経済学部の職業的レリバンス(再々の再掲)
年末に、木簡研究がどうこうという噺に引っかけて、過去エントリの虫干しとしてアップしたこれに、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/12/post-0da822.html(木簡研究の職業的レリバンス)
本気で怒りをぶつけるツイートがあったのですが、
https://twitter.com/kirikomio/status/1612421121919549440
職業的レリバンスの観点だったら、実家が寺社教会(宗教法人等)の子が大学の宗教哲学科に行って家の跡を継ぐという、これ以上ない“職との結びつき”じゃないの。経済学部に行った人が企業の営業社員やるより職に直結してるよね。
https://twitter.com/kirikomio/status/1612426169663778816
この話の元は「木簡研究の職業的レリバンス」だが、大学や院の木簡研究者は自治体職員(教育委員会等)・学芸員に直結してるから、文学部史学科を職業に結びつかない代表にするのは不適切。哲学科も、宗教学科は寺社教会の跡継ぎで職に直結しているのでは。
https://twitter.com/kirikomio/status/1612429552537718785
寺社教会の跡継ぎでなく、“純粋に(職に無関係で)”宗教、哲学を学びたくて宗教系大学学科に行く人もいると思うけど、哲学科の定員は経済学部などよりはるかに少ない。
哲学系統:約4万7000人
商学・経済学系統:約46万人
https://twitter.com/kirikomio/status/1612431762629734400
経済学部生の“職業的レリバンス”については不問で、その10分の1程度の人数の哲学科(多くは宗教学科か)を“職業に結びつかない”“ただの趣味”と槍玉に揚げるの、相当にバイアスがあるのでは、と思う。
https://twitter.com/kirikomio/status/1612445962596921346
“大学で哲学を教えるのは、哲学の教官の食い扶持のためであって、学生の職には結びついていない”という言い分は、そのまま
“大学で経済学を教えるのは、経済学の教官の食い扶持のためであって、学生の職には結びついていない”になるんじゃないのかな。
https://twitter.com/kirikomio/status/1612448584275984385
哲学科学生(多くは寺社教会跡継ぎ) 4万7000人に対し、経済学部学生は46万人なので、“職業に直接役に立たんことを大学で教えている”点では経済学の教員のほうが“なんだかな”度が高いと思う。
直接役に立たずとも良い、と考えるなら、哲学や文学は役に立たんとか言って攻撃すべきでないだろう。
実は言っていることのかなりの部分はその通り、というか、その趣旨のことも書いていたのですけどね。
まず、コメント欄でも述べているように、「大学や院の木簡研究者は自治体職員(教育委員会等)・学芸員に直結してる」ので、それなりにレリバンスがあるのです。
よく考えると、歴史学といっても、日本史研究と西洋史研究とでは職業的レリバンスはだいぶ違うようにも思われます。
日本史を学んで古文書の読み方とかを勉強した人は、大学の先生というような極めて狭小なアカデミックポストには就けなくても、全国の教育委員会の学芸員とか、もろもろのストリートレベルのアカデミックポストがあるので、それなりに使いではあるのでしょう。それに対して、西洋史を学んだ場合には、そういう就職の場はほとんどないと思われるので、実は上のエントリの「木簡研究」云々というのは、必ずしも適切ではないのかもしれません。 投稿: hamachan | 2022年12月31日 (土) 11時11分
また、「実家が寺社教会(宗教法人等)の子が大学の宗教哲学科に行って家の跡を継ぐ」ってのは、これまた医者の息子が医大に行く以上にこの上ない職業的レリバンスの固まりであって、仰るとおりでありましょう。
ただまあ、西洋史や西洋哲学の専攻だと、大学のアカデミックポスト以外にさほどのレリバンスに充ち満ちた就職先があるわけでもなさそうです。
以上は前説。
