒がしいポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の源流から今日の蔓延に至る展開をこの一冊で理解できる。そして、訳者が皮肉って付けたこの邦題が、版元の早川書房の陳謝によって自己実現してしまうという見事なオチまでついた。
 ポリコレの源流は、意外にも正義なんて嘲笑っていたポストモダン(ポモ)な連中だった。日本でも40年くらい前に流行ってましたな。脱構築だの、全ては言説のあわいだとか言って、客観的な真実の追求を嘲弄していた。でもそれは20世紀末には流行らなくなり、それに代わって登場したのが、著者が応用ポストモダニズムと呼ぶ社会正義の諸理論だ。
 たとえばポストコロニアル理論では、植民地支配された側が絶対的正義であり、客観的と称する西洋科学理論は人種差別を正当化するための道具に過ぎない。ポモの文化相対主義が定向進化して生まれたこの非西洋絶対正義理論は、中東アフリカの少女割礼(クリトリス切除)を野蛮な風習と批判する人道主義を帝国主義的言説として糾弾する。
 たとえばクィア理論では、ジェンダーだけではなくセックスも社会的構築物だ。その結果、日本でも最近起こったように、男性器を付けたトランス女性が女湯に入ってくることに素直な恐怖心を表明した橋本愛が、LGBT差別だと猛烈な攻撃を受けて心からの謝罪を表明するに至る。もちろん、ジェンダーは社会的構築物だし、ジェンダー規範の強制が女性たちを抑圧している姿はイランやアフガニスタンに見られるとおりだが、ポモ流相対主義が定向進化すると、それを生物学的なセックスと区別することを拒否するのだ。
 そのジェンダースタディーズも、交叉性フェミニズムという名の被害者ぶり競争に突っ走る。批判的人種理論と絡み合いながら、白人男性は白人男性ゆえに最低であり、客観的なその言説を抑圧すべきであり、黒人女性は黒人女性ゆえに正義であり、どんな主観的な思い込みでも傾聴すべきという(ねじけた)偉さのランキングを構築する。いや黒人女性でも、それに疑問を呈するような不逞の輩は糾弾の対象となるのだ。
 その行き着く先は例えば障害学だ。もちろん、障害者差別はなくさなければならない。しかし、それは障害があるからといって他の能力や個性を否定してはならないということであり、だからこそ合理的配慮が求められるのだ。ところがこのポモ流障害学では、障害がない方がいいという「健常主義」を批判し、障害こそアイデンティティとして慶賀すべきと論ずる。その挙げ句、肥満は健康に悪いから?せた方がいいと助言する医者を肥満に対するヘイトだと糾弾するファットスタディーズなるものまで登場するのだ。もちろん、これは冗談ではない。
 いやほんとに冗談ではないのだ。ポリコレのコードに引っ掛かったら首が飛ぶ。本書にはその実例がてんこ盛りだ。そしてその列の最後尾には、本訳書を出版した早川書房の担当者が、訳者山形浩生の嫌味な解説を同社のサイトに載っけた途端に批判が集中し、あえなく謝罪して削除したという一幕が追加されたわけだ。まことに「社会正義」はいつも正しい。めでたしめでたし(何が)。     

(参考までに)

上記書評の最初と最後で触れた訳者山形浩生の嫌味な解説(削除されたもの)と、全面的に謝罪しながらこれを削除した早川書房の編集者氏のツイートを、参考までに挙げておきます。

https://archive.is/2022.11.15-133517/https://www.hayakawabooks.com/n/n3856ec404c2f

訳者解説

1 はじめに

本書はHelen Pluckrose and James Lindsay 『Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity—and Why This Harms Everybody』(2020年)の全訳だ。翻訳にあたっては出版社からのPDFとハードカバー版を参照している。

