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« 吉野家の一件のジョブ型入管法的理由とその消滅 | トップページ | フランスでプラットフォーム労働者の代表選挙 »

2022年5月 8日 (日)

吉岡真史さんの拙著書評+α

71cahqvlel_20220508131501 元官庁エコノミストで現在立命館大学教授の吉岡真史さんに、そのブログで拙著『ジョブ型雇用社会とは何か』を書評していただいています。

http://economist.cocolog-nifty.com/blog/2022/04/post-350f1a.html

最後に、濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書) です。著者は、労働省・厚生労働省出身で、現在は国立研究機関で研究所の所長をしています。私も同じ国立研究機関に勤務していた経験があり、著者とも少しだけ勤務時期が重なっていたりします。ただし、著者と私に共通しているのは、ほかに、ソニーのウォークマンを愛用していることくらいかもしれません。・・・・ 

ココログを使っているというのも数少ない共通点ですかね。

拙著の概要を簡単に説明した後、

・・・でも、ジョブ型雇用に転換すると社会全体が、まさに、マルクス主義的な見方ながら、下部構造が上部構造に大きな影響を及ぼすように、我が国経済社会に大変換をもたらすような気がします。ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の違いはかなりよく判りましたし、授業などにも活かせそうな手応えを感じますが、ホントにジョブ型雇用を日本社会に普及させていいものかどうか、もう一度よく考える必要がありそうな気がします。

と述べていますが、どこにどういうメリットがあり、どこにどういうデメリットがあるかという各論こそが大事だと思っていろいろ書いたつもりなんですが、そこは、

・・・ただし、本書の第1章でジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の基礎の基礎を展開した後、労働法に基づく訴訟の紹介が多くなり、やや私の専門分野からズレを生じてしまった気もします。・・・

と、あまり面白く読んでいただけなかったようです。総論だけならだれでも何とでもいえるので、各論のディテールにこそ神が宿ると思っている立場からするとやや残念でした。

さて、この書評の最後で、吉岡さんはこのように述べられるのですが、ここは実はまさに各論のディテールのレベルで山のように言いたいことがてんこ盛りなんです。

・・・ただ、現実として、すでに日本でもジョブ型の雇用システムが採用されている分野があります。医師の世界と大学教員の雇用です。私もその中に入ります。大学教員でいえば、どのような学位を持っていて、あるいは、その学位相当の能力があり、どのような分野の授業がどのような言語でできるか、を明示した採用となります。そして、その職務記述書に沿ったお給料となるハズなのですが、なぜか、私の勤務する大学では年功賃金が支払われています。少しだけ謎です。 

いや、謎というか、そこにこそ日本社会の中の局部的ジョブ型雇用社会の特徴があるのですよ。

ジョブ型の本質は入口にこそある、いやむしろ入口以前にこそある、という本書の立場からすると、大学教員の世界は日本ではまことに例外的なジョブ型の世界です。

でも、賃金制度はほぼ完全な年功賃金で、民間企業のような能力主義すらほとんどないまことに古典的な生活給。

そして、入口が特定のジョブにそのジョブを遂行しうるスキルを有する者をはめ込むというジョブ型であるにもかかわらず、出口については最近のいくつかの大学教授整理解雇訴訟に見られるように、何やらみょうちきりんなメンバーシップ型がまかり通るという奇妙な事態が出来しているのです。

これはまさに吉岡さんがあまり関心を持たない「やや私の専門分野からズレを生じてしまった」領域かもしれませんが、雇用システム論の威力というのは、こういう細部にこそ現れてくるのです。

これは、『ジュリスト』に載せた淑徳大学事件の判例評釈ですが、

http://hamachan.on.coocan.jp/jurist2004.html

解雇された大学教授らは、大学教授という職務への限定性を強く主張し 、「大学教員はその専門的知識及び実績に着目して採用されるもの」と言いながら、学部が廃止されても他学部への配置転換可能性を当然の如く主張していたのは、実に奇妙な話です。もっとも本件は、彼ら高齢教授たちの首を斬るためにわざと学部を廃止してよく似た新学部を設置するといういんちきなことをやっているので、結果オーライという面もあるのですが、そもそも論からすると、ある学問の専門分野に着目して、当該分野のジョブにはめ込むために採用されたジョブ型大学教授を、全然別の学部の全然別のジョブに配置転換するなどということがジョブ型の本旨に合致するものなのかという問題意識がかけらも感じられないという、欠陥判決ではあります。

