ミュシャが二流の画家なのか、などという芸術的センスを問われるような議論に参加する気は毛頭ありませんが、そこで「これが真理じゃ、お前ら頭が高い、さあ、こうべをたれよ! 」と水戸黄門の葵の紋を提示されている植村恒一郎さんという名前には、もう今から14年も前になりますが、前の拙著『新しい労働社会』をめぐって何回かのやり取りがあったことを思い出しました。
1回目のやりとりは表層だけなので省略して、植村さんの「charisの美学日誌」2回目と3回目のエントリから。
https://charis.hatenadiary.com/entries/2009/08/05
[読書] 濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書 '09.7.22刊) (その2)
(写真は、「リベラルアーツ7学科」を表す図。大学教育は、「真理は人を自由にする」という根本理念に基づいていた。それは、古代・中世以来の「自由人のための諸技術」「人を自由にする学芸」に由来しており、文法、修辞学、論理学、算数、幾何、天文、音楽の7科目であった。それは、濱口氏の言われる「職業的レリバンス」といかなる関係にあるのだろうか?)
労働と雇用をめぐる慣行や制度は、それが形成された歴史的経緯が分らないと、それぞれがもつ固有の意味が理解できない。労働法の専門家であり、EU諸国の労働政策研究の第一人者である濱口氏による本書から、私はきわめて多くのことを教えられた。その内容を要約して提示することも大いに意義があることだが、せっかくブログにコメントを書くのだから、濱口氏の主張で私がよく理解できなかった点、あるいは、やや違和感を感じた点を中心に書いてみたい。これは、濱口氏を批判したいからではなく、以前から私の心に引っかかっていた問題を、労働や職業という観点から氏が明快に提起されたので、いわば氏の胸を借りて、自分もこの問題を考えてみたいからである。説得力に富む本書を読みながら、私がよく理解できなかったのは、労働や雇用における問題点を解決するためには、教育とりわけ大学教育が「職業的レリバンス(意義)」をもっと持たねばならないという主張である。氏は次のように述べておられる。
> 大学は「学術の理論および応用を教授研究し、その深奥を極めて、文化の進展に寄与する」という建前と、現実の就職先で求められる職業能力とのギャップをどう埋めるのかという課題に直面しています。この問題は、大学教師の労働市場という問題とも絡みますが、いずれ正面から大学を職業教育機関として位置づける必要があるはずです。(p144)
> 現実の教育システムの圧倒的大部分はなお職業への指向性がきわめて希薄なままです。文部科学省管轄下の高校やとりわけ大学が職業指向型の教育システムに変化していくには、教師を少しずつ実業系に入れ替えることも含め、かなり長期にわたる移行期間が必要でしょう。(p145)
> 今後、教育を人的公共投資と見なしてその費用負担を社会的に支えていこうとするならば、とりわけ大学教育の内容については大きな転換が求められることになるでしょう。すなわち、卒業生が大学で身に付けた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされるときに、これはなかなか難しい課題です。(p148f.)
