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2023年1月18日 (水)

リバタリアンはジョブ型が大嫌い

前にも市場原理主義者が薬学部は無駄だとか、薬剤師免許なんか要らないと言っているのをとらえて、からかうエントリ(下記)を書いたことがありますが、今度は教員免許をつかまえて無駄だと叫ぶリバタリアンです。

https://twitter.com/kurakenya/status/1615088835653959680

バカバカしい。小学校の先生なんて、大卒である必要もないのに教育学部卒の免許がいるが、女性の多くは実は十分に小学校の教員になれるし、普通のサラリーパーソンは十分に中学教員になれる。免許がムイミなだけ。

世にはびこる山のようないんちきジョブ型論者とそれに騙されている善男善女たちの思い込みとは全く逆に、ジョブ型社会というのは硬直的な職業資格社会であり、その職業のための教育訓練機関をきちんと修了してしかるべき職業資格を取得した人だけがその仕事を遂行できるのだという社会的共同意識をみんなが共有することで、教育と職業とを一貫する社会制度が確立している社会なので、こういうまことに日本的柔軟性、職務の無限定性に満ち溢れた発想とは対極にあるのです。

そういうリバタリアン的思想のパラダイスが日本型雇用なんだが、本人はそう思っていなさそうなのがご愛敬ですが。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-925cf2.html(ジョブ型原理が嫌いな人々の群れ)

 なんだか、薬学部なんか無駄だとか、薬剤師免許なんかいらないとかいう議論が一部ではやっているようですが、学校教育で職業資格を得た人間がその職業の専門技能を有していると社会的に見なされて当該職業を遂行していく、という日本以外では当たり前のジョブ型社会の基本原理が、なまじ原則的にそうじゃない日本の労働社会で例外的に妙に厳格なジョブ型原理を持ち込むと、どういう反発が発生するかのいい見本になっていますね。

実のところ、ビジネススクールにせよ、なになにスクールにせよ、そこのディプロマを得た若造が、長年無資格で勤め上げた現場のたたき上げよりも有能であるというのは、ジョブ型社会のお約束事に過ぎないわけですが、世の中全体がそういうお約束で動いている以上は、その若造が卒業とともにエグゼンプトとかカードルとかいうエリートとして偉そうにあれこれ指図し、段違いの高給をもらい、一生動かないノンエリートを横目にあちこち動きながら早々と出世していくのは、そういうものなわけです。

日本に一応あることになっている職業分類というのは、そういうジョブ型原理で作られていますが、しかし実際にある労働者をどちらに分類するか、たとえばあるサラリーマンを管理的職業とするか事務的職業とするか、といった局面になると、世の中がそういう原理でできていないという事実が露呈するわけです。

管理的職業というのは、管理的職業になるためのビジネススクールのようなところで高度(ということになっている)教育を受け、管理的職業として採用され、入ったその日から辞めるまで管理的業務をする職種であり、事務的職業というのは、それよりも下の中くらいレベルの教育を受け、事務的職業として採用され、入ったその日から辞めるまでずっと事務的業務をする職種です。

日本は戦中戦後の激動の中で、戦前にはあったそういう社内職業階層社会を会社員(であるかぎりみな)平等社会に作り替えてしまったわけで、それにどっぷり漬かって3~4世代を経過した現代日本人にとって、役に立っているのかどうかも分からない職業資格なんて言うのは、眉に唾をつけて見られるようなものであるということが、よくわかります。

そういう日本社会の中で、例外的にジョブ型原理でもって構築されているのが医療の世界。医師とは、医学部を出て医師国家試験を通過し、医師として採用され、入ったその日から辞めるまで医師として働く職種であり、看護師とは・・・、なになに技師とは・・・、以下同文、という世界です。

すぐ横にそういう純粋ジョブ型社会があるのを見た薬剤師たちが、俺たち私たちも、と考えるのは不思議ではありません。まことに自然な反応なわけですが、ところがそういう医療の世界を離れた日本社会全体は、それとは全く正反対の、ジョブなき社会でもって生きているわけです。

