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2022年10月24日 (月)

ちづかやの看板@『労基旬報』2022年10月25日号

『労基旬報』2022年10月25日号に「ちづかやの看板」を寄稿しました。

Chidukaya01  労働政策研究・研修機構の一階には労働図書館があり、労働に関する膨大な図書文書資料を集めています。いつも何人かの労働研究者や労働関係ライターの方が資料を探しに来ています。しかしその一角に、図書でも文書でもないある歴史的物件が展示されていることをご存じでしょうか。雑誌を展示してある閲覧室の片隅に、奇妙な木製の看板が無造作に立てかけてあります。「千束屋」と書かれたその看板に関心を向ける人は殆どありませんが、これは実は江戸時代から大正時代まで200年にわたって民営職業紹介事業を営んでいた千束屋(ちづかや)の看板なのです。この看板の裏側には、ひらがなで「ちづかや」という字も書かれています。
Chidukaya02  この看板の横には、小さな字の説明紙が貼ってあります。曰く
 この看板は、日本における職業紹介事業の父とも呼ぶべき故豊原又男翁が収集・所蔵されていたものであり、職業研究所創立10周年を祝って、子息豊原恒男氏(立教大学名誉教授、元職業研究所顧問)より寄贈された。
 千束屋(ちづかや)は享保5(1720)年に創業した「日本最古の口入屋・慶庵の元祖」ともいわれる営利職業紹介業者で、大正10(1921)年に廃業するまで9代200年間、日本橋・芳町で営業していた。・・・・
 尚、この看板は大正14年4月20日、東京府職業紹介所が飯田橋に新築・移転したのを記念して職業紹介事業参考資料展覧会が開催された際陳列されたことがある。
 これで大体のことは分かりますが、もう少し詳しい説明も欲しいところです。そもそもこの看板を所有していた豊原又男氏は、職業紹介関係の著書をいくつも書いていて、その中にはこの「ちづかや」についてのやや詳しい記述もあります。彼の著書『職業紹介事業の変遷』(財団法人職業協会、1943年)から、関係部分を引用しておきましょう。江戸のニュービジネスが勃興していくさまがビビッドに描かれています。
 本邦の奉公人制度は相当古くから行はれてゐたもので、上代の奴婢制度とも相通ずるものと称せられ、奉公なる事実の発生は王朝末期封建制度の萌芽期である庄園制度の発達せる時代に迄及ぶものと言はれているのであるが、其奉公人の媒介周旋を業とするものゝ起原に至つては、之を知るを得ないのである。然るに徳川時代から九代二百余年間之を継続経営してゐたと言はるゝ、我邦最古の口入所とも言はれ慶庵の元祖とまで伝へられた、日本橋芳(よし)町(ちよう)の名物であり旧家である「ちづかや」の由来をお話しして見ようと思ふ。
 「ちづかや」の創業は享保五年で今から数へれば二百二十二年前で大正十年まで之を継続してゐたのであつた。然るに時代の推移とその他の事情とで、歴史的有名であつた「ちづかや」も遂に廃業しなければならなくなつたのである。
 「ちづかや」は独り江戸東京のみでなく、日本全国津々浦々にまで其名が知れ渡つてゐたもので、江戸名所の一つとして数へられ東京新繁昌記に堂々載せられたものであつたのである。
 「ちづかや」の創業は前にも書いた通り享保五年であるが、其初代の主人公は千葉県房州八幡の藪附近の神(し)々(し)廻(ば)村の出身の人で吉右衛門といふ方で、芳町に於ても草分けといはるゝと共に口入業の創始者とも言はれた人であつたのだ。当時江戸で宿屋は馬喰町、慶庵は芳町とさへ相場がきまつて居たもので口入業者発祥の地とも云ふべき有名なものであつた。・・・
 武家屋敷に使はれてゐた仲間とか、陸尺とかいふ武家の奉公人を人入元締又人入稼業とも云はれてゐた。彼の有名なる一世の侠客花川戸の幡随院長兵衛などの一派が之をやつていたが、料理屋とかそばやなどの一般商家の奉公人は寄子宿の親方といふのがあつて雇主の便を計つて居り、又一般の奉公人は雇主の生国から之を呼び寄せることを普通としてゐたのであつて、当時奉公人を求めることが容易でなかつたことに着眼したのが、「ちづかや」の初代主人で口入所を芳町に設けたのが始めてゞある。
