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2023年2月 5日 (日)

60年前も職務給が流行し、労働組合は悩んでいた

Jil_20230205171101 去る1月23日に、岸田首相が国会の施政方針演説で「従来の年功賃金から、職務に応じてスキルが適正に評価され、賃上げに反映される日本型の職務給へ移行する」と述べたのですが、これって実は宏池会の首相の大先輩にあたる池田勇人首相がそのちょうど60年前の1963年1月23日にやはり国会の施政方針演説で「従来の年功序列賃金にとらわれることなく、勤労者の職務、能力に応ずる賃金制度の活用をはかるとともに、技能訓練施設を整備し、労働の流動性を高めることが雇用問題の最大の課題であります」と語っていたことがちょうど干支が一巡りして元の場所に戻ってきた感があります。

当時、つまり1960年代前半期の日本では、同一労働同一賃金に基づく職務給というのが政労使の間で流行語になっていました。

そのちょっと前に設立された日本労働協会(今のJILPTの前身の前身)は、この機に乗じて、「賃金問題に関する労働組合幹部専門講座」なるものを開催し、その記録を『労働組合と賃金 その改革の方向』という書物にして刊行しています。

https://honto.jp/netstore/pd-book_03154417.html

この本が面白いのは、一方で同一労働同一賃金という万国共通のスローガンを掲げながら、いざ足元の賃金要求をどうするかとなると、今までの年功賃金との矛盾を引きずらざるを得ず、悩みが深いということです。

ここでは、全造船の西方副委員長の講演の中から、「そうはいっても」な部分を引いてみましょう。

・・・われわれが賃金闘争を組むにあたっても、同一労働同一賃金をうたうと、必ず若い労働者諸君から、これはいいことだ。ぜひやってくれといわれる。ところが、年輩労働者諸君には、確かに同一労働同一賃金がいいという理屈はわかる。しかし、おれたちは一体いままで粒粒辛苦して、やっとこの地位になったんだ、これをおびやかすようなことをやってもらっては困るという気持ちが強い。ずいぶん資料を出したり、あるいは説得してみるが、理屈はわかっても、感じとしてどうしても受け入れられないというのが、現場にもたくさんある。今日の労働運動が、青年層をどう握るか、会社が握るか組合が握るかにかかっている、ということがよくいわれるけれども、確かに、賃金の問題をめぐっても青年層の意欲をどう的確にとらえて全体の中に消化していくかということが、組合に課せられた大きな任務だろうと考えている。・・・

これに限らず、登場する組合のリーダーたちはみんなこの問題に悩んでいたことが文章の間からひしひしと伝わってきます。

合化労連の岡本副委員長はこう痛烈な反省の弁を述べます。

・・・戦後のわれわれの賃上げは、いうまでもなく、電産型からはじまってずっとやってきたわけであるが、極端にいうと、この15年我々が実際何をしてきたか。首切り反対をまずやった。それからもう一つは。年功序列賃金をむしろ育成強化してきた。・・・
 また、結婚資金をよこせ、社宅だ、退職金だ、なんだかんだというが、結局、社内福祉をよくする運動、つまり、今言った日本の家父長的労務管理、労務政策というものを、労働組合自らが育成強化する運動をやってきた。これではいつまでたっても、われわれのほんとうの意味での資本との対決もあり得ない。相手側の作った運動場の中で、われわれはボールを蹴っているに過ぎない。相手側の土俵の中で相撲を取っている、こんな状態では、本来の労働者の自立というものはありえなくなってくるわけである。・・・

ところが、それから10年も経たないうちに、こういう問題意識は日本の政労使の間から消え失せてしまいました。日本型雇用システムが世界で最も素晴らしいという礼賛が世間を覆うようになり、同一労働同一賃金などというとぼけたことをいう奴は姿を消したのです。

以来60年がたち、日本社会はなんだか妙に似たような言葉を掲げて妙に似たような議論を繰り返しているように見えます。

いやもちろん、今日には今日的問題状況があるので、60年前の議論がそっくりそのまま持ってこれるわけでもありませんが、それにしても、こういう問題を論じる人々のほぼ誰一人として、この60年前に喧々諤々となされていた職務給をめぐる議論を覚えていなさそうに見えるのは、いささか残念な気がしないでもありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

今、岸田首相の補佐官が同性婚について人権感覚のない発言をして辞任。そして首相自身も同性婚を認めたら社会が変わってしまうとか時代錯誤な事を言っています。
しかし労働組合の幹部連の意識も下記引用した部分からそんなに変わってないとしますと、

