今年1年間『労働新聞』で12冊を書評
昨年から始めた『労働新聞』紙上での月1回の書評。今年は「本棚を探索」という通しタイトルの下、計12冊を書評してきました。12冊の選び方に対してはいろいろとご意見のあるところかもしれませんが、わたくしとしては毎回楽しく書評させていただきました。
昔のキャラメルのCMではないが、1冊で2度おいしい本だ。1つ目はアメリカをはじめとする今日の西側の資本主義を「リベラル能力資本主義」と規定し、それがもたらすシステム的な不平等と、それがなまじ能力による高い労働所得に基づくがゆえに旧来の福祉国家的な手法では解決しがたいパラドックスを描き出す第2章である。
19世紀の古典的資本主義では、資本家が裕福で労働者は貧しかった。20世紀の社会民主主義的資本主義では、社会保障や教育を通じてかなりの再分配が行われた。これに対して、21世紀のリベラル能力資本主義では、多くの人が資本と労働の双方から収入を得ており、金持ちの多くはその「能力(=人的資本)」に基づいて高額の給料を得ている。高学歴の男女同士が結婚(同類婚)することで階級分離が進み、相続税が高い社会でも学歴という形で不平等が世代間移転される。こうなると、課税と社会移転という20世紀的なツールの有効性が低下する。一番始末に負えないのは、勤勉で有能であるがゆえに高給を得、夫婦親子でエリート一族を形成する彼らを道徳的に批判することが(かつての「有閑階級」と異なって)困難である点だ。この章は、みんながうすうす感じていたことをあっさり暴露した風情がある。
次の第3章は中国(とその眷属国家)の有り様を「政治的資本主義」と規定し、その世界史的位置付けを試みているが、これだけで十分一冊になる。著者によれば、共産主義は植民地化された後進国の資本主義化の手段である。そして優秀な官僚、法の支配の欠如、国家の自律性に特徴付けられる政治的資本主義には、腐敗と不平等という宿痾がまつわりつく。なぜなら、法の支配が故意に柔軟な解釈をされ、横領に手を染めることが可能となるからだ。これに対して一部評論家が提唱する法の支配の強化という処方箋は、官僚の自由裁量権をなくすことになるので採り得ない。
そこで習近平政権は腐敗に手を染めた役人を片っ端から摘発する(ハエもトラも叩く)。とはいえ、それは腐敗の一掃が目的ではなく、「腐敗の川を川床内に留めおき、社会にあまり広がらないようにする」ことにすぎない。「洪水の如く溢れたら最後、腐敗を持続可能な程度まで押し戻すのは極めて困難」だからだ。
以上だけでもおいしいが、第4章以下では、労働と移民のパラドックス、アンバンドリングとしてのグローバル化、世界に広がる腐敗、道徳観念の欠如、さらには人工知能とユニバーサル・ベーシックインカムなど、今日話題のネタもたっぷり詰め込まれている。だが、本文最後で語られる未来図はいささか心冷えるものである。それは、リベラル資本主義の下で形成されつつある新たなエリート層が、今よりはるかに社会から独立した立場につき、政治的領域を支配するようになる、つまり政治的資本主義に近づいていくというシナリオだ。人々の頭の中から政治を消し去り、国民を満足させておける比較的高い成長率をもたらすために、経済をすこぶる能率的に管理することが求められる。そして恐らくこのシステムに土着の腐敗が増え、長い目で見れば政権の存続の脅威となる、と。
ニコラス・レマン『マイケル・ジェンセンとアメリカ中産階級の解体』
なんだかよく分からないタイトルだけど、過去100年のアメリカの経済社会を、ハイレベルな思想と末端の現実の両方から描き出した、思想史とルポルタージュがまだら模様になった奇妙な味わいの本だ。経済思想史のキーマンはアドルフ・バーリ、マイケル・ジェンセン、リード・ホフマンの3人だが、この3人をいずれもよく知っているという人は少ないだろう。
バーリは、バーリ&ミーンズの『近代株式会社と私有財産』のあのバーリだ。『経営者革命』のジェームズ・バーナムと並ぶ20世紀型大企業資本主義の唱道者だが、本書では彼がルーズベルト大統領のブレーンとして活躍した姿を描く。その章のタイトルは「組織人間」で、ウィリアム・ホワイトの名著『組織の中の人間』を思い出させるが、同書の舞台となったシカゴの街の自動車ディーラーが序章に出てきて、後のストーリーの伏線になる。そう、本書は思想史と現場ルポが絡み合っているのだ。「組織の時代」と題された第2章では、バーリの後継者としてピーター・ドラッカーが描かれると同時に、GMなど自動車メーカーが全国にディーラー網を張り巡らせ、ローカルな貯蓄貸付組合が彼ら20世紀型中産階級に住宅ローンを貸し付ける牧歌的な時代が描かれる。これも後への伏線だ。
