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2022年6月14日 (火)

政府税制調査会の議事録

去る5月17日に政府税制調査会に呼ばれてジョブ型云々の話をしてきたところですが、その時の議事録がアップされたようです。

https://www.cao.go.jp/zei-cho/content/4zen10kaigiji.pdf

大内伸哉さんと平田茉莉さんのフリーランスの話に挟まれてジョブ型の話をするのも妙な感じでしたが、まあさらっと喋ったつもりです。

○濱口(独)労働政策研究・研修機構研究所長

 私は労働政策研究・研修機構というところで労働政策を研究しております。

 実はフリーランスについても最近『フリーランスの労働法政策』という本を出して、いろいろと考えていることはございますが、フリーランスといった将来展望のような話よりも、もう少し足元のお話をさせていただこうと思っております。

 それでは「ジョブ型雇用社会とは何か」というタイトルでお話をいたします。このタイトルは、昨年私が出した本のタイトルでして、ジョブ型・メンバーシップ型という言葉は今からもう10年前に、現実の雇用システムを分類する概念として作ったものなのですが、一昨年から世の中でいささか違うように使われている面がありますので、そこをまず申し上げたいと思います。

 まずは、ジョブ型は古くさいぞという話です。

一昨年、経団連が経労委報告を出して以来、マスコミあるいはネット上でジョブ型という言葉が大変氾濫しております。一時は毎日のように新聞紙面にジョブ型という言葉が出ておりましたが、その言葉を作った私からするとその多くはかなり違和感のあるものでした。というのは、先ほども申し上げたように、私がジョブ型・メンバーシップ型という言葉を使って指し示しているのは、現実に存在する日本や欧米の雇用システムを分類するための概念であり、どちらがいいとか悪いとかという価値判断とは本来独立したものだからです。

 ところが、この2年半ほどマスコミを見ていますと、商売目的の経営コンサルタントや、そのおこぼれを狙う各種メディアの方々が、これからはジョブ型だ、いつまでも日本のメンバーシップ型にうろうろしているな、バスに乗り遅れるなと言わんばかりに、そういう商品を売り込もうとしているようです。かつてポール・クルーグマンが『経済政策を売り歩く人々』という本を書いたことがあるのですが、まさにジョブ型を売り歩く人々みたいな感じで、その売られている商品、といいますか、概念、言葉を最初に作った私から見ると、何でそんな変な商品にされてしまったのだろうと大変違和感を覚えるところであります。

そもそもジョブ型とは新商品でありませんよ、むしろ古くさいのですよというところからお話をしなければなりません。というのは、産業革命以来のこの100年、200年ぐらいの近代産業社会の基本構造というのはジョブ型なのです。ですから、そもそも「ジョブ型」などという言葉は英語にもありませんし、ほかのどの国の言葉にもありません。なぜかというと、ジョブ型でない雇用などないからです。日本以外ではむかしから今日までずっとそうです。さらに、実は日本もジョブ型なのですと言うと、また皆様びっくりするのですが、明治時代にできた民法や戦後つくられた基本的な労働法制は、全部ジョブ型でできています。ただ、現実社会がジョブ型の法律とは違っておりますので、それを踏まえた判例法理がメンバーシップ型になっているということです。

 また、多くの方はあまり認識していないと思いますが、日本でも高度成長期の労働政策や経済政策はジョブ型を志向しておりました。例えば国民所得倍増計画はその典型例です。ただ、1970年代半ばから90年代半ばまでの20年間ぐらいは、むしろ日本のメンバーシップ型が新商品として礼賛され、『Japan as No.1』という本がベストセラーになりましたが、それもすぐ古びました。メンバーシップ型という新商品が古びてからもう20年以上たっております。

 1960年はまさに近代的な労働市場の礼賛期でしたが、このときにつくられた国民所得倍増計画にはこのような記述がありました。「労務管理体制の変化は、賃金、雇用の企業別封鎖性を超えて、同一労働同一賃金原則の浸透、労働移動の円滑化をもたらし、労働組合の組織も産業別あるいは地域別のものとなる」。いつ書かれた文章かと思うかもしれませんが、これは1960年で、60年以上も前になります。

