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2023年4月 4日 (火)

マルクスのフェティシズム?

202304_coverthumb140xauto16294 経団連の発行する月刊誌の座談会に、思わず膝を叩きたくなる様な台詞が出てきました。

04_zadankai いや、これは『月刊経団連』4月号の、「社会性の視座のもと、資本主義の未来を考える」という座談会ですが、その中で、小野塚知二さんがこういうことを喋っているのです。

https://www.keidanren.or.jp/journal/monthly/2023/04_zadankai.pdf

 ・・・現在の資本主義を考える時、「資本だからより高い利潤を求めるのは仕方ない」というある種の諦めのような議論が潜んでいます。しかしよく考えると、それは奇妙なことです、資本は、元をたどれば、単なる貨幣、すなわち記号やモノにすぎません。「自分を増やせ」と貨幣が人間に命令するはずがありません。もし命令するとしたら、それは資本という悪魔が人間に憑依して金もうけを迫っているという悪魔憑きのような世界です。
 人間が貨幣を持つと利潤を求めるようになるのは、人間の側に際限のない欲望があるからです。しかしそのことを、人類はいつから気付いていたのでしょう。比較神話学や人類學、考古学の研究成果を紐解くと、4~5万年前に際限なき欲望が登場したことが分かっています。貨幣が登場したのは。そこから、4万5000年後です。さらにブッダが登場し、際限なき欲望を「煩悩」と言語化し、」際限なき欲望を、人間が煩悩から解放されない限り本当の幸福は訪れないと説いたのが今から約2500年前です。すなわち、際限なき欲望を認知し言語化するまでに4万7500年もかかっています。人間は根源的に。自分が際限のない欲望を持っているということを認めたくない動物なのかもしれません。
 マルクスの『資本論』があれほどの影響を持ち得た秘密は、人間に際限のない欲望があるのではなく、「資本は本来的に自己増殖を求めている」と説明することで、自分の欲望に目を向けずに済んだためではないかとわたしは考えています。いま我々に求められていることは、資本という概念のいわば「悪魔祓い」、すなわち脱構築をすることではないでしょうか。そのことが、マルクスの本来の意図だったのではないでしょうか。

なるほどそうか、「みんな資本が悪いんや」と責任を資本という名の物神になすり付けてしまうことで、自分自身の中にある際限なき欲望という醜いものを直視しなくて済むわけですから、こんな有難いものはない。

そうやって自分の醜い欲望をまともに見ようとしなかった連中が、資本という悪者を退治して、いざ革命がなったあかつきに本当に際限のない欲望の塊に堕していくのもそういうメカニズムなのかも知れません。

 

 

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コメント

いつもブログ、愛読させて頂いております。
濱口先生のあいかわらずのマルクス憎悪はよくわかりますが、マルクスが人間の「際限のない欲望」から目を背けさせたというのは、さすがに牽強付会ではないでしょうか。人間が欲望に苦しんできたのは昔からですが、かつての非西洋社会(レヴィ=ストロースのいう「冷たい社会」)の民衆を見ても、欲望はありましたが、それが「増殖」し、際限なく膨れ上がっていくことはなかったように思われます。やはり、「際限のない欲望」にとりつかれていったのは、資本の無限回転が始まった「熱い社会」においてだったように、思われるのですが。素人の下らない感想、失礼いたしました。

 資本主義以前から人間に際限のない欲望がある事に人間が気付いていたことは例えばアブラハムの宗教と言われるユダヤ・キリスト・イスラム教の教義を観れば明らかでしょう。

 古代ユダヤ教は利子を禁じ、債務奴隷を7年ごとに解放せよ、とトーラーで命じています。
 キリスト教は地上に富を積むな、天に富を積みなさい、と言っています。
 一方で利子を生じる金融活動を認めつつ、高い利子は取らないように、とも教えています。
 イスラム教はユダヤ教にならって利子を禁じました。

 しかし、人間の欲望の限りなさを認めざるを得ず、ユダヤ教ではどのような時に利子を認めるかをトーラーの解釈によって定め、そしてイスラム教は利子の代わりに配当を払って投資を促すイスラム金融を開発しています。

 人間の欲望の限りなさを禁欲を求める宗教も認めざるを得ず、ではどのようにしてその欲望をコントロールすべきか、アブラハムの宗教は必死に考えてきた。

 だからマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いたのでしょう。
 ウェーバーは禁欲的な倫理観に支えられていなければ資本主義は貪欲を開放してしまい、自滅してしまう事を分かっていたはずです。