やがて時代は暗転(立場が違えば明転)する。新自由主義の旗手として有名なのはフリードリヒ・ハイエクなどだが、本書が狂言回しとして登場させるのは、日本ではあまり知名度の高くないジェンセンという経済学者だ。なぜか、単に市場原理を唱道するのみならず、企業とは株主がご主人(プリンシパル)であり、経営者はその利益を実現すべく奉仕する下僕(エージェント)だと主張するエージェンシー理論を唱え、バーリ流の組織資本主義をひっくり返す思想的原動力となったからだ。
彼を描いた第3章のタイトルは「取引人間」で、本書の原題でもある。株主価値最大化とかM&Aといった80~00年代にかけて猛威を振るった金融資本主義の時代は、貯蓄貸付組合の子孫のサブプライムローンに端を発するリーマン・ショックとそれに続く世界金融危機でその欠陥を露呈する。平和な生活を送っていたシカゴの自動車ディーラーのニック・ダンドレアが、破産したGMからディーラー契約の解除を通知されたのはこの時だ。人種問題も絡むシカゴの荒廃した映像がそこに重ね焼きされる。
「組織人間」「取引人間」の次にやってきたのは「ネットワーク人間」で、狂言回しはリンクトインのホフマンで、有名なスティーブ・ジョブズでもイーロン・マスクでもないのはやや違和感がある。情報通信技術の急速な発展でかつてロナルド・コースが企業の存在理由とした取引費用が劇的に縮小したことによるが、かつて組織の時代をもたらした「規模の経済」が、「ネットワークの経済」として復活し、いわゆるGAFAの時代を生み出した。ホフマンはウーバーノード(優れた結節点)たらんとしたそうだが、この「ウーバー」を名乗るプラットフォーム企業が、世界中で不安定低報酬の偽装請負就業を生み出していると批判の的になっているのも、めぐる因果の糸車なのかもしれない。
ヴァレリー・ハンセン『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生』
「グローバリゼーション」をタイトルに謳う本は汗牛充棟である。試しにamazonで「グローバリゼーション」を検索すると、826件ヒットする。「グローバル化」だと1000件を超える。それらのほとんどは、今日ただいま我われの面前で進行中のグローバリゼーションを経済学、社会学、政治学等々の観点から分析したものだ。とはいえ、時代を遡れば、開国をもたらした19世紀の黒船到来、さらには戦国に鉄砲をもたらした15世紀の南蛮人も当時のグローバリゼーションの現れだった。そこまでは分かる。
ところが本書のタイトルは、なんと西暦1000年がグローバリゼーションの誕生だというのだ。日本でいえば清少納言や紫式部が活躍していた時代、遣唐使は廃止され、清盛の日宋貿易もないまるでドメスチックな時代ではないか。どこがグローバルなんだ、と思う人が多かろう。
本書が説き起こすのはアイスランドから北米大陸に渡ったバイキングたちの足跡だ。その足跡は中米マヤ遺跡にも及ぶ。一方スカンジナビアから東に向かい、その地にロシアの名を与えたルーシたちは、現地のスラブ人たちをその名の通りスレイブ(奴隷)として中東イスラム圏に輸出した。当時、奴隷という労働力は最大の輸出品目だったのだ。
アフリカのマリ王国のマンサ・ムーサ王は世界一の富豪王と呼ばれたが、近代以降の大西洋をまたぐ黒人奴隷貿易の原点は、イスラム圏を中心にした奴隷貿易ネットワークだった。だが、当時の奴隷は近代以降とだいぶ趣が違う。捕獲したり購入した奴隷でもって作られた奴隷軍団が、やがて支配者を殺してスルタンに成り上がっていく。そういえば、かつて高校の世界史で「奴隷王朝」という不思議な言葉を覚えたっけ。労働者が首相になる時代の遥か昔に、奴隷が王様になる時代があったのだ。
欧米人がグローバリゼーションの始まりだと思っている大航海時代とは、実のところアフリカから中東、インド、東南アジアを経て中国に至る既存の交易ルートを乗っ取っただけというのが最後のトピックだ。そこを読んでいくと、高校の世界史で大航海時代をもたらしたのは東南アジアの「香料」だったと教わった時のイメージが、食品用の香辛料に偏っていたことが分かる。西欧人がやって来るずっと前から東南アジアの「香料」はグローバル商品であり、それは日本にも大量に輸入されていたのだ。え? 平安時代の女官がスパイシーなカレーを食べていたって? そうじゃない。食べる香料じゃなくて嗅ぐ香料、「お香」だ。
そういわれてみると、まるでドメスチックに見えた平安貴族の世界が、東南アジアから宋を経て輸入されたさまざまな香料に満ち満ちていたことが浮かび上がってくる。本書では、源氏物語の香をめぐる多くの描写が引用されて、それが当時のグローバリゼーションの証しとされるのだから、何とも複雑な気分になる。
いや、食べる方の香料も宋代に発達した。漢方薬は、多様なハーブや香料を臼で挽いて粉末状にしたもの。それを煎じて薬湯として服用する。宋では世界初の公立薬局が開業した。漢方薬も古のグローバリゼーションの証しだったとは。
マックス・テグマーク『LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ』