興味深いのは、そういう欧米社会が作り上げてきたジョブ型社会の原理に疑問を呈するための小道具として、かなり過激な市場原理主義的経済理論が使われる傾向にあることです。市場原理主義からすれば、職業資格のようなジョブ型のあれこれのインフラストラクチャーは最も適切なマッチングを妨害し、市場を歪める代物ということになるわけでしょう。

日本的なメンバーシップ型社会とは、その意味で言えば、職業資格などという下らんものを無視して(その会社の社員であるという唯一無二の資格を有する限り)最も適切なマッチングを人事部主導でやれるとてもいい仕組みなんだ、と、30年以上前の日本型雇用礼賛者であれば言ったのでしょうがね。

というわけで、おそらく蔵研也氏の理想の学校を現実的な姿で実現しようと思ったら、トヨタとか日立とかの各会社が学校を設立し、その会社の社員でものを教えられそうな有能なのやその奥さんを適当に見繕って、人事異動で教師に回して教えさせる、部活もやらせる、ってのでしょうね。

だって「女性の多くは実は十分に小学校の教員になれるし、普通のサラリーパーソンは十分に中学教員になれる」というわけだけど、人さまの子ども相手の仕事に得体のしれないのを持ってくるわけにはいかないから、人物は信用できる(ということでしっかり採用しているはず)社員とその奥さんを使うのが一番安心ということになるはず。

もちろん、そんな話を聞いたら、ごく一部のイデオロギー的リバタリアンは別として、欧米でふつうのジョブ型社会に生きている普通の人々は仰天して目を白黒させると思うけど。

リバタリアンこそ、ジョブ型原理が大嫌いな人々なんですね。

ただ、厳密にいうと、ウチの社員なら信用できるというメンバーシップ型でもなくて、人さまの子ども相手の仕事にでもどこの馬の骨かわからない得体のしれないのを持ってきてもいいじゃないか、なんかあったら事後対応でOKという意味での市場原理主義なのかもしれません。

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コメント

タスク型、ジョブ型、メンバーシップ型の三つ巴になっていて、
「本来のリバタリアニズム」はタスク型志向だと思いますけど。

 そもそも、リバタリアンの世界に「義務教育」などという制度があることが、どう考えても おかしいんですけどね~。

 リバタリアンの世界なら、近代以前と全く同じように
一、上流階級の子弟:金に糸目をつけず、専門の家庭教師をつける(かつての王侯貴族の子弟がそうでした)
二、上層中流階級の子弟:自分達の子弟向けの私立校とか、海外の名門私立校で教育
三、中流階級の子弟:かつての寺子屋みたいな、比較的廉価な私塾で教育
四、労働者階級の子弟:学校なんか行かない。いきなり職人見習いとなり、そこでの
職業教育がすべて

ということを、必然的に「自由に選択する」ことになるなるはずであります。いったいどこが「自由」なんでしょうかね~(笑)。

  こういう時計の針を巻き戻したような世界を、人類がめざすべきユートピアとして売り込むだけの覚悟があるのなら、どうぞご自由に、としかいいようがないですけれど、さてこの「東大法、カリフォルニア大経済学Ph.D」という学歴の自由主義経済学者氏はそこまで洞察した上で、かくの如き主張をなさっているのか、たいへん疑わしいところではあります。

> 労働者階級の子弟
> 職業教育がすべて

かように、リバタリアニズムはジョブ型と親和的なものですからね。
東大法、カリフォルニア大経済学Ph.Dなるご仁はリバタリンではないのでしょう。

政府支出をビタ一文増やすのは罷りならん、マンデルフレミング効果で円高になって景気が良くならない、金融政策で不況脱却できる!と言っていたりふれ派の先生が、財政政策も影響する、と気づいて
しぶしぶ「教育が大事で政府の支出を増やしたいというなら子持ち家庭に私塾に通えるクーポンを配ればよい」と言ったのを思い出しました。(アメリカ経済学者の主張に関する知識は豊富なようです)
どこまでも「市場を通じた消費者の自由な選択」という視点からが政策の適否に関してプライオリティがあり、教師や、教師補助者が収入を得る/増やす(また可処分時間を増やす)ことによる消費拡大という視点はないようです。

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