 これに対して、日本型雇用の礼賛期であった1985年に、私が今おりますJILPTの前身の雇用職業総合研究所というところが、ME(マイクロエレクトロニクス)と労働の国際シンポジウムというものを開きました。その基調講演で、当時所長であった氏原正治郎がこう語っています「一般に技術と人間労働の組み合わせについては大別して2つの考え方があり、一つは職務をリジッドに細分化し、それぞれの専門の労働者を割り当てる考え方であり、今一つは幅広い教育訓練、配置転換、応援などのOJTによって、できる限り多くの職務を遂行しうる労働者を養成し、実際の職務範囲を拡大していく考え方である。ME化の下では、後者の選択の方が必要であると同時に望ましい。」。この前半は今でもそのまま使えるジョブ型とメンバーシップ型の定義です。ただ、価値判断だけが180度変わっているということがお分かりかと思います。当時はME(マイクロエレクトロニクス)だから日本型が良いと言われていました。今、ITAIだからジョブ型でなければいけないと言っており、何を言っているのだろうという感じであります。そもそもメンバーシップ型であるがゆえに生産性が低いとか、ジョブ型にすればすべてうまくいくと言わんばかりの議論は、基本的にナンセンスだろうと思っています。これは雇用システムの分類論であり、どちらかが本質的に優れているとか劣っているといった類いの議論は単に時代の空気に乗っているだけの空疎な議論だろうと思います。

 では、価値判断がないかというとそうではありません。これは私がこの10年ほどいろいろ若者や中高年や女性などについて書いてきた本に書いてあることなのですが、メンバーシップ型の真の問題点は、陰画としての非正規労働あるいは女性の働き方との矛盾にあります。そういう意味で、むしろ生産性が高いかどうかはその時々の流行なのですが、社会学的にはメンバーシップ型の持続可能性が乏しく、だからこそ働き方改革が行われたのだと思っています。この働き方改革も大変誤解をされております。これはむしろ古びた新商品としての日本的な柔軟性を否定して、硬直的なもっと古臭いジョブ型を部分的に持ち込もうとする考え方です。その意味で、これは復古的改革というべきものです。別にジョブ型が前途洋々という話でもありませんし、もともとジョブとは何かというと、タスクを組み合わせて、あなたのジョブはこれだというように記述するものです。そうしたジョブに基づいて継続的な雇用契約を結ぶことにより、この100年、200年ほど近代社会が動いてきたのですが、近年情報通信技術が急速に発達することによって、タスクをジョブにまとめることなく、ミクロなあるいはマクロなタスクをその都度委託するという契約が広がり、つまり雇用契約ではなく自営業化というものが広がる可能性があります。そうすると、むしろ前近代的な意味でのギルド的なメンバーシップが復活してくるかもしれません。この辺りは私も鬼の笑うような未来の話をあまりする気はないのですが、これに対してジョブ型・メンバーシップ型は、今の足元の話なのです。

 ここからは、やや教科書的に雇用システム論の基礎の基礎を見ていきたいと思います。

 まず、やや箇条書き的ですが、日本型雇用システムの本質はどこにあるか。よく終身雇用だとか年功序列だとか言いますが、これは現象です。しかも、例えば勤続期間でいうと、アメリカは大変短いですが、ヨーロッパは結構長く、日本とそれほど変わりません。とは言いながら、日本とヨーロッパは本質が違います。何が違うかというと、それは雇用契約の性質にあります。すなわち、日本以外の社会では、労働者が遂行すべき職務、ジョブは雇用契約に明確に規定されていますが、日本では雇用契約に職務は明記されず、それが使用者の命令によって定まるということです。これを捉まえて、私は日本の契約はその都度遂行する特定の職務が書き込まれる空白の石版であると言っております。したがって、日本における雇用は職務(ジョブ)ではなく成員(メンバーシップ)である。ここからジョブ型、メンバーシップ型という言葉が出てくるわけです。ジョブ型の場合、職務を特定して雇用するので、その職務に必要な人員のみを採用しますし、また、必要な人員が減少すればその雇用契約を解除する必要があります。なぜかというと、そもそも契約で特定された職務以外の労働を命じられないからです。ここは日本人がほとんど理解してないところです。日本では職務が特定されていませんからある職務に必要な人員が減少してもほかの職務に異動させて雇用契約を維持することができます。つまり、異動可能性がある限り解雇の正当性が低くなるということです。