AIが流行っている。書店に行くとAI本が山積みだ。雇用労働関係でも話題で、AIでこんな仕事がなくなるとか、仕事がこんなに変わるとか、いろんな議論が噴出している。筆者も最近、EUのAI規則案が採用や人事管理へのAI活用を「ハイリスク」と分類し、一定の規制を掛けようとしていることを紹介してきた。でも、そういう雇用労働への影響などという(やや語弊があるが)みみっちい話をはるかに超えて、人間存在、あるいはさらに宇宙のあり方にまで大風呂敷を広げたのが本書だ。
冒頭いきなりSF小説が展開する。汎用人工知能のプロメテウスが秘かに地球を支配していくユートピアの話だ。戦争、貧困、差別のない、愚かな人間どもが支配するより遥かに「すばらしき新世界」。だが、それは一歩間違えば悪夢のようなディストピアにもなり得る。本書には、SFアイデア大売り出しという感じで、これでもかとばかりそういう悪夢のカタログが並べ立てられる。とりわけ中盤あたりで、心の弱いスティーブの死んだ妻がプロメテウスによって再現され、その甘い言葉によって外部から遮断されていたプロメテウスが「脱獄」していくシーンは、下手なSFよりずっと面白い。というか、これって最近読んだ宿野かほるの『はるか』(新潮文庫)の元ネタじゃないか。
という紹介だと、本書はまるで空想科学読本みたいだが、いやいや著者は宇宙論を研究する最先端の理論物理学者で、AIを宇宙進化の中に位置付けるという壮大な議論を展開している。そもそも「LIFE3.0」とは何か。1.0とは生物学的段階で、細菌のようにハードウェアとソフトウェアが進化する。ネズミは1.1くらい。2.0は文化的段階で、人間のようにハードウェアは進化するがソフトウェアの大部分はデザインされる。現代人は2.1くらい。次なる飛躍の3.0は技術的段階で、ハードウェアとソフトウェアがデザインされる。言い換えれば、AIとは生命が自らの運命を司って、進化の足かせから完全に解放される段階なのだ。
第5章では1万年先までのシナリオとして、奴隷としての神のシナリオ、自由論者のユートピア、保護者としての神、善意の独裁者、動物園の飼育係のシナリオ、門番のシナリオ、先祖返りのシナリオ、平等主義者のユートピアのシナリオ、征服者のシナリオと後継者のシナリオ、自滅のシナリオといったさまざまなシナリオがこれでもかと描き出される。が、それはまだ話の途中なのだ。著者が宇宙物理学者だということを忘れてはいけない。
次の第6章は今後10億年というタイムスケールの話になっていく。ダークエネルギーとかワームホールとか超新星爆発といった話が続き、さらにその先では、「目標」とは何か、「意識」とは何か、といった哲学的な議論が展開されていく。映画『2001年宇宙の旅』を見ているような、あるいは小松左京の『果てしなき流れの果てに』を読んでいるような、何とも不思議な読後感が残る。
ふと我に返って、頭を左右に振りながら、AIの雇用労働への影響などというこの世のちまちましたネタに頭を切り換える。何だか変な夢を見ていたようだ。
文庫本ながら700頁近い分量というだけでなく、その中身も「怪著」の名に値する。元は「いくつかの出版社を渡り歩き、紆余曲折のうえに」2016年に洋泉社から刊行された書籍で、21年に早川書房から文庫化された。原著ではいま副題になっている「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」がメインタイトルだったが、本書の中での該当部分は第13章の90頁ほどに過ぎない。そこまでの500頁余りは、戦前の浜松事件、戦後の二俣事件を中心に、「拷問王」と呼ばれた怪物刑事紅林麻雄と彼を取り巻く人々のさまざまな姿を、膨大な資料を渉猟して描き出した迫真のルポ…と言いたいところだが、そんな凡百の枠組みに収まる本ではない。
発端は、紅林刑事の拷問を告発したために偽証罪で逮捕されて警察を辞職し、その後苦難の人生を送った同僚の山崎兵八刑事が死の直前に書き残した稀覯本『現場刑事の告発 二俣事件の真相』との出会いなのだが、そこから話は次から次に展開する。まずは紅林が戦後に大活躍する根拠となった戦前の浜松事件において、検事総長から捜査功労賞を受けた紅林は実はほとんど真相解明に貢献していなかったことを明らかにし、ではなぜ表彰されたのかという疑問を解くために、当時の司法警察をめぐる内務省と司法省の隠微な対立関係を暴く。組織の論理がいかに政策を歪めるかは筆者もいくつかの事例で知ってはいるが、このあたりの叙述は生々しい。
