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2023年4月

2023年4月30日 (日)

税金は取られ損の意識はどこから 専門家が指摘する企業頼みの構図@朝日新聞デジタル

本日の朝日新聞デジタルに、浜田陽太郎記者による私のインタビュー記事が載っています。

https://www.asahi.com/articles/ASR4W72GWR4VUTFL009.html

Jj 子育て支援のお金をどう集めるのか。岸田政権が訴える「異次元の少子化対策」の成否は財源確保にかかっています。天からお金が降ってくるわけではないので、何らかの形で国民が払わなければならないはず。でも、負担増への拒否感は根強くあります。厚生労働省出身で、労働政策研究・研修機構(JILPT)の濱口桂一郎・労働政策研究所長は、強い拒否感は、日本における雇用のあり方と密接に関係しているといいます。話を聞きました。

 ――岸田政権の訴える少子化対策の財源確保策についてどう見ますか。
 「その質問に関係して最近のエピソードで興味深かったのは、『五公五民』という言葉がネットで急激に盛り上がったことですね」

 ――国民所得に占める税や社会保険料の割合を示す「国民負担率」が、2022年度に47.5%になったと財務省が発表し、ツイッターでトレンド入りしました。
 「取り上げられた税金は我々庶民のところに戻ってくるものではなくて、どこかでうまいメシを食っているあいつらが取るんだと。そんな感覚でしょう」 

 ――「一揆起こさなあかん」とか「江戸時代とどっちがマシなのか」などとつぶやかれたようです。
「自分の取り分を減らして、政府に預けておけば、めぐりめぐって、自分を含めたみんなを潤すという回路が感じられていない」
「でも、それは良い悪いじゃなくって、社会構造がそうなっていたからです」

――どういうことでしょうか。
「自民党や野党が一斉に、児童手当の所得制限をやめるとか言い出しているのに、世論調査をしてみると、反対の方が多い。児童手当は貧しい人のためのもの、みんなに配るなんておかしい。そう考えるのは、勤務先の企業が子育てに必要なお金は面倒をみるべきだという規範が岩盤のようにあるからです」
 「企業が家族を養うための手当を出すんであって、国の手当なんて意味がない、という考え方が主流としてあり、日本社会は動いてきた。国なんかにカネを出すよりも、会社に預けておいた方がいい。残業代がまともに出ないかもしれないのに長時間労働するのは、会社に恩を売っておけばちゃんと自分に返ってくると思っているからです」・・・・・・・・・・・・

その先の方では、これが左派やリベラルといわれるような人々の問題でもあることを指摘しています。

――介護のための社会保険が23年前に導入され、保険料で財源が確保されました。介護と子育て支援はどこが違うのですか。
 「介護保険は新たな公的支援を望む国民の声があったから実現できたと思います。メインストリームにいる人たちにとっても、親の介護は、企業が面倒をみてくれる対象ではなく『公が何とかしなくちゃいかん』というロジックが突破力をもっていた。もちろん、当時も前近代的な家族意識から『年寄りは嫁が面倒をみるべきだ』などと考える政治家らもいたのですが、それよりも『大変だ。どうにかしないと』という有権者の声の方が大きかったということでしょう」

 ――負担が増えても子育て支援を求める有権者の声が高まっていないのでしょうか。朝日新聞の世論調査でも、「少子化対策にあてるため国民負担が増えてもよいか」と尋ねたら、「増えるのはよくない」が6割を占めました。
 「今の50歳以上の人たちの多くは、何とか自分たちで子育てしてきたと思っている。『近頃の若い人たちは子どもに自分のカネを使わないのは何事か』などと感じているのかもしれません。そんな『生活態度としての保守層』が多数派のうちは、負担増の受け入れはなかなか難しいでしょう」 

――大きな壁ですね。
「メンバーシップ型雇用の恩恵を享受してきた保守層は、企業福祉より見劣りすると感じる『政府による福祉』に無意識の敵対心を抱く。そこに小さな政府を志向する新自由主義的なグループや、国家権力による再配分に反発する層も加わり『神聖なる憎税同盟』を形成しているのが日本社会です」

 ――日本では左派やリベラルも増税に否定的ですか。
 「欧州では国民から集めた税金を再分配することこそが社会民主主義です。しかし、日本の戦後の左派にはその感覚が少ない。あったのは税金の廃止を理想とするようなものだった。この日本的な左派と、世界的に広がる新自由主義的なグループの考え方が意図しない形で結びついている。メンバーシップ型を前提とする給料が当然だと考える雇用層も加わって、『五公五民』意識が強化されてきたのではないでしょうか」・・・・・・

(追記)

はてぶをみていると、人間というものがいかに(こんな短い文章であっても)そのごく一部だけに脊髄反射し、全体の文脈が読み取れないものであるかということがよく分かります。

https://b.hatena.ne.jp/entry/4735832787436111653/comment/nanamino

左派関係ないでしょ。稼げば稼ぐ程損だとか言って累進課税の原則に反対するとか、取られ損だと思っている人は寧ろ右派に多い。

いや、一般的にはまさにそうであって、それこそ西欧のイデオロギー配置であれば、税金取って再配分しろが左派、税金取るな再配分反対が右派と極めてわかりやすいのだが、そこのところが戦後日本の憎税左派は(本来の左派に反して)そうではないという話なのに、そこがもう読み取れずに脊髄反射してしまう。

ここで言っているのは、こういう話なんですよ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/06/post-972110.html(「憎税」左翼の原点?)

これは、拉致問題の絡みで旧日本社会党を批判するという文脈で持ち出されている古証文ではあるんですが、

https://twitter.com/nittaryo/status/1270557950738825217

「『北朝鮮はこの世の楽園』と礼賛し、拉致なんてありえないと擁護していた政治家やメディア」
と言われても実感が湧かない皆さんに、証拠を開示しよう。これは日本社会党(現社民党)が1979年に発行した「ああ大悪税」という漫画の一部。北朝鮮を「現代の奇蹟」「人間中心の政治」と絶賛している。 

Eahtrbevcaatscf

その文脈はそういう政治話が好きになひとに委ねて、ここでは違う観点から。と言っても、本ブログでは結構おなじみの話ですが。よりにもよって「ジャパン・ソーシャリスト・パーティ」と名乗り、(もちろん中にはいろんな派閥があるとはいえ)一応西欧型社民主義を掲げる社会主義インターナショナルに加盟していたはずの政党が、こともあろうに金日成主席が税金を廃止したと褒め称えるマンガを書いていたということの方に、日本の戦後左翼な人々の「憎税」感覚がよく現れているなぁ、と。そういう意味での「古証文」としても、ためすすがめつ鑑賞する値打ちがあります。

とにかく、日本社会党という政党には、国民から集めた税金を再分配することこそが(共産主義とは異なる)社会民主主義だなんて感覚は、これっぽっちもなかったということだけは、このマンガからひしひしと伝わってきます。

そういう奇妙きてれつな特殊日本的「憎税」左翼と、こちらは世界標準通りの、税金で再分配なんてケシカランという、少なくともその理路はまっとうな「憎税」右翼とが結託すると、何が起こるのかをよく示してくれたのが、1990年代以来の失われた30年なんでしょう。

31dsj9bb24l_sx307_bo1204203200_ いまさら井出英策さんがどうこう言ってもどうにもならない日本の宿痾とでもいうべきか。

 

 

 

 

 

 

 

 

公務と民間@『DIO』4月号

Dio3851 連合総研の機関誌『DIO』4月号をお送りいただきました。

https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio385.pdf

「公務」と「民間」、制度の相互作用~賃金、定年、非正規課題~

解題
「公務」と「民間」、制度の相互作用 ~賃金、定年、非正規課題~ 多田 健太郎…………… 4
寄稿
公務員法制と民間労働法制の距離 下井 康史…………… 6
公務員賃金が民間賃金・地域経済に与える影響 島澤 諭 ……………10
公務員65歳定年引上げへの課題―民間企業との比較において 八代 充史 ……………16
日本における同一労働同一賃金の現状―連合アンケート調査を手掛かりに 前浦 穂高 ……………20 

現行法制(というか、そうだと思い込まれ、裁判所もそう疑っていないもの)に従いつつ、現状の問題点をそれぞれに指摘する論文が並んでいます。

それはそれでいいのですが、私としてはその前提に疑問を呈してきているので、この機会に、むしろ過去に書いたそういうものいくつか紹介しておきたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-0d8b.html(地方公務員と労働法)

総務省自治行政局公務員課が編集している『地方公務員月報』の10月号に、「地方公務員と労働法」という文章を寄稿しました。

その冒頭のところをここに引用しておきます。

>本誌からの原稿依頼の標題は「地方公務員法制へ影響を与えた民間労働法制の展開」であった。この標題には、地方公務員法制と民間労働法制は別ものであるという考え方が明確に顕れている。行政法の一環としての地方公務員法制と民間労働者に適用される労働法とがまったく独立に存在した上で、後者が前者になにがしかの影響を与えてきた、という考え方である。しかしながら、労働法はそのような公法私法二元論に立っていない。労働法は民間労働者のためだけの法律ではない。民間労働法制などというものは存在しない。地方公務員は労働法の外側にいるわけではない。法律の明文でわざわざ適用除外しない限り、普通の労働法がそのまま適用されるのがデフォルトルールである

1 労働基準法の大原則

 ところが、地方行政に関わる人々自身が、地方公務員ははじめから労働法の外側にいるかのような誤った認識の中にあるのではないかと思われる事案があった。・・・・・・

この雑誌は、全国の地方自治体の人事担当部局で必読雑誌として熱心に読まれているはずですので、こういう認識がきちんと定着することを願ってあえて厳しめの表現をしておりますが、その意のあるところをお酌み取りいただければと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-bd32.html(非正規公務員問題の原点@『地方公務員月報』12月号)

総務省自治行政局公務員課編の雑誌『地方公務員月報』12月号に、「非正規公務員問題の原点」を寄稿しました。

現在の公務関係の中にどっぷりつかっていればいるほど見えなくなるものを指摘したつもりです。

近年、「非正規公務員」問題に対する関心が再び高まってきている。二〇〇七年一一月二八日の中野区非常勤保育士再任用拒否事件をはじめとして、非常勤という名のもとに事実上長期間就労していた職員の雇止めに対して、民間の有期雇用労働者と同様の解雇権濫用法理の類推適用はできないとしつつも、それに代わる損害賠償を命ずる判決が続出している。本稿では、そういった近年の動向自体は取り扱わない。上林陽治『非正規公務員』(日本評論社)はじめ、非正規公務員の現状と裁判例、政策の動きを詳細に分析した本は少なくない。ここで考えてみたいのは、なぜ非正規公務員などという現象が発生するのかという根本問題を、公務員制度の基本に立ち返って、歴史的に振り返ってみることである。
 
1 「公務員」概念のねじれ
 
 公務部門で働く者はすべて公務員であるというのは、戦後アメリカの占領下で導入された考え方である。戦前は、公法上の勤務関係にある官吏と、私法上の雇傭契約関係にある雇員(事務)・傭人(肉体労務)に、身分そのものが分かれていた。これは、現在でもドイツが採用しているやり方である。そもそも、このように国の法制度を公法と私法に二大別し、就労関係も公法上のものと私法上のものにきれいに分けてしまうという発想自体が、明治時代にドイツの行政法に倣って導入されたものである。近年の行政法の教科書を見ればわかるように、このような公法私法二元論自体が、過去数十年にわたって批判の対象になってきた。しかし、こと就労関係については、古典的な二元論的発想がなお牢固として根強い。
 ところが、アメリカ由来の「公務部門で働く者は全員公務員」という発想は、公法と私法を区別しないアングロサクソン型の法システムを前提として産み出され、移植されたものである。公務員であれ民間企業労働者であれ、雇用契約であること自体には何ら変わりはないことを前提に、つまり身分の違いはないことを前提に、公務部門であることから一定の制約を課するというのが、その公務員法制なのである。終戦直後に、日本が占領下で新たに形成した法制度は、間違いなくそのようなアメリカ型の法制であった。それは戦前のドイツ型公法私法二元論に立脚した身分制システムとは断絶したはずであった。
 ところが、戦後制定された実定法が明確に公務員も労働契約で働く者であることを鮮明にしたにもかかわらず、行政法の伝統的な教科書の中に、そしてそれを学生時代に学んだ多くの官僚たちの頭の中に生き続けた公法私法二元論は、アメリカ型公務員概念をドイツ型官吏概念に引きつけて理解させていった。その結果、公務部門で働く者はすべて(ドイツ的、あるいは戦前日本的)官吏であるという世界中どこにもあり得ないような奇妙な事態が生み出されてしまった。結論を先取りしていえば、その矛盾を背負って生み出され、増大していったのが、非正規公務員ということになる。
 ドイツ型(戦前日本型)システムであれば、官吏ではない雇員・傭人の雇用は私法上の雇用契約法制が守ることになる。一方、アングロサクソン型のシステムであれば、(集団的労使関係の特例は別として)公務部門にも当然雇用契約法制が適用される。ところが、戦後日本の非正規公務員とは、公務員だからといって私法上の雇用保護は否定されながら、官吏型の身分保障からも遮断された谷間の存在になってしまった。いわば、非正規公務員とは、ドイツ型公法私法二元論とアメリカ型一元論とがねじれながら奇妙に癒着したシステムが生み出した私生児なのである。
 
2 公務員は現在でも労働契約である
 
 上で述べた「戦後制定された実定法」は、現在でもちゃんと六法全書の上に載っている。本誌二〇一〇年一〇月号に掲載した「地方公務員と労働法」で述べたように、一九四七年に制定された労働基準法は、その第一一二条で「この法律及びこの法律に基づいて発する命令は、国、都道府県、市町村その他これに準ずべきものについても適用あるものとする」と規定している。これは、民間労働者のための労働基準法を公務員にも適用するためにわざわざ設けた規定ではない。制定担当者は「本法は当然、国、都道府県その他の公共団体に適用がある訳であるが、反対解釈をされる惧れがあるので念のために本条の規定が設けられた。」と述べている。労働基準法制定時の国会答弁資料では「官吏関係は、労働関係と全面的に異なった身分関係であるとする意見もあるが、この法律の如く働く者としての基本的権利は、官吏たると非官吏たるとに関係なく適用せらるべきものであつて、官吏関係に特有な権力服従関係は、この法律で与へられた基本的権利に付加さるべきものと考へる」と述べていた。戦前のドイツ的官吏身分の思想を、明文で否定した法律である。
 集団的労使関係をめぐる後述の経緯で非現業国家公務員は労働基準法が全面適用除外となったが、非現業地方公務員には現在でも原則として労働基準法が適用されることは周知の通りである(いや、実は必ずしも周知されていないようだが)。適用される労働基準法の規定の中には、「第二章 労働契約」も含まれる。第一四条(契約期間の上限)、第二〇条(解雇の予告)も適用されるし、解雇予告の例外たる「日々雇い入れられる者」等もまったくそのまま適用される。労働基準法は、非現業地方公務員が労働契約で就労し、解雇されることを当然の前提として規定しているのである。
 労働基準法のうち適用されない規定は、第二条の労働条件の労使対等決定原則など、集団的労使関係の特性から排除されているものであって、就労関係自体の法的性格論(公法私法二元論)から来るものではない。この点は、全面適用除外となっている国家公務員法でもまったく同じである。周知のごとく、二・一ストをはじめとする過激な官公労働運動に業を煮やしたマッカーサー司令官が、いわゆるマッカーサー書簡において、「雇傭若しくは任命により日本の政府機関若しくはその従属団体に地位を有する者は、何人といえども争議行為若しくは政府運営の能率を阻害する遅延戦術その他の紛争戦術に訴えてはならない。何人といえどもかかる地位を有しながら日本の公衆に対しかかる行動に訴えて、公共の信託を裏切る者は、雇傭せられているが為に有する全ての権利と特権を放棄する者である」と宣言した。これを受けて行われた国家公務員法改正で、(団体交渉権や争議権を否定するのみならず)勢い余って(一部に労使対等決定原則を定める)労働基準法まで全面適用除外にしてしまったのだが、それは少なくともアメリカ側当事者の意識としては、官吏は労働契約ではないからなどという(彼らには想像もつかない)発想ゆえでは全くなかったことは、そのマッカーサー書簡の中に「雇傭せられているが為に有する全ての権利」云々という表現が出てくることからも明らかであろう。
 なお、戦後六〇年以上経つうちに労働行政担当者までが(大先輩の意図に反して)公法私法二元論に疑いを持たなくなったようで、二〇〇七年制定の労働契約法は国家公務員及び地方公務員に適用されていない。通達では「国家公務員及び地方公務員は、任命権者との間に労働契約がないことから、法が適用されないことを確認的に規定したものである」などと述べているが、自らが所管する労働基準法の明文の規定に反する脳内法理によってそれと矛盾する実定法を作ってしまうほどにその病は重いように見える。ちなみに、労働基準法が適用除外されている家事使用人についてすら、労働契約であることに変わりはないからとして、労働契約法は適用されているのである。
 