この方が怒りを燃え立たせているのは、どうやら私が哲学や文学『だけ』を槍玉に挙げて、もっとレリバンスに乏しい経済学部を免責しているじゃないか、ということのようなんですが、それは誤解、というか、この元になった10年以上も昔の一連のレリバンスシリーズの中では、それこそ経済学部のレリバンスの欠如をさんざんからかっていたのですが、そこまでは御覧にならなかったようです。
というわけで、以下過去エントリの何回目かの虫干し。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)
たまたま、今から11年前の平成10年4月に当時の経済企画庁経済研究所が出した『教育経済研究会報告書』というのを見つけました。本体自体もなかなか面白い報告書なんですが、興味を惹かれたのが、40ページから42ページにかけて掲載されている「経済学部のあり方」というコラムです。筆者は小椋正立さん。本ブログでも以前何回か議論したことのある経済学部の職業的レリバンスの問題が、正面から取り上げられているのです。エコノミストの本丸中の本丸である経企庁経済研がどういうことを言っていたか、大変興味深いですので、引用しましょう。
>勉強をしないわが国の文科系学生の中でも、特にその傾向が強いと言われるグループの一つが経済学部の学生である。学生側の「言い分」として経済学部に特徴的なものとしては、「経済学は役に立たない(から勉強しても意味がない)」、「数学を駆使するので、文科系の学生には難しすぎる」などがある。・・・
>経済学の有用性については、確かに、エコノミストではなく営業、財務、労務などの諸分野で働くビジネスマンを目指す多くの学生にとって、企業に入社して直接役立つことは少ないと言えよう。しかし、ビジネスマンとしてそれぞれの職務を遂行していく上での基礎学力としては有用であると考えられる。実際、現代社会の特徴として、経済分野の専門用語が日常的に用いられるが、これは経済学を学んだ者の活躍があればこそ可能となっている。・・・
>・・・ところが、経済学の有用性への疑問や数学使用に伴う問題は、以上のような関係者の努力だけでは解決しない可能性がある。根本的には、経済学部の望ましい規模(全学生数に占める経済学部生の比率)についての検討を避けて通るわけにはいかない。
>経済学が基礎学力として有用であるとしても、実社会に出て直接役に立つ分野を含め、他の専攻分野もそれぞれの意味で有用である。その中で経済学が現在のようなシェアを正当化できるほど有用なのであろうか。基礎学力という意味では数学や物理学もそうであるが、これらの学科の規模は極めて小さい。・・・
>大学入学後に専攻を決めるのが一般的なアメリカでは、経済学の授業をいくつかとる学生は多いが専攻にする学生は少ない。もちろん、「望ましい規模」は各国の市場が決めるべきである。歴史的に決まってきた現在の規模が、市場の洗礼を受けたときにどう判断されるのか。そのときに備えて、関係者が経済学部を魅力ある存在にしていくことが期待される。
ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。
何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。
ちなみに、最後の一文はエコノミストとしての情がにじみ出ていますが、本当に経済学部が市場の洗礼を受けたときに、経済学部を魅力ある存在にしうる分野は、エコノミスト養成用の経済学ではないように思われます。
まさに、この方の仰るように、「“大学で経済学を教えるのは、経済学の教官の食い扶持のため」なんじゃないの?と申しておりました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/27-040d.html(大学教育と企業-27年前の座談会)
今は亡き『経済評論』なる雑誌がその昔ありまして、その1983年12月号-ちょうど27年前ですな-が「曲がり角に立つ大学教育」なる特集を組んでおりまして、その中で中村秀一郎、岩田龍子、竹内宏の3人の「大学教育と企業」という座談会が載っています。
竹内宏と言っても最近の若い方はご存じないかも知れませんが、この頃大変売れっ子だった長銀のエコノミストです。って、その長銀も今は亡き長期信用銀行ですが。