その内務省が解体され、GHQの指令で自治体警察と国家地方警察に分かれたことが紅林の関与したような冤罪事件を生み出す原因だったという世に流布した伝説を、著者は一つひとつ事実を挙げて否定する。さらに、最高裁で二俣事件の被告少年に逆転無罪判決を勝ちとった清瀬一郎弁護士が、東京裁判で東条英機の弁護人となり、この裁判とほぼ同時期に衆議院議長として改定日米安保条約を可決成立させたという(なまじ人権派が無視したがる)事実の指摘、名声をほしいままにしていた東大医学部の法医学者古畑種基博士が冤罪を増幅させた所以、本件で逆転無罪判決を下した最高裁判事たちの苦難の経歴が結果的に誤判を見抜く訓練を施していたとの皮肉、等々、読者をジェットコースターに乗せて振り回すかのように次から次に繰り出される一見話の本筋からかけ離れたようなさまざまなトピックが、最後に「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という理論構成に見事に収斂されていく…と言いたいところだが、いや著者の意図は間違いなくそうなのだが、散々微に入り細を穿つ事実の集積に振り回された読者の側は、そう簡単に頭が元に戻らない。
冒頭本書を「怪著」と評した所以だが、余りにも凄すぎる真実探求の手際の印象が強すぎて、著者が伝えたかったであろうアダム・スミス『道徳感情論』の真の意義だの、その進化心理学的意味だの、認知バイアスを克服する仕組みとしての民主政治といった、通常の本であればそれが最重要論点となるような部分がなんだかえらく「普通」にみえてしまうのだ。前回(関連記事=【本棚を探索】第13回『LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ』マックス・テグマーク 著/濱口 桂一郎)に引き続き、読後ふと我に返って、頭を左右に振りながら、なんだか変な夢を見ていたようだ、とぼそっとつぶやく。
2019年度の東大入学式の祝辞で、上野千鶴子は2つのことを語った。前半では「大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています」と、将来待ち受けるであろう女性差別への闘いを呼びかけ、後半では「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」と受験優等生たちのエリート意識を戒めた。
後者の理路をフルに展開したのが本書だ。刊行1年で100万部を突破したベストセラーだから、既読の方も多いだろう。だから中身の紹介はしない。ただ、巻末解説で本田由紀が注意喚起しているにもかかわらず、多くの読者が見過ごしているようにみえる重要な点を指摘しておく。
本訳書の副題の「能力主義」は誤訳である。サンデルが言っているのはメリトクラシーだ。原題「The Tyrany of Merit」のメリットであり、本訳書でも時には「功績」と訳されている。それを「能力主義」と訳してはいけないのか?いけない。なぜなら、日本型雇用システムではそれは全く異なる概念になってしまうからだ。拙著『ジョブ型雇用社会とは何か』で述べたように、日本では「能力」は具体的なジョブのスキルとは切り離された不可視の概念である。しかし、本書では「能力に基づいて人を雇うのは悪いことではない。それどころか、正しい行為であるのが普通だ」とか、「人種的・宗教的・性差別的偏見から、その仕事にもっともふさわしい応募者を差別し、ふさわしくない人物を代わりに雇うのは間違いだ」(50頁)とある。メリットとは属性にかかわらず具体的な仕事に最もふさわしい人物であることを客観的に証明する資格を意味し、学歴がその最大の徴表とされる。
本書はそういう「正しさ」に疑問を呈する本であり、それゆえにバラク・オバマ(エリート黒人)やヒラリー・クリントン(エリート女性)の「正しさ」がもたらすトランプ現象、つまり低学歴でメリットが乏しいとみなされた白人男性の不平不満を問題提起する。「正しい」メリトクラシーを掲げたリベラル左派政党が労働者階級の支持を失うパラドックスをより詳細に論じたのは、トマ・ピケティの近著『資本とイデオロギー』(みすず書房近刊)だ。
ところが日本では文脈ががらりと変わる。山口一男が『働き方の男女不平等』(日経新聞社)で繰り返し指摘するように、日本企業では高卒男性の方が大卒女性よりも出世して高給なのが当たり前であり、メリットよりも属性が重視されるからだ。そういうメンバーシップ型日本社会への怒りをぶちまけたのが、冒頭の上野千鶴子の祝辞の前半なのだから話は複雑になる。エリート女性がノンエリート男性よりも下に蔑まれる不条理への怒りと、(男も女も)エリートだと思って威張るんじゃないという訓戒では全くベクトルの向きが逆なのだが、それがごっちゃに語られ、ごっちゃに受け取られるのが日本だ。この気の遠くなるような落差をきちんと認識した本書の書評を、私は見つけることができなかった。
前回は『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を取り上げたが、そのメリトクラシー批判をさらに極限まで突き詰めると本書に行き着く。タイトルだけ見ると「格差なんて虚構だ」というネオリベ全開の本と思うかもしれないが、むしろ格差を非難し、少しでも減らすようにとの善意に満ちた考え方の虚構を暴き立てる本である。彼に言わせれば、近代の平等主義とは、現実に存在する格差を正当な格差と不当な格差に振り分け、階層構造の欺瞞から目を逸らせるための囮に過ぎない。