>また、結婚資金をよこせ、社宅だ、退職金だ、なんだかんだというが、結局、社内福祉をよくする運動、つまり、今言った日本の家父長的労務管理、労務政策というものを、労働組合自らが育成強化する運動をやってきた。これではいつまでたっても、われわれのほんとうの意味での資本との対決もあり得ない。相手側の作った運動場の中で、われわれはボールを蹴っているに過ぎない。相手側の土俵の中で相撲を取っている、こんな状態では、本来の労働者の自立というものはありえなくなってくるわけである。

 組合幹部連の人権感覚はまがりなりにもLGBTの人権を尊重する国民の意識とずれてしまっているのでしょうか。
 組合幹部の構成も日本的家父長制の意識がそのまま持ち込まれている、と言う事はないと思いたいです。

補佐官じゃなくて秘書官ですね。
秘書官というのは、私の理解ではあくまでも黒子であって、偉そうにしゃしゃり出てくるべき存在じゃない、というか、(ボスの意見じゃない)自分の意見をあれこれ新聞記者相手にぺらぺら喋っていい存在じゃないと思っているのですが、その辺の感覚が曖昧になっているのでしょうか。
大体、オフレコというのは、そう簡単に懐に入り込めないような政治家相手に、新聞記者が気に入ってもらえるように、わざわざ書けるのに書かないという形で恩を売って懐に入っていくための手段だと思っていたのですが、秘書官という黒子的役人如きが堂々とやれるようなものになっていたんですかね。
私には、彼のオフレコで喋ったという中身よりも何よりも、そもそも彼のような存在がオフレコ懇談するのが当たり前になっていたということのほうが呆れるべきことに思えます。

なんというか、現代日本は徳川時代のように(老中よりも側用人が威張っている)側用人政治になっているということですかね。

利害が相克する部分はあるでしょうから、ある程度は止む負えないとは言え、
「一つの組合の中」での対立になるのが、辛いところですかね。そこで「会社別
組合のまま、分裂」をしても、あまり打開策にはならないのですよね。会社別
から離れて、「職業別」の方に行けば、また違った展開になるかもしれません。
ところが、多くの日本人は「明確な職業」を持っていないわけで。ここが変わら
ないと、なかなか動かないのではないでしょうかね

> おれたちは一体いままで粒粒辛苦して、やっとこの地位になった

幸か、不幸か、逆ピラミッドで、今はこの部分は弱まっているでしょう
給料袋の中身は年功で上がりはするでしょうが緩やかにならざるを
得ない中で、今度はどうするか、というのが問われているのでしょうね

>そもそも彼のような存在がオフレコ懇談するのが当たり前になっていたということのほうが呆れるべきことに思えます。

岸田総理がこの方の発言後すぐにこの発言を批判して更迭した という報道を聞いて、この方は 泣いた赤鬼 の青鬼さん役だったのかと思いました。

> あくまでも黒子であって、偉そうにしゃしゃり出てくるべき存在じゃない

メンバーシップ型雇用意識が浸透している以上、正社員(今の場合、正規の公務員)であれば
その顔(男の顔?)で以って任に当たるべきであり、黒子なんて存在はありえないのでなくて

> 1960年代前半期の日本では、同一労働同一賃金に基づく職務給というのが政労使の間で流行語になっていました。
> 首切り反対をまずやった。それからもう一つは。年功序列賃金をむしろ育成強化してきた。また、結婚資金をよこせ、社宅だ、退職金だ、なんだかんだというが、結局、社内福祉をよくする運動、つまり、今言った日本の家父長的労務管理、労務政策というものを、労働組合自らが育成強化する運動をやってきた。

企業別労組の頑張りというのは、半世紀以上に渡り、

   メンバーシップの維持+減税

を齎した、ということになりますね。言い換えれば、
無自覚バラモンを産み出したってことになるのでは?
既存労組・諸政党も第三象限だった、ってことでは?
今の日本ではメンバーシップ+増税は保守になって、
日本の真逆(ジョブ+増税)はキューバになるかな?

> 第一象限が福祉国家派、
> 第二象限がジョブ型競争社会派、
> 第三象限が「構造改革」派、
> 第四象限が既存労組・諸政党となっています。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/posse-fb68.html

大昔の労働運動では職務給の導入=資本からの攻撃という観点が定着しており、あまり運動として悩んでいるようには見えなかったのですが、どうでしょうか。鉄鋼労連千葉利雄さんの本を読んでみても人を基準に賃金を設定することが大前提で、仕事に対して賃金を設定するという発想がそもそも希薄であると感じました。ようやく現在そうした発想が少しづつ変わっていっているのでしょうか。

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