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2022年12月30日 (金)

木簡研究の職業的レリバンス

何やらどこぞのお役人さんらしき人が木簡研究がどうたらこうたら呟いたとかで小さな騒ぎになっとるとか風の噂が流れてきたようですが、もちろんそういうのに関わる気は毛頭ありませぬが、せっかくなので今や懐かしいレリバンスシリーズを再三になりますが年末の大掃除に合わせて虫干ししておくのも一興かと。

なお、タイトルの「木簡研究」と接合するためには、下記文中で「哲学・文学」とあるのは、「史学」と読み替えてください。それでほぼ趣旨は通じるはずです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html 哲学・文学の職業レリバンス

平家さんの「労働・社会問題」ブログで、大学教育の職業レリバンスをめぐって平家さんと私との間にやりとりがありました。これのもともとは、本田由紀先生のブログのコメント欄におけるやりとりです。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060327

この日のエントリーで、本田先生は例によって「大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか」云々という文章を引いて、大学教育の職業レリバンスの重要性というご自分のテーマを強調されていたわけですが、これに対するコメント欄において、「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、「哲学や国文でも、たとえばその学部・学科を出られた方がどんな仕事や活動に従事しており、学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育を提供することはできると思うのです。それと同時に、ある分野に関するメタレベルの認識を与えることが教育において常に意識される必要があると思います。たとえば国文ならば、文学や「言葉」とは人間にとっていかなる意味をもっているのか、それを紡ぎ出す出版や編集、マスメディアの世界にはどのような意義と陥穽があるのか、といったようなことです。いずれにしても、今を生きる人間の生身の生にかかわらせることなく、ただ特定の知識を飲み込め、というスタンスで教育がなされることには問題があると思います」と。

これは「通りすがり」氏の皮肉な口調に対する対応としては、あまりにも正面から受け答えされ過ぎたとも言えますし、逆に、通りすがり氏の無遠慮なものの言い方に変に遠慮して、本来のご自分の職業レリバンス論の意義を失わせるような後退をされたのではないかという印象も受けます。

このやり取りに対して、平家さんがご自分のブログで、やや違った観点からコメントをされました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_6.html

ここで平家さんが言われているのは、「大学のどのような学部であっても、学生に社会人として意味のあるスキル、能力を身につける機会を提供することは可能」であり、「それは「その主張の根拠を明示して、自分の主張を明確に述べるスキル」である、「哲学など人文科学系の学部は、むしろこういう教育に向いているのではないでしょうか」ということです。

これに対して、私は話がおかしくなっているのではないかと感じました。その旨を当該エントリーへのコメント欄に次のように書き込みました。

あえて、手厳しい言い方をさせていただければ、それは問題の建て方が間違っているのではないでしょうか。ここで言われているのはあくまで「職業的レリバンス」であって、そういう「人間力」的な話ではないはずです。いや、もちろん、そういう自己主張能力的なスキルは大事ですよ、でも、そのために哲学や文学をやると言うことにはならない。それは哲学や文学のそれ自体としての意義(即自的レリバンスとでもいいますか)に対してかえって失礼な物言いでしょう。それに、おそらく、ロースクールあたりで現実の素材を使ってやった方が、もっと有効でしょう。

問題は、大学教育というものの位置づけそれ自体にあるのではないでしょうか。学校教育法を読めばわかりますが、高校も高専も、短大も、大学院ですら、「職業」という言葉が出てきますが、大学には出てこないんです。職業教育機関などではないとふんぞり返っているわけですよ、大学は。実態は圧倒的に職業人養成になっているにもかかわらず。
冷ややかに言えば、哲学や文学をやった人のごく一部に大学における雇用機会を提供するために、他の多くの人々がつきあわされているわけです、趣味としてね。いや、男女性別役割分業のもとでは、それはそれなりに有効に機能してきたとは言えます。しかし、もはやサステナブルではなくなってきた、そういうことでしょう。