大学もまた「学校」であり、卒業した若者は社会に出て何らかの職業につくのだから、大学が「職業的レリバンス」を持つべきだというのは、一般論としては当然のことである。だが私には、濱口氏の言われる「職業的レリバンス」は、あまりにも狭く性急すぎるように感じられる。そして、本書で氏が力説されるテーゼ、すなわち、日本の雇用慣行には「職務(ジョブ)」概念が希薄であるという根本事実とも矛盾するのではないかと思われる。日本の企業はあくまで「人」を採用するのであり、同じ「人」をさまざまな「職務」に配置転換し、さまざまな「職務」を経験させるのが、日本の企業の労働形態である。中途採用は別として、少なくとも新卒を採用する段階では、企業は汎用性のある能力をもつ「人」を求めているのであり、ある「職務」だけをこなす職人を求めているのではない。とすれば、大学教育において求められる「職業的レリバンス」は、特定の「職務」を指向した職人的なものではなく、汎用性のある基礎学力のようなものではないだろうか。技術革新が急激に進み、企業も従来はなかった新しい分野の「職務」をこなさなければならない今日、そうした新しい「職務」をこなすための教育は企業内で行われるのがもっとも効率的であり、学校教育においては、どのような特定の「職務」にも対応できるような汎用性のある基礎学力を養うことが重要であり、それこそが学校でしかできないことであるように思われる。
ヨーロッパの大学の基礎理念となった「自由学芸=リベラルアーツ=教養」とは、本来、そのような汎用性のある知を意味しているのであり、専門的な職業のためには、まずそれが前提にならなければならないのである。具体的には、リベラルアーツを学んだ後に、医学、法学、神学など、それぞれの職業に向けた専門科目が学ばれた。医学、法学、神学などは、ある程度マニュアル化できる専門知であり、たしかに「職業的レリバンス」が見て取りやすい。しかし、知の本当の力は、マニュアル化できない暗黙知の汎用性にあり、「自由学芸」なしには、職業的な専門知も成り立たないのである。
今日の職業状況を見ても、医者、法律家、聖職者、学校教師などは、その資格が国家試験などによって管理されており、医学部、法学部、教育学部、仏教大学、キリスト教の神学部などは、「職業的レリバンス」が明確である。だが、医者の不足が社会問題化し、教師が子どもや学校の変容に苦労し、司法の硬直を打破するために司法試験改革、法科大学院、裁判員制度などが作られたのはなぜだろうか? まさにマニュアル化した専門知・職業知が硬直化し、市民的常識と乖離したことが批判されているのではないだろうか。今、大学教育や大学卒業者に不足しているのは、かつての「自由学芸」が担ったような、汎用性のある基礎学力である。教養の衰退といってもよい。『大学の反省』という優れた本を書かれた経済学者の猪木武徳氏は、J・H・ニューマンを引用して次のように述べられている。
>大学の本分は、知性の養成に専念することにある。知性の養成が必要なのはなぜか。それは「知性を酷使している人たち」が見失っているものを回復するためであるという。・・・これらの人々が見失った力とは何か。それは「多くの事柄を先後なく同時にひとつの統合体として考察する力、それらひとつひとつを普遍的な体系のしかるべき場所に位置づける力、それらひとつひとつの価値を理解する力、それらの相互依存関係を判定する力」である。知的な力の中では、判断力が人生において人を導く・・・・(『大学の反省』 NTT出版 2009, p270)
ここで言われている「知の力」は、まさに濱口氏が本書を書いた優れた視点、すなわち、「雇用システムを、法的、政治的、経済的、経営的、社会的などのさまざまな側面が一体となった社会的システム」として捉える視点である。自分の専門知の次元に自足する経済学者には見えない全体像が、濱口氏には見える。そして、司法改革もまた「知性を酷使している人たちが見失っているもの」を回復しようとする、「判断力の復権」を指向している。
大学が「職業的レリバンス」を持たなければならないと主張されるとき、そこで何が考えられているのかが問題である。医学部、法学部、工学部、農学部、理学部、文学部、神学部などの、伝統的ないわゆる「一文字」学部は、かつては専門性が明確であり、「職業的レリバンス」もそれなりに見やすかった。だが、現在では、大学の学部段階で専門知を習得することは不可能であり、むしろ必要なのは、将来、職場で必要になる専門知を硬直させないための教養知であり、要するに、大学のすべての学部が「教養学部化」することが望ましい方向であると私は考える。
