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2022年12月

2022年12月30日 (金)

木簡研究の職業的レリバンス

何やらどこぞのお役人さんらしき人が木簡研究がどうたらこうたら呟いたとかで小さな騒ぎになっとるとか風の噂が流れてきたようですが、もちろんそういうのに関わる気は毛頭ありませぬが、せっかくなので今や懐かしいレリバンスシリーズを再三になりますが年末の大掃除に合わせて虫干ししておくのも一興かと。

なお、タイトルの「木簡研究」と接合するためには、下記文中で「哲学・文学」とあるのは、「史学」と読み替えてください。それでほぼ趣旨は通じるはずです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html 哲学・文学の職業レリバンス

平家さんの「労働・社会問題」ブログで、大学教育の職業レリバンスをめぐって平家さんと私との間にやりとりがありました。これのもともとは、本田由紀先生のブログのコメント欄におけるやりとりです。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060327

この日のエントリーで、本田先生は例によって「大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか」云々という文章を引いて、大学教育の職業レリバンスの重要性というご自分のテーマを強調されていたわけですが、これに対するコメント欄において、「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、「哲学や国文でも、たとえばその学部・学科を出られた方がどんな仕事や活動に従事しており、学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育を提供することはできると思うのです。それと同時に、ある分野に関するメタレベルの認識を与えることが教育において常に意識される必要があると思います。たとえば国文ならば、文学や「言葉」とは人間にとっていかなる意味をもっているのか、それを紡ぎ出す出版や編集、マスメディアの世界にはどのような意義と陥穽があるのか、といったようなことです。いずれにしても、今を生きる人間の生身の生にかかわらせることなく、ただ特定の知識を飲み込め、というスタンスで教育がなされることには問題があると思います」と。

これは「通りすがり」氏の皮肉な口調に対する対応としては、あまりにも正面から受け答えされ過ぎたとも言えますし、逆に、通りすがり氏の無遠慮なものの言い方に変に遠慮して、本来のご自分の職業レリバンス論の意義を失わせるような後退をされたのではないかという印象も受けます。

このやり取りに対して、平家さんがご自分のブログで、やや違った観点からコメントをされました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_6.html

ここで平家さんが言われているのは、「大学のどのような学部であっても、学生に社会人として意味のあるスキル、能力を身につける機会を提供することは可能」であり、「それは「その主張の根拠を明示して、自分の主張を明確に述べるスキル」である、「哲学など人文科学系の学部は、むしろこういう教育に向いているのではないでしょうか」ということです。

これに対して、私は話がおかしくなっているのではないかと感じました。その旨を当該エントリーへのコメント欄に次のように書き込みました。

あえて、手厳しい言い方をさせていただければ、それは問題の建て方が間違っているのではないでしょうか。ここで言われているのはあくまで「職業的レリバンス」であって、そういう「人間力」的な話ではないはずです。いや、もちろん、そういう自己主張能力的なスキルは大事ですよ、でも、そのために哲学や文学をやると言うことにはならない。それは哲学や文学のそれ自体としての意義(即自的レリバンスとでもいいますか)に対してかえって失礼な物言いでしょう。それに、おそらく、ロースクールあたりで現実の素材を使ってやった方が、もっと有効でしょう。

問題は、大学教育というものの位置づけそれ自体にあるのではないでしょうか。学校教育法を読めばわかりますが、高校も高専も、短大も、大学院ですら、「職業」という言葉が出てきますが、大学には出てこないんです。職業教育機関などではないとふんぞり返っているわけですよ、大学は。実態は圧倒的に職業人養成になっているにもかかわらず。
冷ややかに言えば、哲学や文学をやった人のごく一部に大学における雇用機会を提供するために、他の多くの人々がつきあわされているわけです、趣味としてね。いや、男女性別役割分業のもとでは、それはそれなりに有効に機能してきたとは言えます。しかし、もはやサステナブルではなくなってきた、そういうことでしょう。

特に後半はかなり舌っ足らずなので、大変誤解を招きかねない表現になっていますが、前半でいってることは明確だと思います。ただ、話が本田先生のブログから始まっただけに、私が本田先生の立場に立ってものを言っているという風に誤解されてしまった嫌いがあるようです。

平家さんは翌々日のエントリーで、

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_8.html

「私としては、問題を発展させたという意識です」と言われています。それはそうなんですよ。もとの本田先生のコメント自体が、哲学や国文にも職業レリバンスを見つけようという(どこまで本気かはわかりませんが)姿勢で書かれていますから。私としては、そういう回答の仕方自体が、「問題の建て方が間違っている」と言いたかったわけです。本田先生自身が自分の主張を裏切っているのではないか、と言っているのです。

いや、もちろん、これは「職業レリバンス」なる言葉の定義をどうするかということに最後は至りつくのです。しかし、こういう本田先生のコメントや、それを発展させた平家さんのコメントの方向性というのは、結局、職業レリバンスというものを、現実の労働市場から引き離し、何やら抽象的な「メタレベルの認識」だの、「人間にとっていかなる意味」だの、いやもちろん大いに結構ですよ、大いにおやりになればよい、私も大好きだ、趣味としてね、しかしそういう観念的な世界に持ち出すだけではないかと言いたかったわけです。

実際、本田先生のコメントや平家さんのコメントに見られるのは、まさに本田先生が「言うな!」と叫んでおられる「人間力」そのものではありませんかね。私は、実は人間力なるものはそれなりに大事だと思うし、「言うな!」とまで叫ぶ気はありませんが、少なくとも「職業レリバンス」が問題になっているまさにその場面で、そういう得体の知れない人間力まがいを提示するというのはいかがなものか、と言わざるを得ません。ご自分の主張を裏切っているというのはそういうことです。

上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

(追記)

あり得べき誤解を避けるため、平家さんのブログのコメント欄に以下のようなコメントを追加しておきました。

私は、個人的には哲学や文学は好きです。特に、哲学は大好きといってもいい。「哲学者や文学者も生かして置いた方が豊かな生活が送れる」と思っています。そして、そういう人々を生かしておくためには、「哲学や文学を教える」役割の人間を一定数社会の中に確保しておくことが重要であろうと考えています。問題は、それを”制度的に”「教えられる」側の人間の職業生涯との関係で、それをどう社会的に調整すべきかということです。
「性別役割分業の下での有効性のお話」は、そういう意味合いで申し上げたことです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html 職業レリバンス再論

平家さんのブログでのやり取りに始まる11日のエントリーの続きです。

平家さんから再コメントを頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_11.html

この中で、平家さんは「大学の先生方が学生を教えるとき、常に職業的レリバンスを意識する必要はないと思っています。勿論、医学、薬学、工学など職業に直結した教育というものは存在します。そこでは既にそういうものが意識されている、というよりは意識しなくても当然のごとくそういう教育がなされているのです。法学部の一部もそういう傾向を持っているようです。問題は、むしろ、柳井教授が指摘されているように経済、経営、商などの学部や人文科学系の学部にあるのです」と言われ、「特に人文科学系の学問(大学の歴史をたどればこれが本家本元に近いでしょう。)は、学者、ないしそれに近い知的な職業につくケースを除けば、それほど職業に直結していません。ですから、そういう学問を教えるときに職業的レリバンスを意識しても、やれることには限界があります」と述べておられます。

この点については、私は冒頭の理科系応用科学分野及び最後の(哲学や文学などの)人文系学問に関する限り、同じ意見なのです。後者については、まさにそういうことを言いたいたかったのですけどね。それが、採用の際の「官能」として役立つかとか、就職後の一般的な能力として役立つかどうかと言うことは、(それ自体としては重要な意義を有しているかも知れないけれども)少なくとも大学で教えられる中味の職業レリバンスとは関係のない話であると言うことも、また同意できる点でありましょう。

しかしながら、実は大学教育の職業レリバンスなるものが問題になるとすれば、それはその真ん中に書かれている「経済、経営、商などの学部」についての問題であるはずなんですね。この点について、上記平家さんのブログに、次のようなコメントを書き込みました。

きちんとした議論は改めてやりますが、要するに、問題は狭い意味での「人文系」学部にはないのです。なぜなら、ごく一部の研究者になろうとする人にとってはまさに職業レリバンスがある内容だし、そうでない多くの学生にとっては(はっきり言って)カルチャーセンターなんですから。
ところが、「経済、経営、商などの学部」は、本来単なる教養としてお勉強するものではないでしょう(まあ、中には「教養としての経済学」を勉強したくってきている人がいるかも知れないが、それはここでは対象外。)文学部なんてつぶしのきかない所じゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところにきた人が問題なんです。

現在の大学の「職業レリバンス」の問題ってのは、だいたいそこに集約されるわけで、そこに、実は本来問題などないはずの哲学や文学やってる人間の(研究職への就職以外の)職業レリバンスなどというおかしな問題提起に変な対応を(本田先生が)されたところから、多分話が狂ってきたんでしょうね。
実は、今燃え上がっている就職サイトの問題も、根っこは同じでしょう。職業レリバンスのある教育をきちんとしていて、世の中もそれを採用の基準にしているのであれば、その教育水準を足きりに使うのは当然の話。

もちっと刺激的な言い方をしますとね。哲学や文学なら、そういう学問が世の中に存在し続けることが大事だから、大学にそれを研究する職業をこしらえ、その養成用にしてははるかに多くの学生を集めて結果的に彼らを搾取するというのは、社会システムとしては一定の合理性があります。
しかし、哲学や文学というところを経済学とか経営学と置き換えて同じロジックが社会的に正当化できるかというと、私は大変疑問です。そこんところです。

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。しっかりとした職業教育を施していると認められている学校と、いいかげんな職業教育しかしていない学校とで、差をつけないとしたら、その方がおかしい。

足切りがけしからん等という議論が出てくるということ自体が、職業レリバンスのないことをやってますという証拠みたいなものでしょう。いや、そもそも上記厳密な意味の人文系学問をやって普通に就職したいなんて場合、例えば勉強した哲学自体が仕事に役立つなんて誰も思わないんだから、もっぱら「官能」によるスクリーニングになったって、それは初めから当然のことなわけです。

経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

(法学部については、一面で上記経済学部等と同じ面を持つと同時に、他面で(一部ですが)むしろ理科系応用科学系と似た側面もあり、ロースクールはどうなんだ、などという話もあるので、ここではパスしておきます)

<追記>

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417

「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」

おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html なおも職業レリバンス


平家さんからさらにお返事を頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_14.html

「あまり意見に差がないのです」と仰るとおり、既に対立する議論を戦わせるというよりは、お互いに面白いネタを転がしているという感じになっていますが、あえてネタを膨らませてみましょう。

私は公共政策大学院というところでここ3年「労働法政策」という授業をやってきているんですが、あるトピックで学生から大変興味深い反応が出てきたことがあります。

それは男女雇用均等法政策の中で、最近話題になっている間接差別を取り上げたときなんですが、2004年に出された男女雇用機会均等政策研究会報告の中で提示された間接差別に該当する可能性のあるとされた7つの事例を紹介して、あなた方はどう思いますか?と尋ねたときに、学生たちが一致して「そんなのは自分で選んだんじゃないか、何を言ってるんだ」と大変否定的な反応が返ってきたのが、「募集・採用に当たって一定の学歴・学部を要件とすること」だったんですね。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/06/h0622-1.html

ここに顕れているのは、、まさに平家さんの言われる「、「『経済、経営、商』などの学部」の学生が「文学部なんてつぶしの利かないところじゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところに来た人」であるとすると、そのような志向を持った人を選び出すために、どのような学部を卒業したかという情報を利用」するということでしょう。

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html 大学教育の職業レリバンス

4月の11,17,25日に、平家さんとの間でやり取りした大学教育の職業レリバンスの話題ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html

その後、稲葉先生のブログ経由で、東大教育学部の広田先生がこの問題に関連する大変興味深いエッセイを書いておられることを知りました。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060513#p2

内容の簡単な要約は以下にあります。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20060502/p2

特に面白いのは次の一節です。

「しかし、日本の人文・社会科学のこれまでの発展を支えてきたのは、実はこうした研究者を養成しない大学なのだ。大学院を終えた若手の研究者の大半は、それら地方国立大や中堅以下の私学に就職してきた。雑務も授業負担もまだ少なかったし、研究者を養成しないまでも、研究を尊重する雰囲気があった。・・・いわば、地方国立大や中堅以下の私学が、次の次代を担う若手研究者の育成場所となってきたのだ。

地方国立大や中堅以下の私学が研究機能を切り捨てて、顧客たる学生へのサービスを高度化させようとするのは、大学の組織的生き残りを目指す経営の論理からいうと、合理的である。・・・だが、その結果、若手の有望な研究者がせっかく就職しても、その後研究する余裕がない。」云々

この一節に対しては、山形浩生さんが

http://cruel.org/other/rumors.html#item2006050101

で、いかにも実務家インテリとしての感想を漏らされています。「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」というのは、おそらくかなり多くの人々の共感を呼ぶ罵声でしょう。「悪い意味での朝日体質」とは必ずしも思いませんが。というか、保守系人文屋も同じだと思うので。

ただ、これはそういって済ませられるだけの問題でもないだろうとも思います。稲葉先生が的確に指摘されているように、これは「研究者・高等教育担当者の労働市場の問題」なのであり、そういう観点からのアプローチが必要なはずです。

私には、まずもって「人文・社会系」と対象を大くくりにすることが問題を混乱させているように思われます。その中には、大学で教えられる教育内容が、大学教授となること以外には職業レリバンスがほとんどないような領域もあれば、企業や役所に就職してからの実務に多かれ少なかれ職業レリバンスが存在する領域もあるからです。

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。

ところが、この議論がそのまま広田先生とそのお弟子さんたちに適用できるのかというと、ちょっと待ってくれという点があります。彼らは教育学部なんですよね。教育学部っていうのは、社会的位置づけがある意味で180度違う分野です。

もともと、大学の教育学部というのは、ただ一つを除いて、戦前の師範学校、高等師範学校の後継者です。つまり、学校の先生という職業人を養成する職業教育機関であって、しかも最近はかなり揺らいできているようですが、教育学部卒業と(大学以外の)教師たる職業の対応性は、医学部や薬学部並みに高かったわけで、実は人文・社会系と一括してはいけないくらい職業レリバンスの例外的に高い領域であったわけです。

ただ一つの例外というのが、広田先生がおられる東大の教育学部で、ここだけはフツーのガッコのセンセなんかじゃなく、教育学というアカデミックな学問を研究するところでした。そこを出た若い研究者の卵が、ガッコのセンセを養成する職業訓練校に就職して、肝心の訓練指導をおろそかにして自分の研究ばかりしていたんではやっぱりますいんでなかろうか、という感じもします。

実は、こういう研究者養成システムと実務家養成システムを有機的に組み合わせたシステムというのは、理科系ではむしろ一般的ですし、法学部なんかはかなりいい加減ですが、そういう面もあったと言えないことはありません。ロースクールはそれを極度に強調した形ですが、逆に狭い意味でのローヤー養成に偏りすぎて、医療でいうパラメディカルに相当するようなパラリーガルの養成が抜け落ちてしまっている印象もありますが。

いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

もちろん、このシステムは、研究の論理と職業訓練の論理という容易に融合しがたいものをくっつけているわけですから、その接点ではいろいろと矛盾が生じるのは当たり前です。訓練を受ける側からすれば、そんな寝言みたいな話ではなく、もっと就職してから役に立つことを教えてくれという要求が出やすいし、研究者の卵からは上で広田先生が書かれているような苦情がでやすいでしょう。

しかし、マクロ社会的なコストを考えれば、そういうコンフリクトを生み出しながらも、そういう仕組みの方がよりヒューマンなものではないだろうか、と思うわけです。

では、人文・社会系で一番多くの人口を誇る経済系の学部は一体どっちなんだろう、というのが次の問題ですが、とりあえず今日はここまで。

<追記>

読み返してみると、やや広田先生とそのお弟子さんたちに揶揄的に見えるような表現になっている感があり、若干の追記をしておきたいと思います。

実は、広田先生とそのお弟子さんたちの業績に『職業と選抜の歴史社会学-国鉄と社会諸階層』(世織書房)というのがあり、国鉄に焦点を当てて、近代日本のノンエリートの青少年たちの学歴と職業の姿を鮮烈に描き出した傑作です。こういうノンエリートへの暖かいまなざしに満ちた業績を生み出すためには、上で引用したようなノンエリートへの同情なき研究エゴイズムが充たされなければならないのか、というところが、この問題の一番難しいところなのだろうな、と思うわけです。

 

努力とコスパのジョブ型とメンバーシップ型

なにやら努力とコスパの話題が盛り上がっているらしいけど、そもそも社会の在り方のベースモデルであるジョブ型がすっぽり抜け落ちた頭であれこれ考えれば考えるだけ訳が分からなくなるので、まずは古臭くて硬直的な、つまりは素直でシンプルなジョブ型で考えてみよう。

あるジョブにたどり着きたいのであれば、そのジョブを遂行できるスキルがあることを示さなければならない。そのためには、一生懸命努力してそのスキルを身につけなければいけない。世の中にはそのためにスキルを身につけるための教育訓練機関というのがあるので、そこにお金と時間というコストを払い込んで、も一つ一生懸命勉強するという無形のコストも払い込んで、「こいつはちゃんとこの仕事をするスキルを身につけました」という修了証書(ディプロマ)を発行してもらう。一般的にはこれは一番コストパフォーマンスのいいやり方。

世の中のジョブには高級から中級、低級までさまざまであり、それを遂行しうるスキルも高給から中級、低級までさまざまであり、そのスキルを身につけるための教育訓練機関もそうで、それに係るコストもそれに比例して、高コストから中コスト、低コストまでさまざまであり、そこにつぎ込むべき努力の量も高努力から中努力、低努力までさまざまだ。

ただ、いずれにしても、お金、時間、努力といったつぎ込むべきコストの高低と、それによって得られるディプロマの高低、それを使って獲得できるジョブの社会的評価の高低とは、対応していると考えられている。本当にそうなのか、と言い出すと山のような議論はありうるが(ブルシットジョブがどうとか)、少なくともジョブ型社会の建前はそういうことになっている。

末端の事務員のジョブに就くための必要な努力と、経営者というジョブに就くために必要な努力とは隔絶しているが、それぞれはそれぞれに努力のコスパはバランスが取れているわけだ。

日本でも、医療の世界では、つぎ込んだお金、時間、努力の高低が医者、看護師、医療関係技師、病院の下働き等々といった医療世界におけるジョブの高低に対応している。日本の中の例外的なジョブ型ワールドだからだ。

ところが、それ以外の一般企業社会、とりわけ文科系社員の世界はそれとは全く異なる原理で動いている。つぎ込むべき努力、コストが、具体的なジョブやスキルとまったく対応していないのだ。

戦後日本が作り出した平等イデオロギー社会においては、将来経営者になる社員もまずは末端の一事務員として一生懸命努力しなければならない。いや、ジョブ型社会の末端事務員とは違い、その仕事だけきちんとやってりゃいいだろうなんてふざけた考え方では馬鹿者と叱り飛ばされるのであって、係員は課長になったつもりで、係長は部長になったつもりで一生懸命努力しなければいけない。将来経営者になるつもりがなくても、こういう(ジョブ型社会からみれば意味不明な)過剰な努力を要求される。

そういう努力は実を結ぶのかといえば、かつての高度成長期にはやや可能性は高かったかもしれないが、元もと分子と分母が不均衡なのだから、ゼロ成長の社会ではコスパがいいはずはない。

努力とコスパが話題になるのは、そういう特殊メンバーシップ型社会の特殊事情ゆえなのだが、そういう発想はあまり見かけないようですね。

ジョブ型採用とメンバーシップ型採用の違い

こんなtogetterが転がっていたのですが、読んでみるとまさしくジョブ型採用を期待している現場の技術者と、メンバーシップ型採用しか眼中にない人事部との文化の違いがよく現れていました。

https://togetter.com/li/2025608(共同研究で大活躍してくれた大学院生が就活に来てくれたのに人事に話が回っておらず一次で落とされてしまった)

 共同研究で大活躍してくれた大学院生、当社を第一に志望してくれて、私たちもぜひ来て欲しいと思っていたけど、どうやら一次面接で落としてしまったらしい。
ウチは推薦枠がないから仕方ないけど、この類のミスマッチは何とかして防げないのだろうか…

採用活動をどう進めているのかよく分かりませんが、似たケースは過去にもあったようなので、部門との情報交換はできてない(あるいは、意図的にしていない)のだと思われます。取引先のご子息などは入ってきていますが…
ちなみに、本件は昨年の話で、真実を今週知りました笑 

現場の技術者からすれば、まさに今現在必要なこのスキルのある人が欲しいというジョブ型採用が望ましいのでしょうが、人事部サイドからすればそんな枝葉末節のスキルなどどうでもよく、新卒採用から定年退職までの長期間何でもやらせられる柔軟な人災が必要なので、こういう事態が起こるのでしょう。

71cahqvlel_20221230095401 拙著から解説を。

 欠員募集と新卒採用
 ジョブ型の社会では、企業がある仕事を遂行する労働者を必要とするときに、その都度採用するのが原則です。つまり募集とは基本的に全て欠員募集であり、応募とは全て具体的なポストに対する応募です。従って、その採用権限は、当然のことながら労働者を必要とする各職場の管理者にあります。英語でいうボスが採用するわけです。人事部に採用権限はありません。
 これに対してメンバーシップ型の社会においては、読者の多くが経験しているように、学校から学生や生徒が卒業する年度の変わり目に、一斉に労働者として採用します。いわゆる新規学卒者一括採用(新卒採用)が日本の特徴ということになります。新卒採用が社会の主流であることを示す言葉が、中途採用という不思議な言葉です。ジョブ型社会では、全て欠員募集による採用なのですから、どんな仕事をするのかさっぱり分からない新卒採用などということは、そもそもありえません。これは、ジョブ型社会では新卒者を採用しないという意味ではありません。超エリート校の卒業生であれば、卒業証書が最強の職業資格なので、卒業と同時に採用することはありえます。しかし、それはあくまでも特定のジョブを遂行する高いスキルを持っているとみなされたがゆえに、フライングゲット的に採用されているのです。

内定が既に雇用契約のメンバーシップ型
 しかし、日本的新卒採用の奇妙さはそれだけではありません。日本では非常に多くの場合、実際に仕事を開始する数か月前から内定と称する雇用契約に入ります。内定が雇用契約そのものだといっているのは、1979年7月20日の大日本印刷事件最高裁判所判決です。民法によれば、雇用契約とは労働に従事することと報酬の支払いの交換契約のはずです。ところが、内定した人は労働に従事もしませんし、報酬も払われません。労働と報酬の交換のない雇用契約というのは訳が分かりません。本来ならこれは雇用契約ではなくて、雇用契約の予約のはずです。しかし、これは予約ではなくて雇用契約そのものだとされています。メンバーシップ型の社会においては、具体的に労働に従事したり報酬が支払われたりすることよりも、会社の一員であるという地位ないし身分を設定することの方がはるかに重要であるということを、この内定という概念が雄弁に物語っているということもできましょう。
 日本において一番重要なのは、採用権限が、ある仕事をする労働者を必要とする現場の管理者ではなく、本社の人事部局にあるということです。なぜ採用権限が本社の人事部局にあるかというと、それは個々の職務の遂行ではなく、長期的なメンバーシップを付与するか否かの判断だからです。これが日本の採用法理の根源にある考え方です。

 

2022年12月29日 (木)

電子書籍年間売り上げベスト5の第1位になったようです

岩波書店電子部さんのツイートによると、『ジョブ型雇用社会とは何か』が電子書籍年間売り上げベスト5の第1位になったようです。電子版をお買い求めいただいた皆様のおかげです。ありがとうございます。

https://twitter.com/Iwanami_eBooks/status/1608021936705265666

2022年 電子書籍年間売上ベスト5✨
「2022年配信スタート書目」です…!

こちらもゆっくりご覧ください~🌿

https://twitter.com/Iwanami_eBooks/status/1608021939964235777

第5位『世界史の考え方』
iwnm.jp/431917

第4位『精神と自然』
iwnm.jp/386018

第3位『『世界』臨時増刊 ウクライナ侵略戦争』
iwnm.jp/022242

第2位『算数文章題が解けない子どもたち』
iwnm.jp/005415

こちらも1位は明日✨ お楽しみに~🍀

https://twitter.com/Iwanami_eBooks/status/1608360147008761856

2022年 電子書籍年間売上ベスト5✨
「2022年配信スタート書目」の第1位は……

岩波新書『ジョブ型雇用社会とは何か』でした!!

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https://twitter.com/Iwanami_eBooks/status/1608360151320526848

帯の通り、様々なランキングに、ランクイン!

また今年、企業や個人の成長を促す取り組みに与えられる日本の人事部「HRアワード👑」、その書籍部門の優秀賞にも本書が選ばれました。(つづく)

https://twitter.com/Iwanami_eBooks/status/1608360152801087491

(つづき)
「制度改革を行う上で、従来の制度の利点はどこにあり、どこが欠点なのかを、深く理解することが不可欠です。多くの企業の現場で本書が活用されることを願ってやみません。」

これからのスタンダードになる1冊。ぜひご覧ください🍀

 

 

 

 

 

今年1年間『労働新聞』で12冊を書評

昨年から始めた『労働新聞』紙上での月1回の書評。今年は「本棚を探索」という通しタイトルの下、計12冊を書評してきました。12冊の選び方に対してはいろいろとご意見のあるところかもしれませんが、わたくしとしては毎回楽しく書評させていただきました。

ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』l

4622090031   昔のキャラメルのCMではないが、1冊で2度おいしい本だ。1つ目はアメリカをはじめとする今日の西側の資本主義を「リベラル能力資本主義」と規定し、それがもたらすシステム的な不平等と、それがなまじ能力による高い労働所得に基づくがゆえに旧来の福祉国家的な手法では解決しがたいパラドックスを描き出す第2章である。

 19世紀の古典的資本主義では、資本家が裕福で労働者は貧しかった。20世紀の社会民主主義的資本主義では、社会保障や教育を通じてかなりの再分配が行われた。これに対して、21世紀のリベラル能力資本主義では、多くの人が資本と労働の双方から収入を得ており、金持ちの多くはその「能力(=人的資本)」に基づいて高額の給料を得ている。高学歴の男女同士が結婚(同類婚)することで階級分離が進み、相続税が高い社会でも学歴という形で不平等が世代間移転される。こうなると、課税と社会移転という20世紀的なツールの有効性が低下する。一番始末に負えないのは、勤勉で有能であるがゆえに高給を得、夫婦親子でエリート一族を形成する彼らを道徳的に批判することが(かつての「有閑階級」と異なって)困難である点だ。この章は、みんながうすうす感じていたことをあっさり暴露した風情がある。

 次の第3章は中国(とその眷属国家)の有り様を「政治的資本主義」と規定し、その世界史的位置付けを試みているが、これだけで十分一冊になる。著者によれば、共産主義は植民地化された後進国の資本主義化の手段である。そして優秀な官僚、法の支配の欠如、国家の自律性に特徴付けられる政治的資本主義には、腐敗と不平等という宿痾がまつわりつく。なぜなら、法の支配が故意に柔軟な解釈をされ、横領に手を染めることが可能となるからだ。これに対して一部評論家が提唱する法の支配の強化という処方箋は、官僚の自由裁量権をなくすことになるので採り得ない。

 そこで習近平政権は腐敗に手を染めた役人を片っ端から摘発する(ハエもトラも叩く)。とはいえ、それは腐敗の一掃が目的ではなく、「腐敗の川を川床内に留めおき、社会にあまり広がらないようにする」ことにすぎない。「洪水の如く溢れたら最後、腐敗を持続可能な程度まで押し戻すのは極めて困難」だからだ。

 以上だけでもおいしいが、第4章以下では、労働と移民のパラドックス、アンバンドリングとしてのグローバル化、世界に広がる腐敗、道徳観念の欠如、さらには人工知能とユニバーサル・ベーシックインカムなど、今日話題のネタもたっぷり詰め込まれている。だが、本文最後で語られる未来図はいささか心冷えるものである。それは、リベラル資本主義の下で形成されつつある新たなエリート層が、今よりはるかに社会から独立した立場につき、政治的領域を支配するようになる、つまり政治的資本主義に近づいていくというシナリオだ。人々の頭の中から政治を消し去り、国民を満足させておける比較的高い成長率をもたらすために、経済をすこぶる能率的に管理することが求められる。そして恐らくこのシステムに土着の腐敗が増え、長い目で見れば政権の存続の脅威となる、と。

ニコラス・レマン『マイケル・ジェンセンとアメリカ中産階級の解体』

81yki3cp7s_20221229114701  なんだかよく分からないタイトルだけど、過去100年のアメリカの経済社会を、ハイレベルな思想と末端の現実の両方から描き出した、思想史とルポルタージュがまだら模様になった奇妙な味わいの本だ。経済思想史のキーマンはアドルフ・バーリ、マイケル・ジェンセン、リード・ホフマンの3人だが、この3人をいずれもよく知っているという人は少ないだろう。

 バーリは、バーリ&ミーンズの『近代株式会社と私有財産』のあのバーリだ。『経営者革命』のジェームズ・バーナムと並ぶ20世紀型大企業資本主義の唱道者だが、本書では彼がルーズベルト大統領のブレーンとして活躍した姿を描く。その章のタイトルは「組織人間」で、ウィリアム・ホワイトの名著『組織の中の人間』を思い出させるが、同書の舞台となったシカゴの街の自動車ディーラーが序章に出てきて、後のストーリーの伏線になる。そう、本書は思想史と現場ルポが絡み合っているのだ。「組織の時代」と題された第2章では、バーリの後継者としてピーター・ドラッカーが描かれると同時に、GMなど自動車メーカーが全国にディーラー網を張り巡らせ、ローカルな貯蓄貸付組合が彼ら20世紀型中産階級に住宅ローンを貸し付ける牧歌的な時代が描かれる。これも後への伏線だ。

 やがて時代は暗転(立場が違えば明転)する。新自由主義の旗手として有名なのはフリードリヒ・ハイエクなどだが、本書が狂言回しとして登場させるのは、日本ではあまり知名度の高くないジェンセンという経済学者だ。なぜか、単に市場原理を唱道するのみならず、企業とは株主がご主人(プリンシパル)であり、経営者はその利益を実現すべく奉仕する下僕(エージェント)だと主張するエージェンシー理論を唱え、バーリ流の組織資本主義をひっくり返す思想的原動力となったからだ。

