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2023年1月12日 (木)

グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』@【書方箋 この本、効キマス】

726d577b64d21123af489672df0965cf 『労働新聞』に月イチで連載している書評コラムですが、今年からまたタイトルが変わり、「書方箋 この本、効キマス」となりました。

その第1回目に私が取り上げたのは、グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』(明石書店 )です。

https://www.rodo.co.jp/column/143561/

 半世紀前の1975年に、日米欧三極委員会は『民主主義の統治能力』(サイマル出版会)という報告書を刊行した。ガバナビリティとは統治のしやすさ、裏返せばしにくさ(アンガバナビリティ)が問題だった。何しろ、企業の中では労働者たちがまるでいうことを聞かないし、企業の外からは環境や人権問題の市民運動家たちがこれでもかと責め立ててくる。本書はその前後の70年代に、欧米とりわけアメリカのネオリベラルなイデオローグと企業経営者たちが、どういう手練手管を駆使してこれら攻撃に反撃していったかを、膨大な資料―それもノーベル賞受賞者の著作からビジネス書やノウハウ本まで―を幅広く渉猟し、その詳細を明らかにしてくれる。

 評者の興味を惹いた一部だけ紹介すると、それまでの経営学ではバーリ=ミーンズやバーナムらの経営者支配論が優勢で、だからこそその権力者たる経営者の責任を問い詰める運動が盛んだったのだが、この時期にマイケル・ジェンセン(3340号7面参照)がその認識をひっくり返すエージェンシー理論を提唱し、経営者は株主の下僕に過ぎないことになった。そもそも企業とはさまざまな契約の束に過ぎない。従って、理論的に企業の社会的責任などナンセンスである。一方でこの時期、ビジネス書などで繰り返し説かれたのは、(厳密にはそれと矛盾するはずだが)問題が大きくなる前に先制的に問題解決に当たれという実践論だった。

 本書は今では我われがごく当たり前に使っている概念が、この時期に企業防衛のために造り出されたことを示す。たとえばコスト・ベネフィット分析がそうだ。労災防止や公害防止の規制は、それによって得られる利益と比較考量して、利益の方が大きくなければすべきではないという議論が流行った。本書が引用するアスベスト禁止の是非をめぐるマレー・ワイデンバウム(レーガン政権で経済諮問委員長になった経済学者)とアル・ゴアのやり取りは、それなら人命に値段をつけろと迫られて逃げ回る姿がたいへん面白い。

 思想史的には、70年代以後のネオリベラル主義が戦前ナチスに傾倒したドイツの政治思想家カール・シュミットとその影響を受けたネオリベラル経済学者ハイエクの合体であることを抉り出した点が新鮮だ。73年にチリのアジェンデ政権を打倒して成立したピノチェト軍事政権に対し、当時主流派のポール・サミュエルソンが「ファシスト資本主義」と批判したのに対し、ハイエクは「個人的には、リベラルな独裁制の方が、リベラル主義なき民主政府より好ましいですね」と答えている。いうまでもなくこの「リベラル」とは経済的な制約のなさを示す言葉であり、その反対語「全体主義」とは国家が市民社会に介入すること、具体的には福祉国家や環境規制がその典型だ。そういう悪を潰すためには、独裁者大いに結構というわけだ。

 とはいえ、先進国で用いられた手法はもっとソフトな「ミクロ政治学」だった。正面から思想闘争を挑む代わりに、漸進的に少しずつ「民営化」を進め、気が付けば世の中のあれこれがネオリベラル化している。その戯画像が、野球部の女子マネージャーにドラッカーの『マネジメント』を読ませて喜ぶ現代日本人かもしれない。

 

 

 

 

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