2 本書の背景

本書は、ここ10年ほどで欧米、特にアメリカで猛威をふるうようになったポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)、あるいは「社会正義」運動の理論と、その思想的源流についてまとめた本だ。
現在のアメリカでは、一部の「意識の高い」人々による変な主張がやたらにまかりとおるようになっている。少なくとも、それを目にする機会はずいぶん増えた。性別は自分で選べるといって、女子スポーツに生物学的な男性が出たりする。大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される。大学で非白人学生による単位や成績の水増し要求を断ると、白人による抑圧の歴史を考慮しない差別だと糾弾される。
批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それがまったくの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。
それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか奨励されるという異常な事態すら起きつつある。身近なところでは白人が日本の着物を着れば(あるいは黒人が日本アニメのコスプレをしたら)それが(ほとんどの日本人は気にしないか、むしろおもしろがっていても)関係ない第三者により文化盗用だと糾弾され、他文化の要素を採り入れたデザイナーや企業が謝罪に追い込まれる事態も頻発している。
さらにこうした事態に対して科学的知見に基づく反論をすると、各種科学や数学はすべて植民地帝国主義時代の白人男性が開発したものだから、それを持ち出すこと自体が差別への加担だ、と変な逆ギレをされ、この理屈がいまやカリフォルニア州の算数公式カリキュラムの基盤となりつつある。
そして2022年夏には科学分野で有数の権威を持つ『ネイチャー』誌までこうした運動に入り込まれ、今後はマイノリティのお気持ちに配慮しない、つまり「社会正義」に都合の悪い論文は却下するという公式方針(! !)を打ち出し、中世暗黒時代の再来かと嘆かれている始末だ。いったい何が起きているのか? 何がどうよじれると、こんな変な考えがはびこり、表舞台にまで浸透するようになるのか?
本書はこうした「社会正義」の様々な潮流を総覧して整理してみせる。そしてその源流が、かつてのポストモダン思想(日本では「ニューアカデミズム」とも呼ばれたフランス現代思想)の歪んだ発展にあるのだと指摘する。それが、過去数世紀にわたる飛躍的な人類進歩をもたらした、普遍性と客観性を重視するリベラルで啓蒙主義的な考え方を完全に否定する明確に危険なもので、これを放置するのは分断と敵対、自閉と退行につながりかねないと警鐘を鳴らす。

3 著者たちについて

ジェームズ・リンゼイは1979年生まれ、アメリカの数学者であり、また文化批評家でもある。ヘレン・プラックローズはイギリスの作家・評論家だ。いずれも、リベラリズムと言論の自由を強く支持し、本書に挙げられたような社会正義運動と、それに伴う言論弾圧やキャンセルカルチャーについては強く批判する立場を採る。
どちらも、いろいろ著作や活動はある。だが二人が有名になったのは何よりも、2017~2018年に起こった通称「不満スタディーズ事件」のおかげだ。
哲学研究者ピーター・ボゴシアンとともに、この二人はカルチュラル・スタディーズ、クィア研究、ジェンダー研究、人種研究等の「学術」雑誌(もちろん本書で批判されている各種分野のもの)にデタラメな論文を次々に投稿し、こうした学術誌の査読基準や学問的な鑑識眼、ひいてはその分野自体の学術レベルの低さを暴こうとした。「ペニスは実在せず社会構築物である」といった、明らかにバカげた論文が全部で20本作成・投稿され、途中で企みがバレたものの、その時点ですでに七本が各誌に受理・掲載されてしまった。もちろんこれは1995年にポストモダン系学術誌に物理学者アラン・ソーカルらがでたらめ論文を投稿したソーカル事件(後ほど少し説明する)を明確に意識していたものだったし、この事件も「ソーカル二乗」スキャンダルなどと呼ばれたりする。
この事件で各種現代思想/社会正義研究(少なくともその刊行物)のデタラメさ加減が見事に暴かれた、と考える人は多い。その一方で、ソーカル事件のときとまったく同じく、「手口が汚い」「学者の良心を信じる善意につけこんだ下品な手口」「はめられた雑誌は業界で最弱の面汚しにすぎず、何の証明にもならない」「主流派の焦りを示す悪意に満ちた詐術であり、これ自体がマイノリティ攻撃の差別言説だ」といった擁護論もたくさん登場した。首謀者の一人ボゴシアンは、この一件が不正研究に該当すると糾弾され(だまされた雑誌が「人間の被験者」であり、人間を研究対象とするときの倫理ガイドラインに違反した、とのこと)、勤務先のポートランド州立大学からの辞職に追い込まれている。
その残りの二人が、おそらくはこの事件を直接的に受けてまとめたのが本書となる。

4 本書の概要

本書の最大の功績の一つは、多岐にわたる「社会正義」の各種「理論」を、まがりなりにも整理し、多少は理解可能なものとしてまとめてくれたことにある。
こうした「社会正義」の理論と称するものの多くは、とんでもなく晦渋だ。文字を追うだけでも一苦労で、なんとか読み通しても変な造語や我流の定義が説明なしに乱舞し、その理論展開は我田引水と牽強付会の屁理屈まがいに思える代物で、ほぼ常人の理解を超えている。それをわざわざ読んで整理してくれただけでも、実にありがたい話だ。
さらに一般的には、一応はまともな肩書きを持つ学者たちによる「理論」が、そんなおかしなものだとはだれも思っていない。読んでわからないのは自分の力不足で、理論そのものは難解だけれど、まともなのだろう、世の中で見られる異常な活動の多くは、末端の勇み足なのだろう、というわけだ。
が、実はだれにも理解できないのをいいことに、そうした「理論」自体が、まさに常軌を逸した異常なものと化している場合があまりに多い。それを本書は如実に明らかにしてくれる。
では、本書の指摘する各種理論の変な部分はどこにあるのだろうか? そのあらすじを以下でざっとまとめておこう。
フェミニズム、批判的人種理論、クィア理論等々の個別理論については、ここで細かくまとめる余裕はないので本文を参照してほしい。だが、本書によればそうした理論のほとんどは同じ構造を持ち、その歴史的な源流も同じなのだ。こうした様々な「思想」の基本的な源流はかつてのポストモダン思想にあるという。
で、そのポモ思想って何?