もちろん、濱口氏が大学教育の「職業的レリバンス」を強調されるのは、日本的な雇用慣行、すなわち同じ会社に「人」が一生帰属するのは、決して望ましいことではなく、「職務」指向の職業的専門知を磨いた人間が、会社を自由に変わりながら生活できるような、個人を中心とした生き方に転換すべきだという、きわめてまっとうな考え方が背景にある。この考え方には、私は全面的に賛成であるが、それには大学教育における「職業的レリバンス」概念の一層の深化が必要であり、たんに実学にすればよいというものではない。自由学芸の7学科には修辞学や音楽も含まれていた。なぜそのようなものが含まれているのか、それは、個人の人生全体の幸福というものを考慮したとき、はじめて納得できるのではないだろうか。教育における「職業的レリバンス」という濱口氏の主張には、女性の場合にはどうなるのか、あるいは吉川徹氏が『学歴分断社会』で明らかにしたような、高卒と大卒の分断線という問題がどう関るのかなど、私にはまだよく理解できない部分があるので、その点も少し考えてみたい。(続く)
https://charis.hatenadiary.com/entries/2009/08/06
[読書] 濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書 ’09.7.22刊) (その3)
(写真は、2009年正月、日比谷公園の炊き出しに並ぶ、「年越し派遣村」の失業者たち。)
日本では年功賃金制度が支配的であるが、年齢とともに給与が上昇するのは、育児や教育などに金のかかる世代には手厚く支払う「生活給」の考えに基づいているからである。濱口氏は第3章の一節で、生活給制度のメリットとデメリットを論じている(p121〜6)。
まずメリットは、(1)労働者にとって、生活の必要に応じた賃金が得られることは、長期的な職業生活の安心を与える。(2)使用者側にとってメリットはなさそうに見えるが、そうでもない。企業は、急激な技術革新に対応して労働者の大規模な配置転換をせざるをえないが、その際、職務給だと、配置先によって職務が異なり不公平感が生じる。年齢給ならそのようなことはないし、長期に勤めるほど給与が上がるので、労働者に会社への忠誠心を芽生えさせられる。(3)政府にとっては、育児、教育、住宅といった社会政策的な費用を企業に負担させることによって、公的支出を節約できる。
デメリットは、(1)労働者にとっては、若い頃の低給与を中高年の高給与で取り戻さなければならないから、同一企業へ勤務し続けなければならず、移動のインセンティブが失われる。会社が倒産したら困るので、そうならないよう一生懸命働かざるをえない。転勤も断れないし、長時間労働も厭わず働かざるをえない。(2)使用者にとっては、中高年の高給与が負担であり、団塊世代のようにそこだけ人が多いと特に負担増。(3)政府にとっては、生活給をもらえる正社員になれなかった低給与の非正社員が大量に生じて、ワーキングプア化したために、かえって将来の社会保障的コストが増大し、少子化の原因にもなっている。
このように見ると、メリットとデメリットは表裏一体の関係にあることが分るが(p124)、しかし私のような素人から見ると、日本の長期雇用、年功賃金制度というのは、労働者にとってはメリットの方が大きく、使用者や政府にとっても悪くない制度のように思われる。多くの正社員やその家族は、残業があっても収入が多い方がよいと考えるだろうから、長時間労働も簡単にはなくならないのではないか。一番重要な問題は、生活給を保証する正社員システムから排除された低収入の非正規労働者をどのように救済するかだが、「派遣の製造業への禁止」などの場当たり策では解決にならないと、専門家の濱口氏は第2章で詳細に問題点を論じている。しかし一方では、大きなメリットをもつ長期雇用・年功賃金制度を一気になくし、制度をゼロからリセットするというのは非現実的だろう。一時喧伝された「成果主義」も、そもそも給与が「職務」に対応していないのだから、あまりうまくいっていない。長期雇用・年功賃金制という屋台骨を破壊しなければならないほどの積極的な理由を、私は濱口氏の叙述の中には読み取れなかった。
さて、私にとっての疑問は、労働や雇用をめぐる以上のような状況から、なぜ教育システムにおける「職業的レリバンス」の強化という主張が論理的に導出されるのか、よく理解できなかったことである。若者がフリーターや無業者にならないために、とにかく何とか食べていけるだけの技術や技能を身に付けさせるべきだという主張はよく分る。しかし逆に、若者に学校時代に特定の技術習得だけを習得させることは、その技術によって一生生きていくように、若者の人生を固定化することでもある。また、4年制大学への進学率が大きく上昇した女性についても、大学における実業教育が、女性の人生に伴う出産・子育てなどと両立する上でどうプラスになるのか、よく読み取れなかった。人間の職業を職人のモデルによって捉え、若い時点で人生を決めさせるのが良いことなのかどうか? 日本で職業高校がうまく機能しなかったこと、また、世界的に見ても先進国では大学進学率が上昇していることを考慮すると、若者は汎用性のある基礎知識をまず学び、どのような職業を選択するかはなるべく遅く決めて、それぞれの「職務」に必要な知識や技能は、それ自身がどんどん変わるのだから、働きながら学ぶというのが、人間の欲望にも適った生き方だと私は思うのだが、さていかがなものだろうか。(終り)