 彼を描いた第3章のタイトルは「取引人間」で、本書の原題でもある。株主価値最大化とかM&Aといった80~00年代にかけて猛威を振るった金融資本主義の時代は、貯蓄貸付組合の子孫のサブプライムローンに端を発するリーマン・ショックとそれに続く世界金融危機でその欠陥を露呈する。平和な生活を送っていたシカゴの自動車ディーラーのニック・ダンドレアが、破産したGMからディーラー契約の解除を通知されたのはこの時だ。人種問題も絡むシカゴの荒廃した映像がそこに重ね焼きされる。

 「組織人間」「取引人間」の次にやってきたのは「ネットワーク人間」で、狂言回しはリンクトインのホフマンで、有名なスティーブ・ジョブズでもイーロン・マスクでもないのはやや違和感がある。情報通信技術の急速な発展でかつてロナルド・コースが企業の存在理由とした取引費用が劇的に縮小したことによるが、かつて組織の時代をもたらした「規模の経済」が、「ネットワークの経済」として復活し、いわゆるGAFAの時代を生み出した。ホフマンはウーバーノード(優れた結節点)たらんとしたそうだが、この「ウーバー」を名乗るプラットフォーム企業が、世界中で不安定低報酬の偽装請負就業を生み出していると批判の的になっているのも、めぐる因果の糸車なのかもしれない。

ヴァレリー・ハンセン『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生』

9784163913704_1_3273x400_20221229115101  「グローバリゼーション」をタイトルに謳う本は汗牛充棟である。試しにamazonで「グローバリゼーション」を検索すると、826件ヒットする。「グローバル化」だと1000件を超える。それらのほとんどは、今日ただいま我われの面前で進行中のグローバリゼーションを経済学、社会学、政治学等々の観点から分析したものだ。とはいえ、時代を遡れば、開国をもたらした19世紀の黒船到来、さらには戦国に鉄砲をもたらした15世紀の南蛮人も当時のグローバリゼーションの現れだった。そこまでは分かる。

 ところが本書のタイトルは、なんと西暦1000年がグローバリゼーションの誕生だというのだ。日本でいえば清少納言や紫式部が活躍していた時代、遣唐使は廃止され、清盛の日宋貿易もないまるでドメスチックな時代ではないか。どこがグローバルなんだ、と思う人が多かろう。

 本書が説き起こすのはアイスランドから北米大陸に渡ったバイキングたちの足跡だ。その足跡は中米マヤ遺跡にも及ぶ。一方スカンジナビアから東に向かい、その地にロシアの名を与えたルーシたちは、現地のスラブ人たちをその名の通りスレイブ(奴隷)として中東イスラム圏に輸出した。当時、奴隷という労働力は最大の輸出品目だったのだ。

 アフリカのマリ王国のマンサ・ムーサ王は世界一の富豪王と呼ばれたが、近代以降の大西洋をまたぐ黒人奴隷貿易の原点は、イスラム圏を中心にした奴隷貿易ネットワークだった。だが、当時の奴隷は近代以降とだいぶ趣が違う。捕獲したり購入した奴隷でもって作られた奴隷軍団が、やがて支配者を殺してスルタンに成り上がっていく。そういえば、かつて高校の世界史で「奴隷王朝」という不思議な言葉を覚えたっけ。労働者が首相になる時代の遥か昔に、奴隷が王様になる時代があったのだ。

 欧米人がグローバリゼーションの始まりだと思っている大航海時代とは、実のところアフリカから中東、インド、東南アジアを経て中国に至る既存の交易ルートを乗っ取っただけというのが最後のトピックだ。そこを読んでいくと、高校の世界史で大航海時代をもたらしたのは東南アジアの「香料」だったと教わった時のイメージが、食品用の香辛料に偏っていたことが分かる。西欧人がやって来るずっと前から東南アジアの「香料」はグローバル商品であり、それは日本にも大量に輸入されていたのだ。え? 平安時代の女官がスパイシーなカレーを食べていたって? そうじゃない。食べる香料じゃなくて嗅ぐ香料、「お香」だ。

 そういわれてみると、まるでドメスチックに見えた平安貴族の世界が、東南アジアから宋を経て輸入されたさまざまな香料に満ち満ちていたことが浮かび上がってくる。本書では、源氏物語の香をめぐる多くの描写が引用されて、それが当時のグローバリゼーションの証しとされるのだから、何とも複雑な気分になる。

 いや、食べる方の香料も宋代に発達した。漢方薬は、多様なハーブや香料を臼で挽いて粉末状にしたもの。それを煎じて薬湯として服用する。宋では世界初の公立薬局が開業した。漢方薬も古のグローバリゼーションの証しだったとは。

マックス・テグマーク『LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ』

91xxk7qxrl_20221229115301  AIが流行っている。書店に行くとAI本が山積みだ。雇用労働関係でも話題で、AIでこんな仕事がなくなるとか、仕事がこんなに変わるとか、いろんな議論が噴出している。筆者も最近、EUのAI規則案が採用や人事管理へのAI活用を「ハイリスク」と分類し、一定の規制を掛けようとしていることを紹介してきた。でも、そういう雇用労働への影響などという(やや語弊があるが)みみっちい話をはるかに超えて、人間存在、あるいはさらに宇宙のあり方にまで大風呂敷を広げたのが本書だ。

 冒頭いきなりSF小説が展開する。汎用人工知能のプロメテウスが秘かに地球を支配していくユートピアの話だ。戦争、貧困、差別のない、愚かな人間どもが支配するより遥かに「すばらしき新世界」。だが、それは一歩間違えば悪夢のようなディストピアにもなり得る。本書には、SFアイデア大売り出しという感じで、これでもかとばかりそういう悪夢のカタログが並べ立てられる。とりわけ中盤あたりで、心の弱いスティーブの死んだ妻がプロメテウスによって再現され、その甘い言葉によって外部から遮断されていたプロメテウスが「脱獄」していくシーンは、下手なSFよりずっと面白い。というか、これって最近読んだ宿野かほるの『はるか』(新潮文庫)の元ネタじゃないか。

 という紹介だと、本書はまるで空想科学読本みたいだが、いやいや著者は宇宙論を研究する最先端の理論物理学者で、AIを宇宙進化の中に位置付けるという壮大な議論を展開している。そもそも「LIFE3.0」とは何か。1.0とは生物学的段階で、細菌のようにハードウェアとソフトウェアが進化する。ネズミは1.1くらい。2.0は文化的段階で、人間のようにハードウェアは進化するがソフトウェアの大部分はデザインされる。現代人は2.1くらい。次なる飛躍の3.0は技術的段階で、ハードウェアとソフトウェアがデザインされる。言い換えれば、AIとは生命が自らの運命を司って、進化の足かせから完全に解放される段階なのだ。

 第5章では1万年先までのシナリオとして、奴隷としての神のシナリオ、自由論者のユートピア、保護者としての神、善意の独裁者、動物園の飼育係のシナリオ、門番のシナリオ、先祖返りのシナリオ、平等主義者のユートピアのシナリオ、征服者のシナリオと後継者のシナリオ、自滅のシナリオといったさまざまなシナリオがこれでもかと描き出される。が、それはまだ話の途中なのだ。著者が宇宙物理学者だということを忘れてはいけない。

 次の第6章は今後10億年というタイムスケールの話になっていく。ダークエネルギーとかワームホールとか超新星爆発といった話が続き、さらにその先では、「目標」とは何か、「意識」とは何か、といった哲学的な議論が展開されていく。映画『2001年宇宙の旅』を見ているような、あるいは小松左京の『果てしなき流れの果てに』を読んでいるような、何とも不思議な読後感が残る。

 ふと我に返って、頭を左右に振りながら、AIの雇用労働への影響などというこの世のちまちましたネタに頭を切り換える。何だか変な夢を見ていたようだ。

管賀江留郎『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

51foqcb6ris_20221229115501  文庫本ながら700頁近い分量というだけでなく、その中身も「怪著」の名に値する。元は「いくつかの出版社を渡り歩き、紆余曲折のうえに」2016年に洋泉社から刊行された書籍で、21年に早川書房から文庫化された。原著ではいま副題になっている「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」がメインタイトルだったが、本書の中での該当部分は第13章の90頁ほどに過ぎない。そこまでの500頁余りは、戦前の浜松事件、戦後の二俣事件を中心に、「拷問王」と呼ばれた怪物刑事紅林麻雄と彼を取り巻く人々のさまざまな姿を、膨大な資料を渉猟して描き出した迫真のルポ…と言いたいところだが、そんな凡百の枠組みに収まる本ではない。

 発端は、紅林刑事の拷問を告発したために偽証罪で逮捕されて警察を辞職し、その後苦難の人生を送った同僚の山崎兵八刑事が死の直前に書き残した稀覯本『現場刑事の告発 二俣事件の真相』との出会いなのだが、そこから話は次から次に展開する。まずは紅林が戦後に大活躍する根拠となった戦前の浜松事件において、検事総長から捜査功労賞を受けた紅林は実はほとんど真相解明に貢献していなかったことを明らかにし、ではなぜ表彰されたのかという疑問を解くために、当時の司法警察をめぐる内務省と司法省の隠微な対立関係を暴く。組織の論理がいかに政策を歪めるかは筆者もいくつかの事例で知ってはいるが、このあたりの叙述は生々しい。

 その内務省が解体され、GHQの指令で自治体警察と国家地方警察に分かれたことが紅林の関与したような冤罪事件を生み出す原因だったという世に流布した伝説を、著者は一つひとつ事実を挙げて否定する。さらに、最高裁で二俣事件の被告少年に逆転無罪判決を勝ちとった清瀬一郎弁護士が、東京裁判で東条英機の弁護人となり、この裁判とほぼ同時期に衆議院議長として改定日米安保条約を可決成立させたという(なまじ人権派が無視したがる)事実の指摘、名声をほしいままにしていた東大医学部の法医学者古畑種基博士が冤罪を増幅させた所以、本件で逆転無罪判決を下した最高裁判事たちの苦難の経歴が結果的に誤判を見抜く訓練を施していたとの皮肉、等々、読者をジェットコースターに乗せて振り回すかのように次から次に繰り出される一見話の本筋からかけ離れたようなさまざまなトピックが、最後に「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という理論構成に見事に収斂されていく…と言いたいところだが、いや著者の意図は間違いなくそうなのだが、散々微に入り細を穿つ事実の集積に振り回された読者の側は、そう簡単に頭が元に戻らない。

 冒頭本書を「怪著」と評した所以だが、余りにも凄すぎる真実探求の手際の印象が強すぎて、著者が伝えたかったであろうアダム・スミス『道徳感情論』の真の意義だの、その進化心理学的意味だの、認知バイアスを克服する仕組みとしての民主政治といった、通常の本であればそれが最重要論点となるような部分がなんだかえらく「普通」にみえてしまうのだ。前回(関連記事=【本棚を探索】第13回『LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ』マックス・テグマーク 著/濱口 桂一郎)に引き続き、読後ふと我に返って、頭を左右に振りながら、なんだか変な夢を見ていたようだ、とぼそっとつぶやく。

マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

51ccl5vidwl_sx343_bo1204203200_  2019年度の東大入学式の祝辞で、上野千鶴子は2つのことを語った。前半では「大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています」と、将来待ち受けるであろう女性差別への闘いを呼びかけ、後半では「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」と受験優等生たちのエリート意識を戒めた。

 後者の理路をフルに展開したのが本書だ。刊行1年で100万部を突破したベストセラーだから、既読の方も多いだろう。だから中身の紹介はしない。ただ、巻末解説で本田由紀が注意喚起しているにもかかわらず、多くの読者が見過ごしているようにみえる重要な点を指摘しておく。

 本訳書の副題の「能力主義」は誤訳である。サンデルが言っているのはメリトクラシーだ。原題「The Tyrany of Merit」のメリットであり、本訳書でも時には「功績」と訳されている。それを「能力主義」と訳してはいけないのか?いけない。なぜなら、日本型雇用システムではそれは全く異なる概念になってしまうからだ。拙著『ジョブ型雇用社会とは何か』で述べたように、日本では「能力」は具体的なジョブのスキルとは切り離された不可視の概念である。しかし、本書では「能力に基づいて人を雇うのは悪いことではない。それどころか、正しい行為であるのが普通だ」とか、「人種的・宗教的・性差別的偏見から、その仕事にもっともふさわしい応募者を差別し、ふさわしくない人物を代わりに雇うのは間違いだ」(50頁)とある。メリットとは属性にかかわらず具体的な仕事に最もふさわしい人物であることを客観的に証明する資格を意味し、学歴がその最大の徴表とされる。

 本書はそういう「正しさ」に疑問を呈する本であり、それゆえにバラク・オバマ(エリート黒人)やヒラリー・クリントン(エリート女性)の「正しさ」がもたらすトランプ現象、つまり低学歴でメリットが乏しいとみなされた白人男性の不平不満を問題提起する。「正しい」メリトクラシーを掲げたリベラル左派政党が労働者階級の支持を失うパラドックスをより詳細に論じたのは、トマ・ピケティの近著『資本とイデオロギー』(みすず書房近刊)だ。

 ところが日本では文脈ががらりと変わる。山口一男が『働き方の男女不平等』(日経新聞社)で繰り返し指摘するように、日本企業では高卒男性の方が大卒女性よりも出世して高給なのが当たり前であり、メリットよりも属性が重視されるからだ。そういうメンバーシップ型日本社会への怒りをぶちまけたのが、冒頭の上野千鶴子の祝辞の前半なのだから話は複雑になる。エリート女性がノンエリート男性よりも下に蔑まれる不条理への怒りと、(男も女も)エリートだと思って威張るんじゃないという訓戒では全くベクトルの向きが逆なのだが、それがごっちゃに語られ、ごっちゃに受け取られるのが日本だ。この気の遠くなるような落差をきちんと認識した本書の書評を、私は見つけることができなかった。

小坂井敏晶『格差という虚構』

51otmnzkual245x400_20221229115901  前回は『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を取り上げたが、そのメリトクラシー批判をさらに極限まで突き詰めると本書に行き着く。タイトルだけ見ると「格差なんて虚構だ」というネオリベ全開の本と思うかもしれないが、むしろ格差を非難し、少しでも減らすようにとの善意に満ちた考え方の虚構を暴き立てる本である。彼に言わせれば、近代の平等主義とは、現実に存在する格差を正当な格差と不当な格差に振り分け、階層構造の欺瞞から目を逸らせるための囮に過ぎない。
 メリトクラシーを論ずる第1章は、前回の議論と響き合い、そのもたらす残酷な帰結をこう突きつける。「現実には環境と遺伝という外因により学力の差が必ず出る。ところが、それが才能や努力の成果だと誤解される。各人の自己責任を持ち出せば、平等原則と不平等な現実との矛盾が消える。学校制度はメリトクラシーを普及し格差を正当化する」と。
 第2~3章では、遺伝・環境論争を、両者とも外因に過ぎないと斬り捨て、行動遺伝学の欺瞞を暴く。遺伝も環境も本人にとっては外因であり、能力の因果とは無縁であるにもかかわらず、まるで遺伝が内因であるかのように議論が進む。遺伝率という概念のおかしさを指摘する著者の眼は鋭い。
 第4~7章までは、応報正義の根拠とされる主体の虚構性とパラレルに、分配正義の根拠である能力の虚構性を論じていく。最も抽象的な哲学論が、最もアクチュアルな現実の政策論と接するあたりを駆け抜けていく感覚がぞくぞくする。格差が縮小すれば人は幸せになるのではない。逆に微小な格差に執着し、不満が増幅するのだ。「人は常に他人と比べる。そして比較は優劣を必ず導く。近代社会では人間に本質的な違いがないとされる。だからこそ人は互いに比べ合い、小さな差に悩む。自らの劣勢を否認するために社会の不公平を糾弾する。私は劣っていない。社会の評価が間違っているのだと」。
 ここまで読むと、出口のない絶望感に打ちひしがれる。ではどうしたら良いのか? 著者が示す救いの道は意外なものだ。それは偶然である。今までの正義論は偶然による不幸を中和し補償することを模索する。それが思い違いなのだ。偶然は欠陥でもなければ邪魔者でもない。偶然の積極的意義を掘り起こし、開かれた未来を見付け出そうと呼び掛ける。とはいえ、こんな処方箋で現実の労働現場で悩む人々が救われるかといえば、その可能性は乏しいだろう。全ては外因だからといって、みんな平等にしましょうで済むわけではない。「こんなに違うのになぜ同じなのだ?」との声が噴き出す。大きな格差も小さな格差も格差なしも、どれもが不満をもたらす。
 ちなみに、著者は30年近くフランスの大学で教えているが、それが本書の考え方に大きな影響を与えているのではないか。フランスは自由、平等という正義を高らかに掲げるが、階層の固定性は高く、エリートとノンエリートの格差が著しい。著者のいる普通の大学は、トップエリートの集うグランゼコールと違い、先の見えた中くらいの準エリートを養成する機関なのだ。そう思って読み返すと、いろいろ腑に落ちてくる。

アラン・シュピオ『労働法批判』

4779516749_20221229120101  『労働新聞』のコラムでありながら、いままでわざと労働法関係の本を取り上げてこなかったへそ曲がりの濱口が、ようやく素直に専門書を取り上げるに至ったか、と勘違いするかも知れないが、いやいやそんな生やさしい本ではない。哲学書の棚に並ぶ同じ著者の『法的人間 ホモ・ジュリディクス』や『フィラデルフィアの精神』(いずれも勁草書房)と同じくらい、深い深い哲学的思考の奥底に潜り込んでいく快感が味わえる。その意味では、毎日毎日新たな立法と判例を追いかけるのに忙しい労働法関係者にこそ、夏休みの課題図書としてじっくり読んで欲しい本でもある。
 特に必読なのは、冒頭の「予備的考察(プロレゴメナ)」の準備章「契約と身分のあいだ」だ。近頃流行りの「ジョブ型」「メンバーシップ型」を聞きかじって上っ面で理解している人は、是非その歴史的淵源をしっかりと学んで欲しい。近代西欧の労働関係は、ローマ法の「労務の賃貸借契約」の考え方と、ゲルマン法の「忠勤契約」の考え方が絡み合って作り上げられたものだ。
 労務の賃貸借とは、もともと物の賃貸借や家畜の賃貸借と同様に奴隷主がその所有する奴隷を人に貸し付ける契約であったが、その賃貸人と賃貸物件が同一人物である場合、自分で自分自身(の労務)を貸し出して賃料を受け取るという技巧的な構図になる。これが「ジョブ型」の原点だとすれば、賃金労働者とは奴隷主兼奴隷であり、労働時間は賃金奴隷だが非労働時間にはご主人様の身分を取り戻す。とすれば労働時間の無限定とは、奴隷の極大化、ご主人様の極小化ということになり、一番悪いことだ。
 これに対して忠勤契約は封建制の下での主君と家臣の「御恩と奉公」であり、人格的共同体への帰属こそがその本質となる。これが「メンバーシップ型」の原点だとすれば、被用者とは主君たる使用者に無定量の忠誠を尽くす家臣であり、主君の命じることはいつでも(時間無限定)なんでも(職務無限定)やらなければならないが、その代わり「大いなる家」の一員として守られる。無限定さこそが誇るべき身分の証しなのだ。
 ところが対極的に見えるこの両者がその両極で一致する。古代ローマ法で奴隷は家族の一員であり、逆に言えば家長には家族の生殺与奪の権限があった。一方、中世ドイツ法で忠勤契約は庶民化して奉公契約になり、遂には僕婢(召使)契約に至ったのだ。ジョブ型の極限にはメンバーシップ型があり、メンバーシップ型の極限はジョブ型となる。
 この契約と身分の絡み合いのさらに奥には、第1部「人と物」で論じられる人の法(身分法)と物の法(財産法)の逆説的な関係が控えている。労働法は民法の債権各論にある以上物の法であるとともに、労働者の身体と精神の安全に関わる人の法でもある。そして、それは第2部「従属と自由」で論じられる集団性と不可分である。その集団性自体が、労務賃貸人のカルテルたる労働組合と、企業従業員の自治組織たる従業員代表制に二重化する。
 労働法の法哲学という、現代日本ではほぼ他に類書のない本であるだけに、夏休みの課題図書にするのは重たすぎるかも知れないが、でも是非読んで置いて欲しい本である。   

潘岳『東西文明比較互鑑-秦・南北朝時代編』

9784434296925_20221229120401  コロナ禍の収まらぬ現代世界で、プーチンのロシアがウクライナに侵攻し、習近平の中国はウイグルなど少数民族を抑圧し、香港を圧殺し、台湾を恫喝する。そうした帝国主義的行動の背後にどのような思想があるのか、いかなる歴史観に動かされているのか、隣国日本の住人として関心を持たざるを得ない。ウクライナ民族の存在を否定し、大ロシア民族の裏切り者とみなすプーチン史観はまだ分かりやすい。しかし、声高に「中華民族」の統一を掲げる習近平史観は分かりにくい。
 それをこの上なく明確に解説するのが本書だ。著者の潘岳は中国共産党第19期中央委員会候補委員で、本書刊行時点では国務院僑務弁公室主任だったが、今年6月に国家民族事務委員会主任に就任している。中国の少数民族政策の大元締めだ。その彼が、戦国時代とギリシャ、秦漢とローマ、中国の五胡侵入と欧州の蛮族侵入、という3つの時代の歴史を描きながら、「中華民族」イデオロギーの正当性を主張する。彼の提示する中核概念は「大一統」だ。人種や宗教の違いによって分裂してきた西欧文明と異なり、中国文明は夷狄と漢族が入り混じりながら統一を目指して造り上げてきた、というのだ。
 その焦点は南北朝時代のとりわけ五胡十六国といわれる北方異民族が作った中華風王朝に向けられる。彼が繰り返し説くのは、チベット系のや羌、トルコ系の鮮卑、そして匈奴出身の北朝の君主たちが、漢族の南朝よりも「大一統」を目指し、そのために先祖の風習を捨てて漢化に努めたということだ。ローマ帝国崩壊後のゲルマン族の諸国家はキリスト教のみが共通の「複数エスニック集団の分割世界」に堕していったが、「五胡政権の歴史観はこれとは完全に異なる、エスニック集団ごとに隔てられた「天下分割」ではなく、それらが混然一体化した「天下融合」である」と。
 潘岳は「五胡は自らを見失ったのか、それともより壮大な自己を獲得したのか」と問う。彼の答えは明らかだ。ウイグルだのチベットだのといったちっぽけなエスニック・アイデンティティにこだわることなく、中華民族という「壮大な自己」に同一化せよ。それが君たち少数民族の真の幸福なのだ、と。古代中国史を語っているように見えて、彼の視線が今日の中国の少数民族政策に向けられていることは明らかだろう。その彼が今や少数民族政策のトップに就任したわけである。
 本書の最後の章で、彼は歴史家として日本や欧米の中国史学を痛烈に批判する。白鳥庫吉らの「漢地十八省」論、「長城以北は中国に非ず」論、「満蒙蔵回は中国に属さず」論、「中国無国境」論、「清朝は国家に非ず」論、「異民族支配は幸福」論など、「人種をもって中国を解体する」一連の理論が、「現在ではこれが米国「新清史」観の前身となり、李登輝ら台独派の拠り所にもなっている」云々。彼に言わせれば、「中国は1世紀以上にわたって政治と文化の発言権を失い、「中国の歴史」は全て西洋と東洋(日本)によって書かれてきた」が、今こそそこから脱却し、「中華民族の物語はわたしたち自身の手で書かなければならない」のだ。ほとんど賛成できないけれども、今の中国が、習近平がどういう歴史観に立っているかをくっきりと浮き彫りにしてくれる。

安藤優子『自民党の女性認識-「イエ中心主義」の政治指向』

71oxatttlml1  安藤優子という著者名に聞き覚えのある方は多いだろう。テレビ朝日やフジテレビのニュースキャスターとして長年活躍してきた彼女は、一念発起して上智大学大学院に入学し、博士号を取得した。その博士論文が本書である。彼女は1958年生まれで筆者と同年齢。つまり均等法以前の世代であり、初めは男性司会者に「うなずく」アシスタントという役割から、政治の現場を取材し、メインキャスターを務めるようになる中で、政治家の、とりわけ自民党の女性認識に問題意識を持つようになったことがその背景にある。
 この手の議論ではだいたい、伝統的な価値観が残存しているため云々という話になるのだが、彼女は意外なところに目をつける。1970年代後半から1980年代にかけての時期の自民党政権の思想的再編成に着目するのだ。この着目は、筆者の労働政策の時代区分とみごとに一致する。それまでの高度成長期における欧米ジョブ型社会を理想像とする近代化主義がやんわり否定され、それよりも優れたモデルとして日本的な集団主義(あるいはむしろ「間柄主義」)が称揚され、封建的だと否定的なまなざしを向けられがちだった「イエ社会」原理が、欧米よりも競争力の高い日本の強さの源泉として賞賛されるようになった時代だ。
 労働政策においては、この転換は労働力流動化政策から雇用維持・社内育成重視政策への転換として現れたが、社会保障政策においては日本型福祉社会論、すなわち福祉の基盤は家庭であり、主婦が「家庭長」として外で働く男性を支え面倒を見、余った時間はせいぜいパートとして働くというモデルの称揚として現れた。彼女が引用する自民党研修叢書『日本型福祉社会』(1979年)には、「このような日本型社会の良さと強みが将来も維持できるかどうかは、家庭のあり方、とりわけ『家庭長』である女性の意識や行動の変化に大いに依存している。簡単にいえば、女性が家庭の『経営』より外で働くことや社会的活動にウエートを移す傾向は今後続くものと思われるが、それは人生の安全保障システムとしての家庭を弱体化するのではないか」といった記述が頻出する。皮肉なことに、国連の女性差別撤廃条約が成立し、男女均等法に向けた動きが始まるこの時期に、性別役割分業論を宣明する政策文書が作成され、それが配偶者特別控除やパート減税、第3号被保険者等に結実していくことになる。
 一方政治の世界では、それまでの派閥解消を掲げる政党近代化論が「古臭い」と否定され、派閥という「大イエ」の連合体としての自民党こそが日本型多元主義の現れとして称揚される。曰く「日本の保守党は、日本社会の組織的特質にしっかりと立脚した個人後援会-派閥-政党というゆるやかな組織原則を堅持するべきだ」(グループ1984年「腐敗の研究」)。そして、この時期に再確立した「イエ中心主義」が、いまや国会議員の過半数を占める二世三世などの血縁による議席継承を生み出していると説くのである。本書の後半はこの観点からの自民党議員のキャリアパス分析なのだが、ここの評価は人によってさまざまであろう。個人的にはかなり疑問がある。むしろ、同じ共産党一党独裁でありながらソ連と異なり共産党幹部二世の「太子党」が政治権力を握る中国との比較があってもよいのではないかと感じた。

キャスリーン・セーレン『制度はいかに進化するか-技能形成の比較政治経済学』

07283x400_20221229120701  著者はいわゆる「資本主義の多様性」学派に属する政治学者だが、本書は技能形成という切り口から英米独日という4か国の資本主義の違いを浮き彫りにするもので、労働研究者にとっても大変興味深い内容だ。
 産業革命の先頭走者であるイギリスでは、中世のギルドが崩壊した後を埋めたのは熟練職人たちの職種別組合(クラフト・ユニオン)で、徒弟制に基づく供給規制で労働市場をコントロールすることがその戦略だったことはウェッブ夫妻が描いた通り(拙著『働き方改革の世界史』参照)。それゆえ経営者は組合と対決して自由な決定権を取り戻すことが目標となったが、両者の対決のはざまで職場は混乱に陥り、どちらも得をしない低技能均衡の道を歩んでいく。
 ところが後発国のドイツでは、ギルドは生き残っただけではなく、保守的な帝国政府の支援で、イヌンクと呼ばれる手工業者団体が徒弟の技能認証権を独占した。これは、拡大しつつあった社会主義者を抑圧する保守的政策の一環で、決して労働者のためのものではなかったのだが、その後の歴史の荒波にもまれる中で、社会的市場経済の基軸となっていく。まず、手工業会議所による技能認証権の独占に不満を持ったのは大企業で、自社で養成した労働者にも資格を与えようとするが、手工業者は断固として拒否する。そのはざまで新興の労働組合は、企業内訓練に組合が関与するという方向を目指していく。それがワイマール時代の構図だが、歴史は単純に進まない。ナチス政権は労働組合を殲滅し、全体主義的なドイツ労働戦線を樹立するが、これが全ての若者に訓練の権利を保障し、企業に訓練を義務付け、手工業会議所の独占的地位を奪った。敗戦でそれが崩壊した後、占領下で再構築された訓練制度は、手工業者のギルド的独占でもなく、大企業のメンバーシップ型養成でもなく、産業レベルの労使協調に基づき、企業内のOJTで企業を超えた横断的技能を養成するデュアルシステムになっていた。もともと誰かがそうしようと図ったわけではないのに、様々なアクターのせめぎ合いと歴史のいたずらの結果、今日OECDから世界が見習うべきモデルと賞賛されるドイツ型訓練制度が出来てしまったというわけだ。
 この英独対比を軸に、それぞれの亜流としてのアメリカと日本の独自の「進化」が描かれる。ギルドの伝統を欠くアメリカでは、イギリス流の熟練労働者の組合運動は弱く、企業主導の反組合的な福祉資本主義が席巻するが、それを逆手にとった産業別組合運動が企業が構築した職務をよりどころにしたジョブ・コントロール・ユニオニズムを確立する。一方政府主導の産業化を進めた日本では、当初強力だった親方職人の影響力を遮断し、企業主導で子飼いの職工を養成する道を歩んでいくが、そのパターナリズムに乗っかる形で企業別組合が発展していく。四者四様のアラベスクだ、
このように、「制度はいかに進化するか」というタイトルは、文字通り制度が元の創設者の意図を超えて生き物の如く「進化」していくものだという認識を表している。そう、本書が描く技能形成制度だけではない。世の様々な制度はみな、良きにつけ悪しきにつけ、「そんなはずじゃなかったのにいろんな経緯でそうなってしまった」ものなのだ。