ポモ思想は、本書の認識では左派知識人の挫折から生まれたやけっぱちの虚勢だ。1960年代の社会主義(学生運動)の破綻で、左翼系知識人の多くは深い絶望と挫折を感じ、資本主義社会にかわる現実的な方向性を打ち出せなくなった。その幻滅といじけた無力感のため、彼らは無意味な相対化と極論と言葉遊びに退行した。それがポストモダン思想の本質だった、という。
そのポモ思想によれば世界は幻想だ。客観的事実などは存在せず、すべてはその人や社会の採用する思考の枠組みや見方次第だ。だから資本主義社会の優位性も、ただの幻想なんだよ、と彼らは述べる。
そして、その思考の枠組み(パラダイムとか、エピステーメーとか「知」とかいうとカッコいい)は社会の権力関係により押しつけられる。それは社会の言説(ディスクール、というとカッコいい)としてあらわれるのだ。その中にいるパンピーは、知らぬ間にそうした枠組みに組み込まれてしまい、それがありのままの客観的な世界だと思い込んでいる。そして人々がその支配的な言説に基づき行動/発言すること自体が、まさにその枠組みを強化し、延命させるのだ。
つまりオメーらみんな、口を開いた瞬間に権力に加担している。えらいアタマのいい、言語に対するシャープな批判力を養い、社会を超越した視線を持つ自分たちだけが、その欺瞞に気づけるし、資本主義の幻想の中で右往左往するだけのオメーらのバカさ加減を認識できるんだよ、というのがポストモダニズムだ、と本書は述べる。
ふーん、それで? 資本主義社会が幻想ならどうしろと? それに代わるものをこの理屈は提出できない。その意味でポモ思想は、左翼がかった高踏的なインテリどもの知的お遊びにすぎなかった。やがてその遊びのネタが次第に尽き、自己参照的な言葉遊びに堕すと、こうした知的お遊戯自体が無内容で非建設的なものとして逆に嘲笑の対象と化した。現代思想業界の雑誌が、本物の科学者たちの捏造した無内容なインチキ論文を嬉々として採用してバカにされた1995年のソーカル事件は、そうした社会的な認識の現れでもある。
が、それと前後してポモ思想に飛びついた人々がいた。それが活動家たちだ。活動家たちも、20世紀後半には壁にぶちあたっていた。女性の抑圧や植民地主義、人種差別といった社会の問題は、当初は資本主義社会の抱える本質的な問題と思われていた。社会主義は、資本主義がそういう搾取の上に成立しているのだ、自分たちはそれを解決する、と主張し続けてきた。それを信じて、多くの社会活動家は社会主義、マルクス主義的な立場からの活動を続けてきた。
が……社会主義の惨状と崩壊で、その立場も崩れてきた。一方で啓蒙思想とリベラリズムが広がるとともに、こうした問題も次第に資本主義の枠内で改善してきた。もちろん完璧ではない。地域差もある。だが20世紀半ばまでに、こうした問題のフォーマルな面はかなり解消された。それにつれて多くの社会活動家たちの活動範囲もどんどんせばまった。しかも残された差別の多くは、社会的な慣習、惰性、初期条件の差から来る創発的なもので、政治的な発言力などではなかなかどうにかできるものではないし……
そこにあらわれたのがポモ思想だ。そこでは、各種の抑圧や差別は、社会全体における権力関係として、人々の「知」の構造の中にはびこるものとなる。それを表現するのが言説であり、そしてその言説が繰り返されると「知」は強化され、そこに内在する差別や抑圧はますます強まる。それを何とかしない限り、形式的な法律だの規制だのをいくらいじったところで、各種社会問題は何も解決しないのである! 社会の正義を実現するためには、社会全体の言説と「知」のあり方を変えねばならない!
だがこれは、一瞬で言葉狩りと思想統制と人民裁判へと転じかねない発想だ。差別的な発言を探して糾弾し、それを述べた人物を吊し上げて、言説を発する立場(つまりは職場など)から追い落とすことで言説の権力構造を変える──まさに現在はびこりつつあるキャンセルカルチャーそのものだ。