これに対する私のレスポンスがこれです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/charis-772a.html
charis氏の拙著に対する3回シリーズの批判が終わったようですので、若干のコメントを述べておきたいと思います。
まずはじめに申し上げておきますと、charisさんはいささかわたくしを急進的な改革論者という風に認識されすぎておられるのではないかと感じました。わたくしのモットーは、認識論的にはラディカル(根底的に考えるということ)に、実践論的にはリアリストであれ、というところにありますので、
>長期雇用・年功賃金制という屋台骨を破壊しなければならないほどの積極的な理由を、私は濱口氏の叙述の中には読み取れなかった。
などという急進的な主張をした覚えはないのですが。むしろ、短期的にはそんなことは不可能だし無理にやったら社会全体にとんでもない影響を及ぼすから、短期的な対策としては非正規の初任給を正規に合わせて勤続に応じて上げていくしかなかろうというまことに保守的な提案をしています。
また、まさに今までの日本では圧倒的に
>しかし私のような素人から見ると、日本の長期雇用、年功賃金制度というのは、労働者にとってはメリットの方が大きく、使用者や政府にとっても悪くない制度のように思われる。多くの正社員やその家族は、残業があっても収入が多い方がよいと考えるだろうから、長時間労働も簡単にはなくならないのではないか。
ということを述べているわけで、日本の労働者やその家族がこれまでと変わらずにそれを求め続けるのであれば、それでよいわけです。ただし、それなら長時間労働に文句を言ってはいけないし、転勤に文句を言ってはいけないし、シングルマザーや就職氷河期の諸君には可哀想だが我慢してもらいましょう、というだけの話であって、そこの価値判断を押しつけるつもりもありません。
ただ、マクロ社会的にそれでサステナブルか、という問いに対しては、そうとはいえないでしょうと私は認識しているということであって、であるとすれば中長期的にはある程度の改革-ほどほどのジョブ性とほどほどのメンバーシップ性-という方向に向かうことになるのではなかろうか、とすると、社会システムはお互いに補完性を有していますから、社会保障制度や教育制度も変わっていかざるを得ないでしょうね、という筋道です。
ここのところについては、異なる認識に立って議論を展開することは十分可能ですし、charisさんがそのような立論をされることは大いに大歓迎です。ただし、ここが私にとってはきわめて重要ですが、いかなる立場をとるにせよ、その立場をとることの論理的帰結は、いかにそれが醜悪に見えようとも、きちんと引き受ける必要があります。世の多くの議論が「駄目」なのは、そこのところがいい加減で、あっちの土俵ではああいい、こっちの土俵ではこういう、といういいとこ取りを平気でやる人が多いからです(とわたくしは考えています)。
日本型雇用システムに整合的に形成された教育制度を変える必要がない、という立論を(自分の職業的利害とは別立てに)論ずるのであれば、そのことの論理的帰結としての無制限の長時間労働や女性のキャリア形成の困難さや就職氷河期の若者やらについても、メリットのあるシステムを維持するためのコストとしてやむを得ないものであるから我慢せよと明確に主張しなければなりません。charisさんはほぼそのように主張されているように思われますので、わたくしからすると尊敬すべき態度であると見えます。
以上は主として雇用システムのあり方についての議論ですが、おそらくcharisさんがこの批判をされた大きな動因は、職業レリバンス論への違和感であったようです。
この点についてはじめに誤解を解いておきますと、ここでいう「職業レリバンス」とは本田由紀先生が『若者と仕事』で提起された概念で、ジョブに密接につながるものです。ですから、以下の記述はおそらく拙著の誤読によるものと思われます
>濱口氏の言われる「職業的レリバンス」は、あまりにも狭く性急すぎるように感じられる。そして、本書で氏が力説されるテーゼ、すなわち、日本の雇用慣行には「職務(ジョブ)」概念が希薄であるという根本事実とも矛盾するのではないかと思われる。日本の企業はあくまで「人」を採用するのであり、同じ「人」をさまざまな「職務」に配置転換し、さまざまな「職務」を経験させるのが、日本の企業の労働形態である。中途採用は別として、少なくとも新卒を採用する段階では、企業は汎用性のある能力をもつ「人」を求めているのであり、ある「職務」だけをこなす職人を求めているのではない。とすれば、大学教育において求められる「職業的レリバンス」は、特定の「職務」を指向した職人的なものではなく、汎用性のある基礎学力のようなものではないだろうか。