> 利子を禁じ、債務奴隷を7年ごとに解放せよ
> 地上に富を積むな

そもそも、資本(主義?)の定義がよく分からない
蓄財可能な状況にあれば、蓄財しようという欲望が発生をするのは自然ですね、という以上のものは、特にないような気がするんだけど
共産主義というのは、単に「個人での蓄財(株式の保有などを含む)を禁止して、国家(社会?)で蓄財をすることにしましょう」という話でなくて(そのときは、国家の意思決定に関わる権力をできるだけ大きく持つという欲望が強く亢進される)

> 資本という悪者を退治して、いざ革命がなったあかつきに本当に際限のない欲望の塊に堕していく

ブログ主でない方の意見に素人がコメントするのはいけない事かもしれませんが、

>比較神話学や人類學、考古学の研究成果を紐解くと、4~5万年前に際限なき欲望が登場したことが分かっています。

4~5万年前というと旧石器時代中期で我々ホモサピエンスはネアンデルタール人と共存していました(牛などの動物が描かれているアルタミラの壁画はそれより3万年以上も後です) どのような研究成果を紐解くと、その時代のホモサピエンスに際限なき欲望が登場したことが分かるのでしょうか? 同時代に共存していたネアンデルタール人にも際限なき欲望が登場していたのでしょうか? 当時の我々ホモサピエンスやネアンデルタール人は、少人数の血族集団で移動して狩猟生活をしていた という点ではライオンや狼の集団とあまり違わなかったと思います。そのような集団のメンバーの 際限なき欲望 とはどのような欲望でしょうか?
際限なき欲望 かどうかは不明ですが、当時のホモサピエンスにも(ネアンデルタール人やライオンや狼と同じく) 生存欲求(死にたくない!) はあったと思います。この欲求に基づき、移動狩猟生活より確実に食糧が得られる(餓死の危険が少ない)定住農耕生活に移行したと思います。定住農耕生活により当面必要以上の食糧が得られるようになると、当初は餓死の危険を減らすためだった剰余食糧が財産になり、財産に対する 際限なき欲望 が登場してきたというのは納得できる考えだと思います。


>マルクスの『資本論』があれほどの影響を持ち得た秘密は、人間に際限のない欲望があるのではなく、「資本は本来的に自己増殖を求めている」と説明することで、自分の欲望に目を向けずに済んだためではないかとわたしは考えています。

私は、”本来的に自己増殖を求めている資本”というのは、”人間の財産に対する際限のない欲望”の優れた抽象化ではないかと思います。諸悪の根源が”本来的に自己増殖を求めている資本”ではなく”財産に対する人間の際限のない欲望”であり、その欲望に対処する事が根本的な解決だとしても、欲望への対処が困難なのであれば、次善の策として欲望の抽象化である資本への対処を考える というのは悪い考えではないと思います。
  

>「みんな資本が悪いんや」と責任を資本という名の物神になすり付けてしまうことで、自分自身の中にある際限なき欲望という醜いものを直視しなくて済むわけですから、こんな有難いものはない。

例えば銃による犯罪に関して
  銃が犯罪を起こすのではない。自分自身の中に際限なき欲望という醜いものを持つ人間が銃を使って犯罪を起こすのだ。
という考え方もあるかもしれません。このため銃による犯罪を減らすために銃の規制を主張する人に対して
  「みんな銃が悪いんや」と責任を銃という名の物神になすり付けてしまうことで、自分自身の中にある際限なき欲望
  という醜いものを直視しなくて済むわけですから、こんな有難いものはない。
といって規制に反対する人もいるかもしれません。しかし私は、このような考え方は如何なものか と思います。

 マルクスの影響を受けた先生に学んで「これ会社経営者は納得するのか?」と言う理論に出会った事があります。

 社会保障論で私が講義を受けた教授はバリバリのマルクス主義者。
 その先生は年金、健康保険などの社会保険料の使用者負担分の根拠として「労働者から得た剰余価値を使用者負担分として徴収することで労働者に剰余価値を取り戻すものである。」と言ってました。
 つまり労働者から強欲な資本家が上前をはねた分を使用者負担分として払ってもらい、それを年金や健康保険として払う事で労働者に取り戻してやるのだ、と言う事ですね。

 おいおい、そんな理論を「強欲な資本家」扱いされた経営者が聞いたら、アホらしくてかえって社会保険料の使用者負担分を払う気にならないのでは?と思いました。
 素直に使用者負担分を払って年金や健康保険を充実させることで労働者の待遇が良くなり、良質な労働者が企業に集まり、生産性も上がり、結局は企業の利益にもつながる、と考えた方が良いと思います。

 それから「強欲な資本家から国家が労働者に代わってはねられた上前を取り戻してやる国家と言う存在はありがたいものなのだ」と言われている気もしました。

 随分と上から目線な感じでした。
 
 マルクス、そしてマルクスに影響された人たちは労働者を「強欲な資本家に操られる無知蒙昧な可哀そうな存在」と見下してる気がします。
 そして「俺たちはそんな可哀そうな労働者を正しい方向に導く正義の味方なのだ!」という自己陶酔感も感じてしまいます。