 また、賃金についても、ジョブ型においては、契約で定める職務によって賃金が決まります。同一労働同一賃金というのは、これが前提なので、ジョブ型でない社会で同一労働同一賃金というのは何かゆがんだ概念にならざるを得ません。日本では、そもそも契約で職務が特定されていませんから、職務に基づいて賃金を決めることは困難です。無理やりそうしたところで高賃金職種から低賃金職種に異動させることも困難で、職務と切り離した人基準で決めざるを得ません。人基準と言っても勝手にあなたは幾らと決めるわけにいかないので、客観的な基準は勤続年数や年齢にならざるを得ません。つまり、年功制というのは別に長幼の序だからということよりも、それ以外に客観的な人基準がないからということになります。

 また、労使関係についても、ジョブ型社会における団体交渉や労働協約では何を決めているかというと、職種ごとの賃金を決めています。この仕事は幾らということを決めるのが団体交渉です。したがって、労働組合も職業別や産業別にならざるを得ませんが、日本ではそもそも賃金が職務で決まらないので、そんなことをしてもしようがない。団体交渉や労働協約、最近少し沈滞しておりますが、何をやっているかというと、基本的にはこれはもうずっと企業別に総人件費の増分の配分を交渉しております。したがって、組織形態も企業別労働組合にならざるを得ないということになります。

 入口と出口についてもう少し詳しく見ておきましょう、ジョブ型の社会においては企業が労働者を必要とするときにその都度採用するのが原則です。さらに、日本にいるとなかなか理解できないのですが、採用権限が労働者を必要とする各職場の管理者にあります。逆に言うと、管理職の定義からしても、採用や解雇の権限がある人のことを管理者といいます。したがって、日本で管理者と称している人間のほとんど全ては、日本の外では管理者とは言えないということになります。

 日本では、御承知のとおり、学校から学生や生徒が卒業する年度の変わり目に一斉に労働者として採用するわけですが、実は、判例法理では、41日の時点で雇用契約が始まるのではないということになっています。日本の最高裁は、内定は雇用契約であると言っているのです。しかし、これは実は変なのです。なぜかというと、民法では雇用契約は一方が労働に従事し、他方が報酬を支払う契約だと、書いています。内定者は働きませんし、賃金ももらいません。だから、本来民法上は内定は雇用契約ではないはずです。ところが、それを雇用契約だと日本の最高裁が言っているということは、実際に働いて金をもらうなどという枝葉末節のことよりも、会社の社員であるという身分を与えることが一番大事だということです。まさしくメンバーシップ型の考え方に基づいて、内定とは雇用契約だと日本の最高裁は言っているわけです。したがって、日本の労働法では内定者は雇用契約だということになります。

もう一つの日本の最大の特徴は、採用権限がこの仕事に人が欲しいと思っている現場の管理者ではなく、本社の人事部局にあることです。本社の人事部局は、本当のところ、現場でどんな仕事をする人がほしいかというのはよく分かっていませんが、そんなことは二の次、三の次なのです。なぜならば、個々の職務ではなく、新卒採用から定年退職までの長期的なメンバーシップを付与するか否か、その判断だから現場の管理者ではなく本社の人事部にあるということにならざるを得ません。

 また、出口について見ると、ジョブ型社会では、職務の消滅が最も正当な解雇理由です。やや誤解されるのですが、同じジョブ型社会でもアメリカは解雇自由ですが、ヨーロッパ諸国はいずれも解雇権を制限しています。正当な理由がなければ解雇してはいけないと法律に書いてあります。しかし、一番正当な理由は何かというと整理解雇です。なぜかというと、雇用契約の根拠であるジョブがなくなるということだからです。それ以外の解雇はそれぞれどれだけ正当かということを問い詰められることになります。ところが、日本では労働者個人の能力あるいは行為を理由とする、いわゆる普通解雇よりも、職務の消滅を理由とする整理解雇の方を厳しく制限しています。いわゆる整理解雇4要件と言われるものです。整理解雇するのであれば残業を削減するとか、あるいは人事異動で解雇を避けるという義務が判例上付与されています。