まさにそのとおりで、今までの日本の雇用システムでは、ジョブ型の職業レリバンスなどは不要であったわけです。「人間力」を求めていたわけです。そういうのを「職業レリバンス」とは呼びません。いや、オレはどうしてもそう呼びたいというのを無理に止めませんが、そうするとまったく正反対のジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性を同じ言葉で呼ぶことになってしまい、思考の混乱をもたらすでしょう。このへん、charisさんは哲学者であるはずなのに、わたくしの雇用システムの認識論と、これからの社会のあり方についてのべき論とをいささか混交して読まれているようです。
ただし、実はここで日本型雇用システムが要請する職業レリバンスなき大学教育は、charisさんが希望するようなリベラルアーツ型のものでは必ずしもありません。ここは、本ブログでも何回か書いたところですが、企業がなぜ法学部卒や経済学部卒を好んで採用し、文学部卒はあまり好まないのか、教育の中身が職業レリバンスがないという点では何ら変わりはないはずなのに、そのような「差別」があるというのは、法学部、経済学部卒の方が、まさにジョブなき会社メンバーとして無制限のタスクを遂行する精神的な用意があると見なされているからでしょう。逆にリベラルアーツで世俗に批判的な「知の力」なんぞをなまじつけられてはかえって使いにくいということでしょう。まあ、とはいえこれは大学教育がそれだけの効果を持っているというやや非現実的な前提に立った議論ですので、実際はどっちみちたいした違いはないという方が現実に近いようにも思われます。
それにしても、ここで、charisさんの希望する「人間力」と企業が期待する「人間力」に段差が生じていることになります。日本型雇用システムは、(本来職業レリバンスがあるべきであるにもかかわらず)職業レリバンスなき法学部教育や経済学部教育とは論理的な関係にありますが、もともと職業レリバンスがないリベラルアーツとは直接的な論理的因果関係はありません。
では、高度成長期に法学部や経済学部だけでなく文学部も大量に作られ膨張したのはなぜか、というと、これはcharisさんにはいささか辛辣なものの言い方になるかも知れませんが、企業への男性正社員就職としてはハンディキャップになりうる点が、男女異なる労務管理がデフォルトルールであった時代には、むしろ一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますという暗黙のメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。
そういう男女の社会的分業体制まで含めて日本型雇用システムと呼ぶならば、もともと職業レリバンスのない文学部の膨張もまた、日本型雇用システムの論理的帰結ということができます。なによりも、そのような大学生活のコスト及び機会費用をその親が負担することが前提である以上、ちょうど子どもが大学に進む年代の親の賃金水準がそれを賄える程度のものであることが必要なのですから、その意味でもまさにシステムの論理的帰結です。
このようなリベラルアーツの「社会的レリバンス」(トータルの社会システムがそれに与えている社会的意味)が、当該リベラルアーツを教えておられる立場の方にとっては、必ずしも愉快なものではないことは想像できます。しかし、社会の認識は愉快不愉快によって左右されるべきものではありません。
かつて、このあたりについて次のように論じたことがありますが、考え方はまったく同じです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)
>上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。
一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)
>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。
一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。
このほかのレリバンス論シリーズとして、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)
なお、最近のものとして、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/vs_3880.html(爆問学問 本田由紀 vs 太田光)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-28b3.html(一度しか来ない列車)
これに対する植村さんの「お答え」がこれです。
https://charis.hatenadiary.com/entries/2009/08/07
[議論] 濱口桂一郎氏へのお答え