そして……抑圧者、権力者たちは自分たちに都合のいい、差別を構造化した知/言説を構築し、そこに安住しすぎているが故に、そうした権力構造をそもそも認識できない。それを認識できるのは、排除され、抑圧されてきたが故にその欺瞞を実感している、被抑圧者、被差別者、弱者、他者、マイノリティたち……そしてもちろん、こうした思想や活動を学んで「社会正義」に目覚めた(Wokeな)意識の高い人たち(つまり自分たち)だけなのだ!
つまり自分たちだけが言葉狩りと思想統制の審問官になれる、というわけだ。だからこの人たちの癇にさわった(「トリガーした」)言説は、それだけで有罪確定だ。そこでは事実も論理も関係ない(それ自体が権力的な言説なのだから)。表面的な意味を越えて、そうした言説や表現の持つ構造的な含意にこそ差別があるのであり、それを検出できるのは被差別者や他者のお気持ちだけだ。それに反論するのはまさに、その反論者が差別構造に気づけない、つまりその人物が無自覚な(いやヘタをすると悪意に満ち)罪深い差別者である証拠だ。いやそれどころか、その反論自体が被抑圧者へのセカンドレイプでヘイトスピーチなのだ。
本書で挙げられた各種の「社会正義」理論の流派は、すべてこのパターンにあてはまる。そこでの「弱者」は何でもいい。女性、LGBT、黒人、マイノリティ、肥満者、身体障害者、病人、そしてそうした各種要因の無数の組み合わせ。歴史的経緯や主要論者の嗜好により多少の差はあれ、本書での説明ではどれもおおむね似たようなパターンをたどる。
そしてそのいずれでも、弱者アピールが何よりも正統性の根拠となる。差別されているというアイデンティティによってこそ、その人の「正義」と批判力は担保される。「社会正義」運動の多くが「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる所以だ。そしてこれは、往々にしてきわめて倒錯的な主張につながる。この発想からすれば差別をなくして対等な立場と平等性を実現しようとするのは、そうした弱者の特権性をつぶして既存権力構造に隷属させようとする差別的な口封じの陰謀になりかねない。病気を治療したり、マイノリティの教育水準を引き上げて社会的な不利をなくそうとしたりするのは、その人々の弱者としてのアイデンティティ否定だ!
差別をなくす、というのは本来、社会的な不利をなくす、ということだったはずだ。それが弱者アイデンティティの否定だというなら、これは差別をなくすために差別を温存すべきだ、というに等しい変な議論になりかねない。が、いまの「社会正義」理論の一部はまさにそういうものになり果てている。これは誰のための、何のための「正義」なのか、と本書は批判する。
マーティン・ルーサー・キングは、肌の色ではなくその中身で人が判断される時代を待望した。これは啓蒙主義とリベラリズムの思想で、あらゆる人を平等に扱おうとする。だが「弱者」に特権的な視点と判断力があり、その人たちのお気持ちだけを重視すべきで、そこに含まれない人々は目覚めていないんだからその主張は無視してよい、というこの「社会正義」の理論は、分断と対立を煽り、別の形で差別を温存させるだけだ。
そうした危険な動きの拡大には警戒すべきだ、と本書は述べる。アイデンティティを超える普遍的な価値観と万人の共通性を強調した、啓蒙主義とリベラリズムの立場を復活させるべきなのだ。だって、それが実際に社会の平等と公正を拡大してきたのはまちがいのない事実なのだから。そしてそのためには、本書で異様な「社会正義」理論を理解したうえで、それに対して筋の通った反論をしよう。
これまでは、「差別はいけません」といった漠然としたお題目のために、みんなこうした理論に正面きって反対するのを恐れてきた面がある。それがこうした「理論」をはびこらせてしまった。だが「社会正義」理論を否定するというのは、別に差別を容認するということではない。どこは認め、どこは受け入れないのかをはっきりさせて、決然とした対応を!