柄谷行人『力と交換様式』

31950063_2_20221229120801  台湾のデジタル発展担当大臣オードリー・タン(唐鳳)が強い影響を受けたという柄谷行人の交換様式論。2010年の『世界史の構造』(岩波現代文庫)で展開されたその理論を、改めて全面展開した本だ。今回は柄谷の本籍地であるマルクスの原典に寄り添いながら、彼が世の中で思われているような生産力と生産関係に基づく唯物史観ではなく、交換様式に着目して理論を組み立てていたのだと繰り返し力説する。多くのマルクス主義者が冗談だと思って顧みなかった交換が生み出す「物神」(フェティッシュ)の力こそが、人類の歴史を形作ってきたのだと彼は説く。でも、エコロジー絡みもそうだが、マルクスの真意など我われにはどうでも良いことだ。

 彼が言う4つの交換様式のうち交換様式A(互酬:贈与と返礼)、交換様式B(略取と再分配:支配と保護)、交換様式C(商品交換:貨幣と商品)までは、カール・ポランニーやケネス・ボールディングらの3類型とも共通する考え方で、すっと頭に入る。評者も2004年に出した『労働法政策』の第1章「労働の文明史」で、似たような歴史観を展開してみたことがある。

 問題は彼が4つ目の、そしてこれこそめざすべき理想像だといって提起する交換様式Dだ。正直言って、『世界史の構造』を読んだときも全然納得できず、こんなものは余計ではないかという感想を抱いた。似たような感想を持った者が多かったのだろう。そうではないのだ、交換様式Dとはかくも素晴らしいのだと力説するために本書が書かれた。残念ながらそれが成功しているようには思えない。少なくとも評者は依然として疑問だらけだ。

 原始的な交換様式Aの高次元での回復というモチーフはよく理解できる。実際、古典古代のギリシャは、先進的かつ専制的なアジアの亜周辺として氏族社会的な未開性があったからこそ民主主義を生み出したのだし、中世封建制のゲルマンも専制化したローマの亜周辺としての未開性が自由と平等の近代社会の原動力となったのだ。本書では触れられていないが、中華帝国の亜周辺の日本のその辺縁から生まれた関東武士も似た位相にあるだろう。この歴史観はほぼ100%納得できる。

 だが、第4部「社会主義の科学」で熱っぽく論じられる交換様式Dは空回りしているように思える。マルクスの弟子達が作り上げた交換様式Bによる最兇最悪のアジア的専制国家に対し、交換様式Aを復活させようとするユートピア社会主義には限界がある。だから交換様式Dだというのだが、それはキリスト教などの世界宗教が根ざしているものだという説明は繰り返されるけれども、具体的なイメージは遂に最後まで与えられない。もし本書を読んでそれが理解できた人がいるなら教えて欲しい。

 率直に言って、人類は3つの交換様式の間で右往左往していくしかないのではないか。むしろ、この交換様式こそ絶対に最高最善と信じ込んで、その原理のみに基づいて社会を構築しようとしたときにこそ、我われは地獄を見るのではないか。共同性と権力性と市場性をほどほどに調合して騙し騙し運営していくことこそ、先祖が何回も地獄を見てきた我われ子孫の生きる知恵ではないのだろうか。

こうして読み返してみると、実にさまざまな本を紹介してきたものだという感慨が湧いてきます。

来年も引き続き『労働新聞』の書評を担当します。今度は「書方箋 この本、効キマス」という通しタイトルになるようです。

新年の書評は1月16日号に載りますので、今後ともご贔屓のほどよろしくお願い申し上げます。

 

2022年12月28日 (水)

hamachanブログ2022年ランキング発表

今年も年末が近づいてきたので、恒例のhamachanブログ今年のエントリPVランキングの発表を行います。

世の中的には「ジョブ型」で明け暮れした1年でもありましたが、本ブログのトピック的には、トップ10位内にはわずか1件、それもようやく6位に、日本の中の数少ないジョブ型世界の「医療界もメンバーシップ型へ??」というものすごくねじれた二重三重に皮肉な話題がランクインしただけでした。

まず第1位は、8月の「いや、それが「賃上げ」ってものなんだが・・・」です。小幡績という人が書いていることがあまりにも非論理の極みだったので、それを素直に書いただけだったのですが、なぜか今年の一番人気記事になってしまいました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/08/post-ebadd2.html(ページビュー数:9,558)

Img_2a901bb2ba311b78dc653400d94b33377936 プロフィールによると、東大経済学部を首席卒業し、大蔵省に入省して、今は慶應義塾大学の先生をしているという方が、東洋経済オンラインに「日本人の「賃上げ」という考え方自体が大間違いだ」という文章を書いているのですが、初めの数パラグラフを読んだところで頭を抱えてしまいました。いや、その主張に賛成とか反対とかいうレベルの話ではなく、その言っていることが論理的に全く理解できないのです。

https://toyokeizai.net/list/author/%E5%B0%8F%E5%B9%A1_%E7%B8%BE

https://toyokeizai.net/articles/-/609671(日本人の「賃上げ」という考え方自体が大間違いだ 給料を決めるのは、政府でも企業でもない)

・・・しかし、実は、彼らもかんべえ氏も180度間違っている。なぜなら「賃上げ」という考え方そのものが間違っているからだ。
 賃上げ、という言葉にこだわり続ける限り、日本の賃金は上がらない。アメリカには、賃上げという概念が存在しない。だから、賃金は上がるのだ。
 では「賃上げ」の何が間違いか。賃金は、政府が上げるものではもちろんないが、企業が上げるものでもないのである。
 「賃上げ」は、空から降ってこないし、上からも降ってこない。「お上」からも、そして、経営者からのお慈悲で降って来るものでもないのである。それは、労働者が自らつかみ取るものなのである。経営者と交渉して、労働者が払わせるものなのである。・・・ 

さあ、この4パラグラフは何を言っているのでしょうか?冒頭、「「賃上げ」という考え方そのものが間違っている」と断言しているにもかかわらず、4パラグラフ目では、「賃上げは・・・・・・・労働者が自らつかみ取るものなのである。経営者と交渉して、労働者が払わせるものなのである」と言っているのです。

いや、私はまさにこの第4パラグラフは正しいと思います。労働者が経営者に要求して、場合によっては給料上げないなら働いてやらないぞと脅して、労働の対価を高く引き上げることが日本に限らず世界共通の賃上げというものであって、「「お上」からも、そして、経営者からのお慈悲で降って来るものでもない」。全くその通り。そして小幡氏はこうも言う。

・・・日本の賃金が低いのは、労働者が、この闘争を「サボっているから」なのである。努力不足なのである。「政府の、お上からの経営者への指示」を待っていても、「雇い主の施し」を待っていても、永遠に得られないのである。・・・ 

小幡氏が首席卒業したという東大経済学部で労使関係論を受講したかどうかは定かではありませんが、こういうことは授業で聞かなくたって常識としてわきまえていてしかるべきことではありましょう。

ところが、そういうちゃんとわかっているかのような文章を書きながら、なぜか彼の頭の中では「賃上げ」という言葉は、労働者が勝ち取ることではなく、国や経営者がお慈悲で与えてくれるものだけを指す言葉として理解しているようなのですね。だから、タイトルに堂々と「日本人の「賃上げ」という考え方自体が大間違いだ」とぶち上げ、文章の中でも「なぜなら「賃上げ」という考え方そのものが間違っているからだ」などと奇妙なことをいうわけです。

実をいえば、法定最低賃金を否定し、労働組合が自力で勝ち取る賃金のみが唯一あるべき姿だと主張するのが、スウェーデンやデンマークの労働組合であり、それゆえに現在、EUの最低賃金指令案をめぐって労働組合運動の中で対立が生じているわけですが、そこまでいかなくても、労働組合の力が及ばないところは政府の力を借りざるをえないけれども、そうでない限りは労働組合が力で勝ち取るものだというのは、ごく普通の感覚でしょう。

奇妙なのは、この東大経済学部首席卒業がご自慢らしい小幡氏の議論が、そういう国家権力に頼らない本来の意味の「賃上げ」を、なぜかそれだけを自分の脳内の「賃上げ」という概念から排除してしまっているように見えることです。そして、そういう本来の「賃上げ」には及ばない、いわばまがい物の国や経営者のお慈悲に過ぎないものだけを自分の脳内では「賃上げ」と呼んで、「日本人の「賃上げ」という考え方自体が大間違いだ」と断言してしまっていることです。

正直、最初この文章を読んだとき、言っていることがある面であまりにも正しいにもかかわらず、ある面ではあまりにも間違い過ぎているので、頭の中が混乱の極みに陥りました。

慶應義塾大学で授業をされる際には、学生たちの頭をあまり混乱させないようにしていただきたいものです。

第2位は2月の記事ですが、これもややねじれた話で、隠岐さや香氏と東浩紀氏の間の半ば感情的な一連のやりとりから遥か昔の悪夢が引きずり出されてきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/02/post-712ad5.html(ページビュー数:4,150)

隠岐さや香氏と東浩紀氏の間の半ば感情的な一連のやりとりに関わる気は毛頭ありませんが、隠岐氏の恐らく無意識に漏らした片言隻句がどういう人々の心にぐさぐさと刺さったのだろうかということを考えると、第一線で活躍中の東氏なんかよりも百万倍、非正規労働でその日を支えながら暮らしているテニュアをとれないまま中高年化した人文系知識人の人々にであろうし、これは位相をすこしずらすと(もう15年も前のことになりますが)赤木智弘氏が当時の『論座』で「丸山眞男をひっぱたきたい」と叫んだことにつながり、さらには戦前の帝国議会で斉藤隆夫がいわゆる粛軍演説の中で、当時の右翼的革新運動を「生存競争の落伍者、政界の失意者ないし一知半解の学者」と罵っていたことにまでつながっていきますね。

松尾匡さんの言うレフト2.0、格差や貧困を糾弾するレフト1.0とは対照的に、もっぱら政治的に正しいアイデンティティポリティクスやダイバーシティを追求するレフト2.0が、まさにダークサイドに落ちた生存競争の落伍者に対して投げかける侮蔑的眼差しが、どういうどろどろした「魔」を水底から引きずり出してくるのかといういい実例かもしれません。

ピケティの言うバラモン左翼に踏みつけられた者が商売右翼の培養土となっていくという因果応報の世界。その意味では、このつぶやきは(そのまなざしの冷酷さまで含めて)それ自体がその構図を的確に描き出している。

https://twitter.com/okisayaka/status/1489455501968830467

ところで最近、2000−2010年代に大学改革の犠牲になった(ようにみえる)人文系論客がダークサイドに落ちてオルタナ右翼っぽい論調でダイバーシティを叩いて客集めをしているようで、なんともディストピア。是非本来の敵に立ち向かってほしいのだが、はけ口がそっちに行っちゃうんだな…

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

>男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。
>で、その時に、自分はどうなるのか?
>これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか? 

>ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

第3位は5月の「ナチス「逆張り」論の陥穽」です。最近本棚自作評論家として大活躍の田野大輔さんが、「ナチスも良いことをした」という逆張り論を批判していることの陥穽を指摘したものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-ed416b.html(ページビュー数:3,438)

As20220524001471_comm 昨日の朝日新聞の15面に、「逆張りの引力」という耕論で3人が登場し、そのうち田野大輔さんが「ナチスは良いこともした」という逆張り論を批判しています。

https://www.asahi.com/articles/ASQ5S4HFPQ5SUPQJ001.html

 私が専門とするナチズムの領域には、「ナチスは良いこともした」という逆張りがかねてより存在します。絶対悪とされるナチスを、なぜそんな風に言うのか。私はそこに、ナチスへの関心とは別の、いくつかの欲求があると感じています。
 ナチスを肯定的に評価する言動の多くは、「アウトバーンの建設で失業を解消した」といった経済政策を中心にしたもので、書籍も出版されています。研究者の世界ではすでに否定されている見方で、著者は歴史やナチズムの専門家ではありません。かつては一部の「トンデモ本」に限られていましたが、今はSNSで広く可視化されるようになっています。・・・

正直、いくつも分けて論じられなければならないことがややごっちゃにされてしまっている感があります。

まずもってナチスドイツのやった国内的な弾圧や虐殺、対外的な侵略や虐殺といったことは道徳的に否定すべき悪だという価値判断と、その経済政策がその同時代的に何らかの意味で有効であったかどうかというのは別のことです。

田野さんが想定する「トンデモ本」やSNSでの議論には、ナチスの経済政策が良いものであったことをネタにして、その虐殺や侵略に対する非難を弱めたりあわよくば賞賛したいというような気持が隠されているのかもしれませんが、いうまでもなくナチスのある時期の経済政策が同時代的に有効であったことがその虐殺や侵略の正当性にいささかでも寄与するものではありません。

それらが「良い政策」ではなかったことは、きちんと学べば誰でも分かります。たとえば、アウトバーン建設で減った失業者は全体のごく一部で、実際には軍需産業 の雇用の方が大きかった。女性や若者の失業者はカウントしないという統計上のからくりもありました。でも、こうやって丁寧に説明しようとしても、「ナチスは良いこともした」という分かりやすい強い言葉にはかなわない。・・・

ナチスの経済政策が中長期的には持続可能でないものであったというのは近年の研究でよく指摘されることですが、そのことと同時代的に、つまりナチスが政権をとるかとらないかという時期に短期的に、国民にアピールするような政策であったか否かという話もやや別のことでしょう。

田野さんは、おそらく目の前にわんさか湧いてくる、ナチスの悪行をできるだけ否定したがる連中による、厳密に論理的には何らつながらないはずの経済政策は良かった(からナチスは道徳的に批判されることはなく良かったのだ)という議論を、あまりにもうざったらしいがゆえに全否定しようとして、こういう言い方をしようとしているのだろうと思われますが、その気持ちは正直分からないではないものの、いささか論理がほころびている感があります。

これでは、ナチスの経済政策が何らかでも短期的に有効性があったと認めてしまうと、道徳的にナチにもいいところがあったと認めなければならないことになりましょう。こういう迂闊な議論の仕方はしない方がいいと思われます。

実をいうと、私はこの問題についてその裏側から、つまりナチスにみすみす権力を奪われて、叩き潰されたワイマールドイツの社会民主党や労働組合運動の視点から書かれた本を紹介したことがあります。

Sturmthal_2-2 連合総研の『DIO』2014年1月号に寄稿した「シュトゥルムタール『ヨーロッパ労働運動の悲劇』からの教訓」です。

https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio289.pdf

・・・著者は戦前ヨーロッパ国際労働運動の最前線で活躍した記者で、ファシズムに追われてアメリカに亡命し、戦後は労使関係の研究者として活躍してきた。本書は大戦中の1942年にアメリカで原著が刊行され(1951年に増補した第2版)、1958年に邦訳が岩波書店から刊行されている。そのメッセージを一言でいうならば、パールマンに代表されるアメリカ型労使関係論のイデオロギーに真っ向から逆らい、ドイツ労働運動(=社会主義運動)の悲劇は「あまりにも政治に頭を突っ込みすぎた」からではなく、反対に「政治的意識において不十分」であり「政治的責任を引き受けようとしなかった」ことにあるという主張である。
 アメリカから見れば「政治行動に深入りしているように見える」ヨーロッパ労働運動は、しかしシュトゥルムタールに言わせれば、アメリカ労働運動と同様の圧力団体的行動にとどまり、「真剣で責任ある政治的行動」をとれなかった。それこそが、戦間期ヨーロッパの民主主義を破滅に導いた要因である、というのだ。彼が示すのはこういうことである(p165~167)。

・・・社会民主党と労働組合は、政府のデフレイション政策を変えさせる努力は全然行わず、ただそれが賃金と失業手当を脅かす限りにおいてそれに反対したのである。・・・
・・・しかし彼らは失業の根源を攻撃しなかったのである。彼らはデフレイションを拒否した。しかし彼らはまた、どのようなものであれ平価切り下げを含むところのインフレイション的措置にも反対した。「反インフレイション、反デフレイション」、公式の政策声明にはこう述べられていた。どのようなものであれ、通貨の操作は公式に拒否されたのである。
・・・このようにして、ドイツ社会民主党は、ブリューニングの賃金切り下げには反対したにもかかわらず、それに代わるべき現実的な代案を何一つ提示することができなかったのであった。・・・
社会民主党と労働組合は賃金切り下げに反対した。しかし彼らの反対も、彼らの政策が、ナチの参加する政府を作り出しそうな政治的危機に対する恐怖によって主として動かされていたゆえに、有効なものとはなりえなかった。・・・

 原著が出された1942年のアメリカの文脈では、これはケインジアン政策と社会政策を組み合わせたニュー・ディール連合を作れなかったことが失敗の根源であると言っているに等しい。ここで対比の軸がずれていることがわかる。「悲劇」的なドイツと無意識的に対比されているのは、自覚的に圧力団体的行動をとる(AFLに代表される)アメリカ労働運動ではなく、むしろそれとは距離を置いてマクロ的な経済社会改革を遂行したルーズベルト政権なのである。例外的に成功したと評価されているスウェーデンの労働運動についての次のような記述は、それを確信させる(p198~199)。

・・・しかし、とスウェーデンの労働指導者は言うのであるが、代わりの経済政策も提案しないでおいて、デフレ政策の社会的影響にのみ反対するばかりでは十分ではない。不況は、低下した私的消費とそれに伴う流通購買力の減少となって現れたのであるから、政府が、私企業の不振を公共支出の増加によって補足してやらなければならないのである。・・・
それゆえに、スウェーデンの労働指導者は、救済事業としてだけでなく、巨大な緊急投資として公共事業の拡大を主張したのである。・・・

 ここで(ドイツ社会民主党と対比的に)賞賛されているのは、スウェーデン社会民主党であり、そのイデオローグであったミュルダールたちである。原著の文脈はあまりにも明らかであろう。・・・

田野さんからすれば「「良い政策」ではなかったことは、きちんと学べば誰でも分かります」の一言で片づけられてしまうナチスの経済政策は、しかし社会民主党やその支持基盤であった労働運動からすれば、本来自分たちがやるべきであった「あるべき社会民主主義的政策」であったのにみすみすナチスに取られてしまい、結果的に民主的勢力を破滅に導いてしまった痛恨の一手であったのであり、その痛切な反省の上に戦後の様々な経済社会制度が構築されたことを考えれば、目の前のおかしなトンデモ本を叩くために、「逆張り」と決めつけてしまうのは、かえって危険ではないかとすら感じます。

悪逆非道の徒は、そのすべての政策がとんでもない無茶苦茶なものばかりを纏って登場してくるわけではありません。

いやむしろ、その政策の本丸は許しがたいような非道な政治勢力であっても、その国民に向けて掲げる政策は、その限りではまことにまっとうで支持したくなるようなものであることも少なくありません。

悪逆無道の輩はその掲げる政策の全てが悪逆であるはずだ、という全面否定主義で心を武装してしまうと、その政策に少しでもまともなものがあれば、そしてそのことが確からしくなればなるほど、その本質的な悪をすら全面否定しがたくなってしまい、それこそころりと転向してしまったりしかねないのです。田野さんの議論には、そういう危険性があるのではないでしょうか。

まっとうな政策を(も)掲げている政治勢力であっても、その本丸が悪逆無道であれば悪逆無道に変わりはないのです。

第4位は7月の「アンチが騒ぐ前にリベラル派が騒いで潰した人権擁護法案」ですが、隠岐さやかさんのつぶやきでこれも古い話を思い出したものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-c89bf3.html(ページビュー数:2,775)

朝日のこの記事に、

https://www.asahi.com/articles/DA3S15344730.html(あらゆる差別禁止、法律化求める動き 「包括法」欧州各国で制定進む)

おきさやかさんがこうつぶやいているんですが、

https://twitter.com/okisayaka/status/1544266020172341248

欧州だけでなく韓国も導入してたような。日本は2000年代にアンチが騒いで頓挫した

歴史的事実を正確に言うと、右派のアンチ人権派が騒ぐより前に、本来なら人権擁護を主張すべきリベラル派が報道の自由を侵すと騒いで潰したんですよ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-0347.html(人種差別撤廃条約と雇用労働関係)

・・・・実は、2002年に当時の小泉内閣から国会に提出された人権擁護法案が成立していれば、そこに「人種、民族」が含まれることから、この条約に対応する国内法と説明することができたはずですが、残念ながらそうなっていません。
 このときは特にメディア規制関係の規定をめぐって、報道の自由や取材の自由を侵すとしてマスコミや野党が反対し、このためしばらく継続審議とされましたが、2003年10月の衆議院解散で廃案となってしまいました。この時期は与党の自由民主党と公明党が賛成で、野党の民主党、社会民主党、共産党が反対していたということは、歴史的事実として記憶にとどめられてしかるべきでしょう。
 その後2005年には、メディア規制関係の規定を凍結するということで政府与党は再度法案を国会に提出しようとしましたが、今度は自由民主党内から反対論が噴出しました。推進派の古賀誠氏に対して反対派の平沼赳夫氏らが猛反発し、党執行部は同年7月に法案提出を断念しました。このとき、右派メディアや右派言論人は、「人権侵害」の定義が曖昧であること、人権擁護委員に国籍要件がないことを挙げて批判を繰り返しました。
 ・・・一方、最初の段階で人権擁護法案を潰した民主党は、2005年8月に自ら「人権侵害による被害の救済及び予防等に関する法律案」を国会に提出しました。政権に就いた後の2012年11月になって、人権委員会設置法案及び人権擁護委員法の一部を改正する法律案を国会に提出しましたが、翌月の総選挙で政権を奪還した自由民主党は、政権公約でこの法案に「断固反対」を明言しており、同解散で廃案になった法案が復活する可能性はほとんどありませんし、自由民主党自身がかつて小泉政権時代に自ら提出した法案を再度出し直すという環境も全くないようです。 

政策の中身よりも政治的対立軸を優先する発想からすれば、小泉純一郎内閣が出してきた法案などけしからんものに決まっているのだから、メディア規制がけしからんとかいろいろ理屈をつけて潰せば野党の得点になると思ったのでしょうけど、あにはからんや、世の中はもう少し複雑怪奇であって、その政府自民党の中からナショナリストの右派が人権擁護法案絶対反対を叫びだし、自民党はそちらに足並みがそろってしまい、民主党政権になってかつて自分たちが潰した法案を出しなおしてみても、結局潰されて、いまだに何もないという状況になっているわけです。

そういう歴史的事実をきちんと学ばないから、いつまでたっても同じ過ちを繰り返すんだと思いますよ。何よりも政治的「対立軸」を大事にする発想が何を生み出し、何を潰すかという歴史的事実を。

第5位は5月の「性交契約の違法性について」で、いまだに尾を引いている例のアダルトビデオ新法の話から、そもそも性交契約の法的評価はどういうことになっているのかについての以前のエントリをサルベージしたものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-f2f9d9.html(ページビュー数:2,649)

余りきちんと追いかけていなかったのですが、例の成人年齢引下げとアダルトビデオの問題が新法制定という話になり、こういう問題が提起されるに至っていたようです。

https://www.asahi.com/articles/ASQ5C00K8Q5BUTFL00L.html(AV対策新法に「待った」 性行為の撮影、合法化しないで)

アダルトビデオ(AV)撮影による被害を防ぐため、与党がまとめた新しい法律の骨子案に対し、「性行為の撮影を合法化してしまう」と懸念の声が上がっています。・・・・

――新法にはどんな懸念があるのでしょうか。教えてください。

岡さん まず、与野党が協議している法案の骨子案にAVの定義が書いてあります。「性行為などを撮影した映像」という趣旨の文言です。性交など性行為の撮影を肯定することが前提となっており、この法律自体がそうした性行為を伴う契約が許されると認めてしまうことになります。・・・・

001

現在、性交契約それ自体の合法性、違法性を明示した法令や裁判例は存在しないと思われますが、若干の労働法制において「公衆道徳上有害な業務」として、それに関わる派遣、紹介、募集等の行為を一定の刑事罰の対象としています。

そもそも現在問題となっているのは特定のビデオ商品の製造販売事業とそれに関わるさまざまな業務なのであって、私的自由との関係で重大な議論になり得る性交契約の合法性、違法性といった話に一足飛びに向かう前に、現在の法制度上どこまでが違法とされているのかについての正確な情報を踏まえて議論がされることが望ましいと思われるので、若干古い情報ですが、6年前に本ブログで若干の裁判例を紹介したエントリを再掲しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-d708.html(公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で労働者派遣をした者は)

こんなニュースが流れていますが、

http://www.sankei.com/affairs/news/160612/afr1606120006-n1.html  (大手AVプロ元社長逮捕 労働者派遣法違反容疑 女性「出演強要された」)

経営していた芸能事務所に所属していた女性を、実際の性行為を含むアダルトビデオ(AV)の撮影に派遣したとして、警視庁が11日、労働者派遣法違反容疑で、大手AVプロダクション「マークスジャパン」(東京都渋谷区)の40代の元社長ら同社の男3人を逮捕したことが、捜査関係者への取材で分かった。女性が「AV出演を強いられた」と警視庁に相談して発覚した。

最近話題のAV出演強要問題について、目に余ると考えたか、警察は労働者派遣法を適用するというやり方を取ってきたようです。

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しかし、労働法学的にはいくつも論点が満載です。

まずもって、AVプロダクションがやっているのは労働者派遣なのか?AVプロダクションに「所属」しているのは、AVプロダクションが当該女優を「雇用」しているということなのか?

そういう判断はあり得ると思われますが、そうすると、今やっている全てのAVプロダクション、にとどまらず、多くの芸能プロダクションは届出もせず許可も受けずに業として労働者派遣をやっているということになりかねませんが、そういうことになるのかどうか?

後述の判決ではこの点は当然の前提として議論になっていません。

もっと重要なのは、この問題について強要の有無ではなく、当該出演内容たる性行為を「公衆道徳上有害な業務」と判断して適用してきたという点です。

労働者派遣法にはこういう条文があります。

第五十八条 公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で労働者派遣をした者は、一年以上十年以下の懲役又は二十万円以上三百万円以下の罰金に処する。

記事はこういう記述があり、

労働者派遣法は実際の行為を含むAVへの出演を「公衆道徳上有害な業務」として規制している。捜査当局が同法を適用して強制捜査に踏み切るのは異例。

実際、確かに、アダルトビデオ派遣事件判決(東京地判平成6年3月7日判例時報1530号144頁)では、こう述べています。

本件における派遣労働者の従事する業務内容についてみると、派遣労働者である女優は、アダルトビデオ映画の出演女優として、あてがわれた男優を相手に、被写体として性交あるいは口淫等の性戯の場面を露骨に演じ、その場面が撮影されるのを業務内容とするものである。右のような業務は、社会共同生活において守られるべき性道徳を著しく害するものというべきであり、ひいては、派遣労働者一般の福祉を害することになるから、右業務が、「公衆道徳上有害な業務」にあたることに疑いの余地はない。そして、労働者派遣法五八条の規定は、前述のように、労働者一般を保護することを目的とするものであるから、右業務に就くことについて個々の派遣労働者の希望ないし承諾があつたとしても、犯罪の成否に何ら影響がないというべきである。

弁護人は、性交ないし性戯自体は人間の根源的な欲求に根ざすものであるから「有害」でないと主張するけれども、性交あるいは口淫等の性戯を、派遣労働者がその業務の内容として、男優相手に被写体として行う場合と、愛し合う者同士が人目のないところで行う場合とを同一に論じることができないことは、明らかであり、この点の弁護人の主張もまた採用することができない。

たしかに「右業務に就くことについて個々の派遣労働者の希望ないし承諾があつたとしても、犯罪の成否に何ら影響がない」と言いきっていますが、ここは議論のあるべきところでしょう。

同判決は後段でさらに「たとえ雇用労働者が進んで希望した場合があつたにせよ、若い女性を有害業務に就かせ、継続的、営業的に不法な利益を稼ぎまくつていたことも窺われ、その犯情は極めて悪質で、厳しく咎められなければならない」とまでいっています。

この判決からすると、今回の警察の動きはそれに沿ったものということになりますが、そもそも出演「強要」を問題にしていた観点からすると、こういう解決の方向が適切であるのか否かも含めて議論のあるべきところでしょう。

(追記)

当該女性がAVプロダクションに雇用された労働者なのか、という点について、上記平成6年3月7日東京地裁判決では、被告側が争っていないので議論になっていないのですが、そこを争った事案はないかと探してみたら、こういうのがありました。平成2年9月27日東京地裁判決です。被告側が雇用関係不存在を主張したのを判決が否定しているところです。

・・・弁護人は、CはAが雇用する労働者ではないし、また、被告人がCをBの指揮命令のもとに同人のためモデルとして稼働させたことはないから、被告人の行為は労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律(以下、「労働者派遣法」という)五八条にいう「労働者派遣」に該当しない旨主張する。

そこで検討するのに、前掲関係各証拠によれば、Aは、昭和六三年七月ころから事務所を設置して無許可でいわゆるモデルプロダクション「E」の経営を始め、同年九月ころ、Cに対しモデルになるよう勧誘し、Cはこれに応じたこと、そのころから平成元年一〇月ころまでの間、Aは、Cを本件のBのほか、いわゆるアダルトビデオ制作販売会社、SMクラブ、ストリップ劇場等に派遣したこと、Cに対する報酬は、いずれの場合も派遣先から直接同女には支払われず、A又はAと意思を通じたFから支払われ、その金額はAらが決定していたものであり、本件において、Aは、派遣料として取得した六万円のうち二万円をギャラとしてCに支払ったこと、AはCに対し仕事の連絡のため一日一回必ず電話するよう指示し、同女は右指示に従っていたことが認められ、以上の事実に照らせば、Cは、相当長期間にわたりAの指揮命令のもとにモデルとしての労働に服し、その対価として報酬を得ていたというべきであって、AとCとの間には労働者派遣法二条一号にいう雇用関係を認めることができる。

また、前掲関係各証拠によれば、Bは昭和五九年秋ころから多数のモデルの派遣を受けて、同女らとの性交及び性戯のビデオ撮影を反復継続してきたこと、本件において、Bは、右と同様のビデオ撮影の目的をもって被告人からCの派遣を受けたものである上、当日は、ビデオカメラ、モニターテレビ、照明器具等の備え付けられた判示の「D」(省略)号室内において、約六時間にわたりCとの性交、性戯等の場面をビデオ撮影していること、その間、CはBの指示に従い、同人を相手方とせず単独で被写体となって自慰等種々のわいせつなポーズをとっていたことも認められるから、CがBの指揮命令の下にモデルとして稼働したことは明らかである。

なお、弁護人は、CはBの性交又は性戯の相手方となったに過ぎないから、Cは労働に従事したとは言えない旨主張するが、前記事実関係に照らせば、BによるCのビデオ撮影は、同女がBの性交又は性戯の相手方となったことに付随するものにとどまるとは認められない。