特に後半はかなり舌っ足らずなので、大変誤解を招きかねない表現になっていますが、前半でいってることは明確だと思います。ただ、話が本田先生のブログから始まっただけに、私が本田先生の立場に立ってものを言っているという風に誤解されてしまった嫌いがあるようです。

平家さんは翌々日のエントリーで、

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_8.html

「私としては、問題を発展させたという意識です」と言われています。それはそうなんですよ。もとの本田先生のコメント自体が、哲学や国文にも職業レリバンスを見つけようという(どこまで本気かはわかりませんが)姿勢で書かれていますから。私としては、そういう回答の仕方自体が、「問題の建て方が間違っている」と言いたかったわけです。本田先生自身が自分の主張を裏切っているのではないか、と言っているのです。

いや、もちろん、これは「職業レリバンス」なる言葉の定義をどうするかということに最後は至りつくのです。しかし、こういう本田先生のコメントや、それを発展させた平家さんのコメントの方向性というのは、結局、職業レリバンスというものを、現実の労働市場から引き離し、何やら抽象的な「メタレベルの認識」だの、「人間にとっていかなる意味」だの、いやもちろん大いに結構ですよ、大いにおやりになればよい、私も大好きだ、趣味としてね、しかしそういう観念的な世界に持ち出すだけではないかと言いたかったわけです。

実際、本田先生のコメントや平家さんのコメントに見られるのは、まさに本田先生が「言うな!」と叫んでおられる「人間力」そのものではありませんかね。私は、実は人間力なるものはそれなりに大事だと思うし、「言うな!」とまで叫ぶ気はありませんが、少なくとも「職業レリバンス」が問題になっているまさにその場面で、そういう得体の知れない人間力まがいを提示するというのはいかがなものか、と言わざるを得ません。ご自分の主張を裏切っているというのはそういうことです。

上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

(追記)

あり得べき誤解を避けるため、平家さんのブログのコメント欄に以下のようなコメントを追加しておきました。

私は、個人的には哲学や文学は好きです。特に、哲学は大好きといってもいい。「哲学者や文学者も生かして置いた方が豊かな生活が送れる」と思っています。そして、そういう人々を生かしておくためには、「哲学や文学を教える」役割の人間を一定数社会の中に確保しておくことが重要であろうと考えています。問題は、それを”制度的に”「教えられる」側の人間の職業生涯との関係で、それをどう社会的に調整すべきかということです。
「性別役割分業の下での有効性のお話」は、そういう意味合いで申し上げたことです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html 職業レリバンス再論

平家さんのブログでのやり取りに始まる11日のエントリーの続きです。

平家さんから再コメントを頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_11.html

この中で、平家さんは「大学の先生方が学生を教えるとき、常に職業的レリバンスを意識する必要はないと思っています。勿論、医学、薬学、工学など職業に直結した教育というものは存在します。そこでは既にそういうものが意識されている、というよりは意識しなくても当然のごとくそういう教育がなされているのです。法学部の一部もそういう傾向を持っているようです。問題は、むしろ、柳井教授が指摘されているように経済、経営、商などの学部や人文科学系の学部にあるのです」と言われ、「特に人文科学系の学問(大学の歴史をたどればこれが本家本元に近いでしょう。)は、学者、ないしそれに近い知的な職業につくケースを除けば、それほど職業に直結していません。ですから、そういう学問を教えるときに職業的レリバンスを意識しても、やれることには限界があります」と述べておられます。

この点については、私は冒頭の理科系応用科学分野及び最後の(哲学や文学などの)人文系学問に関する限り、同じ意見なのです。後者については、まさにそういうことを言いたいたかったのですけどね。それが、採用の際の「官能」として役立つかとか、就職後の一般的な能力として役立つかどうかと言うことは、(それ自体としては重要な意義を有しているかも知れないけれども)少なくとも大学で教えられる中味の職業レリバンスとは関係のない話であると言うことも、また同意できる点でありましょう。