5 本書の受容とその後

当然ながら、本書はスティーブン・ピンカーをはじめ、啓蒙主義とリベラリズムを擁護し、その21世紀的な復権を主張する論者からはきわめて好意的に迎えられた。もちろん、著者二人の先人ともいうべき、ソーカル事件のアラン・ソーカルも絶賛している。「社会正義」サイドは、無理もないが本書を口をきわめてののしっていて、著者たちも執拗な攻撃を受けている。著者の一人リンゼイは、LGBT活動などをからかったツイートをやり玉にあげられて、2022年の8月5日にツイッターの垢バンをくらってしまった。
またこうした思想的な潮流よりは、社会経済的な背景が重要との指摘もある。学術界全般の悪しきこむずかしさ崇拝傾向に加え、アメリカの大学のほとんどが私学で、学費と寄付金のために生徒やその親の過激な主張に断固とした態度がとれないこと、つぶしのきかない人文系大卒者の激増と就職難に伴う「意識の高い」NGO急増のほうが主因だという説も出た。現代思想は彼らの方便でしかないというわけだ。これは一理あるが、その方便に気圧されないためにも、それが出てきた背景と中身を知っておくのは無駄ではない。
いずれにしても読者の評判はかなりよく、いくつかメジャー紙のベストセラーにランクインするほどの売上を見せている。『フィナンシャル・タイムズ』紙などの年間ベストブックにも選ばれた。こうした理論の冷静でわかりやすい概説書が欲しいというニーズは(おそらく支持者側とアンチ側の双方に)それなりにあったらしい。
そうした解説ニーズに応えるためか、2022年には本書をさらに噛み砕いた「読みやすいリミックス版」(Social (In)justice: Why Many Popular Answers to Important Questions of Race, Gender, and Identity Are Wrong—and How to Know What’s Right)も出版され、こちらもかなり好評だ。
そしておそらく、その後のアメリカの政治状況も、本書の好評とある程度は関係している。「社会正義」理論の弊害への懸念が2010年代末から高まっていたのはすでに述べた通り。それが本書登場の背景でもある。特に2020年に全米で吹き荒れた、黒人差別に抗議するBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動とそれに伴う騒乱は、社会に大きな傷痕を残し、それを「社会正義」的な思想の広まりがその暴走を煽ったという指摘もあった。つまりは、左派による「社会正義」理論の濫用が問題だということだ。
だがそこで奇妙な倒錯が生じた。2020年のヴァージニア州知事選で、共和党候補が批判的人種理論ことCRTの教育制限を公約に挙げた。「社会正義」の理論と、その教育現場への安易な導入こそが、人種分断を煽る大きな要因なのだという。だが実際に当選してから彼らがはじめたのは、きわめて穏健な人種差別教育や多様性教育の抑圧だった。そしてそれが、続々と他の州にも拡大し、同時にジェンダー教育などもCRTのレッテルの下に含めて潰そうとしつつある。つまり今度は右派による「社会正義」理論の(レッテルとしての)濫用が課題になってきたというわけだ。
こうしていまや「社会正義」理論は、一部の人しか知らない特異な社会運動理論から、政争ツール最前線にまで踊り出てしまった。好き嫌い(および肯定否定)を問わず、こうした議論の妥当性を判断する一助としても、思想や理論について、概略でも理解する必要性は高まっている。その意味で、本書のような見通しのよい解説書への需要は、今後当分続くのではないだろうか。

6 日本にとっての意義

日本では幸いなことに、本書の発端になったような異常な事件が頻発したりはしていないようだ。各種の思想や哲学系の雑誌で、「社会正義」的な思想の特集が組まれても、その思想自体が各種の運動を煽ったという事例は、寡聞にして知らない。「社会正義」的主張を掲げる抗議運動や、それを口実にした吊し上げやキャンセル活動は確かにある。
だが系統だったものは少なく、また多くの場合には本音の私的な遺恨や派閥抗争がだらしなく透けて見える。一方で受容側の企業や、かなり遅れてはいるが公的機関や大学なども、SNS炎上などの対処方法がだんだんわかってきた様子はうかがえる(基本、無視がいいようだ)。
だからおそらく読者の多くは、「社会正義」が生み出した変な運動の矢面に立たされることもないだろう(と祈っていますよ)。政治トピックに上がるとも思えないから、本書に述べられた個別理論の細部を理解する必要に迫られることもないだろう。本書への関心も、恐い物見たさの野次馬めいたものが大きいのではないか。
だが怪しげな理論の先鋭化と暴走が現実的な問題を引き起こす可能性は常にある。本書を通じてその現れ方を理解しておくのは、決して無駄にはならない。そしてそれ以上に、本当の社会正義や社会集団共存の実現は当然ながら必要なことだ。多くの人がそれを認識しているからこそ、異様な「社会正義」理論(またはその反動)がつけいる隙も生まれてしまう。
それを防ぐためには、その社会正義を自分自身がどう考えるのか、何を目指すのかについて、個人や組織が自分なりの基盤と筋を確立しておく必要がある(本書で懸念されている、「社会正義」の巣窟となりかねない企業や組織の多様性担当者といった役職は、本来はそうした基準の構築が仕事だろう。もちろんCRT禁止の旗印で常識的なジェンダーや多様性の教育まで潰されそうになったときにも、ある程度の知識があれば「これはCRTとちがう」と変な介入をはねかえして筋の通った対応をしやすくなる)。
そして本書や類書の最大の貢献はそこにあるはずだ。本書により「社会正義」理論のおかしな展開を見る中で、読者は自ずと自分にとって何が正しいかを考えるよう迫られるからだ。
それを一人でも多くの読者がやってくれれば、訳者(そしてまちがいなく著者たちも)冥利につきようというものだ。