3 国家公務員法の原点の発想
 
 マッカーサー書簡を実際に執筆し、GHQの公務員部長として戦後日本の公務員制度を基本から設計したキーパースンが有名なブレーン・フーバーである。今日に至るまで、公務員法制の基本骨格はフーバーの思想に基づいて構築されている。それは身分的官吏概念とは対極に位置する公務員制度であった。それを象徴するのが職階制である。これは、公務部門の職務を詳細に分類整理し、その職務の明細をきちんと記述し、これに基づいて広く公募し、その職務にもっともふさわしい者をその職に充てるという仕組みである。一九五二年に施行された人事院規則八-一二(職員の任免)について、『人事院月報』27号の「新任用制度の解説」は、「国家公務員法における任用とは官職の欠員補充の方法であると考えられる。すなわち官職への任用であり、職員に特定の職務と責任を与えることであって、職員に或る身分若しくは地位を与えることではない」と述べている。筆者が『日本の雇用と労働法』(日経文庫)や『若者と労働』(中公新書ラクレ)等で用いた言い方を使えば、もっとも典型的なジョブ型の雇用システムであった。
 この時期には、少なくとも人事院は本気でこのシステムを実施しようとしていたようである。その現れが、国家公務員法施行に伴いその附則で「その官職に臨時的に任用されたものとみな」された本省課長以上の官職について、一九五〇年に実施されたいわゆるS-一試験である。
 しかし、この試験が著しく不評を買っただけではなく、職階制自体が他の官庁から極めて強い批判を浴びた。結局一九五〇年に職階法が成立した後も、人事院では職種の決定、職級の設定、等級の設定、格付け等実施準備を進めたが、ついに一度も実施されることなく、多くの人の関心から消え去っていった。戦後公務員の世界は戦前の官吏の世界を再現するように、典型的にメンバーシップ型の雇用システムを構築していったのである。
 ただし、戦前と違ったのは、戦前型システムにおいて公務部門労働力の多数を占めていた私法上の契約による雇員・傭人という枠組が、戦後型システムにおいては全面的に否定されてしまっていたという点であった。戦前の高等官に相当する六級職試験(後の上級試験)、戦前の判任官に相当する五級職試験(後の中級試験)に加え、戦前の雇員に相当する四級職試験(後の初級試験)という身分的枠組が次第に形成されていく中で、公法私法の区別なく全員が公務員というアングロサクソン型システムは、全員が(公法上の)官吏という世界のどこにも存在しないシステムに転化していったのである。・・・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-0f47.html地方公務員と労働基準法@『労基旬報』3月25日号

『労基旬報』3月25日号に「地方公務員と労働基準法」を寄稿しました。
 前回の「公立学校教師の労働時間規制」では、給特法という特別法が教師という職種に着目したものではなく、あくまでも地方公務員という身分に基づくものであり、民間労働者である私立学校や国立学校の教師には一切適用されないものであることを解説しました。そしてそこで「ここも誤解している人がいますが、労働基準法は地方公務員にも原則的に適用されます」と述べたのですが、ここはもう少し親切に詳しく解説しておかなければならなかったところかも知れません。そこで、今回はやや基礎知識になりますが、地方公務員への労働基準法の適用について解説しておきたいと思います。
 そもそも、1947年に労働基準法が制定されたとき以来、同法第112条は「この法律及びこの法律に基いて発する命令は、国、都道府県、市町村その他これに準ずべきものについても適用あるものとする」と明記しています。反対解釈される恐れがあるので念のために設けられた規定です。現在は別表第1に移されてしまいましたが、かつては第8条に適用事業の範囲という規定があり、そこには「教育、研究又は調査の事業」(第12条)、「病者又は虚弱者の治療、看護その他保健衛生の事業」(第13号)に加え、第16号として「前各号に該当しない官公署」まであったのです。公立学校や公立病院はもとより、都道府県庁や市町村役場まで、何の疑問もなく労働基準法の適用対象でした。制定時の寺本広作課長は、「蓋し働く者の基本的権利としての労働条件は官吏たると非官吏たるとに関係なく同一に保障さるべきものであって、官吏関係に特別な権力服従関係はこの法律で保障される権利の上に附加されるべきものとされたのである」と述べています。
 これを前提にわざわざ設けられたのが法第33条第3項です。災害等臨時の必要がある場合は36協定がなくても時間外・休日労働をさせることができるというだけでは足りないと考えられたからこそ、「公務のために臨時の必要がある場合」には「第八条第十六号の事業に従事する官吏公吏その他の公務員」に時間外・休日労働をさせることができることとしていたのです。また、労働基準法施行規則には次のような、公務員のみが対象となるような特別規定がわざわざ設けられていました。
第二十九条 使用者は、警察官吏、消防官吏、又は常備消防職員については、一日について十時間、一週間について六十時間まで労働させ、又は四週間を平均して一日の労働時間が十時間、一週間の労働時間が六十時間を超えない定をした場合には、法第三十二条の労働時間にかかわらず、その定によつて労働させることができる。
第三十三条 警察官吏、消防官吏、常備消防職員、監獄官吏及び矯正院教官については、法第三十四条第三項の規定は、これを適用しない。
 こうした規定を見てもし今の我々が違和感を感じるとすれば、それはその後の法改正によって違和感を感じるようにされてしまったからなのです。そして、公務員の任用は労働契約に非ずという、実定法上にその根拠を持たない概念法学の影響で、いつしか公務員には労働法が適用されないのが当たり前という間違った考え方が浸透してしまったからなのです。ちなみに労働法学者の中にも、労働基準法が地方公務員に原則適用されるという事実に直面して「公務員の任用関係は労働契約関係と異なるという議論も、これでは説得力を失いかねない」などとひっくり返った感想を漏らす向きもありますが*1、そもそも「働く者の基本的権利としての労働条件は官吏たると非官吏たるとに関係なく同一に保障さるべきもの」というのが労働基準法の出発点であったことをわきまえない議論と言うべきでしょう。
 その経緯をざっと見ておきましょう。早くも占領期のうちに、公務員の集団的労使関係法制の改正のあおりを食らう形で労働基準法制まで全面的ないし部分的な適用除外とされてしまいました。1948年7月、マッカーサー書簡を受けて制定された政令第201号は公務員の団体交渉権及びスト権を否定しましたが、その中で労働基準法第2条の「労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきもの」との規定が、マッカーサー書簡の趣旨に反するとして適用されないこととされました。これはまだ集団的労使関係法制に関わる限りの適用除外でしたが、同年11月の改正国家公務員法により、労働組合法と労働関係調整法にとどまらず、労働基準法と船員法についてもこれらに基づいて発せられる命令も含めて、一般職に属する職員には適用しないとされました(原始附則第16条)。そして「一般職に属する職員に関しては、別に法律が制定実施されるまでの間、国家公務員法の精神にてい触せず、且つ、同法に基く法律又は人事院規則で定められた事項に矛盾しない範囲内において、労働基準法及び船員法並びにこれらに基づく命令の規定を準用する」(改正附則第3条第1項本文)とされ、準用される事項は人事院規則で定める(同条第2項)とされましたが、そのような人事院規則は制定されていません。また、「労働基準監督機関の職権に関する規定は、一般職に属する職員の勤務条件に関しては、準用しない」(同条第1項但書)と、労働基準監督システムについては適用排除を明確にしました。この改正はどこまで正当性があったか疑わしいものです。否定された団体交渉権やスト権と全く関わらないような最低労働条件を設定する部分まで適用除外する根拠はなかったはずです。時の勢いとしか説明のしようがありません。
 これに対して、1950年12月に成立した地方公務員法では、少し冷静になって規定の仕分けがされています。労働組合法と労働関係調整法は全面適用除外であるのに対し、労働基準法については原則として適用されることとされたのです。ただし、地方公務員の種類によって適用される範囲が異なります。地方公営企業職員と単純労務者は全面適用です。教育・研究・調査以外の現業職員については、労使対等決定の原則(第2条)及び就業規則の規定(第89-93条)を除きすべて適用されます。公立病院などは、労使関係法制上は地公労法が適用されず非現業扱いですが、労働条件法制上は現業として労働基準法がほぼフルに適用され、労働基準監督機関の監督下におかれるということになります。近年、医師の長時間労働が問題となる中で、公立病院への臨検監督により違反が続々と指摘されているのはこのおかげです。
 ところがこれに対して、狭義の非現業職員(労働基準法旧第8条第16号の「前各号に該当しない官公署」)及び教育・研究・調査に従事する職員については、上の二つに加えて、労働基準監督機関の職権を人事委員会又はその委員(人事委員会のない地方公共団体では地方公共団体の長)が行うという規定(地方公務員法第58条第3項)が加わり、労働基準法の労災補償の審査に関する規定及び司法警察権限の規定が適用除外となっているのです。人事委員会がない場合には、自分で自分を監督するという、労働基準監督システムとしてはいかにも奇妙な制度です。このため、教師の長時間労働がこれほど世間の話題になりながらも、公立学校への臨検勧告が行われることはないのです。
 しかし、にもかかわらず、労働基準法が原則適用されているという事実には何の変わりもありません。上で労働基準法施行規則旧第29条、第33条を引用しましたが、これらは1950年の地方公務員法成立後もずっと労基則上に存在し続けてきました。第29条が削除されたのは労働時間短縮という法政策の一環として1981年の省令により1983年度から行われたものであり、第33条の方は対象を増やしながらなお現在まで厳然と存在し続けています。
第三十三条 法第三十四条第三項の規定は、左の各号の一に該当する労働者については適用しない。
一 警察官、消防吏員、常勤の消防団員、准救急隊員及び児童自立支援施設に勤務する職員で児童と起居をともにする者
 団結権すら禁止されている警察官や消防士にも、労働基準法はちゃんと適用されていることを示す規定です。 
*1小嶌典明・豊本治「地方公務員への労働基準法の適用」『阪大法学』63巻3-4号。 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-b1d7.html(学校事務のおばちゃんと労働基準法)

昨日のエントリ(地方公務員と労働基準法(『労基旬報』2019年3月25日号))に、焦げすーもさんからツイッターでコメントが:
地方公務員と労働基準法@『労基旬報』3月25日号
→学校事務のおばちゃんであるオカンから、36協定の適用について質問を何度も受けているが、明確に答えづらいのよね。。
なかなかニッチなところを狙ってきますな。
えーと、学校事務のおばちゃんというのは、事業で言うと第12号「教育、研究又は調査の事業」なので、官公署とともに労働基準監督官が臨検監督できない領域です。
ところが、教員ではないので、給特法の適用は受けません。なので、
①第36条はフルに適用される。ゆえに36協定を締結しなければ残業させられない
②第33条第3項は適用されない。ゆえに以下同文。
③第37条はフルに適用される。ゆえに残業させたら残業代を払わなければならない
ということになります。
そう、労働時間法制自体は他の労働者(官公署及び教員以外の地方公務員)と基本的に同じなのですが、ただ一つ違っているのは、これらの違反を摘発すべきは人事委員会または地方公共団体の長であるという点だけなのです。

 

 

 

 

 

 

2023年4月28日 (金)

武石恵美子『キャリア開発論〈第2版〉』

9784502461811_430 武石恵美子『キャリア開発論〈第2版〉―自律性と多様性に向き合う』(中央経済社)をお送りいただきました。

https://www.biz-book.jp/isbn/978-4-502-46181-1

「自律性」と「多様性」をキーワードに、具体的トピックスやデータを織り込みながら、個人・企業・社会の視点から体系的・実践的に解説する好評テキストの新版。

初版をいただいたのが6年半前になります。

日本の雇用システムとの関係に意を払いながら、キャリア展開のさまざまな側面に触れています。

はじめに 

第Ⅰ部 全体像をつかむ
第1章 キャリア開発とは何か 

 1.キャリアをとらえる視点 
 2.キャリア開発とは 
 3.キャリア開発に関連する理論的アプローチ 
 4.キャリア開発を取り巻く社会的な要因 
 本章のポイント
 コラム 自分らしいキャリアとは

第2章 キャリア開発の主体 
 1.人的資本と投資 
 2.職業能力開発の投資と収益 
 3.内部労働市場とキャリア開発 
 4.日本の雇用システムとキャリア開発 
 本章のポイント
 コラム 判例にみる雇用保障重視の姿勢

第3章 経営環境とキャリア開発の変化 
 1.日本の組織のキャリア開発の特徴 
 2.内部育成の課題と新しい動き 
 3.キャリア開発施策をめぐる動き 
 4.キャリア開発における組織と個人のベストミックスを探る 
 本章のポイント 
 コラム キャリアを支援する専門家 

第4章 求められるキャリア自律 
 1.自律的なキャリア開発へ 
 2.キャリア自律の概念 
 3.日本の組織におけるキャリア自律 
 4.キャリア自律を支える仕組み 
 5.「適材適所」の新しい形 
 本章のポイント 
 コラム エンプロイアビリティとエンプロイメンタビリティ 

第Ⅱ部 テーマごとに考える
第5章 ダイバーシティ経営 

 1.なぜダイバーシティ経営か 
 2.人材の多様性を活かすとは 
 3.ダイバーシティ経営の実際 
 4.ダイバーシティ経営とキャリア自律 
 本章のポイント 
 コラム 障害者雇用をめぐる最近の動向 

第6章 正社員の多元化とキャリア開発 
 1.正社員の多元化とは 
 2.転居転勤の現状と背景 
 3.勤務地限定制度 
 4.転勤の課題と今後の展開 
 5.転勤に関する新しい動き 
 6.働き方を個人が選ぶ時代に 
 本章のポイント 
 コラム 法改正で多様な正社員が増えた? 

第7章 ワーク・ライフ・バランスと働き方改革 
 1.ワーク・ライフ・バランスの重要性 
 2.WLB の現状と政策 
 3.テレワークの拡がり 
 4.職場における WLB,働き方改革 
 5.求められるライフデザイン 
 本章のポイント 
 コラム 柔軟な働き方を推進するイギリス 

第8章 女性のキャリア開発 
 1.男女のキャリア 
 2.日本的雇用システムと女性 
 3.女性のキャリア開発に関する政策の展開 
 4.女性のキャリア開発の条件 
 5.再就職というキャリア 
 6.これからの女性のキャリア開発 
 本章のポイント 
 コラム 女性優遇策はなぜ認められる? 

第9章 育児期のキャリア開発 
 1.出産・育児と女性のキャリア 
 2.出産・育児期における政策の現状 
 3.育児期の意識と働き方 
 4.育児期をはさんだ継続的なキャリア開発のために 
 本章のポイント 
 コラム いわゆる「資生堂ショック」 

第10章 介護責任とキャリア開発 
 1.働く人の介護問題 
 2.介護に関する社会制度 
 3.仕事と介護の両立の現状 
 4.介護責任とキャリア 
 本章のポイント 
 コラム 介護保険で利用できるサービス 

第11章 非正規労働者のキャリア開発 
 1.雇用の非正規化 
 2.非正規雇用の課題と変化
 3.非正規労働者の待遇改善政策 
 4.非正規雇用のキャリア開発をどう進めるか 
 本章のポイント 
 コラム パートタイム先進国オランダの働き方 

第12章 職場の問題への対処 
 1.職場で生じる問題 
 2.問題が生じる背景 
 3.問題発生への対処行動 
 4.職場の問題への対応 
 本章のポイント 
 コラム 労働組合と個別的労使紛争 

終 章 自律性と多様性に向き合う 

 

 

 

本日は国際労働者祈念日

Arton2672293399 毎年本ブログでは4月28日に、本日は国際労働者祈念日(International Workers’ Memorial Day)だよとお知らせしておりますが、今年もその日がめぐって参りました。例によって、国際労連(ITUC)のホームページから:

https://www.ituc-csi.org/iwmd23?lang=en

 On International Workers’ Memorial Day, 28 April, trade unions are promoting the role that organising plays in making workplaces safer and healthier as we remember all working people who have lost their lives to workplace accidents and disease.

雇用環境・均等局在宅労働課フリーランス就業環境整備室長は既にある件について

https://twitter.com/yamachan_Runrun/status/1651608711637647360

労働局雇用環境均等部局内に、「テレワーク•フリーランス係長」爆誕の予感。

いや、係長爆誕どころか、既に本省には課長と併任ながら室長ができていますよ。

https://www.mhlw.go.jp/kouseiroudoushou/kanbumeibo/index.html

在宅労働課長(雇用環境・均等局在宅労働課フリーランス就業環境整備室長併任)

 

 

 

 

 

『労働六法2023』

625485 『労働六法2023』(旬報社)が刊行されました。

https://www.junposha.com/book/b625485.html

労働法に関連する法律を網羅。2023年版は、給与のデジタル払いに関する労基法施行規則改正(2023年4月1日施行)、1000人を超える企業に男性の育児休業取得状況などの公表を義務付ける育児介護休業法改正(2023年4月1日施行)、求人メディア等のマッチング機能の質の向上をめざす職安法改正に対応。ILO強制労働廃止条約(第105号)EUの最低賃金指令と賃金透明性指令案を掲載。

というわけで、今回はEU法に二つの指令(正確に言えば一つの新指令と、一つの成立目前の指令案)が収録されています。

最低賃金指令は正式名称「欧州連合における十分な最低賃金に関する欧州議会と理事会の指令」(Directive (EU) 2022/2041 of the European Parliament and of the Council of 19 October 2022 on adequate minimum wages in the European Union)で、昨年10月に成立しています。

 もう一つは、残念ながら今年度版では指令ではなく指令案としての掲載になってしまいましたが、賃金透明性指令、正式名称は「賃金透明性と執行機構を通じて男女同一労働又は同一価値労働に対する同一賃金の原則の適用を強化する欧州議会と理事会の指令」(Directive (EU) 2023/   of the European Parliament and of the Council of    2023 to strengthen the application of the principle of equal pay for equal work or work of equal value between men and women through pay transparency and enforcement mechanisms)です。

『労働六法2023』に載っているバージンは、昨年12月に欧州議会と閣僚理事会が合意したものですが、条文整理がされていないため、条文番号や項番号に枝番が入ってしまっています。

これら条文等の番号は既に整理されていて、日付だけ入っていない官報掲載予定稿バージョンも公開されており、あとはそろそろEU官報に載るのを待っているだけなんですが、残念ながら『労働六法2023』の発行に間に合いませんでした。

 

2023年4月27日 (木)

『知れば安心 知れば納得 -労基の話』

04181633_643e47ce08668 全基連(全国労働基準関係団体連合会)の青山平八さんから『知れば安心 知れば納得 -労基の話』(全基連)をお送りいただきました。

執筆陣は、吉松美貞、河合智則、山本靖彦、引地睦夫、島浦幸夫という、いずれも既に退官した労働基準監督官OBで、これらの名前を見ると、思わずにやりとする人もいるであろう、現役時代に活躍してきた方々です。

というわけで、そんじょそこらの労基法の解説本とは段違い平行棒で、「社長さんの独り言」に対して、こうなんですよとやさしく説き聞かせていくような構成です。

あとがきの台詞も泣かせます。

 

岡芹健夫『取締役の教科書〔第2版〕』

1947thumb1748x2480727 岡芹健夫『取締役の教科書〔第2版〕』(経団連出版)をお送りいただきました。

https://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/pub/cat/512e7deb1e635d32b0c6dda747f7c2403fa01aae.html