 小野塚さんの発言の裏にはこういうマルクス、あるいはマルクス主義者への反発があるのではないでしょうか。

balthazar殿

>「強欲な資本家から国家が労働者に代わってはねられた上前を取り戻してやる国家と言う存在はありがたいものなのだ」

私は、所得の再分配というのは
 「(強欲な資本家だけでなく)高所得者から国家が(労働者だけでなく)低所得者に代わって所得を取り戻す」
というものだと思うので、私のような低所得者にとって、それをやる国家と言う存在はありがたいものだと思っています。


>マルクス、そしてマルクスに影響された人たちは労働者を「強欲な資本家に操られる無知蒙昧な可哀そうな存在」と見下してる気がします。
 そして「俺たちはそんな可哀そうな労働者を正しい方向に導く正義の味方なのだ!」という自己陶酔感も感じてしまいます。

マルクス、そしてマルクスに影響された人たちでなくても、政策担当者や現場の関係者には、(労働者だけでなく)低所得者を「支援が必要な存在」と考えていて「俺たちはそんな低所得者を支援しなくてもよい方向に導く正義の味方なのだ!」という使命感を持つ方も多いと思います。

自治体の従業員である公務員さまが使命感に燃えて
生活保護を真に必要な人物ではない者が受給すると
真に必要な者の支援が不充分になってしまうからと
考えて、窓際対策を「自身の使命感に基づく自主的
自律的な判断」で行うという訳ですね

全体の奉仕者という御託には、そのような使命感が
ビルドインされていて、今の公務員法制はその延長
線上にあるのかもしれませんね

マルクスですが、彼は理論的にも、行動面でも矛盾だらけの人なんですよね。

 マルクスは「国家の死滅」を謡っていたはず。
 だからソ連や中国のようなマルクス主義に基づく国家がロシア帝国、清帝国以上の強権専制国家になったことで厳しい批判にさらされました。
 だから「今のソ連、中国は共産主義国家、共産主義社会に至る一時的なものだ」とか言ってごまかしてましたね。
 結局その強権ぶりのおかげで反発が広まり、国家運営に支障をきたし、ソ連は崩壊。
 中国は資本主義へと転換したわけです。

 行動面ではマルクスは先輩社会主義者のプルードンを最初は尊敬していたのに、後に意見が対立して大喧嘩。
 おかげで社会主義運動は団結が出来なくなってしまった。

 それから貧しいもののために闘っている、と偉そうなことを言ってたくせに、自分の書く字か汚いものだから定職に就けず、エンゲルスに生活費のほとんどを仕送りしてもらっていた。

 確かにマルクスは「剰余価値説」と言う考えを生み出した点では天才的ですが、思考、精神面のバランスを欠いている人がために矛盾だらけの人生を送っています。
 こういう人の思想を持ち上げるのはええ加減止めた方が良いでしょう。

うっち~殿

 申し訳ありません。仰っている事がよく理解できません。

balthazar殿

>ソ連や中国のようなマルクス主義に基づく国家がロシア帝国、清帝国以上の強権専制国家になったことで厳しい批判にさらされました。

ソ連や中国の成立はマルクスの死後ですからソ連や中国の不品行でマルクスが批判されるのはマルクスが気の毒のような気がします。師匠は死後の弟子の不品行まで責任は持てないと思います。


>その強権ぶりのおかげで反発が広まり、国家運営に支障をきたし、ソ連は崩壊。

仰るようにソ連は最後には崩壊しましたが、成立当初はソ連(の計画経済)を国家の発展モデルとして高く評価した人も多かったと思います。日本でも、満州国でソ連をモデルとした統制経済を実施し、帰国後は東条内閣の大臣として日本で統制経済を実施した人がいました(某総理のおじいさんです) 戦後日本の高度成長は彼の統制経済がベースになっていると考える人もいるそうです。


>確かにマルクスは「剰余価値説」と言う考えを生み出した点では天才的ですが、思考、精神面のバランスを欠いている人がために矛盾だらけの人生を送っています。
 こういう人の思想を持ち上げるのはええ加減止めた方が良いでしょう。

マルクスだけでなく思想家や芸術家には、思想や作品は素晴らしいが実際の生活は無茶苦茶で周囲に迷惑をかけ通し という人も多かったと思います。私はコンプライアンスを重視するので、どんなに素晴らしい成果を上げても周囲に迷惑をかける人は評価できませんが、実際の生活は無茶苦茶でも思想や作品が素晴らしければ実際の生活とは関係なく評価する という人も多いと思います。

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