以上のとおり、被告人の本件行為は労働者派遣法五八条にいう「労働者派遣」に該当するものと認められるから、弁護人の右主張は採用できない。

(追記2)

判例を調べていくと、プロダクションが雇用してビデオ製作会社に派遣するという労働者派遣形態としてではなく、プロダクションがビデオ製作会社に紹介して雇用させるという職業紹介形態として、やはり刑罰の対象と認めた事案があります。平成6年7月8日東京地裁判決ですが、

第一 被告人Y1及び同Y2は共謀のうえ、同Y2が、平成五年九月一七日ころ、東京都渋谷区(以下略)先路上において、アダルトビデオ映画の制作等を業とするC株式会社の監督Dに対し、同人らがアダルトビデオ映画を撮影するに際し、出演女優に男優を相手として性交性戯をさせることを知りながら、E’ことE(当時二一歳)をアダルトビデオ映画の女優として紹介して雇用させ

第二 被告人Y1及び同Y3は共謀のうえ、同Y3が、同月二八日ころ、東京都新宿区(以下略)F(省略)号室において、アダルトビデオ映画の制作等を業とする有限会社Gの監督Hに対し、同人らがアダルトビデオ映画を撮影するに際し、出演女優に男優を相手として性交性戯をさせることを知りながら、I’ことI(当時一八歳)をアダルトビデオ映画の女優として紹介して雇用させ

それぞれ、公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で職業紹介をした。

という事実認定のもとに、

一 本件の争点は、本件アダルトビデオ映画に女優として出演する業務が、職業安定法六三条二号にいう「公衆道徳上有害な業務」に該当するか否かである。

二 前掲各証拠によれば、本件アダルトビデオ映画への出演業務は、制作会社の派遣する不特定の男優を相手に性交あるいは口淫、手淫などの性戯を行い、これを撮影させて金銭を得るものであると認められる。ところで、本来、性行為は、その相手の選択も含めて個人の自由意思に基づく愛情の発露としてなされるものである。しかるに、本件のように、女優が不特定の男優と性交渉をし、それを撮影させて報酬を得るということは、女優個人の人格ないし情操に悪影響を与えるとともに、現代社会における一般の倫理観念に抵触し、社会の善良な風俗を害するものであるから、これが職業安定法六三条二号にいう「公衆道徳上有害な業務」に該当することは明らかである。

三 右の点につき、弁護人は、男女の性器を隠すなどの修正を加え、自主的倫理審査委員会の審査を経たうえで市販されるアダルトビデオ映画は、今日の日本社会においては社会的風俗として受容されており、それに出演する業務についても一定の社会的な受容があるから、右業務は右法条にいう「公衆道徳上有害な業務」に該当しない旨主張する。

  しかしながら、右のような修正及び審査を経て市販されるアダルトビデオ映画が社会的風俗として受容されているか否かと、その制作過程の出演業務が公衆道徳上有害であるか否かとは別個の問題であり、たとえ、右のようなアダルトビデオ映画に一定の社会的受容があるとしても、前述した本件のごとき内容のアダルトビデオ映画への出演業務は、「公衆道徳上有害な業務」に該当するというべきである。

  また、弁護人は、右法条は売春またはそれに準ずる程度に著しく社会の道徳に反し、善良な風俗を害する業務に限定して適用すべきであると主張するが、前記のとおり、本件アダルトビデオ映画への出演業務が「公衆道徳上有害な業務」に該当することは明らかであり、弁護人の主張は理由がない。

と判示しています。

ご承知のように、労働者派遣法58条はもともと職業安定法63条2号からきています。

第六十三条    次の各号のいずれかに該当する者は、これを一年以上十年以下の懲役又は二十万円以上三百万円以下の罰金に処する。

一   暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者

二   公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者

こちらは「暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて」というのがあるのですが、派遣法にはないのですね。

ただいずれにせよ、プロダクションのアダルトビデオ出演を募集/紹介/供給/派遣する行為は、法的形態がどれであるにせよ、「公衆道徳上有害な業務に就かせる目的」であるというのは、地裁レベルとはいえほぼ確立した判例になっているようです。

(追記3)

ちなみに、上記職業安定法63条2号には「募集」も含まれます。判例には、ビデオ制作メーカーがこの「公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で」「労働者の募集」をしたとして有罪になった事案もあります。東京地判平成8年11月26日(判例タイムズ942号261頁)は、

被告人は、わいせつビデオ映画の制作販売業を営んでいたものであるが、わいせつビデオ映画制作の際に女優として自慰等の性戯をさせる目的で、平成七年一二月二〇日ころ、東京都渋谷区代々木〈番地略〉○○ビル二階の被告人の事務所において、B子(当時一五歳)と面接し、同女に対し、「セックス場面は撮らないで、入浴シーンやオナニーシーンを中心に撮る。」「出演料はいくら欲しいの。」「顔や人物がわかる部分はあまり撮らないし、入浴シーンなどで変な部分が写ったらボカシを入れる。三万円欲しければ三万円なりの内容でいく。五万円欲しければ五万円の内容でいく。親や友達には絶対分からないようにするから安心しなさい。」などと申し向け、自己の制作するわいせつビデオの女優として稼働することを説得勧誘し、もって、公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で労働者を募集した。

という事案について、

被告人は、前示犯罪事実につき、B子と面接した際、同女を全裸にせずに下着を着けさせてビデオを撮影するつもりであったから公衆道徳上有害な業務に就かせる目的はなかったと主張する。右主張は、B子の供述内容に反するばかりでなく、被告人自身がその後に実際にB子を全裸にして撮影していることに照らしても疑わしいところであるが、仮に、当初は被告人が主張するような意図であったとしても、本件のように心身の発達途上にある一五歳の女子中学生が自慰などをし、その場面を撮影させて報酬を得るということは、当該女子の人格や情操に悪影響を与えるとともに、現代社会における善良な風俗を害するものであるから、このような業務が職業安定法六三条二号にいう「公衆道徳上有害な業務」に該当することは明らかである。したがって、いずれにせよ、被告人の主張は理由がない。

と判示しています。もっとも、同判例は、芸能プロダクションから紹介された別の女性については「募集」に当たらないとして無罪としています。

このように、派遣でも紹介でも、さらには直接募集でも「公衆道徳上有害な業務に就かせる目的」であれば刑罰の対象となるのです。

(新追記)

以上のような裁判例は確立したもので、近年の裁判例もほぼ同様の判断を繰り返しているようです。

東京地裁平成30年6月29日

 被告人両名は,未成年であった被害者のモデルになりたいという夢につけ込み,十分な説明もせずに公衆道徳上有害な業務であるアダルトビデオへの出演の話を進め,被害者が出演を渋ると,アダルトビデオに出ないで有名になる方法はないなどと誤導したり,仕事をしないなら見捨てるなどと圧力を加えたりして,精神的に追い詰め,冷静な判断力を奪うなどしてアダルトビデオへ出演させたものであり,このような行為は,未成年者の判断力の未熟さに乗じ,なおかつ,女性の人格を尊重しないものであって,強く非難されるべきである。上記のような経緯によるアダルトビデオ出演の結果,被害者にただならぬ精神的・肉体的苦痛が生じたことも軽視できない。さらに,本件では,アダルトビデオ制作会社がプロダクションに支払った出演料のうち,被害者の手元に渡ったのは2割程度で,残りは全てスカウト側とプロダクション側とで折半していたものであり,その搾取の程度は著しい。
 本件の犯情は悪く,また,このような犯行を禁圧すべき社会的要請も強いのであって,当然懲役刑を選択すべき事案である。

東京地裁平成30年12月25日

 本件は,アダルトビデオ制作会社に女性を売り込むプロダクションで面接等を担う被告人が,同プロダクションでマネージャーを担う者及びアダルトビデオ出演を勧誘してプロダクションに紹介するスカウトを担う者らと共謀して,被害者をアダルトビデオ制作会社に紹介して雇用させた,という有害職業紹介の事案である。
 本件では,スカウト側の共犯者らが,未成年者であった被害者のモデルになりたいという夢につけ込み,十分な説明をせずにアダルトビデオ出演の話を進め,被害者が出演を渋ると,アダルトビデオに出ないで有名になる方法はないなどと誤導したり,仕事をしないなら見捨てるなどと圧力を加えたりするなどし,被告人も,プロダクションの面接において,被害者が撮影可能な性的行為の種類を少なく答えるなどしてアダルトビデオ出演に前向きでない姿勢を示していたにもかかわらず,より多くの種類の性的行為の撮影に応じられる旨の言質を誘導的に取るなどしている。このような被告人らの行為は,未成年者の判断力の未熟さに乗じ,なおかつ,女性の人格を尊重せず,有害な労務に誘導するものであって,強く非難されるべきである。上記のような経緯によるアダルトビデオ出演の結果,被害者にただならぬ精神的・肉体的苦痛が生じたことも軽視できない。さらに本件では,アダルトビデオ制作会社がプロダクションに支払った出演料のうち,被害者の手元に渡ったのは2割程度で,残りは全てスカウト側とプロダクション側とで折半していたものであり,その搾取の程度も著しく,この種行為の問題性が如実に表れている。
 被告人は,プロダクションの人事部所属の従業員として,スカウト側の共犯者から被害者の紹介を受けてその面接を行い,前示のようにアダルトビデオ出演に必ずしも乗り気でない被害者からこれを受入れるような言質を取るなどしている。被告人は,プロダクションとしての契約締結の場面には関与していないとしても,その後被害者がアダルトビデオに出演することに向けた地ならしともいえる行動に及んでおり,本件犯行において重要な役割を果たしたものである。
 本件の犯情は悪く,また,このような犯行を禁圧すべき社会的要請も強いのであって,当然懲役刑を選択すべき事案である。しかるに,被告人は,公判廷に至っても,自分は一度面接をしただけであり,その後被害者がアダルトビデオに出演することになるかどうかは分からなかったなどと不合理な,あるいは自己の責任を極力矮小化する発言に終始しており,自身の行為の問題性を省みる姿勢も被害者の心情に思いを致す態度も甚だ不十分であって,その刑責の程を理解させるに足りる科刑が必要である。

第6位に、ようやくジョブ型がらみのテーマが出てきますが、ものすごくねじれた話題で、日本の中の数少ないジョブ型世界の「医療界もメンバーシップ型へ??」という二重三重に皮肉な話題です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-67666b.html(ページビュー数:2,589)

日経新聞にこんな記事が出てるんですが、

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2549K0V20C22A5000000/(薬剤師が看護師の仕事も 医療「職務シェア」の改革案)

政府の規制改革推進会議の医療・介護分野の答申案が判明した。医療従事者の仕事は法律などに基づいて定められているが、職種を超えて分担する「タスクシェア」を検討すると明記した。介護施設の人員配置基準を緩和する方針も盛り込んだ。改革案は約70項目に及ぶ。改革には抵抗も予想され実現は不透明な部分もあるが、新型コロナウイルスの感染拡大で問題となった医療の効率化は待ったなしだ。・・・

日本はメンバーシップ型だと言いながら、その一番大きな例外は医療の世界です。なんといっても、すべての職種が入口から出口まできっちりジョブ・デマケされている、いやいや入口のずっと前から、医学部で勉強しないと医師にはなれないし、看護学校で勉強しないと看護師になれないし、薬学部で勉強しないと薬剤師になれない。そして、医師は医師、看護師は看護師、以下同文で、ごく限られた領域を除いてそのタスクは法律で厳格に分割されている。

ジョブ型の話をするときによく使うジョークですが、「君も看護師を10年近くやって慣れてきたからそろそろ医者をやってみるかね。最初はOJTでぼちぼちと」なんて言わないでしょう。でも日本の企業でやっているのはそういうことなんですよ、というと、ははあ、ジョブ型というのは、メンバーシップ型というのはそういうことか、とわかってもらえる。配属された最初はみんな素人なので、OJTで見よう見まねで覚えていくという日本的なやり方はジョブ型の医療の世界では許されないのです。成果主義だなんだというのがいかにインチキで、ジョブのデマケでがちがちなのがジョブ型社会なんですからね。

そういうまことに古めかしく硬直的な、ジョブ型の中のジョブ型というべき医療の世界を、iPS細胞宜しく柔軟性の極致ともいうべき日本的なメンバーシップ型に作り替えようという陰謀(笑)が進められているようです。

何かというとジョブ型を推奨してやまない規制改革推進会議が、医療界をジョブ型からメンバーシップ型にしようというのも相当にシュールですが、一昨年からあれほど口を極めて(いささかおかしな)ジョブ型を宣伝してきた日経新聞が、こういう反ジョブ型の陰謀を歓迎しているっぽいのも、なかなかに興味深い光景と申せましょう。

第7位は、これはもう何年も連続してベスト10に顔を出し続けている2018年の記事「勝谷誠彦氏死去で島田紳助暴行事件を思い出すなど」です。なぜか読み継がれている伝説の記事となっているようですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-dd55.html(ページビュー数:2,464)

ほとんど限りなく雑件です。

勝谷誠彦氏が死去したというニュースを見て、

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181128-00000060-spnannex-ent(勝谷誠彦氏 28日未明に死去 57歳 公式サイトが発表)

吉本興業で勝谷氏担当のマネージャーだった女性が島田紳助に暴行された事件の評釈をしたことがあったのを思い出しました。

これは、東大の労働判例研究会で報告はしたんですが、まあネタがネタでもあり、『ジュリスト』には載せなかったものです。

せっかくなので、追悼の気持ちを込めてお蔵出ししておきます。

http://hamachan.on.coocan.jp/yoshimoto.html


労働判例研究会                             2014/01/17                                    濱口桂一郎
 
中央労働基準監督署長(Y興業)事件(東京地判平成25年8月29日)
(労働経済判例速報2190号3頁)
 
Ⅰ 事実
1 当事者
X(原告):Y興業の従業員(文化人D(勝谷誠彦)担当のマネージャー)、女性
被告:国
Y:興業会社(吉本興業)
E:Y専属タレント(島田紳助)
 
2 事案の経過
・平成16年10月25日、Xは担当文化人Dに同行して赴いた放送局内で、面識のないEに話しかけたが、その際の態度を不快に感じたEがXに説教し、さらに立腹してEの控室に連れ込み、暴行を加えた(「Xの左側頭部付近を殴り、Xの髪の毛を右手でつかみ、3,4回壁に押さえつけたり、リュックサックで左耳付近を殴り、唾を吐きかけたりするなど」)。同日、警察に通報
・Xは同日から11月2日まで各病院で、「頚部、背中、左前腕捻挫」「頭部外傷I型、頸椎捻挫」「左上肢、背部打撲」「頸椎捻挫」「外傷性頭頸部障害、背部打撲」の診断を受けた。また11月9日には「急性ストレス障害」の診断を受け、平成17年1月「外傷性ストレス障害」(PTSD)に変更された(L意見書)。
・(本判決には出てこないがマスコミ報道によれば)平成16年12月9日、Eは傷害罪で略式起訴され、同日大阪簡裁が略式命令、罰金30万円を納付。Xは事件後休職、平成18年6月に休職期間満了で退職。平成18年8月5日、XはEとY興業を相手取って損害賠償請求訴訟を起こし、同年9月21日、東京地裁はEとY興業に1,045万円の支払を命じる判決を下した(判例集未搭載)。雇用関係確認も訴えたが認めず。双方控訴。平成19年9月22日、東京高裁で1,450万円を支払う旨の和解が成立。
・平成19年7月4日、Xは業務が原因で発症したPTSDとして監督署長に休業補償給付を請求。監督署長は平成20年7月2日、不支給処分(①)。平成19年7月4日、Xは業務が原因の外傷性頭頸部障害、背部打撲として休業補償給付を請求。平成20年7月2日、不支給処分(②)。平成19年8月16日、Xは業務が原因の外傷性頭頸部障害、背部打撲として療養補償給付を請求。平成20年7月2日、不支給処分(③)。
・平成20年8月28日、Xは上記3件の不支給処分を不服として審査請求。①については、平成21年7月21日、東京労働者災害補償保険審査官が棄却、8月19日に再審査請求、平成22年2月17日、労働保険審査会が棄却。②、③については、平成21年10月6日、東京労働者災害補償保険審査官が棄却、11月30日に再審査請求、平成22年8月4日、労働保険審査会が棄却。
・Xは、①について平成22年7月27日、②、③について同年11月15日、取消訴訟を提起。両事件は併合。
 
Ⅱ 判旨
1 本件事件(Eによる暴行)による災害の業務起因性
「本件事件は、・・・業務遂行中に発生したものといえる。」
「しかしながら、本件事件の発端についてみるに、XはY興業の社員(マネージャー)であり、EはY興業の専属タレントであるが、XはEの担当マネージャーではないことはもちろん、タレントとは異なる文化人マネジメント担当であり、Xの主たる業務上の接触先は,担当文化人やテレビ・ラジオのプロデューサーやディレクターであって(書証略)、XとEは、同じ会社に所属する社員と専属のタレントということのみで、具体的な業務上のつながりは認められない。」
「本件事件当日の具体的状況としても、・・・Xが、Dのマネージャーとしての担当範囲を超えて業務上のつながりがないEに対して何らかの業務上の行為を行うべき必要性は認められない。」
「これらの点からすれば、XはEに対して、東京広報部文化人マネジメント担当としての業務のために話しかけたものではなく、Eの上司であるMやNとの個人的つながりを持ち出して、私的に自己紹介しようとしたものであるとみるのが相当である。
 したがって、本件事件の発端となるXのEに対する話しかけ行為は、業務とはいえないというべきである。」
「また、XがEから暴行を受けるに至った経緯についてみても、・・・確かに、Eが立腹するに至った事情として、Y興業の社員であるXがM及びNを呼び捨てにしたことがあり、同人らは本件事件前後の時期においてY興業の幹部であったことは認められる。しかし、Xは両名を高校生の頃に面識のあった人物として名前を出したものであって、Xの発言内容自体は、本来のXの業務との関連性は乏しいし、Eが立腹した理由の一つがXがY興業の社員であることであったとしても、XのEに対する話しかけやこれに続くXとEとの口論はXの業務とは関連性がない。」
「以上の通り、本件事件の発端は、XがEに対して私的にX自身を自己紹介しようとしたところ、Eがその態度に不快感を覚えたというものであって、そのXの行為について業務性は認められないこと、暴行に至る経過において、XがM及びNを呼び捨てにしたことがあるが、その発言自体は、Xの業務との関連性に乏しいことなどからすれば、本件事件による災害の原因が業務にあると評価することは相当ではなく、Xの業務と本件事件による災害及びそれに伴う傷病との間に相当因果関係を認めることができないから、業務起因性を認めることはできない。」
2 精神障害による休業(①)の業務起因性
「客観的にみれば、本件事件におけるその心理的負荷が「死の恐怖」を味わうほどに強度のものであったとまで言えるかは疑問である。」
「L医師による、Xの供述に全面的にあるいはXの本件における供述以上の暴行態様を前提としたPTSDの判断については、疑問を呈さざるを得ない。」
「以上によれば、Xが本件事件後、PTSDに罹患していたとは認めがたい。そして、Xの時間外労働の内容及び本件事件後に生じた事情等を考慮しても前期判断は左右されるものではない。したがって、XがPTSDに罹患したことを前提として、本件処分①の違法をいうXの主張は採用することができない。」
3 外傷・打撲による休業・療養(②、③)の業務起因性
「以上からすると、Xの外傷に対する治療は、平成16年11月2日までに終了していると判断されるべきであり、同日以後の療養については、本件事件との因果関係は認められず、同日以降の療養について療養補償給付を求める本件請求③は支給要件に該当しないというべきである。」
「そもそも、休業補償給付が支給されるのは、療養のために労働をすることができず、労働不能であるがゆえに賃金も受けられない場合であることからすれば、療養が必要でなければ休業も当然必要ではないこととなるので、本件においては、休業補償給付の支給の要件を満たさないというべきである。したがって、平成16年11月2日以降の休業は、本件事件との因果関係が認められず、同日以降の休業について休業補償給付を求める本件請求②は支給要件に該当しないというべきである。」
 
 
Ⅲ 評釈 1に疑問あり。2,3は賛成。
 
1 本件事件(Eによる暴行)による災害の業務起因性
 本判決は、Xの遂行すべき業務範囲が「文化人D担当のマネージャー」であることから、その範囲外である専属タレントEへの話しかけを私的行為と判断している。しかし、被告主張にもあるように、「XがY興業所属の社員(マネージャー)であり、EがY興業の専属タレントであることから、このような両者の会話については業務性が肯定されるという見解もあり得る」のであり、もう少し細かな考察が必要である。
 事実認定において、判決はX側の「Xが業務遂行場所における業務遂行途上において、Y興業専属の大物タレントが一人で放置されていたことから声かけするのは職場における社員として常識的な行動である」との主張に対し、「本件事件当時、Eが特に担当マネージャー以外のY興業の社員からの声かけを必要とするような状況にあったことはうかがわれない」とか「XがEに話しかけた動機としては、職務上の立場とは無関係に、個人的な懐かしさの感情から話しかけたとみるのが相当である」と退けている。しかし、この論点の立て方では、Xがたまたまその時点で担当していたDのマネージャー業務以外は、Yの業務であっても特段の理由がない限り私的行為となってしまい、現実の日本における仕事のあり方とやや齟齬があるように思われる。X側が以下の論点をまったく提起していないので、いささか仮想的な議論になるが、本来はこういう議論があるべきではないか。
 判決文には示されていないが、XはDのマネージャー業務に限定してY興業に採用されたわけではないように思われる。本件事件当時Dのマネージャーを担当していたとしても、今後他の様々なタレントを担当する可能性はあったであろうし、その時のために、担当ではない時期から他のタレントに挨拶し、いわゆる顔つなぎをしておくことは、職業人生全体の観点からすれば将来の業務の円滑な遂行のための予備的行為としての側面があり、まったく個人的な行為とみることはかえって不自然ではなかろうか。現実の社会では、業務の輪郭はより不分明であって、Eに挨拶すること自体を厳密にXの業務範囲外と断定することには違和感がある。ちなみに、判決文ではEは「大物タレント」、Dは「文化人」と書かれており、それぞれのマネージャー業務は一見異なる種類の業務のように見えるが、実は両者ともY興業に属してテレビのバラエティ番組で半ば政治評論的、半ば芸能人的なコメントを行うタレントであって、一般社会的にはほとんど同種の業務と見なしうるように思われる。
 そしてこれを前提とすれば、将来担当する可能性を否定できないEが、過去幾多もの暴力事件を起こし、社内やテレビ局内でも暴力事件を起こしていたことから、本件事件による災害がEを専属タレントとして抱えて業務を遂行する過程に内在化されたリスクとのX側の主張も、「相当でない」と安易に退けることは疑問がある。
 もちろんこれに対しては、その時点での担当業務ではないにもかかわらず、将来担当したり関わったりする可能性のあるタレントと顔つなぎをしておきたいという意図で声かけをすることには、業務性は認められず、業務に関連した私的行為に過ぎないという反論もあり得る。ただ少なくとも、この論点を欠いたままの「個人的な懐かしさの感情」との判断には、いささか短絡的との感を免れない。
 
2 精神障害による休業の業務起因性
 現在、精神障害の認定基準は、「心理的負荷による精神障害の認定基準について」(平成23年基発1226第1号)及び「心理的負荷による精神障害の認定基準の運用等について」(平成23年基労補発1226第1号)によって行われているが、本件について給付請求、審査請求が行われていた時点においては、「心理的負荷による精神障害等に係る業務場外の判断指針について」(平成11年基発第544号)、平成21年4月6日以降は同通達の改正通達(平成21年基発第0406001号)、及びその関連通達によって行われていた。
 本件に対するこの通達の基準の当てはめについては、争点②についての被告側主張に詳細に述べられており、心理的負荷の強度はⅡ、総合評価は「中」であって、業務に起因するとは認められないとしている。この判断は基本的に是認しうる。
 また被告側主張では、訴訟提起後に発出された上記認定基準へのあてはめも行っており、そこでも総合評価を「強」とする「特別な出来事」はなく、「具体的出来事」としては「中」であって、業務起因性を否定している。この判断も是認しうる。
 また、X側のPTSDとの主張に対しても、詳細な反論を行っており、納得できるものがある。ちなみにL医師によるPTSDとの診断に対する疑念は、本人供述に基づく診断を基本とせざるを得ない精神医学について本質的な問題を提起しているようにも思われるが、ここでは深入りし得ない。
 なお、本件労災給付申請は事件発生の3年近く後に、民事訴訟の和解が近づいた時点で行われており、その動機にやや不自然なものも感じられる。
 
3 外傷・打撲による休業・療養の業務起因性
 これについても、被告側主張に詳細に述べられており、是認できるものである。

第8位は、これも2016年の記事がなぜか読み継がれている「1日14時間、週72時間の「上限」@船員法」です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/11472-bfad.html(ページビュー数:2,348)

先日都内某所である方にお話ししたネタですが、どうもあんまり知られていなさそうなのでこちらでも書いておきます。といっても、六法全書を開ければ誰でも目に付く規定なんですが。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO100.html

労働時間を定めているのは労働基準法、というのが陸上の常識ですが、海上では船員法です。

労働時間の原則は労基法と同じですが、


(労働時間)

第六十条  船員の一日当たりの労働時間は、八時間以内とする。

2  船員の一週間当たりの労働時間は、基準労働期間について平均四十時間以内とする。

時間外労働には3種類あります。「船舶の航海の安全を確保するため臨時の必要があるとき」(第64条1項)、「船舶が狭い水路を通過するため航海当直の員数を増加する必要がある場合その他の国土交通省令で定める特別の必要がある場合」(同第2項)、そして労基法36条と同じく「その使用する船員の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、船員の過半数で組織する労働組合がないときは船員の過半数を代表する者との書面による協定をし、これを国土交通大臣に届け出た場合」(第64条の2)です。

この3種類の時間外労働のうち、はじめのもの、つまり「船舶の航海の安全を確保するため臨時の必要があるとき」については性質上上限はないのですが(これ以上働けないからと言って船を危険にさらすわけには行かない)、あとの二つについては法律上の上限が規定されています。


(労働時間の限度)

第六十五条の二  第六十四条第二項の規定により第六十条第一項の規定又は第七十二条の国土交通省令の規定による労働時間の制限を超えて船員を作業に従事させる場合であつても、船員の一日当たりの労働時間及び一週間当たりの労働時間は、第六十条第一項の規定及び第七十二条の国土交通省令の規定による労働時間並びに海員にあつては次項の規定による作業に従事する労働時間を含め、それぞれ十四時間及び七十二時間を限度とする

2  第六十四条の二第一項の規定により第六十条第一項の規定又は第七十二条の国土交通省令の規定による労働時間の制限を超えて海員を作業に従事させる場合であつても、海員の一日当たりの労働時間及び一週間当たりの労働時間は、第六十条第一項の規定及び第七十二条の国土交通省令の規定による労働時間並びに前項の規定による作業に従事する労働時間を含め、それぞれ十四時間及び七十二時間を限度とする

3  船舶所有者は、船員を前二項に規定する労働時間の限度を超えて作業に従事させてはならない。

4  第六十四条第一項の規定により船員が作業に従事した労働時間は、第一項及び第二項に規定する労働時間には算入しないものとする。

さらに、船員法には休息時間という規定もあります。


(休息時間)

第六十五条の三  船舶所有者は、休息時間を一日について三回以上に分割して船員に与えてはならない。

2  船舶所有者は、前項に規定する休息時間を一日について二回に分割して船員に与える場合において、休息時間のうち、いずれか長い方の休息時間を六時間以上としなければならない。

もっとも、EUの陸上の労働時間規制と違って、1日最低連続11時間というわけではなく、1日2回まで分割してもいいというかたちです。1日の労働時間の上限が14時間ですから、休息時間を1日で計10時間とすると、5時間と5時間ではダメで、せめて6時間と4時間にしろということになりますね。

いろいろな意見があると思いますが、何にせよ海上ではこういう法律に現に存在しているということは、陸上の労働法を論じる人々も頭の片隅には置いておいた方が良いようにも思われます。

第9位は、これは大変素直は情報提供もので、7月の「世界の最低賃金」です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-d3d8ef.html(ページビュー数:2,167)

ドイツのハンス・ベックラー財団の経済社会研究所(WSI)が出している「WSI最低賃金リポート2022」に、今年1月現在の世界主要国の最低賃金の状況が載っています。

https://www.wsi.de/de/faust-detail.htm?sync_id=HBS-008280

まずは、実額ベースで見ると、

Wsi01

当然のことながら、高い国、中くらいの国、低い国とあるわけですが、日本は韓国、アメリカと並んで中くらいに位置します。ロシアもウクライナも低いですが、若干ウクライナの方が高め。で、意図的かどうかはともかく、そこで色分けを変えてますね。ウクライナは中くらいだが、ロシアは低いと。でも、大事なのはそこじゃない。

最低賃金がその国の賃金水準に比べてどれくらいかという観点で見ると、違った様相が見えてきます。これは最低賃金がその国の賃金の中央値の何%に当たるかというグラフですが、

Wsi02

たぶん、ドイツのWSIの人が言いたいのはこちらで、ドイツの最低賃金は高いというけれど、中央値の50%しかないじゃないか、ということでしょう。フランスは61%、イギリスだって58%だと。60%のところに線が引いてあるのは、ここまでは上げるべきだという趣旨でしょう。

ちなみに、日本は45%ですが、アメリカに至っては30%弱ですね。面白いのは韓国が中央値の63%とトップクラスに高いことです。

第10位は、これもすごい小ネタのやや古い記事がなぜか読み続けられていて、2019年の「「工業高校」と「工科高校」の違い 」です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/11/post-4eb5d6.html(ページビュー数:2,111)

正直意味がよくわからないニュースです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191122/k10012186251000.html (「工業高校」を一斉に「工科高校」に変更へ 全国初 愛知県教委)

愛知県の教育委員会が、県立の「工業高校」13校の名称を、再来年4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたことが分かりました。科学の知識も学び、産業界の技術革新に対応できる人材を育成するのがねらいで、工業高校の名称を一斉に変更するのは全国で初めてだということです。 ・・・

いやまあ、高校の名称をどうするかは自由ですが、その理由がよくわからない。

・・・関係者によりますと、すべての県立工業高校の名称について「工学だけでなく、科学も含めた幅広い知識を学ぶ高校にしたい」というねらいから、再来年の4月から一斉に「工科高校」に変更する方針を固めたということです。・・・