近年、社会情勢の変化は、ますますそのスピードを上げつつあります。その根底にあるのは、技術の進歩と、価値観および社会的常識の変化ですが、この「進歩」と「変化」とは時間差をおいて発現します。このような環境下において、会社の経営方針を決定する取締役は、会社に対する善管注意義務を負うとともに、時代と市場の動向を的確に見通したうえでの「適切」な経営判断が求められ、不適切な判断を行ったならば、損害賠償責任を負うこととなります。
本書は、取締役の地位と職責、権限、会社および第三者に対する責任、損害賠償以外の責任など、企業トップに求められる義務と、その裏返しである責任(リスク)について、できるだけ具体的かつ平易に説明しました。

会社法の解説書ですが、徹底的に取締役の立場から分かりやすく説明されている本です。

Ⅰ 取締役の地位と職責
  取締役の立場/取締役の一般的な義務/善管注意義務・忠実義務の具体的内容と程度 
Ⅱ 取締役の義務
  取締役の内部統制システム整備義務/取締役の競業避止義務の内容/利益相反取引規制の当否
Ⅲ 会社に対する取締役の責任
  利益供与に該当する取引/経営判断の原則/会社に対する責任と任務懈怠、過失
Ⅳ 第三者に対する取締役の責任
  第三者に対する責任/代表取締役の任務違背と平取締役の第三者に対する責任
Ⅴ 損害賠償以外の取締役の責任
  取締役の解任手続き/報酬や退職慰労金の任期中の減額、不支給

岡芹さんは高井伸夫さんの下で経営法曹として活躍してこられましたが、高井さんが先日亡くなられたので、事務所のトップになられたことになります。

 

 

『Japan Labor Issues』Vol.7, No.43, May 2023

Jli_20230427095801 JILPTの英文誌『Japan Labor Issues』の5月号がアップされました。

https://www.jil.go.jp/english/jli/documents/2023/043-00.pdf

今回の記事は3本で、労働行政の仕組みに関わるものです。

 The Labor Policy Council: Functions of the Group Consultation in the Process of Forming Labor Policy in Japan SUWA Yasuo (Hosei University)
Examining Japan's Labor Standards Inspection Administration and Its Challenge from the Perspective of the Inspection Offices IKEYAMA Kiyoko (Kobe University)
Labor Tribunal Proceedings: The Paradigm Shift in Labor Dispute Resolution and its Future Challenges ASANO Takahiro (Hokkai-Gakuen University and attorney at law)

一つ目は諏訪康雄さんによる労働政策審議会、二つ目は池山聖子さんによる労働基準監督署、三つ目は浅野高宏さんによる労働審判で、元論文は『日本労働研究雑誌』の2021年6月号に載ったものです。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2021/06/index.html

判例紹介は、細川良さんによる例の専修大学事件です。

 Is a Part-time Instructor Whose Role is Exclusively to Teach University Language Classes a "Researcher"?
The Senshu University (Conversion of a Fixed-Term Labor Contract to an Indefinite-term Labor Contract) Case HOSOKAWA Ryo (Aoyama Gakuin University)

 

 

2023年4月26日 (水)

脱成長論の家族介護型社会という帰結

07062472d0f3481da67f8739e85244a9 たまたま中島隆博編『人の資本主義』(東大出版会)という本を見つけてぱらぱらと読んでいたのですが、

https://www.utp.or.jp/book/b497147.html

その中に、ある意味で大変アイロニカルで興味深いやり取りをみつけました。それは、

10章 ポスト資本主義コミュニティ経済はいかにして可能か?――脱成長論の背景・現状・課題(中野佳裕)
討議 地域主義の限界と可能性

という部分の討議の中で、中野佳裕さんが南ヨーロッパの脱成長運動をあれこれ紹介したのに対して、小野塚知二さんがこんな風に疑問を呈しているところです。

小野塚 難しいですね。ただ、中野さんのおっしゃっている特に南フランスとイタリア、スペインというのは、介護に関していうと、家族介護型の社会なのです。つまり、在宅介護型ですね。北欧はすべて施設介護でしょう。北フランスも、ドイツも、スウェーデンも、施設介護なのです。施設介護は国家が管理して、介護労働者を用意して、介護労働者にきちんとした賃金を払いますから、それなりに経済成長ができるわけです。ところが南フランスやイタリア、スペインは、家族介護ですから、結局どうなるかというと、家で介護を見きれなくなると、外国人労働者や移民をどんどん受け入れて、移民に在宅介護をやらせているわけです。

 実を言うと、外側から人口を持ってこないと、南フランスやイタリアやスペインは、社会が成り立っていないのです。これは、介護という点のみを見ればということですけれども。まさにそれと同じ道を、日本や韓国は歩んでいて、移民労働者を入れて介護をしようといっています。台湾もそうですね。

脱成長論は日本でも妙に人気がありますが、その家族介護型社会という帰結まで含めて持て囃しているのかどうかはいささか疑問もありますね。

・・・ついでに言うと、施設介護型の社会では野良猫がいなくなるのです。逆に、在宅介護型の社会では野良猫が発生する。なぜかというと、独居高齢者がいて、猫に餌をやるから、野良猫が増えるのです。岩合光昭さんの「世界猫歩き」には、イタリアやスペイン、台湾や日本は出てくるのですが、ドイツやスウェーデンは出てこないのです。それは介護の在り方が違うからです。野良猫が発生していることの裏返しにあるのは、外側から人口を連れてこないと介護が成り立たないという状況です。

脱成長論がもたらす介護の在り方が猫の在り方を左右するという、まことに目の醒めるようなネコノミクスでありました。

(追記)

ちなみに、小野塚さんは「野良猫の有無と消滅過程に注目した人間・社会の総合的研究方法の開拓」という科研費研究の代表者でもありますね。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1040292706157310592

野良猫の有無とその消滅過程に注目して、人間・社会の諸特質(家族形態、高齢化態様と介護形態、高齢者の孤独、猫餌の相対価格、帝国主義・植民地主義の経験とその変容、動物愛護思想、住環境、衛生意識、動物観など、従来はそれぞれ個別に認識されてきたことがら)を総合的に理解する。猫という農耕定着以降に家畜化した動物(犬と比べるなら家畜化の程度が低く、他の家畜よりも相対的に人間による介入・改変が及んでいない動物)と人との関係を、「自由猫」という概念を用いて、総合的に認識し直すことによって、新たに見えてくるであろう人間・社会の秘密を解明し、家畜人文・社会科学という新しい研究方法・領域の可能性を開拓する。

ネコノミクスというよりは、ネコノミック・スタディーズというべき壮大な学問領域を構想しているようです。

 

 

 

 

2023年4月25日 (火)

世界から学ぶジェンダー平等:日本が前進するために大切なこと~世界と比べる『働く×ジェンダー平等』座談会 【後編】~

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3月末にアップされた前編の続きが今日アップされたようです。

https://www.recruit.co.jp/sustainability/iction/ser/gender-wagegap/002.html

世界と比べる『働く×ジェンダー平等』座談会【前編】に続き、労働政策研究・研修機構 労働政策研究所長の濱口桂一郎さん、株式会社Will Lab(ウィルラボ)代表取締役で、内閣府男女共同参画推進連携会議有識者議員である小安美和さん、リクルートワークス研究所 「Works」編集長 浜田敬子の3名が登場します。

後編は、海外の事情や取り組みをヒントに日本が前進するために大切なことを探るのがテーマ。海外諸国と比較すると日本はジェンダー平等が進んでいないと言われていますが、ジェンダー平等先進国との違いはどこにあるのでしょうか。先進国を中心とした諸外国と比較しながら、日本がジェンダーギャップの解消に向かうためのヒントをみつけていきたいと思います。

 

 

 

労働政策研究報告書No.226『労働審判及び裁判上の和解における雇用終了事案の比較分析』

Shinpan 労働政策研究報告書No.226『労働審判及び裁判上の和解における雇用終了事案の比較分析』が刊行されました。

https://www.jil.go.jp/institute/reports/2023/0226.html

解雇無効時の金銭救済制度について、厚生労働省「解雇無効時の金銭救済制度に係る法技術的論点に関する検討会」が令和4年4月に報告書を取りまとめ、同月より労働政策審議会労働条件政策分科会における審議が始まったところであるが、同分科会における審議に資するため、厚生労働省からの緊急調査依頼に基づき、平成26年にJILPTが実施した調査(平成調査)に倣って調査を行った。

研究の方法
令和2~3年の2年間に終局した労働審判の調停・審判事案、裁判上の和解事案、計1200件程度について、1地裁本庁内にて閲覧し、その場で調査項目についてデータ入力する。

そのデータをもとに、労働者の属性、企業の属性、時間的コスト、請求金額等請求内容、解決内容・金額等について分析するとともに、解決金額の決定に影響を及ぼす要因等について分析・考察する。

今回の調査対象
労働審判:2020,2021年(暦年)に1地裁で調停又は審判(異議申立てがないものに限る。)で終局した労働審判事案(「金銭を目的とするもの以外・地位確認」)785件(平成調査は4地裁452件)。裁判上の和解:2020,2021年(暦年)に1地裁で和解で終局した労働関係民事訴訟事案(「金銭を目的とするもの以外・地位確認」282件(平成調査は4地裁193件)。 

この内容の一は、既に昨年10月と12月に、労働政策審議会労働条件分科会に報告されていますが、そこに出ていないいろいろな詳細なデータもこの報告書には載っていますので、この問題に関心のある方々は是非ご一読下さい。

1 労働者の属性

(1)性別

裁判上の和解では男性に係る案件が174件(61.7%)、女性に係る案件が108件(38.3%)であり、労働審判でも男性に係る案件が494件(62.9%)、女性に係る案件が291件(37.1%)と、いずれも男性6割強、女性4割弱という比率になっている。前回の平成調査との比較では、今回、女性比率が急激に上昇したことが分かる。

(2)勤続期間

平成調査と令和調査の間で最も大きな落差を示しているのが労働者の勤続期間である。このわずか7~8年の間に、裁判上の和解においても労働審判においても勤続期間はほぼ半減している。

(3)役職

平成調査と令和調査であまり大きな変化は観察できない。裁判上の和解ではいずれにおいても役職なしが8割弱であり、部長・工場長級が1割弱、課長・店長級が7%程度である。また労働審判においては、役職なしが9割弱から8割強へ若干減少し、その分部長・工場長級と課長・店長級が若干増えている。

(4)雇用形態

裁判上の和解、労働審判いずれも無期が8割弱と多数を占め、有期が2割弱であり、派遣は2%弱にとどまる。

(5)賃金月額

賃金月額の分布は、前回よりも若干上昇している。裁判上の和解においては、平成調査では20万円台が最も多かったが、令和調査では30万円台が最も多い。また労働審判においては、平成調査でも令和調査でも20万円台が最も多いことに変わりはないが、その前後の分布状況が大きく高額の方にシフトしている。

2 企業規模(従業員数)

裁判上の和解も労働審判も想像以上に中小零細企業の労働者が活用しているという事実が明らかになった。

3 時間的コスト

訴訟の提起や労働審判の申立から解決までの制度利用に係る期間は、前者の方が後者よりも相当長期にわたるという傾向は平成調査と令和調査で変わらない。しかしながらそのいずれにおいても、平成調査よりも令和調査においてやや長期化の傾向が見られる。

また、制度利用に係る期間の長期化に伴って、解決に要した期間も若干長期化の傾向が見られる。

4 請求金額

中央値で見た場合、裁判上の和解における総請求金額は約840万円であるのに対して、労働審判における総請求金額は約290万円である。

5 解決内容と解決金額

(1)解決内容

解決内容を雇用存続の有無と金銭解決の有無で見ると、裁判上の和解で272件(96.5%)、労働審判で758件(96.6%)と、いずれも96%以上が雇用存続せずに金銭解決しており、これが圧倒的大部分を占めている。

(2)解決金額

平成調査に比べて、令和調査では裁判上の和解と労働審判のいずれも解決金額がかなり上昇している。

図表1 解決金額の分布(和解令和)

  件数
1-5万円未満 - -
5万-10万円未満 2 0.7
10万-20万円未満 7 2.5
20万-30万円未満 4 1.5
30万-40万円未満 4 1.5
40万-50万円未満 2 0.7
50万-100万円未満 33 12
100万-200万円未満 54 19.6
200万-300万円未満 28 10.2
300万-500万円未満 54 19.6
500万-1000万円未満 45 16.4
1000万-2000万円未満 26 9.5
2000万-3000万円未満 6 2.2
3000万-5000万円未満 6 2.2
5000万円以上 4 1.5
275 100
平均値(円) 6,134,219  
中央値(円) 3,000,000  
第1四分位(円) 1,200,000  
第3四分位(円) 6,000,000  

図表2 解決金額の分布(審判令和)

  件数
1-5万円未満 1 0.1
5万-10万円未満 4 0.5
10万-20万円未満 13 1.7
20万-30万円未満 16 2.1
30万-40万円未満 23 3
40万-50万円未満 25 3.3
50万-100万円未満 149 19.6
100万-200万円未満 219 28.9
200万-300万円未満 109 14.4
300万-500万円未満 107 14.1
500万-1000万円未満 62 8.2
1000万-2000万円未満 19 2.5
2000万-3000万円未満 7 0.9
3000万-5000万円未満 3 0.4
5000万円以上 2 0.3
759 100
平均値(円) 2,852,637  
中央値(円) 1,500,000  
第1四分位(円) 800,000  
第3四分位(円) 3,000,000

 

労働政策フォーラム 日本の人事制度・賃金制度「改革」@『ビジネス・レーバー・トレンド』2023年5月号

『ビジネス・レーバー・トレンド』2023年5月号は、去る2月9日に開催した労働政策フォーラムの記録です。

https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2023/05/index.html

労働政策フォーラム

日本の人事制度・賃金制度「改革」

2023年2月に開いた労働政策フォーラムでは、第45回(2022年度)労働関係図書優秀賞に、梅崎修氏の『日本のキャリア形成と労使関係――調査の労働経済学』(慶應義塾大学出版会2021年12月刊)と青木宏之氏の『日本の経営・労働システム――鉄鋼業における歴史的展開』(ナカニシヤ出版2022年3月刊)が選ばれたことを記念し、両氏に記念講演してもらうとともに、経営戦略の一環として人事・賃金制度の改定を実施・予定している企業の事例をふまえ、制度改革するうえでの従業員の納得性の高め方や管理職の今後の役割などについて議論した。(各報告およびパネルディスカッションの概要は調査部で再構成したものを掲載している。)

【記念講演(1)】

熟練・分業論から見た人事制度改革の方向性

梅崎 修 法政大学 キャリアデザイン学部 教授

【記念講演(2)】

日本の経営・労働システム──歴史的視点から

青木 宏之 香川大学 経済学部 教授

【コメント】

聞き取り調査から浮かび上がる今日的課題「職場の再構築」

荻野 登 労働政策研究・研修機構 リサーチフェロー

【事例紹介(1)】

〈かなで〉における人事の取り組み

人見 誠 株式会社みずほフィナンシャルグループ 執行理事 人事業務部長

【事例紹介(2)】

「ジョブ型」と「キャリア自律」のリアルケース

中西 敦 株式会社リクルートスタッフィング 人事部長

【パネルディスカッション】

コーディネーター:濱口 桂一郎 労働政策研究・研修機構 労働政策研究所長

パネルディスカッションの記録はこちらです。

https://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20230209/houkoku/06_panel.html

濱口 昨今、「ジョブ型」という形でいろいろと働き方や雇用システムの見直しに関心が高まっていることもあり、今回は「日本の人事制度・賃金制度『改革』」を労働政策フォーラムのテーマとしました。まさに現場で人事制度をつくってこられた企業と、日本企業を横と縦の観点から分析してきた研究者というそれぞれの立場から、日本社会で話題になっている人事制度改革についてコメントをお願いします。・・・・

 

 

久本憲夫・瀬野陸見・北井万裕子『日本の社会政策[第3版]』

867a8d8cade64ef5b3641ba2f15ec92d 久本憲夫・瀬野陸見・北井万裕子『日本の社会政策[第3版]』(ナカニシヤ出版)をお送りいただきました。

https://www.nakanishiya.co.jp/book/b623773.html

日本の社会政策をトータルに解説。最新の政策動向を網羅し、社会問題を考える上での基礎知識を提供する決定版。

初版と第2版は久本さんの単著でしたが、今回は恐らくお弟子さんに当たるお二人が共著者となっています。全13章のうち久本さんが執筆しているのは3章だけですが、その一つの第2章「日本的雇用システム」の章末の課題には、こんな問題が・・・。

(2)ジョブ型雇用については、論者により定義が錯綜している。それらについて共通点と相違点をまとめてみよう。

(3) 50年以上前から日本的雇用システムは崩壊しつつあるといわれてきた。なぜだろうか。理由を考えてみよう。

 

 

 

 

 

 

2023年4月24日 (月)