 また、その入口と出口の間では、ジョブ型の社会では、仮に昇進があっても同一職務で昇進していくのが原則です。定期人事異動などというのはありません。何かほかのもっといい仕事に就きたいと思ったらどうするかというと、企業内外の空きポストに応募して、転職していくことになります。ですから、社内である募集に応募していくのも転職です。ところが、日本ではこれはまた皆様よく御存じのとおり、定期的に職務を変わっていくのが原則で、これを定期人事異動制度と呼んでいます。そうすると、どうなるか。特定の職務の専門家にはなれません。その代わり、企業内の様々な職務を経験して熟達しますので、言わば我が社の専門家になります。我が社の専門家になればなるほど、ほかの企業に転職・転社する可能性は縮小していきますので、そうすると、やはり定年までの雇用保障は強化せざるを得ないということになります。

入口以前のところに着目してみると、ジョブ型社会では基本的にその仕事をする資格のある者あるいは経験のある者を採用し、配置するのが普通です。そうすると、労働者は企業の外、学校等も含みますが、そこで教育訓練を受け、技能を身につける必要があります。日本では、採用であれ、異動であれ、当該職務には未経験者をそのポストに就けるのが普通です。最初は素人で何もできません。それを上司や先輩が実際に作業させながらびしびし鍛えていくOJTというのが最も典型的な教育訓練のやり方になります。

 ここからは、就職と採用の話になります。

この2年半ほどジョブ型という言葉が山のようにはやっていますが、ジョブ型を売り歩く人々から一番無視されているのが入口のところです。ジョブ型社会では、募集は全て具体的なポストの欠員募集です。これは日本以外で出された人事労務管理の教科書の最初のところの採用を見れば、大体あなたはある部局の部署の管理者ですと、ある仕事をしてもらうために募集して何人か応募してきました。さて、面接では誰を採用するのが良いかと、こういう設例から始まります。日本ではほとんどない設例から始まるのですね。この状況に対して経済学では、いわゆる情報の非対称性、本当はできないやつが私はできますと言って入れてしまったら、こいつは食わせものだったというのが大きな問題になるのです。

 ところが、法律学では何が問題になるかというと、採用差別の禁止が大きな問題になります。もともと市場社会においては採用の自由が基本原理のはずなのに、これに対してアメリカから始まって今ではヨーロッパ、ほかの諸国でも採用差別の禁止が最大の規範になっています。なぜかというと、恐らく多くの日本人は、何かポリティカリーにコレクトだからやらなければいけないだろうというぐらいにしか思っていないのではないかと思いますが、実はこれはジョブ型社会の採用の性質から来るものであります。つまり、採用というのは何かというと、特定のジョブに資格や経験からして最適の労働者を当てはめることが採用である。そうすると、当該ジョブに最も高いスキルを有すると客観的に明らかな労働者がいるにもかかわらず、黒人だから、女性だから等々といった、属性に対する差別感情からその採用を拒否すること。もっとスキルが劣っているのが明らかなのにそちらのほうを採用すること。それが不合理だからというのが実はジョブ型社会における採用差別禁止の言わば実体的な根拠です。単にかわいそうだからとか、ポリティカリーコレクトだからみたいな話だけではないのです。もちろんそういうのはあるのですが、なぜそれが一番重要な規範になるかというと、実はここです。したがって、そういう特定のジョブへの応募者から最適者を選択するというシチュエーションがほとんどない日本では、多分ジョブ型、ジョブ型と口先で言っている人でさえほとんど理解していない点ではないかと思います。

 日本の採用法理について、労働法の教科書に必ず出てくる判決があります。今から半世紀前の三菱樹脂事件の最高裁判決です。一見日本はほかの欧米諸国よりも市場社会の採用の自由をより強く維持しているように見えますが、実はそうではないと最高裁が自ら言っています。すなわち、企業における雇用関係が、単なる物理的労働力の提供の関係を超えて、一種の継続的な人間関係として相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようないわゆる終身雇用制が行われている社会では一層そうであることにかんがみるときは云々。つまり、長い付き合いの仲間を採用するのだから、この仕事ができるとかできないとかそんな枝葉末節について言う必要はないということを最高裁は言っているわけです。これはみんな恐らく当たり前だと思っているので、採用差別禁止というのがあまり理解できない。最近、ジョブ型という言葉が大変はやっていますが、本当にジョブ型になったら、採用判断の是非は、そのジョブにふさわしいスキルをこの人は持っているからということを説明しなければいけなくなるので、相性や官能性ではないということを本当に分かっているのかと思います。