[評釈] 結論には賛成だが、判旨に疑問あり。
Ⅰ 大学教授の整理解雇事案の概観
 本件は内容的には事業の縮小に伴う整理解雇事案であるが、整理解雇対象が大学教授という職種である点に特徴がある。近年、少子化に伴い大学のリストラが話題となっているが、大学教授の整理解雇が焦点となった裁判例はなお極めて少ない。現在までのところ、本件を含めて5事案8判決ある(学校法人村上学園(東大阪大学)事件〔大阪地判平成24.11.9労働判例ジャーナル12号8頁〕:整理解雇有効、学校法人獨協学園(姫路獨協大学)事件地裁判決〔神戸地判平成25.4.19平成23年(ワ)1338号〕:整理解雇無効、同高裁判決〔大阪高判平成26.6.12労働判例ジャーナル30号30頁〕:整理解雇有効、学校法人金蘭会学園(千里金蘭大学)事件地裁判決〔大阪地判平成26.2.25労判1093号14頁〕:整理解雇無効、同高裁判決〔大阪高判平成26.10.7労判1106号88頁〕:整理解雇無効、学校法人専修大学(専修大学北海道短期大学)事件地裁判決〔札幌地判平成25.12.2労判1100号70頁〕:整理解雇有効、同高裁判決(札幌高判平成27.4.24労働判例ジャーナル42号52頁〕:整理解雇有効、学校法人大乗淑徳学園事件〔東京地判令和元.5.23〕〔本件〕:整理解雇無効)。
 いずれも1つの学校法人の下に複数の大学、短大等が設置され、それらに複数の学部、学科、専攻等が置かれている。学校法人の一部であるこれらの大学、短大、学部、学科、専攻といった単位の廃止が、当該単位に所属する大学教授の整理解雇をどこまで正当化するのか、言い換えれば大学教授という職種の解雇回避努力義務はどの範囲までかが中核的論点である。
 廃止単位に着目すると、短期大学という事業所自体の完全廃止事案(専修大学事件)では解雇有効、短大部廃止に伴う学部再編事案(金蘭会学園事件)では解雇無効、学部内の学科の縮小再編事案(獨協学園事件)では地裁と高裁で判断が分かれているが、最も単位の小さな学科内の専攻廃止(村上学園事件)では解雇有効である。一方、解雇対象教授の職務範囲に着目すると、村上学園事件が「介護福祉士養成施設である生活福祉専攻の教授という職種限定の合意」を認定して、他学部・他学科等への配置転換の余地を全く認めていないのに対し、金蘭会学園事件では当該教授の東洋史学という狭い専門分野にもかかわらず、幅広い授業科目を担当してきた実績を考慮しており、また獨協学園事件では、外国語学部の外国語教師が全学の語学教育を担当していたことが考慮されている。
Ⅱ 人員削減の必要性
 整理解雇4要素は一般には独立の要素と考えられるが、学校法人のうちのある単位を廃止して人員削減する場合、その必要性を法人全体で見るのか当該単位で見るのかという問題がある。職務や勤務場所が限定されているのであれば、人員削減の必要性の判断もその範囲内でなされるべきとも考えられるからである(獨協学園事件では法人全体ではなく大学単位で判断)。
 本判決は、国際コミュニケーション学部の廃止自体は経営判断として不合理とはいえないとしつつ、Xらを解雇しなければYが経営危機に陥るといった事態は想定しがたいとして、人員削減の必要性は法人全体で見るべきという立場に立っているようだが、一方で「Xらは人文学部の一般教養科目及び専門科目の相当部分を担当可能であったものであるから」と職務範囲を拡大して判断していることがその判断根拠となっているようでもあり、だとすると人員削減の必要性の判断は労働者の職務範囲の限度でなされていることになる。判旨Ⅱ2「所属学部の限定の有無との関係」も解雇回避努力ではなくこの人員削減の必要性の一部で論じられているが、その論拠は国際コミュニケーション学部と入れ替わりに設置されかつ教育内容に共通性のある人文学部への配置転換可能性ではなく、「アジア国際社会福祉研究所その他の附属機関」への配置転換可能性であり、議論の筋道が錯綜していると言わざるを得ない。
Ⅲ 解雇回避努力
1 労働契約における所属学部の限定の有無
 Xらは国際コミュニケーション学部の専門性と関係のない一般教養科目を担当してきたこと、就業規則8条1項を根拠に学部間の配置転換を命ずることが可能であったこと等を論拠に所属学部が国際コミュニケーション学部に限定されていたことを否定するが、Yは「大学は学部ごとに研究及び教育内容の専門性が異なる」ことを論拠にXらの所属学部及び職種が国際コミュニケーション学部の大学教員に限定されていたと主張し、それゆえ整理解雇に該当しないと主張した。Yの主張は、(解雇回避努力の範囲に関わる)労働契約の限定性と整理解雇該当性という次元の異なるものを混同しているが、本判決はこれを奇貨として、「Xらの所属学部及び職種が同学部の大学教員に限定されていたか否かにかかわらず」整理解雇に該当すると(至極当然のことを)述べるだけで、限定の有無を正面から論ずることを回避している。