7 謝辞など

翻訳は、前半を森本、後半を山形が行い、最終的に山形がすべてを見直している。

訳者たちはいずれも、こうした分野の専門家ではない。各種専門用語などは、なるべく慣用や定訳に従ったつもりだが、思わぬまちがいや各種理論・理屈の誤解などはあるかもしれない。また引用部分については、邦訳があるものはなるべく邦訳を参照したが(邦訳の該当ページは注を参照)、文脈その他に応じて修正した部分もそこそこある。誤訳、用語のまちがいなど、お気づきの点があれば、訳者までご一報いただければ、反映させていただく。そうした正誤表や関連リソースについては、以下のサポートページで随時更新する。https://cruel.org/books/books.html#translations
本書の編集は早川書房の一ノ瀬翔太氏が担当された。当方の様々な見落としをご指摘いただいたばかりか、太字や大文字表記などで特殊な概念を示した原著を、日本語での違和感のない表記法を編み出してわかりやすくしていただき、心より感謝する。そしてもちろん、本書を手に取ってくださる読者のみなさんにも。
 2022年9月 デン・ハーグにて

https://twitter.com/shotichin/status/1599788337015189504

『「社会正義」はいつも正しい』解説記事の公開を停止しました。私はテキストが持ちうる具体的な個人への加害性にあまりに無自覚でした。記事により傷つけてしまった方々に対して、深くお詫び申し上げます。記事の公開後、多くのご批判を社内外で直接・間接に頂き、 問題を自覚するまでに一週間を要しました。結果、対応がここまで遅れてしまったことにつきましても、誠に申し訳ございません。取り返しのつくことではございませんが、今後の仕事に真摯に向き合い、熟慮を重ねてまいります。

(念のため)

ちなみに、こういうことを言う人もいるので、

https://twitter.com/killjoy2thewld/status/1656795432612405248

また知識人(濱口桂一郎氏)がポリコレ腐しつつクィア理論やトランスに関する悪意ある言説を広めるってのを観測した
まあこの本取り上げてる時点で…って感じだけどさ…。

濱口氏実はお会いしてお話しさせていただいたことあるんだけど、コンタクトを取ったことがある人に後から信頼を削ぎ取られるようなことがあるたびに無力感を感じる

本書がそういう差別を煽動する悪辣な極右の際物本であるかどうかを、本書の最後の結論部分を引用して確認できるようにしておきます。

・人種差別はいまも社会問題だし、対応が必要だというのは認める

・批判的人種<理論>や交差性が、その対応の最も役に立つツールだとは認めない。人種問題は、可能な限り厳密な分析を通じて解決するのが最もよいと信じるから。

・人種差別は、人種に基づく個人や集団に対する偏見や差別的行為として定義されるし、そのようなものとして対応するのがよいと考える

・人種差別が言説を通じて社会に焼き込まれているとか、それが避けがたく、あらゆるやりとりの中に存在するからそれを見つけて糾弾すべきだとか、それがいつどこにでも存在し、あらゆるところに充満した偏在する制度的な問題の一部だ、とかいう話は認めない

・人種差別に対処する最もよい方法は、人種分類に社会的に対する重要性を復活させて、その重要性を極端に高めることだ、などとは考えない

・各人は、人種差別的な見方をしないという選択ができるし、またそうなるよう期待される。それにより人種差別は次第に低減し、珍しいものになり、お互いをまずは人間として見て、ある人種の一員かどうかは二の次になるだろうと考える。人種問題は、人種化された体験について正直に述べることで対処するのがよく、その一方で共通の目標と共有されたビジョンに向けて活動するべきだと考える。そして人種によって差別しないという原理は普遍的に尊重されるべきだと考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年5月 9日 (火)

問われる日本型雇用と労働観-テレワークは広がるのか@『中央公論』2023年6月号

61ynwn0puel_sx530_bo1204203200_  明日発売の『中央公論』2023年6月号に、「問われる日本型雇用と労働観-テレワークは広がるのか」を寄稿しました。「東京再膨張」という特集の中の一本です。

== 特集 ==
東京再膨張――なぜ地方では生きられないのか
◆〔対談〕「地方消滅」予測から10年 コロナ後の首都圏回帰 いかに人を動かすか▼増田寛也×砂原庸介
◆女性がリードする地方からの人口流出 正規雇用の拡大が課題▼天野馨南子
◆問われる日本型雇用と労働観 テレワークは広がるのか▼濱口桂一郎
◆〔対談〕上京物語の変遷 住まい・文化・交通をめぐって▼岡崎武志×速水健朗
◆人の奪い合いから分かち合いへ 「関係人口」という選択肢▼田中輝美
◆「タワマン文学」の旗手に聞く 湾岸のタワマンに住む地方出身者の悲哀▼外山 薫
◆アニメはいかに首都と地方を描いたのか ジブリ作品から「聖地巡礼」まで▼藤津亮太
◆大地震後も「社会増」、北海道の小さな町の挑戦▼宮下悠樹 

 

JILPTのコロナ調査から
テレワークの進化3段階とコロナ禍
日本におけるテレワーク政策
・人事評価
・労働時間制度
長時間労働の抑制と労働者の私的自由の矛盾
「いつでもどこでも働く」社会はユートピアかディストピアか? 