 この観点で、入口の関係でややトリビアな話に聞こえるかもしれませんが、面白い話があります。それは学歴詐称という言葉です。学歴詐称は洋の東西問わずどこにでもありますが、日本以外のジョブ型社会で学歴詐称とは何ですかと聞けば、それは100人が100人中、低学歴者が高学歴を詐称することだと決まっています。なぜならば、学歴は職業能力を公示するものであり、あるポストに応募してきた人に「あなたはできるのですか。」「はい、できます。その証拠はこのディプロマです。」ということなのです。

 ところが、日本では「学歴詐称」で判例を検索すると、高学歴者が低学歴を詐称して懲戒解雇になった最高裁判例が出てきます。この判決で、最高裁は低学歴を詐称するのは信頼関係を失わせるから解雇していいと言っています。日本は決して解雇をそんな禁止しているわけでも何でもなく、企業に逆らうような社員の懲戒解雇とは結構認めているという典型例です。これは昔の30年前の話だと思うかもしれませんが、御存じのとおり、ごく最近もどこかのたしか関西のほうの地方自治体で大卒であるのに高卒だと称して入り込んだ人間を懲戒免職にしたという事案が新聞に報じられていましたが、かわいそうだという議論はあっても、何で高学歴者が低学歴のところに入っていけないのだという根本的な議論をする人はほとんどいませんでした。

 逆に、ほかの国みたいな低学歴者が高学歴を詐称したケースを検索するとこんなものが出てきます。同じ頃ですが、税理士資格や中央大学商学部卒を詐称した者の雇止めは、担当していた会社の事務遂行に重大な障害を与えたことを認めるに足る疎明資料がない。だから、雇止めは無効だと判示しています。これを外国人に言うと大変びっくりされます。高学歴者の低学歴詐称は懲戒解雇に値するが、低学歴者の高学歴詐称は雇止めにも値しない。これがメンバーシップ型社会であり、ジョブ型社会から見れば恐らくアリスのワンダーランドというか驚愕の社会でありましょう。先ほどみたいに属性による差別に厳格なジョブ型社会において、唯一それで差をつけていい、正当な選抜基準である学歴が、こういった属性による差別に寛容な日本ではなぜか学歴差別だと批判の対象になります。もう一捻りして、欧米でも学歴が格差の問題であるみたいな社会学的議論がありますが、なぜそんな話になるかというと、学歴が唯一正当な差別根拠だからというのがみんなあまりにも当たり前と思っているから本当にそうなのかという話が成り立つのです。ところが、日本にそういう話を持ってくると、学歴よりも人間性が大事だみたいな当たり前のことを当たり前に言っているだけに見えて、多分あまりインパクトがないのだろうという気がいたします。

 もう少し、入口以前のところを見ていきたいと思います。

先ほど見たように、雇用契約がジョブ型であるか、メンバーシップ型であるかというのは、これは教育訓練システムが企業外であるか、企業内であるかということに対応します。すなわち、ジョブ型の社会においては基本的に就職前に当該職務について公私の教育訓練機関で一定の教育訓練を受けていることが前提になります。「あなたはこの仕事をできるのですか。」「はい、できます。」と言って採用されるわけです。メンバーシップ型は全く逆でして、素人を採用し、定期人事異動とジョブローテーションでもって上司や先輩がOJTで鍛えていきます。これは権利であると同時に義務でもあります。また、素人を鍛えなければいけないので、往々にして教育訓練とパワハラがなかなか区別し難いということにもなります。パワハラをやるなというと教育訓練ができなくなるという不満が出るのはなぜかというと、そもそも何もできない素人をいきなり置いて、さあ鍛えろと言われると、それはそうならざるを得ないという面があります。これは教育機関の在り方を大きく左右します。すなわち、日本の社会では、これは東大の本田由紀さんが言っている言葉なのですが、大学で学んだ教育内容が就職後の職業生活にほとんど意義を持たない仕組みでありまして、これを「職業的レリバンスの欠如」というように言います。