 併し開業当初の頃には商家などでは矢張り依然として従来の習慣を墨守して、地方故郷から女中や下女、下男等を連れよする者が多く、申込者も頗る少なかつたとの事であるが、幸ひにも堺町とか葺屋町などに芝居小屋が設けらるる様になり、漸次繁昌するに従ふれ芝居茶屋などで若衆達が手不足となり雑役婦としてお茶屋の注文が多くなると共に、世間にも知れ渡り便利なものとして利用する者が多くなるに至つたのであつた。
 勿論「ちづかや」の出来た当時には現代とは異なり、広告とか新聞などあつた訳でもなし、又習慣として奉公人は国許からといふことゝ又生身の人々を世話すると言ふことは随分苦心もしなければならないからといふので、依頼も求職者の集りも思ふ様に行かなかつたとのことであつた。
 そこで主人は一家をたて之が宣伝を工夫したのであつて其の方法は、芝居茶屋からの臨時雇人の注文のあつたのを利用することで、雨降りなどの時に観客の家に傘や下駄を取りに行くやうな時には、「ちづかや」の名を入れた傘を持たせてやつたり或は「ちづかや」の名前を左官に吹聴させたりなどしたのが効を奏し、あんな正直な人を世話する家であるならば、権助やお鍋などの世話をして貰つても大丈夫だらうと云はるゝ様になり、だんだん世間から信用を増すやうになつて来たといふ。所謂宣伝の効果で斯業に宣伝の重要なることは今も昔も同じことゝ思はれる。
 処が彼の水野越前守の御改革で芝居道が一時衰微したので困るかとも思ふたのであつたが、その時には基礎も出来求人求職も多数となり、芝居ものなどの世話をせずとも済むやうになり、田舎から金を拾ひに江戸へ出て来る辛抱人は、何れも芳町の「ちづかや」に行けば飯も喰へると押しかけるので、広い店先も田舎出の奉公人志望の者で、夜の明けぬうちから押すな押すなの状態を呈したのであつた。従つて「ちづかや」では毎日十数人の番頭が高い台に上つて求人の申込帳と首ツ引で声をからして誰がしさんは何処げ、誰れさんは何処へといふ風に、求職を分配就職せしむるのであつて、一枚の小札に雇入先の住所氏名を記入して之を持参せしむることは、恰も今日の紹介所が紹介状を交付するのと同様である。而かもその光栄を江戸自慢の錦絵となつて売出さるゝといふ様に一種の人気商売ともなつたのである。
 其所で之を見た江戸子連もこんなうまい商売はないと気付いたので、千葉県人の神々廻氏に請ふて店を分けて貰ふようになり芳町は軒並に口入所町と化したのであつた。慶庵は芳町といふ評判の起つたいはれである。当時「ちづかや」に次ぐの店といへば富士屋、上総屋、千葉屋、立花屋、東屋、大阪屋などであつたが、その後大黒屋といふのが明治維新間際になつて出来たのもあつた。今でも以上の屋号で口入屋をやつているものもあるやうであるが、夫れは大抵以上の分れででもあると思はれる。
 「ちづかや」の紹介で下女、下男、丁稚、小僧などに奉公をした人々の中でも、随分出世して立派な商人となり女主人や主婦となつたものも、日本橋、銀座通りなどで相当沢山にあるとのことであるが、何れも奉公人上り或は小僧上りだなどと言はるるのを嫌い、之を秘して居らるるものも少くないとのことである。
 之れは約三十年近く前のことであり既に故人となられた神田区の選出市会議員であり且つ弁護士としても有名であつた斎藤孝治氏の如きも苦学時代に「ちづかや」の手により奉公され、成功された一人であつたのみならず、同氏は生前には毎年盆暮には「ちづかや」を訪問せられて、昔忘れぬ物語などされたものであると、主人は常に涙を流さぬまでに同氏の行為を喜んでゐたとのことである。此他之に類するものも沢山にあるのであるが、今一つの例として「ちづかや」が親元となり一流料理店の養子となり後には主人に迄成功された人もあるという実話である。・・・・
 豊原翁の昔話はまだまだ続きますが、これくらいにしておきましょう。ちなみに、この千束屋の名前は「百川」や「化け物使い」などの江戸落語の世界でもよく出てきます。