そういう昭和の香り漂う座談会の会話を読むにつれ、「曲がり角に立」っていたはずの27年前からいったい何がどう変わったのだろう、という思いもそこはかとなく漂うものがあり、やや長いのですが、興味深いところをご紹介したいと思います。いうまでもなく、昔話のネタというだけではありませんで。
>竹内 企業にしてみると、大学は志操堅固なんです。志操堅固というのはどういうことかというと、自分の問題意識を持って、それを達成するために何かやろうということでしょう。つまり自分の人生の目的があって、それを達成するために企業を使ってやろうという人を今までは作ってくれているらしい。だから、そういうモラルがしっかりしている人だけもらって、育ててくれればいい。ですから、現在のところは、経済学でも何でもそうですが、専門的知識は全然要求していない。要求してもむだだから、その知識を企業は期待していない。ただ、そのモラルを期待している。
>中村 そうでしょうね。高度成長のちょうど中ごろ、昭和30年代の終わりごろですが、私は徹底的にフィールドワークをやるから、企業に出入りすることが多かったんですが、あの頃企業の偉い人が必ず僕に言うことは、「先生、大学はもうちょっと企業で役に立つ方法を教えてもらわなくちゃ困りますよ」と、こういうお説教が非常に多かった。ところが40年代に入ってから、それがなくなりましたね。これはあきらめムードだと思う。まず第一に、そんなことを大学に言っても無理だということになったと、僕は解釈しているんです。・・・
>岩田 半分は竹内さんのおっしゃるとおりですところが、私は反面ちょっと違う考えがあって、会社が全然期待してくれないから、学生がやる気にならないのだという見方をしているわけです。というのは、日本の企業は、終身雇用・・・という組織構造があって、入社してから教育し、あちこち部局を動かして、組織の中で教育しないと使いものにならない。そういう構造的な条件があり、企業の側は、ものすごく熱心に人材育成をなさる。大変精緻な教育システムができているわけです。
そこで、企業はどんな人材を採るかということになると、今おっしゃったように、大学で学んできた経済学とか経営学は、ほとんど問題にならない。優れた潜在能力を持った人たちが、意欲とかリーダーシップを大学時代に大いに鍛えていれば、後は企業が教育するからといわれる。そうなると、逆に学生の方は専門に対して不熱心になる傾向が、盾の半面としてあるんじゃないか。・・・
>竹内 企業がなぜ専門性を重視しないかといえば、猛烈に経済学をやったりすると、私はケインジアンだ、なんていいだす。そうすると、ケインジアンだから、今は財政を拡大しろと、それだけでしょう。これは困っちゃうんです(笑)。・・・だから、むしろない方がいいということで、かえって専門性が嫌われちゃう。怖くて採れないのです。
>岩田 ということは、日本の大学の現状は、企業にとっては理想的な状況になっているということになりますね。妙に専門性を叩き込んでいない。
ちなみに、座談会の冒頭で、司会の人が
>竹内さんの言葉を使えば「その他学部」である(笑)経済学部、経営学部に限定させていただきます。
と言っていますが、「その他学部」なんて言葉があったんですね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-5849d0.html(橘木俊詔『日本の経済学史』)
個人的には、戦前の社会政策学会とか戦後の労働経済学に関する記述をみたいと思って読み出したのですが、労働経済学はほとんど取り上げられておらず、むしろ近年のマルクス経済学の衰退に関する部分の叙述がなかなか面白くて、ちょっと紹介しておきます。
まずはこれ。本ブログでも繰り返し取り上げてきたレリバンスのない学問の学生を採用してきた日本企業の話。
一昔前はマルクス経済学を専攻する学生は多かったのに、なぜ企業はそういう学生を採用してきたかといえば、特に事務系の社員に関しては、学生の頃は何を勉強しようがお構いなしの雰囲気が企業で強かったからである。やや誇張すれば、何も勉強をしておく必要はなく、適当な頭の良さと一生懸命頑張る元気さがあればそれで十分とみなしてきた。企業人としての訓練は入社後にしっかり行うという人事政策を採用していたのである。しかもたとえ経済学部でマルクス経済学を勉強した学生であっても、入社後に過激な労働運動や反資本主義的な行動をする人はほとんどおらず、入社後は猛烈なサラリーマンになる人が大半であった。・・・