しかしながら、実は大学教育の職業レリバンスなるものが問題になるとすれば、それはその真ん中に書かれている「経済、経営、商などの学部」についての問題であるはずなんですね。この点について、上記平家さんのブログに、次のようなコメントを書き込みました。

きちんとした議論は改めてやりますが、要するに、問題は狭い意味での「人文系」学部にはないのです。なぜなら、ごく一部の研究者になろうとする人にとってはまさに職業レリバンスがある内容だし、そうでない多くの学生にとっては(はっきり言って)カルチャーセンターなんですから。
ところが、「経済、経営、商などの学部」は、本来単なる教養としてお勉強するものではないでしょう(まあ、中には「教養としての経済学」を勉強したくってきている人がいるかも知れないが、それはここでは対象外。)文学部なんてつぶしのきかない所じゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところにきた人が問題なんです。

現在の大学の「職業レリバンス」の問題ってのは、だいたいそこに集約されるわけで、そこに、実は本来問題などないはずの哲学や文学やってる人間の(研究職への就職以外の)職業レリバンスなどというおかしな問題提起に変な対応を(本田先生が)されたところから、多分話が狂ってきたんでしょうね。
実は、今燃え上がっている就職サイトの問題も、根っこは同じでしょう。職業レリバンスのある教育をきちんとしていて、世の中もそれを採用の基準にしているのであれば、その教育水準を足きりに使うのは当然の話。

もちっと刺激的な言い方をしますとね。哲学や文学なら、そういう学問が世の中に存在し続けることが大事だから、大学にそれを研究する職業をこしらえ、その養成用にしてははるかに多くの学生を集めて結果的に彼らを搾取するというのは、社会システムとしては一定の合理性があります。
しかし、哲学や文学というところを経済学とか経営学と置き換えて同じロジックが社会的に正当化できるかというと、私は大変疑問です。そこんところです。

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。しっかりとした職業教育を施していると認められている学校と、いいかげんな職業教育しかしていない学校とで、差をつけないとしたら、その方がおかしい。

足切りがけしからん等という議論が出てくるということ自体が、職業レリバンスのないことをやってますという証拠みたいなものでしょう。いや、そもそも上記厳密な意味の人文系学問をやって普通に就職したいなんて場合、例えば勉強した哲学自体が仕事に役立つなんて誰も思わないんだから、もっぱら「官能」によるスクリーニングになったって、それは初めから当然のことなわけです。

経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

(法学部については、一面で上記経済学部等と同じ面を持つと同時に、他面で(一部ですが)むしろ理科系応用科学系と似た側面もあり、ロースクールはどうなんだ、などという話もあるので、ここではパスしておきます)

<追記>

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417

「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」

おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html なおも職業レリバンス


平家さんからさらにお返事を頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_14.html

「あまり意見に差がないのです」と仰るとおり、既に対立する議論を戦わせるというよりは、お互いに面白いネタを転がしているという感じになっていますが、あえてネタを膨らませてみましょう。

私は公共政策大学院というところでここ3年「労働法政策」という授業をやってきているんですが、あるトピックで学生から大変興味深い反応が出てきたことがあります。

それは男女雇用均等法政策の中で、最近話題になっている間接差別を取り上げたときなんですが、2004年に出された男女雇用機会均等政策研究会報告の中で提示された間接差別に該当する可能性のあるとされた7つの事例を紹介して、あなた方はどう思いますか?と尋ねたときに、学生たちが一致して「そんなのは自分で選んだんじゃないか、何を言ってるんだ」と大変否定的な反応が返ってきたのが、「募集・採用に当たって一定の学歴・学部を要件とすること」だったんですね。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/06/h0622-1.html

ここに顕れているのは、、まさに平家さんの言われる「、「『経済、経営、商』などの学部」の学生が「文学部なんてつぶしの利かないところじゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところに来た人」であるとすると、そのような志向を持った人を選び出すために、どのような学部を卒業したかという情報を利用」するということでしょう。