ほほう、「工業高校」だと科学は学べないとな。「工科高校」だと科学が学べるとな。

「工業高校」の「業」は「実業」の「業」ですが、「工科高校」の「科」は「科学」の「科」だったとは初めて聞きましたぞなもし。

東京工業大学は実業しか学べないけど、東京工科大学は科学が学べるんだね。ふむふむ。

というだけではしょうもないネタなので、トリビアネタを付け加えておくと、東京工業大学は前身は東京高等工業学校でしたが、それとならぶ東京高等商業学校は、一橋大学になる前は東京商科大学でした。一方が「業」で他方が「科」となった理由は何なんでしょうか。

ちなみに、東京高商と並ぶ神戸高等商業学校は、大学になるときには神戸商業大学と名乗っていますな。今の神戸大学の前身ですが、同じ商業系でもこちらは「科」じゃなくて「業」です。

さらにちなみに、神戸商科大学というのもあって、これは戦前の兵庫県立神戸高等商業学校が戦後大学になるときにそう名乗ったんですね。今の兵庫県立大学の前身です。

なんだか頭が混乱してきましたが、東京商科大学は戦時中東京産業大学と名乗っていたので、別に「業」を忌避していたわけでもなさそうです。

ということで、今年もこんな場末の小ブログにわざわざ読みに来ていただける皆様のおかげでなんとかここまで来れました。まだ数日残しておりますが、来年も本ブログを宜しくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堀有喜衣・岩脇千裕・小杉礼子・久保京子・小黒恵・柳煌碩『日本社会の変容と若者のキャリア形成』

Cover_no5 JILPTの第4期プロジェクト研究シリーズNo.5 として、堀有喜衣・岩脇千裕・小杉礼子・久保京子・小黒恵・柳煌碩の共著『日本社会の変容と若者のキャリア形成』が刊行されました。

https://www.jil.go.jp/institute/project/series/2022/05/index.html

近年の日本社会の変容、とりわけ産業構造の変化は若者のキャリア形成にどのような影響を与えたのか。

若者をとりまく環境や、早期離職・フリーター・東京に出た若者等、若者の実態を調査から把握するとともに、中年期を迎えている就職氷河期世代の現状や、包括的な若者政策を展開させつつある韓国についての論考を収録しています。

序章 日本社会の変容と若者のスキル形成
第1章 脱工業化社会と新規学卒者のキャリア
第2章 若年労働者の離職研究の現在―JILPT労働政策研究報告書No.214を中心に―
第3章 好景気下におけるフリーター像の変化とスキル形成
第4章 東京に出た若者たち
第5章 「就職氷河期世代」の実像
第6章 韓国における若者政策の展開 

若者の雇用問題は、JILPTの前身のJIL(日本労働研究機構)のそのまた前身の職研時代からの基軸的研究分野で、その初代の大御所の小杉さんも就職氷河期世代の章で出てきます。現在は二代目の堀さんが中心となって、新旧のアシスタントフェローを含むこの研究集団の5年間の成果の集約をまとめています。

中身は是非お買い求め頂いてお読み頂きたいのですが、ここでは、執筆者の一人である小杉礼子さんが、最近NIRA(総合研究開発機構)のブックレットに書いた小文が関わり深いので、貼り付けておきます。

https://www.nira.or.jp/paper/vision63.pdf

Kosugi

 

 

亀田高志『管理職ガイド はじめてでも分かる若手のトリセツ』

Guide 亀田高志『管理職ガイド はじめてでも分かる若手のトリセツ』(労働開発研究会)をお送りいただきました。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/book_list/10261/

~令和のZ世代を受け入れ、育て、問題に対処するポイント~

 管理監督者が、Z世代の若手を受け入れる際に遭遇するであろう状況について「30のエピソード集」にまとめ、「望ましい対応」と「してはならない対応」を「その根拠となる背景」と共に具体的に説明しています。

 なぜ失敗するのか、どのように考えるか、何を言葉にするか、行動に移すのかというポイントをわかりやすくまとめているのが特徴です。
 エピソードと解説は見開き2ページで簡潔にまとめており、読みやすいのもポイントです。
 タイトルにもある「トリセツ(取説=取り扱い説明書)」として、若い世代に対する捉え方を確認し、必要であれば考え直して、日々のマネジメントで実践して頂ければと思います。

 管理職の皆様をはじめ、職場に迎え入れた若手の指導育成を担当する先輩社員の皆様など、幅広い皆様にお読みいただき、互いの理解を深め円滑なコミュニケーションをはかっていただければ幸いです。

亀田さんは産業医科大学卒の産業医で、その経験から滲み出てくるエピソードの数々が面白いです。

1.受け入れ直後の失敗防止編

エピソード1 「飲み会に誘っても、来ない新人」
エピソード2 「マニュアルは?と言い出す新人」
エピソード3 「電話への応対ができない新人」
エピソード4 「新人がSNSで機密情報を発信した」
エピソード5 「新人が自分のキャリアは?と言い出した」
エピソード6 「ハンコの大切さを知らない新人」
エピソード7 「空気の読めない院卒の新人」
エピソード8 「オンライン会議で新人が顔出しをしない」
エピソード9 「輝ける仕事がしたいと訴える新人」
エピソード10「寮の部屋の掃除は誰?と母親の質問」

2.育成の際のトラブル防止編

エピソード11「転勤するなら辞めると言い張る」
エピソード12「礼儀の指導だけでパワハラのクレーム」
エピソード13「残業させていたら母親から電話」
エピソード14「部門長が若手は打たれ弱いと発言」
エピソード15「スマホのメモで議事録を作成できない」
エピソード16「文書の締め切りを守れない若手」
エピソード17「繰り返し間違える若手にキレそうに…」
エピソード18「若手の“大丈夫”は大丈夫じゃない」
エピソード19「静粛にできない若手に役員が外国人と…」
エピソード20「経済的な自立を声高に語る若手」

3.不調と問題への対処編

エピソード21「人事の寄り添った指導に役員が反対」
エピソード22「診断書を持参した若手の父親から電話」
エピソード23「休職した若手を幹部が“新型”と評して」
エピソード24「勤務中に若手がオンラインゲームに熱中」
エピソード25「トイレが男女共用でつらいと泣く若手」
エピソード26「社長から若手のメンタル対応のお達し」
エピソード27「新人が就活セクハラを受けて不調に…」
エピソード28「遅刻しがちな若手がSMSで報告を…」
エピソード29「若手がスマホで盗撮?と疑う」
エピソード30「入社前から不調があって、死にたいと…」

 

 

男女賃金格差の開示をめぐって@『労基旬報』2023年1月5日号

『労基旬報』2023年1月5日号に「男女賃金格差の開示をめぐって」を寄稿しました。

 既に多くの方が周知のように、昨年7月8日の女性の職業生活における活躍の推進に関する法律に基づく一般事業主行動計画等に関する省令の改正により、常時雇用する労働者が301人以上の事業主には、「男女の賃金の差異」が情報公表の必須項目となりました。
これまで301人以上規模の事業主は、「女性労働者に対する職業生活に関する機会の提供」として、「採用した女性労働者の割合」や「男女別の競争倍率」、「役員に占める女性の割合」など、8項目のうちから1項目以上を選択して公表する義務がありましたが、今回の改正により、この他に男女の賃金差の公表が新たに独立の項目として義務づけられました。
 ただ、そのやり方はいささか大まかな感を与えるものとなっています。同日付で出された厚生労働省雇用環境・均等局長の通達(雇均発0708第2号)は、まず労働者を男女別で正規・非正規に区分し、4種類に分けた区分ごとに、それぞれの総賃金と人員数を算出します。総賃金とは、賃金、給料、手当、賞与など、使用者が労働者に支払うすべてが該当します。4種類に分けた区分ごとに算出した総賃金と人員数をもとに、年間平均賃金を算出します。また、すべての労働者の年間平均賃金も男女別に算出します。そして、労働者の区分ごとに男性の平均年間賃金に対する女性の平均年間賃金の割合を算出します。
こうして、各企業が公表すべき男女の賃金の差異のイメージは次のようなものになります。
  男女の賃金の差異 (男性の賃金に対する女性の賃金の割合)
全ての労働者 XX.X%
うち正規雇用労働者 YY.Y%
うちパート・有期労働者 ZZ.Z% 
 もっとも、これだけではなにが格差を生んでいるのかさっぱり分かりません。そこで、説明欄を活用して事業主による任意の追加的な情報公表ができるようになっています。その例として、同通達は①自社における男女の賃金の差異の背景事情の説明(女性活躍推進の観点から女性の新規採用者を増やした結果、前々事業年度と比較して相対的に賃金水準の低い女性労働者が増加し、一時的に女性の平均年間賃金が下がり、結果として前事業年度における男女の賃金の差異が拡大したといった事情)、②勤続年数や役職などの属性を揃えた公表(勤続年数や役職などの属性を揃えてみた場合、雇用する労働者について、男女の賃金の差異が小さいものであることを追加情報として公表)、③より詳細な雇用管理区分において算出した数値の公表(正規雇用労働者を更に正社員、職務限定正社員、勤務地限定正社員及び短時間正社員等に区分したうえで、それぞれの区分において男女の賃金の差異を算出し、追加情報として公表)、④パート・有期労働者に関して、他の方法により算出した数値の公表、⑤時系列での情報の公表を挙げています。
 さて、こうした政策はなぜ昨年突然出てきたのでしょうか。直接的な出発点は、一昨年政権に就いた岸田文雄首相が直ちに「新しい資本主義実現会議」を立ち上げたことにあります。11月8日には早速「未来を切り拓く「新しい資本主義」とその起動に向けて」と題する緊急提言を取りまとめました。しかし、その中には「男女間の賃金格差の解消」という項目がありましたが、具体的には「企業に短時間正社員の導入を推奨するとともに、勤務時間の分割・シフト制の普及を進める」、「保育の受け皿の整備や男性の育児休業の取得促進等を通じて、仕事と育児を両立しやすい環境を整備する」、「正規雇用と非正規雇用の同一労働同一賃金を徹底し、女性が多い非正規雇用労働者の待遇改善を推進する」といった施策が並んでいるだけで、開示の話はありませんでした。この時、労働界からただ一人この会議に参加している芳野友子連合会長は、「男女間賃金格差の主な要因は、男女の平均勤続年数や管理職比率の差異はもとより、女性の職務・職域によるキャリア形成の遅れ。男女雇用機会均等法・女性活躍推進法の履行確保の徹底が男女間賃金格差の解消につながる」と発言していました。
 その後、2022年4月の会議で「新しい資本主義に向けた非財務情報の可視化」が議論された際、芳野会長は「特に重要なことは、人的資本と人権に関するSの情報。人的資本については、賃金水準や労使関係、労働安全衛生、多様性などに関する情報に加え、男女間賃金格差や女性管理職比率などを開示すべき。また、非正規雇用を含めた全ての労働者を開示対象にすることも重要」と発言しており、これがはずみをつけました。
 翌5月に「人への投資」がテーマになったとき、事務局が示した論点案には「男女の賃金の差異の解消を図っていくため、少なくとも大企業については、男性の賃金に対する女性の賃金の割合の開示を早急に義務化するべきではないか」というのが盛り込まれており、この間にそういう方向への政策判断がなされたのでしょう。この時芳野会長はさらに「男女の賃金差異解消に向けては、情報開示はもちろんのこと、女性活躍推進法を活用し、男女別の賃金実態把握と要因分析を行い、格差是正に向けた取り組みを進めることが重要であると考えます」と述べていました。他の委員はほとんどこの問題には触れていないので、これはほぼ芳野会長と事務局のキャッチボールで進められた案件のようです。
 こうして6月7日に閣議決定された「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」では、次のような方向性が打ち出されました。
②男女間の賃金差異の開示義務化
 正規・非正規雇用の日本の労働者の男女間賃金格差は、他の先進国と比較して大きい。 また、日本の女性のパートタイム労働者比率は高い。
 男女間の賃金の差異について、以下のとおり、女性活躍推進法に基づき、開示の義務化を行う。
・情報開示は、連結ベースではなく、企業単体ごとに求める。ホールディングス(持株会社)も、当該企業について開示を行う。
・男女の賃金の差異は、全労働者について、絶対額ではなく、男性の賃金に対する女性の賃金の割合で開示を求めることとする。加えて、同様の割合を正規・非正規雇用に分けて、開示を求める。
(注)現在の開示項目として、女性労働者の割合等について、企業の判断で、更に細かい雇用管理区分(正規雇用を更に正社員と勤務地限定社員に分ける等)で開示している場合があるが、男女の賃金の割合について、当該区分についても開示することは当然、可能とする。
・男女の賃金の差異の開示に際し、説明を追記したい企業のために、説明欄を設ける。
・対象事業主は、常時雇用する労働者301人以上の事業主とする。101人~300人の事業主については、その施行後の状況等を踏まえ、検討を行う。
・金融商品取引法に基づく有価証券報告書の記載事項にも、女性活躍推進法に基づく開示の記載と同様のものを開示するよう求める。
・本年夏に、制度(省令)改正を実施し、施行する。初回の開示は、他の情報開示項目とあわせて、本年7月の施行後に締まる事業年度の実績を開示する。
 さて、新しい資本主義の枠で議論が始まるまで、この問題は取り上げられてこなかったのでしょうか。実は必ずしもそうではありません。2019年5月の女性活躍推進法の改正に向けた労働政策審議会雇用均等分科会の審議の中で、この問題は取り上げられていました。2018年10月12日に、労働側の齋藤久子委員から次のような提起がされています。
○齋藤委員 ・・・そもそも企業として賃金を支払っている以上は、男女間における賃金の差異ということは、もちろん当然に把握ができていると思いますし、その他の項目についても把握ができていると思いますので、こういったことをしっかり状況把握をして、それを基に、どういった行動計画を立てていくのかということについて向き合って議論をしていくということが必要なのではないかと思っていますので、その点について取組の前進の ために、基礎項目の中に男女の賃金の差異ということを設けていただきたいと思っております。
 これに対して、使用者側の飯島真理委員から困難を訴える発言がありました
○飯島委員 ・・・男女の賃金格差についても、情報把握基礎項目及び情報公表項目にするべきではないかという御意見もありますけれども、社内でも公表していないデータを公表するのは非常に難しいと考えます。
 そして公益の武石恵美子委員から次のように極めて慎重な意見が示されています。
○武石委員 ・・・私は賃金格差というのは、慎重に検討すべき だと思います。率直に言うと、義務化とか、ましてや情報公開というのは、見る人にすごく誤解を招くデータになっていくと思うので、そこは慎重にすべきだと思います。
 これに対して労働側の井上久美枝委員が次のように反論していますが、
○井上委員 ・・・男女の賃金の差異については、取組の結果を測るための指標だと思っております。前々回に、使側のほうから 、機会の平等がもう担保されているのだからいいではないかという話がありましたが、機会の平等をしたことで、でも結果の平等はどうだったのかというところを、きちんと見ているのか。その間の取組がきちんとされていないことが、結果として今の男女間の賃金格差につながっていると思いますので・・・。
 これに対して、使用者側の布山祐子委員は次のように、各国の賃金体系の違いから意味がないと断じています。
○布山委員 ・・・これは各国の賃金体系によって、こういう形で形づくられているのかと思っております。日本の場合、例えば同じ学歴の新卒者が入って、同じ総合職になったときに、賃金表の同じ所にいれば、基本的に同じ賃金ですので、それを比べてどうするのかという気がしています。そういう意味で、労側委員が男女と単に分けた差異を言われているのであれば、それを出して何か分析ができるわけでも ありませんので、これについてはやはりすでに資料に出していただいている、前回、2年前の議論と同じですけれども、必要ないのではないかと思っています。
 それに対して労働側の井上委員は職能給制度における査定の問題にも踏み込みます。
○井上委員 男女間賃金格差を考えるときに、やはり日本として考えなければいけないのは、日本企業の中にある構造的な制度・慣行ではないかと思います。・・・職能資格給制度における人事考課や査定などは、職務上の知識や判断力のみだけはなくて、例えば熱意とか協調性とか、指導性とか、そういう不明瞭な基準に基づいて行われて いるところがあるのではないかと思います。基準が曖昧な分、上司の裁量の幅は大きいですし、例えば女性は子育てが大事だとか、責任ある仕事は任せられないみたいな、ジェンダー・バイアスも査定のところにつながっている、影響しているというように私たちは考えています。バイ アスのかかった査定自体、性差別そのものですので、やはり日本の企業の中に残っている性差別的なところをあぶり出すためには、今の法では未整備なところがあるのだと思っています。
 こういった議論を受けて、公益の権丈英子委員が次のようにまとめています。
○権丈委員 ・・・この状況で、情報公表項目とするのは厳しいのではないかということと、状況把握項目としてもう少し活用してもらうように努力してほしいと考えます。
 その後の雇用均等分科会では、何回か短いやりとりはあってもこれ以上議論が深まることはなく、結局この時点では男女賃金格差は公表義務の対象とはされなかったわけです。
 それが岸田首相の下で急転直下実現することになったのは、政治的にみれば労政審で使用者側と公益側の議論に押さえ込まれた労働側の意見が、新しい資本主義実現会議という場で芳野連合会長が再度攻勢を仕掛けて突破したということも出来るでしょう。
 2022年6月に男女間の賃金差異の開示義務化が閣議決定された直後に急遽開催された労働政策審議会雇用均等分科会の審議をみると、使用者側が(官邸の意向にもかかわらず)反対を維持しているのに対し、公益委員が賛成しつついくつもの疑問を提示しているのは、そのあたりの消息を語っているようにも思われます。
○武石委員 ・・・私は以前、この女活法で男女間の賃金格差を公表することに関しては慎重な意見を申し上げてきました。数値が一人歩きすることの弊害というのを感じて慎重な意見を申し上げてはきたのですが、今回、公表することの意義というものを確認して、前向きな議論に参加をさせていただいたということです。・・・ 私は、今日の提案については反対を申し上げるつもりはないので、これで一旦、施行でよろしいかと思うのですが、・・・やはり、一旦施行をしてみて問題があれば、これを大きく見直すということもあり得るということを前提にして考えるべきではないかと思います。今日は案に反対するつもりはないのですが、今後について、そういう課題を提起させていただきたいと思います。以上です。
 ただ、議論の本質という面からすると、日本的な雇用・賃金制度のゆえに男女賃金格差を公表することに意味が乏しいという批判をひっくり返したことの背景には、そもそも日本的な賃金制度自体に対して疑問を持ち、それを世界標準の職務給に変えていくべきだという発想があるのかもしれません。
 ここはやや皮肉なところで、労働組合サイドが日本的な年功賃金制度を見直して職務給にしていくことを望んでいるかというと、全体としてはむしろそうではない傾向が強いと思われるのですが、少なくともこの問題に関する限りは理論的には職務給への移行を唱道する立場に整合的な考え方を主唱してきていることになります。そして、表には現れてきませんが、官邸に置かれた新しい資本主義実現会議という場で、今までの使用者側や公益の議論をひっくり返すような結論に持って行く運営がされた背景には、官邸の枢要な人物が職務給移行に向けてかなり強い熱意を持っているからではないかという想像もされるところです。
 実際、本省令が施行された直後の2022年9月22日、岸田首相はニューヨークの証券取引所で、「日本の経済界とも協力し、メンバーシップに基づく年功的な職能給の仕組みを、個々の企業の実情に応じて、ジョブ型の職務給中心の日本に合ったシステムに見直す」と発言しています。そして10月3日の所信表明演説では、「構造的な賃上げ」という項目の中で、「年功制の職能給から、日本に合った職務給への移行など、企業間、産業間での労働移動円滑化に向けた指針を、来年六月までに取りまとめます」と述べていました。今のところ、これらは言葉の上だけにとどまっており、具体的にどういう施策を考えているのかよく見えてきませんが、考えてみれば男女賃金格差の公表義務化というのは、その先取り的な政策であったということになるのかもしれません。

 

2022年12月22日 (木)

本日の朝日論壇時評で、望月優大さんが拙論を挙げてくれました

本日の朝日新聞の論壇時評で、「論壇委員が選ぶ今月の3点」の望月優大さんが拙論「日本の賃金が上がらないのは『美徳の不幸』ゆえか?」を挙げてくれました。

https://www.asahi.com/articles/DA3S15508815.html

また毎日新聞の月刊・時論フォーラムでも、森健さんが「今月のお薦め3本」で、 タイトルは挙げていませんが、玄田有史さんの論のおまけとしてこの拙論に触れています。

https://mainichi.jp/articles/20221222/ddm/004/070/011000c

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2022年12月21日 (水)

労働組合が賃上げできないのはイデオロギーのせい?

こういうツイートがありましたが、

https://twitter.com/kikumaco/status/1605167021473206273

労働組合はイデオロギー以前にまず賃上げを目指すべき

この人が頭の中で想定しているのとは多分まったく違う意味で、この言葉は言い当てている面があります。

この呟いている人が想定している「イデオロギー」ってのは、多分マルクスだのレーニンだのスターリンだの毛沢東だのといった、いわゆる世間でそう言われているところの「いでおろぎー」って奴なんでしょうけど、正直このご時世で、そういうなんたら経みたいなものを抱きしめて旗振ってる労働組合なんてのは端っこの方のごく少数派であって、まあ絶滅危惧種みたいなもんでしょう。

ところが、ideologyという言葉の元来の意味からすると、もっとまともな、あるいはより正確に言うと世間でまっとうと見られているような、ある種の思考枠組みみたいなものも立派にイデオロギーであり、世間内存在としての労働組合もそういう世間の常識にマッチするようなイデオロギーには余り抵抗力が無く、わりと素直にそういうイデオロギーに流されてしまいがちなんですね。

何を言っているかというと、『世界』1月号で書いた「日本の賃金が上がらないのは『美徳の不幸』ゆえか? 」で書いたことなんですが、労働組合が自らの独善的利益よりも優先して、世間常識的に正しいこと、美徳とされるようなことを、率先垂範してきたことが、結果的に賃上げできなくなってしまった最大の要因なんではないか、という話です。

オイルショックで狂乱物価になっているのに、労働組合がそれを取り戻そうとして大幅賃上げを要求して勝ち取ったりしたら、ますますインフレが昂進して、賃金と物価のスパイラルがとめどなく進行する。だから、ここは労働組合がマクロ経済のためにあえて本来やれるはずの賃上げを要求しない。それによって物価を沈静させることが天下国家のためになるんだ。

なんと素晴らしい英雄的な決断でしょうか。こんなことが言える日本の労働組合は賞賛に値します。しかしながら、このことが日本の労働組合を、インフレからマクロ経済を断固守り抜く守護神という役割に縛り付けてしまったのです。

マクロ経済のために自分たちの局部的利益を捨てて天下国家に奉仕する。これこそ、なんたら経みたいなほとんど流行らない「いでおろぎー」とは異なり、まさに世の中に力を振るう言葉の正確な意味でのideologyというべきでしょう。

『世界』の論文では、もう一つのやはり世間でみんなが余りにも当たり前に受け入れているideologyも指摘しました。それは消費者の利益こそが一番大事だ。物価が高いことが一番悪いことだ。労働者も一面消費者なんだから、企業と一緒になって、物価の引下げに粉骨砕身しようという、これは今から30年ほど前の連合の運動です。

当時は内外価格差という言葉が流行って、日本の物価が高すぎることが諸悪の根源であって、物価を引き下げれば世の中万事うまく廻るようになるという思想が世にはびこっていました。

「物価引下げ→実質所得向上→経済成長」
 物価引下げによる実質所得の向上は、当然、国全体の実質購買力の増加となる。1992年度の数字で考えれば、仮に3年で10%の物価が引き下げられれば、毎年約9兆円の実質所得の向上になるが、これは各年度の雇用者所得を約4%程度も引き上げるのと同じ数字になるということも認識すべきである。
 その結果は、国民は新しい購買力を獲得し、そこから商品購買意欲の高まりが生まれる。それにより、企業としても、新商品開発、新産業分野への参入など積極的な行動がとれるようになり、将来の市場動向の安定をみて、研究開発や新規設備投資を行いやすい環境となる。このように、個人消費と設備投資の拡大は、経済成長を大いに刺激することになる。

こういう思想を「イデオロギー」と呼ぶ用語法は余りなさそうですが、これこそまさに「虚偽意識」という意味で、その後の30年間の日本社会を呪縛してきた「イデオロギー」そのものというべきでしょう。

日本の労働組合は、上のツイートをした人が想定しているような意味でのなんたら経をふりかざす「いでおろぎー」とはほとんど無縁の存在になっていますが、こういう世間でイデオロギーと思われていないようなideologyにはどっぷり浸かっていて、なかなかその呪縛から抜けられないままにきたことが、賃上げができなくなってしまったことの根っこにあるのではないか、という話です。より詳しくは、まだ本屋さんの店頭に置かれていますので、是非お買い求め下さい。

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2022年12月20日 (火)

日本的文脈の「ホワイト企業」が「成長できない」になる理由

日経新聞の「職場がホワイトすぎて辞めたい 若手、成長できず失望」なる記事が一部で話題のようですが、

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD2865W0Y2A121C2000000/

「職場がホワイトすぎて辞めたい」と仕事の「ゆるさ」に失望し、離職する若手社会人が増えている。長時間労働やハラスメントへの対策を講じる企業が増えたほか、新型コロナウイルス禍で若手に課される仕事の負荷が低下。転職も視野に入れる彼らには成長の機会が奪われていると感じられ、貴重な人材に「配慮」してきた企業との間で食い違いが起きている。 

そもそも、「長時間労働やハラスメントがない」ことが「若者が成長できない」になるということは、裏返していうと、「長時間労働やハラスメント」こそが「若者を成長させる」ということになるわけですが、それこそが私がメンバーシップ型と呼ぶところの日本型雇用システムの特徴であるということを書いたのが、(日経新聞の「ジョブ型」が嘘八百であるということだけではなく)『ジョブ型雇用社会とは何か』だったのですけど、そこの所にはあまり認識が行かないみたいです。

日本以外のジョブ型社会であれば、話は極めて単純。仕事に人をはめ込むのだから、その仕事をできる人を採用してその仕事をさせるわけで、ゆるい仕事にはそれにふさわしい人が応募してはめ込まれるだけだし、ハードな仕事にはそれにふさわしいと思っている人が応募して頑張るだけ。

ところが日本では、何もできない素人を採用して、上司や先輩がびしばし鍛え上げて一人前にしていくのがデフォルトだから、上司や先輩にぼかぼかに叩かれないことが、成長させてもらえないという不利益になってしまう。

これはあちこちで繰り返し喋っていることですが、ハラスメントについて議論すると、日本以外ではほぼ絶対に出てこないテーマが日本では必ず毎回最も重要な話題になる。それは、「ハラスメントと教育訓練は何処で線引きしたらいいのですか?」というものだが、この問い自体が、日本以外ではセクハラと業務命令は何処で線引きできるのかというのと同じくらい異様な質問。

日本の職場が学校、あるいはむしろ「部活」に近い世界となったことが、こういう事態の原因にあるわけだけど、そこにはなかなか思いが至らないようです。

71cahqvlel_20221220232901  2 メンバーシップ型はパワハラの培養土

ハラスメントは世界共通の問題だが
 さて、過労自殺問題をクローズアップさせた二つの電通事件がいずれもいじめ、パワハラによる自殺であったことは、これが日本型雇用システムと密接な関係にあることを暗示します。もちろん、職場におけるいじめ、ハラスメントは世界共通の現象です。だからこそ2019年には、ILOで仕事の世界における暴力とハラスメントの撤廃条約(190号)が採択されたのです。しかしながら、近年のハラスメントに関する議論を細かく見ていくと、他国では見たことのないある議論が、日本では最も盛んに論じられていることが分かります。それは、「教育訓練とハラスメントの境界線をどう考えればいいのか」という上司サイドからの疑問です。
 日本以外では、ハラスメントは暴力と並べられていることからも分かるように、本来職場であってはならない現象です。あってはならないといいながら、そんじょそこらの人間同士が寄り集まって作るのが職場という社会であるために、いじめやハラスメントや暴力行為がしょっちゅう起こるので、それに対処しなければならないわけです。もちろん、日本でも特に中小零細企業の個別労使紛争の実態を見れば、その手の事案も山のようにあります。あるいは、大企業でも非正規労働者を見下す正社員による悪質ないじめも少なくありません。これらはまさにいじめるためのいじめです。学校の生徒同士のいじめと似たようなものです。

日本特有の善意のパワハラ
 しかし、日本のまともな大企業で、上司や先輩から若い正社員相手に発生するハラスメント事案の多くは、性格がいささか異なります。少なくとも上司や先輩は、いじめのためのいじめをしているつもりはさらさらなく、その若手社員の成長のために、教育訓練の一環として厳しい対応をしてあげているつもりであることが多いからです。決して悪意ではなく、むしろ善意にあふれているのです。若いうちは厳しく叩いてこそ大きく成長するのだと、自分もそのように会社に育ててもらった上司たちは考えているので、自分も同じように鬼軍曹として鍛えてあげようと思ってやり過ぎると、相手がポキッと折れてしまうケースが多いわけです。
 問題は、なぜ上司や先輩が若手社員を鍛えるものだとみんな思っているのかという点です。それは、相手が何もできない何も分からない素人だから、少々手荒にでも鍛えてあげないと使い物にならないからです。なぜそんな鍛えないといけないような素人をわざわざ使うのですか?と、ジョブ型社会の人であれば聞くでしょう。ちゃんと資格を持ち、その仕事ができると確認した人を雇えば、そんな無駄なことをしなくてもいいのに、と。そう、ここに、ジョブ型社会とメンバーシップ型社会を隔てる深くて暗い断絶の川が流れているのです。

百万回説きに説いても全く通じていない世のインチキ商売「じょぶがた」の根強さ

こんなことばかり指摘するのはもういい加減いやになるのですが、

https://twitter.com/tomo_k/status/1605110080415797249

ジョブ型雇用って正直めちゃくちゃ肌に合わない。”個々人が高い目標を掲げて――”って全員に意識高い系になれって圧力を掛けられているように感じる。「これまで通り頑張ります」を許されない雰囲気を感じる。

https://twitter.com/tomo_k/status/1605111536841654272

「飯のために働いています。以上」でええやん。

もう長年、百万回いや十億回以上繰り返し説きに説いているつもりなんですが、力及ばず、嘘八百の「じょぶがた」を売り歩くインチキ商売人の影響力の前にはなかなか及ばないのでしょうね。