(写真は、リベラルアーツの源流の一人プラトン(左)。体育、音楽、文芸、算数、幾何、天文を学ぶことの重要性を説いた。)
濱口桂一郎『新しい労働社会』についての私の書評に対して、濱口氏がご自分のブログで丁寧なコメントをくださった。そのことを感謝するとともに、こうして著者と直接意見の交流ができるブログは、つくづく有難いものだと思う。↓
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/charis-772a.html
本書における労働と雇用をめぐる濱口氏の現状分析は見事なものであり、その部分については、コメントで氏が述べられたことも含めて、私には異存はない。私が氏と大きく見解を異にするのは、大学教育が持つべき「職業的レリバンス」についてであり、コメントによって氏の見解がさらに詳しく示されたので、再度私の見解を述べてみたい。以下、>に続く文章は、氏のコメントからの引用。
>まさにそのとおりで、今までの日本の雇用システムでは、ジョブ型の職業レリバンスなどは不要であったわけです。「人間力」を求めていたわけです。そういうのを「職業レリバンス」とは呼びません。いや、オレはどうしてもそう呼びたいというのを無理に止めませんが、そうするとまったく正反対のジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性を同じ言葉で呼ぶことになってしまい、思考の混乱をもたらすでしょう。
本書では、「職業的レリバンス(意義)」という言葉を濱口氏は、本田由紀氏の著作を引用する形で述べられており(p136)、完全に肯定的に引用されているので、私には、本田氏と濱口氏の「職業的レリバンス」という概念の細部の違いは分らない。私はこの言葉を本書で初めて知ったので、私が述べたような「リベラルアーツにもとづく汎用性のある基礎学力」を、そういうものは「職業的レリバンス」と呼びたくないと言われるなら、それはそれでよい。「職業的レリバンス」という言葉はそれほど一般的でも自明でもないので、議論を通じてその意味を正確に規定してゆけばよいからである。
しかしまた、私は「人間力」という言葉を使っていないし、使うつもりもない。濱口氏が、「あなた(charis)が「職業的レリバンス」と呼んでいるものは「職業的レリバンス」ではぜんぜんなくて、「人間力」のことですよ」と言われるならば、そんな曖昧な言葉に「リベラルアーツ」を勝手に言い換えてもらっては困る。「リベラルアーツ」という概念は、プラトンがアカデメイアで青年が学ぶ科目として考えたことに始まり、職業人として専門家を養成する機関としての大学に不可欠なものとして、長い歴史の中で形成されたものである。どうして「職業的レリバンス」と無関係なものでありえようか。大学は社会の一部であり、しかも公的な存在であるから、大学で学ぶことは何らかの意味で、社会的な意義を持たなければならない。その「社会的な意義」を一番根本的なところから考えてゆき、その意義の一部が狭義の「職業的レリバンス」になるだろう。
濱口氏は、「ジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性」という区別をされているから、これを援用するならば、大学教育のもつべきレリバンスは、「ジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性」という二つの有用性とどのような関係にあるのか、というように問題を立てることができるだろう。
>実はここで日本型雇用システムが要請する職業レリバンスなき大学教育は、charisさんが希望するようなリベラルアーツ型のものでは必ずしもありません。・・・企業がなぜ法学部卒や経済学部卒を好んで採用し、文学部卒はあまり好まないのか、教育の中身が職業レリバンスがないという点では何ら変わりはないはずなのに、そのような「差別」があるというのは、法学部、経済学部卒の方が、まさにジョブなき会社メンバーとして無制限のタスクを遂行する精神的な用意があると見なされているからでしょう。逆にリベラルアーツで世俗に批判的な「知の力」なんぞをなまじつけられてはかえって使いにくいということでしょう。
なるほど、卓見である。法学部・経済学部卒ならば、長時間労働の強制に少しも疑問を抱かず、無邪気な企業戦士として使いやすいが、文学部卒ならば世俗に批判的な「知の力」なぞもっている可能性があるから使いにくいのだ、と。しかし、もしそうであるならば、長時間労働を批判し、無邪気な企業戦士としての正社員を中心とする日本的雇用を変えてゆくべきだと主張される濱口氏は、リベラルアーツ型の大学教育こそ大いに支持されるのが「論理的帰結」ではないだろうか? 氏が力説されるワークライフバランスのある働き方とは、無邪気な企業戦士的な価値観からもっと自由になろう、人間らしく生きようということであろう。それならば、「ジョブ型の有用性」にだけ氏の関心が向くのは矛盾しているのではないだろうか?