2 人文学部への教授としての配置転換可能性
 本件の最大の論点は国際コミュニケーション学部と入れ替わりに設置された人文学部へのXらの配置転換可能性である。なぜなら、古典的な学部配置を前提とすれば学部とは大学教授の専門性のまとまりであり、例えば法学部には法律学者がおり、理学部には物理学者がいるという状況を前提として、「大学は学部ごとに研究及び教育内容の専門性が異な」り、「大学教授は所属学部を限定して公募、採用されることが一般的」であると言えようが、近年のように学部学科の在り方が多様化し、古典的学部のようには明確に専門性を区別しがたい(「国際」等を冠する)諸学部が濫立すると、必ずしも「大学は学部ごとに研究及び教育内容の専門性が異なる」とは言えなくなるからである。Xら側が国際コミュニケーション学部と人文学部に「連続性があることは明らか」と主張しているにもかかわらず、本判決はこの最重要論点を回避し、「Yのとるべきであった解雇回避措置は、Xらの同学部への配置転換に限られるものではなかったというべき」と言って済ませている。本件では国際コミュニケーション学部の高齢で高給の教授を排除して、新たな人文学部ではより若く高給でない専任教員に代替しようという意図が背後に感じられる面もあり、この論点回避は残念である。
 なお本判決は「Xらは人文学部の一般教養科目及び専門科目の相当部分を担当可能であった」と認定しており、過去の裁判例(金蘭会学園事件)に倣えばこれを決め手として配置転換可能性ありと判断することもあり得たが、本判決は学部が「限定されていたか否かは別として」と言ってこれを回避している。
3 附属機関の教員としての配置転換可能性
 本判決がYの学部限定論に対して肯定も否定もせず、それによって制約されない選択肢として提示するのがアジア国際社会福祉研究所その他の附属機関であるが、これは論理的におかしい。Yの学部限定論を認めるのであれば、人文学部であろうが附属機関であろうがその限定の範囲外であることに変わりはない。逆に学部限定論を全面的には認めず、附属機関への配置転換可能性を認めるのであれば、より職務内容が類似している人文学部への配置転換可能性を認めない理由はないはずである。本丸の人文学部への配置転換可能性をまともに議論しないでおいて、もっぱら附属機関への配置転換可能性のみを持ち出すのはあまり誠実とは言いがたい(大学附属機関を伸縮自在の魔法の器とでも考えているのであろうか)。
4 事務職員としての配置転換可能性
 本件で興味深いのは、大学教授の配置転換可能性として事務職員としての雇用継続という選択肢も論じられていることである。この点に関しては、Xら側が大学教授という職務への限定性を強く主張し、本判決もそれを認めている。しかしながら、そもそも「大学教員はその専門的知識及び実績に着目して採用されるもの」を強調するのであれば、およそ大学教授であれば何を教えていても配置転換可能などという議論はありえまい。例えば法学部が廃止される場合、その専任教員を事務職員にすることは絶対に不可能であるが、理学部の専任教員にすることは同じ「大学教員」だから可能だとでも主張するのであろうか(労働法の教授を人事担当者にする方がよほど専門知識に着目しているとも言えよう)。
 逆に配置転換可能性という意味ではその範囲外であったとしても、解雇回避努力の一環として本俸を維持した事務職員への配置転換を提示することはありうる。それは職務限定の範囲外であるためにXらがそれを拒否することは当然ありうるが、少なくともY側の解雇回避努力の一つとして認めることには特段問題はない。附属機関への配置転換可能性を過度に強調することと比べると、事務職員への配置転換を安易に「解雇回避努力としては不十分というべき」と断じていることには違和感がある。
Ⅳ 解雇手続の相当性
 本件では、Xらが結成した職員組合が団体交渉を申し入れたことから始まる不当労働行為事件の申立て、その再審査、その取消訴訟という一連の流れがあり、そのいずれにおいても、YのXら組合に対する団交拒否、支配介入の不当労働行為を認定しており、Yが「Xらとの協議を真摯に行わなかった」という判断に問題はない。