末端のヒラ社員に至るまで「個々人が高い目標を掲げて」って「全員に意識高い系になれって圧力を掛け」るのが、特殊日本的なメンバーシップ型なんであって、それこそ係員島耕作は課長島耕作になったつもりで、係長島耕作は部長島耕作になったつもりで、経営者目線でがんばれ、などと、ジョブ型社会では絶対にあり得ない発破をかけられる。ジョブ型ってのは、そもそも頑張らないものなんだよ。

そういうのは、経営管理というジョブにはめ込まれたそのスキルのあるはずの人がやることであって、我々ランクアンドファイルは雇用契約で決められたことだけしっかりやらして貰いまっさ、まさしく言葉の正確な意味で「飯のために働いています。以上」 というのが、日本以外のすべての社会で当たり前のジョブ型ってものなんだが、そこが全く180度真逆に理解されてしまっている、というところに、メンバーシップ型以外の何物でも無い代物を、近頃はやっていて銭になるとばかりに「ジョブ型」という嘘八百のラベルを貼り付けて売り歩く、近頃目に余る「じょぶがた」インチキ商売人の悪影響が黒々と塗りたくられている感がありますな。

 

 

 

 

『POSSE』52号

79e39dcc557c544ce4ee 『POSSE』52号をお送りいただきました。今号の特集は「奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代」です。

https://info1103.stores.jp/items/6391680a14313b1b12ad6116

[特 集]奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代
小島庸平/岩重佳治/アストラ・テイラー/奨学金帳消しプロジェクトメンバー座談会

低賃金・不安定な労働市場が広がり国家による社会保障も不十分な状況では、「普通」とされている生活を送るために、私たちは借金に頼らざるをえない。
賃金低下が続く2000年代以降、こうした傾向はますます強まっており、低賃金・不安定な労働と貧困そして借金が、若者の生活に影を落とし、未来への可能性を奪っている。なかでも「奨学金」という名の借金は若者に重くのしかかり、本人だけでなく保証人となった家族をも巻き込みながら、世代をこえて家族破産の危機すらも引き起こしている。
本特集では、若者の貧困を、奨学金・借金という視点で、改めて可視化することを試みた。そして、奨学金制度についての問題点を、現場の実態や歴史的観点から掘りさげる。さらに、この状況を変えようと立ち上がる借金世代の運動を取り上げ、その可能性を探る。

目次
[巻頭インタビュー]
パンデミックとジェネレーション・レフト
キア・ミルバーン(政治理論家)

[特 集]奨学金を帳消しに! 立ち上がる借金世代

「サラ金」化する奨学金
―歴史的視点から制度の根幹を問い直す
小島庸平(東京大学准教授)

自己破産は権利!
―返済できない場合には積極的に活用しよう
岩重佳治(弁護士)

立ち上がる借金世代
―なぜ私たちは奨学金帳消しプロジェクトを立ち上げたのか
岩本菜々(奨学金帳消しプロジェクトメンバー)

奨学金帳消しプロジェクトメンバー座談会
自己責任では生きていけない! 借金世代のリアルと社会運動

奨学金「過払い」の闇
―相談事例から見るJASSOの問題点
本誌編集部

債務者よ、団結せよ! 恥以外に失うものはなにもない
アストラ・テイラー(デット・コレクティブ共同代表、映画監督、作家)

奨学金問題から見えてきた新しい貧困運動の形
―「被害者救済」運動を超えて
青木耕太郎(総合サポートユニオン共同代表)

[ミニ企画]『貧困理論入門』刊行記念 反貧困の理論と運動をアップデートせよ

貧困理論から生存権を問い直す
―生活保護引き下げ訴訟は何と闘っているのか?
喜田崇之(弁護士)×志賀信夫(県立広島大学准教授)

貧困理論は「二〇世紀型」から脱却できるのか
―優生思想ではなく、連帯による自由の平等を
志賀信夫(県立広島大学准教授)×渡辺寛人(本誌編集長/POSSE事務局長)

[単 発]

ジェンダーから労働・貧困を考える
―「生理の貧困」と「更年期離職」
谷口歩実(「#みんなの生理」共同代表)×青木耕太郎(総合サポートユニオン共同代表)×竹信三恵子(ジャーナリスト、和光大学名誉教授)

若者の貧困の現状と生存戦略の変容
今岡直之(NPO法人POSSE生活相談チーム)

[連 載]

父の過労死 会社と闘ってきた10年間
第4回 苦しみながら闘った裁判
高橋優希

映画のなかに社会を読み解く
最終回 ファッション映画から社会を読み解く
『オートクチュール』『プラダを着た悪魔』『クルエラ』『ファントム・スレッド』『メイド・イン・バングラデシュ』
西口想(文筆家・労働団体職員)×河野真太郎(専修大学教授)

スポーツとブラック企業
第13回 アントニオ猪木とブラック企業経営者
常見陽平(千葉商科大学国際教養学部准教授)

『資本論』体系と資本主義システムの形態変化
(3)恐慌論の体系からポスト資本主義の体系へ
佐々木隆治(立教大学経済学部准教授)

POSSE最新ブックレビュー

INFORMATION 

『サラ金の歴史』の小島庸平さんが、サラ金と奨学金それぞれの歴史をたどりながら論じているインタビュー記事がとても面白いです。

・・・サラ金は、極端に言えば「死人は出てもいいから死金を出すな」と考えていました。・・・保険金による誤った動機付けが自殺を誘発し、結局、サラ金への強力な規制を招き寄せる要因になりました。

ひるがえって現行の奨学金制度の運用はどうでしょうか。本来、教育的な目的で行われているはずの奨学金制度であれば、サラ金と違って「死金」が出てもいいと思うんです。・・・しかし今、自己責任論のもとで「借りた金は返さない奴が悪い」「死人が出ても死金を出すな」という方向で制度が運用されているようにも見え、危惧しています。・・・

まあ、サラ金にとっては返ってこない金は全て死金ですが、国にとって奨学金を貸し付けた国民がどういう状況であることが「死金」であり、「生きた金」であるのか、ということを考え直してみる必要があるということなのでしょう。

 

 

2022年12月19日 (月)

『過労死』と『KAROSHI』

616423 弁護士の川人博さんより、過労死弁護団全国連絡会議『過労死』(旬報社)とその英語版『KAROSHI』をお送りいただきました。

https://www.junposha.com/book/b616423.html

617108 いや、正確に言えば、英語版がメインで、その日本語版の出版も行った、というのが川人さんの送り状に書かれていることです。

https://www.junposha.com/book/b617108.html

日本語版と英語版の目次は以下の通りで、

序――過労死の歴史と現代
第1部 過労死と過労自殺の事例
1 トヨタの事例
(1) はじめに―トヨタ自動車で起きた過労死、過労自殺事件
(2) 設計労働者の過労自殺事件
(3) 生産ラインの労働者の過労死事件
(4) パワーハラスメントによる自殺事件
2 遺族は語る
(2)日本社会に問う――システムエンジニアの息子はなぜ過労死したのか
(3)教師の過労死について
(4) 大手広告代理店 電通 新入社員 高橋まつり事件
第2部 過労死と過労自殺の分析
1 精神医学・公衆衛生学から見た過労死・過労自殺
2 過労死研究の経過と現代の課題
3 国際人権の視点から見た過労死と過労自殺の問題
4 ジェンダーの視点から過労死を考える
5 過労死110番運動の歩みと過労死防止の課題
むすび――過労死をなくすために

Contents
Preface
Overview
Section One Karoshi and Karojisatsu Cases
1-1 Cases at Toyota Motor Corporation
Toyota Motor Corporation: Three Deaths
Case 1: The Karojisatsu of a Design Worker
Case 2: The Karoshi of a Production Line Worker
Case 3: Driven to Suicide by Power Harassment
1-2 Bereaved Family Members Speak
“There is no job more important than life”
A Question for Japanese Society: “Why was my son worked to death?”
The Death of a Teacher Through Overwork
Takahashi Matsuri: A New Employee at Dentsu Advertising Agency
Section Two Analyses of Karoshi and Karojisatsu
2-1 Karoshi and Karojisatsu from a Psychiatric and Public Health Perspective
2-2 Trends and Issues in the Study of Karoshi
2-3 A Human Rights Perspective on Karoshi and Karojisatsu
2-4 A Gender Perspective on Karoshi
2-5 The History of the Karoshi Hotline and Issues in the Prevention of Karoshi
2-6 Snapshots from the Karoshi Hotline
Section Three Our Recommendations
How to Overcome the Problem
Glossary

執筆者は以下の方々です。

天笠 崇 (精神科医師、公衆衛生学修士・博士、静岡社会健康医学大学院大学准教授、(公財)社会医学研究センター代表理事)
石井眞紀子(弁護士)
梅村浩司(弁護士)
加計奈美(弁護士)
川人 博(弁護士、過労死弁護団全国連絡会議代表幹事、厚生労働省過労死等防止対策推進協議会委員)
工藤祥子(神奈川過労死を考える家族の会代表、厚生労働省過労死等防止対策推進協議会委員)
須田洋平(弁護士〈Japan & WA, U.S.A.〉、東京大学教養学部非常勤講師、出入国在留管理庁難民審査参与員)
高橋幸美(東京過労死を考える家族の会、厚生労働省過労死等防止対策推進協議会委員)
田巻紘子(弁護士)
寺西笑子(全国過労死を考える家族の会代表、厚生労働省過労死等防止対策推進協議会委員)
西垣迪世(兵庫過労死を考える家族の会、過労死等防止対策推進兵庫センター共同代表幹事、厚生労働省元過労死等防止対策推進協議会委員)
松丸 正(弁護士、過労死弁護団全国連絡会議代表幹事、過労死防止大阪センター代表幹事)
水野幹男(弁護士、過労死弁護団全国連絡会議元代表幹事)

 

 

 

 

2022年12月18日 (日)

全世代型社会保障構築会議報告書

というわけで、防衛費とそのための増税をめぐる論議(憎税)にかき消されてしまった感がありますが、一昨日の12月16日、官邸の 全世代型社会保障構築会議が報告書を公表しておりました。

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/zensedai_hosyo/dai12/siryou1.pdf

すごく大事な論点が山のように詰め込まれているにも拘わらず、新聞各紙はベタ記事扱いです。

私がかなり関心を持って追いかけてきていた育児休業給付の関係では、

 非正規雇用労働者の処遇改善と短時間労働者への更なる支援
非正規雇用労働者の待遇差や雇用の不安定さが少子化の背景になっていることを踏まえ、「同一労働同一賃金」の徹底を図ることとあわせて、雇用のセーフティネットや育児休業給付の対象外となっている短時間労働者への支援を検討すべきである。

 育児休業給付の対象外である方々への支援
自営業者やフリーランス・ギグワーカー等に対する育児期間中の給付の創設についても、子育て期の就労に関する機会損失への対応という観点から、検討を進めるべきである。

と、検討という名の先送りにとどまっているようです。

 

 

 

 

 

 

荒木尚志『労働法 第5版』

L24357 荒木尚志さんの『労働法 第5版』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641243576

ほぼ2年おきに改訂される(人によっては毎年)労働法教科書界にあって、2009年の初版以来3年乃至4年というややゆっくり目の改訂をしてきた本書ですが、今回は前回の第4版の2020年6月から2年半というやや短めの改訂周期となりました。

ただ、はしがきにもあるように、今回の改訂ではあまり大きなトピックはなく、わりと小粒の立法や改正等が細々と書き加えられている感じです。

一昨日、東大の労働判例研究会で報告した国・渋谷労基署長(家政婦過労死)事件との関係でいうと、立法経緯からしてもともと労基法の立派な適用対象労働者であった家政婦(派出婦)は、カテゴリカルに家事使用人(=女中)ではなかったし、現在も労基法上の家事使用人ではないはずですが、にもかかわらず職安法によりビジネスモデルが労務供給事業から有料職業紹介事業に変えさせられたために、使用者が一般家庭とされてしまい、一般家庭は「事業」でないために、結果的に労基法が適用されないという異様な状態が70年に亘って続いています。

ところが、その「事業」なんですが、適用対象として「事業」を明記していた旧第8条は1998年改正で削除され(このときに家事使用人も第116条に転居)、いまは第9条の労働者と第10条の使用者の定義の中にあるだけなんですが、この「事業」について、本書はあくまでも「労基法の場所的適用単位」だと説明していて、「事業」該当性によって労基法が適用されたりされなかったりするというのとは違う解釈の可能性を示唆しているようにも思われます。

この点はあまりきちんとした議論がされてきていない領域ですが、是非誰か突っ込んで考えていただきたいなと思っています。

 

 

2022年12月16日 (金)

熊谷謙一『SDGs実現へ、新しいステップ』

Image_20221216201801 熊谷謙一さんの『SDGs実現へ、新しいステップ ~労使の役割と現代CSRの活用~ 』(日本生産性本部労働情報センター)をお送りいただきました。

https://bookstore.jpc-net.jp/detail/books/goods004065.html

SDGsは2015年のスタートから2030年のゴールに向けて折り返し点を迎え、これまでの共感と理解の段階から、実践と達成へのステップへの移行が求められている。いま求められていることは、社会の核となる組織での取り組みの質的な強化である。とりわけ、企業と労働組合は、市民組織と連携しながら、具体的な活動を強化し、その本気度を社会に示していかなければならない。
幹部がバッジを付ける、CSR報告書やサスティナビリティレポートで一通り紹介するような活動は切り替える必要がある。本書はそのような考えから、労使の職場リーダーなどを対象に、SDGsの背景、構成と内容、推進のメカニズム、企業での実践を解説し、実現に向けての取組みを提案している。

冒頭、企業でCSR担当課長になった佐藤二朗さん(比企能員ではない)、労働組合支部長の高橋芳恵さん、NGOスタッフの加藤伸介さんが登場し、それぞれの立場からSDGsってなんだろうと考え始めるところから始まります。

PART1:SDGsを理解する    
第1章 今ある危機から人と地球を守る
第2章 SDGsはこのように生まれた
第3章 SDGsのねらいと内容をつかむ
第4章 SDGsはどう推進されているか
第5章 海外のSDGsこんな取り組みが

PART2:SDGsを実践する
第6章 労使による実践を推進する
第7章 「ビジネスと人権」の取組み
第8章 ESG投資の活用と課題とは
第9章 現代CSRを基盤にSDGsを実現

 

岸田首相の深慮遠謀?

国防費をGDPの2%まで引き上げ、その財源として増税するという岸田首相の政策に、これまで国防を何よりも重視すると思われていた右派、タカ派の面々が揃って増税反対と大声を張り上げている姿は、なかなかに興味深い姿でしたが、よく考えてみると、これはもしかしたら岸田首相の深慮遠謀なのかも知れないと思えてきました。

そもそも、わたしにはあまり土地勘のない分野なので、微妙な感覚とかは分からないのですが、国家を守ることこそが何よりも大事で、そのためにはいろんな物事を犠牲にするのもやむを得ない、キリッ、というのが右派、タカ派というものの存在意義だったのではないか、そしていやいや国防ばかりが大事じゃないよ、社会経済のあれやこれやも大事だからちゃんとそっちにもお金を回してね、というのが左派、ハト派というものだったのではないか、と、まあ、すごく単純に考えていたのですが、今回、まるっきり話が逆転してしまったように見えます。

党内の右派、タカ派だと自認していたような人々が揃いもそろって、国防といえども増税は許さないぞ!断固反対とばかり騒いでいて、首相官邸前で騒いでいる昔ながらの伝統的平和主義者の皆様と共闘でもしているかの如くです。

逆に、国防をないがしろにするハト派じゃないかと猜疑心でもってみられていた岸田首相が、なんと国防費突出、それも国民の血税で断固やり抜くという立派なタカ派ぶりをアピールしているわけで、これって、反対の声が高ければ高いほど、それにへこたれずに国防の大義を貫いているかのように見せることができるわけで、そう考えると、一見そうは見えないけれども、実は岸田首相の深慮遠謀で、わざと党内の右派、タカ派を増税反対で釣って、そういう銭金しか考えない連中と違って自分を国防派に仕立て上げるシナリオだったのではないかと、思えてくるのです。

いや勿論、全くの素人の勝手な妄想に過ぎませんが。

国・渋谷労基署長(家政婦過労死)事件@東大労判

Mita 本日、東京大学労働判例研究会で、国・渋谷労基署長(家政婦過労死)事件について報告してきました。

労働判例研究会                            2022/12/16                                    濱口桂一郎
家政婦の労災保険法不適用
国(渋谷労働基準監督署長)事件(東京地判令和4年9月29日)
(判例集未搭載)
 
Ⅰ 事実
1 当事者
X:死亡したAの夫
Y:国(処分行政庁は渋谷労働基準監督署長)
A:Bに家政婦兼訪問介護ヘルパーとして登録されていた女性、Xの妻(当時69歳)
B:訪問介護事業及び家政婦紹介所を営む株式会社
C:Aの派遣先家庭の支援対象者(当時93歳)
D:Aの同僚家政婦
 
2 事案の経過
・Bは昭和54年10月1日設立以降、有料職業紹介事業の大臣許可を受けて家政婦等の紹介斡旋業を営んできたが、平成12年4月に介護保険制度が開始された後は、介護保険事業者として、居宅介護支援、要介護者等の日常生活における訪問介護サービス等も併せて行うようになった。
・平成25年8月18日、AはBに家政婦として登録し、同月20日にBとの間で非常勤の訪問介護ヘルパーとしての労働契約を締結した。
・AはBに登録した後、特別加入団体の構成員として政府の承認を受けておらず、特別加入による労災保険の適用を受けていなかった。
・重度の認知症で寝たきりのC宅で家政婦兼訪問介護ヘルパーとして勤務していたDの休暇取得の代替要員として、平成27年5月20日から同月27日までC宅に住み込んで、家政婦として家事及び介護を行う(本件家事業務)とともに、訪問介護ヘルパーとして訪問介護サービスを提供(本件介護業務)した。
・Aは午前0時から午前5時までの休憩時間を除く19時間を本件家事業務及び本件介護業務の時間として指定されていたが、このうち、本件介護業務に係る労働時間は、午前8時から午前9時40分まで、午後0時から午後1時10分まで、午後3時30分から午後4時40分まで、午後8時から保護8時30分までの合計4時間30分/日とされ、それ以外が本件家事業務の実施時間(ただし、休憩時間を含む。)とされていた
・AはC宅の業務を終えた平成27年5月27日、都内入浴施設のサウナ室で倒れ、搬送先病院で急性心筋梗塞又は心停止により死亡した。
・平成29年5月25日、Xは渋谷労働基準監督署長に対し、Aの死亡はBの業務に起因するとして労災保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を請求した。
・平成30年1月16日、渋谷労働基準監督署長は、Aは家事使用人として介護・家事に従事しており、労基法116条により適用除外され、労災保険法も適用されないとして、不支給とする処分を行った。
・平成30年4月2日、Xは本件処分を不服として審査請求したが、平成30年9月4日、東京労働者災害補償保険審査官は審査請求を棄却した。
・平成30年10月16日、Xは再審査請求をしたが、令和元年9月11日、労働保険審査会は再審査請求を棄却した。
・令和2年3月5日、Xは本件処分の取消を求めて本件訴訟を提起した。
・本件訴訟において、Yは処分理由として、上記「家事使用人であるから」に加えて、Aの発症と死亡は業務上ではないとの主張を追加した。
 
3 関連法令
 
・労働基準法(昭和22年法律第49号)
(適用除外)
第百十六条・・・
② この法律は、同居の親族のみを使用する事業及び家事使用人については、適用しない。
 
・解釈通達(昭和63年3月14日基発第150号)
一 家事使用人に該当するか否かは、従事する作業の種類、性質の如何を勘案して具体的に当該労働者の実態によって決定すべきであり、家事一般に従事している者がこれに該当する。
二 法人に雇われ、その役職員の家庭において、その家族の指揮命令の下に家事一般を行う者は家事使用人である。
三 個人家庭における家事を事業として請け負う者に雇われて、その指揮命令の下に当該家事を行う者は家事使用人に当たらない。
 
 
Ⅱ 判旨 請求棄却
1 Aが労基法116条2項所定の「家事使用人」に該当することを理由にされた本件各処分の違法性の有無(Aが従事していた本件家事業務及び本件介護業務は一体としてBの業務といえるか)
(1) Aが従事していた本件家事業務及び本件介護業務は一体としてBの業務といえるか
「Aは平成27年5月20日から同月27日までの間、C宅に住み込んで家政婦としての家事業務(本件家事業務)及び訪問介護ヘルパーとしての訪問介護サービスに係る業務(本件介護業務)を提供していたところ、上記の業務のうち本件介護業務についてはBの業務として提供されていたものといえるが、本件家事業務についてはAとCの息子との間の雇用契約に基づいて提供されていたものといえるから、これをBの業務であると認めることはできないといわざるを得ない。」
 X側の、本件家事業務と本件介護業務とは明確に区別されておらず、一体として提供されていたから、いずれもBの業務に当るとの主張に対して、「Bが登録家政婦を家政婦兼訪問介護ヘルパーとして求人者に職業紹介する場合、家政婦としての業務に関しては、求人者と登録家政婦との間で雇用契約の締結が予定され、現に、Aは、家政婦としての業務についてはCの息子と雇用契約を締結していたのであって、訪問介護サービスの提供業務とその他の家事及び介護業務の使用者がそれぞれ異なることは明確であったものと認められる。また、前提事実等によれば、Bの登録家政婦には、Bの職業紹介に応じるか否かについて諾否の自由があり、Bが賃金の基準額を求人者に提示していたという事情はあるにせよ、賃金額等の労働条件は求人者との交渉によって設定する機会は与えられていたことが認められ、他方、介護保険業務(訪問介護サービス)に関する指示や監督、要介護者宅の要望や注意事項の伝達、要介護者と登録家政婦とのトラブルの仲介等の域を超えて、Bが、登録家政婦と要介護者宅との家政婦業務に関し、登録家政婦に対して指揮命令をしていたと認めるに足りる的確な証拠はない。この点、平成17年事務連絡は、介護保険法の適用により公的負担の対象となる訪問介護サービスの提供と要介護者の全額負担とされるべき家政婦の役務提供が明確に区分できない場合には介護報酬を算定することが出来ない旨を通知したものであるところ、これは飽くまでも介護保険の適用に関して介護報酬の算定が困難となる場合の行政対応の指針を示した事務連絡であり、また、訪問介護サービスに係る事業と家政婦としての事業の内容に共通性や連続性があるために実際の業務遂行の際に両業務を明確に区別することが困難な場合が生ずるとしても、本来、両業務は異なる事業主体による業務であって、それにより介護保険法の適用の有無が措定されることになる以上は、両業務は原則として峻別されることになる旨を行政解釈として示したものと認められるのであって、平成17年事務連絡が、家政婦としての家事業務と訪問介護ヘルパーとしての訪問介護サービスに係る業務が峻別困難な場合に両業務の提供に係る法律関係を求人者とサービス提供者との間の単体の契約とみなしたり解釈することが相当である旨を指摘したものとまでは認められない。その他本件全証拠を子細に検討しても、BとAとの間で本件介護業務に加えて本件家事業務も含んだ雇用契約が締結されたことを認めるに足りる的確な証拠はない。」
(2) Aが労基法116条2項所定の「家事使用人」に該当することを理由にされた本件各処分の違法性の有無
「AがC宅において提供していた業務のうち本件家事業務に係る部分については、Cの息子との間の雇用契約に基づいて提供されていたものと認められる。
 しかして、Xの本件各申請は、AがBに雇用された労働者であることを前提に、Bの業務に起因してAが本件疾病を発症して死亡したとして遺族補償給付及び葬祭料の支給を求めるものであるところ、AのC宅における業務のうち本件家事業務に係る部分については、前示のとおりBの業務とはいえず、Cの息子との間で締結された雇用契約に基づく業務であり、当該業務の種類、性質も家事一般を内容とするものであるから、当該業務との関係では、Aは労基法116条2項所定の「家事使用人」に該当するものと云わざるを得ない(150号基準に照らしても「家事使用人」に該当しないとはいえない。)」
「他方で、AのC宅における業務のうち訪問介護サービスに係る部分(本件介護業務)については、Bの業務と認められ、当該業務の種類、性質も家事一般を内容とするものであったとはいえないから、当該業務との関係では、Aが労基法116条2項所定の「家事使用人」に該当するとはいえない。しかして、前示のとおり、本件各申請は、AがBに雇用された労働者であることを前提に、Bの業務に起因してAが本件疾病を発症して死亡したとして遺族補償給付及び葬祭料の支給を求めるものであるところ、上記のとおり、本件介護業務との関係ではAはBと雇用契約を締結した労働者であり、労基法116条2項所定の「家事使用人」に該当するものとは認められないのであるから、処分行政庁が、本件各申請について、Aが労基法116条2項の「家事使用人」に該当することのみを理由に本件各処分を行ったことについては、同規定の適用を誤った違法があるものと云わざるを得ない。したがって、Xの上記主張は、その限度において理由があるというべきである。」
2 Yによる処分理由の追加は許されるか
「労災保険法は、保険給付の種別に応じて処分要件を措定し、申請者が申告した具体的な「傷病」及びその「災害原因」の存否に関する判断を踏まえて申請に係る保険給付の支給の可否を決定するという仕組みを採用しているといえるから、同一の種別の保険給付の範囲内であり、対象疾病の内容及びその原因について同一性があるといえる限りは同一の処分として取り扱うという立法政策を採用しているものと解するのが相当である。」
「Yによる処分理由の追加により本件各処分の同一性が害されることになるか否かについて見ると、本件各処分は、Aが労基法116条2項の「家事使用人」に該当することを理由に不支給としたものであるが、同規定は「家事使用人」について労基法の適用を除外し、労災保険法の適用も排除するという法律効果を定めた規定であると解されるから、「家事使用人」の該当性の有無は、業務起因性と同様に労災保険給付の支給要件と位置付けているものと解される。また、本件各処分が処分時において前提としたAの傷病と災害原因はYによる処分理由の追加によっても変わるところはない。」「異常によれば、本件ニおいて、Yが本件各処分の処分理由として業務起因性の不存在を追加的に主張したとしても本件各処分の同一性は害されないといえるから、Yによる処分理由の追加は許されるものと解するのが相当である。」
3 Aの本件疾病の発症及び死亡結果の発生につき業務起因性が認められるか
上記1(2)の認定を前提として、「労働者災害補償保険に係る保険関係は、事業主の行う事業ないし事業場を単位として成立するものとされており(労災保険法6条、労災(ママ)保険の保険料の徴収等に関する法律3条、5条)、本件各申請がされた当時において、労災保険法上の保険給付の業務起因性の有無を判定するに際し、複数の事業場の業務を競合させ又は一括して考慮することは予定されておらず、むしろ、労災保険制度は、あくまで使用者の災害補償責任を担保する保険制度であって、前記3において認定し説示したとおり、労災保険給付の支給要件である業務起因性の有無も当該使用者に係る事業ないし事業場を単位として判定することが予定されていたと解される。そうすると、本件各申請は、AにつきBの業務に起因する労働災害について遺族補償給付及び葬祭料の支給を求める請求であるところ、AがC宅において従事していた業務のうち本件家事業務に関する部分はBの業務ではないと認められるから、当該業務と本件疾病の発病との間の業務起因性については検討の対象にはならないといわざるを得ない。」
「そこで、Aの業務のうちBの業務であった本件介護業務と本件疾病の発症との間の業務起因性の有無について検討するに、・・・・本件疾病の発症前おおむね1週間である平成27年5月20日から同月26日までの間のAの本件介護業務に係る総勤務時間は、168時間(24時間×7日)の拘束時間のうちの31時間30分にとどまることになり、その業務時間、業務量が特に過剰であったとか、著しい疲労の蓄積をもたらすものであったとは認めがたく、認定基準に照らしてみても、Aが短期間の過重業務や長期間の過重業務に就労していたとは認められない。」よって、「AがBの業務に内在又は通常随伴する危険の現実化として本件疾病を発症して死亡したと認めることは困難といわざるを得ない。」
 