メリトクラシーを論ずる第1章は、前回の議論と響き合い、そのもたらす残酷な帰結をこう突きつける。「現実には環境と遺伝という外因により学力の差が必ず出る。ところが、それが才能や努力の成果だと誤解される。各人の自己責任を持ち出せば、平等原則と不平等な現実との矛盾が消える。学校制度はメリトクラシーを普及し格差を正当化する」と。
第2~3章では、遺伝・環境論争を、両者とも外因に過ぎないと斬り捨て、行動遺伝学の欺瞞を暴く。遺伝も環境も本人にとっては外因であり、能力の因果とは無縁であるにもかかわらず、まるで遺伝が内因であるかのように議論が進む。遺伝率という概念のおかしさを指摘する著者の眼は鋭い。
第4~7章までは、応報正義の根拠とされる主体の虚構性とパラレルに、分配正義の根拠である能力の虚構性を論じていく。最も抽象的な哲学論が、最もアクチュアルな現実の政策論と接するあたりを駆け抜けていく感覚がぞくぞくする。格差が縮小すれば人は幸せになるのではない。逆に微小な格差に執着し、不満が増幅するのだ。「人は常に他人と比べる。そして比較は優劣を必ず導く。近代社会では人間に本質的な違いがないとされる。だからこそ人は互いに比べ合い、小さな差に悩む。自らの劣勢を否認するために社会の不公平を糾弾する。私は劣っていない。社会の評価が間違っているのだと」。
ここまで読むと、出口のない絶望感に打ちひしがれる。ではどうしたら良いのか? 著者が示す救いの道は意外なものだ。それは偶然である。今までの正義論は偶然による不幸を中和し補償することを模索する。それが思い違いなのだ。偶然は欠陥でもなければ邪魔者でもない。偶然の積極的意義を掘り起こし、開かれた未来を見付け出そうと呼び掛ける。とはいえ、こんな処方箋で現実の労働現場で悩む人々が救われるかといえば、その可能性は乏しいだろう。全ては外因だからといって、みんな平等にしましょうで済むわけではない。「こんなに違うのになぜ同じなのだ?」との声が噴き出す。大きな格差も小さな格差も格差なしも、どれもが不満をもたらす。
ちなみに、著者は30年近くフランスの大学で教えているが、それが本書の考え方に大きな影響を与えているのではないか。フランスは自由、平等という正義を高らかに掲げるが、階層の固定性は高く、エリートとノンエリートの格差が著しい。著者のいる普通の大学は、トップエリートの集うグランゼコールと違い、先の見えた中くらいの準エリートを養成する機関なのだ。そう思って読み返すと、いろいろ腑に落ちてくる。
『労働新聞』のコラムでありながら、いままでわざと労働法関係の本を取り上げてこなかったへそ曲がりの濱口が、ようやく素直に専門書を取り上げるに至ったか、と勘違いするかも知れないが、いやいやそんな生やさしい本ではない。哲学書の棚に並ぶ同じ著者の『法的人間 ホモ・ジュリディクス』や『フィラデルフィアの精神』(いずれも勁草書房)と同じくらい、深い深い哲学的思考の奥底に潜り込んでいく快感が味わえる。その意味では、毎日毎日新たな立法と判例を追いかけるのに忙しい労働法関係者にこそ、夏休みの課題図書としてじっくり読んで欲しい本でもある。
特に必読なのは、冒頭の「予備的考察(プロレゴメナ)」の準備章「契約と身分のあいだ」だ。近頃流行りの「ジョブ型」「メンバーシップ型」を聞きかじって上っ面で理解している人は、是非その歴史的淵源をしっかりと学んで欲しい。近代西欧の労働関係は、ローマ法の「労務の賃貸借契約」の考え方と、ゲルマン法の「忠勤契約」の考え方が絡み合って作り上げられたものだ。労務の賃貸借とは、もともと物の賃貸借や家畜の賃貸借と同様に奴隷主がその所有する奴隷を人に貸し付ける契約であったが、その賃貸人と賃貸物件が同一人物である場合、自分で自分自身(の労務)を貸し出して賃料を受け取るという技巧的な構図になる。これが「ジョブ型」の原点だとすれば、賃金労働者とは奴隷主兼奴隷であり、労働時間は賃金奴隷だが非労働時間にはご主人様の身分を取り戻す。とすれば労働時間の無限定とは、奴隷の極大化、ご主人様の極小化ということになり、一番悪いことだ。これに対して忠勤契約は封建制の下での主君と家臣の「御恩と奉公」であり、人格的共同体への帰属こそがその本質となる。これが「メンバーシップ型」の原点だとすれば、被用者とは主君たる使用者に無定量の忠誠を尽くす家臣であり、主君の命じることはいつでも(時間無限定)なんでも(職務無限定)やらなければならないが、その代わり「大いなる家」の一員として守られる。無限定さこそが誇るべき身分の証しなのだ。ところが対極的に見えるこの両者がその両極で一致する。古代ローマ法で奴隷は家族の一員であり、逆に言えば家長には家族の生殺与奪の権限があった。