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2022年8月27日 (土)

戦後型新興宗教の社内出世型メカニズム

マシナリさんが、久しぶりにブログを更新したと思ったら、なかなかに深刻な内容でした。ご自身の幼少時の親に連れられての新興宗教経験を踏まえて考察されているのですが、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-841.html(新興宗教2世になりかけた件)

私の家族は祖母の代からこちらの図にあるうちの複数の新興宗教に関係していた(現在は完全に縁切りしています)ことがあり、私も物心つく前から親に連れられてその新興宗教の施設に通っていました。・・・ 

マシナリさんが、疑問を抱くきっかけになったのが雑誌『ムー』の別冊で、古代から現代に至る宗教の系譜を一冊でまとめた内容だったそうですが、そのなかに「戦後に発展してきた新興宗教では、日本の戦後復興で取り残された都市部の貧困層や、高度成長の波が及ばなかった地方在住者に対して、その新興宗教の内部で新たな「地位」を与える手段が発達したという指摘」があったそうです。

私が当時通っていた新興宗教を例にすると、たとえば初級研修を受けると「初級会員」、中級研修を受けると「中級会員」・・・と「位」が上がっていき、初級研修は誰でも受けられますが、上に上がるにつれて○年間で○回の修行を実行し、○円の寄付金を支払い、さらに研修を受ける費用を支払う・・・等の条件が課されていきます。そして、初級→中級・・・と「位」が上がると自分自身や家族、引いては世の中が救われていくという理屈でもって、その行動が推奨されているわけです。

私はその雑誌を読んだ当時、親と一緒に誰でも受けられる研修を受け、布教活動のために知らない町に早朝連れていかれてビラ配りもし、子供のころから貯めていたお年玉の貯金をすべて寄付し、深夜バスで総本山のイベントにも参加して、次の研修を受けろと親に促されていた時期でした。その時期にこの雑誌を読んで、「この仕組みはほかの新興宗教でも同じ? ということなら、この宗教で「位」を上げることで自分や家族が救われるとは限らない? むしろそれぞれの新興宗教が自分のところに囲い込むだけのためにその仕組みを作っているのか?」という疑念をさらに強く持つことになりました。

というこの思い出を、マシナリさんは同時期に発達した日本社会のある仕組みと重ね合わせます。

と私の来歴を長々書いてしまいましたが、今考えてみるとこの仕組みはなんとまあ職能資格給制度と似通っていることかと思ってしまいます。という観点から邪推すると、戦後発達した新興宗教でこの仕組みが整備されていったのは、同時期に日本型雇用慣行として職能資格給制度が普及していったことと無関係ではないとも思われます。つまり、高学歴男性が正社員として職務遂行能力という経験値を積み上げて「職能資格」という「位」を上げていく仕組みが高度成長期を通じて社会規範化していく一方で、低学歴、女性などの属性を持つために「職能資格」という「位」を上げることができない層は、新興宗教の内部の「位」を上げる仕組みに引き寄せられていったという構図があったのではないでしょうか。

より正確にいうと戦後日本社会では、それまで学歴差別の対象であった高卒正社員男性も、会社のメンバーシップがある限り大卒男性社員と同じように職能資格を登っていく「青空の見える人事管理」が実現するという意味で「平等化」が進んだのに対し、そもそもそういう大企業や中堅企業のメンバーシップが与えられないような社会的により下位に属する人々には、新興宗教団体内部での「職能資格」を登っていくという似たようなゲームのルールが提供されたということができるのかもしれません。

とはいえ、1980年代半ばといえば日米貿易摩擦が問題になるほどJapan as No.1という賞賛にあふれていた時代ですから、「メンバー」がその組織でしか通用しない「実績」を積み上げて上に上がっていく日本型雇用慣行類似の仕組みが理想とされ、無条件で礼賛される時代だったといえそうです。上に上がった先に何があるのかなんて突きつめて考えるまでもなく、「上に上がることがよいこと」だと認識されていた時代だからこそ通用したともいえるかもしれません。

そう考えると、若い頃はサービス残業でもなんでもやって会社に対する債権を積み上げていった方が、職業人生の後半期になってから得をするんだぞ、目先の利害にとらわれて会社への貸方を惜しむんじゃないぞ、という昭和の時代にはまことにリアリティのあった人生の教訓が、平成の30年間にガラガラと音を立てて崩れていったのと、新興宗教の「職能資格制度」がぐらついていったのとは、根っこのところで何か共通するものがあったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

私は30歳代前半にカトリック教会で洗礼を受けて今も通っているのですが、こんなシステムは考えられないです。
カトリックは洗礼受けた後は個人の完全な自由。カトリック以外のプロテスタント教会も同じはずで信徒の間に階層なんかないです。
カトリックは時々黙想会など信仰を深める機会はありますが、出ようが出まいがそれで信徒間、あるいは教会内の地位が上がるわけではなし。もしかしたら教会内の事務的なボランティアの仕事が良く回ってくるようになるかもしれませんが、それで何か教会の教区の事務局から有利に扱われることもないはずです。
まあ、だから信徒が日本では極端に少ないのかもしれないですが。