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html 大学教育の職業レリバンス

4月の11,17,25日に、平家さんとの間でやり取りした大学教育の職業レリバンスの話題ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html

その後、稲葉先生のブログ経由で、東大教育学部の広田先生がこの問題に関連する大変興味深いエッセイを書いておられることを知りました。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060513#p2

内容の簡単な要約は以下にあります。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20060502/p2

特に面白いのは次の一節です。

「しかし、日本の人文・社会科学のこれまでの発展を支えてきたのは、実はこうした研究者を養成しない大学なのだ。大学院を終えた若手の研究者の大半は、それら地方国立大や中堅以下の私学に就職してきた。雑務も授業負担もまだ少なかったし、研究者を養成しないまでも、研究を尊重する雰囲気があった。・・・いわば、地方国立大や中堅以下の私学が、次の次代を担う若手研究者の育成場所となってきたのだ。

地方国立大や中堅以下の私学が研究機能を切り捨てて、顧客たる学生へのサービスを高度化させようとするのは、大学の組織的生き残りを目指す経営の論理からいうと、合理的である。・・・だが、その結果、若手の有望な研究者がせっかく就職しても、その後研究する余裕がない。」云々

この一節に対しては、山形浩生さんが

http://cruel.org/other/rumors.html#item2006050101

で、いかにも実務家インテリとしての感想を漏らされています。「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」というのは、おそらくかなり多くの人々の共感を呼ぶ罵声でしょう。「悪い意味での朝日体質」とは必ずしも思いませんが。というか、保守系人文屋も同じだと思うので。

ただ、これはそういって済ませられるだけの問題でもないだろうとも思います。稲葉先生が的確に指摘されているように、これは「研究者・高等教育担当者の労働市場の問題」なのであり、そういう観点からのアプローチが必要なはずです。

私には、まずもって「人文・社会系」と対象を大くくりにすることが問題を混乱させているように思われます。その中には、大学で教えられる教育内容が、大学教授となること以外には職業レリバンスがほとんどないような領域もあれば、企業や役所に就職してからの実務に多かれ少なかれ職業レリバンスが存在する領域もあるからです。

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。

ところが、この議論がそのまま広田先生とそのお弟子さんたちに適用できるのかというと、ちょっと待ってくれという点があります。彼らは教育学部なんですよね。教育学部っていうのは、社会的位置づけがある意味で180度違う分野です。

もともと、大学の教育学部というのは、ただ一つを除いて、戦前の師範学校、高等師範学校の後継者です。つまり、学校の先生という職業人を養成する職業教育機関であって、しかも最近はかなり揺らいできているようですが、教育学部卒業と(大学以外の)教師たる職業の対応性は、医学部や薬学部並みに高かったわけで、実は人文・社会系と一括してはいけないくらい職業レリバンスの例外的に高い領域であったわけです。

ただ一つの例外というのが、広田先生がおられる東大の教育学部で、ここだけはフツーのガッコのセンセなんかじゃなく、教育学というアカデミックな学問を研究するところでした。そこを出た若い研究者の卵が、ガッコのセンセを養成する職業訓練校に就職して、肝心の訓練指導をおろそかにして自分の研究ばかりしていたんではやっぱりますいんでなかろうか、という感じもします。

実は、こういう研究者養成システムと実務家養成システムを有機的に組み合わせたシステムというのは、理科系ではむしろ一般的ですし、法学部なんかはかなりいい加減ですが、そういう面もあったと言えないことはありません。ロースクールはそれを極度に強調した形ですが、逆に狭い意味でのローヤー養成に偏りすぎて、医療でいうパラメディカルに相当するようなパラリーガルの養成が抜け落ちてしまっている印象もありますが。

いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

もちろん、このシステムは、研究の論理と職業訓練の論理という容易に融合しがたいものをくっつけているわけですから、その接点ではいろいろと矛盾が生じるのは当たり前です。訓練を受ける側からすれば、そんな寝言みたいな話ではなく、もっと就職してから役に立つことを教えてくれという要求が出やすいし、研究者の卵からは上で広田先生が書かれているような苦情がでやすいでしょう。

しかし、マクロ社会的なコストを考えれば、そういうコンフリクトを生み出しながらも、そういう仕組みの方がよりヒューマンなものではないだろうか、と思うわけです。

では、人文・社会系で一番多くの人口を誇る経済系の学部は一体どっちなんだろう、というのが次の問題ですが、とりあえず今日はここまで。

<追記>

読み返してみると、やや広田先生とそのお弟子さんたちに揶揄的に見えるような表現になっている感があり、若干の追記をしておきたいと思います。

実は、広田先生とそのお弟子さんたちの業績に『職業と選抜の歴史社会学-国鉄と社会諸階層』(世織書房)というのがあり、国鉄に焦点を当てて、近代日本のノンエリートの青少年たちの学歴と職業の姿を鮮烈に描き出した傑作です。こういうノンエリートへの暖かいまなざしに満ちた業績を生み出すためには、上で引用したようなノンエリートへの同情なき研究エゴイズムが充たされなければならないのか、というところが、この問題の一番難しいところなのだろうな、と思うわけです。

 

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コメント

私は今会計学が必須な職場で働いていますが、本来であれば帳簿の基本的な知識を習得していなければ出来ない職業に就いている人にすら、そのような基本的知識が身に着いていない人が多い事に驚くことがあります。

これは日本では戦後普通科高校がスタンダードになってしまい、会計学の基礎知識を習得することが出来る商業高校の地位があまり評価されていない事が大きいかと思います。
商業高校は職業レリバンスが高いですし、本田由紀さんも以前普通科に比べるとフリーターに陥る比率が少ないと言っていたと思います。
でも普通科高校に比べると社会的評価が低い。
この傾向は中学校の先生たちの進学指導が大きいと思います。
しかしその先生は職業レリバンスの高い教育学部出身者がほとんどです。
職業レリバンスの高い学部出身者が職業レリバンスの高い学校への進学をあまり勧めていない、と言うのはよろしくないのでは。

まさに、会計の専門知識がない素人でも、上司や先輩にぶん殴られながらOJTで仕事を覚えていけば、はい、俺のように立派に仕事ができるようになるんだぞ、という無数の成功体験が戦後積み重ねられてきたことの帰結でしょうから、そう簡単に変わりようはないのでしょう。

教師たちについていえば、教師という職業とのレリバンスが極めて高い教育内容でありながら、、そういう意識が欠落してしまうのは、普通科対職業科という二項対立図式の中で、自分たちの職業教育内容をそう捉えられなくなっているからなのでしょうが、上で書いたようにそもそも(ごく一部の)大学教師になるための職業教育たる「木簡研究」をそのようにとらえない虚偽意識の帰結でもありましょう。

1:やりたければ勝手にやればいいのであって、それを規制するのは
  学問の自由への侵害であり、断固反対する!
2:えっ、給料が欲しい?まっ、それは「需要と供給」の問題だね~

ってなるはずのところを、何らかの(無自覚な?)意図で混同させて
いるのでしょう

よく考えると、歴史学といっても、日本史研究と西洋史研究とでは職業的レリバンスはだいぶ違うようにも思われます。
日本史を学んで古文書の読み方とかを勉強した人は、大学の先生というような極めて狭小なアカデミックポストには就けなくても、全国の教育委員会の学芸員とか、もろもろのストリートレベルのアカデミックポストがあるので、それなりに使いではあるのでしょう。それに対して、西洋史を学んだ場合には、そういう就職の場はほとんどないと思われるので、実は上のエントリの「木簡研究」云々というのは、必ずしも適切ではないのかもしれません。

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