一方、中世ドイツ法で忠勤契約は庶民化して奉公契約になり、遂には僕婢(召使)契約に至ったのだ。ジョブ型の極限にはメンバーシップ型があり、メンバーシップ型の極限はジョブ型となる。この契約と身分の絡み合いのさらに奥には、第1部「人と物」で論じられる人の法(身分法)と物の法(財産法)の逆説的な関係が控えている。労働法は民法の債権各論にある以上物の法であるとともに、労働者の身体と精神の安全に関わる人の法でもある。そして、それは第2部「従属と自由」で論じられる集団性と不可分である。その集団性自体が、労務賃貸人のカルテルたる労働組合と、企業従業員の自治組織たる従業員代表制に二重化する。労働法の法哲学という、現代日本ではほぼ他に類書のない本であるだけに、夏休みの課題図書にするのは重たすぎるかも知れないが、でも是非読んで置いて欲しい本である。
コロナ禍の収まらぬ現代世界で、プーチンのロシアがウクライナに侵攻し、習近平の中国はウイグルなど少数民族を抑圧し、香港を圧殺し、台湾を恫喝する。そうした帝国主義的行動の背後にどのような思想があるのか、いかなる歴史観に動かされているのか、隣国日本の住人として関心を持たざるを得ない。ウクライナ民族の存在を否定し、大ロシア民族の裏切り者とみなすプーチン史観はまだ分かりやすい。しかし、声高に「中華民族」の統一を掲げる習近平史観は分かりにくい。
それをこの上なく明確に解説するのが本書だ。著者の潘岳は中国共産党第19期中央委員会候補委員で、本書刊行時点では国務院僑務弁公室主任だったが、今年6月に国家民族事務委員会主任に就任している。中国の少数民族政策の大元締めだ。その彼が、戦国時代とギリシャ、秦漢とローマ、中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入、という3つの時代の歴史を描きながら、「中華民族」イデオロギーの正当性を主張する。彼の提示する中核概念は「大一統」だ。人種や宗教の違いによって分裂してきた西欧文明と異なり、中国文明は夷狄と漢族が入り混じりながら統一を目指して造り上げてきた、というのだ。その焦点は南北朝時代のとりわけ五胡十六国といわれる北方異民族が作った中華風王朝に向けられる。彼が繰り返し説くのは、チベット系の氏や羌、トルコ系の鮮卑、そして匈奴出身の北朝の君主たちが、漢族の南朝よりも「大一統」を目指し、そのために先祖の風習を捨てて漢化に努めたということだ。ローマ帝国崩壊後のゲルマン族の諸国家はキリスト教のみが共通の「複数エスニック集団の分割世界」に堕していったが、「五胡政権の歴史観はこれとは完全に異なる、エスニック集団ごとに隔てられた「天下分割」ではなく、それらが混然一体化した「天下融合」である」と。潘岳は「五胡は自らを見失ったのか、それともより壮大な自己を獲得したのか」と問う。彼の答えは明らかだ。ウイグルだのチベットだのといったちっぽけなエスニック・アイデンティティにこだわることなく、中華民族という「壮大な自己」に同一化せよ。それが君たち少数民族の真の幸福なのだ、と。古代中国史を語っているように見えて、彼の視線が今日の中国の少数民族政策に向けられていることは明らかだろう。その彼が今や少数民族政策のトップに就任したわけである。本書の最後の章で、彼は歴史家として日本や欧米の中国史学を痛烈に批判する。白鳥庫吉らの「漢地十八省」論、「長城以北は中国に非ず」論、「満蒙蔵回は中国に属さず」論、「中国無国境」論、「清朝は国家に非ず」論、「異民族支配は幸福」論など、「人種をもって中国を解体する」一連の理論が、「現在ではこれが米国「新清史」観の前身となり、李登輝ら台独派の拠り所にもなっている」云々。彼に言わせれば、「中国は1世紀以上にわたって政治と文化の発言権を失い、「中国の歴史」は全て西洋と東洋(日本)によって書かれてきた」が、今こそそこから脱却し、「中華民族の物語はわたしたち自身の手で書かなければならない」のだ。ほとんど賛成できないけれども、今の中国が、習近平がどういう歴史観に立っているかをくっきりと浮き彫りにしてくれる。
安藤優子という著者名に聞き覚えのある方は多いだろう。テレビ朝日やフジテレビのニュースキャスターとして長年活躍してきた彼女は、一念発起して上智大学大学院に入学し、博士号を取得した。その博士論文が本書である。彼女は1958年生まれで筆者と同年齢。つまり均等法以前の世代であり、初めは男性司会者に「うなずく」アシスタントという役割から、政治の現場を取材し、メインキャスターを務めるようになる中で、政治家の、とりわけ自民党の女性認識に問題意識を持つようになったことがその背景にある。