「労働者災害『補償』保険」@『労基旬報』4月25日号

『労基旬報』4月25日号に「労働者災害『補償』保険」を寄稿しました。

 我々が普通「労災保険法」と呼んでいる法律の正式名称は、もちろんご存じの通り「労働者災害補償保険法」です。あまりにも日常的に目にしているので何の違和感も感じないかも知れませんが、よく考えると労働災害の「補償」の保険とはどういう意味なのでしょう。素直に考えると、労働基準法第8章に基づき労働災害の「補償」義務を負っているのは使用者であるので、その「補償」責任を担保するための保険だということになりそうですが、でも労災保険法はそういう仕組みではありません。現在の労災保険法第1条はやたらに複雑怪奇な条文になってしまっていますが、1947年4月に制定された時の第1条は次のようになっていました。
第一条 労働者災害補償保険制度は、業務上の事由による労働者の負傷、疾病、癈疾又は死亡に対して迅速かつ公正な保護をするため、災害補償を行い、併せて、労働者の福祉に必要な施設をなすことを目的とする。
第二条 労働者災害補償保険は、政府が、これを管掌する。
 このように、政府が管掌する労災保険制度が直接労働者の災害を補償するのです。労働基準法の使用者の災害補償責任に基づく補償給付自体を保険対象としているわけではありません。これは、実は労災保険法制定過程で変遷した点です。
 最初に厚生省事務局が作成した労働者災害補償保険金庫法案要綱は、戦前の労働者災害扶助責任保険法と同様に、使用者の災害補償責任を保険対象とする自賠責型の制度でした。
第1 労働者災害補償保険は労働基準法に基づく使用者の災害補償の責任を保険すること。
第2 労働者災害補償保険は労働者災害補償保険金庫(以下金庫と称する)が之を行ふこと。
第3 労働基準法案第7条第3号、第5号及び第6号中林業に関する事業の使用者は金庫と保険契約を締結すること。
 注)前項に定める以外の事業の使用者は金庫と任意に保険契約を締結することができること。
第4 保険契約者を以て保険金受取人とすること。
第7 保険契約者又は保険金受取人が左の場合に該当したときは金庫は保険金の全部又は一部を支払はないことが出来ること。
 一 告知義務を怠つたとき
 二 故意又は重過失によつて保険料の払込を遅滞したとき
 三 使用者又は労働者の重過失に因つて保険事故を生じたとき
 次に作成された労働者災害補償責任保険法案要綱は、金庫ではなく政府管掌としながらも、その構造は依然として使用者の災害補償責任を保険するものでした。
第1 労働者災害補償責任保険においては、労働基準法及び船員法に基く使用者の災害補償の責任を保険するものとすること。
第2 労働者災害補償責任保険は、政府がこれを管掌すること。
第4 この法律で保険契約者とは前条第1項及び第2項の事業の使用者を謂ふこと。
第5 この法律においては保険契約者を以て保険金受取人とすること。
第13 第3条第1項の強制適用事業の使用者は、政府と保険契約を締結しなければならないこと。但し労働基準法案第87条の場合においては元請負人又は生産責任者において保険契約を締結しなければならないこと。
第23 保険金受取人の行方不明、資力薄弱其の他の事由によつて補償を受けること困難なりと認める場合は、補償を受ける者に保険金を支払ふことができること。
第24 保険契約者又は保険金受取人が左の場合に該当したときは、保険金の全部又は一部を支払はないことができること。
 1 保険契約者が悪意又は重大な過失によつて保険料算定の基礎である重要な事実を告知しないとき又は其の事実について不実の告知を為したとき
 2 保険契約者が故意又は重大な過失に因つて保険料払込を遅滞したとき
 3 保険契約者又は保険金受取人が故意又は重大な過失によつて補償責任の原因である事故を発生させたとき
 ところが、こういう案に対してGHQは「保険契約者を保険受取人にすると使用者が保険金を中間搾取する恐れがあること、使用者の不実の告知や保険料滞納により労働者が支給制限を受けるのは不合理であること」を指摘し、三〇余回にわたる折衝の末、今日の労災保険法の原案が作成されたのです。
 これによって、使用者の災害補償責任を担保する責任保険ではなくなったのですが、とはいえ労働者の労働災害それ自体をを険する特殊な医療保険たる労働者災害保険になったのかというとそうでもなく、「補償」という二文字が残されました。一体これはどういう意味なのでしょうか。
 本法制定の責任者であり、本法施行時の労災保険課長であった池辺道隆は、著書『最新労災保険法釈義』(三信書房、1948年)で、「労災保険は、労働基準法によつて使用者に課せられた災害補償義務を、政府が使用者に代わつて行う制度である」と述べ、それを示すのが労働基準法第84条であると論じます。
 (他の法律との関係)
第八十四条 補償を受けるべき者が、同一の事由について、労働者災害補償保険法によつてこの法律の災害補償に相当する保険給付を受けるべき場合においては、その価額の限度において、使用者は、補償の責を免れ、又は命令で指定する法令に基いてこの法律の災害補償に相当する給付を受けるべき場合においては、使用者は、補償の責を免れる。
② 使用者は、この法律による補償を行つた場合においては、同一の事由については、その価額の限度において民法による損害賠償の責を免れる。
 責任保険ではないけれども補償保険ではあるというこの説明は、厚生省から労働省が分離独立するという時期に、新設の労災保険法の所管をめぐって厚生サイドと労働サイドが綱引きをしていたという時代背景を抜きには理解できないでしょう。
 当時、労災保険を労働省において所管すべきとする理由を、部内資料(『労災補償行政史』労働法令協会)1961年)所収)は次のように述べていました。
 理論上の理由
一 労働者災害補償保険は憲法第27条に基づいて規定された労働条件を保険化したものであつて、憲法第25条に云う社会保障を目的とする他の社会保険とは根本的に異る。
二 従つて、将来疾病、老齢その他人間不可避の事故について一般国民を対象とする社会保障法が制定される場合に於ても、これと、企業経営の責任上、当然の義務として労働者の災害を賠償すべしと云う理論に基く労働者災害補償保険は性質上峻別すべきものである。・・・
 この後、実際上の理由、歴史的な事情が延々と綴られていますが、要するに労災保険が労働基準法から切り離されて厚生省の健康保険に吸収されてしまわないために、この「補償」の二文字が労働基準法と労災保険法をがっちりとつなぎ止める「かすがい」の役割を果たしたわけです。
 しかしながら、その「かすがい」が、逆に労災保険制度の独自の発展を抑制する「足かせ」となり、それを少しずつ解除するのに大変な労力を要することになりました。ある意味で労災保険法75年の歴史は、この有難い「かすがい」を断固として維持しながら、厄介な「足かせ」をはずして、労働基準法の災害補償規定を超えたさまざまな制度を展開していくという無理ゲーを繰り返してきた歴史であったと言っても過言ではないでしょう。
 まず、責任保険ではないことになったはずなのに、なぜかその名残のように制定当時存在していた使用者責任による給付制限規定は、1965年改正でようやく削除されました。
第十七条 事業につき保険関係の成立している事業についての使用者(以下保険加入者という。)が、保険料算定又は保険給付の基礎である重要な事項について、不実の告知をしたときは、政府は、保険給付の全部又は一部を支給しないことができる。
第十八条 保険加入者が、故意又は重大な過失によつて保険料を滞納したときは、政府は、その滞納に係る事業について、その滞納期間中に生じた事故に対する保険給付の全部又は一部を支給しないことができる。
第十九条 故意又は重大な過失によつて、保険加入者が、補償の原因である事故を発生させたとき、又は労働者が、業務上負傷し、若しくは疾病に罹つたときは、政府は、保険給付の全部又は一部を支給しないことができる。
 池辺名著はこれについて、「この事業の目的を完遂しその円滑な運営を図るためには、これを阻害する事態の発生を防遏しなければならない。そこで、次のような場合は、本保険の円滑な運営を阻害することとなるので、これに対しては制裁として、保険給付の全部又は一部を支給しないこととしている」と解説していますが、それがまさに上でGHQが不合理だと指摘していたことのはずで、この段階ではまだかなりの程度「責任保険」の尻尾をくっつけていたと言わざるを得ません。
 1965年6月の法改正により、これらのうち使用者の責に帰すべき給付制限はすべて削除され、労働者の責に帰すべき場合のみ残りました。そして、それまで給付制限の対象であった場合に対しては特別の費用徴収がなされることとされました。これでようやく、「責任保険」の尻尾がとれたことになります。
第十九条の二 偽りその他不正の手段により保険給付を受けた者があるときは、政府は、その保険給付に要した費用に相当する金額の全部又は一部をその者から徴収することができる。
② 前項の場合において、事業主が虚偽の報告又は証明をしたためその保険給付が行なわれたものであるときは、政府は、その事業主に対し、保険給付を受けた者と連帯して同項の徴収金を納付すべきことを命ずることができる。
 これに対して、労働基準法の災害補償規定の代行であるという意味での「補償保険」的性格は、基本的に今日に至るまでずっと続いています。ただし、それを超える補償ではない広義の労働災害保険の部分が次第に拡大してきました。これを細かく見ていくと、ほとんど戦後労災保険史の叙述となり、膨大な紙幅が必要となるので、項目だけ挙げておくと、先ず進行したのは労働基準法の3年で打切補償という制約を超えて長期補償を行い、それが1965年改正で年金化したことです。それも「補償給付」と呼ばれていますが、労働基準法上の使用者の補償責任とは別の、いわば労災保険法上の国の補償責任というべきものでしょう。
 次は1972年9月の改正による通勤災害保護制度で、これは法律上、業務災害とは別の「通勤災害」という概念を作って、それも労災保険法に基づく給付の対象とするというやり方をとりました。2000年11月の改正による二次健康診断給付も同じ法技術によっていますが、そもそもこれは災害ではないので、使用者向けの労働福祉事業に対応する労働者向けの附帯給付というべきでしょう。
 「補償保険」的性格が複雑怪奇な法規定をもたらした典型例が、2020年3月の改正で導入された複数事業労働者休業給付や複数業務要因災害に関する保険給付です。働き方改革で副業・兼業を推進するという政策が進められる中で、複数就業者の給付額を非災害発生事業場の賃金額も合算することや、複数就業先での業務上の負荷を総合して認定することが、労災保険政策として行われる一方で、労働基準法上の使用者責任はそのままとしなければならないという条件をクリアするためには、そういうやり方をせざるを得なかったのでしょうが、ただでさえ読みにくい労災保険法がますます解読不能な代物になっていったことは間違いありません。なにしろ、現在の労災保険法第1条はこうなのです。
第一条 労働者災害補償保険は、業務上の事由、事業主が同一人でない二以上の事業に使用される労働者(以下「複数事業労働者」という。)の二以上の事業の業務を要因とする事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害、死亡等に対して迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い、あわせて、業務上の事由、複数事業労働者の二以上の事業の業務を要因とする事由又は通勤により負傷し、又は疾病にかかつた労働者の社会復帰の促進、当該労働者及びその遺族の援護、労働者の安全及び衛生の確保等を図り、もつて労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする。

 

 

シフト制勤務は非正規労働者の50.2%@『労務事情』5月1日号

B20230504  『労務事情』5月1日号の「数字から読む日本の雇用」に、「シフト制勤務は非正規労働者の50.2%」を寄稿しました。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20230501.html

 コロナ禍では、シフト制勤務の労働者がシフトカットされても休業扱いされないなど、多くの問題が表出して対策が迫られました。今まで政策課題とされてこなかったこともあり、そもそもシフト制勤務の労働者がどれくらいいるのか、どういう働き方をしており、どんな問題があるのかを、エピソード的にではなく相当規模のアンケート調査で明らかにしたものはありませんでした。JILPTでは非正規労働者1万人に対するWebアンケート調査を行い、その結果を先日公表しましたので、その中から興味深いデータをいくつか紹介しておきましょう。・・・・

 

 

 

『人事・労務の手帖2023年版』

86326349 産労総合研究所・編『人事・労務の手帖2023年版―人材マネジメントのシフトチェンジ―』をお送りいただきました。

https://www.e-sanro.net/books/books_jinji/romukanri/86326-349.html

企業をめぐる環境は様変わりしつつあります。「人的資本経営」が本格的に進展し始めるなか、人事部門の役割もまた、新たな視点で再構築されることになるでしょう。2023年度はまさに、経営と人事のシフトチェンジの成否が問われる1年だと言えます。
本書は、2023年度に対応すべき人事課題を取り上げ、各専門家による実務的な情報をコンパクトに、そしてより実践的な内容でお届けするものです。
ぜひ、皆様のお手元に置いてご活用ください(各種資料・規程例のダウンロードサービス付き)。

内容は以下の通りですが、

  • 第Ⅰ章 人的資本時代への対応
    • 1. 人的資本時代の人事部の役割
    • 2. 人的資本情報開示の現状
    • 3. 人的資本開示時代における福利厚生の可能性
  • 第Ⅱ章 2022~2023年 労働法制と労働判例の動き
  • 第Ⅲ章 変わる職場、変わるマネジメント
    • 1. 産後パパ育休制度の新設
    • 2. LGBTQへの対応
    • 3. 副業・兼業の導入
    • 4. リモートワークとメンタルヘルス
    • 5. 「男女の賃金の差異」の情報公表
    • 6. 野球に学ぶこれからのマネジメント
    • 7. 令和の採用と留意点
  • 第Ⅳ章 歴史に学ぶ人事管理

この中ではやはり、溝上憲文さんによる最後の第四章が面白いです。副題は「キーワードで振り返るジャーナリストが見つめてきた人事の世界30年」というもので、1990年代の吹き荒れるリストラの嵐から始まって、2000年代のロスジェネ世代の誕生、成果主義の台頭と挫折、M&Aの隆盛と合併人事、2008-2009年の年越し派遣村、2015-2016年の長時間労働対策と奔走する人事部、そして最後が人的資本経営の時代というわけで、まことに人事の世界が振り回されてきたキーワードでもってこの30年間の疾風怒濤を概観しています。

 

 

 

2023年4月22日 (土)

ポピュリスト急進右翼の福祉国家へのインパクト@ソーシャル・ヨーロッパ

Se13_20230422110601 例によってソーシャル・ヨーロッパから、ジュリアナ・チュエリの「The populist-radical-right impact on the welfare state」(ポピュリスト急進右翼の福祉国家へのインパクト)。

https://www.socialeurope.eu/the-populist-radical-right-impact-on-the-welfare-state

Radical-right parties are transforming the welfare state, recreating a moral separation between the ‘deserving’ and ‘undeserving’.

急進右翼政党は福祉国家を改造し、「値する者」と「値せぬ者」の間に道徳的分離を再び設けようとしている。

彼女は、右翼政党が福祉や再分配を強調するのを単なるマーケティング戦略だと軽視する学者を批判し、事態はもっと深刻だと述べます。

Radical-right parties’ positions may seem incoherent and inconsistent when viewed through the lens of the traditional left-right division on welfare issues. But in a recent study, I write that this is only because it represents a new form of redistributive logic. Populist radical-right parties are developing a dualistic welfare state. This addresses ‘deserving’ and ‘undeserving’ welfare recipients in very different ways, which go far beyond the notion of welfare chauvinism. 

急進右翼政党のポジションは福祉問題に関する伝統的な左翼-右翼の分断のレンズ越しに見れば不整合で一貫しないものに見えるかも知れない。しかし最近の研究で私はこれが新たな形態の再分配のロジックを現しているからに過ぎないと書いた。ポピュリスト急進右翼政党は二重構造の福祉国家を発展させつつある。これは様々なやり方で福祉の受給に「値する者」と「値せぬ者」を作りだし、これは福祉排外主義の認識を超えるものだ。

For the ‘deserving’ (such as nationals with long employment histories, and pensioners), the populist radical right are defending a protectionist welfare-state logic. For these people, they propose a welfare state based on generous and compensatory policies (pension, child benefits and unemployment benefits).

(長期勤続者や年金受給者の国民のような)「値する者」にとっては、ポピュリスト急進右翼は保護主義的な福祉国家のロジックを擁護してくれる。これらの人々にとっては、彼等は寛大で補償的な政策(年金、児童手当、失業給付)に基づく福祉国家を提起してくれる。

But the radical right proposes that the ‘undeserving’ (for example, foreigners and nationals seen as not contributing enough to the nation, such as the long-term unemployed) should not have full access to collective resources. Instead, they believe this group should remain subject to state discipline and surveillance. Such people’s access to social benefits should be conditioned by ‘workfare’ policies and the strong policing of welfare abuse. Although not introduced by the populist radical right, this coercive approach to the moral obligation to work fits aptly with its authoritarian rhetoric.

しかし急進右翼は、(例えば外国人や、長期失業者のように国家に十分貢献していない国民のような)「値せぬ者」は集団的資源にフルにアクセスできるべきではないと提起する。その代わりに、彼等はこのグループが国家の規律と監視の下に置かれるべきだと信ずる。かかる人々の社会給付へのアクセスは、「ワークフェア」政策と福祉濫用への強力な警戒によって条件付けられるべきである。ポピュリスト急進右翼によって導入されたわけではないが、この道徳的な労働義務への威圧的なアプローチはその権威主義的なレトリックと適合的である。

These positions on the welfare state are, moreover, not empty rhetoric. My work finds that radical-right populists do prioritise distributive issues once in power and that they do make a difference. In negotiations, parties push for policy reforms that align with their distributive agenda—and often succeed in influencing policy. ・・・

これらの福祉国家へのポジションは空疎なレトリックではない。拙著によれば、急進右翼ポピュリストは一旦権力を握ると再分配問題を最優先とし、違いを作り出す。交渉において、各政党はその再分配のアジェンダに沿って政策改革を推進し、屡政策への影響に成功する。・・・

We should not underestimate the impact of the radical right’s new vision for the European welfare state. Populist radical-right parties are transforming the moral dimension of welfare policies. They assert their agenda on issues previously ‘owned’ by mainstream left-wing parties. They also legitimise the idea that the welfare state should be reserved for the ‘deserving’ few. This contributes to the stigmatisation and ‘othering’ of various social groups.

我々は急進右翼の欧州福祉国家の新たなビジョンのインパクトを軽視すべきではない。ポピュリスト急進右翼は福祉国家の道徳的側面を改造しつつある。彼等はかつて主流の左翼政党によって「占有」されていた問題について彼等のアジェンダを主張する。彼等はまた福祉国家が少数の「値する者」のために取っておかれるべきだという考えを正当化する。これは様々な社会集団のスティグマ化と「よそ者化」に貢献する。

The new model of the European welfare state suggests that it is not merely legitimate for the state not to address poverty among its population—but that tackling poverty can be morally wrong. Feeding into the moral separation between ‘deserving’ and ‘undeserving’ is the legitimisation of unprecedented inequality—with the blessing of members of the same working class who have historically been supporters of redistribution, and the backing of mainstream parties.

欧州福祉国家の新たなモデルが示唆するところでは、国家が人口のある部分の貧困に対策を講じないことが単に合法的であるのみならず、貧困対策をすることが道徳的に悪であり得るのだ。「値する者」と「値せぬ者」の間に道徳的分割を導入することは、歴史的に再分配の支持者であり主流政党の支持者であった同じ労働者階級のメンバーの祝福を伴うかつてない不平等の合法化である。

The European welfare state has suffered many shocks since World War II, yet it has remained reluctant to accept high inequality or abject poverty among its population. This era, however, might soon be drawing to an end.

