努力とコスパのジョブ型とメンバーシップ型
なにやら努力とコスパの話題が盛り上がっているらしいけど、そもそも社会の在り方のベースモデルであるジョブ型がすっぽり抜け落ちた頭であれこれ考えれば考えるだけ訳が分からなくなるので、まずは古臭くて硬直的な、つまりは素直でシンプルなジョブ型で考えてみよう。
あるジョブにたどり着きたいのであれば、そのジョブを遂行できるスキルがあることを示さなければならない。そのためには、一生懸命努力してそのスキルを身につけなければいけない。世の中にはそのためにスキルを身につけるための教育訓練機関というのがあるので、そこにお金と時間というコストを払い込んで、も一つ一生懸命勉強するという無形のコストも払い込んで、「こいつはちゃんとこの仕事をするスキルを身につけました」という修了証書(ディプロマ)を発行してもらう。一般的にはこれは一番コストパフォーマンスのいいやり方。
世の中のジョブには高級から中級、低級までさまざまであり、それを遂行しうるスキルも高給から中級、低級までさまざまであり、そのスキルを身につけるための教育訓練機関もそうで、それに係るコストもそれに比例して、高コストから中コスト、低コストまでさまざまであり、そこにつぎ込むべき努力の量も高努力から中努力、低努力までさまざまだ。
ただ、いずれにしても、お金、時間、努力といったつぎ込むべきコストの高低と、それによって得られるディプロマの高低、それを使って獲得できるジョブの社会的評価の高低とは、対応していると考えられている。本当にそうなのか、と言い出すと山のような議論はありうるが(ブルシットジョブがどうとか)、少なくともジョブ型社会の建前はそういうことになっている。
末端の事務員のジョブに就くための必要な努力と、経営者というジョブに就くために必要な努力とは隔絶しているが、それぞれはそれぞれに努力のコスパはバランスが取れているわけだ。
日本でも、医療の世界では、つぎ込んだお金、時間、努力の高低が医者、看護師、医療関係技師、病院の下働き等々といった医療世界におけるジョブの高低に対応している。日本の中の例外的なジョブ型ワールドだからだ。
ところが、それ以外の一般企業社会、とりわけ文科系社員の世界はそれとは全く異なる原理で動いている。つぎ込むべき努力、コストが、具体的なジョブやスキルとまったく対応していないのだ。
戦後日本が作り出した平等イデオロギー社会においては、将来経営者になる社員もまずは末端の一事務員として一生懸命努力しなければならない。いや、ジョブ型社会の末端事務員とは違い、その仕事だけきちんとやってりゃいいだろうなんてふざけた考え方では馬鹿者と叱り飛ばされるのであって、係員は課長になったつもりで、係長は部長になったつもりで一生懸命努力しなければいけない。将来経営者になるつもりがなくても、こういう(ジョブ型社会からみれば意味不明な)過剰な努力を要求される。
そういう努力は実を結ぶのかといえば、かつての高度成長期にはやや可能性は高かったかもしれないが、元もと分子と分母が不均衡なのだから、ゼロ成長の社会ではコスパがいいはずはない。
努力とコスパが話題になるのは、そういう特殊メンバーシップ型社会の特殊事情ゆえなのだが、そういう発想はあまり見かけないようですね。
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努力とコスパ、と言う話であれば、本来は次のような話をすべきでしょうか。
A 高度成長時代のような経済成長の望めない現代日本においてメンバーシップ型雇用形態を必死に維持するための社会的な努力とコスパ
B メンバーシップ型雇用形態からジョブ型雇用形態に移行し、そしてジョブ型雇用を維持するための社会的な努力とコスパ
この二つの努力とコスパを比較して議論することが必要であろうかと愚考します。
投稿: balthazar | 2022年12月30日 (金) 20時44分