この手の議論ではだいたい、伝統的な価値観が残存しているため云々という話になるのだが、彼女は意外なところに目をつける。1970年代後半から1980年代にかけての時期の自民党政権の思想的再編成に着目するのだ。この着目は、筆者の労働政策の時代区分とみごとに一致する。それまでの高度成長期における欧米ジョブ型社会を理想像とする近代化主義がやんわり否定され、それよりも優れたモデルとして日本的な集団主義(あるいはむしろ「間柄主義」)が称揚され、封建的だと否定的なまなざしを向けられがちだった「イエ社会」原理が、欧米よりも競争力の高い日本の強さの源泉として賞賛されるようになった時代だ。労働政策においては、この転換は労働力流動化政策から雇用維持・社内育成重視政策への転換として現れたが、社会保障政策においては日本型福祉社会論、すなわち福祉の基盤は家庭であり、主婦が「家庭長」として外で働く男性を支え面倒を見、余った時間はせいぜいパートとして働くというモデルの称揚として現れた。彼女が引用する自民党研修叢書『日本型福祉社会』(1979年)には、「このような日本型社会の良さと強みが将来も維持できるかどうかは、家庭のあり方、とりわけ『家庭長』である女性の意識や行動の変化に大いに依存している。簡単にいえば、女性が家庭の『経営』より外で働くことや社会的活動にウエートを移す傾向は今後続くものと思われるが、それは人生の安全保障システムとしての家庭を弱体化するのではないか」といった記述が頻出する。皮肉なことに、国連の女性差別撤廃条約が成立し、男女均等法に向けた動きが始まるこの時期に、性別役割分業論を宣明する政策文書が作成され、それが配偶者特別控除やパート減税、第3号被保険者等に結実していくことになる。一方政治の世界では、それまでの派閥解消を掲げる政党近代化論が「古臭い」と否定され、派閥という「大イエ」の連合体としての自民党こそが日本型多元主義の現れとして称揚される。曰く「日本の保守党は、日本社会の組織的特質にしっかりと立脚した個人後援会-派閥-政党というゆるやかな組織原則を堅持するべきだ」(グループ1984年「腐敗の研究」)。そして、この時期に再確立した「イエ中心主義」が、いまや国会議員の過半数を占める二世三世などの血縁による議席継承を生み出していると説くのである。本書の後半はこの観点からの自民党議員のキャリアパス分析なのだが、ここの評価は人によってさまざまであろう。個人的にはかなり疑問がある。むしろ、同じ共産党一党独裁でありながらソ連と異なり共産党幹部二世の「太子党」が政治権力を握る中国との比較があってもよいのではないかと感じた。
キャスリーン・セーレン『制度はいかに進化するか-技能形成の比較政治経済学』
産業革命の先頭走者であるイギリスでは、中世のギルドが崩壊した後を埋めたのは熟練職人たちの職種別組合(クラフト・ユニオン)で、徒弟制に基づく供給規制で労働市場をコントロールすることがその戦略だったことはウェッブ夫妻が描いた通り(拙著『働き方改革の世界史』参照)。それゆえ経営者は組合と対決して自由な決定権を取り戻すことが目標となったが、両者の対決のはざまで職場は混乱に陥り、どちらも得をしない低技能均衡の道を歩んでいく。ところが後発国のドイツでは、ギルドは生き残っただけではなく、保守的な帝国政府の支援で、イヌンクと呼ばれる手工業者団体が徒弟の技能認証権を独占した。これは、拡大しつつあった社会主義者を抑圧する保守的政策の一環で、決して労働者のためのものではなかったのだが、その後の歴史の荒波にもまれる中で、社会的市場経済の基軸となっていく。まず、手工業会議所による技能認証権の独占に不満を持ったのは大企業で、自社で養成した労働者にも資格を与えようとするが、手工業者は断固として拒否する。そのはざまで新興の労働組合は、企業内訓練に組合が関与するという方向を目指していく。それがワイマール時代の構図だが、歴史は単純に進まない。ナチス政権は労働組合を殲滅し、全体主義的なドイツ労働戦線を樹立するが、これが全ての若者に訓練の権利を保障し、企業に訓練を義務付け、手工業会議所の独占的地位を奪った。敗戦でそれが崩壊した後、占領下で再構築された訓練制度は、手工業者のギルド的独占でもなく、大企業のメンバーシップ型養成でもなく、産業レベルの労使協調に基づき、企業内のOJTで企業を超えた横断的技能を養成するデュアルシステムになっていた。もともと誰かがそうしようと図ったわけではないのに、様々なアクターのせめぎ合いと歴史のいたずらの結果、今日OECDから世界が見習うべきモデルと賞賛されるドイツ型訓練制度が出来てしまったというわけだ。この英独対比を軸に、それぞれの亜流としてのアメリカと日本の独自の「進化」が描かれる。ギルドの伝統を欠くアメリカでは、イギリス流の熟練労働者の組合運動は弱く、企業主導の反組合的な福祉資本主義が席巻するが、それを逆手にとった産業別組合運動が企業が構築した職務をよりどころにしたジョブ・コントロール・ユニオニズムを確立する。一方政府主導の産業化を進めた日本では、当初強力だった親方職人の影響力を遮断し、企業主導で子飼いの職工を養成する道を歩んでいくが、そのパターナリズムに乗っかる形で企業別組合が発展していく。四者四様のアラベスクだ、このように、「制度はいかに進化するか」というタイトルは、文字通り制度が元の創設者の意図を超えて生き物の如く「進化」していくものだという認識を表している。そう、本書が描く技能形成制度だけではない。世の様々な制度はみな、良きにつけ悪しきにつけ、「そんなはずじゃなかったのにいろんな経緯でそうなってしまった」ものなのだ。