>それにしても、ここで、charisさんの希望する「人間力」と企業が期待する「人間力」に段差が生じていることになります。日本型雇用システムは、(本来職業レリバンスがあるべきであるにもかかわらず)職業レリバンスなき法学部教育や経済学部教育とは論理的な関係にありますが、もともと職業レリバンスがないリベラルアーツとは直接的な論理的因果関係はありません。
濱口氏の認識が読み取れる貴重な一文である。法学部や経済学部教育には、本来、職業レリバンスがあるべきなのに、現実の日本の法学部・経済学部教育には職業レリバンスがない。だから、もっと職業レリバンスをもってもらわなくては困る。それに対して、文学部で教育されるリベラルアーツには、その本来の意義からして、職業レリバンスなどないのから、現実の日本の文学部教育に職業レリバンスがなくても、それはそもそも労働や雇用の外部の話だ、勝手にしてくれ、と。だが、濱口氏よ、ちょっと待っていただきたい。以下は、日本の大学の学部別の人員構成である。
日本の大学には実に多様な学部があることが分る。文学部は全体のたった5.9%を占めるだけである。法学・経済だけでなく、工学部、医学部、歯学部、薬学部、看護学部、教育学部、家政学部、芸術学部などがあるが、これらの学部は、法学・経済学部に比べると、はるかに卒業後の職業に直結していないだろうか? 家政学部は、女性の仕事を念頭において創られているのではないのか? これらの学部教育に「職業レリバンス」がないとでも、濱口氏はお考えなのだろうか? まず、濱口氏が誤解されているのと違って、リベラルアーツというものは、文学部にある(?)「世俗を斜めの視線で見る超俗の価値観」などではない。これら多様な学部がそれぞれの職業と結び付き、それぞれの「職業的レリバンス」を持ちうるためにも、共通の前提となる「教養知」のことである。古代中世ではなく、現代の大学の言葉に言い換えるならば、「市民的な共通感覚sensus comunis」を養うための、どの学部でも学ぶべき共通の知のことである。決して文学部だけにあるものではない。そもそも濱口氏の文学部に対する認識には偏ったところがある。
>高度成長期に法学部や経済学部だけでなく文学部も大量に作られ膨張したのはなぜか、というと、・・・むしろ一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますという暗黙のメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。
今日、文学部は大学全体で僅かな比率を占めるだけだし、女性は主として文学部にいるわけでもない。4年生大学の進学率が50パーセントを超えた今日、女子学生は多様な学部に属している。氏のリベラルアーツ認識が貧困なのは、文学部に対する認識が貧困であることのまさに「論理的帰結」ではないだろうか。今日は、これ以上論じられないが、大学における「職業的レリバンス」というものは、男性も女性も等しく働くようになった今日、「ジョブ型の有用性」よりももっと広く深いレベルから考え直されるべきであると思われる。私はもちろん「ジョブ型の有用性」を否定しない。しかし、大学の学部の多様性から見ても、すでに「ジョブ型の有用性」を十二分に持っている学部がたくさんあるのが現実である。現在の大学は「虚学」ばかりが支配的で、これをもっと「実学」化しなければならないという濱口氏の認識は、一部を見て全体を見られていないように、私には感じられる。この点は、氏とさらに意見を交換したい点でもある。
これを受けて、私が若干違う観点から述べたのがこの最後のエントリです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-6c82.html
charisさんとの議論の中心にある論点を、哲学や美学といった個々の学問分野の意味や価値をどう考えるかという個別領域ごとにそれぞれ思い入れやら何やらがあり得る論点を捨象して(私自身の思い入れは最後のところに付記します)、ある意味で本質的なところだけを純粋抽出すると、職業教育ではないという消極的な定義しかできない「高校普通科」をどう考えるかという問題に至ります。
たまたま、児美川孝一郎さんのブログ「Under my thumb」の標題のエントリが載っていましたので、一つのヒントとして。
http://blogs.dion.ne.jp/career/archives/8637771.html
>昨日は,神奈川県高校教育会館主催の教育講座の講師として,「権利としてのキャリア教育」について話をしてきた。
なかなか感度の高い先生がたと議論できたのは,面白かったし,今どきの学校現場がどれほど“押し込められて”きているのかが(表現は悪いけど),ひしひしと伝わってきた感じ。