要するに欧米ではキリスト教のシステムがベースになって社会が出来ている。
日本社会は欧米の社会とは異なるタテ社会、あるいは「世間」が支配している。
だから会社はメンバーシップ雇用型社会、そして新興宗教も日本社会の構造をそのまま反映した構造になってしまうのだと思います。

私がhamachan先生の言われるジョブ型雇用社会、あるいは欧米の労働組合運動、社会民主主義に強く共感するのも私がクリスチャンであるからでしょう。

一方で、企業や官庁など近代社会のヒエラルキー的組織原理のもとはカトリックの教会組織だという議論もありますね。
教皇から司祭までの重層的なジョブの階級構造を構築する一方で、信者の側には「職能資格制」はないというあたりが、欧米社会の基本原理とつながっているのでしょうか。

hamachan先生 私のコメントに返信ありがとうございます。

>一方で、企業や官庁など近代社会のヒエラルキー的組織原理のもとはカトリックの教会組織だという議論もありますね。
教皇から司祭までの重層的なジョブの階級構造を構築する一方で、信者の側には「職能資格制」はないというあたりが、欧米社会の基本原理とつながっているのでしょうか。

 はい、おっしゃる通りだと思います。
 司祭になるためにはまず神学校で7j年間学び、司祭の上の職階の司教・大司教から司祭に叙階される必要があります。
 司祭としての経験を積んで教皇から司教・大司教に叙階される。
 そして司教・大司教の中から教皇が自らの助言者として枢機卿を選ぶ。
 その枢機卿の互選により教皇が選出される。
 だから日本人でも聖職者のジョブ型階級構造を着実に上がれば教皇になる事は十分可能です。

 信徒は誰でも神学校に行って司祭になることは可能ですが、さすがに50歳ぐらいになると神学校の道は閉ざされるようです。
 体力的にきつくなるからでしょう。
 50歳を過ぎてから医学部に行って医師になろうとしてもなかなか難しいのと似たようなものかと思います。

前コメントに補足します。
前コメントでのカトリックの聖職者の階層構造は16世紀のトリエント公会議以降に整備されたものです。
それ以前は聖書が読めない無学な司祭、あるいは貴族出身ゆえに栄達の約束された聖職者と言うのは当たり前にいました(^^;
マルティン・ルターがそう言うカトリックの腐敗ぶりを糾弾して宗教改革を始めたによりカトリックの側もトリエント公会議以降改革に取り組み、前述の聖職者の階層構造が発展したのでした。

結局、ノンエリート論になりそうな気がしますけどね。
上昇しようとするのは、通常の社会では

   一念発起をした人だけ

皆が相対的に上がっていくように見えるのだとしたら、
何らかの「ネズミ講」的なシステムが駆動をしている。

戦後の新興宗教が高度成長から取り残された人々を包摂するものだったというのは、よく言われることですが、企業と同様の職能資格的な「出世」があったというのは盲点でしたね。


会社共同体と同様、新興宗教も結婚の世話や相互扶助などの共同体的サービスを提供していて、それはまあ宗教一般の機能であってむしろ日本の企業が特異なんでしょうが、宗教の方も「誰もがエリートになれる夢」を提供していたというのは面白いですね。

「誰もがエリートになれる夢」が企業の方でリアリティを失いつつある状況において、新興宗教がどのようになっていくのか、興味深いところです。

> 「誰もがエリートになれる夢」

そう言えば、

> 弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

っていう訳ですが、「尊重」の中身として、

1:弱者のままで、エリートを目指せる
2:弱者のままで、そこそこに働いて、そこそこの生活ができる
3:弱者のままで、福祉に繋がって生活できる

くらいを考えることができる訳ですが、一番、現実的と思われる
2番を排除しようという魂胆のようなものを感じるんですよね。
結局、多くの人を不幸にしたい、という復讐の思想、という可能
性も、ひょっとしたらあるのかもしれませんね

システムそのものは
書道、茶道、華道などに似ていますね。
もちろん、あれは 書道なら
ある程度は書けないと、いくら
お金積んでも師範にはなれないとかありますけど。

なんか新興宗教の人たちって
天国に行きたいから
宗教内出世というより
地獄に落ちたくないから
という 切羽詰まった感を
煽られている気がするんだけどね。

でも、そもそも
日本って1企業の中でも
「あいつよくやっている」という
お褒めが結果的に出世で
その出世がマネージャーになることなんで
上に立つということが
ご褒美という点もあるんだとは思いますけどね

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