 それでは、教育と職業は無関係なのかというとそのようなことはなく、大変密接につながっています。すなわち、大学に入る段階での学業成績が非常に重要であり、何大学の何学部というのは大変大事であって、それはなぜかというと、まさに企業で一から厳しく訓練するのに耐えられるような良い素材であるかを示すものだからです。同じ素人でも鍛えたらどんどん成長していく素人と、幾ら鍛えても育たない素人がいたら、育てがいのある素人でないと困ります。これを私は「教育と職業の密接な無関係」というように呼んでおります。企業側がこういう人事政策を取っている以上、大学はそれに合わせざるを得ません。すなわち、大学は「今このジョブができる人」を幾らつくって売り込もうとしても、そんなものを企業は全然評価してくれないので、「今は何もできないけれども、何でもできる可能性のある人」を売り込む。言わば大学というのは一種のiPS細胞の養成所に特化していることになります。これは、どちらかが悪いわけではなく、大学と企業は鶏と卵の関係にあるのです。うちの大学だけが違ったことをすると、ごく一部の企業を除いてどの企業からも何だと爪弾きにされてしまいます。逆は逆なのですね。したがって、優秀な人間ほど何でもできる可能性のある一般教育に向かい、スキル志向の教育コース、職業教育は、レベルの低い人間とみなされます。

 あと幾つかトピックごとにざっと見てまいりますが、まず解雇、出口についてです。

これも本当にこの2年半ぐらいのジョブ型の流行の中で、ジョブ型になったら解雇がやり放題になるなどというとんでもないことを書いているところがあるのですが、そのようなことはありません。アメリカだけがちょっと特殊で、エンプロイメント・アット・ウィルといって、どんな理由でも、あるいは理由がなくても解雇していいという法制です。でも、これはアメリカだけで、ほかのジョブ型の諸国にはみんな解雇規制はあります。法律の条文だけ見ると、日本と大して変わりません。正当な理由がなければ解雇してはいけないのです。日本も客観的に合理的な理由があり、社会通念上正当でなければ解雇してはいけないと書いてあるのです。しかし、社会のありようが全く違うので逆になるのです。つまり、解雇規制のあるジョブ型社会においては、解雇にも数ある中で、ジョブがなくなるからという整理解雇が一番正当な解雇理由になります。

 これに対して、日本では、整理解雇、すなわちリストラクチャリングがリストラという片仮名4文字語になって、元の英語のリストラクチャリングとはほとんど縁もゆかりもない、極悪非道の概念になってしまいます。なぜかというと、仕事がなくなるなどという枝葉末節のどうでもいいことをネタに仲間を追い出そう、組織から除名しようという許し難いことになるからです。ここはあまり細かいことを言いませんが、同じ民法の債権各論に賃貸借契約と雇用契約が並んでいますが、借家契約であれば、家がなくなる、借家を潰して再開発するから出て行ってくれと言われれば、それはしようがないです。そのときに、大家といえば親も同然、店子といえば子も同然、大家は大家の持っているほかの借家にどこか私を住まわせる義務があるだろうと、そんなばかなことは普通言わないでしょう。ところが、雇用ではそう思うわけです。まさに雇用契約は民法からはるか遠くのところに行ってしまっているということであります。

 また、いわゆる能力不足解雇も字面の上では非常によく似ているのですが、ジョブ型社会における正当なスキル不足解雇は、基本的にはできるといって採用されたのにできないやつを解雇することです。これは日本ではそもそもあり得ないです。素人を採用してOJTで鍛え、できるように育てるのが上司の任務です。逆に言うと、これがパワハラのもとにもなります。日本で能力不足解雇と称するいろいろな事案を見ていくと、決して入ったばかりの素人を能力不足だとは言っていません。能力不足解雇と言われている人は、大体長年勤続している中高年です。なぜ中高年が能力不足なのでしょうか。この能力とは何でしょうか。実は日本における能力というのは、スキルでは絶対ありませんし、何だかよく分からないもので、職能給という日本の賃金制度において、職能給を払う根拠となっている何かとしか多分定義のしようがないものです。職能給は能力に応じた賃金のことですが、実際にはそれが本人の貢献と見合わないので、そのインバランスをどうするか。能力があると認めているから高い職能給を払っているはずなのに、能力不足だから解雇しようという誠に矛盾したことをやっているわけですが、これはまさに日本のメンバーシップ型がもたらすものということになります。