 

 

技能実習制度の廃止と新たな制度の創設へ?@WEB労政時報

WEB労政時報に「技能実習制度の廃止と新たな制度の創設へ?」を寄稿しました。

 去る4月28日、技能実習制度及び特定技能制度の在り方に関する有識者会議は「中間報告書」を取りまとめて公表しました。その内容は多岐にわたっていますが、技能実習制度の廃止とそれに代わる新たな制度の創設を明確に打ち出しており、今後の外国人労働政策の方向性を指し示していると見られます。今回はこれまでの経緯とこの中間報告書の内容を概観したいと思います。・・・・

 

 

2023年5月 2日 (火)

岡村優希「〔書評〕濱口桂一郎著『新・EUの労働法政策』」@『EU法研究 第13号』

Large_26a20fc1faef43918071330255c6701d 信山社から出ている『EU法研究 第13号』を、岡村優希さんよりお送りいただきました。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b10031409.html

というのも、この号に岡村さんが、拙著『新・EUの労働法政策』の書評を書かれているからです。

◆〔書評〕濱口桂一郎著『新・EUの労働法政策』〔岡村優希〕
 Ⅰ はじめに
 Ⅱ 本書の構成と内容
 Ⅲ EU法政策をめぐる他の研究との関係性―本書の方法論的特徴
 Ⅳ おわりに―EU労働法研究の多様性と今後の発展

この書評、7ページにも及ぶ本格的なもので、目次でも他の諸論文と並ぶほどの扱いになっています。

本書はタイトルにもあるように、決してEU労働法のテキストブック(古くはブランパン、最近ではキャサリン・バーナードなどのような)ではなく、まさに労働法の政策過程を詳細に跡づけることを目指した本です。

岡村さんはそのことを次のように明晰に述べています。

・・・とりわけ、本書には、政策過程についての動態的な分析が充実している一方で、EU労働法の解釈論的側面における法理論的な分析が充分に展開されていないところがある。

 例えば、経済的自由権と労働基本権の調整が問題となった、Lava-quartetとも称される一連の欧州司法裁判所の裁定・判決について見ると、本書は、EUにおける労働基本権保障に係る法的状況を踏まえつつ、それぞれの事実概要と判断の内容自体については簡潔な紹介に留めた上で、その後、それらがどのような政策上の展開を生じさせたのかという分析に注力している(332-334頁)。これに対して、他の研究においては、法理論的により踏み込んだ検討が行われており、具体的には、第一次法上の権利の衝突という観点からすると本問題を規範の位階性によって理解することは困難であるとの認識を出発点とした上で、市場参入制限アプローチや相互的な比較衡量を用いた理論的な分析が行われている。

 このことが意味するのは、本書に不足があるということではなく、EU労働法研究には多様性があるということである。すなわち、本書の研究は、主として政策的な側面からEU労働法の全容を解明するところにあるため、欧州司法裁判所の判断はそれに資する範囲で検討対象とされている。いわば、政策的な展開をもたらすファクターとして欧州司法裁判所を捉えているのであって、本書はそれ自体の理論的な検討を主目的とはしていないのである。・・・

まさしくその通りで、本書に出てくるいくつかの指令については膨大な欧州司法裁判所の判例があり、通常の労働法のテキストであればその重要度に従ってそれらを紹介するはずですが、本書では、その後の立法政策に影響を与えていないものは一切出てきません。

 

 

 

 

 

2023年5月 1日 (月)

性的指向による差別を禁止する法案は21年前に自民党政権がちゃんと出していた件について

もうこれも嫌になるくらい繰り返してきた話ですが、保守反動政権の出してくる法案はことごとくけしからんものだから叩き潰すのが当然と心得ているらしい方々には全然教訓になっていないらしいので、再三再四になりますが再掲しておきますね。

文中「16年も前の2002年」とあるのは、「21年も前の2002年」と読み替えて下さい。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/lgbt-7b3d.html(LGBTと人権擁護法案)

いろいろと世間が騒がしいようですが、LGBTと言われる性的指向に係る差別や侮辱、嫌がらせ的言動については、16年も前の2002年の段階で、当時の自民党政権から提出された人権擁護法案に、ちゃんとこういう規定があったことを、覚えている人はどれくらいいるでしょうか。

http://www.moj.go.jp/content/000104841.pdf


(定義)
第二条 ・・・
5 この法律において「人種等」とは、人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向をいう。