欧州福祉国家は第二次大戦後多くのショックをくぐり抜けてきたが、人口の間に大きな不平等や惨めな貧困を受け入れることにはずっと慎重であった。しかしながら今回はそれが終わりを迎えつつあるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年4月21日 (金)

楽しみに・・・

https://twitter.com/skybeagle_SB58/status/1649070700085510144

Rfa6y6tw_400x400 hamachan先生の新刊楽しみだな。

はい、楽しみに待っていて下さい。

 

 

2023年4月20日 (木)

岸健二編『業界と職種がわかる本 ’25年版』

11493_1681884897 もはや毎年の風物詩となった岸健二さんの『業界と職種がわかる本』の25年版をいただきました。

https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415236711/

これから就職活動をする学生のために、複雑な業界や職種を11業種・8職種にまとめて、業界の現状、仕事内容など詳しい情報を掲載し、具体的にどのような就職活動が効果的か紹介。
実際の就職活動に役立つ就職活動シミュレーションや、最新の採用動向をデータとともに掲載。
自分に合った業界・職種を見つけ、就職活動に臨む準備ができる。

例によって、岸さんの労働あ・ら・かるとの記事を紹介しますが、ちょっと前になりますが、昨年11月に岸さんがJILPTの図書館にいらして、千束屋の看板を御覧になった時のエッセイです。

https://www.chosakai.co.jp/information/alacarte/28612/(千束屋(ちづかや)の看板を見学してきました)

愛読ブログの「hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)」で、労働政策研究・研修機構(JILPT)の労働図書館閲覧室にて『職業紹介と職業訓練 ─ 千束屋看板と豊原又男 ─』が開かれていると知り、早速見学に伺いました。
 労働政策研究・研修機構の労働図書館には、以前は年に1~2度調べものをしに伺っていたのですが、新宿から30分程なのにコロナ禍になって足が遠のいていましたから、3年ぶりくらいです。恥ずかしながら労働図書館の隅に木の看板らしきものがあったような記憶があるものの、それが江戸時代から大正時代まで続いた職業紹介業の看板だとは知らずにいたので、職業紹介事業に関わるようになって三分の一世紀を過ぎた筆者としては、見学しない手はあり得ないと、早速時間を作ったという次第です。
 ということで、今回は受け売り話となりますがご容赦ください。

 約35年前、筆者が職業紹介事業に関心を持ち、当時からあった「職業紹介責任者講習」を受講した時に記憶に残っているのが、江戸時代の職業紹介事業は「けいあん」「口入れ屋」と呼ばれていて、17世紀半ばの頃、江戸の医者大和慶庵が奉公人の斡旋を行ったことから、職業あっせん業の俗称として「けいあん」という用語が使われたという話でした。
 今でも、テレビで時代劇ドラマを見ていると、「口入屋」という看板を掲げた店に、十手を持った当時の捜査官が聞き込みに訪れる場面があって、「この頃は職業安定法も個人情報保護法もなかった時代だしな」と思ったり、飛行機の中で視た10年近く前の映画「超高速!参勤交代」で、「日雇い中間」を活用する場面を見て「これは江戸時代の日雇い派遣じゃないか!」と気づいたりします。モノの本によりますと、江戸時代の口入れ屋は紹介人材の身元保証をした例や、奉公前に衣服を整えてやったり作法を教えたりする例もあったようで、求人需要と求職人材を結び付ける「あっせん(=口入れ)」だけでなく、付加価値を加えて収入増を図った工夫が垣間見えます。
 また大和慶庵は、よほど世話好きだったらしく、縁談の仲介や揉め事の解決の仲介も手掛けたという記述もあり、「けいあん」は人材紹介に限らず、広く周旋者、仲立業、仲介人を指すこともある(あった)ようです。

 労働図書館に入ると、こじんまりした展示ながら、でんと大きく「千束屋」と書かれた看板が置かれていて、裏には平仮名で 「ちづかや」と書かれているのを見ることができました。
 一方、民間職業紹介業界に身を置いて長いのに、恥ずかしながら職業紹介事業の先駆者で東京府職業紹介所長だった豊原又男という方についての知識を全く持ち合わせていなかったので、展示物から得られたものはたくさんありました。
 中でも今回筆者が目を引かれたのは、資料にあった千束屋の宣伝施策です。スマホどころか電話もない江戸時代の宣伝として、社名入りの傘を制作し(資料には記述はありませんがきっと蛇の目傘だったのでしょう)、雨降りの時に芝居茶屋のアルバイトが、観客の家に傘や下駄を取りに行って届ける際にはこの「ちづかや」名入り傘を使用させたりする工夫が功を奏したと書かれていました。
 また水野忠邦の天保の改革の時、「ちづかや」の主要顧客業界であった芝居業界が衰退したわけですが、その時には事業の基礎もできて多方面からの求人求職を多く扱うようになっていたので、地方から江戸にきて仕事を探す奉公人志望人材は、なにしろ芳町の「ちづかや」に行けば飯も喰えると押しかけたそうで、リーマンショックの時、また今般のコロナ禍にあっての職業紹介事業の様子と二重映しになる記述です。

 またWeb検索をしてみますと、「ちづかや」は、落語にも登場しているようです。「百川(ももかわ)」という噺には「日本橋浮世小路にあった名代の料亭百川に、葭町(よしちょう)の桂庵、千束屋から、百兵衛という抱え人が送られてきた。」というくだりがありますし、「化け物使い」という噺には「人使いが荒く使用人が居つかない一人暮らしの隠居のところに、日本橋葭町の桂庵の千束屋の紹介で、杢助さんという無骨な男がやってきた。」というくだりがあります。
 江戸時代から続いた「ちづかや」は、明治、大正の時代になって世の変遷の中、関東大震災前に廃業し、享保の時代からの歴史に幕を閉じたそうですが、その社会的機能は故豊原又男翁による職業紹介所に受け継がれていったのでしょうか。

 筆者のかかわる現在の人材紹介業界が、「仕事を探したいときには何とかしてくれる信頼できる機能」と「必要な時に希望条件に合った人材を速やかに紹介してくれる機能」を、ハローワークと民間職業紹介事業者の連携で、あるいはもっと広く人材ビジネスの広がりの中で、「安心できる情報が得られるチャンネル」となるために、まだまだやるべきことはたくさんあると思いながら、上石神井の坂道を降りて帰路につきました。
『職業紹介と職業訓練 ─ 千束屋看板と豊原又男 ─』は、来年2023年1月20日(金曜)まで、平日9時30分~17時に労働政策研究・研修機構労働図書館で閲覧できます。

Jilptchukai_20230420130101 この千束屋については、先月アップした『労働政策レポートNo.14 労働労働市場仲介ビジネスの法政策―職業紹介法・職業安定法の一世紀―』の冒頭のところでもかなりの紙数を割いて紹介しております。

https://www.jil.go.jp/institute/rodo/2023/014.html

 

これって労務納税か?

こういう仕組みがあるということを、うかつにもこれまで知りませんでした。

https://nordot.app/1021390681798885376(「人材派遣型ふるさと納税」拡大 企業から自治体へ100人超)

2023041900000134kyodonews0003view
 自治体へ社員を派遣した企業の法人関係税を軽減する「人材派遣型企業版ふるさと納税」の利用企業が4月1日時点で30社に達し、滋賀県や宮崎県高原町など36都道府県の83自治体が計102人を受け入れたことが19日、内閣府の調査で分かった。受け入れ人数が初めて100人を超えた。税の軽減幅を最大9割に拡大する制度改正が追い風になり、昨年12月時点の30自治体、26社34人から大きく増えた。
 企業は人件費を寄付として負担し、社員を派遣。社員は任期付き地方公務員として働く。企業側は税の軽減に加え、社員の育成や自治体との関係構築ができ、自治体側は財政負担なく人材を確保し、民間のノウハウを得られる。
 企業版ふるさと納税制度は2016年度に始まり、20年10月に金銭の寄付だけではない人材派遣型が導入された。本社所在地の自治体には寄付できず、企業が多く立地する東京都などは税収減となる。
 内閣府によると、人材派遣型は第一生命保険や南海電気鉄道、九州電力など大手企業を中心に利用されている。 

これはしかし、物納でも金納でもない労務納税とでもいうべきものですね。昔の律令制の租庸調の「庸」か。

 

2023年4月17日 (月)

鈴木恭子「労働に「将来」を読み込む思考はどう構築されたか」@『社会政策』第14巻第3号

620543 社会政策学会の学会誌『社会政策』の第14巻第3号に掲載されている投稿論文、鈴木恭子「労働に「将来」を読み込む思考はどう構築されたか:工場法制定過程におけるジェンダーの差異化」は、恐らく多くの読者にとって思いもよらぬ視角からの論文で、いくつも考えさせられる点を発見できるのではないかと思われます。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b620543.html

【投稿論文】
労働に「将来」を読み込む思考はどう構築されたか:工場法制定過程におけるジェンダーの差異化 (鈴木恭子)

今日雇用労働におけるジェンダー格差の一つの原因となっている「人材活用の仕組みと運用」の背後に、「将来にわたる可能性を含む転勤・昇進の有無」といった「将来を読み込む思考」があると考え、この「思考」がどこで雇用労働に組み込まれたのかを遡っていって、工場法に至り着く、というまことに知的スリリングな論文です。

具体的に工場法のどこがどのようにというのは是非この論文を見て欲しいのですが、元になったイギリス等の工場法では、既婚女性が家を空けたため家庭が崩壊したじゃないか、女性を家庭に戻せ、というのが女子労働規制の根拠であったのに対して、日本の工場法では、未婚女性について将来一家の主婦となり母親となるのだからというのが規制根拠となったという大きな違いがあり、「ヨーロッパの丸写しのようなもの」(@渋沢栄一)といわれながら実は日本独特の思想をインストールするものであったという発見が語られています。

・・・日本の雇用におけるジェンダー平等を目指す上では、私たちがかつてインストールした「将来を読み込む思考」を解除し、現在の処遇から切り離していくことが重要な課題となる。また、そうした思考が女性の役割を本質主義的に捉えることに由来することを認識し、将来にわたる役割期待を根拠とする「コースの異質性」による人事管理が「性差別」であるということを、改めて申し立てていく必要がある。

 

 

 

 

2023年4月14日 (金)

川口美貴『労働法〔第7版〕』

Large_8eaa4c1f143e461c872912918f3f234f 川口美貴『労働法〔第7版〕』(信山社)をお送りいただきました。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b10031110.html

労働法全般にわたる詳細で充実したテキスト。最新の法改正・施行と立法動向に対応。好評テキストが待望の第7版。

2015年に初版を出してもう第7版というスピードで、2018年からは完全に年刊になっています。

毎年動きがあるので改訂したくなる気持ちも分かりますが、この調子でどこまで行くのかという感じもします。

巻末の判例索引を見ると、一番最後の裁判例は昨年7月のヤマサン食品工業事件ですね。うーん、できれば9月の家政婦過労死事件(渋谷監督署長事件)までは入れて欲しかった感もします。

要件と効果、証明責任を明確化。育児介護休業法と関連法令の改正等、新たな法改正・施行と、最新判例・裁判例や立法動向に対応。長年の講義と研究活動の蓄積を凝縮し、講義のための体系的基本書として、広く深い視野から丁寧な講義を試みる。全体を見通すことができる細目次を配し、学習はもとより実務にも役立つ労働法のスタンダードテキスト第7版。

 

 

植村恒一郎氏との拙著をめぐるやり取りの思い出

Mucha1 ミュシャが二流の画家なのか、などという芸術的センスを問われるような議論に参加する気は毛頭ありませんが、そこで「これが真理じゃ、お前ら頭が高い、さあ、こうべをたれよ! 」と水戸黄門の葵の紋を提示されている植村恒一郎さんという名前には、もう今から14年も前になりますが、前の拙著『新しい労働社会』をめぐって何回かのやり取りがあったことを思い出しました。

1回目のやりとりは表層だけなので省略して、植村さんの「charisの美学日誌」2回目と3回目のエントリから。

https://charis.hatenadiary.com/entries/2009/08/05

[読書] 濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書 '09.7.22刊) (その2)
(写真は、「リベラルアーツ7学科」を表す図。大学教育は、「真理は人を自由にする」という根本理念に基づいていた。それは、古代・中世以来の「自由人のための諸技術」「人を自由にする学芸」に由来しており、文法、修辞学、論理学、算数、幾何、天文、音楽の7科目であった。それは、濱口氏の言われる「職業的レリバンス」といかなる関係にあるのだろうか?)
労働と雇用をめぐる慣行や制度は、それが形成された歴史的経緯が分らないと、それぞれがもつ固有の意味が理解できない。労働法の専門家であり、EU諸国の労働政策研究の第一人者である濱口氏による本書から、私はきわめて多くのことを教えられた。その内容を要約して提示することも大いに意義があることだが、せっかくブログにコメントを書くのだから、濱口氏の主張で私がよく理解できなかった点、あるいは、やや違和感を感じた点を中心に書いてみたい。これは、濱口氏を批判したいからではなく、以前から私の心に引っかかっていた問題を、労働や職業という観点から氏が明快に提起されたので、いわば氏の胸を借りて、自分もこの問題を考えてみたいからである。説得力に富む本書を読みながら、私がよく理解できなかったのは、労働や雇用における問題点を解決するためには、教育とりわけ大学教育が「職業的レリバンス(意義)」をもっと持たねばならないという主張である。氏は次のように述べておられる。

> 大学は「学術の理論および応用を教授研究し、その深奥を極めて、文化の進展に寄与する」という建前と、現実の就職先で求められる職業能力とのギャップをどう埋めるのかという課題に直面しています。この問題は、大学教師の労働市場という問題とも絡みますが、いずれ正面から大学を職業教育機関として位置づける必要があるはずです。(p144)
> 現実の教育システムの圧倒的大部分はなお職業への指向性がきわめて希薄なままです。文部科学省管轄下の高校やとりわけ大学が職業指向型の教育システムに変化していくには、教師を少しずつ実業系に入れ替えることも含め、かなり長期にわたる移行期間が必要でしょう。(p145)
> 今後、教育を人的公共投資と見なしてその費用負担を社会的に支えていこうとするならば、とりわけ大学教育の内容については大きな転換が求められることになるでしょう。すなわち、卒業生が大学で身に付けた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされるときに、これはなかなか難しい課題です。(p148f.)

大学もまた「学校」であり、卒業した若者は社会に出て何らかの職業につくのだから、大学が「職業的レリバンス」を持つべきだというのは、一般論としては当然のことである。だが私には、濱口氏の言われる「職業的レリバンス」は、あまりにも狭く性急すぎるように感じられる。そして、本書で氏が力説されるテーゼ、すなわち、日本の雇用慣行には「職務(ジョブ)」概念が希薄であるという根本事実とも矛盾するのではないかと思われる。日本の企業はあくまで「人」を採用するのであり、同じ「人」をさまざまな「職務」に配置転換し、さまざまな「職務」を経験させるのが、日本の企業の労働形態である。中途採用は別として、少なくとも新卒を採用する段階では、企業は汎用性のある能力をもつ「人」を求めているのであり、ある「職務」だけをこなす職人を求めているのではない。とすれば、大学教育において求められる「職業的レリバンス」は、特定の「職務」を指向した職人的なものではなく、汎用性のある基礎学力のようなものではないだろうか。技術革新が急激に進み、企業も従来はなかった新しい分野の「職務」をこなさなければならない今日、そうした新しい「職務」をこなすための教育は企業内で行われるのがもっとも効率的であり、学校教育においては、どのような特定の「職務」にも対応できるような汎用性のある基礎学力を養うことが重要であり、それこそが学校でしかできないことであるように思われる。
ヨーロッパの大学の基礎理念となった「自由学芸=リベラルアーツ=教養」とは、本来、そのような汎用性のある知を意味しているのであり、専門的な職業のためには、まずそれが前提にならなければならないのである。具体的には、リベラルアーツを学んだ後に、医学、法学、神学など、それぞれの職業に向けた専門科目が学ばれた。医学、法学、神学などは、ある程度マニュアル化できる専門知であり、たしかに「職業的レリバンス」が見て取りやすい。しかし、知の本当の力は、マニュアル化できない暗黙知の汎用性にあり、「自由学芸」なしには、職業的な専門知も成り立たないのである。
今日の職業状況を見ても、医者、法律家、聖職者、学校教師などは、その資格が国家試験などによって管理されており、医学部、法学部、教育学部、仏教大学、キリスト教の神学部などは、「職業的レリバンス」が明確である。だが、医者の不足が社会問題化し、教師が子どもや学校の変容に苦労し、司法の硬直を打破するために司法試験改革、法科大学院、裁判員制度などが作られたのはなぜだろうか? まさにマニュアル化した専門知・職業知が硬直化し、市民的常識と乖離したことが批判されているのではないだろうか。今、大学教育や大学卒業者に不足しているのは、かつての「自由学芸」が担ったような、汎用性のある基礎学力である。教養の衰退といってもよい。『大学の反省』という優れた本を書かれた経済学者の猪木武徳氏は、J・H・ニューマンを引用して次のように述べられている。

>大学の本分は、知性の養成に専念することにある。知性の養成が必要なのはなぜか。それは「知性を酷使している人たち」が見失っているものを回復するためであるという。・・・これらの人々が見失った力とは何か。それは「多くの事柄を先後なく同時にひとつの統合体として考察する力、それらひとつひとつを普遍的な体系のしかるべき場所に位置づける力、それらひとつひとつの価値を理解する力、それらの相互依存関係を判定する力」である。知的な力の中では、判断力が人生において人を導く・・・・(『大学の反省』 NTT出版 2009, p270)