 この解雇についての応用問題、コロラリーなのですが、EU諸国では事業の移転とともにその仕事をしていた人も移転するというルールがあります。日本も20年前に会社分割という制度をつくったときに、同じような仕組みをつくりました。これは非常に簡単な話で、ジョブは変わらず単にジョブがはめ込まれている会社が変わるだけ、先ほどの借家契約で言うと家主が変わっても家は変わらないのだから同じ家に住み続ける権利があるということです。日本でも今から20年前に商法改正の際に会社分割という制度ができて、それに伴って基本的にEUの制度に倣って労働契約承継制度がつくられました。私はこのときに連合に呼ばれてシンポジウムに出席し、EUではこういう指令があって、仕事がほかの会社に移っても、仕事と一緒に移る権利があるというお話をして、ふと上を見上げたら、「気がつけば別会社に」となっているのです。いやいや、気がつけば別会社ではなく、気がつかなくても別会社に移転させるのがEUのルールなのだということを一生懸命言っていたはずなのですが、どうも日本は違うなと20年前に感じ、ある意味そのときに感じたのが今、ジョブ型とか何とかと言っているものの一つのもとになっているのかもしれません。

 こんなメンバーシップ感覚の強い社会で、そんなEUみたいな法律をつくってどうなるのかと思っていたら、案の定、2010年の日本IBM事件最高裁判決であります。どちらが勝った、負けたではなく、実はこの事件で労働組合側は、我々は日本IBMという立派な会社に入った社員だったのに、たまたまやってる仕事が他社に移るからと変な会社に移されたのはけしからぬと言っています。気がつけば別会社に追いやられたことに異議を唱えたわけです。面白いのは、これが日本IBMという立派な外資系企業であることです。外資系企業といえども心はどっぷり日本型なんだということを痛感したわけであります。

 次はヒトの値段とジョブの値段です。ジョブ型社会の賃金は何かというと、職務評価による固定価格制で、椅子に値段が貼ってあるわけです。それに対して日本の場合、もともとは生活給で、終戦直後は年齢と扶養家族数で賃金を決めていました。当時は経営側や政府は同一労働同一賃金による職務給を主張していたのです。

 ところが、日経連が今から半世紀前に職務給を放棄して能力査定による職能給に変わりました。これがまさに今日まで至る職能給のもとであり、年齢とともに能力が上がっていく。能力は目に見えないものですが、それによって年公昇給が維持される一方で、会社に貢献しない者は査定を低くして競争に駆り立てる。ここで恐らく労使の利害が一致したのだと思うのですが、能力は下がらないので、中高年は人件費と貢献が乖離します。それを抑制するために成果主義なるものが導入されました。しかし、そもそもジョブが不明確なもので、成果を測定するのは困難なはずであります。それを無理やり目標管理と称して押しつけて、達成していないのではないかと難癖つけて引き下げたのです。結局、そういうことで成果主義は失敗したのですが、それをもう一度リベンジするために持ち出してきたのが、一昨年来のジョブ型なのではないかと思います。その証拠に、ジョブ型をもてはやしている日経新聞の記事の中に、ジョブ型はポストに必要な能力を記載したジョブディスクリプションを示し、労働時間ではなく成果で評価するなんていうとんでもないことが書かれてあります。しかし、むしろ多くの人がこういうものだと思ってジョブ型と言っているということで、結局、雇用の本体はメンバーシップ型のまま、言わば成果を評価するための根拠としてジョブディスクリプションをでっち上げるというのが、今コンサルタントの方々が一生懸命やっていることのように感じます。

時間の関係もございますので、これで説明を終わりたいと思います。

 

 

 

 

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