(人権侵害等の禁止)
第三条 何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない。
一 次に掲げる不当な差別的取扱い
イ 国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い
ロ 業として対価を得て物品、不動産、権利又は役務を提供する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い
ハ 事業主としての立場において労働者の採用又は労働条件その他労働関係に関する事項について人種等を理由としてする不当な差別的取扱い(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(昭和四十七年法律第百十三号)第八条第二項に規定する定めに基づく不当な差別的取扱い及び同条第三項に規定する理由に基づく解雇を含む。)
二 次に掲げる不当な差別的言動等
イ 特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動
ロ 特定の者に対し、職務上の地位を利用し、その者の意に反してする性的な言動
三 特定の者に対して有する優越的な立場においてその者に対してする虐待
2 何人も、次に掲げる行為をしてはならない。
一 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをすることを助長し、又は誘発する目的で、当該不特定多数の者が当該属性を有することを容易に識別することを可能とする情報を文書の頒布、掲示その他これらに類する方法で公然と摘示する行為
二 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをする意思を広告、掲示その他これらに類する方法で公然と表示する行為

こういう立派な法案が、なぜ成立することなく、今では忘れられてしまっているかって?

それはもちろん、当時の野党、つまり今でも野党になっている民主党、社民党等が反対したからです。また、有力マスコミもメディア規制が入っているのがけしからんと、揃って反対しました。それで廃案になり、その後は今度は自民党の中から猛烈な反対論が出て、ついに出せなくなり、潰したはずの民主党が政権についてから法案を出し直したけれどもやはり廃案、今に至るというわけです。

悪い奴らが出す法案はことごとにそのアラを暴き立てて潰すに限ると思い込んでいる方々も多いようですが、うかつにやるとこういう結果になるといういい実例です。

 

職務給に労働組合は悩んでいた@『月刊労委労協』2023年4月号

Image0_20230501110201 『月刊労委労協』2023年4月号に「職務給に労働組合は悩んでいた」を寄稿しました。

 去る2023年1月23日、岸田文雄首相は第211回国会の施政方針演説で「従来の年功賃金から、職務に応じてスキルが適正に評価され、賃上げに反映される日本型の職務給へ移行することは、企業の成長のためにも急務です。本年6月までに、日本企業に合った職務給の導入方法を類型化し、モデルをお示しします」と語りました。
 こうした職務給への志向は、同じ宏池会出身の池田勇人首相がそのちょうど60年前の1963年1月23日に、第43回国会の施政方針演説で「従来の年功序列賃金にとらわれることなく、勤労者の職務、能力に応ずる賃金制度の活用をはかるとともに、技能訓練施設を整備し、労働の流動性を高めることが雇用問題の最大の課題であります」と語っていたことが、ちょうど干支が一巡りして元の場所に戻ってきた感があります。
 池田首相の下で1960年に策定された『国民所得倍増計画』は、「終身雇用制、年功序列型賃金制度等の諸要素が労働力の流動性をより著しく阻害している」との認識に立ち、「労務管理体制の変化は、賃金、雇用の企業別封鎖性を超えて、同一労働同一賃金原則の浸透、労働移動の円滑化をもたらし、労働組合の組織も産業別あるいは地域別のものとなる」と、より明確に職務給への移行を唱道していました。また1963年の経済審議会の『人的能力政策に関する答申』は、「経営秩序近代化の第一歩は、従来半ば無規定的であった労働給付の内容を職務ごとに確定すること、即ち職務要件の明確化に始まる。・・・職務要件を明確にすることは企業内の賃金制度や昇進制度を公正で秩序あるものとするための基本となる」と、より詳細に職務給のあり方を描き出していました。当時、つまり1960年代前半期の日本では、同一労働同一賃金に基づく職務給というのが政労使の間で流行語になっていたのです。
 この少し前の1958年に設立された日本労働協会(労働政策研究・研修機構の前身)は、1960年10~11月に箱根強羅で開催した賃金に関する労働組合幹部専門講座で職務給の問題を取り上げ、ナショナルセンターや産別幹部によるその講演・質疑の記録を翌1961年に『労働組合と賃金 その改革の方向』という書物にして刊行しています。さらに同年5月に開催した個社単組幹部による講演・質疑の記録も『職務給と労働組合』として刊行しました。これらを読むと、当時の労働組合リーダーたちが、労働組合運動の旗印である同一労働同一賃金原則と、政府や経営側が主導する職務給攻勢とのはざまで様々に悩んでいたことが浮かび上がってきます。
 本稿では、これら書物を中心に、いまではその後輩たちからほぼ完全に忘れ去られているであろう干支一巡前の労働組合の職務給に対する見解を振り返ってみたいと思います。
1 ナショナルセンターの温度差
・新産別
・全労
・総評
2 それぞれに悩む産別
・全造船
・合化労連
・電労連
・全繊同盟
3 単組の試み
・昭和電工労組
・いすゞ自動車
・東京電力
4 職務給志向の消滅と局所的復活
5 非正規労働問題から日本型「同一労働同一賃金」へ
6 男女同一賃金の(再)浮上

 

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