 

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コメント

ウ~ン。
やっぱり、雇用関係が下部構造で、その上に現実の雇用の細々とした実例で矛盾を生じて、矛盾を生じたがゆえに裁判所で解決を求められ、結果が判例で示されているとしか、私には考えられません。いきなり、上部構造のケーススタディに飛ぶのではなく、下部構造の雇用関係と所得の関係をもう少し経済学的に分析するよう必要があるような気がしてなりません。
マクロ経済関係におけるミクロ経済学的な基礎付けが必要です。

マルクス主義的な上部構造、下部構造という分け方はあまり適切ではないように思います。
そもそも、雇用関係自体が、ある面では物的な関係であるとともに、それ以上に極めてイデオロギー的な側面すら有する法的であるとともに人倫的なある種の観念的構築物でもあり、その意味では上部構造でもあるわけですし、逆に個々のケーススタディこそがそういう上部構造的な雇用関係のイデオロギーの下に広がる物的な下部構造を露わにする面もあるわけです。
正直言うと、抽象的な経済学ほど観念的上部構造を示しており、具体的な法学こそがどろどろした下部構造を示していることもよくあります。まあ、そういう用語法自体、マルクス主義的ではないのかもしれません。

私は読書感想文で、「ホントにジョブ型雇用を日本社会に普及させていいものかどうか、もう一度よく考える必要がありそうな気がします。」と書いた上で、さらに「本書の第1章でジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の基礎の基礎を展開した後、労働法に基づく訴訟の紹介が多くなり、やや私の専門分野からズレを生じてしまった気もします。」と記したわけですが、私の身近な点では、ジョブ型雇用が日本に普及するならば、教育にどのような影響が出るのか、出ないのか、についても考えて対応する必要があるのは当然でしょう。例えば、本学では、まさに、就活の場で「ジョブ型雇用に対応」といいつつ、たぶん、一知半解以下の理解から大学での対応を求めているわけです。しかも、極めて一般的な理解ながら、メンバーシップ型雇用が企業別組合に親和性がある一方で、ジョブ型雇用は職能別組合に親和性ありそうだ、という点は広く理解されるでしょう。労働組合の組織形態が企業別でなく、職能別になれば、何がどうなるのか、については、諸外国や我が国の歴史からある程度は明らかになる可能性高いと私は考えますが、ひょっとしたら、別の観点からの評価も必要かもしれません。
ということで、極めて雑駁ながら、いろんな意味で雇用システムの変革はその影響が広く及ぶわけで、下部構造が変化すればそれに乗っかった上部構造に影響が及ぶ、というか、表現がお好みでなければ、雇用システムの影響を受けて、さまざまな他のシステムにどのような対応が必要になるのかを考慮する必要があります。もちろん、マクロに全体像を考えた上で個別の細部の動き方を考えるべきなのか、それとも、マイクロにケーススタディで積上げてマクロの全体を構成するのか、どちらが効率的なのか、あるいは、望ましいのか、は現時点では私には不明ですが、個別に判例を考察するだけで十分かどうかは疑問ですし、特に、所得や消費行動に及ぼすインパクトについては十分な分析を必要とします。いずれにせよ、こういった幅広い観点抜きで雇用や労働の中だけの閉鎖システムとして考えるべきテーマでないと私は受け止めています。すなわち、「雇用システム論の威力」は雇用の細部にだけ現れるのではなく、もちろん、細部にも現れるのでしょうが、社会全体の動きに影響を及ぼす可能性が高い、と私は考えています。

いやまさにそうなんですが、どこでボタンを掛け違ったんですかね。マクロ経済的な話ではなく、個々の分野ごとのリアルな話という意味で、第2章以下の各論を書いており、とりわけ第2章は、まさに吉岡さんが関心を持っておられるはずの教育の世界に対するインプリケーションを山のように書き込んだつもりだったので、そこが詰まらなかったというのが、正直何を求められているのかよく分からない感じです。

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