台湾のデジタル発展担当大臣オードリー・タン(唐鳳)が強い影響を受けたという柄谷行人の交換様式論。2010年の『世界史の構造』(岩波現代文庫)で展開されたその理論を、改めて全面展開した本だ。今回は柄谷の本籍地であるマルクスの原典に寄り添いながら、彼が世の中で思われているような生産力と生産関係に基づく唯物史観ではなく、交換様式に着目して理論を組み立てていたのだと繰り返し力説する。多くのマルクス主義者が冗談だと思って顧みなかった交換が生み出す「物神」(フェティッシュ)の力こそが、人類の歴史を形作ってきたのだと彼は説く。でも、エコロジー絡みもそうだが、マルクスの真意など我われにはどうでも良いことだ。
彼が言う4つの交換様式のうち交換様式A(互酬:贈与と返礼)、交換様式B(略取と再分配:支配と保護)、交換様式C(商品交換:貨幣と商品)までは、カール・ポランニーやケネス・ボールディングらの3類型とも共通する考え方で、すっと頭に入る。評者も2004年に出した『労働法政策』の第1章「労働の文明史」で、似たような歴史観を展開してみたことがある。
問題は彼が4つ目の、そしてこれこそめざすべき理想像だといって提起する交換様式Dだ。正直言って、『世界史の構造』を読んだときも全然納得できず、こんなものは余計ではないかという感想を抱いた。似たような感想を持った者が多かったのだろう。そうではないのだ、交換様式Dとはかくも素晴らしいのだと力説するために本書が書かれた。残念ながらそれが成功しているようには思えない。少なくとも評者は依然として疑問だらけだ。
原始的な交換様式Aの高次元での回復というモチーフはよく理解できる。実際、古典古代のギリシャは、先進的かつ専制的なアジアの亜周辺として氏族社会的な未開性があったからこそ民主主義を生み出したのだし、中世封建制のゲルマンも専制化したローマの亜周辺としての未開性が自由と平等の近代社会の原動力となったのだ。本書では触れられていないが、中華帝国の亜周辺の日本のその辺縁から生まれた関東武士も似た位相にあるだろう。この歴史観はほぼ100%納得できる。
だが、第4部「社会主義の科学」で熱っぽく論じられる交換様式Dは空回りしているように思える。マルクスの弟子達が作り上げた交換様式Bによる最兇最悪のアジア的専制国家に対し、交換様式Aを復活させようとするユートピア社会主義には限界がある。だから交換様式Dだというのだが、それはキリスト教などの世界宗教が根ざしているものだという説明は繰り返されるけれども、具体的なイメージは遂に最後まで与えられない。もし本書を読んでそれが理解できた人がいるなら教えて欲しい。
率直に言って、人類は3つの交換様式の間で右往左往していくしかないのではないか。むしろ、この交換様式こそ絶対に最高最善と信じ込んで、その原理のみに基づいて社会を構築しようとしたときにこそ、我われは地獄を見るのではないか。共同性と権力性と市場性をほどほどに調合して騙し騙し運営していくことこそ、先祖が何回も地獄を見てきた我われ子孫の生きる知恵ではないのだろうか。
こうして読み返してみると、実にさまざまな本を紹介してきたものだという感慨が湧いてきます。
来年も引き続き『労働新聞』の書評を担当します。今度は「書方箋 この本、効キマス」という通しタイトルになるようです。
新年の書評は1月16日号に載りますので、今後ともご贔屓のほどよろしくお願い申し上げます。
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コメント
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中国の国家民族事務委員会主任のポストには1978~2020年まで少数民族出身者が就任していましたが、習近平体制下の2020年に漢民族に代わり、2022年に引き続き漢民族の藩岳氏が就任しています。副主任も漢民族4人、少数民族2人で漢民族が絶対多数です。
前身の民族事務委員会主任には、ウラーンフー(モンゴル族、1954~70年在任)という、チンギス・ハーンの陵墓を内モンゴルに再建させた、気骨あるモンゴル民族主義者が就任していたこともあった(「中国とモンゴルのはざまで」(楊 海英 著、岩波書店)のですから、この地位に就いた者の変遷からも、中国における少数民族の地位低下が見てとれますね。
投稿: SATO | 2023年1月10日 (火) 18時10分