Ⅲ 評釈 判旨反対だが、そもそも当事者の認識が間違っている。
 
1 そもそも家政婦は家事使用人ではなかった
 
 本件において、X側は、Aの介護業務と家事業務が区分できず、一体としてBの業務に従事していたという主張を(介護保険制度を援用しつつ)しており、さらに家事使用人の適用除外が憲法違反だという主張をしているが、家政婦の家事業務自体は家事使用人に該当するという点は疑っていない。しかしながら、一民事訴訟としては当事者の主張の範囲内でしか議論の余地はないにしても、法政策論の観点からはそこに大きな論点がある。結論を先に言えば、1947年9月に労働基準法が施行された時点において、家事使用人は労基法の適用除外であったが、家政婦は労基法の適用対象であったことは明白である。
 1998年改正により現在の第116条第2項に移るまでは、家事使用人の適用除外規定は適用事業を定めた第8条の柱書の但書であった。施行当時の規定は以下の通りである。
(適用事業の範囲)
第八条 この法律は、左の各号の一に該当する事業又は事務所について適用する。但し、同居の親族のみを使用する事業若しくは事務所又は家事使用人については適用しない。
一 物の製造、改造、加工、修理、浄洗、選別、包装、装飾、仕上、販売のためにする仕立、破壊若しくは解体又は材料の変造の事業(電気、ガス又は各種動力の発生、変更若しくは伝導の事業及び水道の事業を含む。)
二 鉱業、砂鉱業、石切業その他土石又は鉱物採取の事業
三 土木、建築その他工作物の建設、改造、保存、修理、変更、破壊、解体又はその準備の事業
四 道路、鉄道、軌道、索道、船舶又は航空機による旅客又は貨物の運送の事業
五 船きよ、船舶、岸壁、波止場、停車場又は倉庫における貨物の取扱の事業
六 土地の耕作若しくは開墾又は植物の栽植、栽培、採取若しくは伐採の事業その他農林の事業
七 動物の飼育又は水産動植物の採補若しくは養殖の事業その他の畜産、養蚕又は水産の事業
八 物品の販売、配給、保管若しくは賃貸又は理容の事業
九 金融、保険、媒介、周旋、集金、案内又は広告の事業
十 映画の制作又は映写、演劇その他興業の事業
十一 郵便、電信又は電話の事業
十二 教育、研究又は調査の事業
十三 病者又は虚弱者の治療、看護その他保健衛生の事業
十四 旅館、料理店、飲食店、接客業又は娯楽場の事業
十五 焼却、清掃又は、と殺の事業
十六 前各号に該当しない官公暑
十七 その他命令で定める事業又は事務所
 労基法の施行と同時に、労働基準法施行規則(厚生省令第23号)が施行されており、その第1条には、上記労基法第8条第17号を受けて、適用事業が次のように列記されていた。
第一条 労働基準法(以下法という)第八条第十七号の事業又は事務所は、次に掲げるものとする。
一 弁護士、弁理士、計理士、税務代理士、公証人、執行吏、司法書士、代書、代願及び獣医師の事業
二 派出婦会、速記士会、筆耕者会その他派出の事業
三 法第八条第一号乃至第十五号の事業に該当しない法人又は団体の事業又は事務所
 ここに出て来る派出婦会というのは、派出婦会、家政婦会等々の名称で戦前1920年代から拡大し、当時の職業紹介法に定める営利職業紹介事業には該当しないと解されていたが、1938年の改正職業紹介法により労務供給事業の許可制が導入されるとともに、その下で運営されていた事業である。同法に基づく労務供給事業規則の別表様式の所属労務者名簿や労務者供給簿の備考欄には、職種の例として、大工、職夫、人夫、沖仲仕、看護婦、家政婦、菓子職が列挙されており、派出婦会は典型的な労務供給事業であったことが判る。
 労基法が施行された1947年9月1日時点では、なお職業紹介法とそれに基づく労務供給事業規則が生きており、従って派出婦会は全く合法的な事業であった。同時に施行された労基法と同施行規則は一体として、「家事使用人は労基法の適用除外だが、派出婦は適用対象である」という認識を明白に示している。これは、施行当時労働基準局監督課長であった寺本広作著『労働基準法解説』(1948年7月刊)においても、その172ページで家事使用人について次のように述べた後、
 家事使用人についてはこれが女子労働者中に占める割合も多く、その使用関係には封建的色彩の濃厚なものがあるが、その労働の態様は本条に列記された各種事業における労働とは相当異なったものがあってこれを同一の労働条件では律しかねる場合が多い。又先進諸国に於いても家事使用人の労働条件に関する立法例が極めて少ないので、この法律制定の際には幾多の論議を重ねつつ将来の研究問題として残されることになった。
 その数行先で、何のためらいもなくこう述べている。
 命令で定める事業又は事務所としては施行規則の第一条で弁護士弁理士等の自由業、獣医師の事業、派出婦会等の如き派出の事業及び第一号乃至第十五号の事業に該当しない法人又は団体の事業又は事務所が指定された。
 規則第1条に列挙されている多数の事業の中から取り上げた少数の例示にわざわざ「派出婦会」を明記していることからしても、労基法制定担当課長にとって派出婦が家事使用人に該当しないことは明らかなことであったと思われる。
 ちなみに、1947年8月12,13日に東京で開催された労働基準法施行規則案に関する公聴会には、使用者側代表の一人として、東京派出婦会組合も招待されているし、同月15日に大阪で開催された公聴会には、やはり使用者側の出席者として大阪府看護婦会組合が載っている。いずれにおいても規則第1条は全く議論になっていないが、派出婦会がれっきとした使用者であり、そこから派遣される看護婦や家政婦が労働基準法の適用対象であることに対して、行政も労使も誰一人疑問を抱くことのない常識中の常識であったことが窺われる。
注:念のため論じておくと、法第8条の規定ぶりからは、文理解釈として、規則第1条を含む同条の各号列記に該当しつつ家事使用人であることは排除されないとも解しうる。しかしながら、派出婦会というのはほぼ個人営業で、経営者たる会長の外はすべて派出婦であることが一般的であり、かかる解釈は、当該事業において適用対象となるべき労働者のすべてが家事使用人として適用除外となるような事業をわざわざ法文上に規定したと主張することになる。寺本広作がそれに気が付かぬほど愚かであったと主張することは説得的ではない。
 この事態が少し変わったのは、同年12月1日に職業安定法が施行され、翌1948年2月末を以て労働者供給事業が(労働組合以外は)すべて禁止されたことである。これにより、労基則第一条第2号の派出婦会というのは違法の事業となった。しかしながら、当該事業が違法であることは当該事業で働く労働者に労基法が適用されることに何ら影響を及ぼすものではない。そもそも上記寺本名著は派出婦会が違法化された後の1948年7月に刊行されているし、1950年2月に労働基準局長として刊行した『改訂新版』においても、上記記述を一字一句変更していない。家政婦は家事使用人ではないという認識に何の変化もなかったのである。
 
2 労基法の想定する「家事使用人」とは世帯員たる女中である
 
 では、家政婦を含まない「家事使用人」とはいかなるものであったのかを、労基法の立法過程から考察する*1。この柱書の適用除外規定の原型は、1946年4月12日付の第1次案に既に現れているが、その表現はだいぶ違っていた。
○法ノ適用範囲
第一【三】条 本法ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル事業ニシテ同一ノ家ニに属セザル者ヲ使用スルモノニ之ヲ適用ス【但シ同一ノ家ニ属スル者ノミヲ使用スル事ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ】
 表から書くか裏から書くかの違いはあれ、要するに「同一の家に属する者」であるかどうかで線引きしようとしていた。この用語法が変わるのは、同年10月30日付の第7次案からである。
適用事業の範囲
第七条 この法律は左の各号の一に該当する事業【及事務所(以下事業と称する)】に適用する但し同一【同居】の家に属する者【族】のみを使用する事業【及家事使用人】には適用しない
 この流れから判断すると、それまでの「同一の家に属する者」が、血縁関係のある「同居の家族」と血縁関係のない「家事使用人」に分割されたと考えられる。それまで入っていなかった同一の家に属していないような他人が「家事使用人」としていきなり入り込んできたわけではない。
 これは、主人の世帯の一員とされているか否かによる区分であると考えられる。昭和15年の国勢調査時の「昭和十五年国勢調査ノ事務ニ従事スル者ニ示スベキ申告書記入心得」*1には、「普通世帯トハ住居及家計ヲ共ニスル者ノ集リヲ謂フ」とし、世帯主が記入すべき世帯員として、妻から従兄弟姉妹に至る親族に加えて、同居人、下宿人、女中、小間使、子守、乳母といったものが列挙されている。家政婦はいうまでもなく家計を別にするし、一時的な泊まり込みを除けば住込みではなく通いが普通なので、世帯員には該当しない。
 なお、昭和16年の労務調整令は従業員の解雇や退職、雇入や就職を厳しく制限したものであるが、女中のような「家事使用人」については一世帯につき1人まではその制限から部分的に除外される一方で、家政婦のような「供給従業者」についてはネガティブリスト方式による禁止の対象とされており、両者が全く異なるカテゴリーに属することは常識であった。
 ちなみに、この考え方は現在の国勢調査でも受け継がれており、令和2年国勢調査においても、調査票の「4 世帯主との続き柄」の欄には、「他の親族」の次に「住込みの雇人」という選択肢がある。主人宅に女中部屋があり、そこが住所である女中は、政府全体の認識では戦前から今日に至るまで一貫して主人の世帯の一員であり、「同一の家に属する者」であり、「他の親族」と同一カテゴリーに属する。これに対して、主人宅に住み込んではおらず、原則として「通い」で、場合によっては本件Aのごとく「泊まり込み」をする家政婦は、やはり日本政府全体の認識では一貫して主人の世帯の一員ではなく、「同一の家に属する者」ではなく、国勢調査においても独立の世帯をなすものとして扱われるのである。ちなみに、本判決でAについて繰返し「住込み」と称しているが、1週間足らずの泊まり込みを「住込み」と呼ぶ用語法は日本語として異様である。「住込み」とは世帯内に女中部屋等を用意して中長期的に住み込んでいる者をいうのが常識である。本判決の裁判官は、Aがたまたま泊まり込んでいる1週間足らずの間に国勢調査の調査員が来たら、Aを「住込みの雇人」としてCの世帯員に計上するとでも考えているのであろうか。Aと世帯をなしているXは一人寂しく別の世帯に引き離されるのであろうか。閑話休題。
 
3 派出婦会が看護婦・家政婦職業紹介所となった後の労基法上の地位
 
 上述のように、1947年12月1日に職業安定法が施行され、翌1948年2月末で労働者供給事業がほぼ全面的に禁止される直前の2月7日に職安法施行規則が改正され、「看護婦」が有料職業紹介事業の対象職種に加えられた。これは医療資格職としてというよりは、戦前来「付添婦」という名称で呼ばれていた患者の看護に当る者のことで、現在の介護労働者に相当する。しかし、それ以外の一般家事についてはなお揉め続け、ようやく1951年10月17日に「家政婦」も対象職種に加えられた。これにより、戦前来の派出婦会は看護婦・家政婦紹介所という名称でほぼ同様の事業を継続していけることとなった。「職業紹介」といいながら、その実態は紹介所附属の寄宿舎に多くの家政婦を住まわせ、家庭からの注文を受けて臨時的に派遣しては終わってすぐ戻ってくるというビジネスモデルであって、実態は限りなく労働者供給事業そのものであった。弊害の少ないものまで全面禁止しようとした占領下の過度な政策がもたらした異形の制度である。
 とはいえ、それでビジネスが廻っている限りは当事者にとって問題はない。問題が発生するのは、派出婦会が看護婦・家政婦紹介所になったために、家政婦は派出婦会に所属する労務者ではなく、紹介所は単に第三者として雇用関係の成立を斡旋しているだけということになり、家政婦は紹介先の一般家庭に雇用される労働者ということになってしまったことである。一般家庭に雇用されて家事を行うという点では、本来全く異なる存在であったはずの女中等の「住込みの雇人」と同一の法的地位になってしまう可能性がある。
 実際、その後の労働行政は、家政婦が労基法の適用除外される「家事使用人」であることを前提として進められていく。後述の労災保険の特別加入の対象としたことからもそれは明らかである。しかしながら、その判断が正しいかどうかは再検討する必要がある。
 紹介所によって紹介され一般家庭に雇用される家政婦が家事使用人に該当するという解釈は、家事使用人のメルクマールを単純に一般家庭との雇用関係の存在に求めているところから来る。しかしながら、上記労基法立法過程からすると、家事使用人とは本来「同一の家に属する者」のうち血縁関係のないもの(今日でも国勢調査で世帯員に計上される者)を指していたのであり、一般家庭と雇用関係があっても当該世帯員ではなく他人として通ってきたり、時に泊まり込んだりするだけの者(今日の国勢調査でも独立の世帯をなしている者)は、家事使用人には該当しないという解釈がより適切であると考えられる。
 しかしながら、一般家庭に雇用される家政婦は、労働基準法116条2項により適用除外される家事使用人には該当しないが、同法9条の「労働者」の定義が「職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者」であることから、一般家庭が事業でないと解される限り、同法の適用対象外であると解さざるを得ない。同法10条の「使用者」の定義からも同様の結論が導かれる。
 しかしながら、これは政府が本来労基法の適用対象であった労働者から、(労働者供給事業の禁止を口実として)一方的にその保護を剥奪したことにほかならず、本来それに代わる保護の措置を講ずべき責務があったはずである。しかしながら、労働基準行政、職業安定行政のいずれも、この点を考慮することは全くなかった。むしろ、そもそも問題の所在すら認識することはなかった。
 
4 家政婦が家事使用人であることを前提にした労災保険の特別加入とその保険料支払の矛盾
 
 このように、派出婦会が看護婦・家政婦紹介所となり、派出先の家庭との間に雇用関係が存在するようになっても、家政婦は家事使用人になったわけではないが、一般家庭に労基法の適用要件である事業性が存在しないために、結果的に労基法の適用対象から排除されることとなってしまった。この間の法律関係について、政府の認識はかなり雑駁であり、緻密さに欠ける。
 1988年の解釈通達(基発第150号)は、「個人家庭における家事を事業として請け負う者に雇われて、その指揮命令の下に当該家事を行う者」は家事使用人でないというが、そもそも家事の請負で個人家庭側からの指揮命令がないということが不自然であり、少なくとも労基法施行時に適用事業であった派出婦会が遠く離れた家庭で就労する家政婦に指揮命令をしていたわけはないのであるから(労務供給事業は事業請負ではない)、指揮命令で線引きすることは無意味である。1985年に労働者派遣法が制定された後は、派遣会社に雇用されて一般家庭の指揮命令を受けるビジネスモデルは(政令指定を要するとはいえ)法的に可能となったにもかかわらず、この点を考慮していないこの通達は雑駁であると言わざるを得ない。とりわけ1999年改正でネガティブリスト方式に転換した後は、現実に家事の労働者派遣も法律上可能となっており、有料紹介と請負しか存在しないかの如き本通達がなお現在生き続けていることも、問題意識の欠如を示している。
 一方、2001年3月に家庭内の介護作業が、2018年2月に家事支援作業が、労災保険の特別加入の対象に加えられた。労働行政としては、既に特別加入制度を用意しているのだから、適用除外者であるにもかかわらずそれに加入しない者は対象にならないのは当たり前だと考えたのであろう。しかしながら、そこには大きな落とし穴がある。
 特別加入制度は本来、一人親方や家内労働者のように、そもそも雇用される労働者ではない(個別事案には問題があっても、カテゴリカルには労働者ではない)者について、自営業者たる本人の発意によって自らが保険料を負担して「特別に加入する」制度である。しかしながら、家政婦は労働者性の判断基準からすれば紛うことなく労働者であるものを、上述の如き経緯から法律の適用上除外しているに過ぎない。従って、自営業者本人の発意によって自ら保険料を払って個別に特別加入するという仕組みとは本来的に齟齬がある。
 そのため、家政婦の特別加入の保険料については、特別加入制度の本旨とは矛盾するような仕組みとなっている。すなわち、本来独立自営業者が自らの発意で自分の収入の中から保険料を払うという制度設計であるにもかかわらず、この特別加入においては、有料職業紹介所が求人者から徴収する紹介手数料(11%)に上乗せして、「第二種特別加入保険料に充てるべき手数料」として0.55%を求人者から徴収することとしているのである(職安則別表)。つまり、家事使用人の特別加入の保険料は、その雇用関係の当事者である一般家庭が使用者責任として負担することとなっているのである。複雑怪奇な回り道をしながら、結局使用者たる一般家庭が労災補償責任を保険料という形で負担させていながら、それを紹介所への手数料といういびつな形にせざるを得ないという点に、現在の法的位置づけの無理が露呈しているといえよう。独立自営業者が特別加入出来るのにあえて自らの意思で加入しなかったのとは異なり、家政婦が特別加入するためには、紹介所が上乗せ手数料を求人者から徴収しなければならないのである。いかに紹介所は紹介しているだけだといいながら、実質的には所属している家政婦の労働者供給事業であることを仕組み自体が告白しているような仕組みである。このため、2020年度末における介護作業従事者及び家事支援従事者の特別加入は2,360人に過ぎない(『労災保険事業年報』)。
 ちなみに、紹介所から紹介されてくる家政婦ではない古来の女中型の家事使用人については、そもそも紹介所もなければ紹介手数料も存在せず、従って保険料の徴収のしようもない。労基法施行時に適用除外であった世帯員型家事使用人は、今日においてもなお労災保険に特別加入することができないのであり、労基法施行時に労基法の適用対象であった派出婦会の後身の看護婦・家政婦紹介所の家政婦のみが、その紹介所の発意により実質使用者負担により「特別加入」することができるというねじれた制度になっているのである。
 
5 本来の解決策と当面の弥縫策
 
 以上のように、本件は当事者双方が考えているよりも遥かに深刻な問題を孕んでおり、とりわけ労働行政は自らが過去の経緯を忘却して安易な運用に走ってしまった結果が、このねじれきった事態を招いているのであるから、労働基準法制定当時の法適用状況に復帰させるべきである。既にかつての労務供給事業と同様の法的関係を実現しうる労働者派遣法が存在しているのであるから、本来であれば、有料職業紹介事業という現実と齟齬のある法形式から労働者派遣事業というより実態に即した法形式に移行させ、それにより家政婦を労基法上の労働者として認めるところから出発すべきである。
 とはいえ、既に70年間も有料職業紹介事業として運営されてきており、直ちにそうすることは困難であろう。そこで、当面の対応としては、紹介所が上乗せ手数料を徴収しなかったために特別加入出来ていない家政婦については、使用者が本来支払うべき労災保険料を支払っていなかった労働者について労災給付は行いつつ、使用者に対して滞納保険料を徴収するという仕組みに倣って、労災給付を行いつつ上乗せ手数料を特別加入保険料として事後徴収するというのが穏当な解決方法であろう。
6 労災認定について
 
 なお、Yによる処分理由の追加については省略し、Aの死亡の業務起因性について簡単に論じておく。
 労基法施行時の枠組みでは派出婦会が使用者なのであるから、本件では家事サービスも介護サービスもBの業務であり、当然両業務の労働時間は通算されることになったはずである。
 しかしながら、派出婦会が看護婦・家政婦職業紹介所となった後の労基法上の地位を、一般家庭に雇用される労基法上の労働者になったと考えるならば、家事サービスの使用者はCであり、介護サービスの使用者はBであり、使用者を異にする。そして、複数事業労働者の複数業務要因災害についての労働時間の通算規定が施行された2020年9月1日よりも前に発生した本件においては、両者は一応別々に計算されることになる。
 Bを使用者とする介護業務の労働時間は、判決にあるとおり発症前1週間に31時間30分にとどまるが、Cを使用者とする家事業務の労働時間は、介護+家事業務時間133時間(19時間×7日)から介護業務時間を差引いた101時間30分となる。そこから週法定労働時間40時間を差引いた週61時間30分を月換算すると、月当たり時間外・休日労働時間は272時間強となり、いわゆる過労死認定基準を充たすことになる。
 

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2022年12月15日 (木)

EUの男女賃金格差の透明性指令案の成立が目前

今年は日本でも女活法の省令改正で男女賃金格差の公表が義務化されましたが、EUでは男女賃金格差の透明性指令案について、閣僚理事会と欧州議会が暫定的合意に達したということです。

https://www.consilium.europa.eu/en/press/press-releases/2022/12/15/council-and-european-parliament-reach-provisional-deal-to-close-gender-pay-gap/

The Czech presidency and the European Parliament reached a provisional deal on pay transparency rules. The new EU law will empower women to enforce the principle of equal pay for equal work through a set of binding measures on pay transparency.

(理事会の)議長国チェコと欧州議会は賃金透明性規則に関する暫定的合意に達した。この新たなEU法は、賃金の透明性に関する拘束力ある措置を通じて女性が同一労働同一賃金原則を実施できるようにするであろう。

現時点ではまだ合意した条文案はアップされていないようですが、大体の中身は上のリンク先に書いてあります。

最低賃金指令と併せて、この賃金透明性指令も、『労働六法』に新規収録する必要があるでしょうね。

 

 

 

(公立学校)教師の労働法政策@『季刊労働法』279号(2022年冬号)

279_h1_20221215152301 『季刊労働法』279号(2022年冬号)が届きました。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/quarterly/10385/

私の「労働法の立法学」は、今回は「(公立学校)教師の労働法政策」です。給特法の話が中心ですが、ややひねった議論を展開しています。

はじめに
 初めに断り文句を明記しておかなくてはなりませんが、日本国には教師という職種に着目した特別の労働法政策はほとんど存在しません。そのようなものが存在するという思い込みは、さいたま地裁や東京高裁の裁判官の脳内にも濃厚に漂っているようですが、それはいかなる実定法上の根拠も有していません。もちろん社会学的には、教師は医師と並んで一般的に「先生」と呼ばれる尊敬すべき高度専門職とみなされ、場合によっては「聖職」と呼ばれることもありますが、それに対応するような実定法上の特別扱いは存在しないのです。
 にも関わらず、教師は特別な職種であるから労働法上の特別な扱いが存在するという思い込みが実定法に基づいて判決を下すべき裁判官たちにも瀰漫してきたのには理由があります。現在もなお学校教師の大多数を占める公立学校の教師は地方公務員という身分を有しており、この地方公務員たる公立学校教師という特定の法的地位を有する教師についてのみ、地方公務員法を経由した労働法の特別扱いが存在しているからです。この特別扱いは、かかる身分を有さない私立学校や国立学校の教師には全く適用されないものである以上、それはいかなる意味でも職種としての教師に着目したものではありえませんが、これらの存在を脳内で消去してしまうことによって、地方公務員という身分に着目した特別扱い-給特法-を、あたかも教師という職種に着目した労働法であるかのように誤認してしまう者が絶えないのでしょう。
 本稿では、こうした誤認を生み出す元となっている給特法-現時点における正式名称は「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」-をめぐる法政策の推移を、それに先立つ時期に遡って概観していきたいと思います。話がややこしいのは、給特法は1971年5月に制定されたときには「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」であり、(労働基準法がまったく適用されない)国立学校の教師に係る規定がメインで、(労働基準法が原則適用される)公立学校の教師はそれが準用されるに過ぎなかったのに、2004年度から国立大学法人化して民間人となった前者が適用対象から外れたため、後者だけが適用対象となったことです。このことが、給特法をめぐる奇怪なねじれを生み出しています。

1 労働基準法制当時の経緯

2 教職員の給与をめぐる経緯

3 教員超勤訴訟

4 1968年教育公務員特例法改正案

5 1969年の自民党案

6 人事院意見

7 中基審の審議

8 法案の国会審議

9 1971年給特法

10 国立大学法人化による改正

11 働き方改革のインパクト

12 2019年給特法改正

13 埼玉県事件の地裁・高裁判決

14 専門職としての教師にふさわしい労働法制の可能性

 

2022年12月12日 (月)

峰崎直樹さんが『世界』の拙論にコメント

617922_20221212225101 民主党政権で財務副大臣をされていた峰崎直樹さんが、『世界』1月号に載った拙論「日本の賃金が上がらないのは『美徳の不幸』ゆえか? 」についてコメントをされています。

http://hokkaido-roufukukyo.net/report/?p=2675

北海道は月刊誌の発売日が輸送の関係で送れるわけで、月刊誌『世界』新年号は12月10日であり、『文芸春秋』新年号より1日遅れであった。それぞれ目次で誰が何を書かれていたのか判っていたわけで、『世界』の特集1である「経済停滞 出口を見つける」の中に、浜口桂一郎」JILPT所長が書かれた「日本の賃金が上がらないのは『美徳の不幸』ゆえか?」を11日大急ぎで読んでみた。これまで浜口所長のブログで書かれていたことの延長ではあるが、私がかつて最初に勤務していた鉄鋼労連の宮田義二委員長の発言から、1974年春闘の大幅賃上げから始まった「経済整合性論」が打ち出されていたことの指摘を、初めて目にしたように思う。公的には福田赳夫元総理が所得政策を打ち出そうとした際に、宮田委員長は労働組合の側から賃上げを自粛していくことを述べたもののようである。おそらく、未だ原典に当たっていないが宮田委員長の「懐刀」と言われた千葉利雄調査部長(後に副委員長)が、宮田委員長に対して知恵を付けたのではないかと想像している。1974年3月31日、私は鉄鋼労連を辞めて北海道の自治労へと転職をするのだが、当時の千葉利雄さんの考えていた事を調査部員として薄々知っていたわけで、この『経済整合性論』こそが、その後の日本の賃金闘争が欧米のようなスタグフレーションを招くことなくインフレを鎮静化させることに大きな力を発揮したとみている。それが今日では「桎梏」となっているのだと思う。

これを見て、峰崎さんもかつて鉄鋼労連におられたことを再認識しました。

『文芸春秋』新年号で、日銀OBの早川英男氏が「賃上げを阻む『97年密約』」という論文を書かれているが、私は早川説ではなく浜口説での「経済整合性論」こそが今の賃上げを阻んでいるという考え方に立ちたい。願わくは、浜口説に依拠しながら「産業別最賃の引き上げ」に向けて、政労使が全力を挙げて努力していくべき絶好の時ではないだろうか。

 

 

岸健二さんが千束屋の看板を見学に来られました

Chidukaya01_20221212224001 岸健二さんが労働調査会の「労働あ・ら・かると」に、「千束屋(ちづかや)の看板を見学してきました」というコラムを書かれています。

https://www.chosakai.co.jp/information/alacarte/28612/

本ブログでもお知らせしたように、現在JILPTの労働図書館で「職業紹介と職業訓練 ─ 千束屋看板と豊原又男 ─」という企画展示をしています。

恥ずかしながら労働図書館の隅に木の看板らしきものがあったような記憶があるものの、それが江戸時代から大正時代まで続いた職業紹介業の看板だとは知らずにいたので、職業紹介事業に関わるようになって三分の一世紀を過ぎた筆者としては、見学しない手はあり得ないと、早速時間を作ったという次第です。

というわけで、是非職業紹介や雇用仲介事業に拘わる皆様には、この由緒ある看板を見に来ていただければと思います。

 

 

2022年12月10日 (土)

重訳でも何でもいいからさっさと『資本とイデオロギー』の翻訳を出せ

なんだか、ピケティ本がフランス語からの直訳じゃなくて英訳からの重訳だからけしかるとはけしからんとかいう下らぬ話が燃えてるらしいけど、そんなことどうでもいいから、昨年末に出るはずだった『資本とイデオロギー』の翻訳をさっさと出してくれ。

なにしろ、昨年の8月に非売品の内容見本が送られてきて、昨年12月には刊行予定とはっきり書いてあったのに、その1年後になっても出る気配がない。

そんなにぐずぐずするんなら、フランス語から訳してもよかったんじゃないのか、と嫌みを言われるよ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/08/post-e7dad0.html(トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』(非売品))

09048_1 みすず書房さんから薄い封筒が送られてきました。何じゃらほいと開けてみると、開けてびっくり、中から出てきたのは桃から生まれた桃太郎、じゃなくって、トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』!

いやいや、まさかあの分厚い本が出たわけではありません。50ページほどの小冊子の表紙の真ん中あたりには、

内容見本(非売品)

12月上旬刊行予定

の字が。

ふむふむ、1000ページを超える大著の前宣伝に、抜き刷り方式で「中身のチラ見」をやろうというわけですな。

抜き刷りされているのは、第1章が始まる前の「はじめに」だけなんですが、それだけで50ページを超える代物。目次を見ると、今回の本が格差レジームを切り口に人類史を一刀両断するものすごい本であることが分かります。

ちなみに、細目次はみすず書房のHPに載っているのでみてください。

https://www.msz.co.jp/book/detail/09048/

はじめに
第I部 歴史上の格差レジーム
第1章 三層社会――三機能的格差
第2章 ヨーロッパの身分社会――権力と財産
第3章 所有権社会の発明
第4章 所有権社会――フランスの場合
第5章 所有権社会――ヨーロッパの軌跡
第II部 奴隷社会・植民地社会
第6章 奴隷社会――極端な格差
第7章 植民地社会――多様性と支配
第8章 三層社会と植民地主義――インドの場合
第9章 三層社会と植民地主義――ユーラシアの道筋
第III部 20世紀の大転換
第10章 所有権社会の危機
第11章 社会民主主義社会――不完全な平等
第12章 共産主義社会とポスト共産主義社会
第13章 ハイパー資本主義――現代性と懐古主義のはざまで
第IV部 政治対立の次元再考
第14章 境界と財産――平等性の構築
第15章 バラモン左翼――欧米での新たな分断
第16章 社会自国主義――ポスト植民地的なアイデンティティ主義の罠
第17章 21世紀の参加型社会主義の要素
結論

最近人口に膾炙しているバラモン左翼という言葉も、この文脈で出てきたものであることが分かります。

ていうか、今までほとんど何のおつきあいもなかったみすず書房さんから今回の抜き刷りが送られてきたのは、おそらく本ブログで何回かバラモン左翼論を紹介したきたからじゃないかと思われます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-83eb.html(バラモン左翼@トマ・ピケティ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-3616d9.html(バラモン左翼と商売右翼への70年)

これはもう、『労働新聞』で月一回当番で回ってくる書評用には当選確実ですが、それだけじゃなく本気でじっくりと隅から隅まで読んでみたい本です。

 

『季刊労働法』279号(2022年冬号)

279_h1 労働開発研究会のサイトに『季刊労働法』279号(2022年冬号)の案内がアップされたようなので、こちらでもご紹介。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/quarterly/10385/

特集:解雇の金銭解決をめぐる議論と各国の動向

●2022年4月、「解雇無効時の金銭救済制度に係る法技術的論点に関する検討会」報告書が公表されました。これを契機に、今号では解雇の金銭解決に関する特集を掲載します。同報告書の評価、課題を論じ、それに続いて、この10年程度の間で解雇法制改革のあった国(フランス、イタリア、スペイン、韓国)において、改革後の影響がどのようなものであったか、直近の動向を注視します。

解雇無効時の金銭救済制度に関する検討会報告書の意義と今後の課題 日本大学法科大学院非常勤講師 小宮 文人

フランスにおける解雇の救済―近年の動向を踏まえて― 宮崎産業経営大学専任講師 古賀 修平

揺れるイタリアの解雇法制―憲法裁判所は何を問題としたのか 神戸大学大学院教授 大内 伸哉

スペインの2012年解雇規制改革とその後の動向 東海大学講師 高橋 奈々

韓国における解雇法制改革と最近の動向について―金銭的解決制度を中心に― 韓国外国語大学/ロー・スクール教授 李?