 こういった民営職業紹介事業は、1920年代以降次第に厳しい規制下に置かれるようになり、遂には事業そのものが禁止されるに至ります。その立法史の詳細については拙著『日本の労働法政策』の第1章「労働力需給調整システムに記述しましたが、基本的には公共無料の職業紹介事業のみを正当と考え、有料営利の民営職業紹介事業を敵視した国際労働機構(ILO)の累次の条約・勧告の思想的影響の下に、国内法においても規制・禁止を強めていったのです。
 まず1919年のILO失業に関する第2号条約、第1号勧告に基づき、原敬内閣時の1921年に職業紹介法が制定され、その規定に基づき1925年に加藤高明内閣の若槻礼次郎内務大臣の下で発せられた営利職業紹介取締規則により、許可制の下厳しい取締が行われました。
 その後1933年にはILOの有料職業紹介所条約(第34号)・同勧告(第42号)が採択され、条約の効力発効後3年以内に有料職業紹介所を廃止することを求め、例外として特別の状態の下に行われる職業に従事する種類の労働者についてのみ認めるという厳格な姿勢を打ち出しました。日本は同条約を批准はしませんでしたが、その後の法政策は基本的にそれに沿ったものでした。
 近衛文麿内閣時の1938年に職業紹介法は全面改正され、その第2条に「人ト雖モ職業紹介事業ヲ行フコトヲ得ズ」と明記されました。もっとも、直ちに全廃することは困難ということで、附則第21条に「本法施行ノ際現ニ行政官庁ノ許可ヲ受ケ有料又ハ営利ヲ目的トスル職業紹介事業ヲ行フ者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ引続キ其ノ事業ヲ行フコトヲ得」という経過措置は認められましたが、これはあくまでも、既に許可を得ている紹介業者に対するお目こぼし措置なので新規の許可はありません。
 この厳格な姿勢をさらに強化したのが、戦後片山哲内閣時の1947年に制定された職業安定法です。同法は「何人も、有料で又は営利を目的として職業紹介事業を行つてはならない。但し、美術、音楽、演芸その他特別の技術を必要とする者の職業に従事する者の職業を斡旋することを目的とする職業紹介事業について、労働大臣の許可を受けて行う場合は、この限りでない」と規定し、経過措置は3か月に限りました。こうして、特別の職業でない普通の労働者向けの有料職業紹介事業、江戸時代以来の奉公人の紹介に対応するサラリーマンの紹介というのは、ほぼ完全に禁止されるに至ったわけです。町を歩いて目に付く民営紹介所といえば、看護婦家政婦紹介所とか、マネキン紹介所、モデル紹介所といった極めて特殊な世界のものだけになったのです。
 こうして20世紀半ばに規制・禁止の極限まで振れた民間人材ビジネスに対する姿勢が、その後20世紀後半に徐々に緩和されていき、1997年の民間雇用仲介事業に関するILO181号条約・188号勧告は、正面から民間職業仲介事業を認めるとともに、労働者保護を強調する方向に転じました。ちなみに、私はこの条約勧告が審議された1997年6月のILO総会に出席し、三者構成の議場の中に座って、政策が大きく動いていくさまを目の当たりにしていました。この新条約の精神に基づき、1999年に職業安定法が大改正され、それまでの原則禁止のポジティブリスト方式が、原則自由のネガティブリスト方式に転換しました。その後民間人材ビジネスは隆盛を極め、江戸の落語に「ちづかや」が登場するように、小説に「リクナビ」が 登場するようになりました。その中で、求人情報の的確性や個人情報の保護といった新たな問題点が指摘され、かつてとは違った観点からの新たな規制が模索されつつあります。今月から施行された2022年改正職業安定法による募集情報提供事業への規制はその一里塚と言えます。今年は規制の出発点となった職業紹介法が制定されてから101年になります。改めて労働力需給調整システムの歴史を振り返るにはいい時期なのかも知れません。
 なお、JILPT労働図書館では来る11月18日から来年1月20日までの間、「職業紹介と職業訓練 -「千束屋」看板と豊原又男- (仮)」という企画展示を予定しております。是非労働図書館まで足を運んでいただき、この「ちづかや」の看板を見ていただければ、天国の豊原又男翁も喜ぶのではないでしょうか。
 

 

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