稲葉振一郎『AI時代の資本主義の哲学』
稲葉振一郎さんより『AI時代の資本主義の哲学』(講談社選書メチエ)をお送りいただきました。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000366542
対・社会主義/対・国家/対・前近代社会――
対比するものや時代によって「資本主義」の意味は変わる。
市場経済・企業組織の変容、中国の台頭。
いま「資本主義」は、どんな現実をうつすのか?
「市場」と「所有」のバランスにその本質を見出し、
歴史と概念から付き合い方を考える、AI時代の「資本主義の哲学」。
以前、『AI時代の労働の哲学』を本ブログで取り上げたことがありますが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-7d5745.html(ジョブとメンバーシップと奴隷制再掲(稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』に触発されて))
労働の哲学があるんなら資本の哲学もあっていいでしょう。ただ、前著もそうですが、「AI時代の」という看板にあまり惑わされない方がいいです。むしろ、ローマ法にまで沈潜して物事の本質を考え詰めようという、本当に哲学っぽい本ですので、はやりの議論に何か役立てようという用向きにはいささか不適当かもしれません。
はじめに
1 資本主義・対・社会主義
2 資本主義とは何か
3 仕組み
4 核心
5 AI時代の資本主義
おわりに
補論 資本主義と国家
1と2は「資本主義」周りの概念の歴史を丁寧に解説する風情で、たぶん今の若い人にはここらあたりから説明した方がいんでしょうな。
3以降が稲葉さんの本論ですが、ものすごく乱暴に要約すると、生産手段は全部借り物でも構わない、というかむしろその方が純粋型だと言わんばかりの新古典派的な資本主義観や、それと全然違うところに目をつけているようでいて実は相補的にはまっているウェーバー流の官僚組織論からやおら身を離し、むしろ市場と所有の対立関係に重点を置くことで、所有に関心を集中していた古典派やマルクスの視座にある面では近いともいえるところに持っていく話の流れが、人によっては妙にくどいわりに話が飛んでいるようにも感じられるかもしれませんが、辛抱強く論理を追っていくとなるほどなという感じもしてきます。
ただ、資本については自己資本が大事だというのはそう思うのですが、労働における自己労働とは何かというのはなかなか難しいところで、それこそ前著に対する上記エントリのテーマでもありますが、奴隷って(主人の)自己労働なのか?という難問にはわりとさらりと触れているだけのように感じられました。もちろん、ローマ法のファミリアとは家族と奴隷全部含めたものだし、ヤツコ(奴)とは「家つ子」であり、中世の言い方では「家の子」なのですから、法制史的には奴隷とは家族と同様主人の自己労働であることに違いはないのですが、それが最も物象化された売買可能な労働力そのもの(ある意味では他人労働の極致)でもあるという、そのあたりをどう考えるかですね。これがまさに日本型雇用システムにおける正社員をめぐるイケノブ対ヨニウムというどうしようもないことではよく似た両名の議論にもつながってくるわけです。
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