ここで言われている「知の力」は、まさに濱口氏が本書を書いた優れた視点、すなわち、「雇用システムを、法的、政治的、経済的、経営的、社会的などのさまざまな側面が一体となった社会的システム」として捉える視点である。自分の専門知の次元に自足する経済学者には見えない全体像が、濱口氏には見える。そして、司法改革もまた「知性を酷使している人たちが見失っているもの」を回復しようとする、「判断力の復権」を指向している。
大学が「職業的レリバンス」を持たなければならないと主張されるとき、そこで何が考えられているのかが問題である。医学部、法学部、工学部、農学部、理学部、文学部、神学部などの、伝統的ないわゆる「一文字」学部は、かつては専門性が明確であり、「職業的レリバンス」もそれなりに見やすかった。だが、現在では、大学の学部段階で専門知を習得することは不可能であり、むしろ必要なのは、将来、職場で必要になる専門知を硬直させないための教養知であり、要するに、大学のすべての学部が「教養学部化」することが望ましい方向であると私は考える。
もちろん、濱口氏が大学教育の「職業的レリバンス」を強調されるのは、日本的な雇用慣行、すなわち同じ会社に「人」が一生帰属するのは、決して望ましいことではなく、「職務」指向の職業的専門知を磨いた人間が、会社を自由に変わりながら生活できるような、個人を中心とした生き方に転換すべきだという、きわめてまっとうな考え方が背景にある。この考え方には、私は全面的に賛成であるが、それには大学教育における「職業的レリバンス」概念の一層の深化が必要であり、たんに実学にすればよいというものではない。自由学芸の7学科には修辞学や音楽も含まれていた。なぜそのようなものが含まれているのか、それは、個人の人生全体の幸福というものを考慮したとき、はじめて納得できるのではないだろうか。教育における「職業的レリバンス」という濱口氏の主張には、女性の場合にはどうなるのか、あるいは吉川徹氏が『学歴分断社会』で明らかにしたような、高卒と大卒の分断線という問題がどう関るのかなど、私にはまだよく理解できない部分があるので、その点も少し考えてみたい。(続く) 

https://charis.hatenadiary.com/entries/2009/08/06

[読書] 濱口桂一郎『新しい労働社会』(岩波新書 ’09.7.22刊) (その3)
(写真は、2009年正月、日比谷公園の炊き出しに並ぶ、「年越し派遣村」の失業者たち。)
日本では年功賃金制度が支配的であるが、年齢とともに給与が上昇するのは、育児や教育などに金のかかる世代には手厚く支払う「生活給」の考えに基づいているからである。濱口氏は第3章の一節で、生活給制度のメリットとデメリットを論じている(p121〜6)。
まずメリットは、(1)労働者にとって、生活の必要に応じた賃金が得られることは、長期的な職業生活の安心を与える。(2)使用者側にとってメリットはなさそうに見えるが、そうでもない。企業は、急激な技術革新に対応して労働者の大規模な配置転換をせざるをえないが、その際、職務給だと、配置先によって職務が異なり不公平感が生じる。年齢給ならそのようなことはないし、長期に勤めるほど給与が上がるので、労働者に会社への忠誠心を芽生えさせられる。(3)政府にとっては、育児、教育、住宅といった社会政策的な費用を企業に負担させることによって、公的支出を節約できる。
デメリットは、(1)労働者にとっては、若い頃の低給与を中高年の高給与で取り戻さなければならないから、同一企業へ勤務し続けなければならず、移動のインセンティブが失われる。会社が倒産したら困るので、そうならないよう一生懸命働かざるをえない。転勤も断れないし、長時間労働も厭わず働かざるをえない。(2)使用者にとっては、中高年の高給与が負担であり、団塊世代のようにそこだけ人が多いと特に負担増。(3)政府にとっては、生活給をもらえる正社員になれなかった低給与の非正社員が大量に生じて、ワーキングプア化したために、かえって将来の社会保障的コストが増大し、少子化の原因にもなっている。
このように見ると、メリットとデメリットは表裏一体の関係にあることが分るが(p124)、しかし私のような素人から見ると、日本の長期雇用、年功賃金制度というのは、労働者にとってはメリットの方が大きく、使用者や政府にとっても悪くない制度のように思われる。多くの正社員やその家族は、残業があっても収入が多い方がよいと考えるだろうから、長時間労働も簡単にはなくならないのではないか。一番重要な問題は、生活給を保証する正社員システムから排除された低収入の非正規労働者をどのように救済するかだが、「派遣の製造業への禁止」などの場当たり策では解決にならないと、専門家の濱口氏は第2章で詳細に問題点を論じている。しかし一方では、大きなメリットをもつ長期雇用・年功賃金制度を一気になくし、制度をゼロからリセットするというのは非現実的だろう。一時喧伝された「成果主義」も、そもそも給与が「職務」に対応していないのだから、あまりうまくいっていない。長期雇用・年功賃金制という屋台骨を破壊しなければならないほどの積極的な理由を、私は濱口氏の叙述の中には読み取れなかった。
さて、私にとっての疑問は、労働や雇用をめぐる以上のような状況から、なぜ教育システムにおける「職業的レリバンス」の強化という主張が論理的に導出されるのか、よく理解できなかったことである。若者がフリーターや無業者にならないために、とにかく何とか食べていけるだけの技術や技能を身に付けさせるべきだという主張はよく分る。しかし逆に、若者に学校時代に特定の技術習得だけを習得させることは、その技術によって一生生きていくように、若者の人生を固定化することでもある。また、4年制大学への進学率が大きく上昇した女性についても、大学における実業教育が、女性の人生に伴う出産・子育てなどと両立する上でどうプラスになるのか、よく読み取れなかった。人間の職業を職人のモデルによって捉え、若い時点で人生を決めさせるのが良いことなのかどうか? 日本で職業高校がうまく機能しなかったこと、また、世界的に見ても先進国では大学進学率が上昇していることを考慮すると、若者は汎用性のある基礎知識をまず学び、どのような職業を選択するかはなるべく遅く決めて、それぞれの「職務」に必要な知識や技能は、それ自身がどんどん変わるのだから、働きながら学ぶというのが、人間の欲望にも適った生き方だと私は思うのだが、さていかがなものだろうか。(終り) 

これに対する私のレスポンスがこれです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/charis-772a.html

 charis氏の拙著に対する3回シリーズの批判が終わったようですので、若干のコメントを述べておきたいと思います。

まずはじめに申し上げておきますと、charisさんはいささかわたくしを急進的な改革論者という風に認識されすぎておられるのではないかと感じました。わたくしのモットーは、認識論的にはラディカル(根底的に考えるということ)に、実践論的にはリアリストであれ、というところにありますので、

>長期雇用・年功賃金制という屋台骨を破壊しなければならないほどの積極的な理由を、私は濱口氏の叙述の中には読み取れなかった。

などという急進的な主張をした覚えはないのですが。むしろ、短期的にはそんなことは不可能だし無理にやったら社会全体にとんでもない影響を及ぼすから、短期的な対策としては非正規の初任給を正規に合わせて勤続に応じて上げていくしかなかろうというまことに保守的な提案をしています。

また、まさに今までの日本では圧倒的に

>しかし私のような素人から見ると、日本の長期雇用、年功賃金制度というのは、労働者にとってはメリットの方が大きく、使用者や政府にとっても悪くない制度のように思われる。多くの正社員やその家族は、残業があっても収入が多い方がよいと考えるだろうから、長時間労働も簡単にはなくならないのではないか。

ということを述べているわけで、日本の労働者やその家族がこれまでと変わらずにそれを求め続けるのであれば、それでよいわけです。ただし、それなら長時間労働に文句を言ってはいけないし、転勤に文句を言ってはいけないし、シングルマザーや就職氷河期の諸君には可哀想だが我慢してもらいましょう、というだけの話であって、そこの価値判断を押しつけるつもりもありません。

ただ、マクロ社会的にそれでサステナブルか、という問いに対しては、そうとはいえないでしょうと私は認識しているということであって、であるとすれば中長期的にはある程度の改革-ほどほどのジョブ性とほどほどのメンバーシップ性-という方向に向かうことになるのではなかろうか、とすると、社会システムはお互いに補完性を有していますから、社会保障制度や教育制度も変わっていかざるを得ないでしょうね、という筋道です。

ここのところについては、異なる認識に立って議論を展開することは十分可能ですし、charisさんがそのような立論をされることは大いに大歓迎です。ただし、ここが私にとってはきわめて重要ですが、いかなる立場をとるにせよ、その立場をとることの論理的帰結は、いかにそれが醜悪に見えようとも、きちんと引き受ける必要があります。世の多くの議論が「駄目」なのは、そこのところがいい加減で、あっちの土俵ではああいい、こっちの土俵ではこういう、といういいとこ取りを平気でやる人が多いからです(とわたくしは考えています)。

日本型雇用システムに整合的に形成された教育制度を変える必要がない、という立論を(自分の職業的利害とは別立てに)論ずるのであれば、そのことの論理的帰結としての無制限の長時間労働や女性のキャリア形成の困難さや就職氷河期の若者やらについても、メリットのあるシステムを維持するためのコストとしてやむを得ないものであるから我慢せよと明確に主張しなければなりません。charisさんはほぼそのように主張されているように思われますので、わたくしからすると尊敬すべき態度であると見えます。

以上は主として雇用システムのあり方についての議論ですが、おそらくcharisさんがこの批判をされた大きな動因は、職業レリバンス論への違和感であったようです。

この点についてはじめに誤解を解いておきますと、ここでいう「職業レリバンス」とは本田由紀先生が『若者と仕事』で提起された概念で、ジョブに密接につながるものです。ですから、以下の記述はおそらく拙著の誤読によるものと思われます

>濱口氏の言われる「職業的レリバンス」は、あまりにも狭く性急すぎるように感じられる。そして、本書で氏が力説されるテーゼ、すなわち、日本の雇用慣行には「職務(ジョブ)」概念が希薄であるという根本事実とも矛盾するのではないかと思われる。日本の企業はあくまで「人」を採用するのであり、同じ「人」をさまざまな「職務」に配置転換し、さまざまな「職務」を経験させるのが、日本の企業の労働形態である。中途採用は別として、少なくとも新卒を採用する段階では、企業は汎用性のある能力をもつ「人」を求めているのであり、ある「職務」だけをこなす職人を求めているのではない。とすれば、大学教育において求められる「職業的レリバンス」は、特定の「職務」を指向した職人的なものではなく、汎用性のある基礎学力のようなものではないだろうか。

まさにそのとおりで、今までの日本の雇用システムでは、ジョブ型の職業レリバンスなどは不要であったわけです。「人間力」を求めていたわけです。そういうのを「職業レリバンス」とは呼びません。いや、オレはどうしてもそう呼びたいというのを無理に止めませんが、そうするとまったく正反対のジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性を同じ言葉で呼ぶことになってしまい、思考の混乱をもたらすでしょう。このへん、charisさんは哲学者であるはずなのに、わたくしの雇用システムの認識論と、これからの社会のあり方についてのべき論とをいささか混交して読まれているようです。

ただし、実はここで日本型雇用システムが要請する職業レリバンスなき大学教育は、charisさんが希望するようなリベラルアーツ型のものでは必ずしもありません。ここは、本ブログでも何回か書いたところですが、企業がなぜ法学部卒や経済学部卒を好んで採用し、文学部卒はあまり好まないのか、教育の中身が職業レリバンスがないという点では何ら変わりはないはずなのに、そのような「差別」があるというのは、法学部、経済学部卒の方が、まさにジョブなき会社メンバーとして無制限のタスクを遂行する精神的な用意があると見なされているからでしょう。逆にリベラルアーツで世俗に批判的な「知の力」なんぞをなまじつけられてはかえって使いにくいということでしょう。まあ、とはいえこれは大学教育がそれだけの効果を持っているというやや非現実的な前提に立った議論ですので、実際はどっちみちたいした違いはないという方が現実に近いようにも思われます。

それにしても、ここで、charisさんの希望する「人間力」と企業が期待する「人間力」に段差が生じていることになります。日本型雇用システムは、(本来職業レリバンスがあるべきであるにもかかわらず)職業レリバンスなき法学部教育や経済学部教育とは論理的な関係にありますが、もともと職業レリバンスがないリベラルアーツとは直接的な論理的因果関係はありません。

では、高度成長期に法学部や経済学部だけでなく文学部も大量に作られ膨張したのはなぜか、というと、これはcharisさんにはいささか辛辣なものの言い方になるかも知れませんが、企業への男性正社員就職としてはハンディキャップになりうる点が、男女異なる労務管理がデフォルトルールであった時代には、むしろ一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますという暗黙のメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。

そういう男女の社会的分業体制まで含めて日本型雇用システムと呼ぶならば、もともと職業レリバンスのない文学部の膨張もまた、日本型雇用システムの論理的帰結ということができます。なによりも、そのような大学生活のコスト及び機会費用をその親が負担することが前提である以上、ちょうど子どもが大学に進む年代の親の賃金水準がそれを賄える程度のものであることが必要なのですから、その意味でもまさにシステムの論理的帰結です。

このようなリベラルアーツの「社会的レリバンス」(トータルの社会システムがそれに与えている社会的意味)が、当該リベラルアーツを教えておられる立場の方にとっては、必ずしも愉快なものではないことは想像できます。しかし、社会の認識は愉快不愉快によって左右されるべきものではありません。

かつて、このあたりについて次のように論じたことがありますが、考え方はまったく同じです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。

このほかのレリバンス論シリーズとして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

なお、最近のものとして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/vs_3880.html(爆問学問 本田由紀 vs 太田光)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-28b3.html(一度しか来ない列車)

これに対する植村さんの「お答え」がこれです。

https://charis.hatenadiary.com/entries/2009/08/07

 [議論] 濱口桂一郎氏へのお答え

(写真は、リベラルアーツの源流の一人プラトン(左)。体育、音楽、文芸、算数、幾何、天文を学ぶことの重要性を説いた。)

濱口桂一郎『新しい労働社会』についての私の書評に対して、濱口氏がご自分のブログで丁寧なコメントをくださった。そのことを感謝するとともに、こうして著者と直接意見の交流ができるブログは、つくづく有難いものだと思う。↓
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/charis-772a.html

本書における労働と雇用をめぐる濱口氏の現状分析は見事なものであり、その部分については、コメントで氏が述べられたことも含めて、私には異存はない。私が氏と大きく見解を異にするのは、大学教育が持つべき「職業的レリバンス」についてであり、コメントによって氏の見解がさらに詳しく示されたので、再度私の見解を述べてみたい。以下、>に続く文章は、氏のコメントからの引用。

>まさにそのとおりで、今までの日本の雇用システムでは、ジョブ型の職業レリバンスなどは不要であったわけです。「人間力」を求めていたわけです。そういうのを「職業レリバンス」とは呼びません。いや、オレはどうしてもそう呼びたいというのを無理に止めませんが、そうするとまったく正反対のジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性を同じ言葉で呼ぶことになってしまい、思考の混乱をもたらすでしょう。

本書では、「職業的レリバンス(意義)」という言葉を濱口氏は、本田由紀氏の著作を引用する形で述べられており(p136)、完全に肯定的に引用されているので、私には、本田氏と濱口氏の「職業的レリバンス」という概念の細部の違いは分らない。私はこの言葉を本書で初めて知ったので、私が述べたような「リベラルアーツにもとづく汎用性のある基礎学力」を、そういうものは「職業的レリバンス」と呼びたくないと言われるなら、それはそれでよい。「職業的レリバンス」という言葉はそれほど一般的でも自明でもないので、議論を通じてその意味を正確に規定してゆけばよいからである。

しかしまた、私は「人間力」という言葉を使っていないし、使うつもりもない。濱口氏が、「あなた(charis)が「職業的レリバンス」と呼んでいるものは「職業的レリバンス」ではぜんぜんなくて、「人間力」のことですよ」と言われるならば、そんな曖昧な言葉に「リベラルアーツ」を勝手に言い換えてもらっては困る。「リベラルアーツ」という概念は、プラトンがアカデメイアで青年が学ぶ科目として考えたことに始まり、職業人として専門家を養成する機関としての大学に不可欠なものとして、長い歴史の中で形成されたものである。どうして「職業的レリバンス」と無関係なものでありえようか。大学は社会の一部であり、しかも公的な存在であるから、大学で学ぶことは何らかの意味で、社会的な意義を持たなければならない。その「社会的な意義」を一番根本的なところから考えてゆき、その意義の一部が狭義の「職業的レリバンス」になるだろう。

濱口氏は、「ジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性」という区別をされているから、これを援用するならば、大学教育のもつべきレリバンスは、「ジョブ型の有用性と非ジョブ型の有用性」という二つの有用性とどのような関係にあるのか、というように問題を立てることができるだろう。

>実はここで日本型雇用システムが要請する職業レリバンスなき大学教育は、charisさんが希望するようなリベラルアーツ型のものでは必ずしもありません。・・・企業がなぜ法学部卒や経済学部卒を好んで採用し、文学部卒はあまり好まないのか、教育の中身が職業レリバンスがないという点では何ら変わりはないはずなのに、そのような「差別」があるというのは、法学部、経済学部卒の方が、まさにジョブなき会社メンバーとして無制限のタスクを遂行する精神的な用意があると見なされているからでしょう。逆にリベラルアーツで世俗に批判的な「知の力」なんぞをなまじつけられてはかえって使いにくいということでしょう。

なるほど、卓見である。法学部・経済学部卒ならば、長時間労働の強制に少しも疑問を抱かず、無邪気な企業戦士として使いやすいが、文学部卒ならば世俗に批判的な「知の力」なぞもっている可能性があるから使いにくいのだ、と。しかし、もしそうであるならば、長時間労働を批判し、無邪気な企業戦士としての正社員を中心とする日本的雇用を変えてゆくべきだと主張される濱口氏は、リベラルアーツ型の大学教育こそ大いに支持されるのが「論理的帰結」ではないだろうか? 氏が力説されるワークライフバランスのある働き方とは、無邪気な企業戦士的な価値観からもっと自由になろう、人間らしく生きようということであろう。それならば、「ジョブ型の有用性」にだけ氏の関心が向くのは矛盾しているのではないだろうか?