いま解雇の金銭解決といえば、先日日本労働法学界の奨励賞を受けた山本陽大さんのドイツ法研究が一番手になりますが、今回の特集はそれ以外のフランス、イタリア、スペイン、韓国といった諸国を取り上げていますね・

■論説■

建設アスベスト訴訟に関する最高裁判決等を踏まえた安衛省令改正の課題 東洋大学准教授 北岡 大介

交渉ルールをめぐる協議と団交法理―オンライン交渉紛争にそなえた覚書― 神戸大学大学院教授 大内 伸哉

アメリカにおける団体交渉法制の困難と労働協約締結への課題―米Amazon 社における労働組合の組織化から 帝京大学助教 藤木 貴史

諸外国におけるハラスメントへの法的アプローチ―セクシュアル・ハラスメント、「差別的ハラスメント」と「いじめ・精神的ハラスメント」の横断的検討―(二・完) 山形大学講師 日原 雪恵

■書評■

早津 裕貴 著『公務員の法的地位に関する日独比較法研究』評者 早稲田大学教授 島田 陽一 早稲田大学教授 田村 達久 大阪公立大学教授 渡邊 賢

■要件事実で読む労働判例―主張立証のポイント 第2回■

不更新条項等が定められた有期労働契約の雇止めに関する要件事実―日本通運事件・東京地判令和2・10・1労判1236号16頁を素材に 常葉大学講師 植田 達

■労働法の立法学 第66回■

(公立学校)教師の労働法政策 労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口 桂一郎

■イギリス労働法研究会 第42回■

イギリスにおける「ゼロ時間契約(zero-hours contract)」の停止期間中の権利義務と契約解釈 ―賃金からの控除を受けない権利の適用をめぐって 九州大学准教授 新屋敷 恵美子

■アジアの労働法と労働問題 第50回■

インドにおける企業別組合の系譜(1) 神戸大学名誉教授 香川 孝三

■判例研究■

トランス女性の性自認に基づくトイレ使用に対する制限等の違法性 国・人事院(経産省職員)事件・東京高判令和3年5月27日労判1254号5頁 山口大学准教授 井川 志郎

使用者の差別的文書配布の職場環境配慮義務違反該当性と文書配布行為差止めの可否 フジ住宅事件・大阪高判令和3年11月18日労旬2002号36頁 法政大学兼任講師 浅野 毅彦

資格外就労を契機として離職を余儀なくされた技能実習生による損害賠償請求が認容された例 千鳥ほか事件・広島高判令和3年3月26日労判1248号5頁、原審・広島地判令和2年9月23日労判1248号16頁 東京農業大学非常勤講師 山田 哲

就労継続支援施設(A型)における整理解雇が無効とされた例 ネオユニットほか事件・最三小決令和3年11月9日判例集未登載、控訴審 札幌高判令和3年4月28日労判1254号28頁、一審 札幌地判令和元年10月3日同43頁 東京経済大学准教授 常森 裕介

■重要労働判例解説■

地方公務員の懲戒処分に関する手続と退職手当不支給 堺市(懲戒免職) 事件( 大阪地判令和3・3・29労判1247号33頁)EX/DB25569661) 全国市長会 戸谷 雅治

わたくしの「労働法の立法学」は、今回は「(公立学校)教師の労働法政策」です。給特法の話が中心ですが、ややひねった議論を展開しています。

 

 

 

2022年12月 9日 (金)

EUのプラットフォーム指令案に閣僚理事会合意ならず

Marianjureka_20221110 昨日から今日にかけて開かれているEUの雇用社会相理事会で、プラットフォーム労働指令案に対する議長国の妥協案に合意はならなかったようです。

https://www.consilium.europa.eu/en/meetings/epsco/2022/12/08/

Despite negotiations that continued throughout the day and several attempts of the presidency to present a compromise there was no qualified majority in support of a general approach.

一日中交渉が続けられ、議長国の妥協案が何回も試みられたにもかかわらず、一般的アプローチに特定多数の支持は得られなかった。

Better working conditions for food delivery workers, ride-hailing drivers and all those who work through a digital platform are a must. The platform economy is a booming sector and we need to make sure that people performing platform work have the employment position they deserve.

Marian Jurečka, deputy prime minister and minister of labour and social affairs

フードデリバリー労働者やライドシェアリングのドライバーなど、デジタルプラットフォームを通じて就労するすべての人々によりよい労働条件を確保しなければならない。プラットフォーム経済は勃興する分野であり、我々はプラットフォーム労働を遂行する人々がそれにふさわしい雇用上の地位を持てるように確保する必要がある。

 

 

 

日本型雇用が残した負の遺産@『WORKS』175号

W175 リクルートのワークス研究所が出している『WORKS』175号が「女性活躍推進から、ジェンダー平等へ」という力の入った特集を組んでおりまして、

https://www.works-i.com/works/no175/

■特集
女性活躍推進から、ジェンダー平等へ[3.9 MB]

はじめに “女性活躍” 中心の施策が日本に後れをもたらした

●Section1 世界の潮流、ジェンダー平等。日本社会と企業の課題は
女性活躍とジェンダー平等は本質的に異なる
投資家はこう見ている
Column 仮想空間で起こるジェンダー問題
ジェンダー平等を評価される企業はこう取り組む
日本型雇用が残した負の遺産
Column 男性中心主義が組織にもたらすもの

●Section2 ジェンダー不平等を本気で乗り越える
1 ジェンダーによる賃金格差をなくす
出産による所得減少を解消する
ステップアップ選択制度でパートの多様なキャリアを実現する/イトーヨーカ堂
未経験のシングルマザーをIT人材へ育成/MOM FoR STAR

Column 職業選択におけるジェンダーバイアス

2 女性のリーダーシップを開発する
女性のキャリアこそ“ 前倒し”に
数の追求から個のサポートへ進化する多様性施策/キリンホールディングス

3 男性にとってのジェンダー平等を考える
男性の“ 生きづらさ”を解消する
男性の育休1カ月取得率100% 自社のみならず社会を変える/積水ハウス

4 ジェンダー視点でイノベーションを目指す
企業の競争力を回復させ得るジェンダード・イノベーション

Column 明治から昭和、ジェンダー平等に尽力した女性たち

編集長まとめ:ジェンダー平等の達成は誰もが働きやすい組織への近道である/浜田敬子(本誌編集長)

https://www.works-i.com/works/item/w_175.pdf

そこに私もインタビュー記事で登場しています。「日本型雇用が残した負の遺産」というタイトルです。

 日本企業における“ジェンダー不平等 ”の問題は、堅固な性別役割分業意識に起因し、その根幹には、新卒一括採用・年功序列・終身雇用という日本型雇用システムと、勤務時間・勤務地・職種が無限定の総合職の働き方があると指摘される。実際に、企業内における性別役割分業はどのように形作られ、強化されてきたのか。これを変えていく方法はあるのか。労働研究における第一人者、濱口桂一郎氏に聞く。

「日本では、イデオロギーと現実が、逆方向に進んできました」と、濱口氏は指摘する。現実の社会では、1950年代から1960年代にかけて女性の多くは専業主婦だったが、1970年代以降、さまざまな職場で活躍する女性が徐々に登場した。「逆にイデオロギーでは 1960年代まで、欧米型のジョブに基づく雇用システムを目指すべきだと認識されていました。それが 1970年代には大きく変わります」。1960年代の高度経済成長を経てオイルショックで世界的な景気後退を経験したとき、欧米諸国よりも日本のほうが立ち直りが早かったことで、それによって“Japan as No.1”に代表される、日本型雇用のほうが優れているという感覚が一般化した。「これが、女性をエンパワーメントしながら、伝統化を進めるという非常にちぐはぐな政策につながっていきました」
 日本では、1967年に ILO(国際労働機関)の同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約を、その後 1979年に採択された国連の女子差別撤廃条約を1985年に批准した。この流れで同年には男女雇用機会均等法も成立させた。「しかし皮肉なことに、女子差別撤廃条約の制定と同じ1979年に出された自民党の研修叢書『日本型福祉社会』では、主婦が『家庭長』として外で働く男性を支え面倒を見、余った時間はせいぜいパートとして働くというモデルを称揚しました」
 均等法と同じ1985年には、第3号被保険者制度が創設された。「国連の条約に従って機会均等に向けて精一杯努力した官僚がいる一方で、女性が家庭にいることを推奨する法律が同じ年に誕生したのです」
 その後、40年近くが経過した今も、日本型雇用を強化するために推進してきた制度や、それによって培われた慣習や価値観はジェンダー平等を阻む要因となっている。・・・・


 

 

 

2022年12月 8日 (木)

労使関係思想から見たジョブ型・メンバーシップ型@連合総研「日本の未来塾」

連合総研の「日本の未来塾」で、8月4日に「労使関係思想から見たジョブ型・メンバーシップ型」という話をしたのですが、その講演録が連合総研のサイトにアップされたようなので、紹介しておきます。

https://www.rengo-soken.or.jp/info/ad5a26f82bc2f53ab1f17a10c07096e32ad6aa94.pdf

(1)ジョブ型は古い
 本日はジョブ型雇用についての講演依頼をいただいたのですが、あえてこれに「労使関係思想から見た」という形容詞を付けさせていただきました。
 なぜかといいますと、この 2 年半の間、ちょうど新型コロナウィルス感染拡大が始まった2020 年の初めぐらいから、新聞や雑誌、ネットでもジョブ型という言葉を目にしない日がない、毎日のようにいくつもジョブ型を論じたと称する記事が山のように出ておりました。こういうこともあって、私もこの 2 年半の間、あちこちでジョブ型について講演する機会が多かったのですが、正直言ってもう飽きました。
 毎回同じことを話すのですが、この 2 年半ほど、日経新聞をはじめとするメディア、あるいは人事コンサルタントや評論家の方々は、「ジョブ型だ、日本の仕組は古い、世界はジョブ型に向かっている」と言っていますが私は「それは全部インチキだよ、うそだよ」、ということをあちこちで言い続けてきたのです。毎回同じことばっかり言っていると、正直、こんなことばかり話していていいのか、という気がしないでもありません。
 もう一つ言うと、毎回ジョブ型についてお話をする際に冒頭、どう話をするかというと、ジョブ型は古い、日経新聞やインチキコンサルタントがこれからはジョブ型だ、最新の新型商品だ、と言っているが、それはうそだと一生懸命話してきたのですが、どのように古いのかということをきちんとまとまって話したことが実はあまりないのです。
 先ほど、私の著作の話がでましたがその本でも、最初のほうに「ジョブ型は古臭い」と、書きましたが、その話はその点について細かく突っ込んでおりません。それより今、世に氾濫している議論をいかに根本的に修正するかを一生懸命やっているわけですが、しかし、考えてみると、日経新聞を見て、あるいはコンサルタントの話を聞いて、これからはジョブ型だと思っている人には、まさにそういうレベルの話をする必要があります。
 『日本の未来塾』にお集まりの皆さんには、「実はジョブ型は古臭い」ということ、こちらの本では省略したその話こそが本当はふさわしいのではないか、と思ったのです。

(2)ジョブ型を語るなら労使関係の歴史から

Ⅰ.トレードからジョブへ

1.出発点は集合取引(collective bargaining)

2.「労働は商品じゃない」の本当の意味

3.ジョブ型労働運動の哲学

Ⅱ.パートナーシップ型労使関係という奇跡

4,共同決定というもう一つの産業民主主義

5.労使は経営共同体のパートナーシップ

Ⅲ.パートナーシップなき企業内労使関係の苦悩

6.労使パートナーシップへの淡い夢

7.パートナーシップなきイギリスの職場

8.ジョブ・コントロール型労使関係は崩壊の一途

9.メンバーシップ型アメリカ企業の雌伏、栄光、挫折

Ⅳ.自主管理思想の理想郷は

10.労働者自主管理という理想像の逆説

V.片翼だけの労使関係

11.事業一家の覇者交替

12.戦後日本社会の設計図

13.従業員組合のアンビバレンツとその帰結

<質 疑>

 

2022年12月 6日 (火)

エレファントカーブが変わった!?

Pics3150x150 例によってソーシャル・ヨーロッパの記事ですが、今回はブランコ・ミラノビッチ。あのエレファントカーブの人ですが、なんとそのカーブの形状が大きく変わってるんだそうです。

https://socialeurope.eu/global-income-inequality-time-to-revise-the-elephant

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有名なエレファントカーブは、このグラフの1988-2008のグラフですね。先進国の大金持ちと途上国の大勢が豊かになって、先進国の中間層が貧しくなった。

でも、リーマンショック以後の10年間はそれとは全然違う様相を呈しているんですね。

 

 

 

 

 

日本の賃金が上がらないのは「美徳の不幸」ゆえか?@『世界』2023年1月号

617922 『世界』2023年1月号に「日本の賃金が上がらないのは「美徳の不幸」ゆえか? 」を寄稿しました。

https://www.iwanami.co.jp/book/b617922.html

これは「経済停滞 出口を見つける 」という特集の一本ですが、特集の冒頭私の前にでんと載っているのが玄田有史さんの「黙っていても実質賃金は上がらない」という発破をかけるような文章で、それに続くのが「美徳の不幸」てんですからね。

 近年、「日本の賃金が上がらないのはなぜか」がホットな話題になっている。玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』というそのものズバリのタイトルの本が出たのはもう5年前だ。そこに展開される経済学のさまざまな観点からの分析も、なるほどとは思わせるがいま一歩腑に落ちない。かつて、高度成長期の日本では『国民所得倍増計画』の掛け声に乗って、賃金は急激に上昇していた。物価も上がっていたが、それ以上に賃金の伸びは大きかった。それがいつから変わったのだろうか。歴史を振り返ってみよう。

石油危機の成功体験が裏目に

「安い日本」の原因は「高い日本」批判

生産性向上の誤解

ではどうすべきか?

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家政婦の労災保険特別加入と紹介手数料@『WEB労政時報』

『WEB労政時報』に「家政婦の労災保険特別加入と紹介手数料」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/84061

 去る9月29日に東京地裁が下した国(渋谷労働基準監督署長)事件判決は、労働基準法の適用されない家事使用人という存在をめぐって議論を巻き起こしています。それはそれで重要ですが、法制度史の観点からすると、ここには大きなねじれが存在します。というのは、既に『労基旬報』11月25日号所載の「家政婦は女中に非ず・・・のはずが・・・」で詳しく述べたように、そもそも1947年9月に労働基準法が施行された時点においては、本件のような、家政婦紹介所から紹介されて個人家庭で就労している家政婦というものは、労働基準法が適用除外している「家事使用人」に該当しなかったからです。正確に言えば、当時はまだ1938年職業紹介法に基づいて労務供給事業規則が存在し、許可を受けた労務供給事業は立派に合法的に存在していたのです。そして・・・・・

 

生活保護と大学教育のレリバンス(再掲)

世の中に同じような問題が生じ、同じような話題が論じられると、昔書いたエントリがそのまま使えるということが繰り返されるわけですが、今回もまた、同じ議論に同じエントリを再掲する必要があるようです。

https://www.asahi.com/articles/ASQD563J6QCYUTFL016.html(大学生の生活保護、認めぬ方針継続 理由「一般世帯でもアルバイト」)

2022120500000059asahi0005view 生活保護を受けながら大学に進学することは認めない――。約60年前から続くこのルールを厚生労働省は見直さない方針を決めた。生活保護世帯の大学進学率が4割にとどまっている「貧困の連鎖」の一因とも指摘されるが、アルバイトで学費や生活費を賄う一般世帯の学生とのバランスなどにもとづく従来の考え方を踏襲するとしている。・・・ 

生活保護の見直しを検討する社会保障審議会(厚労相の諮問機関)の部会で近く、この方針を盛り込んだ報告書をとりまとめる。
 国のルールは原則、夜間をのぞいて生活保護をうけながら大学や短大、専門学校に通うことを認めていない。1963年に出された旧厚生省の通知が根拠だ。
 大学などに進学する場合は、生活保護の対象から外す「世帯分離」をすることを想定している。ただ、世帯を分けると、子ども自身はアルバイトなどで生活費などを賄う必要がある。その世帯も抜けた子どもの分の保護費が減額される。
 大学生に生活保護を認めない理由について、厚労省は一般世帯でも高校卒業後に就職する人や自分で学費を稼ぎながら大学に通う人もいて、大学進学を「最低生活保障の対象と認めるのは困難」としている。しかし、こうした国の考えには見直しを求める意見が繰り返し出されてきた。

ここに再掲するエントリは2017年にみわよしこさんの書かれた文章に触発されたものですが、そこで引用している拙著はもう13年前に出した『新しい労働社会』です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-6e86.html(生活保護と大学教育のレリバンス)

ダイヤモンドオンラインにみわよしこさんが「生活保護で大学に通うのは、いけないことなのか?」を書かれています。

http://diamond.jp/articles/-/135883

厚労省は、大学等(以下、大学)に進学する生活保護世帯の子どもたちに一時金を給付する方向で検討を開始している。金額や制度設計の詳細はいまだ明らかにされていないが、2018年度より実施されると見られている。

 現在、生活保護のもとで大学に進学することは、原則として認められていない。家族と同居しながらの大学進学は、家族と1つ屋根の下で暮らしながら、大学生の子どもだけを別世帯とする「世帯分離」の取り扱いによって、お目こぼし的に認められている。・・・

もちろん、これは生活保護制度のあり方の問題ですが、その背後にあるのは、大学教育をどういうものととらえているかという、日本人の意識の問題でもあります。

131039145988913400963実は、この問題は、今から8年前に出した『新しい労働社会』(岩波新書)で採り上げた問題でもあります。

教育は消費か投資か?

 後述の生活保護には生活扶助に加えてそのこどものための教育扶助という仕組みがあります。これは法制定以来存在していますが、その対象は義務教育に限られています。実は1949年の現行生活保護法制定の際、厚生省当局の原案では義務教育以外のものにも広げようとしていたのです。高校に進学することで有利な就職ができ、その結果他の世帯員を扶養することができるようになるという考え方だったのですが、政府部内で削除され、国会修正でも復活することはありませんでした。

 これは、当時の高校進学率がまだ半分にも達していなかったことを考えればやむを得なかったともいえますが、今日の状況下では義務教育だけで就職せよというのはかなり無理があります。実際、2004年12月の社会保障審議会福祉部会生活保護制度の在り方に関する専門委員会報告は、高校への就学費用についても生活保護制度で対応することを求め、これを受けた厚生労働省は法律上対象が限定されている教育扶助ではなく、「生業に必要な技能の修得」を目的とする生業扶助として高校就学費用を認めることとしました。これは苦肉の策ともいえますが、考えてみると職業人として生きていくために必要な技能を身につけるという教育の本質を言い当てている面もあります。

 現在すでに大学進学率は生活保護法制定当時の高校進学率を超えています。大学に進学することで有利な就職ができ、その結果福祉への依存から脱却することができるという観点からすれば、その費用を職業人としての自立に向けた一種の投資と見なすことも可能であるはずです。これは生活保護だけの話ではなく、教育費を社会的に支える仕組み全体に関わる話です。ただ、そのように見なすためには、大学教育自体の職業的レリバンスが高まる必要があります。現実の大学教育は、その大学で身につけた職業能力が役に立つから学生の就職に有利なのか、それとも大学入試という素材の選抜機能がもっぱら信頼されているがゆえに学生の就職に有利なのか、疑わしいところがあります。

 生活給制度の下でこどもに大学教育まで受けさせられるような高賃金が保障されていたことが、その大学教育の内容を必ずしも元を取らなくてもよい消費財的性格の強いものにしてしまった面もあります。親の生活給がこどもの教育の職業的レリバンスを希薄化させる一因になっていたわけです。そうすると、そんな私的な消費財に過ぎない大学教育の費用を公的に負担するいわれはないということになり、一種の悪循環に陥ってしまいます。

 今後、教育を人的公共投資と見なしてその費用負担を社会的に支えていこうとするならば、とりわけ大学教育の内容については大きな転換が求められることになるでしょう。すなわち、卒業生が大学で身につけた職業能力によって評価されるような実学が中心にならざるを得ず、それは特に文科系学部において、大学教師の労働市場に大きな影響を与えることになります。ただですら「高学歴ワーキングプア」が取りざたされる時に、これはなかなか難しい課題です。

で、実はこの本に対してとりわけ大学アカデミズムの方々から寄せられた最大の批判は、まさにこの最後の大学教育を職業的に役立つものにすべきという部分であったことを考えると、大学教育を正々堂々と生活保護上の生業扶助として給付するということに対する最大の障壁は、大学というのはそんな下賤なものじゃないと声高に叫ぶ方々なのかも知れないな、と改めて痛感するところでもあります。

大学教育が年功賃金でまかなえるような、「必ずしも元を取らなくてもよい消費財的性格の強いもの」であると、多くの国民から認識され続ける限り、そんな贅沢品を生活保護で暮らしているような連中にまで与える必要はない、と認識され続けることになるのでしょう。

教育と労働と福祉はかくも密接に絡み合っているのです。大学人の主観的認識はいかにあれども。

 

2022年12月 5日 (月)

日本記者クラブで講演

本日、日本記者クラブで講演しました。

https://www.youtube.com/watch?v=_H8yn8mbf7Y

労働政策に詳しく、ジョブ型雇用の名付け親としても知られる濱口桂一郎・労働政策研究・研修機構研究所長が、ジョブ型雇用とは何か-期待と誤解を解きほぐす」をテーマに話した。

司会 竹田忠 日本記者クラブ企画委員(NHK)

 

 

「職能給」から「職務給」へ、政府が導入促進 利点と課題は@朝日新聞

 今朝の朝日新聞に、「リスキリングに注目、個人も企業も 「労働移動に必要」政府も支援」というかなり大きな記事が載っており、そのサブ記事として「「職能給」から「職務給」へ、政府が導入促進 利点と課題は」に、私もちらりとだけ出ています。

https://www.asahi.com/articles/ASQD255PLQCXULFA00J.html

・・・一方、課題もある。労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎・労働政策研究所長は「職務給の割合が増えれば、年代に関わらずフラットな賃金になる可能性はある」として、人材の流動化にもつながりうるとみる。ただ、職務給で賃金を上げるにはより上位のポストに応募することなどが必要で、「何もしなければ賃金は上がりづらくなる」と話す。

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2022年12月 4日 (日)

EUプラットフォーム労働指令案に理事会合意文書案

昨年末に提案されたEUのプラットフォーム指令案については、既に結構色々と解説してきているところですが、12月8日に予定されている雇用社会相理事会で一般的アプローチに関する政治的合意に達する見込みになったようです。

EU理事会のウェブサイトの文書検索に、昨日付の「Proposal for a DIRECTIVE OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL on improving working conditions in platform work - General approach」がアップされています。

https://data.consilium.europa.eu/doc/document/ST-15338-2022-INIT/en/pdf

62ページに及ぶこの文書の大部分はチェコ議長国による妥協案です。

これを見ると、一番注目されている雇用関係の法的推定の第4条が、5要件のうち2つ満たせばいいという原案から、7要件のうち3つを満たせばいいというふうに変わっていますね。とりあえず原文を貼っておきます。

Article 4
Legal presumption
1. The relationship between a digital labour platform and a person performing platform work through that platform shall be legally presumed to be an employment relationship, if at least three of the criteria below are fulfilled:
(a) The digital labour platform determines upper limits for the level of remuneration;
(b) The digital labour platform requires the person performing platform work to respect specific rules with regard to appearance, conduct towards the recipient of the service or performance of the work;
(c) The digital labour platform supervises the performance of work including by electronic means;
(d) The digital labour platform restricts the freedom, including through sanctions, to organise one’s work by limiting the discretion to choose one’s working hours or periods of absence;
(da) The digital labour platform restricts the freedom, including through sanctions, to organise one’s work by limiting the discretion to accept or to refuse tasks;
(db) The digital labour platform restricts the freedom, including through sanctions, to organise one’s work by limiting the discretion to use subcontractors or substitutes;
(e) The digital labour platform restricts the possibility to build a client base or to perform work for any third party.

内容的には新たな要件を追加したわけではなく、元の第4要件が3つに分割されただけです。時間的空間的裁量性、諾否の自由、再委託の自由それぞれを判断するということですね。

全体はよく読んでからどこかでまとめようと思います。

 

2022年12月 2日 (金)

ジョブ型雇用社会とは何か─ 日本人が抱く誤解と企業に求める覚悟 ─@『改革者』12月号

22hyoushi12gatsu 政策研究フォーラムの『改革者』12月号に、「ジョブ型雇用社会とは何か─ 日本人が抱く誤解と企業に求める覚悟 ─」を寄稿しました。

http://www.seiken-forum.jp/publish/top.html

去る9月、岸田首相はニューヨーク証券取引所で、「メンバーシップに基づく年功的な職能給の仕組みを、ジョブ型の職務給中心のシステムに見直す」と語りました。10月の臨時国会の所信表明演説でも、「年功制の職能給から、日本に合った職務給への移行」についての指針をとりまとめると述べています。・・・・

なお、今月号から川上淳之さんによる「副業を持つ意味とその役割」という新連載が始まっています。

 

 

 

2022年12月 1日 (木)

柴原多,湯川雄介,根本剛史『誇れる会社であるために 戦略としてのCSR』

41ca9ew17l_sx343_bo1204203200_ 柴原多,湯川雄介,根本剛史『誇れる会社であるために 戦略としてのCSR』(クロスメディア)をお送りいただきました。

企業は利益追求のための組織であると同時に、社会の中で果たすべき責任もある。従来、人権問題や環境問題といったCSR課題への対応は利益と矛盾するものと捉えられてきた。
しかし今、消費者は社会問題への取り組みを企業に求め、投資家にとってもCSR対応は出資先を選ぶ要件となりつつある。もう、どんな企業も避けては通れない課題だ。
本書では、国内・海外で企業案件を請け負う弁護士3名が、CSRがなぜ必要で、何をどのように対応すればいいのかを説く。

人権デュー・ディリジェンスだの、ダイバーシティ&インクルージョンだの、なんだかよく分からないうるさい話が増えたとお考えの皆さまに、いやいやCSRってのは「善行」なんかじゃないんだよ、うかつに軽視するとリアルなリスクが待っているんだよ、と説き聞かせるような本です。

 

 

 

東京の最低賃金1,072円@『労務事情』12月1日号

B20221201 『労務事情』2022年12月1日号に「数字から読む日本の雇用」として、「東京の最低賃金1,072円」を寄稿しました。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20221201.html

今回の数字は統計数値ではなく、法律に基づく最低賃金額そのもので、本誌の読者であれば周知の数値です。この1,072円という数値自体というよりも、過去15年にわたってそれが急激に上昇してきたこと、そしてそれがさらに続くであろうことが、日本の雇用にいかなる影響を与えるかがここでの問題です。まず、21世紀になって以来、全国最高の東京、全国最低の沖縄、そして全国加重平均の推移を見ておきましょう。・・・・

 

 

 

 

柄谷行人『力と交換様式』@『労働新聞』【本棚を探訪】

31950063_2 『労働新聞』の書評コラム【本棚を探訪】で、柄谷行人『力と交換様式』を取り上げました。

https://www.rodo.co.jp/column/142042/

 台湾のデジタル発展担当大臣オードリー・タン(唐鳳)が強い影響を受けたという柄谷行人の交換様式論。2010年の『世界史の構造』(岩波現代文庫)で展開されたその理論を、改めて全面展開した本だ。今回は柄谷の本籍地であるマルクスの原典に寄り添いながら、彼が世の中で思われているような生産力と生産関係に基づく唯物史観ではなく、交換様式に着目して理論を組み立てていたのだと繰り返し力説する。多くのマルクス主義者が冗談だと思って顧みなかった交換が生み出す「物神」(フェティッシュ)の力こそが、人類の歴史を形作ってきたのだと彼は説く。でも、エコロジー絡みもそうだが、マルクスの真意など我われにはどうでも良いことだ。

 彼が言う4つの交換様式のうち交換様式A(互酬:贈与と返礼)、交換様式B(略取と再分配:支配と保護)、交換様式C(商品交換:貨幣と商品)までは、カール・ポランニーやケネス・ボールディングらの3類型とも共通する考え方で、すっと頭に入る。評者も2004年に出した『労働法政策』の第1章「労働の文明史」で、似たような歴史観を展開してみたことがある。

 問題は彼が4つ目の、そしてこれこそめざすべき理想像だといって提起する交換様式Dだ。正直言って、『世界史の構造』を読んだときも全然納得できず、こんなものは余計ではないかという感想を抱いた。似たような感想を持った者が多かったのだろう。そうではないのだ、交換様式Dとはかくも素晴らしいのだと力説するために本書が書かれた。残念ながらそれが成功しているようには思えない。少なくとも評者は依然として疑問だらけだ。

 原始的な交換様式Aの高次元での回復というモチーフはよく理解できる。実際、古典古代のギリシャは、先進的かつ専制的なアジアの亜周辺として氏族社会的な未開性があったからこそ民主主義を生み出したのだし、中世封建制のゲルマンも専制化したローマの亜周辺としての未開性が自由と平等の近代社会の原動力となったのだ。本書では触れられていないが、中華帝国の亜周辺の日本のその辺縁から生まれた関東武士も似た位相にあるだろう。この歴史観はほぼ100%納得できる。

 だが、第4部「社会主義の科学」で熱っぽく論じられる交換様式Dは空回りしているように思える。マルクスの弟子達が作り上げた交換様式Bによる最兇最悪のアジア的専制国家に対し、交換様式Aを復活させようとするユートピア社会主義には限界がある。だから交換様式Dだというのだが、それはキリスト教などの世界宗教が根ざしているものだという説明は繰り返されるけれども、具体的なイメージは遂に最後まで与えられない。もし本書を読んでそれが理解できた人がいるなら教えて欲しい。

 率直に言って、人類は3つの交換様式の間で右往左往していくしかないのではないか。むしろ、この交換様式こそ絶対に最高最善と信じ込んで、その原理のみに基づいて社会を構築しようとしたときにこそ、我われは地獄を見るのではないか。共同性と権力性と市場性をほどほどに調合して騙し騙し運営していくことこそ、先祖が何回も地獄を見てきた我われ子孫の生きる知恵ではないのだろうか。

 

 

 

 

ギグワーク・クラウドワークが作る未来@『JAICO 産業カウンセリング』11-12月号

Image0_20221201093201『JAICO 産業カウンセリング』11-12月号に、「ギグワーク・クラウドワークが作る未来」というインタビュー記事が載りました。

●ジョブ型は産業革命以降のスタンダードな働き方
私なりの理解では、産業革命以降の労働のあり方、人の働き方というものは、基本的に企業という組織の中で人が働く「雇用労働」という形を取ってきました。そこでの世界共通のやり方は、業務を細かく分けて、その業務を構成する個々のタスク、具体的な仕事をジョブとして切り出して、ジョブ・ディスクリプション(職務 記述書)として書き出す。その上で「あなたの仕事はこれですよ」と示してやってもらうというものです。一挙手一投足すべてを指揮命令することはできませんので、管理者という役割があり、ジョブ・ディスクリプションに書かれた通りのことをきちんとしているかどうかを見張る。そういう仕組みで、産業革命以降、100年から200年ぐらい企業は回ってきた。それがジョブ型です。・・・
●ギグワークとはなにか
●雇用も管理職もいらない未来?
●産業革命以降の仕組みが崩れるとき
●様々な課題とその対応
●中世回帰する世界?
●キャリアの再定義
 

 

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