これね、よく文学部が槍玉に挙がるんだけど、実は経済学部だって、企業が大学で勉強してきたことになんの期待もしていないという点ではなんら変わらない、という話も、昔のエントリで取り上げたことがあります。
・・・・・
で、実はこのブログの台詞が、そっくりそのまま橘木さんの本に載ってます。いや今回のじゃなくて、6年前の『ニッポンの経済学部』(中公新書ラクレ)って本ですが。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-2b50.html (橘木俊詔『ニッポンの経済学部』)
・・・この図表4をもとに、濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構)は「『大学で学んだことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる』的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、『忘れていい』いやそれどころか『勉強してこなくてもいい』経済学を教える」と鋭く指摘しています(濱口氏のブログより)。
拙著の一部が本や論文に引用されることは結構ありますが、さすがに本ブログの記述がそのまま橘木さんの本に引用されるとは思ってませんでした。いやいや。・・・
「ネコ文Ⅱ」が近経やろうがマル経やろうが変わりはねえだろ、ってか。
ただ、とはいえ、ソ連はじめ共産圏の崩壊で、わざわざマル経を勉強しようという学生はいなくなります。
ところが世界において社会主義ないしマルクス主義が崩壊する姿を学生が見るにつけ、大学でマルクス経済学を勉強しても意味ないなと思うようになり、既に述べたように学生はマルクス経済学の諸科目を受講しなくなり、ゼミの教授としてもマルクス経済学者を選ばなくなったのである。一言で述べれば、マルクス経済学の人気の凋落と近代経済学のそれの急騰である。大学教員としてマルクス経済学者の余剰感が高まり、大学がそれらの人の数を減らして、近代経済学者を増加させようとする時代になったのである。
ところが、そこはジョブ型じゃなくってメンバーシップ型の日本社会なので、こういうやり方になります。なお橘木さんは国立と私立を対比させていますが、そこはかなりミスリーディングで、いや私立大学だって、マル経を理由に解雇したところなんてないはずです。
国立大学では公務員としての身分保障があったので、マルクス経済学者の解雇をするようなことはなく、そういう人が定年退職したときの補充、そして新規採用を近代経済学者に特化するようになった。私立大学では、国立大学よりも自由なので、この政策をより強固に行った。特に当時は私立大学の創設が目立った時代であり、新規採用者のほとんどが近代経済学者であった。・・・
マル経のおじさんの定年退職を待って若い近経の研究者を採用したということに変わりはないんでしょう。私立大学だってどっぷりメンバーシップ型ですから。
これに対して、これは読んでびっくりしましたが、東西統一したドイツでは凄いことをやったようです。
東ドイツの大学ではマルクス経済学が研究・教育されていたのであり、統一後これを信じる経済学者の処遇に関して、想像を絶することが発生した。ドイツ政府はマルクス経済学者に対してマルクス主義を放棄しない限り、大学で再雇用しないと決定したのである。ドイツではほとんどが州立大学なので、地方公務員という姿での採用であり、公務員を政治と経済の信条で差別する方策なのである。個々の経済学者の対応は、マルクスを捨てて我々のいう近代経済学に転向した人、自己の心情に忠実でいたいため、再雇用されることを嫌って他の職業を選択した人など、様々であった。中には工場労働者やタクシー運転手になった人もかなりいた。
ふむ、これはどう見ても思想信条による雇用差別ですが、それが正当とされたのは、国や公共団体は傾向経営(テンデンツ・ベトリープ)でらって、特定の思想信条を排斥することが許される組織であるということなのでしょうか。ドイツ法に詳しい人の解説が欲しいところです。
それまで極めて潤沢に存在したマルクス経済学の教授という雇用機会が、ドイツ統一によって一気に消滅したので、当該ジョブの喪失による整理解雇だというのなら、それはよく理解できるのですが。
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