最後の討論の際に,議論になった論点の一つは,生徒数ベースで約72%が普通科に通うという日本の学校制度をどう見るかという点。
僕などは,これに対してかなりネガティブな見方をしていることを提示したわけだけど,高校の先生たちの感覚としては,そう単純ではないところがある。
圧倒的な普通科体制というのは,かつての政策としての高校多様化に対置して,運動の側もそれを求めてきたという経緯もあるし,高校が職業科中心になった場合,中学生段階でもアイデンティティ分化を求めることになるわけだけど,日本の家庭や子どもたちの実態としては,それには無理があるという現場感覚・・・
他方で,日本的な普通科体制を支えてきた企業内教育の側が,いまや相当に縮小しているという現実もあり,高校卒業後の公的職業訓練機関がきわめて貧弱だという日本の現実を考えれば・・・
ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点ではあることは確かなんだけどね。
たしかに、「ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点」なんですね。
児美川さんは、私も参加している日本学術会議の大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会 大学と職業との接続検討分科会において、本田由紀さんとともに幹事をされていて、考え方としてもまさに「職業レリバンス」派なんですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-edd3.html(大学と職業との接続検討分科会)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ba51.html(日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行)
職業レリバンスなき教育を受けたまま労働市場に投げ出されてひどい目にあっている若者達に、せめて身を守る「鎧」として職業能力を・・・というワークの側からの問題意識と、そんなこと言ったって現実の子供達は・・・というスクールの側からの現実認識を「トゥ」でつなげることができるものかどうか、大変悩ましいところです。
児美川さんのエントリのコメント欄のギャルソンさんのこの言葉もなかなかに深いものがあります。
>関連があるかいまひとつ自信がないのですが、アカデミックな教科のほうが職業教育教科の内容よりも格が高いというか、あるいはありがたい?というかそういう傾向とかあると思うのですが(ないかもしれませんが)その理由は何故なんでしょうか。自分自身はそういう風に思ってしまう傾向があるような気がします。その一方で、僕の周りの子どもたちに関しては、普通科高校に進学した子どもたちよりも高専や専門高校に進学した子どもたちの活躍ぶりのほうをよく聴くような気もします。
「関連があるか」どころか、ある意味でそれが問題の中核でしょう。
これもまた、本ブログでむかし論じあったテーマですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)
>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。
日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。
およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。
本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。
このときのコメント欄でのやりとりが、非常におもしろいので、ぜひリンク先をお読みいただきたいと思います。
(付記)
ちなみに、私自身の哲学への個人的な思い入れは、
>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。
ということに尽きます。
一番おぞましいのは、”日本型雇用システムの中でいかなる長時間労働にも耐えて24時間がんばれる「人間力」を養うための「人間テツガク」を”、というような、「テツガクの職業的レリバンス」です。日本でテツガクの職業的レリバンスとかをまじめに議論し出すとほぼ間違いなくそういう話にしかなりません。私はそういうのは断固としてイヤです。
これは個人的趣味のレベルの話ですので、無視していただければと思います。
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