>それにしても、ここで、charisさんの希望する「人間力」と企業が期待する「人間力」に段差が生じていることになります。日本型雇用システムは、(本来職業レリバンスがあるべきであるにもかかわらず)職業レリバンスなき法学部教育や経済学部教育とは論理的な関係にありますが、もともと職業レリバンスがないリベラルアーツとは直接的な論理的因果関係はありません。

濱口氏の認識が読み取れる貴重な一文である。法学部や経済学部教育には、本来、職業レリバンスがあるべきなのに、現実の日本の法学部・経済学部教育には職業レリバンスがない。だから、もっと職業レリバンスをもってもらわなくては困る。それに対して、文学部で教育されるリベラルアーツには、その本来の意義からして、職業レリバンスなどないのから、現実の日本の文学部教育に職業レリバンスがなくても、それはそもそも労働や雇用の外部の話だ、勝手にしてくれ、と。だが、濱口氏よ、ちょっと待っていただきたい。以下は、日本の大学の学部別の人員構成である。
20090807230421
日本の大学には実に多様な学部があることが分る。文学部は全体のたった5.9%を占めるだけである。法学・経済だけでなく、工学部、医学部、歯学部、薬学部、看護学部、教育学部、家政学部、芸術学部などがあるが、これらの学部は、法学・経済学部に比べると、はるかに卒業後の職業に直結していないだろうか? 家政学部は、女性の仕事を念頭において創られているのではないのか? これらの学部教育に「職業レリバンス」がないとでも、濱口氏はお考えなのだろうか? まず、濱口氏が誤解されているのと違って、リベラルアーツというものは、文学部にある(?)「世俗を斜めの視線で見る超俗の価値観」などではない。これら多様な学部がそれぞれの職業と結び付き、それぞれの「職業的レリバンス」を持ちうるためにも、共通の前提となる「教養知」のことである。古代中世ではなく、現代の大学の言葉に言い換えるならば、「市民的な共通感覚sensus comunis」を養うための、どの学部でも学ぶべき共通の知のことである。決して文学部だけにあるものではない。そもそも濱口氏の文学部に対する認識には偏ったところがある。

>高度成長期に法学部や経済学部だけでなく文学部も大量に作られ膨張したのはなぜか、というと、・・・むしろ一生会社勤めしようなどと馬鹿げたことを考えたりせず、さっさと結婚退職して、子どもが手がかからなくなったらパートで戻るという女性専用職業コースをたどりますという暗黙のメッセージになっていたからでしょう。あるいは、結婚という「永久就職」市場における女性側の提示するメリットとして、法学部や経済学部なんぞでこ難しい理屈をこねるようになったかわいくない女性ではなく、シェークスピアや源氏物語をお勉強してきたかわいい女性です、というメッセージという面もあったでしょう。

今日、文学部は大学全体で僅かな比率を占めるだけだし、女性は主として文学部にいるわけでもない。4年生大学の進学率が50パーセントを超えた今日、女子学生は多様な学部に属している。氏のリベラルアーツ認識が貧困なのは、文学部に対する認識が貧困であることのまさに「論理的帰結」ではないだろうか。今日は、これ以上論じられないが、大学における「職業的レリバンス」というものは、男性も女性も等しく働くようになった今日、「ジョブ型の有用性」よりももっと広く深いレベルから考え直されるべきであると思われる。私はもちろん「ジョブ型の有用性」を否定しない。しかし、大学の学部の多様性から見ても、すでに「ジョブ型の有用性」を十二分に持っている学部がたくさんあるのが現実である。現在の大学は「虚学」ばかりが支配的で、これをもっと「実学」化しなければならないという濱口氏の認識は、一部を見て全体を見られていないように、私には感じられる。この点は、氏とさらに意見を交換したい点でもある。

これを受けて、私が若干違う観点から述べたのがこの最後のエントリです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-6c82.html

 charisさんとの議論の中心にある論点を、哲学や美学といった個々の学問分野の意味や価値をどう考えるかという個別領域ごとにそれぞれ思い入れやら何やらがあり得る論点を捨象して(私自身の思い入れは最後のところに付記します)、ある意味で本質的なところだけを純粋抽出すると、職業教育ではないという消極的な定義しかできない「高校普通科」をどう考えるかという問題に至ります。

たまたま、児美川孝一郎さんのブログ「Under my thumb」の標題のエントリが載っていましたので、一つのヒントとして。

http://blogs.dion.ne.jp/career/archives/8637771.html

>昨日は,神奈川県高校教育会館主催の教育講座の講師として,「権利としてのキャリア教育」について話をしてきた。

なかなか感度の高い先生がたと議論できたのは,面白かったし,今どきの学校現場がどれほど“押し込められて”きているのかが(表現は悪いけど),ひしひしと伝わってきた感じ。

最後の討論の際に,議論になった論点の一つは,生徒数ベースで約72%が普通科に通うという日本の学校制度をどう見るかという点。

僕などは,これに対してかなりネガティブな見方をしていることを提示したわけだけど,高校の先生たちの感覚としては,そう単純ではないところがある。

圧倒的な普通科体制というのは,かつての政策としての高校多様化に対置して,運動の側もそれを求めてきたという経緯もあるし,高校が職業科中心になった場合,中学生段階でもアイデンティティ分化を求めることになるわけだけど,日本の家庭や子どもたちの実態としては,それには無理があるという現場感覚・・・

他方で,日本的な普通科体制を支えてきた企業内教育の側が,いまや相当に縮小しているという現実もあり,高校卒業後の公的職業訓練機関がきわめて貧弱だという日本の現実を考えれば・・・

ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点ではあることは確かなんだけどね。

たしかに、「ていねいに,かつ慎重に議論しなくてはいけない論点」なんですね。

児美川さんは、私も参加している日本学術会議の大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会 大学と職業との接続検討分科会において、本田由紀さんとともに幹事をされていて、考え方としてもまさに「職業レリバンス」派なんですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-edd3.html(大学と職業との接続検討分科会)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ba51.html(日本型雇用システムにおける人材養成と学校から仕事への移行)

職業レリバンスなき教育を受けたまま労働市場に投げ出されてひどい目にあっている若者達に、せめて身を守る「鎧」として職業能力を・・・というワークの側からの問題意識と、そんなこと言ったって現実の子供達は・・・というスクールの側からの現実認識を「トゥ」でつなげることができるものかどうか、大変悩ましいところです。

児美川さんのエントリのコメント欄のギャルソンさんのこの言葉もなかなかに深いものがあります。

>関連があるかいまひとつ自信がないのですが、アカデミックな教科のほうが職業教育教科の内容よりも格が高いというか、あるいはありがたい?というかそういう傾向とかあると思うのですが(ないかもしれませんが)その理由は何故なんでしょうか。自分自身はそういう風に思ってしまう傾向があるような気がします。その一方で、僕の周りの子どもたちに関しては、普通科高校に進学した子どもたちよりも高専や専門高校に進学した子どもたちの活躍ぶりのほうをよく聴くような気もします。

「関連があるか」どころか、ある意味でそれが問題の中核でしょう。

これもまた、本ブログでむかし論じあったテーマですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。

このときのコメント欄でのやりとりが、非常におもしろいので、ぜひリンク先をお読みいただきたいと思います。

(付記)

ちなみに、私自身の哲学への個人的な思い入れは、

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

ということに尽きます。

一番おぞましいのは、”日本型雇用システムの中でいかなる長時間労働にも耐えて24時間がんばれる「人間力」を養うための「人間テツガク」を”、というような、「テツガクの職業的レリバンス」です。日本でテツガクの職業的レリバンスとかをまじめに議論し出すとほぼ間違いなくそういう話にしかなりません。私はそういうのは断固としてイヤです。

これは個人的趣味のレベルの話ですので、無視していただければと思います。

 

 

 

 

 

 

2023年4月11日 (火)

欧州労使協議会指令の改正について労使への第1次協議

Blobservlet_20230411231501 本日(4月11日)、欧州委員会は欧州労使協議会指令の改正に関して労使団体への第1次協議を開始したとのことです。

https://ec.europa.eu/social/main.jsp?langId=en&catId=89&furtherNews=yes&newsId=10546

Today, the Commission launches the first-stage consultation of European social partners on a possible revision of the European Works Councils Directive.

 

鶴光太郞『日本の会社のための人事の経済学』

B0c1459mj401_sclzzzzzzz_sx500_ 鶴光太郞『日本の会社のための人事の経済学』(日本経済新聞出版)をお送りいただきました。

ジョブ型雇用、人的資本経営、テレワークなど日本企業の人事担当者は様々な課題に取り組んでいるが、その意義や取り組み方について必ずしも十分な理解が行き渡っているとはいえない。それは、議論を行うための共通の土台であるフレームワークに大きな隔たりがあるからだ。人事の経済学は、雇用・人事システムがどのように機能しているのか、その基本的なメカニズム、その背後にある理論を知るために企業の人事担当者が理解しておくべきフレームワークだ。本書は、人事の経済学と雇用システムを解説し、雇用・人事システム変革の際にベースとして考慮すべき戦略を明らかにする実務家必読の書。

オビに「一刀両断」とあるように、拙著と同様、世にはびこるおかしなジョブ型論を批判する本であると同時に、むしろそれを踏まえて日本企業の人事実務に対して現実的な処方箋を提供しようともしている本でもあります。

序章 なぜ、いま、「人事の経済学」なのか
第1章 ジョブ型雇用とはいったい何か――氾濫する誤解を解きほぐす
第2章 日本の雇用システム――欧米システムとの本質的な違い
第3章 「ジョブ型イコール成果主義」ではない――賃金決定の経済学
第4章 企業組織の情報システム――「対面主義」の経済学
第5章 ポストコロナ・AI時代にふさわしい企業組織・人材・働き方の「見取り図」
第6章 ジョブ型雇用への移行戦略――シニアから始めよ
第7章 ポストコロナに向けたテレワーク戦略――「テレワーク」の経済学
第8章 ゼロサム・ゲームからウィンウィンの関係へ――企業と従業員関係の大変革
終章 人事の経済学の「レンズ」でみた「ミライのカタチ」

おおむね第4章までがジョブ型原論、第5章からが応用ジョブ型論という感じでしょうか。特に対面主義とテレワークの話は、コロナ禍を契機に大きくクローズアップされた話で、実は私も来月発売の『中央公論』6月号に小論を書いています。

原論部分はほぼ私と同見解の鶴さんですが、応用編にくると、いろいろと違いも出てきて、そこを読むのも面白いところです。

さて、本書の最後の「おわりに」に、聞き捨てならない記述がありました。

・・・しかし、そこを強調しすぎると別の意味の「ねじれ」を生んでしまうことを実感した。筆者がある雑誌からジョブ型雇用についての原稿依頼を受けた時のことである。編集担当者の方から、「もう一人の方に、ジョブ型の課題、メンバーシップ型のメリットの執筆をお願いする予定で、意見の違いが出る可能性があることを御了承下さい」と念を押された。さしずめ、筆者はジョブ型擁護派、もう一人はメンバーシップ型擁護派と言うことで依頼されたのだろうと解釈した。

 蓋を開けてみると、もう一人の執筆者は何と、濱口氏であった。衝撃を受けたことを覚えている。「似非ジョブ型」を斬って斬って斬りまくったあげく、メンバーシップ型擁護派に祭り上げられてしまったのか。もちろん、ご本人の意図するところではないだろうし、ジョブ型、メンバーシップ型いずれもメリット、デメリットがありどちらが優れた仕組みであるということではないというのが主張されたかった点であろう。筆者も同意見であることは本書でも強調したところだ。・・・

うーむ、鶴さんと対で雑誌に登場したことはありますが、編集者からそういう振り付けを受けた覚えはないんですが、内心そういう目で見られていたんでしょうか。逆に、今回ここを読んで衝撃でした。いや笑劇か。

まあ、ことほどさように、ジョブ型の世界は魑魅魍魎の漂う奇々怪々の世界であるようです。

ちなみに、その「おわりに」の終わり近くで、

・・・ジョブ型・メンバーシップ型雇用の議論については、長年、佐藤博樹氏、濱口桂一郎氏、海老原嗣生氏から多くのことを教えていただいた。記して感謝したい。三氏とは、新型コロナ以前にはプライベートでも談論風発の機会があったが、再会を楽しみにしたい。・・・

正確に言いますと、もう一人労務屋こと荻野勝彦さんも含めて四半期ごとに「談論風発の機会」を持っていました。そこでの話が本に発展したこともありました。

そろそろ再会を楽しみにしたい時期ですね。

 

 

 

 

 

 

 

2023年4月10日 (月)

技能実習制度の廃止と新たな制度の創設を提言

技能実習制度及び特定技能制度の在り方に関する有識者会議が本日午前開かれ、そこに提示された中間報告書(たたき台)が、かなり明確に技能実習制度の廃止を打ち出しているようです。

https://www.moj.go.jp/isa/policies/policies/03_00063.html

こういうときは、新聞報道であれこれ言うのではなく、原資料を見に行くのが鉄則です。

https://www.moj.go.jp/isa/content/001394236.pdf

⑴ 制度目的(人材育成を通じた国際貢献)と実態(国内での人材確保や人材育成)を踏まえた制度の在り方(制度の存続や再編の可否を含む。)(技能実習)

○ 技能実習生が国内の企業等の労働力として貢献しており、制度目的と運用実態のかい離が指摘されていることにも鑑みると、今後も技能実習制度の目的に人材育成を通じた国際貢献のみを掲げたままで労働者として受入れを続けることは望ましくないことから、現行の技能実習制度を廃止し、人材確保及び人材育成を目的とする新たな制度の創設を検討すべきである。

○ 技能実習制度が有する人材育成機能は、未熟練労働者として受け入れた外国人を一定の専門性や技能を有するレベルまで育成することで、国内で引き続き就労する場合は身に付けたスキルを生かして活躍でき、国内産業にも貢献するとともに、帰国する場合はそのスキルを生かすことにより国際貢献につながるため、新たな制度にも目的として位置付けることを検討すべきである。

このように、労働力確保じゃないという建前の上に作られた技能実習制度を廃止する代わりに、労働力確保でありかつ人材育成でもある(というのは技能実習のなかば本音だったわけですが)新たな制度を設けるということのようです。

これは、特定技能と一緒にして新たな制度にするというわけではなく、いわば特定技能の前段階的な位置づけにしようという感じです。

⑵ 外国人が成長しつつ、中長期に活躍できる制度(キャリアパス)の構築(両制度の対象職種の在り方を含む。)

○ 新たな制度と特定技能制度は、外国人がキャリアアップしつつ国内で就労し活躍できるわかりやすい制度とする観点から、新たな制度から特定技能制度への移行が円滑なものとなるよう、その対象職種や分野を一致させる方向で検討すべきである。

○ 人材育成の観点から、外国人が修得する主たる技能等について、育成・評価を行うことによるスキルアップの見える化を前提として、特定技能制度への移行を見据えた幅広い業務に従事することができる制度とする方向で検討すべきである。その際、修得した技能の習熟度を客観的に測定することは重要であり、技能評価の在り方についても、技能検定や技能実習評価試験等の運用状況も踏まえながら、最終報告書の取りまとめに向けて具体的に議論していくこととする。

○ さらに、我が国の企業等が魅力ある働き先として選ばれるために、外国人や雇用主のニーズに応じて、我が国で修得した技能等を更に生かすことができる仕組みとする方向で検討すべきである。

 

 

 

有斐閣ストゥディア『労働法 第4版』

L15113 小畑史子,緒方桂子,竹内(奥野)寿著『有斐閣ストゥディア 労働法 第4版』(有斐閣)をお送りいただきました。

https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641151130

労働法と日常生活との関わりを意識して読み進められるよう事例を活用しつつ,労働法の基本的な考え方を丁寧に解説。労働法を学ぶ意義や楽しさを実感できる,初学者に最適の1冊。第3版刊行後の新たな判例や法改正に対応した最新版。

初版が2013年、第2版が2016年、第3版が2019年なので、ほぼ3年おきでしたが、第4版は4年ぶりになりました。

もはや中堅を超えつつある著者らによる初心者向けテキスト。

 

 

2023年4月 4日 (火)

マルクスのフェティシズム?

202304_coverthumb140xauto16294 経団連の発行する月刊誌の座談会に、思わず膝を叩きたくなる様な台詞が出てきました。

04_zadankai いや、これは『月刊経団連』4月号の、「社会性の視座のもと、資本主義の未来を考える」という座談会ですが、その中で、小野塚知二さんがこういうことを喋っているのです。

https://www.keidanren.or.jp/journal/monthly/2023/04_zadankai.pdf

 ・・・現在の資本主義を考える時、「資本だからより高い利潤を求めるのは仕方ない」というある種の諦めのような議論が潜んでいます。しかしよく考えると、それは奇妙なことです、資本は、元をたどれば、単なる貨幣、すなわち記号やモノにすぎません。「自分を増やせ」と貨幣が人間に命令するはずがありません。もし命令するとしたら、それは資本という悪魔が人間に憑依して金もうけを迫っているという悪魔憑きのような世界です。
 人間が貨幣を持つと利潤を求めるようになるのは、人間の側に際限のない欲望があるからです。しかしそのことを、人類はいつから気付いていたのでしょう。比較神話学や人類學、考古学の研究成果を紐解くと、4~5万年前に際限なき欲望が登場したことが分かっています。貨幣が登場したのは。そこから、4万5000年後です。さらにブッダが登場し、際限なき欲望を「煩悩」と言語化し、」際限なき欲望を、人間が煩悩から解放されない限り本当の幸福は訪れないと説いたのが今から約2500年前です。すなわち、際限なき欲望を認知し言語化するまでに4万7500年もかかっています。人間は根源的に。自分が際限のない欲望を持っているということを認めたくない動物なのかもしれません。
 マルクスの『資本論』があれほどの影響を持ち得た秘密は、人間に際限のない欲望があるのではなく、「資本は本来的に自己増殖を求めている」と説明することで、自分の欲望に目を向けずに済んだためではないかとわたしは考えています。いま我々に求められていることは、資本という概念のいわば「悪魔祓い」、すなわち脱構築をすることではないでしょうか。そのことが、マルクスの本来の意図だったのではないでしょうか。

なるほどそうか、「みんな資本が悪いんや」と責任を資本という名の物神になすり付けてしまうことで、自分自身の中にある際限なき欲望という醜いものを直視しなくて済むわけですから、こんな有難いものはない。

そうやって自分の醜い欲望をまともに見ようとしなかった連中が、資本という悪者を退治して、いざ革命がなったあかつきに本当に際限のない欲望の塊に堕していくのもそういうメカニズムなのかも知れません。

 

 

フリーランス新法は事業者間取引適正化法@WEB労政時報

WEB労政時報に「フリーランス新法は事業者間取引適正化法」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/84709

1 はじめに
 去る2月24日、特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律案が国会に提出されました。このタイトルではやや分かりにくいですが、これは昨年9月にパブリックコメントが実施され、その時点で国会に提出されると見込まれていたいわゆるフリーランス新法のことです。内容的にはパブリックコメントに付されたものとほとんど変っていませんが、その時点で内部的に作成されていた法案で用いられていた「フリーランス」という言葉が一切使われなくなり、保護対象が事業者であることを強調するような「特定受託事業者」という用語で一貫されたことは、この問題へのスタンスの微妙なシフトを物語っているのかも知れません。・・・・

 

 

 

 

2023年4月 3日 (月)

無限定正社員型大学教授の論理的帰結

https://twitter.com/yshhrknmr/status/1641798489939283969

「大学教員の『雑用』は仕事か否か」っていうよりも、専門家がその専門性を発揮できずに誰でもできるようなことばかりやらされて、その結果、専門家が専門性を発揮できる世界各国の研究者にボロ負けしてますよ、と言う話。「じゃあ日本から出て行け」という非建設的な罵詈雑言までが日本のテンプレ。

云いたいことはとてもよく分かるけれども、そもそも、学部廃止であんたの専門的ジョブがなくなるンだよと云われても、いやいや俺たちはジョブがあろうがなかろうが大学教授という身分なんだから整理解雇は許されないという主張をして、日本国裁判所もそれを認めると云う、まことにメンバーシップ型の定向進化を遂げてきたことの論理的帰結が、義務教育諸学校等と類似の無限定正社員型大学教授という雇用システムなのであってみれば、会社の中にやらせる仕事がある限り解雇が制限される正社員と同じように、如何なる作業も「雑用」だなどと云って拒否することが許されないのは当然の論理的帰結でありましょう。

それが望ましい姿であるか否かの価値判断は別として、ものごとはすべてワンセットのシステムとして存立して居るのであり、いいとこ取りをするわけにはいかないわけです。そのことの社会経済的帰結をどのように評価するかは、まず何よりも大学教授と言われる人々の自己規定-ジョブ型専門職なのかメンバーシップ型正社員なのか-から始まるべきものでありましょう。

 

 

2023年4月 2日 (日)

若者代表?

