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2022年7月 7日 (木)

【本棚を探索】第25回小坂井敏晶『格差という虚構』

51otmnzkual245x400 『労働新聞』に月イチで寄稿している書評コラム「本棚を探索」、今回は小坂井敏晶『格差という虚構』(ちくま新書)です。

https://www.rodo.co.jp/column/134165/

  前回は『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を取り上げたが、そのメリトクラシー批判をさらに極限まで突き詰めると本書に行き着く。タイトルだけ見ると「格差なんて虚構だ」というネオリベ全開の本と思うかもしれないが、むしろ格差を非難し、少しでも減らすようにとの善意に満ちた考え方の虚構を暴き立てる本である。彼に言わせれば、近代の平等主義とは、現実に存在する格差を正当な格差と不当な格差に振り分け、階層構造の欺瞞から目を逸らせるための囮に過ぎない。
 メリトクラシーを論ずる第1章は、前回の議論と響き合い、そのもたらす残酷な帰結をこう突きつける。「現実には環境と遺伝という外因により学力の差が必ず出る。ところが、それが才能や努力の成果だと誤解される。各人の自己責任を持ち出せば、平等原則と不平等な現実との矛盾が消える。学校制度はメリトクラシーを普及し格差を正当化する」と。
 第2~3章では、遺伝・環境論争を、両者とも外因に過ぎないと斬り捨て、行動遺伝学の欺瞞を暴く。遺伝も環境も本人にとっては外因であり、能力の因果とは無縁であるにもかかわらず、まるで遺伝が内因であるかのように議論が進む。遺伝率という概念のおかしさを指摘する著者の眼は鋭い。
 第4~7章までは、応報正義の根拠とされる主体の虚構性とパラレルに、分配正義の根拠である能力の虚構性を論じていく。最も抽象的な哲学論が、最もアクチュアルな現実の政策論と接するあたりを駆け抜けていく感覚がぞくぞくする。格差が縮小すれば人は幸せになるのではない。逆に微小な格差に執着し、不満が増幅するのだ。「人は常に他人と比べる。そして比較は優劣を必ず導く。近代社会では人間に本質的な違いがないとされる。だからこそ人は互いに比べ合い、小さな差に悩む。自らの劣勢を否認するために社会の不公平を糾弾する。私は劣っていない。社会の評価が間違っているのだと」。
 ここまで読むと、出口のない絶望感に打ちひしがれる。ではどうしたら良いのか? 著者が示す救いの道は意外なものだ。それは偶然である。今までの正義論は偶然による不幸を中和し補償することを模索する。それが思い違いなのだ。偶然は欠陥でもなければ邪魔者でもない。偶然の積極的意義を掘り起こし、開かれた未来を見付け出そうと呼び掛ける。とはいえ、こんな処方箋で現実の労働現場で悩む人々が救われるかといえば、その可能性は乏しいだろう。全ては外因だからといって、みんな平等にしましょうで済むわけではない。「こんなに違うのになぜ同じなのだ?」との声が噴き出す。大きな格差も小さな格差も格差なしも、どれもが不満をもたらす。
 ちなみに、著者は30年近くフランスの大学で教えているが、それが本書の考え方に大きな影響を与えているのではないか。フランスは自由、平等という正義を高らかに掲げるが、階層の固定性は高く、エリートとノンエリートの格差が著しい。著者のいる普通の大学は、トップエリートの集うグランゼコールと違い、先の見えた中くらいの準エリートを養成する機関なのだ。そう思って読み返すと、いろいろ腑に落ちてくる。

 

 

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コメント

   そろそろ夏休み、という方もいらっしゃると思いますので、「ではどうしたら良いのか」ということや「フランス革命」、「人権擁護法案」とも関連し、何よりもマルクス主義について、「歴史的事実を学ぶ」ことのできる、ちょっと興味深い本をご紹介したいと思います。

 マルクス大先生の直系(?)の後輩にあたる、フランクフルト学派の第三世代、アクセル・ホネットの「社会主義の理念-現代化の試み(法政大学出版会)」です。
 第一世代のアドルノの本など、ドイツ人がドイツ語で読んでもよくわからないようですが、この本は(訳文ともども)非常にわかりやすく、ドイツ・オーストリアで賞を与えられたというのも、宜なるかな、という感じがします。

 内容については、各章のタイトル「初発の理念──社会的自由における革命の止揚」「時代遅れの知的構造──産業主義の精神と文化への結合」「刷新の方途(1)──歴史的実験主義としての社会主義」「刷新の方途(2)──民主主義的生活形式の理念」とともに、受賞講演のタイトル「「赤いウィーン」──社会主義的実験主義の精神について」(ブルーノ・クライスキー賞)「希望なき時代の希望」(エルンスト・ブロッホ賞)から、ある程度まで想像できると思います。

 要するに、マルクス、プルードン等の古典的社会主義理論の批判的継承は、(言われてみれば当たり前のことですが)社会民主主義政党などによる、社会の民主主義的改革の歴史的実践・実験によってなされたのであって、レーニン・毛沢東流の共産主義によってではない、という、いかにも西欧マルクス主義者らしい主張なんですね。

 社会主義をこの本のように解釈した先駆者が、E.ベルンシュタイン(修正主義)であるというのも、納得ですが、この解釈だと、マルクス等の欧州大陸側の社会主義は、少し毛色が違う、英国のフェビアン社会主義とはもちろんのこと、ルーツを全く異にする、アメリカのプログレッシヴィズム(革新主義ないし進歩主義)とも共通する理論となっていくところが少し面白く感じられました。

 「思想のコア」としての「社会主義」とはどいうことなのか、改めて考え直してみる、というのも有意義なことだと思いますので、興味のある方はぜひお読みになってください。

> 遺伝・環境論争を、両者とも外因に過ぎない
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-f430ae.html
> 「功績」と訳されている。それを「能力主義」と訳してはいけないのか?いけない。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/06/post-3cf2fd.html
 
「親からの財政的援助」vs「遺伝による才能」と言った原因の違いで差別せず、
「結果(功績)」で差別するのがジョブ型であるという点で、この方向の発想と
ジョブ型は親和的だと思いますけど。いや、もちろん、一切の差別をしない、と
いう発想であれば全く違うのでしょうけど。少なくとも、(リベラルと同様に)
社会民主主義も、「一切の差別をしないという世界」とはほど遠いでしょうね。
 
> 「ジェンダーについてもっと気をつけたいと思います」「もっと多くの人が思いやりを持つようになったらいいなと思いました」といった、小学校以来必ずこう書きなさいと叩き込まれてきた「正しい」感想文
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2022/08/post-c6a581.html

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