確かに、先週火曜日の社会保障審議会年金部会の資料の委員名簿には、たかまつななさんが載っていますね。

https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001078050.pdf

たかまつ なな 株式会社 笑下村塾代表取締役社長

若者代表ということなんでしょうが、他の何者でもないただの若者の代表というのはなかなか難しい役柄で、当該トピックにかかわる何事かに何らかの関わりを有すると、若者代表である前にそちらの代表であるという性格が出てしまうので、できるだけそうでないような人を選りに選って選ぶと、よりによってあの人を、と言われるような人を選ぶことにならざるを得ないというパラドックスがあるわけです。

そういう選び方をされたのであろう過去の事例としては、今から10年前に第二次安倍政権の時の古市憲寿さんがいましたが、これは意外にも(失礼)大変まともなことを論じてしまったので、みんなびっくりしてしまったということがありましたな。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-7a24.html(古市くん、チョーまともじゃん)

例の「今後の経済財政動向等についての集中点検会合」に「有識者」として出席した古市憲寿さん。ネット上では誰の代表のつもりだ・・・とかなりな言われようでしたが、公開されたその議事録を読んでみると、実にまっとうな議論を堂々と展開しています。

冒頭「今日は、若いというだけで呼んでいただいたと思うので、できるだけ若者とか現役世代目線の利害を代表したようなことを言いたいと思う」と、謙遜めいた言い方をしていますが、どうしてわかってない下手な大人よりもずっと立派にまともなことを言ってますよ。

http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/tenken/01/gijiyoushi.pdf

・・・そもそもなぜ消費税を上げるのかという議論に対して、余り根本的な議論がされていないように思う。すごく後ろ向きの意見が目立つと思う。

・・・3点目が一番重要だと考えるが、現役世代に負担をかけないために消費税引上げと言うが、本当に消費税が現役世代のためなのかという問題である。現代の計画を見ると、たとえ予定通り5%増税されたとしても、子ども・子育て支援へは、そのわずか0.3%分が充当されるだけと言う。確かに、今の金額から考えれば、0.3%は大きい数字ではあり、一歩前進ではあると思う。しかし、その現役世代にあまりこの消費税というものが還元されている気がしない。

子育て支援は、長らく日本では経済成長のお荷物と考えられてきた。しかし、添付した資料の2ページ目以降に、同志社大学の柴田悠氏の研究を付録として付けたが、こちらを見ていただくと、この内容というのは、OECDの28カ国の経済成長の要因というものを分析した資料であるが、その分析によると、実は保育サービス、子育て支援こそが実は経済成長にとってプラスの影響を与えているということが、この分析からは明らかになっている。つまり、子育て支援とか少子化対策は、経済成長に対してお荷物なんかではなくて、逆にプラスの影響を与える、そんな研究が出ている。これからの社会の持続性を考えたとき、もしくは短期的な経済成長にかんがみても、子育て支援、少子化対策は重要であるにもかかわらず、そこに対するウェイトとか、そこに対するまなざしというものがあまり熱心であるようには思えないというのが、僕の消費税引上げに対する不信感と言うか、懸念の事項の1つである。

もしも仮に消費税を上げるかわりに、現役世代を含めて社会保障をきちんと整備していく、雇用対策をきちんとしていく、そういうきちんとこの社会で安心して、税金を払って、それが自分に還元される、そんな安心感ができれば、別に増税は消費税に限らず、そこまで国民が忌避することではないと思う。ただ、今のままではあまりにも増税という言葉だけ、しかも増税という中身が議論されずに増税ありきの議論ばかりされてしまっていて、なかなかこの国の未来を考えるというフェーズまでこの議論が達していない。だから、もしも引き上げるのだとするならば、その発表もしくは引上げのタイミングと同時に、その増税は一体何のためのものなのか、それでこの国はどう変わっていくのか、そうした長期的な議論を同時に提供していただければいいというが私の思いである。

・・・消費税がメインのトピックスなので、経済寄りの話になるのは仕方がないと思うが、もう少し社会の話を少しだけ補足させてほしい。今までの日本は経済政策を中心にずっとやってきたわけだが、やはり経済だけを追いかけた結果が、どうしても焼畑農業的になってしまっていると思う。その結果が少子化だと思う。2012年の合計特殊出生率は1.41で、一見この10年では高い数字だが、本来は今、第3次ベビーブームが起こっている時期。第3次ベビーブームが起こっている時期のはずなのに、これだけの数字しかない。先ほどからグローバル人材とか、2050年の日本、そのための経済成長という話が出てきた。でも、そのためには人がいないとそんなことは可能にはならないと思う。やはり教育であるとか社会保障とか、再生産に対する投資だとか、そこの議論が余りにも日本ではおざなりにされてきた気がする。

90年代以降の経済成長率が高い国を見てみると、租税負担率が高い国でも着実に経済成長をしていることがわかっている。北海道大学の橋本努さんという研究者の方が北欧型新自由主義という言葉でまとめているが、法人税は安くリストラには寛容。その代わり、きちんと社会保障がトランポリンのように一般の労働者をきちんと支える。そういった形での社会保障と強い経済の両輪というものが、ヨーロッパではこの20年間で普及してきた。したがって、経済の話はどうしても経済成長とか2050年とか経済成長率何パーセントとか、すごく勇ましい話になりがちだと思うが、一方でそのためには社会が再生産していかなければいけない。人々が再生産をして次世代を生んでいくという基本の営みがあることを確認したく、少し補足させていただいた。

よく世代間格差といいって、高齢者がお金をもらい過ぎて、若者がもらっていない。確かに数字を見るとそのとおりだと思う。高齢者に対する社会保障費はほかの国と比べても、OECDの平均の国並みになった。一方で現役世代に対する社会保障が非常に低い。ただ、これを単純にこの結果だけで受けとめるわけにはいかないと思っていて、日本はずっと福祉というものを家族が担ってきた国だった。実際、今でも家族が担わなければいけない分量というものはかなり程度があるという中で、単純に高齢者に対する社会保障費を一律にカットしたとしても、結局それが現役世代に対するしわ寄せになってしまうと思う。

高齢者に対する社会保障というのは、実際は現役世代もいつかは自分が高齢者になっても安心できるんだという、この安心感にもつながると思う。だからもちろん高齢者の社会保障に関して今の病院をちゃんとホームドクター制を導入するとか、幾つか改革ができることはあると思う。ただ、単純にそれを現役世代と高齢者、若者と高齢者に対する世代間格差という形に収れんさせるのではなくて、高齢者に対する社会保障はこれまでどおりやっていく。同時に現役世代に対しても大学の学費が高いだとか、職業訓練がきちんとしていないとか、その方も拡充していく。その両輪が必要だと思う。そのためには経済成長が必要だというのは、まさに同意見である。

ブータンのように幸福度を重視した政策というのは、私は反対である。幸福度を上げるのはある種簡単で、情報を遮断して、それで人々を幸福と思い込ませればいい。ある種の洗脳をすればいいだけで、そういうふうに個人の主観とか価値観によって施策を決めてしまうことに関しては反対である。

確かに日本は、特に若い世代はこれから沢山の借金を背負っていく、どんどん高齢者が増えていく、人口も減っていく中で幾つもの負担を負っているわけだが、一方で日本だけがしていなくてほかの国が当たり前にしていることは、まだまだ沢山あると思う。

やはり1つは働く女性の問題である。日本は出産、育児期に仕事をやめざるを得ない女性がすごく多い。その女性が働くだけでも大分労働力が上がる。だから保育サービスを拡充して児童手当をちゃんと出して、職業訓練をちゃんとしてという、どこの国も当たり前にやっていることを当たり前にするだけで、まだまだ可能性はあると思っている。その1つが消費税なのかもしれないが、消費税をもしもほかの国並みに上げようとするのであれば、そういった現役世代に対する社会保障に関しても、ほかの国並みに上げていく方向をちゃんと政治が示していただければ、政治不信というものは払拭されていくのかなという思いはある。

例えばナショナリズムであるとか、そうやって短期的に安易に人々を魅了するということは、どうしても長続きしないと思う。短期的に強さを見せるとかも当然必要だと思うのだが、それだけではなくて、ちゃんと10年、20年、50年、100年大丈夫だという仕組みをちゃんと責任を持って年配の方が示していくことが、ひいては現役世代、若者世代に対する幸福につながっていくのかなと私は思っている。

頭の中に「社会」がないまま、保育サービスや児童手当や職業訓練など「どこの国も当たり前にやっていること」を目の敵にして財政再建vs景気という2項対立しか見えてない「大人」よりは、百万倍役に立つことをちゃんと伝えていると思いますよ。

私に褒められても大して嬉しくもないでしょうけど、わかってない記者が書く新聞記事だけでなく、ちゃんと議事録を読んでる人もいるということで。

 

 

 

 

梅崎修・南雲智映・島西智輝『日本的雇用システムをつくる 1945-1995』

2195eb2afb0443d5b8095059f12f8349   梅崎修・南雲智映・島西智輝『日本的雇用システムをつくる 1945-1995 オーラルヒストリーによる接近』(東京大学出版会)をお送りいただきました。

https://www.utp.or.jp/book/b619360.html

戦後からはじまる日本的雇用システムの構築過程について、制度構築の当事者たちへのオーラルヒストリーを作成しながら分析をする。日本の雇用関係史を、企業内民主化の過程として把握し、日本社会の「内」にいた当事者の思考と行為の過程を解き明かす。

これは500ページを超える大冊であるとともに、中身もびっしり詰まった本です。

序章 日本的雇用システムの歴史的パースペクティブ

第I部 職場の新秩序への模索
第1章 起点としての身分差撤廃交渉
第2章 賃金の支払い方をめぐる論争
第3章 「家族賃金」観念の形成

第II部 日本的雇用慣行の生成と変容
第4章 労使関係の中の「相互信頼」の獲得
第5章 高度成長期における人事制度改革の説得
第6章 企業内労働市場の拡大と完成
第7章 産業別賃金交渉における内部労働市場の論理
第8章 日本的能力観の構築
第9章 新しい人事方針への変革

第III部 地域・産業・政策の労使関係
第10章 企業を超えた地域労使交渉
第11章 産業レベルの労働組合運動の役割
第12章 労働法政策決定における議論の場所

終章 雇用論議を始める起点

資料紹介 日本における労働史オーラルヒストリー

終戦直後から1990年代までの日本型雇用システムの形成と変容のプロセスを、日本の労働オーラルヒストリーを牽引してきた梅崎さんらが一冊にまとめた本といえば、そのすごさが窺われるでしょう。一つ一つの章が、いくつものオーラルヒストリーの語りと、多くの場合語り手がもたらした原資料とによって、生き生きと構築されていく様は見事です。

どのトピックをとっても、私には大変興味深いことがらです。そのいくつかは、オーラルヒストリーの報告書自体をお送りいただいた時にこのブログで紹介したりもしていますが、そうでないものも結構多く、改めて通読していろいろなことを感じました。

一点だけ気になったのは、第1章と第2章で終戦直後の労使関係が日本的な「企業内民主化」と日本的な賃金思想を生み出していく有り様を描き出しているのですが、その企業名がA社なんですね。

巻末のオーラルヒストリー一覧を見ればこれが住友重機であることは分かるし、特に第2章の次の補論を読めば、総評全国金属の下で過激な運動をしていたのがその後造船重機労連に移ったと書いてあるので明らかなんですが、これは一応匿名にするというお約束だったのでしょうか。

 

 

 

雇用保険法第83条第1号

雇用保険法第83条第1号といっても、直ぐに何のことか分かる人はほとんどいないのではないでしょうか?

第八章 罰則
第八十三条 事業主が次の各号のいずれかに該当するときは、六箇月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。
一 第七条の規定に違反して届出をせず、又は偽りの届出をした場合

第7条というのはこれです

(被保険者に関する届出)
第七条 事業主(徴収法第八条第一項又は第二項の規定により元請負人が事業主とされる場合にあつては、当該事業に係る労働者のうち元請負人が雇用する労働者以外の労働者については、当該労働者を雇用する下請負人。以下同じ。)は、厚生労働省令で定めるところにより、その雇用する労働者に関し、当該事業主の行う適用事業(同条第一項又は第二項の規定により数次の請負によつて行われる事業が一の事業とみなされる場合にあつては、当該事業に係る労働者のうち元請負人が雇用する労働者以外の労働者については、当該請負に係るそれぞれの事業。以下同じ。)に係る被保険者となつたこと、当該事業主の行う適用事業に係る被保険者でなくなつたことその他厚生労働省令で定める事項を厚生労働大臣に届け出なければならない。当該事業主から徴収法第三十三条第一項の委託を受けて同項に規定する労働保険事務の一部として前段の届出に関する事務を処理する同条第三項に規定する労働保険事務組合(以下「労働保険事務組合」という。)についても、同様とする。 

何が問題になったのかといえば、この「当該事業主の行う適用事業に係る被保険者でなくなつたこと・・・を厚生労働大臣に届け出なければならない」です。

つまり、離職した労働者に離職票を渡してやらないという嫌がらせをやった使用者は、この罰則規定にひっかかるんだよ、ということですね。

https://mainichi.jp/articles/20230331/k00/00m/040/272000c(退職者の雇用保険、資格喪失を「届け出ず」 運送会社社長を略式起訴)

社員が退職したのに雇用保険の資格喪失届をハローワークに提出しなかったとして、福岡区検は31日、福岡市にある運送会社の男性社長(39)を雇用保険法(被保険者に関する届け出)違反で略式起訴した。届け出がなければ失業給付の手続きができないため、退職した女性(30)が刑事告発していた。女性の代理人で労働問題に詳しい西野裕貴弁護士(福岡県弁護士会)は、今回の略式起訴について「前例がなく、使用者の怠慢や労働者への嫌がらせを防ぐためにも画期的だ」と評価する。

こういう形で表面に出てくるのは珍しいですが、離職票をめぐるトラブルというのはハローワークの窓口では結構多いようです。

こういうことでわざわざ訴え出るというコストを考えると、こういう場合、使用者が離職票を書くまでの期間についてはなお賃金を払わせるというような制裁もあってもいいかもしれません。

 

EU賃金透明性指令案が欧州議会で議決

というわけで、ようやく3月30日の欧州議会本会議で賃金透明性指令案が賛成多数で可決されたようです。それは分かっていたのですが、その可決された条文がこれです。

https://data.consilium.europa.eu/doc/document/ST-7797-2023-INIT/en/pdf

ざっとみたところ、条、項、号の番号が調整されているほかは、ほとんど内容的な修正はなさそうですが、一寸じっくりと見てみます。

いずれにしても、これから閣僚理事会でも最終承認がされてEU官報に掲載されて成立ということになるので、旬報社の『労働六法』には間に合いません。

 

滝原啓允『現代イギリス労働法政策の展開』

Takihara JILPTの労働政策研究報告書No.224として、滝原啓允さんの『現代イギリス労働法政策の展開』が3月31日に刊行されました。

https://www.jil.go.jp/institute/reports/2023/0224.html

本研究は、現在イギリス政府によってなされている労働法政策の淵源であるTaylor ReviewとGood Work Planを中心に、その対極に立つ政策文書(Manifesto for Labour Law, Rolling out the Manifesto for Labour Law)や関連する政策文書(労働・年金委員会による報告書、労働・年金及びビジネス・エネルギー・産業委員会による報告書、Industrial Strategy)などに関しても具体的に紹介し、それらによる提案事項につき論じつつ研究者による反応も確認することとし、もって、現代イギリスにおける労働法政策の展開を明らかにすることを主な目的とする。

実は、滝原さんはこの日付でJILPTを退職され、大東文化大学法学部に移られたのです。同じイギリス労働法の専門家の古川陽二さんの後任ということです。

イギリスにおける法政策に係る議論は様々な示唆を与え得る。大きな議論の枠組みでは、雇用上の法的地位に係る問題について、日本では3分法の可能性を探る議論も存在するところ、3分法(但し、被用者は労働者に含まれる)を採るイギリスにおいて2分法の採用を主張するような議論が存在しているという点は示唆的といい得る(とはいえ、イギリスにおける3分法は、イギリス固有の事情から生じたものであり、独特の法構造となっている点には留意が必要である)。

新任地でのご活躍を祈っております。

 

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